月別: 2019年7月

オランダで新約聖書関連の新銘文発見?:cohors II Italica

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2019/07/inscribed-roman-road-marker-found-in.html#Tl8zOm57yVzwEmEp.97

 昨年の9月に、オランダのLeiden・Katwijk間をつなぐRijnland Route自動車道路工事中にValkenburg近くで125mのローマ道が発掘され、そこから合計470本の木材の柱が出てきたが、そのひとつから「COH II CR」と彫られた銘文が発見され、このたび公表された。

(https://www.dutchnews.nl/news/2018/09/roman-road-artifacts-found-during-digging-for-a-new-motorway/)

 年代は後125年頃の由。発掘者によってこの銘文は「Cohors II Italica Civium Romanorum」(ローマ市民たちのイタリア第2大隊)を示していると考えられているようである。碑文ではVoluntariorumが付く場合もあるので、「志願者のローマ市民たちのイタリア第2大隊」というのが正式名称というべきか。とはいえ部隊名確定のポイントとなる「Italica」が今回の場合ないので、さて。cohorsは一般的に500人強の規模だったようなので、ここでは「大隊」という訳を当てておこう。

 なぜこれが話題になるかというと、キリスト教がらみだからである。新約聖書の「使徒行伝」10.1に「カイサレイアにコルネリオスという名前の男がいた。イタリア隊と呼ばれた部隊の百人隊長である」(1)とあるからに他ならない。この部隊についてはこれまで色々論じられてきたが、一般にこれまで安直にそう想定されてきたローマ正規軍たる軍団legioについての通説(共和政的イタリア半島的視点)とは異なって、帝国東部では、ユリウス・クラウディウス朝期からすでに必ずしもローマ市民権を持つ兵士によって構成されていたわけではなかったと考えられている。ちょっと考えてみれば当然のこと、東部にローマ市民権保有者は少なかったのだし、まあ江戸時代の旗本株を購入して、といった裏技もあっただろうし。すなわち、部隊の主体兵士は属州で徴募され、であれば今の事例も正規軍団の分遣隊と解することも、補助軍auxiliaであった可能性も生じてくるはずだ。要するに、帝国東部では一般軍団兵士はローマ市民権を保有していない属州民、とりわけ社会的上昇に意欲的だった解放奴隷からなっていたのが現実と思われるが(私は西部でも、市民権の売買や養子といった抜け道もあって、いかにもイタリア的に大いに活用されていたと想像している)、また補助軍の場合、おそらく指揮官や上級将校には正規軍団あがりの退役兵(ローマ市民権保有者)が再就職していたかもで、もしそうだったとしたら現代と通底する実情となっていて面白い。逆に、イエスの生涯などを描いた映画では、えてしてローマ正規軍団兵として登場している在ユダヤ・ローマ軍分遣隊の実態は、この補助軍だったと考えるのも一興であろう。ま、だからこそ本来非軍団駐留属州のユダヤの地にコルネリオスがいることができたわけである(cf., ヨセフス『ユダヤ戦記』II.13.7:カイサレイアの地の部隊の大半はシリアから徴募した者たちだった)。

 というのも、ヘロデ大王以後第一次ユダヤ戦争にいたるまでに、カイサレイアのユダヤ駐留ローマ軍部隊は、シリア駐在のローマ軍団の分遣隊で、具体的には一騎兵大隊(ala I Sebastenorum)と5歩兵大隊(少なくともその1つがcohors I Sebastenorum)の総勢三千で構成されていたようだからだ(ヨセフス『ユダヤ戦記』II.3.4)。これについてはやはり新約聖書に平行記事がある。それが「使徒行伝」27.1で、イタリアに出航するとき、パウロとほか何人かの囚人がセバステ部隊の百人隊長でユリウスという名の人物に委ねられた(2)。しかし逆にそれを補助軍からの分遣隊と見ることも可能のはずである。上記2史料でシリアとセバステと異なった地名・名称が登場しているが、整合性をとる立場からすると、シリアで徴募され大隊名がセバステ[このギリシア語はラテン語のAugustaの翻訳とみる説と、サマリアの地名セバステとする説があるようだ;但し、その語源はご同様にアウグストゥスではあるが]だったと考えておこう。いずれにせよ当然その運用指揮権は実質的にユダヤ総督が持っていたはずである。

 もしこの新約聖書での部隊が今回出土銘文のそれと同一だとするなら、大変貴重な発見で、同時に彼らの移動距離が従来よりも相当広範だったことになるが(たいたいが、シリア方面だったが、オーストリア東端のカルヌントゥムから碑文が出土している(3))、しかし、今回出土の銘文は単に「COH II CR」なので、新約聖書の部隊と同一と考えていいのか、現段階ではやはりちょっと首をかしげておいたほうが無難なのかも知れない。続報を期待しつつ、ここにも宝が埋もれている予感がするが、私は老い先短いがゆえに、これ以上深入りするのは後輩にお任せしたいと思う。

(1) Ἀνὴρ δέ τις ἐν Καισαρείᾳ ὀνόματι Κορνήλιος, ἑκατοντάρχης ἐκ σπείρης τῆς καλουμένης Ἰταλικῆς

(2) εἰς τὴν Ἰταλίαν, παρεδίδουν τόν τε Παῦλον καί τινας ἑτέρους δεσμώτας ἑκατοντάρχῃ ὀνόματι Ἰουλίῳ σπείρης Σεβαστῆς.

(3) CIL III.13483a(cf.p.2328,32), ILS 9168. cf., Michael P.Speidel, The Roman Army in Judaea under the Procurators:The Italian and the Augustan Cohort in the Acts of the Apostles, Ancient Society, 13/14, 1982/3, pp.233-240.

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映画:バイキング

 チャンネル回したらやっていたので、いつも途中からで3度目くらいだが、見ている。「VIKING バイキング:誇り高き戦士たち」(2016,ロシア映画) 。

 題名とはうらはらに、キエフ公国興隆のきっかけをなしたウラジーミル1世(10-11世紀)の前半生の話で、しかしまあ彼が親族争いからスカンジナビアに逃れて、そこの傭兵(ノルマン人だったらしい)と共に帰国して兄を破ってキエフ大公になったという経緯があるのでバイキングなんだろう、か。

 これを見ていて興味深く学んだのは、権力と結びついた支配者の守護神の件である。まあこのテーマそのものは陳腐な話にすぎないかもしれないが、映画では、野蛮な父の神を埋めて新たな守護神を建てた兄、その彼を殺して父の神を復活させたものの、正嫡でない負い目の中で生き残るために、南から進出してきたビザンツ帝国と同盟する中でキリスト教を受け入れるという、そのプロセスが、きれい事ではなく,私にはなかなか説得的に表現されているように思えたことである。同様の視点で、フランク族のクローヴィス改宗など見直すべきなのは常道だろう。

 こうしてウラジミールはキリスト教会で後世、聖人と讃えられることになる。権力者で生き残るためにはより大きな権力への忠誠の証しとしてその守護神を受け入れるという段取が不可欠であることが、後進の未開のロシア側からの視点から描かれているからの見どころである(この点、勝利者キリスト教側から描かれるとどうしても視点が大甘になる)。

 また、当時の軍隊の実態が、実質的に報酬目当ての傭兵集団であって、だから勝利の見込みが薄れると当然のように去っていくわけで、それをつなぎ止めているのが文字通り金だったあたりも説得的に描かれていて、まあこのあたりが、古代のそれに、現代の軍隊制度を刷り込み勝ちな私には重い教訓としなければならないところであろう。

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アウレリウス・ウィクトル最新完訳版

(但し、日々語句改訂中。誤訳・脱文等のご指摘大歓迎:いまだときどき見つけますので(^^ゞ なお、第39章24節〜第42章25節の訳註付きは、2019年11月発行予定の『上智史學』第64号に掲載予定です)

セクトゥス・アウレリウス・ウィクトル
『皇帝列伝:アウグストゥス・オクタウィアヌス以来の略史、
すなわちティトゥス・リウィウス(の書)の末尾(前二七年頃)から、
正帝コンスタンティウスが一〇度目、かつ副帝ユリアヌスが三度目の執政官職
(三六〇年)までの(略史)』

第1章
1-1:ほぼfere首都(創建後)七七二年目【前三一年】に、今やetiamローマで一人(の人物)にひたすらprorsus服従すべしとの慣習が生まれた。なぜならnamqueオクタウィアヌスは、オクタウィウスを父とし、その上atque、大伯父との養子縁組によってカエサルの、そのうえacまもなく領袖たちの決議で、諸派閥への(彼の)派閥の勝利が控えめに行使されたことにより、アウグストゥスの添え名で呼ばれたがdictus、(それは)彼が金品で兵士たちを、その上atque、穀物管理の見せかけで大衆vulgoを差配し、他の者たちをもまったく困難なく屈服させたからだった。

1-2:そのようにしておよそcirciter四十四年間が経過し、彼は病をえてノラで逝去したconsumptus。(その間)市民たちの帝国にラエティアとイリュリクムが加えられ、そのうえac(帝国)外の諸部族のgentium凶暴さは、ゲルマニアを除き沈静化された。

1-3:にもかかわらずヌマの後の三人目として、(彼は)アントニウスを打ち負かすと、ヤヌス(神殿の門)を閉じた。それはローマ法によって諸戦争が鎮まると起きたことだった。

1-4:性癖的にかの人物は市民的で魅力的だったが、まったく節度がないほどの贅沢三昧と諸競技に熱中し、その上atque、睡魔には抑制がきかなかった。

1-5:(今と違って)たくさんいた学者たちと(その)取り巻きたちに(彼は)大いに敬意を払っていた、(それは彼が)雄弁の研究とそのうえac諸々の宗教儀礼に驚くほどmire惹かれていたからであった。

1-6:彼は寛容さゆえに国父で、そのうえac終身護民官職権tribunicia potestate perpetuoを有していた。そのため(彼を)神に、ローマと全属州でのきわめて活気のある諸都市を通じて、(彼の)生存中と死後を問わず、諸神殿、諸祭司団sacerdotes、および諸神官団collegiaが聖別していた。

1-7:とりわけadeo彼は幸運に恵まれfelix[子供たちと、やはりtamen同時にsimul結婚は別だったが]、インド人、スキュタエ(スキュタイ)人、ガラマンテス人、そのうえacバクトリア人が諸使節を派遣して、同盟を嘆願したほどだった。

第2章
2-1:次いで、クラウディウス・ティベリウス・ネロは、アウグストゥスの子供たちの中に継子から養子縁組で迎え入れられていたが、恐れていたことどもが(杞憂で)十分にsatis安全であると気づいてから帝権を受け入れたが、かの(アウグストゥスなる)称号は策略的に拒んでいた。狡猾で必要以上に秘密主義の彼は、しばしば偽って殊にmaxime欲していたことどもを嫌ってみせ、嫌悪していたことどもに欺瞞的に専念したりした。本性的にはingenio突発的なことにはるかに鋭敏だった。はじめこそ良かったが、その後(彼)は有害となり、ほぼfereあらゆる年齢性別に対し非常に手の込んだ情欲を持ち、その上atque、無実だろうとなかろうと厳しく罰し、(これは)自分の身内であるなしに関わらず同様だった。

2-2:そのうえつまりadhuc dum、諸都市や諸集会を忌み嫌うあまり、カプレア(カプリ)島を諸々の破廉恥行為を隠すために求めた。

2-3:それゆえquare軍事的諸学芸をなおざりにしたので、ローマ法juris(の下)の多くの場所が強奪されたdirepta。(治世)劈頭のカッパドキアを除くと、何ひとつ属州として屈服させられておらず、(それですら)アルケラウス(アルケラオス)王が退けられたからだった。ガエトゥリ族の諸々の盗賊行為が押さえ込まれたが、彼らは頭目duceタクファリナスの下で至る所を襲撃していた。

2-4:同時にsimul、スエビ人の王マロボッドゥスは巧妙な計略ではめられた。加えて近衛大隊が集結させられた。(それまで)近くの諸自治都市municipiisや、あるいはローマ(市内)で諸々の邸宅に分散宿営していたのを、彼は首都隣接の陣営内に移した。彼はそこで(近衛大隊を)掌握すべく近衛長官職の称号を与え、また(その職権を)強化した。これに対しnam、身辺警護隊員の別の者たちと首都警護隊員たちを設立したのは、アウグストゥスである。

第3章
3-1:かくしてigitur(ティベリウス・)クラウディウスは熱病ないし諸々の奸計により押し潰された。そのとき彼は帝権を三と、その上atque、二〇年(二十三年間)行使しegisset、八〇歳に一歳足りなかったが、添え名カリグラなるガイウス・カエサルが、皆から熱望されて選ばれる。(それは)祖父たちと父(ゲルマニクス)への敬意のゆえだった。

3-2:なぜならnamque、(アウグスティヌスの)娘を通じて曾祖父がアウグストゥスで、母方の家系にアグリッパが、ドルススがゲルマニクスの父で、(カリグラは)彼(ゲルマニクス)から生まれ、彼ら(アウグストゥス、アグリッパ、ドルスス)が祖先だったからである。

3-3:彼らの慎み深さと、その上atque、オクタウィアヌスを別にしての時期尚早の突然の滅亡に(加えて)、大衆vulgusは同時にsimul(カリグラの)母と兄弟たちの(死)にも同情していた。ティベリウスが彼らをさまざまな死で命を奪ったからである。

3-4:その理由で、あらゆる者がこれほどの家系のfamiliae没落を青年へのadulescentuli期待でなだめようと努めたわけで、その後たまたまtum quia彼は軍隊内で生まれ[そこから彼は添え名を軍用靴にちなんで得ていた]、諸軍団にとって愛らしくかつ受け入れられていた。

3-5:加うるに、彼はきわめて聰明だったので、誰もが彼ら(祖先)に似るだろうと信じていた。だがそれは、まったく期待とは裏腹がいわば自然法naturae legeであるかのように、しばしばまるで意図したかのごとく、悪人たちが善人たちbonisから、野育ちの者たちがより教養ある者たちから(生み出され)、他のことどもでも同様で、また逆も真なのである。

3-6:ついにはdemumその先例から賢人たちの多くが、子供たちなどいない方がよりましだと考えるに至った。

3-7:しかもなおceterum、カリグラにおいては、彼らはそれほど間違ってはいなかった。実際、彼は長い間精神の狂暴さを慎み深さと、そのうえac見せかけの従順さで覆い隠していたので、その結果正当にもmerito人口に膾炙したように、彼よりより良い従僕たちはfamulosいなかったが、彼ほど残酷な主人もいなかった。

3-8:要するにdenique、職権を手に入れた彼は、このような諸々の本性(を持つ者)が近頃常にそうであるように、その年の数か月間諸々の偉業を、民衆に対し、元老院議員らの内部で、兵士たちと共に司った。そしてある陰謀が報告されると、とても信じられないかのように、(そんな陰謀は)自分にふさわしくない、なぜなら(自分の)生命など誰にとっても負担あるいはaut厄介でないからだ、とやっとのことで公言していた。

3-9:しかし突如、最初はさまざまな悪行で無実のごくわずかな者たちを粉砕してからはcaesis、あたかも獣が生き血を飲み干すかのように本性をむき出しにし、こうしてその後三年間が過ぎたがconsumptum、その間元老院と、その上atque、最良者たちoptimi各々のたび重なる災難で地球はterrarum orbisひどく損なわれた。

3-10:むしろ今やetiam、姉妹たちを凌辱し、そのうえac既婚貴婦人たちを弄んでは、神々の装束を着て歩き回っていたが、それは「予は近親相姦によってユピテル神であり、しかるにバッカナリアの合唱でリベル神なり」と主張するためだった。

3-11:かと思えばneque secus、ゲルマニア内に踏み込む期待で一ヶ所に諸軍団を集結させた挙げ句、二枚貝や巻き貝を大海【大西洋】の岸辺で拾い集めるよう命じたりもした。

3-12:その際彼自身、あるときは流れるようなウェヌス女神の衣装で(兵士たちの)間に立ち、またあるときは武装して、自分への戦利品(貝殻)は人間たちからではなく天界から獲得したものだと強弁したが、明らかにこのような類いの魚(海産物)をギリシア人たちの呼ぶところにしたがいーー彼らはあらゆるものを大げさに言いたがるのだがーー、ニンフたちの瞳と彼は解釈したのである。

3-13:これらのことで増長して、(自分のことを)ご主人様dominusと呼ばせdici、その上atque、支配の標章を頭に巻き付けようと企てるに至った。

3-14:それが原因で、カエレアを首謀者として、鼓舞された者たちmotiーー彼らにはローマ人の武徳が宿っていたーーが、かくも恐るべき破滅からpernicie彼を刺殺して国家を(専制政治から)解放した。タルクイニウスを追放した際のブルトゥスの卓越した偉業が再現されたことだろう、もし真のローマ人においてただ軍隊がそれを行ったのであれば。

3-15:しかしながら(実際は)市民たちは怠惰にも外国人と蛮人を軍隊に徴募する欲望に取りつかれ、道徳は退廃し、自由は押し潰され、その上atque、所有への欲求は増大していた。

3-16:とかくするうちにinterim、つまりdum元老院決議により今やetiam女性たちも含めた皇帝たちのCaesarum部(氏)族とgentemすべての縁戚関係を武装兵たちが捜索していて、たまたまforteウィミウスなるエピルス(エペイロス)生まれの(近衛大隊)歩兵所属の百人隊長がーー彼らは宮殿でしかるべき拠点で見張っていたーー、身を潜めていた(ティベリウス・)クラウディウスをぶざまな隠れ場所で見つけ出し、彼を引きずり出して、仲間たちに向かって叫んだ、「お分かりか、元首であらせられる」と。

3-17:そしてなるほどsane彼は(精神的に)より一層常軌を逸していたのでvecordior、きわめて扱いやすいと洞察力のない人々に見られていた。そのことが伯父ネロ(ティベリウス)の邪悪な気質に対して援軍auxilioとなり、兄の息子カリグラにおいても嫉妬とならなかった。むしろ今やetiam彼は兵士たちと平民militares plebisqueの精神をanimos掴んでいて、つまりdum、彼への(一族の)目にあまる専制で、彼自身はきわめて哀れむべき存在と同情すらされていた。

3-18:そのようなこと、そして多くのことが突如思い出され、誰も躊躇することなく彼をそこにいた群衆trubaeが取り囲み、同時にsimul他の兵士たちmilitumとかなりの大衆vulgiが殺到してきた。それを元老院議員たちが把握するや否や、(自分たちが)この企てausumを鎮圧可能かどうかと、すぐさまocius(人を)派遣する。

3-19:しかし、さまざまなそして忌むべきtetrisque諸反乱seditionibusで共同体と全身分が引き裂かれてしまった後なので、いわばtamquam帝権からの(命令であるかの)ように全員が(彼に皇帝として)委ねたのである。

20:こうしてローマでは王的職権が強固となり、そしてより平易に露見されたのは、死すべき存在(人間たち)の努力など運命の女神fortunaにとってかくも空しく、そして打倒されてしまうcaesosqueということだった。

第4章
4-1:かくしてigiturクラウディウスは、恥ずべきほど胃(の腑の食欲)に従順にもかかわらず、等しく常軌を逸し、その上atque、忘れっぽくて臆病な精神でanimi、そしてきわめて怠惰だったにもかかわらず、多くのことを恐怖によってにせよ、特にpraecipue貴顕階層の諸助言にたいして、やはりtamenすばらしい配慮を示していた。その階層を彼は畏怖していたので尊重したのだった。実際quippe、愚か者たちの諸々の本性は、こうしてproinde助言者たちの意のままに行動するaguntからである。

4-2:要するにdenique、よき後見人たちによって彼においては諸悪徳が、そのうえacガリアにおいてはドルイド僧たちの悪名高い迷信が押さえ込まれた。可能なかぎりの有益な諸法juraが提案された。軍事的職務も遂行され、諸国境は維持され、ないしローマ帝国に(新たに)以下が委ねられた:東方ではメソポタミア、北方ではレヌス(川)とダヌビウス(川)、そして南方ではマウリ人が諸属州に加わったが、(最後のものは)ユバのあと王たちが廃されたことによる。そしてムスラミイ人の軍勢manusが粉砕されたcaesaque。同時にsimul極西では、ブリタンニアの各地が粉砕されたが、彼はブリタンニアのみを訪れ、オスティアより海路進発した。これに対してnam、他のところ(の征服)は将軍たちがduces遂行したのである。

4-3:そのうえさらにadhuc、穀物供給の欠乏が解決された。それをカリグラが引き起こしていた。つまりdum彼は、全世界から船舶を駆り集め、海上通路をmare previum諸劇場と諸戦車のため公共的損失をしてまでも造ろうと頑張っていたのだ。

4-4:かと思えばneque secus、人口調査を新たにおこない、元老院から多くの者たちが追い出されたがmotis、ある軽薄な青年がadulescensいて、彼を自分たちにとって素晴らしいと親が主張したのでそのままにした時、彼(クラウディウス)は正しくも付け加えたものである。父親こそ子どもたちにとって監察官なのだから、と。

4-5:だが彼は配偶者メッサリナの、そして同時にsimulque彼が身を任せっきりだった解放奴隷たちの甘言により堕落へと引きずられていった際に、ただ暴君たちのそれらだけでなく、しかしながら、夫や主人が愚かであれば、女性たちや、その上atque、奴隷の最も愚かな部族ができそうなことを犯したのだった。

4-6:なぜならnamque、かの妻は最初至る所で当然のごとく姦通をおこなっていた。そしてそれで、非常に多くの者たちが身内もろとも消滅させられたexstincti。それは本性あるいは恐怖から(彼女の誘いを)断ったからである。つまり女性たちのよく知られた手練手管でartibus、彼女がかつて言い寄った者たちを自分に言い寄ったと告発したせいである。

4-7:その後dehinc、より凶暴になった彼女は、より貴顕な女性たちを、結婚していようが処女であろうが、娼婦のように自分とともに売春させ、男たちも参加を強いられた。

4-8:そしてこのようなことを恐れる者がいたら、犯罪をでっち上げて彼自身と家系familiam全体に残酷極まりなく振る舞った。

4-9:なぜならnamque、クラウディウスは、上で我々が示してきたように、天性非常に怖がりだったので、彼らは、彼に恐怖、ことにmaxime共謀への(恐怖)を吹き込むことによって、悩ませていたからである。そのような策略で解放奴隷たちさえも今やetiam彼らが望んだ者たちを破滅へと追いやった。

4-10:彼らは、最初は(メッサリナの)諸々の悪事を黙認していたが、女主人と対等とされるや否や、彼女をもまた、主人も知らぬうちに、しかしあたかもやはり(彼が)命令したかのように、護衛兵たちをsatellitesたち通じて殺害した。

4-11:そしてなるほどsane、(その)女性は次のようなところまで進んでしまった。つまり、精神(趣味)animusとそのうえac愛妾たち(に会う)ために夫がオスティアへと出立している間に、彼女はローマで結婚式を他の男と挙げてしまった。それでこのため(彼女は)より悪名を高めたのだが、つまりdum不可思議にmirum思えるのは、彼女が皇帝の(目と鼻の)先で皇帝以外の男と結婚したことである。

4-12:こうして、最高職権を手にした解放奴隷たちは、淫蕩、追放、殺戮caede、財産没収によってあらゆることを損ない、そして家長(クラウディウス)の愚かさを駆り立て、その結果かの老人は兄弟の娘(小アグリッピナ)との結婚を渇望するまでに至った。

4-13:彼女は先妻よりも一層理不尽とみなされていたとしても、そしてそれゆえidcirco同様の(運命)に怯えてもいて、毒薬で配偶者(の皇帝)を片付けてしまった。

4-14:彼の(統治)六年目にーー彼は一四年間統治したがーー、首都創建八〇〇年祭が驚くほどmire(の規模で)祝賀され、そしてアエギュプトゥス(エジプト)ではフェニックスが目撃された。うわさではその鳥は五〇〇年ごとにアラビアから名高い諸所へ飛来するとのことである。その上atque、アエガエウス(アイガイオス)海の中に突如巨大な島が、ある晩に出現した。それは月蝕defetus lunaeが起こった時のことだった。

4-15:しかもなおceterum、(クラウディウスの)葬儀funusは、かつてのタルクイニウス・プリスクスのように長らく秘匿され、つまりdum女性の手練手管でarte堕落した番兵たちcustodesは、(彼を)病人に見せかけ、その上atque、彼によってとかくするうちにinterim、継子ーー彼(ネロ)を彼はほんの少し前に子どもたちの中に受け入れていたーーに国家の管理を任されたと(偽って見せかける)。

