作者別: k.toyota

新発見:おもしろトイレ・モザイク

 ほんとは遊んでいる場合じゃないんですが (^^ゞ  これも遅ればせながらですが、面白いウェブを見つけてしまって。

 場所は小アジア半島南部の、Antiochia ad Cragumのローマ遺跡の紀元2世紀の公衆浴場内のトイレから面白い床モザイクが発見された(2018/11/2)。 https://www.livescience.com/64000-dirty-jokes-mosaics-discovered.html


中央の縦長の小区画が床モザ ↑ イク出土場所
残存床モザイクの俯瞰図

 左の区割りはギリシア語でナルキッソス。ギリシア神話で、水面に映った自分の美しい顔にみとれ、自分に恋い焦がれて死んだ。そのあとに水仙が咲いたので、欧米では水仙をナルシスと呼ぶ。この故事に沿いつつ、このモザイクは男根をしごいている次第。なお鼻が長いのは、当時では醜男を表現している由。だから、水に映してうっとり見ているのは顔ではなく、自慢の男根ということになる。彼のかぶっている帽子は、腸卜師ないし占い師のアトリビュートに類似しているように見えるが、さて。

 右のテーマはギリシア語からガニュメーデース。美貌の彼に一目惚れしたゼウスは鷲に変身して、彼をさらってオリュンポスの神々に酒を注ぐ給仕にした。このモザイクで彼は酒瓶の代わりに右手にトイレ掃除用具のスポンジを持っていて、トイレにふさわしい絵柄となっている。ただそれだけではなくて、こっちの構図はなかなか複雑。彼は左手で鷲ではなくサギのような首の長い鳥の頭をなでている。お尻の後に出ているもの(は私には最初男根に見えたのだが:こういう構図はナイル河畔風景図によく登場するピグミーでおなじみ、といいたいが、前の方に睾丸らしき袋が見えるので、ちょっと無理かな)を、鳥が長いくちばしで突いているようだ(発掘者は、鳥がスポンジをガニュメーデースのお尻に当てている、と想定している)。

ピグミー像:国立ナポリ考古学博物館の旧秘儀の部屋前設置のナイル河畔風景モザイク

 ギリシア・ローマ時代では白鳥なんかの首の長い鳥は男根をあらわしてもいるわけで、ガニュメーデースのかぶっているのはフリュギア帽となると、これはもう小アジアという場所柄もあり、自ずとキュベレの若いツバメのアッティスも連想される。こうなると二重に男色を暗示しているように思えてしまう。なんともはや、ということで観る者の知識レベルに応じて幾重にも謎解きの読み込みが可能となる仕組みなのかしらん。

これは2018・11に公表されたポンペイ出土のレダと白鳥のフレスコ画
Ancient ‘Sensual’ Painting Uncovered by Workers in Pompeii – YouTube

 ギリシア神話をパロって、浴場やトイレの使用法には色々ありますと、用を足しに寄っている人たちの笑いを誘い、同時に知恵比べを挑んでもいるといえる。この手の内容は、 以前論文で扱ったオスティア・アンティカ遺跡の「七賢人の部屋」のフレスコ画と通底しているといっていいだろう。実はオスティア・アンティカ遺跡にはもう一つ、興味津々の趣向を示す事例がありまして。機会があればまた紹介します。

【追伸】このブログを読んだ某君から、さっそく、ガニュメーデースの男根の描き方で亀頭が露出ているのは意味ある、とご指摘が。たしかにギリシア・ローマでの男性(神)像はおしなべて慎ましく上皮で包まれて(え〜、直接的に表現するなら包茎で)描かれているのが常でして、これは性欲という獣(自然)的な欲望を理性で抑制できている神や人間の理想像を表現しているんだそうです。私など地中海人には包茎が多いのかしら、とあて推量してましたが (^^ゞ、やっぱ観念論ではあきませんけど、その実証に励むのは・・・ちょっとねぇ・・・。

