作者別: k.toyota

忙中閑あり:今日の読書『しょぼい喫茶店の本』

 例の如く行き当たりばったりのテレビで、妙なドキュメンタリーを途中からみた。10/13(日)の午後「ザ・ノンフィクション」で「好きなことだけして生きていく 後編」。そこでの主役は京都でシェアハウスを10年あまりやっていたpha(ファ)氏が、40歳になったのを期に、猫と一緒の一人暮らしを始めた、という内容。「働きたくない、好きなことだけして生きていきたい」という彼の生き方に共感する若者たちが色々登場して、その中に喫茶店始めた25才の池田達也くんがいた。

 私が彼に注目したのは、なに、彼の出身大学が在職してた大学のしかも同じ文学部出身だったからで、それで興味を持った次第。彼の書いた本をさっそく古書で発注した。古書なのにそう安くなかったが(税抜きでのほとんど定価だった)、今年の4月発刊(百万年書房)なんだけど。それが今日家を出るときポストに届いていたので、このところ連日登学の四谷に往復の地下鉄の中で半分以上読み進めた。まあだいたいテレビで紹介されていた内容だったせいもある。

 現在、私は同時進行の作業を3つ4つ抱えていて、多忙の極みなのだが、家に帰ってとうとう完読してしまった。いかにも現代の若者らしく情報入手が、インターネットのツイッターなんかで、ツイッターで知り合った色んな人たちの援助を得て、それでとんとん拍子に話が展開して、喫茶店を立ち上げるという話である。実際にはサギまがいのほうの事例が多いはずなので、これは幸運というほかない。それなりの青春旅立ち物語であるが、社会に合わせて生きていくのが苦手な不器用な感性の持ち主の悩みが素直に表現されていて、生きにくい、死にたいと感じている人たちの共感をえる内容となっているように思う。これ読んで一人でも前向きな気持ちになってくれればと願う。せっかく生まれたのにもったいないよ。

 でも、これが今のような飽食のゆるい世界ではなく生存競争まっただなかの飢饉の時代だったりしたら、他人を押しのけても生きたい、と人はおしなべて思うものだろうか。それともひっそりと餓死していく人間類型っていたのだろうか。昔の私はもちろんみな前者になると思っていたのだが、最近はひょっとして後者もいたのではと思い直すようになった。戦災孤児なんかを想像してのことである。

【追伸】今テレビで「カイジ」とかいうアニメ流れていて、突然ブルー・ハーツの「未来は僕等の手の中」が大音量で飛び込んできた(https://www.youtube.com/watch?v=m4RPWG0A2MI)。どうやらカバーらしいが、その1節を提示したい。「僕等は泣くために 生まれたわけじゃないよ、僕等は負けるために 生まれてきたわけじゃないよ 生まれてきたわけじゃないよ、 未来は僕等の手の中」。

【付録】一昨日の読書:礫川氏に導かれて最近読んだ、というより再読した。松本清張『或る「小倉日記」伝』角川文庫、昭和33年。これには、表題の他、「父系の指」「菊枕」「笛壺」「石の骨」「断碑」が納められているが、最初のものを除くと、考古学や歴史、そして文学に取り憑かれた人間のいびつな姿がこれでもか、これでもかと登場する。昔読んだはずだが全然記憶にないのはどうしたことか。

 しかし、私も高校生の時は考古学やりたいと思っていたのだが、それでは食っていけない、不幸な人生になる、とよく知りもしないくせになんとなくそう思い出して、進路を若干ずらして史学科にしたのだが、その頃に読んで影響を受けていたのかも知れない。一丁前に悩んだ挙げ句、意識的にその記憶を封印してしまったのだろうか。いずれにせよ、これらの登場人物たちに若き時代の清張の屈折感情が投影されているように思うのは、私のひがみであろうか。かなり自伝的要素の強い「父系の指」に書かれていてびっくりだが、清張が広島駅前の京橋付近の生まれとは(但し、ウィキペディアでは旅行中の出生とのこと)、今回初めて知った。

 ところで最近の若者は清張なんか読んでいるのだろうか。最近ケーブルテレビで彼原作のドラマが延々と流されているが、時代の変化か、あまり触手が伸びない。同様に、私が学生の頃一世風靡していた西洋中世史家に阿部謹也もいたのだが、どうなんだろう。