第5章
5-1:かくのごとき方法で、ルキウス・ドミティウス[これに対して(というのも)namそれが断然certeネロの名前で、父はドミティウスだった]が皇帝とされた。

5-2:彼ははるかに若くして義父に等しい年数専制政治をdominatum司ったgessisset。やはり(はじめの)五年間は、首都をurbe殊にmaxime飾ったので、正当にもmeritoトライヤヌスはきわめてしばしば証言したものである、すべての元首たち(の統治)はネロの五年間にはるかに及ばない、とその期間に今やetiamポントゥス(ポントス)を属州法のjus provinciae下に、ポレモ(ポレモン)の許可によって移動させた。その彼のために彼(ネロ)はポレモニアクス・ポントゥスと呼ばれているappellatur。そして同様にコッティアエ・アルペスもコッティウス王の死により、そうなった。

5-3:それゆえ、年齢が武徳にとって障害にならないことは、これから十分にsatis確認できるcompertum。(だが)放縦によって本性が堕落すると、それ(武徳)は容易に変化し、そしてその消失はいわば若気の至りの法則のように、より危険になって戻って来るものなのだ。

5-4:なぜならnamque、彼(ネロ)はその類の不品行で残りの人生を過ごしたのでegit、かくのごとき人物についていささかなりとも思い出すのは不快かつ忌まわしい、まして(彼は我が人類)部(氏)族のgentium指揮者rectoremであったのだ。

5-5:彼は、つまりdum会衆者たちを前にギリシア人の発明による冠をかけての競技大会certamenにおいて竪琴を弾き始めた挙げ句、次のようなことにまで進んでしまった。すなわち、自分と他人の貞節に容赦せず、最終的にextremum結婚する乙女たちの見せかけでベールを身にまとい、公然と元老院で婚資を与えられ、皆が祝祭の慣わしで祝う中、あらゆる怪物どもから選り抜かれた者との手権婚にin manum同意したのである。

5-6:それはなるほどsane、彼においてきわめて些細なことと見積もられるべきである。

5-7:実際、犯罪者のように拘束された者たちに対して野獣の皮を被った彼は、(男女)両性に対し(彼らの)生殖器に顔をこすりつけたり、男どもを去勢してより重大な破廉恥行為に及んだのだから。

5-8:その上atque、これらの中でも彼が母親すら今やetiam汚したと多くの者がみなしているが、つまりdum彼女もまた専制欲に駆られていて、悪事がなんであれ息子を服従させようと熱望していた。

5-9:それをにもかかわらず著作家たちは種々証明に及んでいるので、私は真実だとみなしている。

5-10:なぜならnamque気質に諸悪徳が浸蝕するとinvaserint、人間たるもの、羞恥心から外的関係に結びつこうとは決してしないものだからである。罪を犯す習慣、新奇さそして彼により甘美さをもたらすものは、最終的にはextremum彼の身内の者たちの中でin suos果たされるagit。

5-11:そのことは彼ら(二人)によってより以上に露見された。つまりdum、あたかも一種の進歩であるかのように、彼女(アグリッピナ)は他人たちから叔父との結婚へ、その上atque、他人たちの拷問から夫の死mariti exitiumへと、(他方)彼(ネロ)のほうは漸次、ウェスタの巫女、それから自分自身へとin sui(進み)、最後に両者ともども彼らの身内での悪事scelusへと経過した。

5-12:だがかくのごとき(悪徳の)魅惑にもかかわらず、やはりtamen彼らは一体となれず、それどころかそれで彼らはがむしゃらに振る舞い、つまりdum互いに奸計を巡らした挙げ句、先手を打たれて母のほうが亡くなった。

5-13:かくしてigitur彼はあらゆる人の法juxと神の掟fasを親族殺しで摩滅させ、そのうえacますますmagis magisque最良者たちの中でin optimos荒れ狂ったので、多くの者たちはなるほどsane様々な時宜に国家を解放するために共謀した。

5-14:それらが露見し粉砕されるとcaesisque、一層粗暴になった彼は、首都を焼き払いincendio、平民は至る所に放たれた野獣たちにより、元老院をも同様の死で廃棄することを決議し、(王的)支配という新しい座を求めだしたが、そのうえそれは殊にmaximequeパルティア人のある使節が刺激したためだった。彼がたまたま宴会の中にいた時、いつものように宮廷楽士たちが演奏していたが、(使節は)自分用に竪琴奏者を一人(もらいたい)と(ネロに)求めたところ、彼には自由が与えられている(からだめだ),というのが返答で、(ただしネロは)付け加えた、「もしわが身内の者たちの中でほしい者がおれば差し上げよう」と、宴会の参加者たちを示しながら、「帝権のもとではいかなる者も自由を委ねられていないのだから」と言った。

5-15:そのうえac、ヒスパニアを統治していたガルバが自分の死exitinumが(ネロにより)命令されたことを知って、たとえ老年にもかかわらず、帝権を奪い取って(国家を)救済しなかったなら、もっと多くのことを(ネロの)悪行imperioが疑いなく成し遂げていただろう。

5-16:しかしながら、彼(ガルバ)の(ローマ)入城で、去勢された一人の男を除いて、彼(ネロ)はまったく見捨てられた。かつてその彼を去勢して女性に形作ることを企てていたのだが。彼は自らを一刺しした。それは、長らく殺害者(が現れること)を哀願していたのだが、そんな死への役目をたしかにqidem誰も引き受けようとしなかったからである。

5-17:これがカエサルたちの部(氏)族のgenti終わりだった。そうなるだろうと予兆の多くが告げていた。そして特にpraecipue、彼らの地所で諸凱旋のために聖別されていた月桂樹の聖林が枯れ、その上atque、雌鶏たちが滅亡した。それら(雌鶏)はとりわけadeo多くいて白く、諸々の宗教儀礼により適していたので、それらのためにローマで今日でも場所が確保されているほどである。

第6章

6-1:しかし、ガルバ、彼は非常に傑出したスルピキウス部(氏)族の出のgenteまさしく貴顕であるが、その彼がローマに入ったとき、あたかも贅沢あるいはaut残虐さをも援軍にしてやって来たかのように、彼は強奪し、略奪し、荒廃させ、そのうえac嫌悪すべきやり方であらゆるものを荒らしvesto汚してしまった。

6-2:これらの事どもによってさらに忌まわしくなった彼は【つまりdumもっと穏やかに配慮するだろうという期待を持った人々がよりひどく感情を害していたのだが】、というのは同様に、兵士たちからの支援を(ガルバの)過度の金銭への欲望が弱めたので、オトが首謀者となって殺害されてしまう。彼(オト)は彼(ガルバ)の養子縁組でピソが優先されたことにとうてい耐えられず腹を立て、扇動されそして武装した(近衛)大隊を広場へと率いて行った。

6-3:そこに、(リンネルの)胴鎧でおおってガルバが騒擾を鎮めるために急いでやって来たが、クルティウス沼そばで粉砕された、帝権の七か月と、そのうえac七日目のことだった。

第7章

7-1:かくしてigiturサルウィウス・オトは、ネロのかつて恥ずべきことに親友であったが、青年期の終わりからそう時を経ずしてより偉大となり、主権を奪取した。

7-2:それをほぼ八十五日間予見されたやり方で掌握した彼は、その後、ガリアから下って来たウィテリウスによりウェロナの戦闘で敗走させられ、彼自ら自決した。

第8章

8-1:こうして、アウルス・ウィテリウスに職権が移されたが、より汚れたそれは、このような始まりで(その方向に)進行していったことであろう、もしウェスパシアヌスがもっと長い間ユダエア人との戦争ーーそれを、ネロの命令により招来されたのだがーーにかかずらわっていたならば。

8-2:彼はガルバによる事績と彼自身(ガルバ)の制圧(という情報)を受け取ったとき、同時にそれゆえモエシアとパンノニアの諸軍の使節たちが(決起を)促すべく来たのに応じて、帝権を獲得する。

8-3:実際先述の兵士たちは、オトが近衛兵たちによって、ウィテリウスがゲルマニア諸軍団によって(皇帝と)なったことを確認後、対抗心に駆られてーー彼らの間では常のことであるがーー、自分たちが(彼らに)劣っていると見られないために、ウェスパシアヌスを強く促したのだった。彼(ウェスパシアヌス)にすでにシュリアの諸大隊は(彼の)経歴の卓越性のため同調していた。

8-4:実際ウェスパシアヌスはレアテに祖先を持つ新家系のnova familia元老院議員だったが、勤勉さと、平時とそのうえac戦時における事績によって、大いに貴顕であるとみなされていたのである。

8-5:彼の軍団司令官たちがイタリア内に越えてきて、クレモナでの自軍の敗走で、ウィテリウスは首都長官サビヌス、彼はウェスパシアヌスの兄だが、(その彼と)一億セステルティウスで兵士たちを証人として帝権放棄を約定した。しかしほどなくして、それが詐欺だとある情報から推測し、ほとんど怒りに任せて、彼自身(サビヌス)と敵対党派の他の者たちをカピトリウムもろともーーそこを彼らは安全のための避難場所に確保していたーー焼きつくした。

8-6:とはいえ、それらのことが真実であり、そのうえac敵の接近が明らかになると、彼(ウィテリウスは)は隠れていた門番の小屋から引き出され、近親殺害者たちへのやり方で束縛されてゲモニアの階段へと(連れて行かれ)、階段を引きずられた。可能な限りの方法と人による殴打で、彼は肉体を刺し貫かれティベリウス(河)へと放り込まれた。それは暴君の八ヶ月目のことで、彼は生まれて五〇と七年(五十七年間)以上だった。

8-7:手短かに私が言及してきたこれらすべての者たち、特にpraecipue皇帝たちの部(氏)族はgens、とりわけ文学的教養と、その上atque、雄弁術において秀でていたので、もしあらゆる悪徳でアウグストゥス以外の彼らが過度に陥らなければ、ことに(彼らの)諸学芸は疑いなく取るに足らぬ破廉恥行為を覆い隠したはずである。

8-8:彼らの事績より、性癖moresが勝っていることは十分明白であるにもかかわらず、しかしながらいかなる良き者にもbono、とりわけ最高指揮者には、両方がもし可能ならば等しく必要なのである。しかしもしそうでなければ、人生の計画など果てしなく後退するので、(指導者たるもの)少なくとも優雅さの、その上atque、学識の権威を受け入れるべきなのである。

第9章

9-1:同様にこのような家系の出だったウェスパシアヌスは、あらゆることにおいて高潔で、気付いたことを明らかにする弁舌の才に欠けることはほとんどなく、長らく出血し疲弊した地球をterrarum orbemしばらくして元の状態に戻した。

9-2:というのも最初は、暴君のtyrannidis追従者たちをsatellitesーーもし彼らがたまたまひどく凶暴でなければだがーー、拷問にかけて抹殺するよりも、転向させるほうを彼は選んだ。非常に賢明にも彼は、邪悪な諸々の犯罪行為は多くの者によって恐怖によって遂行される、と考えていたからだ。

9-3:それから多くの悪事が犯罪の罰を免れて消え去ることを彼は黙認していたが、彼が(以前から)そうであったように親切にも、無知なる凡愚どもに、どれほどの重荷と煩わしさが帝権に内在しているかを示しながらであった。

9-4:同様に諸神事に傾倒していた彼は[それらの真実性を多くの業務により確認していた]、後継者たちに子供たち、ティトゥスとそのうえacドミティアヌスがなるであろうことを信じていた。

9-5:加えて、非常に公正な諸法令とlegibus注意喚起により、そしてより有効にも、(自分の)生き様の見せかけによって、悪徳の多くを減らしたのだった。

9-6:だが、ある者たちが、(現在)誤ってみなしているように、金銭に対しては小心であった。とはいえ以下は十分明白である、国庫のaerarii窮乏と、そのううえac諸都市の破滅により、それほど長期間ではなかったが、彼は新たな国庫収入の課税をpensio求めたにすぎないのだ。

9-7:実際、ローマではカピトリウムーーそれが炎上したことを我々は上記で言及したがーー、平和の神殿、クラウディウスの諸記念建造物、円形闘技場など数多くの壮大なもの、それに他の多くのものや、そのうえac(彼の)広場(の建設)を彼は開始するか、完成させたのである。

9-8:さらにローマ法が及ぶあらゆる大地にomnes terrasおいて、諸都市は素晴らしい洗練さで再建され、諸街道は最高の技術により開通され、フラミニウス街道では山々が(トンネルを)掘られて、通行がたやすくpronoなった。

9-9:これほど多くのことがしばらくして、農民たちを使役せずに成し遂げられたconfectumことは、(彼の)貪欲さよりも思慮深さを証明した。同時に人口調査が古き習いに従って実施されて、元老院から恥ずべき者たちが順にquisque追い出され、そのうえacあらゆる所から最良の人物たちがoptimis uiris選ばれて一〇〇〇の部(氏)族gentesが整備された。(その中から)やっとのこと二〇〇(の元老院身分)を見いだしたというのも、暴君どものtyranuorum冷酷さによって多く(の家系)が消滅させられていたためだった。

9-10:そのうえac、戦争によってパルティア人の王ウォロゲススは和平を余儀なくされ、その上atque、パラエスティナという名だったシュリアは属州となり、ユダエア人もまた配下となったが、それは息子のティトゥスの努力による。彼を、イタリアに移動する(時に)彼(ウェスパシアヌス)は対外軍事行動のために残し、しばらくして勝利者となった(ティトゥス)を近衛長官職に昇進させていたのである。

9-11:この顕職はやはり最初から有力であったのだが、より一層おごり高ぶり、その上atque、正帝から二番目と帝権に関してなった。

9-12:しかしながらこのご時世(現代)では、つまりdum諸顕職のhonorum品位は見下され、良き者たちに無教養な者どもが、そのうえac賢明な者たちに役立たずたちが混在し、多くの者どもが統治権でpotentiaその名を空虚にし、そしてみじめな者たちに傲慢に振る舞い、誰であれ最悪者に服従を余儀なくさせられ、穀物供給という見せかけで(実は)強奪が行われているのだ。

第10章

10-1:しかもなおティトゥスが帝権を手に入れて以来、とても信じられないことだが、彼(ティトゥス)が真似ていた(ウェスパシアヌス)を、とりわけ文芸において、そして寛容さにおいて、そのうえac諸々の責務においてはるかに凌駕していたことである。

10-2:要するに、先行元首たちによる承認事項は後継(元首)たちによって追認されるべしとする慣習があったのだが、彼は帝権を獲得するやいなや、これらのことを保有者たちに一つの勅令によって自発的に担保し、そして(将来のために)あらかじめ備えたのだった。

10-3:同様に苦もなく、(ティトゥスは)たまたま自らに対し陰謀を企んでいた者たちを見張る用意があった。それはとりわけadeo、最高位の二人の者が計画していた悪事を否定することができず、元老院議員たちが告白者たちに関して処刑すべしと決意したときのことだが、見世物に連れて来られた彼らを(ティトゥスは)自分の両側に座るように命じ、意図的に剣闘士ーー彼らの戦いを見に来ていたーーの剣を求め、(刃の)鋭さを調べるように、一方と、その上atque、もう片方に(剣を)委ねた。

10-4:彼らは打ちのめされ、そして(ティトゥスの)志操堅固さに感嘆するのだった。「見たかね」と彼は言う、「諸職権は天命によって委ねられ、そして無益に(権力を獲得を)企てるという希望や失う恐怖によって悪行が犯されるのだよ」。

10-5:こうしてita二年とそのうえacほぼ九か月後に、円形闘技場の工事が完成してから、入浴した彼は毒によって生涯の四〇年目に亡くなった。一方(彼の)父は七〇年目に没していたがobisset、皇帝として一〇年間(統治した)。

10-6:なるほどsane彼の死はとりわけ諸属州の民にとって大きな悲しみであったので、人間種族の至宝と(諸属州の人々は)呼んで、(彼が)いなくなってしまった世界を嘆き悲しんだ。

第11章

11-1:かくしてigiturドミティアヌスは、兄にして、その上atque、最良の皇帝の殺害により、私的かつ公的な悪事によってさらに狂乱した彼は、同時に堕落した青年時代において略奪、殺戮、処刑を行ない始めた。

11-2:諸々の情欲を伴った破廉恥行為によって、そのうえacより大胆になった彼は、傲慢以上のもので元老院議員たちを利用したのである。というのも、彼は自らを主人にして神と言わせ始めたからである。そのことは速やかに後継者たちによって退けられたが、ずっと後により堅固になって次々に復活された。

11-3:しかしながらドミティアヌスは,初めは寛容さを装いつつとりわけadeo怠惰ではなかったので、内政でも戦争でもdomi belloqueより忍耐強いとみなされているほどであった。

11-4:そしてそれゆえidciroque、ダキア人とカッティ人の軍勢に完勝した際には九月と一〇月を、ゲルマニクスと前者を、自分自身の名から後者を呼んでいたのだった。父によって、あるいは兄の熱心さによって始められた多くの工事を、その上atque、ことにinprimisカピトリウムを完成させた。

11-5:それから良き者たちの諸殺戮によって凶暴となった彼は、滑稽なほどに無気力と化してすべての者を遠くに退けてからハエの群れを追いかけていた。それは情欲にふけって精力が消耗した後のことであったが、その恥ずべき実践のことをギリシア人の言葉で「寝台の格闘」κλινοπάληνと彼は呼んでいたのである。

11-6:これゆえ、多くの冗談があった。たとえば、宮殿に誰かいるかと尋ねた人に、次のような返答があった。「一匹のハエもたしかにいないよ、ひょっとして格闘技訓練場ではないかな」と。

11-7:こうして彼はますますmagis magisque冷酷さにおいて極端となり、自分の身内の者たちによってすら一層不信の目で見られていたのだが、解放奴隷たちの助言によって、妻ーー彼女は役者の愛を夫より好んでいたーーも(その陰謀を)知らなかったわけではなかったのだが、生涯の四十五年目、専制のおよそ一五年目に諸々の処罰を受けることとなった。

11-8:ところで元老院は剣闘士の方式で葬儀を執り行って、(彼の)名前を削り取るべして決議した。

11-9:そのことによって動揺したmoti兵士たちがーー彼らには諸々の私的便宜が公共の出費によってたっぷり及んでいたのでーー、殺害の首謀者たちを罰することを彼らの習慣でより扇動的に嘆願し始めたのだった。

11-10:彼らは気乗りせず不本意であったが、賢明な者たちを通じて抑えられてやっとのことでvix最良者たち(に)敬意(を払うこと)に同意した。

11-11:同様に彼らによって戦争が企てられていたのだが、それは、方向転換した帝権は物惜しみのない贈り物による諸役得の略奪のために彼らにとっての悲嘆であったからであった。

11-12:このときまでローマかイタリア生まれの者たちが帝国を支配していたが、このときから外国人も(支配することとなった)。たぶんプリスクス・タルクイニウスに見られるようなはるかにより良い人物たちを私は知らない。

11-13:そのうえac、多くのことを聞き読んできた私にとって、たしかに以下のことはまぎれもなく確認されるcompertum。すなわち、首都ローマが異国人たちの武徳と、その上atque、外から持ち込まれた諸学芸によって特にpraecipue成長したことは。

第12章

12-1:というのも、誰がクレタ人ネルウァよりも聡明で、そして殊にmaxime温和であったというのであろうか。

12-2:彼は非常な高齢でセクアニ人の地(にいたのだが)ーーそこに暴君(ドミティアヌス)を恐れて退去していたーー、帝権を諸軍団の恣意により獲得したが、(自分より)肉体的にも精神的にも勝っていて、強靱な人々によってでなければ(帝権は)司れないと知覚したとき、六とそのうえac一〇か月目で自らそれ(帝権)から退位した。それ以前に(現在)「通路」Perviumと呼ばれている広場をforo奉献し、そこにはミネルウァ神殿が(他以上に)突出しかつ華麗にそびえていた。

12-3:常に褒めるに値することではあるが、あなたにどれほどの事ができるにせよ、野心でがむしゃらに追い立てられないよう判断すべきで、他方帝権においてもとりわけadeo死すべき者ども(人間)は熱望のあまり、それを非常な老齢にある者でさえ貪欲に求めるものである。

12-4:この点、彼は(そういう判断能力を)付与されていて、後継者(トライアヌス)の武徳について、それがいかほど賢察だったかを、ますますmagis magisque明示すべきなのである。

第13章

13-1:というのも、ヒスパニアの都市イタリカ生まれながら非常な高位で、その上atque、執政官職の地位にあったウルピウス・トライアヌスを、彼は養子縁組に受け入れて(帝権を)委ねたからである。

13-2:彼よりわずかでもaegre内政ないし軍事においてdomi seu militiaeより傑出した者を見出すのは難題であろう。

13-3:実際彼は初めて、それどころかaut(現在まで)この人のみがローマの諸力をイステル(ドナウ河)の向こうまで拡大した。すなわち、ダキア人たちのフェルト帽をかぶったそして豊かな[粗野な]諸民族nationibusや、デキバルス王、そのうえacサルドニ人がひとつの属州内に馴致された後の事であった。同時に太陽の昇る地(東方)においては周知のインドゥス河とエウフラテス河流域の間にいるあらゆる諸部族gentesが戦争によって弱められ、その上atque、コスドロエスという名のペルシア人の王に対し人質たちが命じられ、そしてそれら(の地)の中に未開諸部族をtentes通る一本の道路が建設されたが、それによって(今日においても)容易にポントゥス海からガリアまで移動できるのである。

13-4:諸要塞が(防衛上)懸念がありあるいはaut攻撃を受けやすい場所に建設され、一つの橋がダニビウス(河)に架けられ、そのうえac諸々の植民都市のためにcoloniarum多くの人々が移住させられた。

13-5:そのうえ彼は、ローマでドミティアヌスによって着手された広場、その上atque、他の多くのものをより立派に手入れして飾りつけた。そして永続的な穀物供給の決議を驚くべきことに製パン挙動組合に提案して確立した。同時に公益のため国家のどこであれ起こっていたことをより迅速に知らせるべく、公共駅便を運用した。

13-6:無論、(その維持は住民からの租税の)責務が十分に活用されてのことだったが、(それも)ローマ世界の破滅の中で、後世の者たちの貪欲と傲慢により変わり果ててしまった。だが、ここ数年イリュリクム道長官アナトリウスが軽減したことでその諸力が十分なものとなっていることは除く。

13-7:とりわけadeo国家にとって良い悪いはなにもないわけだから、属州長官たちのやり方次第で反対に変えることができなことなどありはしない。

13-8:彼(トライアヌス)は公正にして寛容で非常に忍耐強く、その上atque、友人たちに対して非常に義理堅く、実際親友スラのためにスラナエという建築物を聖別したほどであった。

13-9:彼は(自らの)高潔さに自信を持っていたので、スブラヌスという名の近衛長官に、そうするのが習慣であったのだが、職権のpotestatiaしるしである短剣をpugionem委ねたときには繰り返し次のように諭したほどであった。「汝にこれを私の警護のため委ねる、もし私が正しく行動しているのなら。もしそうでなければ、それ以上にmagis私に対して用いよ」と。なぜなら万人の統治者が間違いを犯すほうこそ、正当性がないからである。

13-10:むしろ彼は酒好きーーその悪徳にネルウァと同じく苦悩していたのだがーーもまた思慮深さにより克服したが、それはかなり長い宴会のあとで出された諸命令を遂行するのを禁止してからのことであった。

13-11:これらの武徳によりほとんど二〇年にわたり帝権を行使して、アンティオキア(アンティオケイア)とシュリアの他の諸所での大地震のterrae motu絶望的状況によって彼は衰弱し、元老院議員たちの懇願によってイタリアに引き返す途中に高齢で亡くなった。その前に帝権に一市民にして近親であるハドリアヌスが受け入れていた。

13-12:それ以降、副帝たちと、その上atque、正帝の称号は分けられ、そのうえac国家に次のことが導入された。つまり、二人あるいはそれ以上の者たちが種々の最高統治権を持ち、家族名と職権において異なったものとなった。

13-13:にもかかわらずquamquam他の者たちは、トライアヌスの妻プロティナの(ハドリアヌスへの)偏愛により帝権が獲得されたとみなしていて、(それを)彼女は夫の遺言によって支配相続人に定められたように見せかけたのだ、と。