 逆に旺盛な欲望の持ち主の場合は亀頭露出で表現されるわけです。ギリシア壺絵だとサテュロスなんかそうですよね。以下の、国立ナポリ考古学博物館の旧「秘技の部屋」所蔵(現在は、同一場所を整備して、年齢制限付きで公開[その実、いかにもイタリアでチェックなし])のポンペイ出土フレスコ画(ヘルメスの姿を取ったプリアポス像)なんかもそうです。

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小学生が読む古代ローマ・トイレ話

 2017年の2月に、見知らぬ女性からメールが送られてきた。彼女は小学生対象の雑誌を編集している由で、私のHPで古代ローマのトイレ話を知ったので、使わせてほしい、という内容だった。少しでも納税者の子弟に恩返しできればと、もちろん私はよろこんで快諾。こんなことは初体験だし。くだんの女性は後日イラストレーターの女性と一緒に大学の研究室に姿をみせ、諸々の相談となった。

 こうして、九大の堀先生との共同監修で、2017年4月号に総天然色(我ながら表現が古い!)の見開き2ページで掲載された。そして翌年「好評につき再掲載したいので、修正ありますか」と。そして今年もその連絡があった。主役は張れないが息抜きのコラムとしてはいい話題なのだろう。奇しくも同時期に、一連の「うんこ漢字ドリル」が出現し、これはもう大反響で(私ももちろん孫向けに購入)、なんと半年後には二匹目のドジョウをねらって別出版社から「おなら」も出版された(こっちも購入)。さすが「おしっこ」はまだ(というか、もう出)ないみたい。絵本「おしりたんてい」シリーズは2016年から出版されている。子供がよろこぶお下劣な身振りのドリフはかつて教育ママさんたちにさんざん叩かれたが、これも時代なのだろうか・・・。

 そんなことを思い出して久々に「古代ローマのトイレ」でググってみたら、私の2015年5月月報掲載の「古代ローマ・トイレの落とし穴」の(1)が、5番目に出てきたが((2)は15番目)、なんとなんとそれらを参考サイトに引用しているHP(https://anc-rome.info/toilet/)に8番目で遭遇できた。有難いことだ。ちなみに、1番目は「高い技術で知られる古代ローマのトイレは、それほど衛生的じゃなかったみたい」だった(その元の英語論文は2016年1月)。こうして徐々にではあれ、より正確な情報がじわじわと拡散していくのを観るのは、嬉しいし楽しみでもある。

 それでふと思い出したことがある、某有名出版社から某著名教授の名前で某翻訳書が出版され、さっそくウェブに幾つか高く評価する高名な肩書きをお持ちの人たちの書評が書き込まれた。もちろんアマゾン・コムのレビューも異口同音に称賛の嵐。だが某学術誌で書評を求められてその翻訳書を精読していた私が見るところ、出版社の宣伝文に依拠しての、まあ誤読もいいところのよいしょの内容だったので、私は、世の高名なる識者の読解力がおかしい、と辛口の苦情をレビューに書いた(もちろん書評本文でも)。これも気になっていたので昨日確認のためググって見たら、いつの間にかよいしょ書き込みは(もとより、レビューも)跡形もなく消え去ってしまっていて驚いた。

 読んでいる人は読んでいるということか。恥をかいたというわけか。しかし、素人の市井の人はともかくとして、自分の見解を修正したらそれを明記するのが、研究者たるものの矜持のはずなのだが、ささっと消して、なかったことにしてしまったのですね、と反問せざるをえない私だった。業界情報に詳しくはないが、きっとインターネット時代に対応して、ウェブへの書き込みが売らんかなの新手の宣伝方法になっているに違いない、と睨んでいる。

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読書会:四谷が始まります

 4/25(木)午後6時から、以下の要領で読書会やります。

 「古代における女性の声:ペルペトゥア殉教伝を素材に」

 紀元後203年3月7日に、北アフリカのカルタゴで殉教死したペルペトゥアは、処刑前日までの獄中日記を残した、これは女性の肉声を伝えるものとして古代において希有の証言だ、とこれまでも高く評価されてきました。彼女の殉教伝を読むと、キリスト教信仰に殉じようとする彼女のりりしい姿のみならず、彼女を取り巻く悩み多い諸状況が余すところなく吐露されていて、その意味でたいへん興味深く(そのうえ多くの謎も含まれていて)、男性聖職者たちの制度教会に都合よく整形された中世的聖人伝とはひと味も二味もちがう姿で、今日まで残存することができました。それというのも、おそらく当時の女性たちに支持されてすぐさま広く流布してしまい、あとから修正しにくくなった事情があったからだと思います。

