ウィーン郊外で戦没兵士集団墓穴発掘

 オーストリア、ウィーン近郊のジンメリング Simmering にある競技場の改修工事中、2024年10月末に建設会社が人骨を発見した。研究者が派遣され少なくとも129体、150体以上と推察される大量の遺骨が出土した。

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 浅い穴に死者を無造作かつ性急に埋葬しており、遺体はすべて男性で年齢は20~30歳、検査されたすべての個体に、特に頭蓋骨、胴体、骨盤に生前の損傷が認められた。骨の損傷は明らかに戦闘の結果であり、急いで埋葬されたことは活発な軍事作戦を示唆している。C14分析での骨の年代測定により、西暦80年から230年と大まかな年代が出て、残された僅かな出土品は西暦1世紀半ばから2世紀初頭のものと判定された。

 火葬を行わずに集団墓地が作られたという事実は、多数の死者が出たこと、そして時間や資源が不足していたこと、治癒していない戦闘による傷跡があることから、軍務における臆病さへの罰としての処刑といった可能性は排除され、むしろ、あらゆる証拠が、ある軍事作戦が壊滅的な結末を迎えたことを示している。

 歴史的記録によれば、1世紀末のドミティアヌス帝(在位81~96年)の時代、ローマ帝国のドナウ川国境地帯においてゲルマン部族との戦闘が繰り返された(86~96年のドナウ戦争)。これらはローマ側にとって極めて大きな犠牲を伴うものであり、ある軍団(レギオン)が全滅したという報告も残っている。その数年後、トラヤヌス帝(在位98~117年)代には、大規模な防衛線「ドナウ・リーメス」が拡張された。ジンメリングにあるこの集団墓地は、当時の激しい戦闘を示す最初の物理的証拠であり、現在のウィーン地域で戦闘が行われた場所を特定するもので、したがってここでの敗北が、発見場所から7キロメートル足らずの距離にあった小規模な軍事拠点を、軍団駐屯地「ヴィンドボナ」へと拡張させる直接的なきっかけとなった可能性がある。つまり、この戦闘がウィーンの都市としての歴史の始まりを告げるものだったかもしれない。

 以上が2025年段階での人骨の約3分の1の分析レベルでの見解だった。2026年になってすべての調査が完了し以下のような新知見が得られた。そのひとつが鼠径部(股間付近)の負傷が異常に多いという点である。調査対象となった128人のうち40%に「骨盤およびその周辺への外傷」が見られたのである。考古学調査会社Novetusの生物考古学者シェリダン・ストラング Sheridan Strang 女史は、最も可能性の高いシナリオとして、馬上の攻撃者が騎兵槍 lancesを用いて敵の鎧の隙間を狙ったからではないかと説明している。

 また、25体の人骨を対象としたDNA分析により、彼らの出自が多様であることが明らかになった。これは、必ずしも全員がローマ軍の兵士ではなかった可能性があることを示唆しているとストラング女史は説明する。ウィーン博物館によると、歴史的記録からローマ帝国はこの時期、ゲルマン部族としばしば戦闘を繰り広げていたことがわかっている。そのため、この墓地は「異なる集団が混在した墓地(commingled grave)」である可能性があると、ストラング女史は指摘している。

https://gizmodo.com/at-least-50-men-in-this-roman-mass-grave-were-hit-in-the-same-sensitive-spot-2000802847

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