第14章

14-1:かくしてigiturアエリウス・ハドリアヌスは雄弁術とトーガをまとう仕事のほうにより適していたが、東方で和平を整えてローマに帰還する。

14-2:そこでギリシア人たち、ないしヌマ・ポンピリウスのやり方で諸々の儀式、諸法令、諸体育場、教師たちを差配し始めた。

14-3:とりわけadeoたしかに、有能な人々のための諸学芸のための一つの学校、それを人々はアテナエウムと呼んだのだが、

14-4:それを彼は創設し、その上atque、ケレスとリベラの秘儀、それらはエレウシナと名付けられているが、それをアテナエ人の方式でローマにおいて執り行うほどだった。

14-5:その後、平穏な状況では常のこととはいえ、より怠惰になった彼は田舎の所有地ティブルに隠棲し、首都を副帝ルキウス・アエリウスに託した。

14-6:(そこで)彼自ら、幸福で富裕な者たちにとってそれが習いとはいえ、諸宮殿を建設し、宴会、彫像、絵画を差配したのである。とうとう彼は、あらゆる事どもを十分念入りに調達するようになった、(といっても)それらは放蕩でふしだらなものだったのだが。

14-7:かくして諸々の悪いうわさが発生した。すなわち、彼が青少年たちと淫蕩に身を投じていたと、その上atque、アンティノウスの悪名高い犯罪行為に身を焦がし、(あげく)他の諸理由からではなく、彼(アンティノウス)の名前による一都市を建設したり、それどころかaut(かのギリシア的な)青年のためにephebo諸立像を(各地に)設置したことである。

14-8:それらをたしかにある者たちは、慈悲深くかつ信心深い(行為)と思い込んでいる。というのはハドリアヌスが天命の延長を切望したとき、魔術師たちは(ハドリアヌスの)身代わりとなる一人の志願者を求めたが、全員が尻込みした時、アンティノウスが自らを差し出した、と彼らは記載している。それ故に彼に上述の諸儀礼が(行われたのだ、と)。

14-9:我々はその件を未解決のまま残さざるをえないが、にもかかわらず本性的にいい加減な(彼のような人物の場合)、(彼ら=ハドリアヌスとアンティノウスのように)年齢がはるかに離れた関係(もありではと)我らは見積もるからである。

14-10:その間に副帝アエリウスが死んだ、彼は精神的にあまり優れておらず、そしてそれゆえidircoque軽蔑的に扱われていたのだが、(ハドリアヌスは新たに)副帝を選出するために元老院議員たちを召集する。

14-11:彼らが急いで集まっているとき、たまたまアントニヌスが老齢の舅あるいはaut父親の足取りがおぼつかないのを片手で支えているのを見た。それを見て驚くほど喜んだ彼は、(アントニヌスを)諸法令でもって副帝に採用するよう、そして直ちに彼(アントニヌス)の名前で元老院のかなりの部分が殺害されるべしと命じる。(というのは元老院を)彼は嘲笑の的にしていたからである。

14-12:それからほどなくして、彼はバイアエで癆症によって亡くなったが、それは帝権(にあること)二十二年目に一ヶ月足らずで、かくしゃくとした老年だった。

14-13:しかし元老院議員たちは元首(アントニヌス)の懇願にもたしかに、彼(ハドリアヌス)に神君の栄誉honoremを授ける件で決して心を動かされなかった。それほどまでに、多くの自分たちの(元老院)身分の人物たちを失ったことを悲しんでいたのだ。

14-14:しかしその後すぐさま彼らの死が悲嘆であった人々が突然現れて、自分たちの(親族を)抱きしめたので、拒絶していた(ハドリアヌスの神格化)を決議する。

第15章

15-1:かくしてアウレリウス・アントニヌスにピウス(敬虔なる者)の添え名が(与えられた)。この者をほとんど諸悪徳の破滅は汚していなかった。

15-2:彼は非常に古い家系の、自治都市ラヌウィウム出身の人物で、首都の元老院議員であった。

15-3:とりわけadeo彼は性格的に均衡がとれていて有徳だったので、彼が明瞭に示したのは、永続的な平和とそのうえac長期の平安によってすら揺るぎなき諸々の本性は堕落しないし、そして彼により、もし英知の諸支配が存在するなら、諸都市はついには幸運(に恵まれる)、ということであった。

15-4:要するに、同じ人物は二〇年間国事を遂行したのだが、(帝権を)持続し、首都創建九〇〇年目を壮麗に祝った。

15-5:はからずも、彼は諸凱旋式の欠如のゆえに怠慢とみなされているけれど、それはまったくそうではない、というのも疑いなくより重要なのは、誰も敢えて確立された秩序を乱さないこと、自分自身を誇示するために自分自身の(名声の)ために戦争を平穏な諸部族に行わないということであるのだから。

15-6:そのうえ彼は、男(の子たち)に恵まれなかったので(自分の)娘の夫でもって国家に配慮したのである。

第16章

16-1:というのも、マルクス・ボイオニウスーー彼はアウレリウス・アントニヌスと呼ばれ、同じ町の出身で同様の貴顕の出であり、まさに哲学と雄弁術への熱意において格段に際立っていたーーを、家系familiamと、その上atque、帝権の中に受け入れたからである。

16-2:彼(マルクス・アウレリウス)のすべてのことは、神意により内政と軍事(の両方)において行動され決議された。それらを妻の統治の無思慮が汚していたのであるが。なぜなら彼女は(以下のように)たいへんな好色さへとのめり込んでいたからである。彼女は、カンパニアに滞在した際に水夫たちから(相手を)選ぶ目的で海辺の心地よい諸所に居座った。なぜなら彼らの多くは裸で働いており、(彼女の)破廉恥行為にとってより一層都合よかったからである。

16-3:かくしてigiturアウレリウスは、義父がロリウムで生涯の七十五年目の後に亡くなると、速やかに兄弟であるルキウス・ウェルスを統治権の共有に受け入れた。

16.4:その彼(ルキウス・ウェルス)の指揮によって、ペルシア人は最初優位にあったにもかかわらず、最終的にはウォロゲスス王の時に勝利を許すこととなった。

16-5:ルキウスは日ならずして亡くなる。そのため彼が血縁者(マルクス・アウレリウス)の策略に嵌められたという作り話の材料となった。

16-6:うわさでは、彼(マルクス・アウレリウス)は彼(ルキウス・ウェルス)の諸々の事績への嫉妬で悩まされ、食事中にある計略を行ったのだ、と。

16-7:というのも彼は片面に毒を塗った小刀ーーそれが意図的にひとつだけ置かれていたのだがーーで豚の子宮の一片を切り分け、その一片を食べてから、親しい者たちの間で常であるように、毒が触れてあったもう一方を兄弟に差し出したのである。

16-8:これらは、これほどの人物においては、悪事へと傾きがちな諸精神抜きなので、信じることはできない。

16-9:というのも、ルキウスはウェネティアの都市アルティヌムで病死したこと、そしてマルクスには聡明さ、柔軟性、高潔さ、そのうえac文才が備わっていたことはよく知られていて、マルコマンニ人を息子コンモドゥスーー副帝として代行していたーーとともに攻撃しようとしていた彼は、懇請する哲学者たちの集団に取り囲まれたことがあった。彼らは、諸学派で(決着が)困難で、そのうえac未解明(の諸論点)について彼が説明する前に、遠征あるいはaut戦いに身を委ねないようにと(懇願したのである)。

16-10:かくのごとく戦争の諸々の不確かさが彼の安全を(脅かしかねないと)して、学問の諸研究によって恐れられていたのである。そして彼が支配していた間は良き諸学芸がartes非常に栄えたが、(それは)諸時代における彼の栄光だと私はみなしている。

16-11:諸法令のあいまいさもおどろくほど解消された。そして再出頭保証契約vadimodiumの習慣を廃止して一日のうちに訴訟を通告して執り行うべしという法が適切にも導入された。

16-12:万民に区別なくローマ市民権が与えられ、多くの都市が創建され、植民され、現状修復され、装飾を施されたが、その上atque、ことにinprimisポエニ人のカルタゴーー火災が無残にも被害を与えていたーーと、地震でterrae motu崩壊したアシアのエフェスス(エフェソス)と、そのうえacビテュニアのニコメディア(ニコメデイア)ーーそのうえac我らの時代においてケレアリスの執政官在職年にも(地震があったが、それと)同じニコメディアーーがそうだった。

16-13:諸凱旋式が次の諸民族から(の勝利で)行われたが、それら(の民族)はマルコマルス王のもと、カルヌントゥムという名のパンノニアの都市からガリア人の中心部まで広がっていた。

16-14:こうして帝権の一八年目に、生涯にわたりきわめて壮健だった彼はウェンドボナで、すべての死すべき運命にある者(人間)たちの多大な悲嘆の中で、亡くなったのだった。

16-15:最終的に、他のことでは別々に別れていた元老院議員たちと、そのうえac大衆がひとつにまとまって、諸神殿、諸円柱、祭司たちを決議した。

第17章

17-1:だが息子(コンモドゥス)は始めから暴力的専制によってきわめておぞましくみなされていたが、特にpraecipue(彼の)父祖たちの記憶と正反対の(ことをやった)時にそうだった。その記憶は後世の者たちにとってとても重大で、不敬な者たちへの一般的は嫌悪とは異なり、あたかも(自分たちの)家系の破壊者たちであるかのように、より一層彼らは呪うことになるのである。

17-2:彼はたしかに戦争については精力的だった。それをクアディ人に対して上首尾に行われたので、九月をコンモドゥス(の月)と呼んでいた。

17-3:彼はローマの統治権にふさわしくない諸家屋をやっとのことで入浴に用立てるため建てた。

17-4:彼はひたすらprorsus生来残忍かつ粗野でferoqueあったので、とりわけadeoたしかに剣闘士たちを見せかけの闘いでしばしば惨殺した。その際、彼自身は鉄製の、対戦者たちは鉛製の【なまくら】刃を使用したのである。

17-5:そしてそのような方法で彼が多くの者たちを屠っていた時に、たまたま(そんな)彼に対し、名をスカエウァという者ーー彼は、勇敢さとそのうえac肉体の強壮さ、そして戦闘の技にarte熟達していたーーが、(コンモドゥスの)かくのごとき道楽に冷や水を浴びせた。彼(スカエウァ)は役に立たないと見極めた剣を放棄して、彼(コンモドゥス)自身が武装していたその(剣だけあれば奪い取るので)両者ともに十分だ、と言う。

17-6:それで恐れをいだいた彼(コンモドゥス)は、試合の中で常に生じがちな(ことだが、)短剣をもぎ取られて屠られないようにconficereturスカエウァを(対戦相手から)退け、その上atque、他の者(剣闘士)たちをとても恐れて、野獣や猛獣(の野獣狩り)に凶暴さに方向転換するようになった。

17-7:そのような事どもで血に飽くことを知らない者(コンモドゥス)を皆が恐れ、彼に対して殊にmaxime近親の者が(各々)陰謀を企んだ。実際quippe専制に対してとりわけadeo忠実な者などおらず、彼自身の取り巻きどもすら(実は)そうなのである。つまりdum、彼らによって(専制者たちの)統治権は維持されているのだが、彼ら(取り巻きども)が冷酷さに走りがちな(専制者の)淫らなpronos気質にmentem用心しているうち、いかなる方法ででも(彼を)倒すほうがより安全だと考え出すものなのだが、コンモドゥスをたしかに(その通りに)最初ごく秘密裏に毒殺しようとしたのだった。支配のほぼ三と、その上atque、一〇年(一三年目)のことだった。

17-8:(しかし)毒薬の効果は、(コンモドゥスが)たまたま腹を食べ物で満たしていたために(希釈され)台無しになった。しかし彼が胃痛を訴えたので、医学の専門家で、(当の)陰謀の首謀者の指図によって、彼は格闘技訓練場に急行した。

17-9:そこでマッサージ担当の下僕によってーーというのもたまたま彼も計画に関与していたからだがーー、喉をあたかも(レスリングの)技のようにarte両腕を結んでかなり激しく圧迫されて、彼は息絶えたのだった。

17-10:そのことを知ると元老院はーーヤヌスの祝祭(正月元旦)のために夜明けに全員集合していたのだがーー、(そして)平民たちも同様に、(彼を)神々と人々の敵(と認定し)、その上atque、その名の抹殺を承諾した。そして速やかに首都長官アウルス・ヘルウィウス・ペルティナクスに帝権が委譲される。

第18章

18-1:彼(ペルティナクス)はあらゆる学識と、そのうえac非常に古風な習慣を持ち、過度に吝嗇で、(その点で)クリウス家とファブリキウス家に匹敵していた。

18-2:彼を兵士たちーー彼らには、すでに世界が疲弊して衰弱していても、何ごとも十分だと思えなかったーーは、ディディウスが扇動者となり、(ペルティナクスを)帝権の八〇日目にむごたらしく刺し殺した。

第19章

19-1:だがディディウス【あるいはサルウィウス?】・ユリアヌスは、近衛軍兵士たちを当てにしていた、彼らにかなり法外な諸々の約束で関係を強いていたからであるが、夜警隊長官職から専制政治のdominatus諸顕章へと進み出た。

19-2:彼の家系は貴顕で、都市法の知識で際立っていた。実際彼は多様かつ拙劣に法務官たちによって提示されていた勅令を順序正しく整理した最初(の人物)だった。

19-3:ここから十分確認されているのはcompertum、功名心を抑制するのを本性が支えなければ、博識は無力ということである。

19-4:というのも、苛酷な指導者がたしかにより正しく生きるべきところ、悪行へと進んでしまうなら、それは新罰則で償われるべしと、彼は布告していた。だが彼は熱望(していた権力)を長く我が物とすることはできなかった。というのも、彼(ディディウス)に起こった事ども(の情報)を受け取ると直ちに、セプティミウス・セウェルスーー彼はたまたまシュリア総督として大地の果てでextremis terris戦争を行っていたーーが皇帝に選出されてミルウィウス橋付近の野戦で完勝したからである。そして(セウェルスにより)派遣された者たちは、逃亡者を追跡し、ローマの宮殿で討ち果たしたのだった。

第20章

20-1:かくしてigiturセプティミウスは、ペルティナクス殺害の際、諸々の破廉恥行為への憎しみと同時に、悲嘆と、その上atque、怒りでかき乱されて、近衛大隊を直ちに軍務から解き、(反対の)党派のすべて(の人々)を粉砕し、ヘルウィウス(ペルティナクス)を元老院決議で神君たちの間に記載する。サルウィウス(ユリアヌス)の名と、その上atque、彼の諸著作あるいは事績が廃棄さるべく命じる。(だが)彼はそのことのみ成し遂げることができなかった。

20-2:それほどまでに諸学芸の学識へのdoctarum artium敬意は力を持っていたので、著述家たちにとって(専制者の)蛮行すらたしかに記憶の邪魔とはならないのだ。

20-3:いなむしろ、このような類いの死は彼ら(著述家たち)自身にとっては栄光(のきわみ)で行為遂行者には呪詛となる。

20-4:すべての人々、特にpraecipue後世の者たちはかくして、そのような諸々の本性は、おおっぴらな悪巧み抜きに、そのうえac狂気による場合を除き、押し潰されることはありえない、と考えているからである。

20-5:そのことをすべての良き者たち、そのうえacそれ以上にmagis私は信じるべきなのだ。なぜなら、私は、田舎(生まれ)で、その上atque、取るに足らぬ無教養な父から生まれたが、これらの諸時代の中で上流身分層たちの生活を多くの学問(を収めたこと)によって過ごしてきたからである。

20-6:そのことは、私個人としては、我ら(人類)の部族のgentis(特徴)だと考えている。その(部族)はある種の天命により良き者たちをごく稀に生み出すのだが、しかし彼らを育てた者が誰であれ、それはそれ自身の(努力で)各々種々の高みを持つ。たとえばセウェルス自身のように。彼以上に国家の中で光輝ある者は(かつて)誰もいなかった。彼は高齢で死去したにもかかわらず公務停止と弔辞によって喪に服することが(元老院によって)同意されたが、(それは)彼の(ような残酷だが有能な)人物の、生まれるべきかあるいはaut死すべきかについての正当性を(云々することは)、決して妥当でないと按配してのことだった。

20-7:明らかに風紀を糺すことに彼が過酷だったので、(人々は)古人たちの高潔さへとあたかも気質の健全さが到達した後で、彼を寛容であるとみなしたのだった。

20-8:したがって率直さは、始めは不安であるとみなされるが、(それに接した)暁には、快楽と放縦になるのである。彼はペスペンニウス・ニゲルをキュジクス(キュウジコス)近郊で、クロディウス・アルビヌスをルグドゥヌムで打ち負かして死を強いた。

20-9:彼らのうち前者はアエギュプトゥスを保持していた軍司令官で、戦争を専制の希望で仕掛けmoverat、後者、すなわちペルティナクス殺害の張本人は、そのこと(で報復を受ける)恐れからブリタニアへとーーその属州を彼はコンモドゥスにより得ていたのだがーー渡ろうとしていて、(しかしセウェルスは)ガリアで(アルビヌスの)帝権を奪取したのだった。

20-10:これらの数え切れないほどの殺戮caede行為により、彼(セウェルス)はあまりにも残酷で、そして頑固者pertinaxとの添え名を受けたのだが、にもかかわらず(日々の)生活においても同様の吝嗇(家だったの)で、それ以上にmagis彼が(その添え名を)採用した、と多くの者はみなしている。我らには、(彼の)過酷さ(のゆえその名を)課されたと信じるのを好む気質がある。

20-11:というのも、(セウェルスの)敵対者たちのある者がーー諸々の内戦においてよくあることだが、地理的条件でアルビヌス側についたのだがーー、そうした理由の説明で以下のごとく最終的に締めくくった、「私は尋ねたい、もし貴官(が私の立場)であれば、どうしたかと」。彼は答えたものだ、「予も耐えるだろう、汝と同様(これから受けるはずの処刑を)」と。

20-12:こんなことを言ったりしたりすることほど、良き者たちにとって無情なことはない。というのも神聖な者たちは、この種の諸軋轢に対し、それらがいかに入念に仕組まれたとしても、そんな宿命をとがめ立てするものであり、そして、破滅(を選ぶ)よりもそれ以上にmagis隠蔽へと、市民たちは事実を曲げることを享受してしまうものなのである。

20-13:だがかの者(セウェルス)は(当初敵対する)諸党派の抹殺に執着していたが、そのためその後はより温和に振る舞いはしたものの、むしろ彼は(そういった)行動(がもたらしかねない)不可避性を罰するのを好んでいた。それは思いやりを期待して国家的破滅へと諸陰謀が徐々に進展する(のを未然に防ぐ)ためだった。(そういった)事どもへと諸時代の欠陥で[なり勝ちな]諸感覚を彼は悟っていたからである。また私は否定しない、法外に猛威を振るいかねないこのような諸犯罪は、ほとんど幻覚以上の(やり方でようやく)根絶されうると。

20-14:彼(セウェルス)は幸運に恵まれそのうえacわきまえていて、特にpraecipueとりわけadeo武装にarmisついて精通していたので、いかなる交戦においても勝利者とならずに(戦場を)去ることはなく、そしてアッガルスという名のペルシア人の王を屈服させて帝国を拡大した。

20-15:そう間を置かずアラビア人をも同様に攻撃し、今あるように(帝国の)主権の中に属州の形で移した。

20-16:アディアベニ人もまた、もし彼が大地のterrarum不毛さで忌諱しなければ、貢納諸国の中に(唯々諾々と)甘受してしまっただろう。

20-17:これらの偉業から、アラビクス、アディアベニクス(であった彼)を、パルティクスの添え名で元老院議員たちは呼んだ。

20-18:これらのことよりさらに偉大なこととして、彼はブリタンニアを攻撃し、それ(ブリタンニア)が役に立つ限り、敵どもを敗走させ壁を造り上げたが、その壁は島を横切って両方から大海の境界まで築かれた。

20-19:それどころかさらにトリポリスーー(セウルスは)そこのレプティスという町の生まれなのだがーーからも好戦的は諸部族を遠くへと遠ざけた。

20-20:こういった厄介ごとは苦もなく彼によって達成されていたのだが、それだけに一層彼は失敗した者たちに対しては容赦がなかったが、勤勉な者に対しては誰でも褒美によって称揚した。

20-21:のみならず些細な略奪行為でさえたしかに罰を受けないままにしておくことはなく、身内の者たちに対してそれ以上にmagis厳しかった。そのことが軍司令官たちのducum不正、それどころかいまやaut etiam一党派を装ってさえ行われることを、敬虔ある人物(の彼)は悟っていたからである。

20-22:彼は哲学、演説の練習をすること、すなわちあらゆる一般教養に傾倒した。同時に彼は自伝を文飾と信頼性の両方を(兼ね備えて)作成した。

20-23:彼は格段に公正な諸法令の創設者であった。内外においてdomi forisqueこれほど偉大な彼だったが、妻の諸々の醜聞が栄光の極みを取り去った。とりわけadeo名高いことだが彼女に愛情を持っていたので、放蕩が知れても、そのうえac(彼女が)陰謀で有罪でも手放さなかった。

20-24:これは、一方で最下層の者にとって、他方統治権者たちにとっても恥辱で、それ以上にmagis彼にとってそうであった。その彼を私人たちのみならず特権身分の人々、それどころかaut破廉恥な者ども、しかしながらverum諸帝国や諸軍隊、その上atque、諸々の悪徳自体も(唯々諾々と)甘受したのである。

20-25:というのは、彼は両足を病んでいたので、ある戦争を逡巡していたのだが、そのことで兵士たちは不安に駆られ、彼の息子バッシアヌスーー副帝として共に居あわせていたーーを正帝としたので、彼(セウェルス)は命じた、自らを法廷に運び入れ、すべての者たち(すなわち、)命令権保有者(息子のバッシアヌス)、そのうえac軍団将校たちtribunos、百人隊長たちcenturiones、そして諸歩兵部隊cohortes、彼らが首謀者で起こったことであったが、(彼らを)被告人という形で出頭させよ、と。

20-26:それで恐懼し、多くの(闘いでの)勝利者たる軍隊が地面にひれ伏し、慈悲を懇願したのだが、その時、彼は言う、「お前たち、(やっと)わかったようだな」、と片手でmanu(自分の頭を)たたきながら「頭が片足以上に支配する能力があるということが」と。

20-27:それからほどなくしてエボラクムという名のブリタンニアの自治都市で、支配すること一八年間で病没した。

20-28:彼はやや下層(家系)の生まれであり、最初は自由七学科を(学び)、その後(裁判が行われる)広場で鍛えられたが、そのことであまり満たされずーーその種の事どもにはよくあることだがーー、つまりdum彼はさまざまなそしてより良き職(に就くこと)を企て、あるいはaut求めた挙げ句、帝権に登り詰めた。

20-29:そこできわめて困難な事どもーー激務、諸々の心労、恐怖、そしてひたすらprorsusあらゆる不確実性ーーを経験させられた彼は、あたかも死すべき運命にある者たちの人生の目撃者であった。彼は言う、「私はあらゆることをやってみたが、何も役に立たなかった」と。

20-30:遺骸は、息子たちのゲタとバッシアヌスがローマへ運んだのだが、驚くほど(盛大に)祀られ、マルクスの墓所に埋葬された。彼(マルクス)に彼はとりわけadeo敬意を抱いていたので、彼のために(マルクスの息子)コンモドゥスを神君たちの中に記載することを命じ、彼を兄弟と呼んで、バッシアヌスにアントニヌスの呼称を付加したほどであった。なぜかというと、彼(コンモドゥス)から、多くの疑わしい出来事のあとで、諸々の顕職のhonorum諸前兆として元首金庫の弁護士職を獲得したからである。

20-31:このように、苦労人たちは、諸々の順境の始まりと彼らの保証人たちのことを覚えているものなのである。

20-32:だが、(セウェルスの二人の)後継ぎたちは、あたかもお互い同士の闘いを命令で受け取ったかのように、速やかに関係を絶った。こうしてゲターー彼の名前は父方の祖先からavo来ていたのだがーーは、彼のより控えめな本性のため兄弟(バッシアヌス)に圧迫感を与えていたので、(ゲタは)襲われて殺害された。