 その意味で、現代女性の直面している諸問題とも生々しく通底している面があります。彼女の殉教伝を素材にご一緒にそれを掘り下げましょう。いや、皆さんに教えて頂きたいと思っています。

 「殉教伝」の翻訳テキストはこのブログに載せています。参考文獻は、以下で、その内容にそって7,8回で読了する予定です。その他、関連資料は無料で配布します。

 ジョイス・E・ソールズベリ(田畑賀世子訳)『ペルペトゥアの殉教:ローマ帝国に生きた若き女性の死とその記憶』白水社、2018/6、¥5616. アマゾンでは定価より1600〜1000円安いものが現在出品されていて、お買い得です。

 場所は、JR四ッ谷駅下車、麹町教会西脇の真田堀沿いのソフィア通りをちょっと南下したところにあるイエズス会日本管区で、その門を入り右の建物のエレベータで三階の304号室です。18時から90分程度です。場所代その他で、一回2000円を申し受けます。

 初心者の方々の奮ってのご参加を大歓迎します。予めご連絡いただきましたら、門でお迎えしますので気楽においで下さい。連絡先:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

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先達の足跡:(2)堤安紀

 「つつみ やすのり」と読む。私的には、ペルペトゥア関係で初めてその存在を知ったが、最近になってオリゲネスがらみの論考をお持ちになっていることにようやく気付いた。私が関連の論考を書いたときにフォローしてなくて、申し訳ないことです。以下、とりあえず知りえた論考を列挙しておくが、それ以外にフランス語からの神学関係の翻訳を5点はお持ちである。彼は、東京教育大学農学部をご卒業後、リヨン・カトリック大学で修士課程を修了されている。私より7歳年長のようである。論文は20世紀で打ち止めで、これまでで2014年版のクセジュの共訳『イエス』が最後のお仕事のようだ。

  • エウセビオス『教会史』にみるオリゲネスの教育活動の枠組とその視点. 上武大学論集. 1976. 8
  • オリゲネスの『ケルソス駿論』(]G0004[).65から:歴史と自由の概念について. 上武大学論集. 1981. 12
  • オリゲネス著『ケルソス駿論』(]G0008[).68とその背影について. 上武大学論集. 1982. 13
  • アンティオキアのイグナチオ・その生涯と神学. 上武大学論集. 1983. 14
  • ヒッポリュトスの『使徒的伝承』、その共同体構造と教育. 上武大学論集. 1984. 15
  • エルサレムのキュリロスとその教育思想. 上武大学論集. 1985. 16
  • エイレナイオスの「時」の概念. 上武大学論集. 1985. 17
  • ヨハネス・クリュソストモスの教育思想. 上武大学論集. 1986. 19
  • バシレイオスの「時」の概念. 上武大学経営情報学部論集. 1987. 3
  • リョンの殉教者について. 上武大学論集. 1988. 23
  • 婦人の身嗜み:服飾と美容について:テルトゥリアヌスの神学的人間学の一端. 上武大学商学部紀要. 1992. 4. 1. 21
  • 二世紀初頭のキリスト教徒とプリニウス書簡. 上武大学商学部紀要. 1997. 8. 2. 85-118
  • ペルペトゥアとフェリキタス:三世紀初頭,北アフリカの殉教者たち,上武大学商学部紀要, 1998. 10-1. 41-62.

