コロナ騒ぎの中で新たな造語「インフォデミック」が生まれたが、情報操作という意味ではたぶん人類発祥以来の課題であろう。
「「コロナは存在しない」偽情報が奪う命:政治家の「情報操作」疑惑も」(https://mainichi.jp/articles/20210115/k00/00m/030/294000c)
「国家ぐるみの偽情報にどう立ち向かう?:インテリジェンス研究者に聞く」(https://my.mainichi.jp/articles/20210115/k00/00m/040/319000c)
人は信じたい情報を信じてしまう、そういう存在である。だから「すべてを疑え」ということになるが、それだけでは何も答えになっていない。
我々の日常生活ではふだん生死に関わるような局面は全くないと言っていい。今般の新コロナみたいな状況下でこそ心眼が試されるわけであるが、我らど素人がとれる方策には、100年前に日本だけで40万人近く死亡者を出したスペイン風邪の教訓とそう違いがあるわけではない、と私などつい思ってしまう(当時はウイルスなどの存在は知られていなかったにもかかわらず:同列に扱う我ら愚民恐るべし!)。しかも今回、現在までの死亡者数4420名(全世界で200万人強)なのである。騒ぎすぎ、という以下の記事は示唆的である。昨年7月段階での新聞記事:「正しく恐れ行動冷静に:スペイン風邪研究者・小田泰子さんに聞く」(https://www.kahoku.co.jp/special/spe1215/20200708_01.html)。それ以上に、この10回の連載記事「100年前からの警句」(https://www.kahoku.co.jp/special/spe1215/index.html)での、状況に翻弄されている世情も、まるで今をなぞっているかのようだ(そのように記者がまとめているのだろうが)。
ケネディとニクソンのテレビ対決ではないが、テレビの登場で政治家の顔が日常的に露出し出して、国民である視聴者にすら彼らの言葉の持っている軽重が表情からも自ずと判断できるようになった。安倍の嘘答弁然り、管の空虚な発言然り。信頼できない政治家たちをこんな時もってしまった不幸を、我ら愚民としては嘆かざるを得ない現実がある。
それでふと思い出したが、帝国臣民が初めて現人神である天皇陛下の肉声に触れたのは、敗戦時のラジオでの玉音放送だった。この衝撃的ともいえる事実を現在の我々はどれほど体感的に理解しえているであろうか。遡ること一世紀、写真の発明でご真影はあったし(明治天皇など多分に修正されていただろうが)、1890年代に映画も発明され、1927年にトーキー映画も出現して、国威発揚におおいに利用されていたにもかかわらず、なのである。
神は沈黙してこそ威厳を保つことができるのだ。