20-33:その勝利は、パピニアヌスの死によって一層忌まわしいものとされた、なぜならなるほどsane記録に興味ある者たちが見なしているところによれば、彼(パピニアヌス)はその頃バッシアヌスの文書箱を管理しており、それが習慣であるが、ローマに宛てた(文書を)可及的すみやかに作成するよう命令されたのだが、ゲタの(死を)悲嘆して、同僚に、親族殺しを犯すより覆い隠すほうがぜったい簡単でないと言って、そしてそれゆえidcircoque死を賜った。

20-34:しかしながらこれらのことは厚かましいimprobeたわごとである。というのも彼(パピニアヌス)が近衛長官職を司っていたことはたしかに明白なことで、彼(バッシアヌス)の愛人でそのうえac長官職に就けていたその人物に見境なくこれほどの侮辱を加えることはできないからである。

第21章

21-1:しかもなおアントニヌスは、不可解な見せかけの贈り物をローマの平民に施し、両の踵まで垂れた衣服を贈与したので、カラカッラと呼ばれた。のみならず同様の服にアントニヌス風(アントニニアナエ)という名を自分自身にちなんで与えた。

21-2:彼は、人口も多く馬上で驚くほど巧みに戦うアラマンニ人の部族にモエヌス川付近で完勝した。彼は忍耐強く、愛想がよく、穏やかだった。幸運にも同僚にも恵まれ、その配偶者においても父と同じだった。

21-3:というのも、彼は義母のユリアーー彼女の悪行を上記で私は言及しておいたがーーの美しさの虜となって、妻に(したいと)熱望したからである。なぜなら彼女はきわめつきの権勢願望家で、青年の目の前であたかも(彼の)存在を知らなかったかのように、裸の肉体を委ねて、そして「したいものだ、もしできることなら」と言い出した彼に、とても厚顔無恥にも[実際彼女は貞節を衣服とともに捨て去っていた]、彼女は「したいのですか。どうか仰せのままに」と答えたものだ。

21-4:アエギュプトゥスの祭儀が彼を通じてローマに持ち込まれ、その上atque、肥大化した首都に一つの新しい街道のすばらしい増加と、そして一つの浴場用建築物が美しい装飾で完成された。

21-5:それらのことを成し遂げてからconfectis、シュリアを巡回していたときにエデッサで統治権の六年目に死ぬ。

21-6:遺灰は公共の哀悼(に供する)ためにローマへ連れ帰られ、その上atque、アントニヌスたちの間に葬られた。

第22章
22-1:その後dehincオピリウス・マクリヌス Opilius Macrinus は、近衛長官職を司っていたが、皇帝として、そしてその同じ人物の息子、名はデァドゥメヌスが副帝と諸軍団から呼ばれたappellantur。

22-2:彼らのうち、彼(息子ディアドゥメヌス)に対しては、失った元首(カラカラ)への並はずれた憧憬があったため、(諸軍団は)青年をアントニヌスと称した vocavere。

22-3:(だが)彼ら(両帝)については苛酷で saevos 、その上atque、反市民的な性格としてしか、さしあたりinterim我々には思えない。

22-4:それゆえに、四とそのうえac十ヶ月(十四か月)あまり、かろうじて帝権が保たれただけで、(両帝を)擁立した彼ら(諸軍団)によって、彼ら(両帝)は殺害された。

第23章
23-1:そしてマルクス・アントニヌスが呼び寄せられた。彼はバッシアヌスから生まれ、父が亡くなると、ヘリオガバルスとシュリア人たちが呼んでいる太陽神ソルの神官職にあった。あたかもアジールのように奸計を恐れて(その神殿に)逃げ込んでいたので、そしてそれゆえ(彼は)ヘリオガバルスと呼ばれる;そしてローマに神の似姿 dei simulacrum【御神体】を移して、パラティヌスの奥殿 penetralia の中に諸祭壇を設置した。

23-2:彼以上に忌まわしく impurius 、不潔で inprobus 、たしかにそれどころかquidem aut厚顔無恥な petulans 女性たちはいなかった:なぜなら全世界から最も淫らな者たち obscoenus を彼は探していたからで、(すなわち)見た目で、情欲を駆り立てる諸々の手練手管においてartibus(最も淫らな者たちを彼は探していた)。

23-3:このような事どもが、日ごとに増えていったので、そのうえacますますmagis magisqueアレクサンデルの(人気が)増し、オピリウス(前帝マクリヌス)の殺害が確認されcomperta、彼(アレクサンデル)を貴顕階級 nobilitas は副帝と正式声明していたが、彼への愛情が積み重ねられ、近衛軍兵舎内で、支配の三〇番目の月に(ヘリオガバルスは)押し潰された。

第24章
24-1:そしてただちに、アウレリウス・アレクサンデルが、ーー彼はシュリア生まれで、(その場所は)カエサレアとアルケという二重の名前があるーー、彼の配下の兵士たちの尽力で正帝の統治権を委ねられた。

24-2:彼は青年にもかかわらずquamquam、年齢以上の才覚 ingenium をやはりtamenもっており、速やかに大々的に準備してペルシア王クセルクセスに対して戦争を仕掛ける。彼(ペルシア王)は撃破され、そして逃亡したので、(アレクサンデルは)ガリアへときわめて迅速に赴いた、そこがゲルマン人たちの強奪にさらされていたからである。

24-3:その時、諸軍団の騒動が起こり、そして彼は断固として打ち負かしたがabjecit、それは当面は栄光と、後には死exitioと見なされた。

24-4:というのはnam、それほどの厳格さの力 vis を兵士たちは恐れていたので、[そこから今やetiam、彼はセウェルス<厳格>の添え名を与えられた]、偶然少数の者たちと共に行動していたagentem彼を、ブリタンニアの村 vicus で、それへの名前はシキリア Sicilia だが、(兵士たちは)惨殺したのだった。

24-5:きわめて華やかな建造物が首都ににぎにぎしく建造され、そして母への献身については、彼女の名前はマンマエアであったが、(通常の)敬愛以上だった。

24-6:そのうえさらにadhucドミティウス・ウルピアヌスを、ヘリオガバルスは近衛長官に任じていたが、(アレクサンデルは)彼を同じ顕職honoreに留めおき、そしてパウルスを(統治の)初めに祖国に戻すようにとーー両者とも法律の権威であったーー、選良たちに対し、その上atque、等しくとても熱心に、説いた。

24-7:(彼は)十三年間を越えることなく帝権を行使したが、国家をあらゆる点で強化して残した。

24-8:それ(国家)は続いてその後、ロムルスからセプティミウスまで競って上昇していく。バッシアヌス(カラカッラ)の数々の賢察consiliisによりいわば頂点に立ったのだった。

24-9:そこから速やかにconfestim落ちなかったのは、アレクサンデルの(おかげ)だった。それ以来abhinc、つまりdum(諸皇帝は)自国民を支配するのを他国民を服従させることよりもより熱望するようになり、その上atque、彼らの中でそれ以上にmagis武装していて、ローマの地位をほとんど深淵に突き落とした、そして帝権へと入ってきた者たちは種々雑多になり、善人も悪人も、貴顕な者たちも、その上atque、卑賤な者たちも、そのうえac多くの野蛮人たちさえいることになった。

24-10:実際、すべての事どもが、至る所で混乱させられ、そして何事もその本来のやり方でできなくなると、各々が、喧噪(のただ中)においては常であるがuti、他の人々の諸職務ーー彼らが(本来)支配することのできない(はずの)ーーをひったくるのを当然fasとみなして、そして、善き諸習慣の諸学芸を無残に退廃させるのであるcorrumpunt。

24-11:かくして、運命の女神の力が、(一旦)奔放に解き放たれると、破壊的な衝動(情欲)によって死すべき者たちを駆り立てるagit。それは、長らくたしかに壁のごとき武徳により制止され(てきたのだが)、ほぼpaeneすべての者たちが、様々な破廉恥行為へと屈服させられた後になると、今やetiam生まれや教育でinstituto最下層の者たちにすら国事publicaを委ねたのである。

第25章
25-1:なぜならnamque、ガイウス・ユリウス・マクシミヌスは、トレベッリカで属州統治していてpraesidens、兵士たち出身として初めて、ほとんど文盲であったが、統治権を諸軍団の投票で獲得した。

25-2:しかし元老院議員たちも今やetiam、つまりdum非武装(の自分)たちが武装者(マクシミヌス)に抵抗するのは危険と判断して、これを承諾した。そして彼の息子も、同様に名前はガイウス・ユリウス・マクシミヌスだったが、副帝とされた。

第26章
26-1:彼らは二年間全権を掌握し、まったくhaud不都合なく、ゲルマン人たちに対して戦闘が行われていたのだが、突如アントニウス・ゴルディアヌス(一世)、アフリカ総督proconsulが軍隊によって、元首としてprincepsテュドルスの町Thydri oppidumで、本人不在で任命される。

26-2:(ゴルディアヌス一世は)そこに呼ばれ、あたかもそのことによって選出されたかのように、到着する。反乱seditioで迎えられるも、それを容易に鎮めてカルタゴへ向かう。

26-3:そこで、諸々の凶兆ーーそれらの恐怖で彼は苦悩させられていたのだがーーを追い払うため、神儀を常のごとく行っていたageret時、突如一頭の犠牲獣 hostiaが子を産んだ。

26-4:それを腸卜師たちと、その上atque、殊にmaxime彼自身が [というのはnam、彼はその知識の実践において半端なく精通していたので]、次のように解釈した。彼(ゴルディアヌス一世)にはたしかに殺害が定められている、しかしながらverum彼は子孫たちに帝権をもたらすであろう、と。そして彼ら(腸卜師たちとゴルディアヌス一世)はより詳細に解釈を進め、同様に一人の子供(ゴルディアヌス三世)の死exitumを告げたのである。彼らは予言した、(その子は)あの(産まれた)羊pecusのように温和で、その上atque、純真だが、長寿ではなく、そして陰謀にさらされる、と。

26-5:とかくするうちにinterim、ローマではゴルディアヌス(一世)の滅亡が確認されるとcomperto、ドミティウスの教唆により、首都長官と残りの(死刑執行権を持つ)裁判官たちが至るところで近衛大隊によって粉砕されるcaeduntur。

26-6:実際、ゴルディアヌス(一世)は、自身に帝権がゆずり渡されると知った後、量的に十分な報酬を約束し、ローマへと使者たちとそのうえac諸書簡で確約していたのだが、これら(の約束)が彼の殺害で台無しにされたのではと、兵士たちはやきもきしていたのだった。(連中のような)人種は、金銭により強く執着し、そして忠実でそのうえac有能なのは金もうけのみなのだ。

26-7:だがat元老院は、本当に誰ひとり指揮者たちrectoribusがいないと、外見上首都が捕獲されたように見えて忌まわしい事どもが勃発するのでは、と怖れ、最初に諸職権の差し替えをし、続いてより若い人々を(元老院議員)名簿に登録し、クロディウス・プピエヌスとカエキリウス・バルビヌスを副帝caesaresに任命した。

第27章
27-1:そして同時期に、アフリカにおいて兵士たちがゴルディアヌスーー彼ははからずもforte父の幕下で、緋色の縁飾付トガを着用し、そのうえac次いでdeinceps近衛長官として居合わせたのだがーー、すなわちゴルディアヌス(一世)の息子を正帝に選出した。なるほどsane貴顕階級 nobilitas はその行為をはねつけなかった。

27-2:要するにdenique、彼は首都の起伏に富んだ(場所の)中に呼び寄せられ、その上atque、その中心部で近衛軍の手勢manusは、剣闘士たちの諸家系(郎党)familiasと新兵たちの部隊によって、戦列をacie抹殺(殲滅)させられたdeletae。

27-3:つまりdumこれらのことがローマで行われているgeruntur間に、ユリウス・マクシミヌス(父子)たちは、彼らをたまたまforteその時にトラキアが留めていたのだが、これらのことが生じたことを受けて、イタリアへと急いで向かうpetunt。

27-4:彼らをプピエヌスは、アクイレイアの攻囲で屠った。それは戦闘で、打ち破られた者たちを(他の)生存者たちが次々に見放した後のことだった。

27-5:彼ら父子の帝権については、二年間に、このような諸経過のため、(もう)一年が必要とされた。

27-6:その後あまり時を置かないで、兵士たちの騒擾で tumultu クロディウス(パピエヌス)とカエキリウスは、ローマで、パラティウムの中で粉砕されcaesis、ゴルディアヌス(三世)は単独で支配を継続した。

27-7:そして、その年に(ゴルディアヌス三世は)五年ごとの競技大会certamineーーそれをネロがローマへと導入し、(その後)拡大強化されていたがーー(それを開催した後に)、彼はペルシア人たちに向けてin Persas進発した。それはまずマルクスが閉じていたヤヌスの聖所を古のやり方で開けてからのことであった。

27-8:それから、戦争が目覚ましくinsigniter行われている時に、マルクス・フィリップス近衛長官の数々の奸計により、彼(ゴルディアヌス三世)は帝権六年間で亡くなったperiit。

第28章
28-1:かくしてigiturトラコニテス(出身)のアラビア人マルクス・ユリウス・フィリップスは、息子のフィリップスを同僚とし、様々な事柄に関して(帝国)東部について処理し、そしてアラビア(属州)にフィリッポポリスの町oppidumを創建して、彼ら(父子)はローマへと向かった。そしてトランス・ティベリス(地区)に貯水場が建てられた。というのは、その地区を水の窮乏が悩ましていたからだった。彼らは、首都の一千番目の年を、あらゆる種類の祝祭で祝賀することになる。

28-2:そしてそれゆえ、それは一人の名前を(私に)思い出させるのであった。またもや私の時代にその後に一千一〇〇番目(の年)が、執政官フィリップスにより、いつものごとく(ut solet)、何らの宗教儀式も行われずに過ぎ去ったからだ:とりわけadeo日に日に首都ローマへの配慮は縮小しているのである。

28-3:無論、その時代に怪奇現象と異常現象によって(このことは彼に)通告されていた、と噂されている;これらの事どもから一つをすぐさまbrevi思い出すのが望ましい。

28-4:というのはnam神祇官たちpontifexのおきてlexにしたがって犠牲獣たちが捧げられた時に、一頭の雄豚の胎児(腹部)に雌の生殖器が認められたのである。

28-5:そのことを、腸卜師たちは、子孫たちの崩壊と予告し、そしてより重要な諸凶事が生じるだろうと解釈した。

28-6:予言通りにならないように見積もって、皇帝フィリップスは、その後たまたまtum quia、はからずもforte息子に似た一人の(ギリシア人風の)青年 ἔφηβος を【男色楼の】貸部屋meritoriumの前を通り過ぎたとき気づいたので、男娼の習慣を退けんものと、きわめて気高くも【顧問会議?に】諮問した。

28-7:とはいえ、それは(今でも)残っている:実際、場所の状態を変え、一層の破廉恥行為で悩まされている。つまりdumより貪欲にavidius危険な事どもを何であれ、死すべき者たちは禁じられていても追い求めるものなのである。

28-8:それに付け加えるなら、はるか以前に別のことをエトルリア人たちの(腑分けの)諸学芸が(予言して)吟じていた。それら(予言の内容)は、良き人々は大部分がおとしめられ、最も女々しい者どもが誰であれ幸福になるであろう、と主張していた。

28-9:彼らはまったく真理に無知である、と私はみなす。というのも、どんなにすべての事どもが望み通りに成功していたとしても、しかしながら、慎み深さが失われて誰が幸運でありえるというのか。それ(慎み)を保持することで、その他の事どもは我慢できるのである。

28-10:これらが行われてactis、息子は首都に残され、彼(フィリップス)自身は、年齢のため肉体が弱っていたにもかかわらずquamquam、デキウスに対してウェロナへと進発し、滅ぶcadit/cado。(というのは)軍隊が敗走させられ、失われたからである。

28-11:これらがローマで確認されるとcompertis、近衛軍陣営で息子は殺害されるinterficitur。彼らは、統治の年数で五(年)を行使したagunt。

第29章
29-1:だがatデキウス【249年6月か? パンノニアで皇帝歓呼】は、シルミウムのある村vicusの生まれだったが、軍務の段階から帝権を志していた、そして敵対者たち(フィリップス父子)hostiumの殺害nexをきわめて喜び、エトルスクスという名前の息子を副帝にする【250年5ないし6月;251年6月以前に正帝】;そしてただちに彼(エトルスクス)をイリリア人たちへと先遣させ、(彼自身は)しばらくの間ローマに留まる、(それは)彼が築いている諸建造物を奉献するためだった。

29-2:そしてその間に、彼(デキウス)に対しヨタピアヌスの、ーー彼はアレクサンデル【大帝、ないしセウェルス】の後裔を鼻にかけ、シュリアで諸変革を企て、兵士たちの意向により死没したのだがoccubuerat、(その彼の)ーー頭部が、それが慣習であるがuti mos est、予期せず(ローマに)運ばれてくる。そしてそれらの日々と同時にsimul、ルキウス・プリスクスに、ーー彼はマケドニア人たちを総督として支配していたが【249/50年】ーー(兵士たちにより)専制dominatioが委ねられた、(それは)ゴート族の攻撃によって、トラキアの大部分が強奪された後に、彼らが彼のところに到達したからだった【250 年末】。

29-3:このため、デキウスが可及的速やかにmaturrimeローマから離れると、ユリウス・ウァレンスが民衆を煽って帝権を獲得した。しかしながらverum両者【??】はまもなく粉砕されたcaesi、それはプリスクスを(元老院の)ノビリタスが祖国の敵hostemと決議した時のことだった。

29-4:デキウスたち(父子)は、蛮人たちをダヌビウス(川)を越えて追撃していて、アブリットゥスで奸計にかかって滅んだcecidere【251年6月前半】、支配の二年間が過ぎていた。

29-5:しかしデキウス(父子)の輝かしい死を、多くの人々が称賛している。なぜならnamque息子はきわめて向こう見ずに交戦していて、戦列内で in acie 滅んだのだがcecidisse、父はしかるにautem、打ちのめされた兵士たちが皇帝を慰めようと多く(の言葉)を投げかけた時、即座にstrenue答えた、一人の兵士の損失は自分にとって軽微と思われる、と。こうして(父帝は)戦争を再開し、弛みなく闘っていた時に、(息子と)同じような仕方で亡くなったinterisse。

第30章
30-1:これらの事どもを元老院議員たちpatresが確認したcomperereときに、ガッルスとホスティリアヌスに正帝での帝権を、ガッルスから産まれたウォルシアヌスを副帝と定めたdecerno。

30-2:その後、疫病が発生する。激しく猛威を振るっていたそれにより、ホスティリアヌスは亡くなった。ガッルスとウォルシアヌスに(民衆の)賛意が獲得された。というのは、気にかけてそして入念に、彼らは最貧層の個々人の埋葬を差配したからである。

第31章
31-1:かくしてigitur彼らはローマに留まっていたので、アエミリウス・アエミリアヌスが(モエシアで)最高職権を兵士たちを買収してcorruptisかっさらった。

31-2:この(権力)奪取に対し、進発した彼ら(ガッルスとウォルシアヌス)は、インテランInterammで自らの(兵士たち)によって粉砕されるcaeduntur、(彼ら兵士たちが)アエミリウスからより大きな報酬を期待したからである。彼(アエミリウス)にとって、労苦も不利益も全くなく、勝利が転がり込んだ。同時にsimulそれゆえ、節度のない者どもが、贅沢と放縦によって(帝国に)果たすべき公的職務を退廃させてしまったcorrupeant。

31-3:これらすべてにより、なるほどsane二年間が経過したprocessit。これに対してnam、アエミリアヌスもまた三か月間帝権の使用に際し控えめに振る舞ったが、病気で命を奪われたabsumptus est、(その彼のことを)(元老院の)領袖たちはproceres初めは(国家の)敵とhostem呼んでいたが、その後、先行者たちsuperioribus(ガッロやウォルシアヌス)が運命の女神によって消滅させられるexstinctis と、常のことだがuti solet、(彼アエミリアヌスに)正帝の称号を与えたのだった。

第32章
32-1:だがat兵士たちーー彼らは(帝国内の)至るところからラエティア付近apud Raetiasに集結させられて、差し迫った戦争のためにとどまっていたーーは、リキニウス・ウァレリアヌスに帝権を譲り渡すdefero。

32-2:彼は十分にsatis傑出する出自にもかかわらずquamquam、やはり、またその時でさえ習慣だったとはいえut mos etiam tum erat、軍事に邁進していた。

32-3:彼の息子ガッリエヌスを、元老院は副帝に選出する creat。そしてすぐに、ティベリス川が夏の盛りに(もかかわらず)洪水の様相を示して【まだ雨期でもないのに】氾濫した。

32-4:(予言の)精通者たちprudentesは、国家の破滅を、かの青年の不安定な本性によるものであると歌った cecinere。というのは、(ガッリエヌスは)呼び寄せられて accitus、エトルリアからやって来ており、前述の(川の)流れはそこから(来ている)からである。それ(国家の破滅)は、無論速やかにconfestim起こった。

32-5:これに対してnam、彼の父はメソポタミアにおいて、どっち転ぶか分からないそして長期間の戦争を準備中だったが、ペルシア人たちのPersarum王の、彼の名前はサペルSaperだったが、(その彼の)たくらみによりdolo計略ではめられcircumventus、むごたらしく切り裂かれて laniatus、亡くなった:帝権の六番目の年であり、きわめて頑健な老年期だったのだが。

第33章
33-1:同時期に、リキニウス・ガリエヌスは、ガリアからゲルマン人たちを即座にstrenue遠ざけarceret、イリュリクムへ急ぎ下った。

33-2:(それは)そこでibi、インゲブス Ingebusをーー彼はパンノニア人たちを差配していたが、ウァレリアヌス【ガリエヌスの長男のJunior】の災難を確認してcompertaーー、帝権への欲望が襲っていたからで、(ガリエヌスはインゲブスを)ムルシアMursiaで完全にうち破り、そしてつづいてレガリアヌスを(完全にうち破った)、(そのレガリアヌスは)、ムルシアMursinaで破滅が生き残らせた兵士たちを受け入れ、戦争を再び行ったのである。

33-3:これらのことが上首尾でそのうえac祈願以上の結果となったので、人間たちの性(サガ)で、より放逸な者solutior(ガリエヌス)が、息子サロニヌスSaloninusーー彼が副帝の栄誉honoremを授けていたーーともども、国家ローマをほとんど難破状態へと委ねた。とりわけadeo次のごとくであった、トラキアを自由に闊歩したゴート人たちが、マケドニア人たちとアカエア人たち、そしてアシアの諸境界までを占拠し、メソポタミアをパルティア人たちが、オリエンスについては盗賊ども、否むしろあの情婦(ゼノビア)が支配し、アレマンニ人たちの軍勢visがその時同時にイタリアを、フランク人たちの諸部族がgentesガリアを強奪しdirepta、ヒスパニアを確保しpossiderent、そのうえacタラコ人たちの町oppidumを強奪direpto、そしてほぼpaene荒らしvastato、そしてちょうどよくin tempore船々を入手し、一部はアフリカにまで渡った;そしてイステルIster(ダヌウィウス)川の向こう側(の領土)が失われた、それらを(皇帝)トラヤヌスが得ていたのであったが。

33-4:こうして、ほとんどあらゆる方向から風神たちが荒れ狂いsaevientibus、小者に大者が、最低の者が最高の者に、世界全体で混在させられていたのであるmiscebantur。

33-5:そして同時にsimul、(帝都)ローマを疫病が猛威を振るった。それ(疫病)はしばしばきわめて深刻な不安と、その上atque、精神の絶望を発生させる。

33-6:これらの出来事の間に、彼(ガリエヌス)自身は諸々の料理屋popinaeや居酒屋ganeasで沈没し、ポン引きたちlenonumやそのうえac大酒飲みどもvinariorumとの親交を深め、配偶者サロニナ(どころか)、その上atque、ゲルマニア人たちの王アッタルスの娘で破廉恥きわまりない愛人、名はピパに身を任していた;

33-7:そのため、今やetiam(ローマ)市民たちははるかに凶暴な諸暴動を発生させたのだった。

33-8:(ガリア分離帝国皇帝たち)全員の最初の人物、ポストゥムスは、たまたまforte蛮人たちをガリアで統治していたのだが、帝権をひったくるべくereptum取りかかっていたierat。大勢のゲルマニア人たちを追い払ったが、彼はラエリアヌスとの戦争に引きずり込まれた。その彼を(ポストゥムスは)同様に幸運に恵まれて撃退したが、彼自身の部下たちの騒擾でtumultu亡くなったperiit、というのは、(部下たちは)モンゴティアクム[現マインツ]人たちの強奪をしつこくせがんだのだが、彼ら(モンゴティアクム人たち)はラエリアヌスを支持していたからだったが、彼(ポストゥムス)が拒絶したからである。

