投稿者: k.toyota

「ペルペトゥアとフェリキタスの受難記」IV.8-10と、「ソロモンの頌歌」19の関連性をめぐって

 研究者たちが新発見の聖書関係文書をみつけても、従来のキリスト教神学の体系にはどうにもうまく当てはまらないので、無視してきたというテーマの書き込み(https://medium.com/belover/10-new-bible-texts-were-found-that-christianity-hated-ba2b520597e9)を読んでいて知った「ソロモンの頌歌」Odae Salomonis のことをちょっと調べていて、とんでもないことに気付いてしまった。

 この頌歌は1907年ごろに、キリスト教学者から写本ハンターへと転身した人物のJ. Rendel Harrisによってシリア語写本が発見され(オリジナル言語は不明)、後2世紀前半の作品とされ、全体で長短さまざまの42編からなっているが、その第19頌歌の以下の件である。実はこの箇所はいわゆる後世の正統派からすると大問題の一文だった:

  「乳の入った杯が私に差し出された。私はそれを、主の慈しみの甘さの中で飲み干した。御子(子)がその杯であり、父が乳を搾り出された方であり、聖霊が、その方から乳を搾った方である……」

 そこで私がかつて取り扱ったことのある「ペルペトゥアとフェリキタスの受難記Passio Sanctarum Perpetuae et Felicitatis」の一節を思い出したのである(https://www.koji007.tokyo/2018/08/14/翻訳:ペルペトゥアとフェリキタスの殉教者行伝/)。その箇所は、IV.8-10である:

(8) そして私は登っていき、そして見たのです、無限の広さの庭を。そしてその中に白髪の男性が座っていましたが、彼は牧者の衣装を身につけ、大変大柄で、羊たちの乳を搾ってました。そしてまわりに(白い衣装の)志願者たちが何千といました。(9) そして彼は頭を起こし、私に言いました。『よくやってきましたね、子供よ tegnon(gr.τέκνον)』。そして彼は私に大声で呼びかけ、そして彼が搾りたて(のミルク)で作ったチーズから、私に一口ほどくださいました。そして私は両手を重ねて頂戴し、そして食しました、そして回りにいたすべての人々が言いました。『アーメン Amen(gr. Ἀμήν)』。(10) そして私は騒がしい声で目覚めたのです。今まで未知だった甘い味を飲み込みながら。

 この「受難記」の著述年代は3世紀初頭なので、イメージの同一性から、ほぼ確実にペルペトゥアが「頌歌」を読んでいて記憶に頼って述べているといってよいだろう。

 さて、私が知りえた「頌歌」19に関する英訳の注釈つきは、以下である:https://ocoy.org/original-christianity/the-odes-of-solomon-for-awakening/the-odes-of-solomon-19/ それの邦訳を以下転載しておく。

『ソロモンの頌歌』第19歌 祈る乙女:『覚醒のためのソロモンの頌歌』注解の続き

 一杯の乳が私に差し出された。私はそれを、主の喜びの甘美さの中で飲んだ。 御子とはその杯であり、乳を搾り出された方は父なる神であり、聖霊とは、その方から乳を搾った「彼女」である。 父の乳房は満ちていた。その乳が無駄にこぼれ落ちてしまうことは、望ましいことではなかったからだ。 そこで聖霊は自らの胸を開き、父なる神の二つの乳房から出た乳を混ぜ合わせた。 そして彼女は、人々に知られることなく、その混合物を世界に与えた。それを受け取る者たちは、神の右手の豊かさの中にいる。 乙女の胎がそれを受け取り、彼女は身ごもって子を産んだ。 こうして乙女は、大いなる憐れみを抱く​​母となった。 彼女は産みの苦しみを経て御子を産んだが、そこに痛みはなかった。それは無意味な出来事ではなかったからだ。 彼女に産婆は必要なかった。なぜなら、御子自身が彼女に命を与える働きをしたからである。 彼女は自らの意志によって人間として子を産み、顕現の通りに出産し、大いなる力をもって成し遂げた。 彼女は贖いをもって愛し、慈しみをもって守り、壮大さをもって宣言した。アレルヤ。 一杯の乳が私に差し出された。私はそれを、主の喜びの甘美さの中で飲んだ。