【補記】私が大学に入った頃の「史学概論」では、先行研究の調査がたいへん重視されていて、そこで論及されていない論点を展開してこそ真の論文である、とされていた(と、私は認識していた)。しかしそれをやっていると実際には切りがないし(対象が欧米だと、数カ国語で毎年幾つか論文・著書が際限なく公表・出版され続けるし、19世紀以来の蓄積も半端ではない)、先行研究の細道を辿って迷路に行き詰まる閉塞感に捕らわれもする。今になって思い返すと、それだけ欧文の先行研究を熟読味読せよ、という意味だったのではないかと拝察するが、その袋小路で戸惑ううちに、こりゃだめだと方向転換したのが、私の場合は史料精読主義だった。原典史料が何を中心に述べているのか、それが文書研究の基本のはずが、いつの間にか先行研究者が自分の関心で書き綴っている研究論文や著書の精読で精力を消耗してしまっている、これでいいはずはない、と考えての思い切りだった。平たくいうと、原典を読んでそこでぶつかった課題に関して論じている先行研究をフォローしちゃえばいいのでは、というわけである。

 さて、我が国で初期キリスト教を専門としている研究者はそう多くはない。であれば邦語文献は相互に味読されてしかるべきはずなのに、上記の堤氏のものにしても、少ない研究者間で相互検討されているようには思えない現実がある(具体的には註記で引用されることがあまりに少ない:これは既述の水川氏も同様である)。いわんや相互批判においては皆無に近い。これでいいのか。これは私にとって積年の疑問なんですよね。

【追記】彼が共訳したシャルル・ペロ『イエス』が届いたので、さっそくもう一人の共訳者支倉崇晴氏の「訳者あとがき」を読んだ。彼は私より10歳年上で、堤氏とは東京カトリック学生連盟(カト学連)で旧知だった由。堤氏は東京教育大のカトリック研究会でネラン神父が指導司祭だったらしい。こんなところで学連の先輩に出会うとは思わなかった。今年2月の日経新聞の「私の履歴書」で五百籏頭眞氏(私より4歳年上)が一言もそれに触れていなかったあとだったから、なおさらである。

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健康寿命:痴呆への一里塚(6)

 旧厚生省系の2016年度の統計によると、「健康寿命」として、男性72.14歳、女性74.79歳だそうである。他方で、「平均寿命」は、男性81.09歳、女性87.26歳。http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55871                     

 まあ、そこそこ現役で働けるのが男性の平均で72、3歳ということなのだろうが、死ぬまでの10年間はそうはいかないようで、この死の直前の10年間がどうなるかが、私など、すでに72歳目前なので、否応なく関心を持たざるをえないところだ。何度も書いているが、すでにじたばたしてもしょうがないわけで、なのになぜか体重だけはまだ成長期だけど、足の劣化は恐るべしだし、他に時々襲われるめまいもあるし、最近はパソコンの画面がなんだか薄くなってきたので、文字通り予断を許さない現状にある。どこからが10年前なのか、結果論でしかわからないのが歯がゆいが、まあ一期一会を実践していくしかないのだろう。

今年の春は遅かったな。今年の桜はえらく長持ちしたな。さて、今年の夏はどうだろう。おっと、それ以前に、南回りでの往復飛行を無事に乗り切る試練があったっけ。そうそう旅行傷害保険も忘れないようにしなくっちゃ、これからが本当に必要なはずだから。

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ノートルダム大聖堂火災によせて:ケルトとイスラームとゴシックと

 ノートルダム大聖堂火災に関連して、興味深い記事が飛び込んできた。 http://miu.ismedia.jp/r/c.do?134G_kmC_1RO_sds  
 
 とりあえず、無料読者登録をすると読めるはずです。  
 私にとってのキモは、「ゴシック」という西欧美術史的な命名は、その実「イスラーム」という意味で、今回消失した大聖堂はイスラーム的建築技術を取り入れた西欧での最初の建築物だった、という点にある。  
 換言するなら、美術史においていかにもヨーロッパ建築史的見地で表現されてきたその内実は、実は先進文明圏イスラームの建築技術のパクリだったというわけ。
 これは専門家には周知の事なのでしょうが、私のような素人にはさもありなんとたいへん斬新な指摘でした。
 しかし、自称専門家の通弊でもあるようで、たとえば、酒井健『ゴシックとは何か:大聖堂の精神史』講談社現代新書、2001(ちくま学芸文庫、2006)は、そのケルト的源泉に触れているのはいいとして、アマゾンのレビューで「建築技術の発展はイスラーム文明の流入(12世紀ルネサンス)に負うこと等もほとんど記述が無い(12世紀ルネサンスについてはスコラ学のところで触れているにもかかわらず)。完全に精神史に焦点を当てたはいいがそれで全て説明しようとしているところは,危うい」と書かれてしまっているところを見ると、無知は専門家にも蔓延しているようだ。
 一言でばっさり言ってしまうと、自分の立ち位置への見直しなしに、西欧のプロパガンダの口車に乗っかって、訳知り顔に精神史やってたら駄目でっせ、というあたりかと。自戒せねば、とつくづく思う。
 