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今週の世界キリスト教情報

 今回の目玉は、南アメリカ関係でのカトリックの教会会議開催である。
  ▼「アマゾン特別シノドス」が6日開幕   
  ▼「アマゾン特別シノドス」全体会議に入る

 これの成り行きでは、神学上根拠がないが、宗教改革時代以降これまで堅持されてきた聖職者の独身制が見直されるかも、という観測があるらしい。

 ところで、これを掲載してきた「メルマ」が来年1月でサービス終了を予定している旨の告示が。場所が変わっても「世界キリスト教情報」は継続してほしい。
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私へのオレオレ・サギ

 なぜか電話はかかってこないけど(向こうも無駄なことしないわけだ)、最近メールでやたら妙なのが送られてくる。

 今日も今日とて、持ってもいないから使ったはずもないアメックスから(と称して)、655.58€の不正請求の恐れありますとの連絡あった。まあ、こんなのは即無視できるが、海外からの本は購入しているので、使っているカードや銀行名で来たら、やっぱり気になってつい確認したくなるし、じっさいした記憶もある。どうもあのカード番号狙われているようだと思ったので、カード番号を切り替えてもらったこともある(担当から、効果ないと思いますが、というコメント付きでしたが。相当あちらも悩まされているご様子)。

 運転免許証返上ではないけど、呆けないうちにカード返上したほうがいいような気になってくる。世の中の動きとは逆コースだが(アレはお上の露骨に税収確保目的だと睨んでいるが)。

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イタリアを知るために

 他のことを検索していたら、偶然ヒットした。イタリア関係で最近なんだか塩野七生大先生の後継者となった観のある「ミヤザキ マリ」さんのブログである。大先生と違って彼女は取り澄ましたところはないし、なにしろ即物的にマンガで表現できるし、結婚して深〜くイタリア社会に漬かっているので下世話に通じているからだろうが、気軽に読ませてくれるので、あれこれ笑いながら読んでしまった。以下に行くと、芋づる式に読めるはずです(連載としてはもう終わったらしいが)。 http://italia.miguide.jp/lifestyle/5434

 それを読んでいるうちに、既視感にとらわれた。どこかで読んだ記憶を思いだしたのである。これも偶然だが、カルチャーでの講演の準備をしていたらそれが出てきた。2004年のレジメ掲載だった。

 以来15年。アマゾンを見てみると、内田さんはその後も毎年のように書き綴っているようだ。20世紀末には、たぶん夫の赴任で異文化社会イタリアに居住することになった女性の滞在記が、主婦感覚でよく書かれていた。内田さんはそれとは若干違った構造的な切り口だったような記憶がある。

 それで思い出した。以下もあった。いや、もちろん今もある。難攻不落のバチカンへの普通では考えられない、すごい食い込み方だった。

郷富佐子『バチカン:ローマ法王庁は、いま』岩波新書、2007年。 

 郷さんがイタリア特派員だったときの朝日新聞の扱いは破格だった。さて今彼女はどこにいるのだろうか。えっ、シドニー?

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何かおかしい、災害予報

 このところ、泰山鳴動が続いている感じの天気予報。データもどこまで本当なんだろうか。なにせ、経済指数でも数字を操って一向に恥じないお上のやることだから。狼少年にならなければいいのだが。

 台風や異常気象にことよせて、その実、交通機関の一斉休業の訓練しているとしか思えないのは、私だけだろうか。不必要なまでに大袈裟すぎる印象が拭いきれないのだ。そして、大義名分、号令一下で、マスコミも運輸会社も、唯々諾々の昨今の動きは、どうも腑に落ちないというか、落ち着かないのである。事後の追跡調査を怠りなくやってほしいものだ(が、期待薄かな)。そうでなければ、ネオ全体主義国家出現の予感がする、否、もうなっちゃってるような。

 ま、台風だから皆も家に温和しく籠もっているが(さっき行ってみたセブンイレブン、まばらだが客はいたが、パン・コーナーは昨晩から空棚のまんま)、さて、バイオテロの場合そううまくいくだろうか。