【以下、注釈】

 初期キリスト教会の慣習として、洗礼を受けたばかりの人々に、蜂蜜を混ぜた乳の杯が与えられていた。これは、洗礼によって与えられた「新しく、かつ続いていく命」の象徴であり、その命の道を歩む中で得られる甘美さを表していた。それは「主の霊によって、栄光から栄光へと」進んでいく歩みである(コリントの信徒への手紙二、3章18節)。

 私たちは常に神の中に生き、神の無限の命を汲み取りながら、それを自分自身の有限な命として生きている。このことをより意識的に行うほど、私たちの幸福はより大きなものとなる。 ​​

 御子とはその杯であり、乳を搾り出された方は父なる神であり、聖霊とは、その方から乳を搾った「彼女」である。神はその本質において超越的な存在である。それゆえ、神はご自身を私たちに伝えるために、被造物として、またその被造物の中に宿る導きの知性として、ご自身を拡張し、あるいは流出させた。これらが「聖霊」と「子」である。私たちは霊的な進化という目的のためにこの被造世界に入り、「子」とのつながりを通じて「父」の命(いのち)を糧とし、その命の中に生きている。この「子」は、それゆえに「杯」と呼ばれる。この命にあずかるために、私たちは聖霊という振動する光から形成された、相対的な存在の層、すなわちいくつもの「体」をまとっている。私たちの意識は「子」の中にあり、私たちの体は「聖霊」の中にある。というより、私たちの体は、聖霊という神聖な光から形作られているのだ。「父」の命は聖霊を介して私たちに伝えられるため、この詩の作者は、聖霊が父からその命を「乳として搾り取る」と表現している。

 「父の乳房は満ちており、その乳が無駄にこぼれ落ちてしまうのは望ましくなかった。そこで聖霊は自らの胸を開き、父の二つの乳房から出た乳を混ぜ合わせたのである。」

 「子」と「聖霊」は「父の二つの乳房」であり、そこには、進化の途上にあるすべての有情(生きとし生けるもの)に伝えられ得る形で、「父」の命が満ちている。そして、進化しつつある私たちの体を通じて、その命を私たちに飲ませてくれるのが「聖霊」なのである。

 「そして聖霊は、人々がそれとは知らぬままに、その混合された乳を世界に与えた。それを受け取った者たちは、『右手の豊かさ』の中にいる。」

 すべての生きとし生けるものは神の命を糧とし、その命の中に生きているが、そのことに気づいている者はほとんどいない。しかし、意識的かつ意図的にその命を「受け取る」ことができるほどに進化した者たちは、神の中にある神々であり、神の「右手の豊かさ」の中にいる。それは、超越的な「父の懐(ふところ)」(ヨハネによる福音書1章18節)――すなわち父との完全な再結合の状態――へと向かって上昇していく、進化の流れの中にいるということである。私たちは皆「父」の「子」であり、父から出てきた存在だからである。しかし、「深淵は深淵を呼び」(詩編42編7節)、無限なるものは有限なるものに対して絶えず呼びかけている。「人の子らよ、帰ってきなさい」(詩編90編3節)と。これは普遍的な進化の衝動であり、神の「右手」である。

 ここで私たちは、神聖な「生命」の、極めて異なる二つの顕現について考察する必要がある。『ソロモンの頌歌(Odes of Solomon)』が単なるキリスト教最古の賛歌というだけでなく、明らかにキリスト教におけるグノーシス的、神秘的、そして秘教的な伝統に属していることは明白である。グノーシス的キリスト教の文献には、「光の処女(Virgin of Light)」への言及が見られる。これは聖霊の顕現であり、聖霊そのものでもある、生きて意識を持った創造物である。ただし、この「処女」は聖霊の一側面であって、聖霊の無限の全体性そのものではない。したがって、この点について混同しないよう注意が必要である。また、この頌歌の残りの節は、聖霊なる母の完全な写しである「処女マリア」に当てはめることもできる。ちょうどイエスが、父なる神(イシュワラ)の「子」の完全な写しであったのと同様である。つまり、この頌歌は、宇宙の「生命」と、イエスの母である処女マリアの双方に適用できるものとして考察されることになる。 ​​