33-9:かくしてigitur彼は殺されeo occiso 、マリウス、かつてquondam鉄鍛冶職人で、その時でさえetiam tum軍事に十分satis秀でていたわけでないが、(その男が)支配をregnum獲得する。

33-10:こうしてporinde、全てのことが限界までextremum落ち込んでいき、それでこのような連中のために、諸々の帝権とそのうえac全ての人びとの武徳の栄誉decusが嘲りとなったのである。

33-11:このゆえにhinc さらにdenique ふざけてioculariter (以下のように)呼ばれてもdictum 決して不可思議でないと思われるmirum videri、たとえ、ローマ国家をマリウスが再建しようと努力したとして、それは、それ(ローマ国家)を同様の職種artisと血統と、そのうえac名の始祖たるマリウスが強化しているからだった、と。

33-12:この者が二日間の後に喉を掻き切られるiugulatoと、ウィクトリヌスが選ばれる。彼は戦争の知識においてポストゥムスに匹敵したが、しかしながらverum 収まり切れない性欲を持っており、始めのうちは抑制されていたそれ(性欲)によって、二年間の帝権の後に、ほとんどの者が暴力的に凌辱され、アッティティアヌスAttitianusの妻をconiugem熱望し、そして悪行が彼女によって夫に知らせられた時、密かに兵士たちによって、暴動へと焚きつけられて扇動されaccensis、アグリッピナ(現ケルン)で殺されるocciditur。

33-13:アッティティアヌスがその地位に置かれていた主計担当官の一団(派閥)はactuariorum factiones、軍隊exercitu内で勢力があり、それはやばいことを追求しても悪行がなし遂げられ得るほどだった;人間の中でこの種の連中はとりわけpraesertimこの時代において放埒でnequam、賄賂がききvenale、狡猾で、反逆的でseditiosum、所有に貪欲で、その上atque、諸犯罪をなしそして隠匿するについては、まるでquasi天性そうであったかのようだった。(この種の連中は)穀物配給を支配していて、そしてそのためeoque生産物を差配する人びとや自作農たちの幸せにとって有害で、都合よくin tempore【=33.3】これらの人びと(諸皇帝)に賄賂を使うことに精通しており、これらの人びと(諸皇帝)の愚行や窮乏damnumで財をかき集めていたのであった。

33-14:とかくするうちにinterim、ウィクトリアが息子のウィクトリヌスを失うとamisso、諸軍団から莫大な金銭でもって承認を得て、テトリクスを皇帝にした。その彼は、貴顕な家系の生まれで、属州長官職でpraesidatuアクイタニア人たちを治めていた。そして彼の息子テトリクスにも副帝の諸徽章がinsignia分け与えられる。

33-15:だがat、ローマに居たガリエヌスは、すべてが平和であると、国家の危機について無知な人びとに、厚かましくも improbe説いていた。今やetiam頻繁にcrebro、望んでいるように物事が行われるのが世の常であるが、彼は諸々の見せ物ludosとそのうえac諸凱旋の祝典を、より一層抜かりなく見せかけて正式に認められるように、挙行する。

33-16:しかし、危機が迫ってきてはじめて、(ガリエヌスは)ようやく首都(ローマ)をurbe発つ。

33-17:なぜならnamque、アウレオルスは、ラエティア(二州)のために諸軍団を管理していていたpraeessetが、皇帝権へと呼び寄せられた、いつものことだが、これほどの無気力なignavi軍司令官(ガリエヌス)のducis怠慢socordiaに刺激され、帝権を得ようとしてローマへと急行しつつあった。

33-18:彼をガリエヌスは橋の付近で、その橋は彼の名前からaureolusという名付けられているが、戦列で撃破された彼をメディオラヌム(現ミラノ)へと追い込んだ。

33-19:その都市を、つまりdum彼(ガリエヌス)があらゆる種類の攻城兵器によって攻撃している間に、彼は身内(の部下たち)によって滅びたinteriit。

33-20:実際quippe、アウレオルスは、包囲の緩む望みがほとんどないと見て、ガリエヌスの軍司令官たちducumと軍団将校たちtribunorumの名前を、あたかも彼(ガリエヌス)が殺害を決定したような(文書を)彼の策略astuで作成し、そしてその諸文書をlitteras城壁外へと、意図的にこっそりと投げ捨てた。それらがたまたまforte(書類上に)言及された者たちに発見され、死をexitii命じられた(という)恐れと(それが本当なのかという)疑念を引き起こさせたが、しかしながらverumそれら(の文書)が流出したのは、(ガリエヌス)の従者たちのministrorum不注意incuriaによるのだ、と(理解された)。

33-21:このため、アウレリアヌスの助言consilioによりーー彼(アウレリアヌス)の軍隊内での敬意gratiaと,その上atque、栄誉honosが際立っていたのでーー、敵対者たちのhostium突入が偽装され、不意でそのうえac危険な事態にはよくあることだが、護衛たちがstipatoribus誰一人保全していなかった(彼)を彼ら(敵対者たち)は天幕から真夜中に引きずり出した。そして一本の投げ槍telumで彼は刺し貫かれるtraicitur、(それが)一体誰のものだったのか暗闇のため確かめようもないのだが。

33-22:こうして、殺害necisの張本人たちを特定できなかったことにより、ないし、それというのは公共善のため起こった(ということで)、(この)殺戮caedesは罰を免れたのである。

33-23:にもかかわらずquamquam、諸道徳はそれほどまでに沈み込まされたわけであるprolapsi、(すなわち)国家よりも自分(の利害)のために、そして栄光への熱意よりもより以上の統治権のために多くの人々が行動してしまうagantほどまでに。

33-24:このためまた、同様に物とそのうえac名の本質もが堕落し、しばしば破廉恥行為によってより強大になった者が、たとえ武装によってarmis征服して、専制を排除したところで、公的なものが押し潰される(という事態を)もたらすのである。

33-25:むしろ今やquin etiam、かなり多くの人々が(ガリエヌスと)同等の性欲(を持っているにもかかわらず)天上の集団numerumに連れ帰られている、(彼らは実は)ようやくのこと葬列にふさわしいだけなのだが。

33-26:誰かがもし、諸事績への信頼を妨害しなかったならば、ーー(その)信頼は、正直な者たちhonestosを記憶の報酬praemiumによってあざむかれたままにさせておかず、(そしてまた)邪悪な者たちimprobisに不朽かつ輝かしい名声をもたらすはずもないのだがーー、わだかまりなく武徳が追求されていたであろう。というのは、かの真実にして、その上atque、唯一の栄誉decusは、かのもっとも悪しき者(ガリエヌス)に対して各人の好意によって授けられていたからで、それは非道にも良き者たちから取り去られたdemptumものであった。

33-27:要するにdenique、ガリエヌスをクラウディウスによって元老院議員たちは神君と呼ぶことを屈服させられた、というのは彼(クラウディウス)は彼(ガリエヌス)の意向arbitoriumで帝権を獲得していたからだ。

33-28:というのはnam、出血でそれほどにひどい傷で自分に死が差し迫っていることを彼(ガリエヌス)が悟った時、帝権の諸々の徽章insigniaをクラウディウスへと定めたからでdestinaverat、(その時、クラウディウスは)将校tribunatus【?:通例は軍団将校の意だが、今の場合は方面軍司令官あたりだったはず】の顕職でティキヌムTicinum(現パヴィア)の予備軍勢(を指揮するため)に留め置かれていたのだった。

33-29:それ(帝権)はなるほどsane(ガリエヌスから)もぎ取られたのだ、(というのも)ガリエヌスの数々の破廉恥行為は、(未来において)諸都市が存在する限りdum、隠し通されることはできず、また、誰であれ(未来において)最も邪悪な者であれば、常に彼と同様で類似した者とみなされるであろうからだ。

33-30:とりわけ(orそれほどに)adeo、(いずれ)死すべき運命にある元首たちや、その上atque、最高の人士たちは、人生の栄誉decusとして、その上atque、なるべく名声を乞い求めでっち上げて、推測の限りではあるが天に近づくか、あるいは人々の評判によって神君として賞賛され(ようとす)るものだからである。

33-31:だが、元老院はこのような死exitioが確認されるとcomperto、(ガリエヌスの)取り巻きどもsatellitesや親族たちをpropinquosque、ゲモニアの階段へとがむしゃらにpraeceps追い立てるagendosべしと決議し、(彼らは)元首金庫の保護者patronoque fisciによって、元老院議事堂内に連行され、両目をえぐり出されたことは、十分にsatis周知のことで、乱入してきた大衆vulgusは、同一の雄叫びで、大地母神と冥界の神々に対しても懇願した、不敬な諸座sedes impiasがガリエヌスに与えられますように、と。

33-32:そのうえacクラウディウスが速やかにメディオラヌム(現ミラノ)を奪還して、あたかも (降伏した)軍隊の要請であるかのように、彼らの中でたまたまforte生き残った者たちは容赦されるべきであると指示しpraecepissetなかったならば、(ミラノの)貴族と平民はplebesqueより残酷に猛威を振るったgrassarenturであろう。

33-33:そして、元老院議員たちをたしかにローマ世界共通の不利益以上に、彼(ガリエヌス)は固有の身分の侮辱contemeliaによって苦しめ続けていた。

33-34:というのも、はじめてprimus彼自身が、自らの怠慢の恐怖metuを、帝権が貴族たちの中で最も優れた者たちに移されることのないように、元老院が軍務に(奉職すること)を、そして軍隊が(元老院に)近づくことを禁止したからである。この者には九年間の統治権potentiaがあった。

第34章
34-1:しかしクラウディウスの帝権を、兵士たちは、一般的なfere(彼らの)本性に反して、絶望的な諸事実が正当に諸々の対処をするように強いていたので、あらゆるものが破滅に瀕しているのを認識すると、熱心にavide賛同しかつ褒めそやした。その人物(クラウディウス)は諸々の苦難に耐え、そして公正でそのうえacひたすらprorsus国家に献身的で、

34-2:実際quippe、長い中断から(共和政代の)デキウスたちの慣習を更新したのだった。

34-3:というのはnam、彼(クラウディウス)はゴート人たちを敗走させることを切望していたcuperetのだが、彼らを長い期間が過度に強固にし、そのうえacほとんどporope居住者たち(同然)にしてしまっていたのであるが、シビュラの書から伝承されていたのは、もっとも身分の高い第一人者が勝利に誓約されるべきvovendumということである。

34-4:そして、彼(クラウディウス)はそう見られていたので、自身が献げられるべきだった時に、彼はむしろ自らそれを責務と心得て進み出た。彼は実際元老院の、その上atque、すべての者たちの筆頭者princepsであった。

34-5:こうしていかなる軍隊の損失もなしに、蛮人どもは追い払われfusi、そして撃退されたsummotiqueが、(それは)かの皇帝が生命を国家に奉納するべくdono委ねたdedit後のことだった。

34-6:とりわけ(それほどに)adeo善き者たちには市民たちのcivium安全とそのうえac長い彼らの記憶がより貴重なのである;それらはただ栄光にとってのみならず、しかしながら今やある程度はratione quadam後世の者たち【彼の子孫と称したコンスタンティウス一族】の幸運にも役立つのである。

34-7:その彼から、もし本当にコンスタンティウスとコンスタンティヌス、その上atque、我らが諸皇帝【コンスタンティウス二世や(副帝)ユリアヌス】が(由来している)なら、・・・・・・そして・・・の体の・・・、それは兵士たちによって、諸特権の、あるいはseu 放縦の希望speでより一層受け入れられた。

34-8:その結果、勝利はみじめで、そしてより苛酷だった、つまりdum、臣下にとってそれが常であるが、欲望を罰なしで犯すためには、弛緩した諸帝権(のほう)を有用なそれらよりもより都合いいので守ろうとするからである。

第35章
35-1:しかもなおceterum、アウレリアヌスはこれほどの成功によってよりたくましくvehementior、すみやかにconfestim、あたかもquasi戦争のやり残しがあったかのように、ペルシア人たちの中に進んだprogressus est。

35-2:彼らを殲滅させdeletis、彼はイタリアへと戻ってきたrepetivit。そこの諸都市がurbesアラマンニ人たちの諸々の荒涼vexationibus によって破滅に瀕していたaffligebanturからである。

35-3:同時にsimul、ゲルマン人たちがガリアから駆逐されdimotis、テトリクスーー彼について、我々は上記で言及しておいたーーの諸軍団は、軍司令官自身(テトリクス)ipso duceが裏切者proditoreになって、粉砕されたcaesae。

35-4:なぜならnamque、テトリクスは、属州長官praesesファウスティヌスのたくらみでdolo、買収された兵士たちによってしばしば襲われたので、アウレリアヌスの庇護praesidiumを書簡で哀願していたimploraverat、そして彼(アウレリアヌス)が到着すると、戦列をacie見せかけで戦闘に出撃させ、自ら(はアウレリアヌスに投降して)委ねる。

35-5:こうして、指揮者rectoreなしだとありがちなことだが、混乱した諸隊列はordines押し潰されoppressi sunt、彼自身は高慢なcelsum二年間の帝権の後、(捕虜として)凱旋式の中で行進させられ(たけれど)、(アウレリアヌスは彼を)ルカニアの監督官職correcturaに、そして(彼の)息子に恩赦veniamと、その上atque、元老院議員の栄誉honoremを追綬したcooptavit。

35-6:かと思えばneque secus、首都の中で貨幣鋳造職人たちが殲滅されたdeleti、というのは、彼らは、首謀者フェリキッシムス、貨幣鋳造会計官rationaliと共に、貨幣の刻印を削り取っていた【量目をごまかしていた】ので、処罰への恐怖から、彼らは戦争を実施したが、以下のようにゆゆしき(事態)だった、彼らはコエリウムの丘に結集し、戦闘員bellatorumのほぼfere7000人を屠ったほどだった。 

35-7:これほどたくさんの、そして大きな功績を上首尾に行って、彼(アウレリアヌス)は、ローマに太陽神Solのために壮麗な聖所をfanumを築いた、それは豪華な奉納物で飾られていた。そのうえac、ガリエヌスに関して起こった事どもが決して生じないように、彼は、城壁で首都を可能なかぎり強固に外周をより広くして取り囲んだ。そして同時にsimulque、豚肉の利用を、ローマの平民に十分与えられるよう思慮深くかつ気前よく調達した、そして殲滅されたのは、財政上のそして告発者たちの乱訴でcalumniae、それらは首都を悲惨にしていたのだが、このような業務の諸書き板tabulisや諸記録monumentisqueを火で消滅し、その上atque、ギリシアの慣習によって破棄が決議されたdecreta。それらの間に、貪欲avaritiam、公金横領peculatum、諸属州の略奪者たちを、軍人たちのやり方に反して、彼も彼らの集団numeroの出身だったが、法外なまでに追求した。

35-8:そのために、ある下僕のministriの悪事によって、その彼に秘密の職務を彼(皇帝)は任せていたのだが、彼(皇帝)は計略ではめられcircumventus、コエノフルリウムで亡くなったinteriit。かの者は諸略奪praedaeと違反の自覚があったので、巧妙に作成された諸文書を軍団将校たちにtribuni、あたかも恩恵からであるかのように委ねた、それらは彼らを殺害することをinterfici命じていた;彼ら(軍団将校たち)はその恐怖で刺激されて、悪行をfacinusなし遂げたのだった。

35-9:その間にinterea、兵士たちは、元首(アウレリアヌス)を失って、諸使節をlegatosただちにstatimローマへと向ける。それは、元老院議員たちが彼ら自身の判断で皇帝を選ぶためだった。

35-10:彼ら(元老院議員たち)によって、それは汝らの自身の責務にmunusなかんずくふさわしいconveniretと答えたので、これに反してrursum諸軍団は彼ら(元老院議員たち)に委ねるreiciunt。

35-11:こうして、どちらも慎み深さと、そのうえac抑制によって張り合うことは、人々の武徳において類いまれでrara、とりわけpraesertimこのようなことについて、そのうえac 兵士たちにおいてはほとんどprope知られていない。

35-12:それほどまでに、かの人物(アウレリアヌス)は、厳格で、その上atque、清廉なincorruptis諸学芸でartibus影響力があったので、彼の殺害のnecisの<通知>nuntiusは首謀者たちにとってはauctoribus死でexitio、邪悪な者たちにとっては恐怖でmetui、そのうえacおぼつかない人たちにとってもdubiis同様でsimul、最良の者各々にとっては憧憬で、誰にとっても傲慢あるいはaut誇示ではなかった。その上今やatque etiam、あたかも彼にだけロムルスに(起きたような)空位期間の見せかけが転がり込むのだから、はるかにまさに(他の誰よりも)より一層誇りにするに足るのである。

35-13:その事実は、特にpraecipue以下を徹底的に知らしめた、すべてはその中で円環のように回転する(だけで)、そして(新たなことなど)何も起ったりはしなかった、ということを。というのは、これに反してrursum天性の力は時の機会をaevi spaioもたらすことはできないからである。

35-14:そのうえさらにadhuc、元首たちの武徳によって、物事は容易に復興できたり、ないし衰弱させられたりもし、そしてより強固な人々をがむしゃらにpraeceps諸不品行に委ねるのである。

第36章
36-1:かくしてigiturようやくtandem元老院は、アウレリアヌスの滅亡interitum後およそcirtiter 六か月目に、タキトゥスを執政官格たちのうちから、なるほどsane温厚な男だったので、皇帝に選出するcreat。ほとんどあらゆる者にとってより喜ばしいのは、兵士の凶暴さferociaから元首を任命する法iusを領袖たちがproceres取りもどしたことだった。

36-2:(とはいえ)やはりtamenその喜びはlaetitia短くbrevis、結末はexitu我慢できるものではなかった。なぜならnamque、タキトゥスはすみやかにconfestim支配の二〇〇日目の昼luceにティアナで死んだからであるmortuo、その時やはりtamen(彼は死の)直前にアウレリアヌス殺害のnecis首謀者たち、そして殊にmaximeque、軍司令官ducemムカポールーーというのは、彼自身の一撃で(アウレリアヌスは)滅びたoccideratからだった——、その彼を(タキトゥスが)拷問にかけてい(て死んだのだっ)た。同一人物の兄弟フロリアヌスは、元老院か兵士たちの決議consultoなしに、帝権を侵蝕したinvaserat。

第37章
37-1:彼は一ヶ月あるいはaut二ヶ月やっとのことで専制を手放さずにいたがretentata、タルススで彼の配下の者たちにab suis殺害される。

37-2:それは彼らがプロブスをイリュリクムにおいてなされたことを受け入れた後のことで、(プロブスが)戦争に関する並はずれたexercitandisque知識(を持ち)、そして様々に兵士たちを訓練すること、そのうえac新兵たちを鍛えることに関して第二のハンニバルも同然だったからである。

37-3: なぜならnamque、その者(ハンニバル)がオリーブの木々でアフリカの大部分を諸軍団を用いて(満たしたが)、諸軍団の余暇は国家や、その上atque、リーダーたちにductoribus疑われてしまうと考えてのことで、同じやり方で、この者(プロブス)は、ガリア、両パンノニアおよびモエシア人たちの諸々の丘をぶどう畑で満たしたからである。その後たしかに野蛮人たちの諸部族がgentes疲弊させられたのであるが、その諸部族は、我らの元首たちが彼らの配下の者たちの悪事によってscelere 殺害されinterfectis、同時にsimul サトゥルニヌスがオリエンスで、アグリッピナ(現ケルン)でボノススが軍隊により粉砕されるとcaesis、闖入してきていたのだったirruperant;これに対してnam、(サトゥルニヌスとボノススの)両者とも専制政治をdominatum、軍事司令官たちが指揮していた軍勢をmanu使って、企てていたのだったtenvaverant。このためqua causa、(プロブスは)すべてのことどもを受け入れreceptis、そして平和をもたらし、短時間でbrevi兵士たちは不用になってしまうだろうと言った、ということが暴露されたproditur。

37-4:このためhinc要するにdenique、それ以上にmagis苛立った者たち(兵士たち)が、わずか六年以内にシルミウムで(プロブスを)惨殺した、それは貯水地とそのうえac排水路で彼自身の故郷の都市を干拓させることを強いられたからで、その都市は湿地帯にあって冬の雨水で(今も)損なわれているからであるcorrumpitur。

37-5:それ以来abhinc 軍隊の統治権potentiaは増強し、そのうえac元老院によって選出されるべきcreandique帝権や元首の法は、我々の記録にいたるまで引ったくられた、それを(元老院)それ自体が怠惰のために望んだのか、(軍隊への)恐怖によってか、あるいは(軍隊との)軋轢を嫌悪odioしてのことだったのかどうかは、不確かであるがincertum。

37-6:実際、ガリエヌスの勅令により失った(元老院議員の)軍務を回復することも可能となったであろう、タキトゥスが統治する時に、諸軍団が慎み深くmodeste (その支配を唯々諾々と)甘受しておれば、そしてまたneque フロリアヌスが無謀にtemere(帝権を)侵蝕するinvasissetようなことをしなかったなら、あるいはaut (共和政代の規律正しい)歩兵中隊のmanipularium評定judicioでもって、帝権がだれか良い人物に、(すなわち元老院議員という)最高位の amplissimo、そのうえacそれほどの身分の者が陣営内で過ごしていればdego、委ねられたであろう。

37-7:しかしながらverum つまりdum、彼ら(元老院議員たち)は余暇を享受し、そして同時にsimulque富に十分注意を払い、その使い方とおごり高ぶりを不滅(の栄光)よりもより高く評価し(た結果、彼らは)、兵士たちやほぼpaene野蛮人たちが、(元老院身分)自らとそのうえacその後世の者たちを支配するようになるべく、道を整えていたことになる。

第38章
38-1:かくしてigiturカルスは近衛長官職の重職にあったが、正帝の衣をまとわされ、息子たちカリヌスとヌメリアヌスを副帝に(した)。

38-2:そしてそれゆえet quoniam プロブスの死が知られたので、蛮族の各々が好機とみてopportune(帝国国境を)侵蝕していたのでinvaserant、ガリアの防衛のためad muninentum長男を派遣し、(カルス自身は)ヌメリアヌスを随行してメソポタミアにすぐさまprotinus進んだpergit。というのもquod、そこがあたかもペルシア人たちとの恒常的な戦争(状態)にあったからである。

38-3:敵どもをhostibus敗走させた際、つまりdum、(カルスは)軽率にも栄光へより貪欲となり、パルティアの周知の首都[ク]テシフォンを越えてしまい、雷に打たれ炎上してしまった。

38-4:このことを、ある者たちは正当にも彼に起こったことだと記載している。というのもnam cum諸々の神託は、前述の町oppidumまでは勝利によって到達できると告げていたが、彼はより先に進んでしまい、処罰を受けたpoenas luitからである。

38-5:こうしてproinde、(凡夫の常であるが)もろもろの宿命をfatalia逸らすのは厄介でarduum、そのためeoque未来の知らせも聞き流してしま(い勝ちになるものである)。

38-6:だがatヌメリアヌスは、父を失い、同時に戦争がなし遂げられたconfectumと評価し、軍隊を撤退させようとしたとき、近衛長官で義父アペルの諸々の奸計によりinsidiis、彼は消されるexstinctis【3節でのカルスの「炎上」と対句で、ヌメリアヌスは「消火」されたと、言葉遊びか】。

38-7:その機会をもたらしたのは、青年(ヌメリアヌス)の両眼の苦痛である。

38-8:要するにdenique、長い間その(ヌメリアヌス殺害の)悪行facinusは秘匿されていた、つまりdum、輿で閉ざされ、死人を外見上病人のようにみせ、風で視力が損なわれないように(という口実で)、運ばれていたからである。

第39章
39-1:しかし、腐ってきた四肢の臭気で、悪事がscelus露見するproditumと、軍司令官たちducumと軍団将校たちのtribuniorumque助言により、警護兵たちを支配しているdomesticos regensウァレリウス・ディオクレティアヌスが、英知(に優れていた)ため選ばれるがdeligitur、彼はやはりtamenその諸々の(性格的な)特徴によりmoribusi気位の高いmagnus男であった。