 また、これには続きがあって、この建物から始まったもののもうひとつに「ドレミ」の和音があるそうで、これは続稿の課題だそうです。こっちも読むのが楽しみです。

【補遺】音楽の件の記事は、以下です。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56155?pd=all
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今日の「世界キリスト教情報」

◎宗教観に関する米調査で「無宗教」との回答が初めて首位に
 
【CJC】米国人の宗教観に関する調査で「無宗教」との回答がカトリック教徒やキリスト教福音主義派を上回って23・1%を占め、初めて首位に立ったことがわかった。  
 イースタン・イリノイ大学の政治学者でバプテスト派の牧師でもあるライアン・バージ氏が、長年実施されている総合的な社会状況調査を新たに分析した結果、と米メディア『CNN』(日本語電子版)が4月14日報じた。調査参加者は2000人を超しているが、個別での面談にそれぞれ応じていたという。  
 「無宗教」23・1%に次いでカトリック教徒23・0%、福音主義派22・5%。これら3グループの数値は回答率の誤差の範囲内にあり、統計学的には同一の数字、とバージ氏は見なしている。  
 同調査では44年間にわたって信奉する宗教に関する同じ質問をしているが、今回のような数字の並びは初めてという。  
 無宗教層の激増は1990年代初期から始まった。91年以降では266%も伸びたという。今後4~6年間は明白な最大勢力になるとも推測している。  
 無宗教と答えた層は、無神論者、不可知論者、心霊主義者や特定の組織的な宗教には組みしないとする人々などさまざまなグループから成り立っている。  
 無宗教層の増加の背景要因については、専門家の間でもさまざまな見方が出ている。無神論者の団体責任者はインターネットの存在が要因と分析、ネットは無信仰者が同様の思いを抱く者を見出せる場所を提供していると指摘している。
 
 世間の常識とは往々にして旧態依然のデータが刷り込まれているのだろうが、まあ実際にはこんなところだろう、と私も思う。「無宗教」と「無神論」は微妙に異なっていて、現状ではまだまだ不分明といわざるを得ないが、早晩「無宗教」が明確に表舞台で突出することになるように思う。死への旅立ちに、宗教の助けが必要な人は確実に減少していく予感がするからだ。

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ケルト・メモ:2000年前の沼地殺人事件の新事実

も 4/12に、偶然関連あるテレビ番組の後半を見てしまいました。
 BS朝日 地球大紀行 *44「4000年前から来た男、遺体の謎を追え」   https://www.bs-asahi.co.jp/wild-nature-chikyu/lineup/prg_044/

  2011年にアイルランドのキャシェルで、土を掘っていた重機のオペレーターが、埋もれていた死体を見つけた。当初、これは殺人事件の被害者かと思われたが、それはあまりに保存状態が良いために起こった誤解だった 。  
 科学鑑定で遺体の男性は、4000年前に死んだという驚くべき結果が得られた。ではなぜ、彼は死んだのか? CTスキャンや胃の内容物の調査、そして犯罪捜査の手法を用いて謎の死因に迫る。そして見つかった証拠の数々…。  
 彼は若き王だったのか? だとすれば、なぜ彼は殺されなければならなかったのか? カメラが彼の正体に迫る。  
 (実は、昨年の9/14には、*36「沼に沈んだ遺体 2000年前の殺人事件の謎を解く」もあったようです。https://www.bs-asahi.co.jp/wild-nature-chiky u/lineup/prg_036/)  