【追伸】被災者には申し訳ないが、台風は、12日夜10時頃には練馬では終わった感じ。台風一過の13日、きつい日差しの晴天。夕方、セブンイレブンに行ってみて驚いた。まだほとんど棚が埋まっていなかったことだ(9月末に最寄りのスーパーは閉店したので、そっちの様子は不明)。郵便受けにも郵便物は届いていない。

【追追伸】今日(15日)の夕方、セブンイレブンを覗いてみたら、ようやく棚は旧態に復していた。 郵便も届いていた。ということでわが身近は復旧に3日間かかったということになる。

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考古学とリチウム電池

 各新聞がウェブで採りあげているが、ノーベル化学賞受賞者の吉野彰さんが高校・大学で考古学のクラブに入っていて、そこで奥さんとも出会った、と。こういうのを聞くとたいへん嬉しい、と素直に思う。https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201910/CK2019101002100031.htm

 彼をめぐっての研究がらみのエピソードも満載で、分野は違えどそのはしくれの私も似たような体験があるので、こんなことあるよねと、これはよくわかる。https://mainichi.jp/articles/20191009/k00/00m/040/248000c

 とはいえ、細々と外国の歴史をやっている私などとは社会に対するインパクトや経済効果の圧倒的な違いを否応なく感じざるをえないのである。男子の本懐はいずこにありやと問いかけたくもなる。あるところで放言してしまったが、歴史学など「女性がするのに適した分野なのかも。男子たるもの、もっとリスクの高い場面に自己を投入すべきでは」。これは、わが分野への女性進出のめざましさについ口をついて出た昭和団塊世代の負け惜しみの言葉であるのだが。

 それにしても、このところの日本の基礎研究力の低下は著しい。それにめげず地道に頑張っている若手たちを救済すべく、国家的規模での支援を期待したいところである。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50835470Q9A011C1I00000/

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禁断の落書き調査(1):エルコラーノにて

 といっても、古代ローマではなく、現代の、である。

 広島に帰省して充電のためパソコンにiPhone繋いだら、これまでの写真がずらーと出てきて、最新のものとして今年の夏にエルコラーノからの帰りに撮ったものがあった。電車が来るまで時間を持てあましていたら目に付いてしまったので、とっさに現地調査となったわけである(同様に、ポンペイ・サンチュラリオ駅のほうはニコンで撮っている:それにこれまでの折に触れての蓄積もあるのだ。乞うご期待)。今回のものはすべてプラットフォームの、地下通路から階段で上がってきた所の構造物に書かれたもの。ここは、刺すような太陽光線が容赦なく照りつけるプラットフォーム上で唯一日差しを避けることができる場所なので、地元民が集まりやすいわけ。落書きは一目瞭然で解説はいらないだろうが、ここに時代を超えての落書きの常識がすでに見えているように思う。

 まず、同じ書き手が複数場所に書き付けていることが、絵のタッチで明確に確認できたり、文字と数字の組み合わせと筆跡で分かるものがある、ということ。

 第二に、こんな衆人の目に触れる公共の場所に、名前を明記という行為の意図で、私には、当事者二人が自分たちの愛の宣言というよりは、悪友のいたずらないし悪意を持った第三者による暴露のような気がしてならないのだが、どうだろう。

ヴェスヴィオ周遊鉄道では、ずっと以前から、
例外なく、通過電車もこんな調子

 これを2000年前の祖先たちのそれと同期させて考えるとき、さてどういうことになるだろう。

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史料論:庶民と法律

 母が今年の初め2/11に亡くなって、その後始末で翻弄されている。法律的には申告期限が決まっていて、慣れていながゆえにやたらストレスとなる。たとえば、死亡時から4か月以内に「準確定申告」をしなければならない。ところが取り紛れて気付いたときには4か月過ぎていた。慌ててこれまで広島の実家がらみの確定申告でお世話になっている税理士事務所に「どうしたらいいのですか」とメールしたら、「お宅の場合、最初の二ヶ月足らずだから放っておいて大丈夫でしょう」と言われて肩すかしの一件落着。

 次なるそして最大の関門は10か月以内に手続きしなければならない相続税の申告であるが、その前段階として銀行口座の凍結をしなければならない。そのためには、母の除籍された戸籍謄本や住民票が銀行ごとにいちいち必要らしいので、ノウハウ本に書かれてあった「法定相続情報証明制度」を利用することにした。これだと謄本とかがワンセットで済むという触れ込みだったからだ。