39-2:実際quippe,彼は金を(織り込んだ)絹の衣服をもとめ、そのうえac紫と貴石の力を靴下に熱望した最初の人だった。

39-3:これらのことは、おごり高ぶりかつ尊大な精神において市民性を越えていたにもかかわらずquamquam、やはりtamenその他のことどもと比べれば軽微なことである。

39-4:なぜならnamque、彼はすべての人々のうち、自らをカリグラとドミティアヌスの後で、ご主人様と公然と言わせ、自らを神のごとく崇拝させ呼ばせることを受容した最初の人だったからである。

39-5:これらのことでもって、(ディオクレティアヌスの)本性がどうであれ、私は以下を確認するcompertum(自明であると考える)、最下層の者たちは誰であれ、殊にmaxime高みに上がった時、傲慢と、その上atque、野心によって抑制のきかない者となる、と。

39-6:それゆえ、マリウスが父祖の記憶において(そうであったように)、それゆえかの者(ディオクレティアヌス)が我らの(記憶)において、(ローマ人)共通の振る舞いを超越してしまっており、つまりdum、統治権に関与したことのない精神は、あたかもtamquam飢餓から回復した者のように、飽くことを知らないのである。

39-7:そのためquo、貴顕階級nobilitatiに大多数の者たちが傲慢を帰しているのは、私には不可思議に思えるmirum videtur。貴族patriciaeの部(氏)族のgentis諸々の煩わしさのmolestiarum思い出memorは、 (それで)悩まされている者にとって、特権のjuris避難場所 remedioとしてほんの少し際だたせて扱(ってほしいだけの)ことなのだが。

39-8:しかしながらverum、ウァレリウスの中のこれ(傲慢)は、その他の長所で隠され、さらには彼自身しかしご主人様と呼ばれることを黙認し、父親として振る舞った。そして(彼が)十分に聡明な男である事は明白である、現状のうとましさを知らしめることを、(ご主人様という)名の凶悪さを妨ぐこと以上にmagis欲したことで。

39-9:とかくするうちにinterim、カリヌスは、起こったacciderant事どもについてより一層知らされ、起こっている諸暴動がより安易に平定の方向に向かうだろうという期待で、イリュリクムへと急いでイタリアを迂回して向かう。

39-10:そこでibi、彼(カリヌス)はユリアヌスを、彼の戦列を敗走させて討ち果たすobtruncat。なぜならnamque、彼(ユリアヌス)はウェネティ人たちに監督官職をcorrectura行使していたのでageret、カルスの死をmorte知り、 帝権をひったくることeripereを熱望し、到着した敵にhosti(カリヌス)向かって進んでいったのだった。

39-11:だがat、カリヌスはモエシアに到達した際に、即刻illicoマルクス川Marcus(Margus)近くでディオクレティアヌスと交戦しcongressus、つまりdum敗残兵たちを貪欲にavide急追していて、配下の者たちの一撃でictu亡くなったinteriit。というのも、(彼は)情欲においてlibidine抑制がきかず、兵士たちの大多数(の女たち)を手に入れようとしたからである。彼女らの男たちはより一層敵対感を募らせていたが、やはりtamen憎しみと侮辱を、戦争の終結eventumまで先延ばししていたdisfulerantのであった。

39-12:彼にとってきわめて上首尾となりそうだったので、それを恐れて、このような(カリヌスの)本性がますますmagis magisqueかの勝利によって放縦にならないように、彼は彼ら(兵士たち)自身によって報復されたultusのである。これがカルスと息子たちの最期である;(カルスは)ナルボが祖国で、二年間の帝権だった。

39-13:かくしてigiturウァレリウス(ディオクレティアヌス)は、軍隊への最初の演説で、剣を抜き、太陽を見据えて、ヌメリアヌスの災難を知らず、また帝権を熱望していないと誓いを立てていた時、すぐ近くに立っていたアペルを一撃で一刺しする;彼(アペル)の策略によって、我々が先述している通り、若者(ヌメリアヌス)は善良で能弁で、(アペルの)婿であったが、滅びたからだった。

39-14:その他の者たちには恩赦が与えられ、そして敵対者のほぼ全員と、そのうえac殊にmaxime突出した男、(すなわち)アリストブルスという名の近衛長官が、彼ら自身の職務に留め置かれたretenti。

39-15:このことは、人間が記憶して以後、内戦で誰も資産fortunis、名声fama、地位dignitateを奪われなかったことなど、新奇で、その上atque、驚くべきことだった。というのは、我々は、(事後処理が)並はずれて誠実にpieそして穏やかに行われ、追放、財産没収、その上atque今やetiam諸処刑suppliciisや諸殺戮caedibusに限度が設けられることを歓喜するからである。

39-16:なぜ、私はそれらのことについて言及すべきであろうか、(すなわち)多くの人々や外国人たちを仲間に引き入れ、ローマ法の恩恵の下で見守りまた促進することについて。

39-17:なぜなら、彼(ディオクレティアヌス)が、カリヌスの(ガリアからの)出立によってdiscessu、ヘリアヌスとアマンドゥスがガリアで、住民たちがバガウダエと呼ぶ野育ちの連中とそのうえac盗賊たちの軍勢により駆り立てられ、広範に荒らされていた地域において諸都市の多くを襲っているのを確認すると、(ディオクレティアヌスは)直ちに、(彼との)友情に誠実なマクシミアヌスを、にもかかわらず(彼は)半ば田舎育ちだったが、やはり軍事と、その上atque、本性において優れていたので、皇帝に命じる。

39-18:この者にその後、守護神礼拝でヘルクリウスという添え名がcognomentum付け加わった。ウァレリアヌスがヨウィウスとされたように;そこから今やunde etiam、軍隊内ではるかにlonge図抜けているpraestantibus補諸々の助軍auxiliis兵士たちに、その名が課せられた。

39-19:しかしヘルクリウスはガリアに進発し、敵は撃破されるか、あるいはaut受け入れられ、すべてを短期間で鎮圧することをなし遂げた。

39-20:その戦争で、カラウシウスは,メナピアの市民であるが、より抜かりない諸行動で耀いていたenituit;そして彼を、同時に舵取り[その職務で青春時代に賃金を(得るべく)訓練されていたので]に精通していたので、彼ら(マクシミアヌスとディオクレティアヌス)は艦隊を調達しparandaes、そのうえac海を脅かしているinfestantibusゲルマン人たちを撃退するために、その長官職に任じた。

39-21:(カラウシウスは)このことによって一層傲慢となり、未開の地で多くの人々を粉砕しながらも、戦利品のすべてを国庫に持ち帰らないようにしていたため、ヘルクリウスを恐れて、というのもそのヘルクリウスによって彼自身の殺害が指示されたことが確認されたので、帝権を引き寄せるためにブリタンニアへと急行した。

39-22:その頃、東方ではペルシア人たちが、アフリカではユリアヌスとそのうえacクインクエゲンティアニの諸民族が、激しく混乱を巻き起こしていた。

39-23:そのうえさらに、アエギュプトゥスのアレクサンドリアでは、アキレウスという名の者が専制の徽章insigniaを身に帯びていたinduerat。

39-24:これらのことが原因となって、彼ら(マクシミアヌスとディオクレティアヌス)はユリウス・コンスタンティウスと、ガレリウス・マクシミアヌスーーアルメンタリウス(牧夫)という添え名であったーーを副帝に擁立しcreatos、縁戚関係に呼び寄せる。

39-25:前者(コンスタンティウス)はヘルクリウスのまま娘[テオドラ]を、後者(ガレリウス)はディオクレティアヌスから生まれた娘[ウァレリア]を得て、それぞれ最初の妻たちと別れて娶る。ティベリウス・ネロとそのうえac娘ユリアについてアウグストゥスがかつてquondam行なったように。

39-26:彼らのなるほどsane全員にとってイリュリクムが祖国であった。彼らは教養には乏しかったにもかかわらずquamquam、やはり田舎やそのうえac軍事(での生活)の諸々の悲惨さに鍛えられており、国家にとって十分にsatis最良の者たちであった。

39-27:それゆえに、以下は自明であるconstat。高潔で聡明な者たちのほうが、悪しき意識に対してより抜かりなく対応でき、そしてそれに対し困窮を免れていた者たちは、つまりdum自分たちの諸力をopibusすべてと過信しがちなので、ほとんど対処できないのである。

39-28:しかし、彼らの一致が殊にmaxime知らしめたのは、武徳において本性とよき軍事の経験がーーそれは彼らにとりアウレリアヌスとプロブスの教育によってinstitutumだったーー、ほぼpaene十分だった(ということである)。

39-29:要するにdenique、彼らはウァレリウス(ディオクレティアヌス)を、父として、偉大な神のように敬仰していたsuspiciebant。そのことをどのようでかつどれほどのものであるかは、首都(ローマ)の創建から私たちの時代まで、近親の者たちのpropinquorum諸悪行facinoribusによって明示されている通りである。

39-30:そしてその諸戦争の重荷がmoles、それについて我々は上で言及したが、より鋭くacrius急迫していたために、帝国を四分して、アルプスの向こう側の諸ガリア全体はコンスタンティウスに委ねられcommissa、アフリカとイタリアはヘルクリウスに、イリュリクムの沿岸からずっとポントゥスの海峡まではガレリウスに(委ねられた);残り(の東部)をウァレリウスは手放さなかったretentavit。

39-31:このため要するにdenique、イタリア(半島)の一部[北部]に、諸貢(納税)の莫大な損害malumが引き起こされたinvectum。これに対してnam、(ヘルクリウスは他の)全土には、同じ実行に際してしかし控えめにmoderate振る舞ったageret、それというのも軍隊と、そのうえatque、皇帝も常にあるいはautだいたいの場合その部分(ミラノを中心とする北イタリア)にいたからだが、(そこが軍隊と皇帝を)支えることができるように、諸課税pensioniusのため新法が導入されたのである。

39-32:それはなるほどsane、かの諸時代の慎み深さmodestiaにおいては我慢できてもtolerabilis、このような嵐(の諸時代)においては、破滅になってしまったのである。

39-33: とかくするうちにinterim、ヨウィウスはアレクサンドリアへと進発してproficio、一つの任務を副帝マクシミアヌス(ガレリウス)に信託していたcreditaが、それは(ガレリウスが自分の)諸領土をあとに残して、ペルシア人たちの諸突進を遠ざけるべくarceret、メソポタミア内に進むように(という任務だった)。

39-34: 彼らによって初め激しく苦しめられた彼(ガレリウス)は、速やかにconfestim古参兵たち、そのうえac新兵たちからなる軍隊を結集し、アルメニアを経由して敵対者たちhostesへと急行したcontendit;それが、ほぼ唯一の、またはより容易に打ち負かすための道なのである。

39-35:要するにdenique、ちょうどその時ibidem(ガレリウスは)ナルセウス王を、同時にsimul子どもたちと妻たち、そして王宮を、主権の中にin dicionem 屈服させたsubegit。

39-36:とりわけ(それほどに)adeo、勝利者ウァレリウスが、彼の意向によってnutuあらゆることが行われたので、不確実をincertum理由にして(新獲得領土を属州にすることを)拒絶しなかったならば、ローマのファスケスが新属州内に運び入れられたferrenturであろう。

39-37:しかしながらverum、(占領地の)より有用な諸々の大地のterrarum一部が、やはりtamen我らに獲得された;それらがより執拗に返還要求されるので、最近の戦争が、並はずれて深刻かつ破壊的に招来されたのである。

39-38:だが、アエギュプトゥスの中ではアキレウスが(ディオクレティアヌスによる)巧みな取引で敗走させられ、諸々の処罰を受けた。

39-39:アフリカにおいて、あちこちで諸々の同様の事績がなされ、そしてカラウシウスのみに、(ブリタニアの)島の帝権が付託された。(それは彼が)住民たちへのもろもろの指図とそのうえac防衛で好戦的な諸部族にgentes対して、より好都合と認められた後のことだった。

39-40:彼に対し、なるほどsane 六年後にアレクトゥスなる名前の者が計略により包囲する。

39-41:彼(アレクトゥス)は彼(カラウシウス)の許可で、財務をsummae rei管理していたが、破廉恥な諸行為とそれらを行ったゆえの犯罪による死への恐怖から、悪事によって帝権をもぎ取ったのであった。

39-42:彼(アレクトゥス)によって使用された(帝権)を、短期間でbreviコンスタンティウスは、アスクレピオドトゥスーー彼は近衛長官として統括していたーーによって、艦隊【cf., 39.20】をそのうえac諸軍団の先遣されていた一部と共に殲滅した。

39-43:そしてその間にinterer、マルコマンニ人は粉砕されcaesi、そしてカルピ人たちの民族全体が我らの土地に移動させられた、ほとんどその一部はすでにjamその時tumアウレリアヌスの(時代)からいたのだが。

39-44:より少なくない平和への熱意によって、諸職務が最も公正な諸法令によって拘束され、そのうえac穀物価格調査官のfrumentariorum有害な輩が退けられた、今やそれらと最も似た存在は伝奏官たちagentes rerum【=a. in rebus】である。

39-45:彼らは、諸属州内でひょっとしてforte何らかの暴動になるかもしれない動きがあるかどうかを、調査および告げ知らせるべく存在したとみられていたのだが、非道にも諸々の告発がでっち上げられ、至る所で恐怖が引き起こされ、特にpraecipueもっとも遠隔地では誰でも、彼らはあらゆるものをむごたらしく強奪していたのだった。同時にsimul、首都(ローマ)の穀物とそのうえac納税者たちの安全が気にかけられ、そして用心深く保たれ、そして上流身分層のhonestiorum上昇、その代わりにa contra 、破廉恥行為者たちは償わされ、諸武徳へのあらゆる熱意は増大されていた。最古の諸々の宗教儀礼は非常に敬虔に遂行され、そのうえac不可思議なmirum方法で、新たにそのうえさらに立派に洗練された諸々の建物によって、ローマの諸々の丘の上および他の諸都市が装飾された、殊にmaxime、カルタゴ、メディオラヌム、ニコメディアがそうだった。

39-46:しかし、彼らはこれらの事を行っていたにもかかわらず、度を越した諸悪徳が存在した。というのも、ヘルクリウスはあまりにも情欲で行動し、(男女の)人質たちの身体に関して(彼の)気質の欠陥をたしかに抑制できないほどだったからだ。ウァレリウスに関しては、同僚皇帝たちの中で誠実な信頼がなるほどsaneなかった。それは多大なる不和を恐れるあまりのことだった。つまりdum様々な主張によって共同統治の平穏を乱される、と彼が考えていたからである。

39-47:このため今や首都(ローマ)の武装armisすら無力化されたも同然で、諸近衛大隊の、その上atque、都市警備隊の中の員数が減らされた、これにより、たしかにquidem多くの者たちが帝権(の首都機能)が移ったと主張するのである。

39-48:なぜなら、差し迫った事どもの検査官scrutatorが天命(神託)によって国内の諸災難が、そして何らかの崩壊が目前に迫っているとローマの状況を確認すると、支配の二〇年目が祝賀された際に、(まだ壮健だったにもかかわらず)より権力を有している者(ディオクレティアヌス)が、国家の管理を放棄したのであった。その際、(彼は)ヘルクリウスをその見解へと、やっとのことで導いていた。彼(ヘルクリウス)は彼(ウァレリウス)よりも一年短い職権だった。そして、にもかかわらず他の者たちは別の事どもを高く評価するので、真の敬意がgtratia実際には崩壊していても、我々には(彼の)卓越した天性によって、周囲(の思惑)から離れて、(彼は)普通の生活へと下野したのだと思われたのである。

第40章

40-1:かくしてigiturコンスタンティウスと、その上atque、アルメンタリウス(ガレリウス)が彼らを継承し、セウェルスとマクシミヌスがイリュリクム生まれであるが、副帝として、前者はイタリアを、そして後者はヨウィウスが得ていた諸領土を任じられる。

40-2:そのことに、コンスタンティヌスは耐えられず、彼の精神はすでにその時少年のころから並はずれて強かったので、(父を継いで)統治すべきであるという激情によって苦しめられていたので、(ガレリウスのもとからの)逃走を計画し、追跡が台無しになるように公用馬などを、通過した行路の至るところで殺害して、ブリタニアへと到着する。というのは、彼はガレリウスによって(父コンスタンティウスの)忠誠をつなぎとめるために、人質という口実で掌握されていたのである。

40-3:そしてたまたま同じ日々に、同じ場所(ブリタニア)では国父の、否むしろ(コンスタンティヌスの)産みの親のコンスタンティウスに、臨終が差し迫っていた。

40-4:彼が死ぬと、居あわせたすべての者たち、すなわち(コンスタンティウスの)配下の者たちによって、彼(コンスタンティヌス)は帝権を獲得する。

40-5:とかくするうちに、ローマの大衆と近衛軍団騎兵部隊turmae praetoriaeが、マクセンティウスを、父ヘルクリウスにより長い間却下されていたのであるが、皇帝に正式に認める。

40-6:その情報をアルメンタリウス(=ガレリウス)が受け取ると、副帝セウェルスに対して、たまたま(セウェルスが任地である)首都(ローマ)へ向かっていたので、武装してarma敵に向かって速やかに進むよう命じる。

40-7:彼(セウェルス)は城壁の周囲に滞陣していた時、自身の(手勢)によって見捨てられた。彼らを褒賞でマクセンティウスが引き込んだったのである。彼(セウェルス)は逃亡し、そしてラウェンナで包囲され、没したobiit。

40-8:このことで激したガレリウスは、会議の中にヨウィウス(=ディオクレティアヌス)を受け入れ、古くからの知己リキニウスを正帝に選出し、そして彼(ガレリウス)は彼(リキニウス)をイリュリクムとそのうえacトラキアの防衛に残して、ローマへと急行した。

40-9:そこでibi 彼は包囲により長引かされ、兵士たちが先の連中がそうであったように、同じ方法で誘惑されるのではと心配して、イタリアから退却した。そして少し後に paulosque post 悪疫性の(ただれた)傷により消耗死した。それは、土地が十分にsatis国家に益するように広大な森を伐採しcaesis、その上atque、ヌビウス(川)へとパンノニア人たち(の地に)にあるペルソ(現バラトン)湖から放流させるよう(土木工事を)行っていた時の事だった。

40-10:そのためcuius gratia、彼はその属州を妻の名前にちなんでウァレリアと呼んだ。

40-11:この者(ガレリウス)にとり(正帝として)五年の帝権で、コンスタンティウスにとり一年のそれであった。なるほどsane両者とも副帝の統治権を十三年間司どった後のことだった。

40-12:とりわけadeo(ディオクレティアヌスによって与えられた)驚異的な天性の諸々の恩恵によって、彼らはそれ(素質)を、もし学識の諸心情からa doctis pectoribus進発させ、そして愚昧により害されなかったなら、彼らはまったくhaud疑いなく出色なもろもろを持ったであろうに。

40-13:それゆえquare確認されていたのはcompertum、博識、優雅さ、人品のよさが、とりわけ元首たちにとって不可欠であるということである。というのも、それらなくしては、天性の良きものが、ほとんどあか抜けないだけでなく、それどころか今やaut etiamおぞましい存在として軽蔑されるようになってしまい、そして逆に、それらは、ペルシア人たちの王キュルス(キュロス)に永遠の栄光を調達したのである。

40-14:しかし私の記憶では、それらがコンスタンティヌスを、(彼は)それ以外の諸々の武徳を備えているにもかかわらず、諸天まですべての人々の祈願によって遡上させたのであった。

40-15:彼がたしかに、もし気前よさと、その上atque、野心に抑制を、そしてそれらの諸学芸によって設けていたら、特にpraecipue増長した諸々の本性ingeniaは、栄光への執着によりむしろ一層対極へと進んだのだが、まったくhaudそれほど神から遠くない存在になっていただろうに。 

40-16:(コンスタンティヌス)は、首都と、その上atque、イタリアが荒らされたvastariことを確認するcomperit。そして、(二人の)軍隊と二人の皇帝たち(セウェルスとガレリウス)が敗走もしくは買収されたことを知る。(その時コンスタンティヌスは)和平を諸ガリアで確立して、マクセンティウスに向かう。

40-17:その時点でea tempestate、ポエニ人たちの所でアレクサンデルが長官prefectoとして【実際は、管区長官vicarius】司っていたが、専制政治へとdominatui愚かにも身を投じた【308年】。彼自身は老齢で弱っていたが、農夫でそのうえacパンノニア人の両親たちよりも常軌を逸しており、兵士たちが拙速に求められ、諸々の武装のarmorum半分をやっとのことでvix持ちえたのだった。

40-18:要するにdenique、彼(アレクサンデル)に暴君から送られたごく少数の歩兵大隊によりcohortibus、近衛長官ルフィウス・ウォルシアヌスとそのうえac軍事(に長けた)軍司令官たちが、小競り合いでlevi certamine(彼を)屠ったconfecere。

40-19:彼を打ち倒すと、マクセンティウスはカルタゴ、すなわち諸々の大地の栄誉decus で同時にsimulアフリカの中できわめて美しい(街)が荒らされvastari、強奪されdiripi、そして焼き払われるようincendique命じた。彼は、粗野でそして非道でinhumanus、そのうえac著しい情欲のためより忌むべきtetrior(存在)だった。

40-20:そのうえさらにadhuc(彼は)臆病で、そして戦争嫌いで、その上atque、恥ずべきことにfoede無為へとdesidiam傾きがちで、そこまでusque eoイタリア中で戦争が燃えさかり、そしてウェローナで彼の(手勢)が敗走させられても、少しもhihilo くじけることなく、普段通りのことをsolita差配していて、父の死によってもexitio動揺させられなかった。

40-21:なぜならnamqueヘルクリウスは天性きわめて放縦で、同時にsimul 息子の無気力さをsegnitiem心配して、軽率にも帝位へ舞い戻ってきたのだった。

40-22:そして、外見上役目と見せかけて諸々の策略を企んで、婿のコンスタンティヌスを苛烈に苦しめていた時に、正当にもようやく亡くなった。

40-23:しかしマクセンティウスは日々より凶暴になり、ようやく首都からサクサ・ルブラへと九ローマ・マイルほど辛うじて進んだが、戦列がacie粉砕され caesa、逃亡して、自身ローマへと舞い戻ろうとして、敵に(向けて)ミルウィウス橋に設置しておいた諸々の奸計によって、テヴェレ川の渡河中に命を奪われた。暴君の六年(目)のこと(だった)。

40-24:彼の殺害によってcede、とても信じられないことだが、喜びと歓喜で、元老院とそのうえac平民たちも小躍りしたはずであった。彼らを、彼(マクセンティウス)がこれほどまでに痛めつけていたからであった、彼は近衛兵たちに大衆の殺戮をかつて賛同したことがあり、そして以下の最初の人物として、最も悪い企てをもってinstituto、(租税の)責務を見せかけにして、元老院議員たちpatresと自営農民たちにaratores、自らが浪費するために金銭をpecuniam調達するように強いたほどだったからである。

40-25:彼ら(元老院義委員たちと自営農民たち)の嫌悪によって、近衛諸軍団praetoriae legionesとそのうえac諸々の予備部隊はsubsidiaは、首都ローマ(のため)urbi Romaeよりも諸党派により適合していたので、徹底的にpenitus廃棄させられsublata、同時にsimul諸々の武装armaと、その上atque、軍服(戎衣じゅうい)のindumenti militaris使用も(廃棄された)。

40-26:その上さらにadhuc、彼(マクセンティウス)が壮麗に建設していたすべての建造物、首都の聖所(ロムルス神殿)、その上atque、バシリカをフラウィウス(コンスタンティヌス)家の功績のために、元老院議員たちはpatres聖別した。

40-27:彼(コンスタンティヌス)によって、その後においてもetiam post、大競技場は驚くほど飾り立てられ、その上atque、入浴のためにad lavandum企てられた建造物は、他の諸(浴場)に  まったくhaud引けを取らないものであった。

40-28: (コンスタンティヌスの)諸彫像ができるだけ活気のある諸々の場所に置かれ、それらの多くが金を素材にしてex auro、あるいはaut銀製なのargenteaeである。他方tum、アフリカでは、フラウィウス(コンスタンティヌス)部(氏)族gentiに向けて神官団が決議され、そしてキルタの町にoppido、そこはアレクサンデルの攻囲によって崩れ落ちていたが、原状復帰されそして装飾を施され、コンスタンティナの名前が下賜された。

40-29: とりわけadeo、(コンスタンティヌス以上に)より受け入れられそしてより際立っていた者は、暴君どもの撃退者たちのうちに誰もいない。彼ら(撃退者たち)への好意は、彼(コンスタンティヌス)よりも、ついにはdemumより増大したであろう、もし彼ら自身が控えめで、その上atque、節度があれば(の話)であるが。