 「乙女の胎がそれを受け取り、彼女は身ごもって子を産んだ。」

 父なる神の意志はコスモス(宇宙)に反映される。コスモスはそれを受け入れ、進化の計画に従って自らを形作っていく。コスモスの物語とは、進化が展開していく物語である。

Filed under: ブログ

やっと来たぞ、詐欺電話

 今日の午前中固定電話が鳴った。それで出たらちょっと若めの中年男性の声で「宅配業者なんですが、お宅の名前で高知から埼玉に送られた荷物が不審なので、開けてみたら衣服に包まれた現金とカードが出てきました。・・・・」と言って話を続けようとするので、「私の住まいは練馬で高知に行ってませんし」と遮ると「でも電話番号はあなたになってますし」というから「そりゃ個人情報が洩れているのでしょう、とにかく私には関係ないからそちらで然るべく処理してください」と喋っている最中に、唐突に電話は切れたのであ〜る。

 それで一応警察に届けておこうと「#9110」に電話かけたけどいっかな話し中で、かけ直せと埒があかない。なので、これに触発されてメールで区役所にオレオレ詐欺対策の電話貸借を申請することにしたのだが、それでいったん諦めて他の仕事してから、思い直して16時頃今度は練馬警察署にかけ、用件の「その他:6」を押すと、最初男性が出て、次に女性に替わって、住所、氏名、固定の電話番号を聞かれ、練馬区は被害が多いので、と若干長めに型通りの注意事項を聞く羽目になって、挙げ句、海外からアクセスは別に「国際電話不取扱受付センター」(0120-210-364)に申し込むようにと勧められ、それが終わってようやく電話を切ることできた。

 最後の国際電話の件は、さっきアクセスしたら録音ですぐに終わった。ま、もうあちらに行って日本にかけることもないだろうし、その必要があればケータイでなら通じるだろう。十分有資格者の79歳と78歳の夫婦だから、ま、万全というわけにはいかないが、現段階でとるべき手段はこれで尽くしたわけである。

 

Filed under: ブログ

こんなリール画像がいい

 最初は新鮮だったリール画像だが、あれこれ見ている内に玉石混交だなあという月並みな感想を持つようになった。そんな中、こういうのが相応しいのではと思ったのは、古代エジプトのミイラが生前の姿になるというもので、以下がアメンホテプ2世と3世でのそれだ。https://www.facebook.com/reel/1426723279612147

 同様に、https://www.facebook.com/reel/1689022503228770

 また同様に、https://www.koji007.tokyo/wp-admin/edit.php

 フェイクには違いないが、なんとなくリアルな再現映像のように思えるからだ。似た画像は発掘された骸骨を生前に戻すという手法でよくみつかる。

 あれこれ見ていたら、面白い画像をみつけた。ローマ兵の日常生活のあれこれを漫画的に説明しているシリーズである。一番面白かったのは、戦闘において戦列の先頭者はどのように交替したのかを論じたものだったが(リール映像にしてはえらく長時間だった)、残念ながらその所在は失念してしまった。ご存知寄りの方からの情報をお待ちしている。

 ちなみに、こんな調子である:「ローマ兵はキャンプでどんな生活をしていたのか」(https://www.facebook.com/reel/2159363608320665)

【追記】莫大時間を費やして,ようやく突き止めたぞ。でもリールではなくてYouTubeだったが、スティックマン風ではあった。たぶん原作ではリールだったのでは。「ローマ軍団の最前列に立つとは、実際どんなものだったのか?」日本語版):https://www.youtube.com/watch?v=RgaLjywsts8

 あれこれ検索していてそれに関して面白い記述もみつけた。いつかそれをまとめたいものだ。というより、研究者もたぶん知らないであろうこういった事情をなんでうまくまとめることができているのか、私には謎である。素人馬鹿にならないというべきか、畏れ入った軍事オタクというべきか。

Filed under: ブログ

某市立大学の准教授の学会発表が教え子の卒論と類似

中国新聞 2026/10/21:https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/912723?utm_source=mail&utm_medium=letter_asa&utm_campaign=letter_asa

 これでこの准教授、未来が失われてしまうことになるだろう。

 こういう件が遡上に上がると、部外者にとって「教員がけしからん」と当然のことと思われるだろうが、大昔、10年ほど短大の幼児教育学科で卒業研究にも関わった身からすると、ちょっと微妙なのである。