 この番組の主眼は、沼地で殺害された男たちは王で、しかし穀物の実りが不作だったので、女神の怒りを解くべく殺された(遺体に傷つけられた様子でわかるのだそうです)、その時期は、沼の有殻アメーバーの研究で、青銅器時代から鉄器時代の変わり目(前750年頃)に気候の大変動が実証された、という仮説の提出のあるようです。  
 でもそれだと、遺体の年代と1000年もずれている気がするのですが、前半を見ていないので、はっきりしません。しかし、不作の責任をとっての王の処刑というのはケルト神話的にもありえる話だなと思いました。
 そして関連で、デンマークのを調べている内に、有名な「ヴィンデビーの少女」が骨格やDNA鑑定によって、最近では若い男性だった可能性が出てきていることも知りました(しかも、姦通の相方とされていた男性は300年も前の人物だった由)。最近のポンペイでの寄り添って死んでいる石膏像の「乙女たちの像」の少なくとも一方が男性だったことが判明したのとよく似た現象で、面白かったです。でもなんだかなあ、ロマンが・・・。

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ポンペイの石膏像修復で分かったとんでも新事実

 遅ればせながらの連絡です。  
 4/6放映のNHK 地球ドラマチック「ポンペイ 石こう像の新事実」44分を、現在オンデマンドで見ることできます。東京では15日00:00から(あ、もう1時間あとですね)Eテレで再放送されるようです。これは2018年イタリア製作のもののようです。  
 これは石こう像の修復にともなって、DNA分析を含む、先端光学機器で分析する様子が紹介されていて、我々の研究にも大いに参考になりそうです。  
 私的にもっとも衝撃的だったのは、最後に、DNA分析から、黄金の腕輪の家出土の「家族の像」の4人の間に遺伝的関係がないこと、しかも母親と思われていた像は男性だったことが判明したことでした。また、「乙女たちの像」の一人は男性で、もう一人は特定できなかった、という事実が証明されたことでしょう。見た目で判断されてきた従来の研究の問題点が明確に指摘されたわけです。
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万里の長城余滴

 これまた偶然に途中から見たのですが(こんなのばっか)、NHK BSプレミアム「空旅中国 万里の長城」)、4/6に見たテレビが刺激的でした(現在、オンデマンドで視聴可能なようです)。万里の長城を主として空撮してました。土の壁の長城が西へ西へと延びていくわけですが、その影響について、私には興味深い2つのことを、ナレーション(近藤正臣)が言っていました。

 ひとつは、長城の向こう側にいた人々は中国本土を離れると言うまでもなく、遊牧民族でした。彼らにとって、重要な財産は羊で、それは同時に食料だったわけです。羊を伴って彼らは移動してた、というのはこれまでも、まあ常識として知っていたのですが、羊が乗り越えれない壁を築けば、遊牧民は東進南進できなくなる、という理屈は初見参でした。

 もちろん、壁を壊して侵入することは可能ですが、それは部分的な侵入に限定されちゃうわけなんでしょうねえ。

 これを古代ローマ時代に適応すれば、大陸のリメスにせよ、ブリタンニアの長城にせよ、さほど立派な壁でなくとも、十分効果を持っていた、という理屈になります。これまでは、あの程度の壁では侵入は防げなかったけど、その線が文明圏と野蛮の地に一応の境界線を意味していたのだ、などと若干文明論的・精神論的に無理矢理説明されてきたわけですが、より説得的な説明に私には思えるのでした。しかしまあ、蒙古なんかのステップ地帯と西欧の自然環境を同一視するのはちょっと引っかかりますが。それにしても考えてみると、ブリタニアの中世から近世の画期とされるエンクロージャー(囲い込み)だって、まあ石垣程度でよかったわけですよね。ともかく、この羊の動物行動学的な見方は、これまで私には欠落していた視点でした。

 第二の点は、やはり遊牧民がらみなのですが、草を求めて移動していた彼らが例年の習いで移動してきてみると、そこに長城ができていて、内側に入れなくなっている、そして内側では漢民族が農耕を始めている、という図式です。漢民族と農耕地の拡大は、中国史やっている院生がそんな発表をしていた記憶あるのですが、それと長城が関連していたというのは初耳で(しかし考えてみれば当然ではある)、刺激的でした。しかしこれはどの程度言えるのか、私には確信はありませんが、図式としては面白いなあと。

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