40-30:実際quippe、台無しにされた人間たちの諸気質は、良き人(コンスタンティヌス)への期待に対して、より残忍に害されるのである、破廉恥きわまりない指揮者rectorが変えられ、さまざまな困窮の力が持続している時には。

第41章

41-1:つまりdumこれらのことがイタリア内でなされている間に、マクシミヌスは(帝国)東部において、二年間の正帝の帝権の後、リキニウスによって撃破され、逃亡させられ、タルススで亡くなる。 

41-2:このようにローマ世界の権能はpotestas、二人によって掌握され、たとえ彼らがリキニウスに嫁がされたフラウィウス(コンスタンティヌス)の妹によって、二人の間が結びつけられていたとしても、(両者の)相反する性質のため、やはり気を配って三年間(だけ)協同することができた。

41-3:なぜならnamque、前者(コンスタンティヌス)には他の†並はずれてadmodumすばらしいことどもが、後者(リキニウス)には吝嗇でそしてたしかにその野育ちだけtantummodoが、内在していたからである。

41-4:要するにdenique、コンスタンティヌスはすべての敵どもを、顕職honoreとそのうえac保有する資産ごと保全し、そして受け入れた。その点、彼は慈悲深かった、(すなわち)今やetiam、古くそしてきわめて忌むべきteterrimumque横木(pl.)を用い(両足の)脛をへし折る処刑【磔刑のこと】を、初めて退けようとしたほどだった。

41-5:これゆえに、彼は(新らしいローマの)創設者ないし神deoとしてみなされた。リキニウスにおいては、無実のたしかにquidemそのうえac貴顕階層の哲学者たちにも、奴隷的に扱う習慣だった磔刑(pl.)が、制限されなかった。

41-6:彼(リキニウス)はなるほどsaneさまざまな諸戦闘で敗走させられ、彼(コンスタンティヌス)をひたすらprorsus押し潰すのが困難であると思われたので、同時にsimul、姻戚関係によって僚友(関係)が回復され、そして是認されたのは、副帝たちの帝権に、フラウィウス(コンスタンティヌス)から産まれたクリスプスとコンスタンティヌス(二世)が、リキニウスからのリキニアヌスだった。

41-7:このことはたしかにquidemほとんど長続きせず、そして任用された者たちに幸運は恵まれはしないだろう、それは以下で明らかなことであった。日蝕によりdefectu solis、同じ月々に(pl.)iisdem mensibus 昼間がdie損なわれた【実際はおそらく火山噴火の影響で数ヶ月間日中も暗くなったことを言っているのだろう】。

41-8:こうして、六年の後に平和は破られ、トラキア人たち(の地)でリキニウスは敗走させられ、彼はカルケドン(退却を)甘受した。

41-9:そこでici 、(リキニウスは)自身の援軍のためマルティニアヌスを帝権に追加選出したが、共に押し潰されたoppressus est。

41-10:このようにして、国家は一人の意向でunius arbitrio司られ始め、(コンスタンティヌスの)子どもたちによって、副帝たちの名前で諸々の異なる(諸職務)を手放さなかった。なぜならnameque、その時に、我らが皇帝コンスタンティウスに、副帝の徽章が委ねられたからである。

41-11:彼らの中の、生まれの点でより早い者(クリスプス)が、その理由ははっきりしないが、父(コンスタンティヌス)の評定によって滅びた時に【326年】、突如repenteラクダ部隊の指揮官magister pecoris camelorumカロケルスCalocerusがキプロス島を支配を見せかけに無謀にもdemens掌握していた。

41-12:その彼が、神の掟にあったように、奴隷とあるいは盗賊どものやり方で、拷問にかけられると、(コンスタンティヌス一世は)首都(コンスタンティノポリス)を創建し、そして諸々の宗教儀礼を形作り、並はずれた精神を呼び覚まし、同時にsimul軍事組織を刷新した。   

41-13:そしてその間に、ゴート人たちとサルマタエ人たちの諸部族がgentesひれ伏し、そして全員の中で最年少の息子が、名をコンスタンスというが、副帝となる。

41-14:彼のせいで、(将来)混乱が起きるといった、諸々の前兆の驚異が露見した;実際に、帝権開始のその日に続くかの夜に、もえ続く炎によって天の様相が炎上したのであった。    

41-15:それ以来ほぼabhinc fere 二年が経過すると、(異母)兄弟の息子を、彼は父親に由来してダルマティウスという名前であったが、(コンスタンティヌスは)副帝に命じた。兵士たちは猛烈に妨害したのだが。

41-16:こうして、帝権の三十二年目、全(ローマ)世界を十三年掌握して、生まれて六十と、その上atque、二(六十二歳)以上で、彼はペルシア人たちへと向かったが、(それは) 彼らによって戦争が起こり始めていたからだったが、ニコメディア近くの田舎で、アキュロアと皆が称しているvocantところで、彼はみまかった。このことを、諸支配にとって忌むべき星辰、彗星と皆が称するものが予告していたごとくだったのだが。

41-17:遺骸は彼自身の都市(コンスタンティノポリス)へと連れ帰られた。このことをなるほどsaneローマの民衆はきわめて不快にみなしたのである。実際quippe、彼の諸々の武装armis、諸法律、寛容な帝権によって(コンスタティヌスが)その都市を新たなローマと(すなわち、首都にしてしまったと、ローマの民衆は)みなしたのだ。

41-18:ダヌビウス(川)を渡る一つの橋が築かれ、諸々の陣営と要塞がより多くの場所に適切に置かれた。

41-19:(帝都ローマとコンスタンティノポリスへの)オリーブ油と穀物の例外的な納入が退けられた。それらによってトリポリスとそのうえacニカエアがより一層苛烈に悩まされていたからである。

41-20:これらの(都市)うち、先の(トリポリスの)者たちは、セウェルスの帝権のころ、(かの同郷の:cf., 20.19)市民に(すなわち、セプティミウス・セウェルスのことで、皇帝就任の)祝賀の意味で献上していたのであるが、そしてうわべを取り繕っているうちに(既成事実化されて)、その敬意が諸々の責務に逆転し、(トリポリスの)後世の者たちの破滅へと向かった。他方の(ニカイアの)者たちを、マルクス・ボイオニウス(M.アウレリウス・アントニヌス)は制裁金で衰弱させていた。これは、(ニカイアの人々が)際だった本性を持つヒッパルクス(ヒッパルコス)が、その土地生まれだったことに無知だったからだった。財政の逼迫はきわめて厳しく焦眉の課題だったので、そしてあらゆる事どもが(まさしく)神儀と同等とみなされたであろう、もし彼(コンスタンティヌス)がわずかな威厳すら持たない者たちに国事への便宜を(与えることを)甘受しなかったとしたら(の話であるが)。

41-21: これらのことが、煩瑣に起こったにもかかわらず、やはり最上の本性と、その上atque、国家の最良の諸慣習において、たとえささいな諸悪徳でもそれ以上にmagis際立ち、そしてそれゆえに容易に指摘されがちで、むしろ今やquin etiamより激しく煩瑣に足元をすくわれるのである、たとえ、その諸悪徳が模範となる栄誉decusのために、最も力強い諸武徳によって是認され、その上atque、まねしようとすることへと招くことになるからだ。

41-22:かくしてigitur、速やかにダルマティウスは、誰が使嗾者であるのか分からないが、殺害されるinterficitur。そしてただちにstatimque三年後に、遅かれ早かれ(コンスタンスとの兄弟間の)宿命的といえる戦争において、コンスタンティヌス(二世)は滅びるのであるcadit。

41-23:この勝利によって、コンスタンスは一層おごり高ぶり、同時にsimul年齢についてあまり気にせず、その上atque、精神において闊達であった。その上さらにadhuc、下僕たちの頑迷固陋によっておぞましく、その上atque、、貪欲な傾向があり、そして兵士たちに軽蔑され、凱旋後の 一〇年に、マグネンティウスの悪事によってはめられてしまった、なるほどsane彼(コンスタンス)は、対外諸部族のgentiumの諸暴動を鎮圧していたのだが。 

41-24:彼(コンスタンス)は、それら(諸部族)の人質たちから、金銭でより優雅な少年たちを獲得した、そのことできわめて洗練されていると思われたかったからであるが、彼はこの種の情欲で悶々としていたことは確かなことと思われている。(それでも)やはり、これらの諸悪徳が存続したままであったほうがよかったのだ!

41-25:なぜならnamque、すなわち野蛮な部族の出だったマグネンティウスのおぞましくかつ凶暴な本性によって、同時に後に起こったこれらによって、とりわけあらゆるものが消滅させられたのでexstinctis、彼(コンスタンス)の帝権がまったくhaud不当でなく熱望されたのだった。       

41-26:その後たまたまtum quia 、ウェトラニオがVetranio、(彼は)ひたすらprorsus文盲でそして本性的にきわめて愚鈍、そしてそれゆえidcircoque、野育ちのagresti愚行vecordiaで最悪(の人物)であったが、イリュリクム人たちのところで歩兵長官としてpeditum magisteri兵士たちを管理していた時、専制を上モエシアのきわめて不毛の地の生まれの者が、厚かましくもimprobe占有したのであった。       

第42章

42-1:彼(ウェトラニオ)を、コンスタンティウス(二世)は一〇ヶ月以内に弁舌の力によって、帝権から下ろし、私人の隠棲へと身を退かせた。

42-2:この(平和裏での政権奪取の)栄光は、帝国誕生後、彼(コンスタンティウス二世)ただ一人が能弁と寛容さによってもたらしたのである。

42-3:これに対してnam、両者のかなりの部分の軍隊が集合していた時、評定の趣で演説が行われたことにより、こういった事はほとんどやっとのことで、それどころかaut多くの血により得られるはずのものだったが、雄弁さによって彼は成し遂げてしまったのである。  

42-4:このことが十分に satis知らしめたのは、内政ばかりでなく軍事でもmodo domi verum militiae、(コンスタンティウス二世の)弁論の多才さがきわだっているということである。これ(多才さ)によって、ついにはdemum厄介ごとすらきわめて容易に成し遂げられる。もし(その才ある者が)慎み深さと、その上atque、廉直さにおいて優位にあるのであれば、であるが。  

42-5:こういったことは、殊にmaxime我らの元首(コンスタンティウス二世)から知られているところである;彼をやはり、直ちにstatim他の諸々の敵のところへイタリアに向けて急行できないように、苛酷な冬と閉ざされたアルプス(山脈)が阻んだのであった。 

42-6:とかくするうちにローマで大衆が堕落し、同時にマグネンティウスに対する反感もあった。ネポティアヌスは、フラウィウス(家)の母方の血統の近親者であるが、(ローマ)都市長官が粉砕されると、武装した剣闘士たちの軍勢によって皇帝とされた。

42-7:彼(ネポティアヌス)の愚鈍な本性は、とりわけローマの平民にとって、そして元老院議員たちにとってpatribusque死(を意味したの)だった。というのは、至る所、(すなわち)諸々の邸宅、広場、通り、そして神殿が、その上atque、血と諸々の屍によって墳墓のように覆い尽くされるほどであったからである。

42-8:彼(ネポティアヌス)によってだけでなく、しかしながらverum今やetiam急いでやって来たマグネンティウスの(手勢)にも(ローマは荒らされ)、(その手勢は)三十日に三日足らず(二十七日間)で敵(ネポティアヌス)を打ちのめしたのである。

42-9:しかし、すでにそれ以前に、外的諸暴動(の発生)が疑われていたので、マグネンティウスは兄弟のディケンティウスに諸ガリアを、コンスタンティウスはガルスに、彼の名前を自分のそれに変えさせて(Fl.Claudius Constantius )、オリエンスを、副帝たちとして委ねていた。

42-10:彼ら自身(マグネンティウスとコンスタンティウス)は、お互いに、より激しい諸戦闘によって三年間衝突した;最終的にextremum、コンスタンティウスが、ガリアへと逃亡した彼(マグネンティウス)を追撃して、両者(マグネンティウスとディケンティウス)をさまざまな罰でもって、彼ら自ら自殺するように強いた。  

42-11:そしてその間に、ユダエア人たちの反乱が押し潰されたoppressa 。彼ら(ユダエア人たち)がパトリキウスを非道にも支配のregni見せかけで登位させていたからである。

42-12:多くの時を置かずに、冷酷で、その上atque、残忍な精神のため、ガッルスは正帝の命により亡くなった。

42-13:このように(ディオクレティアヌス以来)長い間隔を置いて、ほぼfere七〇年後に、一人者へ国家の管理が戻された。

42-14:この近年の平穏さは、市民的動揺のために帝権へと駆り立てられたシルウィヌスによって、これに反してrursus(騒乱へと)企てられ始めたのであった。

42-15:なぜならnamque、そのシルウァヌスはガリア内で野蛮人の両親たちから生まれ、軍人の身分になり、同時にsimulマグネンティウスからコンスタンティウスへと移ったために、歩兵長官職をかなり若かったが獲得していた。  

42-16:そこから、彼はより高い(地位に)恐怖ないしは狂気に駆られて登りつめた時、諸軍団の、それらによる庇護を彼は期待していたのだが、その諸軍団の騒擾により、約二〇とそのうえac八日(二十八日間)で、惨殺された。

42-17:このため、このようなことが天性押さえがきかないガリア人たちの間で(反乱が)繰り返えされないように、とりわけゲルマン人たちがしばしば(諸ガリアの)一部を襲っていたため、彼(コンスタンティウス二世)は、副帝に血縁関係ゆえに受け入れられたユリアヌスを、自身にアルプスの向こう側の諸地域について任じた。そして彼(ユリアヌス)は粗野なferas諸民族を短期間で屈服させた、悪名高い王たちを捕獲することにより。

42-18:これらの事どもは、彼(ユリアヌス)の力とはいえ、元首(コンスタンティウス二世)の幸運とやはりそして賢察によって起こったのである。

42-19:そのことはとりわけ以下において際立っている、ティベリウスとガレリウスは他の人々に服従していてこそ多くの偉業を(なしえたのだが)、しかるにautem彼らは、自身で統率と、その上atque、卜占をするとなると、同等よりも少ない経験しかなかったのである。

42-20:だが、ユリウス・コンスタンティウス(二世)は、三と、その上atque、二十年で(二十三年間)正帝として帝権を支配し、外的諸暴動ばかりでなく内的なそれらに忙殺されていて、(今現在)彼はようやく諸武装を解いている。

42-21: 彼(コンスタンティウス二世)は、多くの暴君たちを駆逐し、そしてとかくするうちに、ペルシア人たちの突進に耐えて、サルマタエ人たちの部族に偉大な栄誉で彼らの面前に着席し、一人の王を与えた。

42-22:そのことを、グナエウス・ポンペイウスが、ティグラネスを復権させた折に、そしてかろうじて祖先のうちほんの少数の者たちがなしたことを私たちは確認しているcomperimus。

42-23:彼(コンスタンティウス二世)は、交渉事に対して柔和で寛容で、文章の優雅さで賢明で、その上atque、穏やかかつ心地よい話し方で語ることができ;彼は労苦に忍耐強く、そのうえac諸々の矢を(狙いを)定めることに驚くほど迅速で;彼はあらゆる食べ物への情欲と、その上atque、あらゆる(性的)欲望への勝利者である;父親への敬意では十分に慈悲深く、そして彼自身については過度に番兵custosなのである;彼はよき元首たちの生涯によって国家の静謐が導かれることを熟知している。

42-24:(だが、以下のような)これらが、多くてかつそれほどに周知で(彼を)損なったのである、(すなわち)諸属州のそのうえac軍事の指揮者たちをrectoribus吟味することへの乏しい熱意、同時にsimul下僕たちの大部分による理不尽な諸慣習、さらにadhucそれぞれよき人物の軽視neglectus。

42-25:その上atque、私は手短に真実を解きほぐそう:皇帝自身よりもより光輝ある者はいないがゆえに、腰巾着どものapparitorium大部分以上に凶暴なものはない。

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キリスト教徒が書いた最古のパピルス公表?!

 2019/7/11にアップされた情報です。スイスのバーゼル大学が所蔵していたパピルスの手紙( P.Bas. 2.43)は、実は大学に1900年以来100年以上所蔵されていたもので、このたびその大学所属のSabine R.Huebner教授の著書 Papyri and the Social World of the New Testament, Cambridge UP, 2019/8出版予定、 で紹介されてるらしい。

 速報によると、このパピルスは230年代に日付可能で、それによって少なくとも従来知られていたキリスト教徒が書いた書簡よりも40、50年古く、最古のものと認定された(もちろん、聖書を除いての話だが)。出土地は中央エジプトのFaiyum地方のTheadelphia(現Kasr El Harit)村で、ローマ時代からの最大のパピルス類一件文書として著名なHeroninos文書に属しているとのこと(cf., Wikipedia, Heroninos Archive)。バーゼルのコレクションは65文書あるが、これまでほとんど非公表で調査もされていなかったらしい。現在、Huebner教授のもとで編集プロジェクトが進行している由。

 問題のパピルスは、Arrianosなる人物からその兄弟Paulos宛に書かれたもので、文面内容は取り立てて注目すべきものではないが、文面の最後に「’主において’お元気で」を意味する短縮語を使用していることで、これをもってHuebner教授はこの書簡の書き手が、nomen sacrumと言われるキリスト教独特の略語を使用しているので、キリスト教徒であると断定する根拠としている。女史はまた、当時Paulosという名はエジプトでは珍しかったので、彼の両親はキリスト教徒だったのだろうと推定している。しかも、この兄弟は教育も受けていて、おそらく地主階級ないし公的役人の息子たちだったのだろうとも。

くだんのパピルスのrecto(表側)全体写真
問題の文末:最後の21行目「 -[ρω]ς ἐν κ(υρί)ῳ 」と読むらしい(以上、https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2019/07/the-worlds-oldest-autograph-by.html#ih4iZ3iJvw417UuF.97

 素人ながら、私見ではパピルス文書の表側のように見える(recto:パピルス紙は薄片を縦と横にならべて接着し、繊維が横になっているほうが書きやすいので表側となる)。Heroninos文書が書かれたのは249〜268年で、しかし通例反古パピルスを活用して裏側(verso)を使っている由なので、表側が230年代というのも頷ける。しかし、Huebner女史はウェブでは英訳のみ提示し、ギリシア語文面の解読はおろか、肝腎の「主において“in the Lord”」のnomen sacrum部分を表示していないので(パピルス見ても、残念ながら私には解読不能でして (^^ゞ)、本の出版を待つしかないのが歯がゆい。

【追伸】ということで、手っ取り早く、パピルスやっている高橋亮介氏にメールで問い聞きしました。最後の行は「 -[ρω]ς ἐν κ(υρί)ῳ 」で、「 κῳ 」の上には短縮語を示す横棒「 ‾」が上に書かれているとのこと。いわれてみると、ちょっと後にずれてますがみえました。なお、ご教示いただいたデータベースに写真も読みもありました。ただ、この書簡は「P.Bas.16」として1917年にErnst Rabelによってすでに表裏とも解読されていて、最初の読みは以下(http://papyri.info/ddbdp/p.bas;;16)。2019年の女史の読みは以下(https://www.trismegistos.org/text/30799)。これみると女史のは、1917年と1968年のMario Nardiniの読みを踏襲していて、ただP.Bas.16の番号をP.Bas. 2.43に付け替えているだけのことのようで、だったら新発見ではないことになる(色々細かい問題はありますが、ここでは触れません)。としたら、なんかちょとおかしいよね。こうなると速報に値せず、むしろ「遅報」のほうがふさわしい。新刊書の宣伝にまんまと乗せられた感じです。とまれ、情報には感謝。

 なお、膨大なパピルスのデータベースとしては、以下もある(http://digitalpapyrology.blogspot.com/)。くだんのHeroninos Archiveはいまだ半分くらいしか公表されていないらしい。私のようなつまみ食いでなく、こういう研究に若手がじっくり腰を据えて、果敢に挑戦してほしいものだ。研究の目鼻がつくのに5年、独自の見解出せるのに10年はかかるかな。それではもたないというのであれば、手っ取り早く業績稼ぐ工夫がいる。私は手元に以下の文獻持ってるけど、これなんかで目星つけるといいかも。Ed.by Roger S.Bagnall, The Oxford Handbook of Papyrology, Oxford UP, 2009.

 ところであとから気付いたのだが、このHeroninos Archive、以前「遅報9」で紹介したパピルスも同じ発見者たち(Bernard GrenfellとArthur Hunt)でした。私もだんだん興味が高まって、年甲斐もなく手をつけたくなりますが、実は今から40年も前に大迫害関係でちょっと調べていたパピルスがありまして、当時は予備知識もなく放り投げておりました。気が向いたらまた紹介するでしょう。とまれ、庶民の時間・空間の再構成にパピルスはいい素材だと思います。

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バチカンに勝算あるのか:最新世界キリスト教情報

 第1485信:2019/7/8

 今回の筆頭に「天主教愛国会への参加許可するが強制はしない、とバチカン新指針」との記事がでていた。昨年、バチカンと中国の間で「暫定合意」がなされて以来、混乱が続いている。当然、台湾や香港の高位聖職者からは決定に対して異論が出てきていた。どういう勝算があってバチカンはこのような行動に出たのか、果たして深謀遠慮あってのことなのか、私には未だ判然としない。暫定合意の核心は、中国側がすでに任命していた司教をバチカンが追認することにあった。ところで片手落ちにも、これまでバチカンに忠誠を誓ってきた地下教会やその聖職者に関しての取り決めの有無は今に至るまで明らかにされていない。だが、中国側がこれまでに倍して居丈高に地下教会に対して振る舞うのは当然で、混乱が生じないはずないことは事前に十分に予想されたはずである。それに対して今回バチカンは「良心に照らし合わせて、現状では愛国会に登録することができないと決断した者の選択を理解し、また尊重する。バチカンはこのような決断を下した者に今後も寄り添い、それぞれが試練に直面しているとしても、信仰における信者との交流をお守りするよう主に願う」と記している。同情と理解に満ちた言葉とは裏腹に、これまでの行きがかりを捨て、気持ちを整理して、早く愛国会に合流しなさい、と言っているようにしか思えないのだが。

 司教叙任権問題なので、教会法的にみるときこの妥協に正統性があるようには到底思えないが、これが実は、その場その場での状況に合わせてきていた教会法の真の実態であった、と考えればいいだけなのかも知れない。汎用性のある、体制教会にとって都合のいい法文が収集され保存され教会法となり、後世の教会にとって都合の悪いものは意図的に忘却ないし抹殺されてきたというのが、実態だったのだろう(もし再発見されても、地方的決定に過ぎないとか、異端的で誤っている、として葬るわけ)。このダブルスタンダードを研究者は想定して立ち向かわなければ、まんまと制度教会の術中にはまることになるだろう。それにしても、これが266代目教皇フランシスコ下におけるいかなる新機軸になるのだろうか。

 こういった視点から3、4世紀の北アフリカのキリスト教分裂を考え直してみると、さてどうなるのだろう。実はあの時の喫緊の課題は、これまで研究者がかかずらわってきている表側の神学的論義にあったのではなく、ローマ教会や有力信者が北アフリカに保有していた所領保全にあった、という見解に私は1票を投じているのだが(それが、前に触れた故M.A.Tilley女史の論文である:Theological Studies, 62-1, 2001, pp.3-22)、その時ローマ教会と大土地所有者側に立って現地で論陣を張ったのが、アウグスティヌスだった。あの時も地元のドナトゥス派のほうが圧倒的に優勢だった。中国でも目下圧倒的に有力なのは地元の天主教愛国会のほうなのだが、ローマのバチカンは今回、現地の誰の後ろ盾になって事態を乗り切ろうというのだろうか。現代の中国に、はたして劣勢を覆すアウグスティヌスがいるとでもいうのだろうか。