 指導教員のアドバイスのもと、学生が保育現場にアンケート用紙を送付して調査する(精度を上げるためにはデーター数は多ければ多いほどいい、少なくとも50通はほしい)、その集計結果を統計学的に優位差検定して、何らかの結論を導き出す。このやり方を私も学び多用していた記憶がある。ついでに言うと、私はこのアンケート調査で統計学上の「有意差検定」が必要なことを初めて学んだのだ:例えば、それは3例対1例の場合、安直に3例に軍配をあげるのは統計学上間違っている、ということを含めていて、私のような古代史でサンプル数が少ないのが常態的の場合、表面的な数字の過多では決着がつかないわけで(専門家の同僚に聞いた所、データ数が少ない場合、むしろ研究者の経験値のほうが重要となる、のだそうだ:ちなみに今から40年以上も前の話だが)、以来古代ローマ史で数字を扱った論文をみる場合、有意差検定を経ているのかどうかが気になるようになった。文学部ではこんなこと普通学ばないので、それだけでも幼児教育学科に所属していてよかったと思ったことだった。

 さて今の場合、それが学生の卒業研究になるのは当然として、指導教員も同様の問題意識をもっておれば、その調査結果を自分の発表に加えて触れることは有り得るのでは、と私は考えざるをえないのだ。そもそも学生にそういう調査を勧めたのも、教員がそのテーマに関心をもっているからであって、たださすがにデータがそれのみであれば盗作と言われてもしかたないだろうが、発表データの一部だったら有りかもしれないなとか、共同研究の体裁だったらセーフかな、と。こうしてデータの出所を明示しておけば問題はないように思うのだが、テーマへの親近性ゆえにその手続きをつい疎かにしてしまったり、曖昧にした場合もなきにしもあらず、かもと、つい連想してしまうのである。

 私の主戦場は幼児教育ではなかったので、そんな状況は私の場合幸いにも起こらなかったが、しかし、圧倒的に横文字に依存しての我らの「研究」は、ともすると横を縦にしての「紹介史学」になりがちなことを思えば、自分は本当に「研究」しているのだろうか、あれこれ横文字の元論文をいじくってケチつけたりして、研究している振りしているだけではないか、と時折顧みざるを得ないのである。

Filed under: ブログ

中東の宗教の根源解明か:ユダヤ教、ゾロアスター教

 2026/10/18:NHK BSで「体感!グレートネイチャー:秘境コーカサス! 祈りの大地の絶景群 〜ジョージア・アゼルバイジャン〜」の再放送をやっていた(初回放送日 2025年2月24日)。https://www.web.nhk/tv/an/greatnature/pl/series-tep-J8QQ63X7V1/ep/PNR2LV274R
 未見の方は、是非NHKオンデマンドで視聴されることをお勧めする。

 黒海とカスピ海の間のジョージアとアゼルバイジャンは、地下マグマの動きの造山運動のせいで、特異な自然現象が見られ、その風土のゆえに特徴的な宗教現象が見られる、ということを私は遅ればせながら知った。

 私が特に興味深かったのは、アゼルバイジャンでの「燃える山、泥火山、火の神殿」だった。地中から天然ガスが出ていてそれで大地が燃えているわけだ。映像ではそれが空中で爆発して火柱のようにも見える現象も映していた。泥火山も同じ現象で、ふつふつと浮かんでくる泡(天然ガス)にライターで火をつけると一瞬燃えるわけだ。

 となると私がすぐさま連想したのは、旧約聖書の「出エジプト記」で描かれている現象である。もちろんシナイ半島の聖書記述をその地での事実とみる必要はないが、どこかでの現象が伝わって来て、神の奇跡として借りてきて再述されているのかもしれないな、と。

 そして、アゼルバイジャンの首都・バクーから約20kmの場所に位置している「アテシュギャーフ(Atəşgah)」にゾロアスター教の寺院跡があって観光地となっている。アテシュギャーフとは、アゼルバイジャン語で「火の家」を意味するそうだ。ここでも現象は地下から噴出してくる天然ガスのせいだが、ペルシア起源の炎の宗教ゾロアスター教をすぐさま連想してしまった。ま、イランでは天然ガスでなく地表ににじみ出た石油だったかもだが。