 この「証明」のコピーを入手するためには関連の書類を揃えて法務局に提出しなければならない。母の場合は提出先は広島法務局である。この法務局にはもうひとつ用事があった。相続財産の財産目録作成のため必要な書類として、土地・建物の登記状況を把握しておかないといけない。そこで猛暑の今夏に帰省して、広島法務局を訪ねて行った。もちろん生まれて初めての体験である。案内図を頼りに汗だくになりながら街中をうろうろし、くたくたになりながらようやく建物に到着、冷房に生き返り申請用紙を提出して待っていると、呼び出されて「その地番、ないのですが」と。そこで私は「地番」という呼称があって、それは本籍地の表記とは異なっていることを、初めて知った。本籍地は広島市西区○○町三丁目530番地○なので、それで申請したのだが、その付近の平面図を示されてそこが「地番」としては三丁目112番△、であることを初めて知ったのである。これまでの私の生涯70年間で地番はまったく関係なかったのだから,知るよしもない。

 こうしてなんとか登記簿の写しを入手し、次いで「法定相続情報証明制度」の窓口へ。窓口のお役人たち(みな女性だった)は親切であった。そこでもっとも大変なのは母の出生から死亡までのすべての戸籍謄本を集めることですよ、とご指導をいただき、手順を書いた説明書や申出書をもらって、こっちは後日郵送で処理すべく、また湿気のひどい真夏の午後の外気に放り出された。

 もう一人の相続人の妹は手回しよく関係書類を準備してくれていていた(実際は、経験あるご主人の手をわずらわせていたのであろうが)。さらにメールで母の実家の従兄弟に母の両親の名前を問い合わせたうえで、広島西区役所にいく。そこでかなり待たされて除籍謄本と2通の改製原戸籍なるものをまずゲット(私と母の関係を証明する書類が必要なのはいうまでもない)。次の日に、母の出生以来の古い戸籍を得るために、郵送でも可なのだが、帰省ついででもあるし、いっちゃえという感じでJR山陽本線に乗って東広島市役所へむかう。ここではそう待たされなかったが,ぶ厚い(田舎なので子供が多かったせいだろう)2通を受領することに成功。以上、再度足を運ぶ手間を考えて,上記すべて3通入手申請したので、予想外に費用がかかった。

 こうして、帰京して今度は練馬区役所に行き、自分と母の住民(除籍)票とか関係書類を揃え、返信用封筒に念のため簡易書留料金の切手を貼って広島法務局に送付したのは、月曜だった。さていつ返信が帰ってくるのかと思っていたら、木曜の朝に電話があり、書類関係は揃っているが「法定相続情報一覧」に不用な記入があるので出し直してほしい、と。で,何が不備だったかというと、住民票通りに書いて欲しいので、マンション名とか削除して下さい、と。練馬区ではなんかの時にマンション名まで書けといわれた記憶あったのでそうしたつもりだったのだが、役所が違い担当が違うとこんな調子で、ストレスとなる。

 それから10日もたったころだったろうか、文科省科研の現地調査で渡伊する直前に、法務局お墨付きの「証明」書類のコピーが届いたので(ご丁寧にも戸籍謄本などの提出書類も同封返還されていた)、2週間ほど間を開けて帰国してから、こんどは個別に銀行と接触。ところが、ゆうちょの場合、ご近所の窓口で「一番簡単な方法をとりましょう」といわれて、なんと解約関係の書類を渡されてしまった。あれれ、凍結しないでいいいの?という感じ。で後日改めて解約の書類を提出したが、あれほど手間かけた法務局の「証明」書類は不要、と言われて突っ返されてしまったのであ〜る。そのうえその場で貯金残高全額が払い戻されたのであ〜る。本当は喜べばいいのあろうが、なんだかうれしくないのはどうしたことか。貯金残高が少ないせいでの簡易処理だったのかもしれないが、狐につままれた感じだった。