 しかしそんなこと知らなかったのは私ぐらいで、ウェブ見れば6千円ちょっとでの一日ツアー広告が出ているのには、驚いた。https://jp.trip.com/things-to-do/detail/107268103?language=JP&locale=ja_jp&ext-list=city_category_card_ppc&ext-seoslug=azerbaijan-natureanimals&lasttraceid=6b6bbcb9-a310-cc34-ba43-1e2ad1469638

 これもご同様に、すぐさまゾロアスター教の起源と短絡するのは軽率だろうが、超自然現象として古代人が崇めただろうなということは言えるだろう。

 もう10年早く知っていたら、現地に行って実見したかったなあと思ったことだ。

Filed under: ブログ

皇帝マクシミヌス・ダイアのセルビアの「要塞宮殿」?で浴場発見

 柄にもなく、この情報には「長生きはするものだ」と思わされてしまった(以前、ティキヌムのコンスタンティヌス・コインでもそう書いたことを思い出すが (^^ゞ)。ごくたまにではあるが、昔ちょっとやっていた研究と関連する新事実が出てくる場合がある。これも長生きしてたからの僥倖である。

 2026年9月4日発:セルビア東部のヴレロ・シャルカメン Vrelo-Šarkamen で発掘調査を行っていた考古学チームが、「宮殿」の塔の内部に設けられた豪華なローマ時代の浴場を発見した。この浴場は発掘した現地考古学者たちによって、305年から313年までローマ皇帝の一人だったマクシミヌス・ダイアMaximinus Daiaゆかりの邸宅の一部、と断定された。

             ⇩▲Šarkamen

              

 この遺跡は、ネゴティン Negotin 近郊のシャルカメン村から西へ6km、ヴレロ Vrelo 川の左岸に位置している。ここは1889年にフェリックス・カニッツ Felix Kanitz によって初めて記録され、1947年には建築家のジュルジェ・ボシュコヴィッチ Đurđe Bošković が地上の遺構(要塞、橋、左岸の神殿、右岸の浴場)のスケッチを残した。シャルカメンにおける最初の考古学調査は、1975年にネゴティンのクライナ博物館によって行われ、その際、皇帝の彫像の一部(赤色斑岩製)が発見された。研究者たちはこの貴重な石像をテトラルキア(四分統治)時代のものと特定し、要塞については6世紀の初期ビザンティン時代に築かれたものと年代を推定した。この古代末期の居住・記念複合施設は、90m×90mの正方形の平面を持ち、石と装飾的な煉瓦の列を組み合わせた「オプス・ミクストゥム opus mixtum(混合工法)」で壁が築かれている。施設には10基の多角形ないし円形の塔が設けられており、その塔は内径9m、外径15mの規模を誇るのだそうだ。

遺跡全体図:右の四角部分(A)が要塞部 塔⑩発掘以前の航空写真:発掘済み
分、円塔浴場は左下角の円形塔土台   は①、②、⑧で、遺構はさらに北側
(⑩)、その南側をVrelo川        に展開しているはずだが、未着手か
要塞邸宅が小高い丘の南端上にあり、塔⑩が滑落しそうなのがわかる。
円塔発掘中                 発掘後
          加熱室「スダトリウム sudatorium」

 発掘調査により、3つの浴槽(またはプール)と、蒸し風呂として使用された加熱室「スダトリウム sudatorium」が確認された。このシステムの中心には、「プラエフルニウム praefurnium」と呼ばれる炉が設置され、この炉から送られた熱気は「ピラエ pilae」と呼ばれる小さな円柱で支えられた床下空間(ハイポコースト hypocaust)を通って循環する仕組みになっていた。

 もうひとつ興味深いのは、湯を沸かすための銅製ボイラーが設置されていた基部が確認されたことである。ボイラー本体は現存していないが、これは驚くべきことではない。銅は原材料として価値が高く、建物が放棄された後には頻繁に再利用されたからである。まさにそうした理由から、ローマ時代の銅製ボイラーが現存している例は極めて稀であり、現存する最も有名なものの一つはポンペイで発見されたものである。[ローマ市郊外のオスティア・アンティカにも「ミトラス浴場」(I,XVII,2)に同様に基部だけ遺存している件は、すでに触れたことがある]

  このようなローマ式浴場システム balneum は、他の諸遺跡からも確認されてきたが、今回のような円塔の最下層に組込まれた事例は初出である。文字情報では私には不分明な部分があるが(例えば、ボイラーの場所とか)、それも現状では詳細な図面は未発表のためである。さて私が生存中に公刊されるであろうか。

 マクシミヌス・ダイアは、第二次テトラルキア体制の主導者だった東部正帝ガレリウスにより、305年に東部副帝(シリア・エジプト属州担当)として登用された。ガレリウスは母方の伯父だった。彼は属州ダキアのドナウ川周辺生まれの農民だったが、兵士となり伯父の引きもあって順調に昇進したのだろう。308年にリキニウスが正帝となるや(イリリクム・バルカン半島を占有)、コンスタンティヌスとともに”filius Augustorum”(正帝たちの息子)を名乗り、310年のササン朝ペルシアとの戦い後は公然と正帝として振る舞い、311年のガレリウス死後、リキニウスと帝国東部を分有していたが、313年4月、ツィラルム Tzirallum の戦いに大敗北し、小アシアのニコメディアを経由して逃亡、タルソスで再起を図っていたが、8月に死亡した(自殺説もあるらしい)。

Tzirallumはコンスタンティノポリス防衛地点だった

 ところで以上のような地理的政治状況を考えるなら、発掘者たちが主張しているがごとき、マクシミヌス・ダイアがこの要塞邸宅なり浴場なりを常時使用できたという想定はかなり無理がある。当初の6年間は伯父ガレリウスの統治下だったので利用可能ではあったにしても、この地は一貫して彼の統治領域ではなかったからだ(逆に言うと、この遺跡をマクシミヌス・ダイアに帰すなら、その設立年代の上下限は305ー311年となる)。むしろ、この要塞邸宅の西方300mに位置する皇帝霊廟(上記平面図でのB:標高差で要塞邸宅より約20m高い)および奉献用墳丘tumulus(C)を含む記念建造物群をこそ重視すべきではないか。しかもである、後述予定のガレリウス構築の要塞宮殿 Gamzigrad-Romulianaとの類似性を重視するなら(こっちは名実共に宮殿の様相を持っている)、マクシミヌス・ダイアのと言うよりもむしろガレリウスの方が可能性あるように思える。

B=霊廟を南から見る

  それは 1994年から2003年にかけての発掘での豪華な出土品から、名が知られていない彼の母、すなわち皇帝ガレリウスの姉妹皇后のために築かれたものと判断されるに十分な内容だったからだ。1996年に霊廟内から、皇后の火葬遺骨とともに、総重量約250グラムに及ぶ一揃いの金製装身具(ネックレス3点、指輪3点、イヤリング2点、ペンダント1点など)が発見された。遺骨と共に発見されたこの金製装身具に加え、金箔製の奉納板9枚も出土した。これらの板の表面には、テトラルキア(四分統治)時代の金貨(アウレウス)の意匠が浮き彫りにされており、ディオクレティアヌス、コンスタンティウス・クロルス、マクシミヌス・ダイアといった皇帝の名が刻まれていたのである(詳しくは、Edited by Ivana Popovć, ŠARKAMEN:A TETRARCHIC IMPERIAL PALACE THE MEMORIAL COMPLEX, Belgrade 2005)。この場所がおそらく彼女の出生地付近だったのだろうか。

要するに、あの要塞邸宅は皇母の霊廟への参拝に際しての皇帝宿舎として建築されたというべきなのではないか。今日においてもきわめて辺鄙な場所にあることだし、浴場にしても水が豊富な土地柄なのにわざわざ導水渠を構築してのテルメなのは、あるいは温泉ないし鉱泉を引いていたのかもしれない。

 こんな想定がまんざらでもないのは、シャルカメン Šarkamen のこの施設は、実は、ガムジグラード Gamzigrad にある皇帝ガレリウスの宮殿「フェリクス・ロムリアナ Felix Romuliana(ササン朝ペルシアへの勝利後、298年から311年にかけて建設)や、その東約1kmに位置する皇帝とその母ロムラ Romulaに捧げられた聖地マグラMagura の記念・聖域複合施設と呼応するように建設されたとしか私には思えないほど類似しているので、それに関して少しだけ触れておく。両者の高低差はMaguraの方が 60m高い(詳しくは、以下参照:Ed.by Ivana Popović, Felix Romuliana : Gamzigrad, Belgrade, 2011)。マグラには皇帝神格化儀式 apotheosis の基壇があり、ローマ帝国最後の祭礼地だった由。