 残りの2つの大都市銀行の預金凍結は、まずその担当窓口に電話かけて書類送付をお願いし、届いた書類を送り返した段階だが、そこでも法務局の書類のことにはまった触れられておらず、あれこれの書類を集めて提出のこととされていたが、今さら戸籍謄本類を同封する気にはならず、法務局の「証明」書類を封入して送り返した。あと、実印の押印と印鑑証明が要求されたので、こんなこともあるだろうと練馬区役所で入手しておいたものを同封した。電話連絡時に、いずれも手続き完了に1,2か月かかりますと言われたが、さて書類不備で返ってくるのかどうか、あちらさんのご都合待ちの昨今だが、こうしてまあ一応この仕事は官僚、もとえ完了となった次第。

 明日から数日また帰省する。今回はいよいよ土地・宅地の相続関係だが、これまで確定申告でお世話になっている税理士事務所に行って、相談する予定である。私の勝手な計算だと遺産相続で納税のレベルに達しないですみそうなのだが(基礎控除3000万+600万×相続人数、の枠内で収まりそう;それ越えた場合の、妻の弟から裏技を伝授されていたのだが、不発ですみそうなのは喜んでいいのか悪いのか,国家権力からは問題にされていない存在として認定されたようで,ちょっと微妙な感想なのである)、その後の名義変更手続きをどうすれば節税できるのか、がど素人相続人の目下の問題なのだ。

 かくの如く、とかく法律というものは庶民にとって常日頃の日常生活とはかけはなれ、しかも法的定めと窓口の対応も個別的に違っているようで、ますます素人にはとまどうことばかり(せっかくそろえた書類を不用、と突っ返されることも多い)。そこでリタイア歴史家として体感するのは、法律の条文で過去を再現することの非現実性である。たとえそういう原則はあっても、その通り運用されていないことが多いのが現実、という体験を古代ローマ法制史研究に投入している研究者がどれほどいっしゃることやら。歴史の目的は、かつての実際の生活の再現であると私は思っているが、史料不足を口実に(その実、手軽だからと私はにらんでいるのだが)、たまたま残存しえた法律文言を金科玉条のごとく振りかざす研究者のいかに多いことか。ありもしない仮想現実を作りあげて悦に入っている場合ではないのだが。それが実態とは乖離した古代ローマ史ムラでの身内意識のなあなあのお遊びに堕していないことを、過去の自分の生き様を含めて今は祈るばかりである。

【付論】以下はイタリア(といっても,中南部に限っておいた方がどうしても無難な気がする(^_^;)での私の体験なのだが、まあ現代イタリア人というのはこまめというか、事前に規則はこまごまときちんと作るのだが、実際にはそれはすぐさま反故にされてしまっている事例に日常体験的によくぶつかるのである。結論を先に述べると、この現代イタリア人の規則に対する民族的特性・習性、規則は作ってもすぐさまお上は励行しなくなる,それで誰も守らなくなる、要するに実効性を持たない法律の文言だけが六法全書に残る現実を、なぜ古代ローマ人に応用していけないことがあろうか、と私は言いたいのである。素人が思うに、イタリアでは何不都合が生じたら後追い的に法律を気軽に作る、でもそれが適用される事例なんてそうあるわけでないので、発布と同時にほとんど無視される、こんなことの連続なんではないかと。日本人風(というか研究者にありがち)に法律を律儀に考えていると間違う,ような気がする。ローマ法の研究者さんにお聞きしたいことである。

 たとえば、あれは大聖年2000年を前にして、これまで長年閉鎖されていたパラティヌス丘収蔵庫が博物館として新装開店した。この時は無料だったが、入り口に向かう階段前に麗々しく掲示されていたのは入場にさいしての見学者と見学時間の制限規則で、たとえば、10時から10時半まで20人、といった調子で、ご丁寧にも開館時間から閉館時間までそれがずらーと掲示されていたのだった。入り口の外にはちゃんと監視員がいて(そこまではリッパ)、だけどまあ人数や時間をチェックしている様子はなかったのでそのまま入場できて、その時は地下からじっくり見学させていただいた。ここでの私にとっての目玉は「冒涜の十字架」だったのは言うまでもない。もちろん初見参で大感激だった。当時は館内にも複数の監視員がそれなりにいて、偏屈そうな東洋人が一箇所にへばりついているので警戒されてはと思い、何度か行きつ戻りつして見学したが、今考えるとそれも十分怪しい行動ではあったなあ。で、本論はこれからで、翌年もその後も毎年のようにもちろん見学に行ったのだが、その時は例の掲示板は健在だったが、入り口の外に監視員はいなくなっていた(例のごとく、入り口の内側に所在なくお座りにはなっていた)。要するにまったくのオープンだった。そしてその翌年くらいだったろうか、掲示板の時間制限の箇所に色ビニールテープが貼られ出して、掲示板まだあるんだ〜と思いながら通うこと数年、とうとう掲示板そのものも引退されたとみえ、ようやくお姿をお消しになったのであ〜る。