            ⇧Felix Romuliana                    聖地 Maguraの霊廟他 ⇧

  ガムジグラードは、セルビアのザイェチャル Zajiećar 市、ドナウ川の南に位置する遺跡であり、温泉保養地、そしてユネスコ世界遺産でもあった。この地には、ダキア・リペンシス Dacia Ripensis 属州において皇帝ガレリウスによって建設された、古代ローマの宮殿と神殿からなる複合施設「フェリクス・ロムリアナ」Felix Romuliana が存在する。主要エリアの広さは10エーカー(40,000平方メートル)に及ぶ。初期の探検家たちは、この古代遺跡をローマの軍事キャンプだと考えていたが、1953年以降に行われた体系的な考古学調査により、この場所が実際には皇帝の宮殿であったことが明らかになった。この施設は、四分統治(テトラルキア)体制の一角を担った皇帝ガレリウスによって構想・建設された。ガレリウスはダキア系の出自で、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの養子かつ義理の息子でもあった。彼は、ササン朝ペルシアへの勝利によって名声と栄光を手にした後の298年、自身の生誕地を記念するために建設を開始したとされる場合もあるが、その名「フェリクス・ロムリアナ」は、ダキアの異教信仰の巫女でもあった母ロムラを偲んで名付けられたているので、生母がらみだったと見たほうがいいかもである。こうしてこの神殿と宮殿の複合施設は、主に3つの目的を果たしていたのだろう。すなわち、神格化された母を崇拝する場所、皇帝としての自身の功績を称える記念碑、そしてガレリウスのための豪華な別荘。ロムリアナは5世紀半ばにフン族によって略奪され、その歴史を閉じるまで存続した。

 このロムリアナRomulianaの遺跡群を東側から見下ろしているマグラ Magura の丘がある。その頂上には、それぞれ2基の霊廟 mausoleum と「トゥムルスtumulus」と呼ばれる墳丘があり、皇帝を神々の列に加える「アポテオシスapotheosis」という神秘的な儀式が行われる場所だった。西暦305年頃、ガレリウス帝の母ロムラがこの霊廟に埋葬されたと推定されている(息子は311年に死亡し隣りに埋葬された)。この構造物は高さ約12メートルあった。現在それらは廃墟となっているが、その部材は後期ローマ時代のロムリアナ建設に流用されたと考えられている。

  皇太后ロムラの霊廟に付属しているトゥムルスは、直径30メートル、高さ最大2メートルの石の環で囲まれた区域で、その内部からは木製の火葬用壇(薪の山)が発見された。このトゥムルスは当時の皇帝や皇族が神々の列に加えられる「神格化apotheosis」の儀式が行われた場所だった。しかしこの場所で焼かれたのは蝋(ろう)で作られた像であり、実際の遺体が焼かれたわけではない。

 2つ目のトゥムルスは、皇帝ガレリウスの霊廟からほど近い場所にあり、石の基部の上に高さ8.5メートルの盛土が施されていた。高さ約10.5メートルの円錐形をなすこのトゥムルスの上には、3段構造の火葬用壇が設置されていた由で、伝承によれば、ロムリアナの構想者である皇帝ガレリウスが神格化され、神となったのもこの場所だった。

  なおこの両地点、シャルカメンとガムジグラードの相関関係を見ておこう。両者は直線距離で約44km離れている。

 この両構造物がいずれもGalerius領に存在するということを根拠に彼の主導説を採用するなら、東部正帝という権威の下で彼が母と姉妹の埋葬と神格化をおこなったということになる。もちろんそこにマクシミヌス・ダイアも参列しただろうが。

Filed under: ブログ

国内初、新潟県糸魚川でラピスラズリ発見

https://mainichi.jp/articles/20260303/k00/00m/040/231000c

2026/3/3 毎日新聞

 アフガニスタン東北部がほぼ唯一の産地で、交易によって古代ギリシアやローマ、中国、日本の正倉院などにも伝わり、古来珍重されてきた瑠璃色のラピスラズリが、予想外の地糸魚川で発見された。ここはこれまで翡翠(ひすい)の産出地として著名だったが、これまでの収集品に青い石が含まれていて、国立科学博物館(茨城県)が昨年6月にそれを解析したところ、ラピスラズリと判明した。アフガニスタン産とは鉱物の組み合わせが少し異なっており、糸魚川産と特定された。