 もう一つの事例。数年前のことだったか、「法律で、今度から博物館や遺跡には一定以上の大きさのバッグはしょって入れず、荷物置き場に預けなければならなくなった」という情報が私の耳に入ってきた。このころになると私など「おいおい、そんな場所、ポンペイなんかどこに作るというの、人員だって割けないでしょ。また計画倒れだよね」と冷静で、実際いってみても従来通り。唯一エルコラーノ遺跡だけは、事務棟が奥まった所に新設されたせいだろうが、荷物置き場も作られ職員も一名いらっしゃり、入場口にはその掲示も未だある(だいぶ小さくなったが)。でもまあ、入場口の監視員さんも法律どこ吹く風とばかりチェックされることは最初からない。今年の夏、荷物置き場と係員さんまだいたが、えっと驚きやっぱりねとこれは残念に思ったのは、遺跡構内の博物館グッズ売り場が閉鎖されていたことである。今年は寄らなかったのでわからないが、ポンペイ遺跡だとスカーヴィ入場口のトンネル横に最近できた売り場はまだ健在なのだろうか。こうなると、国立ナポリ博物館で入手するよう算段したほうが安全な気がする。

【補論】今年の夏の新ならず旧発見。ポンペイの円形闘技場入場口にはこれも3,4年前に作られた「石膏像死体の展示場」二棟がある。ローマのサンピエトロ広場を囲む円柱廊よろしく、左右に湾曲して1つずつあるが、これも片方だけと記憶しているが中に入れたのは最初だけで(私は入った)、今は外からガラス越しにしか覗けなくなっている(入り口に向かって左側のもう一棟は物置となっている)。そして今年同行者と落ち合う待ち時間のとき所在なく、左側に貼られていた掲示を見るともなくみていたら、なにやらここに荷物置き場があると書いてあるではないか。例のごとくもはや掲示倒れだろうなと思ったのだが、乳母車の赤ちゃん連れの夫婦が遺跡から出てきて騒ぎだし、そうこうしているとクストーデ風の男性が鍵を持ってやってきて、扉を開け、夫婦だけ中に入ってショルダーバッグを持ち出したので、クストーデ部屋に頼めば制度そのものはまだ生きていることを確認できた。しかしそれが見学者からの申し出による措置となっているのは、預けている人がごく限られている様子からあきらかで、これさえいつまで続くのだろうか。

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遅報(14):HerculaneuminPictures、そしてPompeiiinPictures

 今年の夏の現地調査は、エルコラーノでは我々は空振りだった。現地考古管理事務所の調査許可が我々の滞在期間には間に合わず、我らは一般観光客として入構するしかなかったのだ。それでも沈船博物館が開いていたし、折から開催されていた展示会に遭遇することができて、新収穫なしというわけでもなかった:私の最近の最大の注目場所「200年祭の家」Casa del Bicentenarioはまだ修復中だったし。

 ところで、10/3段階での情報によるとようやくエルコラーノの調査許可が出たそうで、今回はIV.1-2のCasa dell’ Atrio a mosaicoに入るようだ。ここはこのところずっと修復中で閉鎖されていた。それで今般検索かけたら、なんと標記のHPが新たに立ち上がっていて驚いた(HerculaneuminPictures:2018年5月かららしい)。これは表題からしてこれまでよく利用してきたPompeiiinPicturesの姉妹編で、同じ人たちJackie and Bob Dunnさん(ご夫婦かな)が作成されている。それもあって、元のポンペイのほうも覗いてみたのだが、なんと私にはよく理解できない理由なのだが、とにかくEUからイギリスが離脱したら、このHP、来年の1月1日をもってイギリス以外の者はみることできなくなるとの告知がされていて、かなりショック。これまでたいへん重宝してきただけに、これが本当なら大変残念なことです。