 古代・中世の地中海世界で靑色顔料として珍重されてきたので、私も教材としてそれらしき石片を1つ購入している。さて、どこで購入したのかは忘れてしまったが。

Filed under: ブログ

コロッセオ近くの高校体育館地下からローマ時代の邸宅出土

 ローマのコロッセオの北300mに位置しAnnibaldi通りに面した「カヴール理数系高校」 Liceo Scientifico Cavourの体育館の床下から1800年前の邸宅 domus の遺跡が再確認された。

 以下の写真からもかろうじて確認できるように、これまで1940年代や1950年代の落書きも色々書かれていて、生徒には以前から知られていて地下探険の肝試しの対象だったようで、今年の1月に生徒から打ち明けられた女性教師が考古学管理当局に報告して明るみに出て、それが公表されたのは5月末だった(別説では、コロナ禍の2021年)。本格的な発掘はこれからのようである。

 厳密に言えば、この遺跡はかつて19世紀後半に宣教団の本部が建設された際に知られていたし、この複合建築の一部は、1895年に行われたアンニバルディ通り(Via degli Annibaldi)の建設工事の際に姿を現していたが、すっかり忘れ去られていたらしい。

 この邸宅は、西暦2世紀半ば(約1800年前)のものとされ、サムニウム地方出身の裕福なウンブリウス(Umbrius)家の人物が所有していた可能性が高いと見られている。土に埋もれていたせいで保存状態もよく、ヴォールト(アーチ状の天井)を持つ部屋、保存状態の良い淡い色の漆喰、人物や植物が描かれた壁のフレスコ画、装飾的な漆喰細工、そして上流階級の邸宅に見られるモザイク床などが残っている由。

 ことほど左様に、帝都ローマにおいてはとにかく地下を掘ればかならず何か出てくるわけで(地下鉄C線工事のベタ遅れを思い出すだけでいいはずだ)、その意味でワクワク感も満載であるが、文化財当局は、この広大な地下遺跡を一般公開する計画を立てており、生徒たちがツアーガイドを務める可能性もある由。なによりの実物教育である。

 この遺跡はすでに「カヴール高校の邸宅」Domus Liceo Cavour と呼ばれているらしい。

Filed under: ブログ

エディンバラ大学、牧師養成向けの神学学士・修士課程廃止へ

https://b.bme.jp/17/846/7839/4844

2026/9/30 スコットランド国教会における重要な聖職者養成学部大学院だったエディンバラ大学であるが、このたびグラスゴー大学にその学部大学院が統合移管されることになり、廃止されることになった。全体的な組織改革の一環である。

 なお、この記事の末尾に、「この記事は、英国クリスチャントゥデイの記事を日本向けに翻訳・編集したものです。一部、加筆・省略など、変更している部分があります。」との注意書きが附されていて、内容がかなり微妙との印象を私は受けざるを得なかった。

Filed under: ブログ

シチズン・サイエンス?:出でよ素人研究者

 2026/9/29:NHK総合「クローズアップ現代」「あなたも歴史的発見?市民と科学の新時代」

 AIの発達とオープン・データの公表により、専門知識がない一般人も歴史的発見が出来る可能性が開けてきた。詳しくは以下参照:https://datazoo.jp/n/あなたも“歴史的発見”?+市民と科学の新時代/25442934

 なんとも皮肉なのは、専門家はいわば〇〇村の共通語に縛られて、それが枷になって先に進めないのだが、一般人はそういう思い込みから解き放たれているのが幸いして、そのうえ、趣味的に多数の一般人が参加することで、個人営業的な研究者にはとうてい不可能な網羅的検証も可能となったわけである。

 AIを駆使した新発見の可能性の追求は、我々には、ナスカの地上絵での山形大学の坂井正人教授の手法としてすでに知られているわけであるが、それがずぶの素人さんにも道を開くという今回の報道はなかなかのド迫力で、研究進展の新傾向として注目すべき動向であった。

 となれば、研究者ってなんなのさ、という問いかけも再燃してこざるをえないよね。

 

Filed under: ブログ