【余談】ところであれこれ検索していたら、なななんと、我らがこっち方面でお世話になっている現地通訳女史がいつの間にかHPを、そして私が201△年に調査で入ったときのことを若干詳しくアップしておられました(そこの紹介はまだ時効でないので、パスしておきます。というのは、調査そのものは問題ないのですが、その中で、当方が申請もしていなかったのに、通訳女史が「みたい!」とお願いしたら、案内してくれていたベテランのクストーデ(鍵の管理人)さんいとも簡単にかぎ取って入れてくれたのが、なんと驚きの「パピルス荘」だったのです。これがイタリア! 頼むのが男だとこうはいかない、と一応やっかんでおこう。彼は、そこで発掘品の整理していたボローニャ大学のメンバーにも紹介してくれました(女性ばっか10名あまり。東洋人もいらっしゃった。中国系かな;遺跡の中では別行動の3人の男性メンバーにも遭遇して、握手)。
 いつも許可を取るのには苦労しているのですが(といっても、現地遺跡管理事務所との交渉で悪戦苦闘しているのは通訳女史なんですが:本当に感謝しないといけませんよね)、現場の人たちの中にはこんな親切な人もいるのです(怖いよね)。

 こっちは、公表していいかな。https://www.piazzaitalia.info/

 エルコラーノの許可とれなかったので、彼女が気配りして代わりにと紹介してくれたのが、ナポリ市内のアウグストゥスの水道渠遺跡。これの記事その気になったら書くかもです。それには東大のソンマ発掘地見学にも触れないといけないかな。

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やっと入手した文献、されど・・・

 2001年に出版された本をずっと求めていた。数年前にその存在を知ってから、古書検索して継続探査かけてきた。私が学位をいただいたテーマでの書籍だったので、なんとしても入手したかったものだ。著者のZahran女史は大学教育こそアメリカのコロンビア大学とイギリスのロンドン大学で、学位はフランスのソルボンヌ大学で取得したらしいのだが、生まれはイスラエルの版図内のパレスティナのRamallahなので、かのローマ皇帝と同郷というわけではないが、まずこれまでの研究者ではもっとも現地に近い出身、という点だけは間違いない。

 Yasmine Zahran, Philip the Arab : A Study in Prejudice, London, 2001, Pp.154.

 彼女は他にも、おなじころセプティミウス・セウェルスの伝記を書いていて、そっちの古書はまともに入手できたが、しかしどうしたことかフィリップス・アラプスのほうはなぜか手間取って、注文先の古書店からキャンセルしますか、継続しますか、と何度も問い合わせが届いていた。その度に継続お願いしますとやってきた。もう15年以上昔の出版なので絶版は当然としても、ハードカバー以外に紙装版も出ていたようだし、イギリスでの出版物が古書でもなかなか手に入らないのはどうも腑に落ちないのだが。先般渡伊中にまた問い合わせがあったので、試しにBookfinderで久々に検索してみたら、イギリスの古書店が出品していた。それで先のをキャンセルして改めて発注したのだが、問題はその値段で、$16.31の郵送料込みでなんと$700.60だったことだ。

 年金生活者にとってはとんでもない高価な買い物だったが、思い切って購入することにした。渡伊から帰ってきて、送られて来ていたモノをみれば、それほど高度に学術的な体裁とは思えない(史料もほぼ現代語訳使っているし)、ただアラビア語文獻も使っているようなので、これから読むのが楽しみなことではある。ただ処理する順番としてはかなり順位が落ちるのであるが。

 ところで、これには予期せぬ落ちがついてしまった。さっきOPACで検索かけたら、なんと筑波大学図書館が所蔵していたのである・・・。なんともはや、いや昔だって調べたはずだから、なかったのでは・・・、こら、ぼけとんのか、という次第。大学間貸借で借り出して実物みたら、ぜったい購入する気にはならなかっただろうから、なおさらである。

 しかしともかく、ハードカバーのものなので、いずれ図書館に寄贈しようと思っている。なにしろ、7万円超の稀覯本なのであるからして。後続の研究者よ、是非利用して下さい。とほほ・・・

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