【追伸】2019/7/15発信の同情報によると、「カトリック天津教区の石洪禎司教、愛国教会不参加で司教の権利失う?」の記事。

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イタリア情報:ブログの消長と坂本鉄男先生

 イタリアの情報(私の場合、言うまでもなく歴史とか考古学関係)を得るのにこれまでたいへん役立ってきたブログにcucciolaさんによる「ルネサンスのセレブたち」があった。現地の新聞や雑誌からのトピックスの紹介がすばらしかった。書き手の女性はたぶん美術系で、イタリア人と結婚されてCastelli Romaniにお住まいであった。私にとっても貴重な情報をたくさん掲載されていたが(関係分は保存している、はず)、先日行ってみると休止の掲示があって、なぜか過去ログも全部読めなくなっていたので、単純な休止とは思えない。理由は不明ながら、私的には著作権侵害などでの中断でないことを念じている(こっちも居直って危ない橋を渡っているので(^^ゞ)。再開を心待ちにしている次第。なにしろ退職してそれまで継続的に購入していた考古学関係の一般向け雑誌を打ち切ったので、なおさらである。

【追伸】cucciolaさんのツィッター(小食で下戸、なのに食文化に興味津々の一主婦)は、2014/1から始まり、今年の6/2まで書き継がれていて、未だ読めることを確認。これだけでも相当量の情報だ:https://twitter.com/cucciola1007(その中でお名前とお写真も入手できたが、一般人であらしゃるのでここでの掲載は思いとどまっておこう)。

 このように、ブログは書き手の都合で突然終わる運命を辿る。たとえば、今は昔、パソコン通信時代から古代ローマ史関係の書き込みが盛んにされていた「古代ローマ」(http://www.augustus.to/:2000/8以降)は、2000/8/18からaugustus氏主催で始まったが、まだ昔の過去ログが読める。途中から髙島某氏が盛んに出版情報を掲載しだして、たいへん賑わっていたが、2012/11月に彼の書き込みが前触れもなく中断すると、ぴたりと書き込みがなくなり、1年に3通ほどが続き、とうとう2018/2以降現在まで投稿はひとつもない。また、それが掲載しているリンク先36(玉石混合ながら)中,20年後の現在も見ることできるのは10となっていて(継続更新しているものはもっと少ない)、その半数は海外の検索サイトである。ここからも、残念ながら我が国のデータ蓄積力の底の浅さを感じざるを得ない。いつになったらシステマティックな構築がなされるようになるのやら。心許ないことである。

 それに代わって新顔が現れていないわけではないが、どれもこれも短命で開店休業ばかりのようだ。どうも我が国の研究者は、小規模な個人企業の認識しかないようで、それでは記事的に片寄っていて読者には面白くなくて、しかも早晩息切れしてしまうわけである(このブログもご同類だが)。

 そんな中で、いつからか始められたのか存じ上げていないが、坂本鉄男先生がずっと産経新聞に隔週(昔は毎週)の火曜日に「外信コラム:イタリア便り」を書かれていて、今も継続されていて、市井のイタリア的感覚を発信し続けていらっしゃる(たまに新聞記者と誤解されて叩かれているが)。私はかつてウェブで産経新聞が無料だったときからこのコラムを愛読していたが、産経の無料が終わって、しかし今は日伊協会のHPで若干の遅れはあるが読むことができるのは有難い(https://www.aigtokyo.or.jp/?cat=27:但し、現在は2010年11月以降のもの:私はそれを2009年 11月15日からすべて保存している)。それはこんな話で始まっている。

彼がまだ現役だったころのお写真

坂本鉄男 イタリア便り 犬と外国語

    イタリアの有力紙の一つによると、犬は人間の2歳から2歳半の幼児と同じ頭脳を持つという。また、一番頭のよい犬種は「名犬ラッシー」の種類のコリーで、次いでプードル、シェパードの順になるらしい。  ここで、「犬と外国語」について私の経験をお伝えしたい。  約30年ほど前、ローマで真っ白な縫いぐるみのようなかわいい子犬を購入したことがある。購入直後、わが家を訪問した当時のローマ市立動物園の園長氏が子犬を見るなり「この犬は羊の群れを守るためオオカミと闘ったことで有名なマレンマ犬だ。体重は30キロ以上になりますよ」という。   しかし、幸いメスであったことと、少し雑種だったことから体重は二十数キロで止まった。だが、オオカミと闘った祖先には申し訳ないほど気が弱く、散歩中に小猫を見ても大きな体をしているのに立ちすくんでしまう。   家族の愛情を一身に集めたが約11年の短い寿命だった。愛犬で一番困ったのは旅行のときであった。家庭内では日本語しか使わないため純粋なイタリア犬なのに自国語が全然わからないこと。このため、旅行に行くのに犬屋に預けるのはあまりにもかわいそうだ。   結局、日本に1カ月ほど帰国旅行したときは、ナポリまで車で運び日本語が達者な大学の同僚夫妻に世話を頼み、1週間前後のときは大学の教え子に自宅に泊まってもらった。犬だって外国語には弱いのである。

 そして、今年の2/19はこんな具合。

坂本鉄男 イタリア便り 誰がために鐘は鳴る

   時計が1軒の家にいくつもある現在と違って、昔は洋の東西を問わず、お寺や教会の鐘の音は冠婚葬祭などの宗教的行事のみならず、時刻を知らせる役割も果たしていた。  日本の童謡「夕焼け小焼け」や、ミレーの名画「晩鐘」などは、寺や教会の鐘の音が子供や農民に遊びや仕事をやめて帰宅する時間が近づいたことを知らせていたことを示す代表的な童謡と絵画である。   ローマから東に約160キロのぺスカッセロリ村は海抜約1千メートルの山地にあり避暑地として名高い。  この村に約1,100年前に創立された「聖ピエトロ・パオロ教会」の司祭アンドレア・フォリオ神父は、村の少子高齢化で教会の鐘が葬式ばかりに鳴るのにうんざりして一計を案じた。「村民の諸君、特に若い女性の皆さん、今度から赤ちゃんが生まれるたびに赤ちゃんの100歳までの長寿を祈り教会の鐘を100回鳴らすことにします」と。奇抜な案に村民は驚いたものの多くが賛成した。  イタリアの少子化は著しく、一昨年の老齢化による死者の数が63万4千人だったのに対し、新生児は44万8千人であった。  これではフォリオ神父が心配するごとく、教会の鐘はまさに「誰(た)がために鳴る」のか問いたくなる。

 坂本先生は1930年3月生まれなので、そろそろ90歳。すごい、の一言である。代わりの人材がいないというよりは、余人に代え難いのである。一昔前の研究者にはこういう傑物・快物がごろごろいた、という印象があるが、現在は、一見情報があふれかえっていて、その中に埋没を余儀なくされ、しかもその実その大半はつぶやいた途端に消え去る泡沫情報といっしょの運命をたどるようで、昨今の思考の軽さはなんなのだろう。なんだかな、と慨嘆したくもなる。

 又、最近私が注目しているのが「ARCHAEOLOGY NEWS NETWORK」の「Archaeology」である(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/#Pu8yKs0jVC7UIz6m.97)。ここに掲載されたトピックスを他のウェブ記事を加味して継続的に紹介するだけでも、かなりの有益な情報を共有することができると思うのだが。といっても、なにしろ量が多いので、自分の持ち領域をそれぞれ分担する仲間が数人いるといいな、と思ったりもしているのだが。なにせ古代ローマの考古学は日本ではまだ黎明期以前、地中海のそれを紹介するだけで意味あることだと、私など思っているのだが。

 しかも、である。このHPを見ていると、新発掘の情報のみならず、遺跡で観光客が遺物を失敬して捕まった記事(やっぱり、ね)、それから、エジプトやギリシアが遺物を持ち帰った西欧諸国の博物館に返還要求をし、それを拒否したり、返したりしている記事、それどころか盗難品が出てきたの、また博物館がフェイクを掴まされているのが判明したの、といった普通おもてに出ない情報も出ていて、なかなか目端がきいてセンスがいいのである。

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遅報(11):アウグストゥスの寝落ち

 以下、「痴呆への一里塚(10)」にすべきかと迷ったのですが、こっちの「ちほう」にしました。

 以前、昼間、突然の睡魔に襲われて、といった類いのことを書いたことがあるが、最近どこかで読んだウェブで「寝落ち」という病気があることを知った。

 私はこれまで、老人になって食後の眠気の状態が極端に出ていると素人判断していたのだが(自体験的には、どうも退職後顕在化したような気がしたこともあり)、これが、ナルコレプシーという脳内物質の分泌不全の可能性もある、ということのようだ。

 ま、私にとってそれはそれで老化現象の一種でしょうがないわけだが、アウレリウス・ウィクトルを見直していて、ひょっとしてと思いついたのは、アウグストゥスのことだった。「1-4:性癖的にかの人物は市民的で魅力的だったが、まったく節度がないほどの贅沢三昧と諸競技に熱中し、そのうえ睡魔には抑制がきかなかった」。彼、ひょっとするとこれではなかったのかな、と。大叔父のカエサルにはてんかんという持病(当時てんかんは「神聖病」と捉えられていたらしい:https://dot.asahi.com/dot/2017080900082.html?page=1,2)があったので、あの家系は(なんて今日日不用意にいうと怒られるかもだが)、脳機能に先天的遺伝的な弱点があったのかもしれない、と妄想をたくましくしたくもなるのだが、どうだろう(cf., スエトニウス『ローマ皇帝伝』[國原吉之助訳、岩波文庫]「カエサル」I.45、「アウグストゥス」II.16;プルタルコス『英雄伝』[長谷川博隆訳、ちくま文庫]「カエサル」17)。

2008年アルル付近のローヌ川底から発見された最古(生前製作)のカエサル像

 絵に描いたような正常で健康な人間などというものはどこにも存在しない。ちょっと常態を踏み外した存在がある才能に特化していると天才だったりする。そこまで生産性はなくて回りに「あいつ普通じゃない」とうさんくさく思われる存在は変人・奇人といわれるのだろう。さらにそれが病的に問題行動をとるようになると異常者か。しかし、常習性はなくて突発的に問題行動をとってしまう場合もあるはずだ。どうみても天才ではない私は、せめて奇人で終わりたい。

【追記】書いていて思い出したのだが、実は、一昨日の火曜日、渋谷での勉強会を終えて地下鉄で帰宅途中、21時前だったろうか。車内で女性の小さなどよめきが聞こえた、ような気がした。それで声のほうをみると、満員の車内のほんの2m先で30歳くらいの若い女性が隣の人にもたれかかるようにして床に倒れていた。別のそばの女性が親切にも助け起こそうとしたが(日本人の男はこう言う場合動かない、いや、あれこれ考えてしまって動けないのでア〜ル)、その時は目を閉じ上半身がずるずるとなるだけで、立てそうもない感じだった。私にはペットボトルをしっかり握っていたのが妙に印象に残っている。こりゃ何ごとかととまどっているうちに、1、2分たっただったろうか、ようやく立ち上がることもでき、一番近くに座っていた男性が立ち上がり席をゆずろうとしたのだが、ちょうど停まった駅でプラットフォームに降りることもできた。あとはもちろん知らない。

【追記2】4年前に、カエサルの症状での新知見もでていたようだ。https://www.afpbb.com/articles/-/3045562

 カエサルの顔の復元も試みられている:https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/07/julius-caesar-may-have-been-less-heroic.html#LRlAIOW6s1FvbFxZ.97

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予告:ポンペイ埋没日時問題について

 6/29のTBSで放映された「日立世界ふしぎ発見!」で、ポンペイ新発見の落書きが紹介されました。番組自体はとっちらかった内容で今一でしたが、ヴェスビオ山噴火の日時に関しては、実は昨年10月のポンペイ考古遺物管理事務所の公表以来、坂井聰氏が注目されていた件です。私は氏から第一報をいただいていたのですが、不覚にもこの番組まで失念しておりました。

 しかも、今回の落書きに関しては、最初の公表時の読み(こちらのほうがウェブで拡散)と、その後読み替えがあったようで、そのあたりを含めて近々にまず坂井氏の第一報を掲載したいと思ってます。これは2016年3月に出版された我々の『モノとヒトの新史料学』勉誠出版に氏にお書き頂いた論考「ポンペイはいつ埋没したのか:噴火の日付をめぐる論叢」の続編という意味合いがあります。【坂井氏による第一報が、2019/7/23にHPのほうに掲載されましたので、ご一読ください】

【追伸】その前座として、今回の発掘地点の情報を検討しておきます。2018年の発掘地点は、pompeiiinpicturesの情報から、第5地区の第2、3、6、7街区で、2018年に続々公表された新発掘はいずれもこの箇所からと思われます。

 その中で、V.3の「Casa con Giardino 」なる場所から、埋没後に貴重品の盗掘者たちが跳梁跋扈していて、少なくとも6体の遺体から金品を奪い取ったあとの骸骨が積み重なって出てきた部屋が、2018年10月に公表されてます。例の落書きもどうやらここから出現したようです。Five skeletons found at Pompeiihttps://www.pompeionline.net/edifici/regione-v/casa-con-giardino;https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/10/five-skeletons-found-at-pompeii.html#cdq63TI4GsPMS9xV.97

以上、pompeiiinpicturesより
発掘地風景

 なお、この区画で発掘された素晴らしいフレスコ画を綺麗な画像で紹介している記事を2つ紹介しておきます。やたらプリアポス画が注目されてますが (^^ゞ

http://www.iitaly.org/magazine/focus/art-culture/article/consolidation-work-pompeii-reveals-new-fresco-priapus:ここではV.6としてます。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/08/pompeii-fresco-of-prosperity-in-house.html#GKdBwDtbscMk6yko.97

 以下は、レダと白鳥図。 https://edition.cnn.com/style/article/leda-and-the-swan-pompeii-mural/index.html ;そこから今年になって今度はナルキッソスのフレスコ画が公表されました。往年の生活空間の華やかさ、なんともすごいですね!:https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2019/02/stunning-narcissus-fresco-at-pompeii.html#TCl7pW1523lc3RAZ.97;https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2019/03/the-thermopolium-of-pompeiis-regio-v.html#boIj2XrUcA3WX2eV.97

 そして、飛んできた石にあたって頭部の飛んだ骸骨。これの出土場所もここだったのかもしれません。 https://www.bbc.com/news/world-europe-44303247

 これには後追い記事も。なんだかビックリして大口開けての死に顔にみえます: https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/07/ancient-pompeii-victim-not-crushed-by.html#rqH59eTFZPPorzPz.97

 これらもこの発掘地点でしょう。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/10/enchanted-garden-discovered-in-pompeii.html#9qqWwBQXKpF5q2W0.97; https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/08/pompeii-new-discoveries-brilliant.html#dpBbzmxrU5gojsTC.97;https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/06/new-findings-in-pompeii-paint-vivid.html#mejZ1Hq8VGzR7zh4.97;https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/05/spectacular-wall-frescoes-discovered-at.html#zsbD3fw5wd3z11gm.97; https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/05/alley-of-balconies-uncovered-at-pompeii.html#0fqtYGr82ms2m1GM.97

 これまで遺跡で、発掘以来200年を経た色あせた壁面ばかり見ていた身からすると、その鮮やかさには目を奪われます。どうしても博物館での展示は生活感ないので、現地保存の重要性とともに、現地保存していると「発掘は遺跡破壊」という思いにかられますが、往年の保存技術よりは数段進んでいることを期待せざるをえません。

【追伸2】今回の落書きの周囲の状況が現段階で一番よく分かるのは以下かと。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/10/charcoal-inscrip
tion-points-to-date.html#6Jw2qeBrgFZXhO0h.97
EPA9029. POMPEYA (ITALIA), 16/10/2018.- Vista de una inscripción en una pared encontrada durante una excavación en Pompeya, Nápoles, Italia, hoy 16 de octubre de 2018. Una inscripción a carboncillo descubierta en las paredes de una de las casas de Pompeya acaba finalmente con la duda histórica sobre la fecha de la erupción del Vesubio que sepultó a la ciudad y que fue el 24 de octubre y no el 24 de agosto del año 79 d.C como se había creído. El ministro italiano de Cultura, Alberto Bonisoli, ha calificado este descubrimiento como “extraordinario”. EFE/ Ciro Fusco

【追伸3】この区画でもすでに盗掘が!  https://www.discoverychannel.jp/0000042029/

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ペルペトゥア・メモ:(6)XIX-XXIで気になる箇所

 この箇所は、私からすると突っ込みどころ満載、すなわち素直に読んでいると引っかかる箇所だらけなのである。

① XIX.2-6:自分はどの野獣にやられたいかという、獄中での男どもの与太話は、いかにも獄中での会話でありそうな話で、リアリティ十分で面白かった。その中でHeffernanの指摘で興味深かったのは、サトゥルスが自分は豹の一噛みで死にたいといっていたが、実際にはまず猪、ついで牡熊に向けられたけれど、野獣の都合で闘獣がうまくいかず、結局彼の予言通り豹により瀕死の重症を負ったことを、サトゥルヌスの予言の成就とみなしている点だった。

② XIX.5:闘獣士がサトゥルスと猪を「しっかり縛りつけ」ようとしたとは、闘わせる人間と野獣、野獣同士を、互いに鎖で繫いでいたことを意味していた。

Jamahiriya Museum所蔵,リビア:結びつければ互いに闘い出すものでもないだろう。そこでそばから闘獣士が鞭を振るって向かわせるのだろう(右端にちょっと見えている:余談ながら、牛の下の人物は、石器時代の画期的発明だった投槍器で獲物を仕留めている)

③ XIX.6:サトゥルスが牡熊と対決させられたとき、彼が「橋の中で縛られ」たsubstrictus esset in ponteという意味が自明でない。熊が檻から出て死刑囚が縛られている台の階段を上っていく装置が「橋」に見えたのだろう。観客が見やすいようにするため、そういう舞台をしつらえたようだから。これについては、以下の論文で、奴隷売買の台catasta、舞台の奈落pegma、演台pulpitumといった装置と同様のものをponsと呼んでいたことが分かった。Jean-François Géraud, «Ad bestias ».Manger des hommes, Journées de l’Antiquité et des Temps anciens 2012-2013, Université de La Réunion, Apr 2012, pp.19-46.

奴隷市場風景:Gustave Boulanger,19世紀(売りに出されている老若男女それぞれの表情が、いかにもそれらしく描かれていて感心する:真ん中の品のない老人は奴隷商人か)
ランプ(北アフリカ出土:現所在不明)やテッラ・シギラータ(Vienne)では、野獣刑がこんな感じで描かれているので、中央が高いローマ式の橋に見えないことはない
こういう立派な舞台が仮設された場合もあったらしい。四隅に立っているのはトロパイオン:Sollertiana Domus出土, El-Djem博物館所蔵
上記モザイクのモデルだったと思われる植民都市Thysdrusの円形闘技場(現El-Djemそば)は、プテオリ、カルタゴに次いで帝国七番目の規模だった。そこでの現代版仮設舞台

④ XX.1:「娘」に慣習法に反して「雌牛」をあてがったという表現は、表面的には意味不明である。「悪魔は・・・」とか「性にすら嫉妬する・・・」といった、刺激的で大げさな表現が見てとれる、こういう箇所にはだいたいにおいて書き手にとって都合の悪いことが隠されている。裏に表ざたにしたくない事情があり、編纂者はその真意をごまかしたい意図があるからだ。ここでは、出産を経験しているペルペトゥアとフェリキタスをなぜか「娘」とことさら呼んでいることにまず引っかからずにはすまないはず。すなわち編纂者は事実に反して彼女たちを処女とみなしたかったようだ。彼女たちは二人とも出産を経験していることが明言されているので、この表現は読者に違和感を感じさせずにはおれないが、それでもなお編纂者は彼女たちを「娘」と表現したかったわけである(Heffernan、p.346f.は、PolyxenaやIphigeniaといった悲惨な犠牲に捧げられたギリシア神話に登場する女性を援用して解読を試みているが、今の場合まったく見当外れだろう)。その彼女たちが雌牛の前に立たされるのだが、この編纂者いうところの「娘と牝牛」という異例の組み合わせの裏に、どんな異例さがあったのか、私にはこれといった予備知識はないが、おそらく北アフリカの、カルタゴ地方の一般民衆にとって当時自明の慣習的共通認識があり、その意味合いを否定できなくともできるだけ薄めようと編纂者が苦心惨憺していたように思えてならない。私はこの箇所を、彼女たちは不義密通者・姦通者として扱われたと想定する時一番よく理解できると考える。この想定が当たっているなら、彼女たちの妊娠・出産の実際を判定する上で、きわめて重要となるはずだ(すなわち、この箇所は冒頭第2章の編纂者の編集句と連動していることになる)。すなわち、彼女たちの妊娠が当時の社会通念に反していたという認識が世間一般にあり、野獣刑もその線で具体的に実施されたのだろう(それを受難記は削除しているわけだ)。殉教者にふさわしからぬこの不都合な「濡れ衣」に対抗するべく、編纂者はあえて彼女たちを「娘」と呼んでいるのではないか。まあ、キリスト教の神にとっては殉教者は純潔な存在でしょ、なにしろ殉教者はすぐさま天国に行ける存在なのだから、だから処女といっていいんです、という苦しい言いくるめで乗り切ろうというわけだ(そのもくろみは、当座は事情通が生き残っているときは無理だったにしても、中世聖人伝で見事に定着化して成功するわけである)。だから彼女たちはまず見せしめ的に屈辱的な全裸で網だけかぶせられて登場させられ、それから牛との闘いのため服を着せられ再登場する。この見世物の見せ場は、死刑囚が牛の角ではね飛ばされて宙を舞う瞬間だったろう。その様子を描いたモザイクがある。きっとその瞬間に観衆は「お〜っれっ」といったかけ声を楽しげに唱和したに違いない。

Villa di Dar Buc Amméra、Zliten出土、リビア:In situ
考えてみると、地中海世界ではミノア文明以来「牛飛び」の見世物があり、現在でもトロスで幕間見世物のひとつとして披露される。クノッソス宮殿壁画:https://en.wikipedia.org/wiki/Bull-leaping

⑤ XX.5:ペルペトゥアがピンをなくして髪が乱れるのを気にしているのは、淑女のたしなみとして当然であったが、編纂者の味付けとして、当時の葬儀の場に雇われてきた泣き女が髪を振り乱して嘆くパフォーマンスをしていたから、そのイメージを排して、あくまで天国に喜んで行く、としたかったのだろう。また霊媒や巫女が霊力を得ようとする場合、神懸かりしていることを示すべく、むしろ意図的に髪を振り乱して狂乱の様相を呈するわけで、そういう印象を排除するということもあったのかもしれない。

⑥ XX.7:ここで「生者門」をporta Sanavivariaとしているが、一般的にはporta Sanivivariaと表記していたようだ。だが、本来は「入場門」とでもしたほうが正確と考えたい。というのは、今回の場合ペルペトゥアたちは死刑囚なので、見世物への再登場までに一旦アレーナから退場したのがそこであったからだ。通常の円形闘技場には、「入場門」と、勝者の剣闘士が退場する「凱旋門」porta triumphalisと、逆に敗者が引きずられて出ていく「死者門」porta libitinensis(そこに付設の「剥ぎ取り部屋」spoliariumがあって、死者は武具や衣服を剥ぎ取られたり、敗者にまだ息がある場合はそこで喉を切られた)、があったようだ。施設によっては「入場門」と「凱旋門」が同一の場合もあったようで、今回のカルタゴの場合も、受難記叙述に依る限りそのようだったが(cf., X.13)、しかしペルペトゥアたちは死刑囚だったので「凱旋門」が受難記に登場する機会がなかっただけのこと、だったのかもしれない。

畠の中から発掘中のカルタゴの円形闘技場:平面図探索中
死者門想像図

 また円形闘技場は長径と短径があるので、東西南北で十字で区切られるアレーナのどちら側にそれらの門が設置されるかは、その規模によってさまざまだったようだ。例えばポンペイでは、東西の長径の西側に「入場門」、東側に「凱旋門」が、短径の南側に「死者門」が設置されていた(ちなみに北側は貴賓席:東西門の内側に付設されている部屋carcerは剣闘士たちが出演を待つ部屋だったのだろうか)。

ポンペイの円形闘技場平面図

 試みに、イタリア半島のアドリア海側の小都市Larinoのそれを見てみると、やはり門は3箇所で、しかし「剥ぎ取り部屋」は長径の南北にそれぞれ2箇所づつ割り当てられているが、ポンペイと同様の待合室だった可能性もあるはずだ(その場所の詳細画像は以下参照:https://www.pinomiscione.it/historica/vita/anfiteatro/)。

Larinoの円形闘技場平面図:1〜4が剥ぎ取り部屋とされている

⑦ XX.8:ここで初めて登場する洗礼志願者のルスティクスとは何者か。おそらく彼はアレーナ内でのペルペトゥアの受難にずっと付き添っていたわけではなく、彼女が一旦退場したとき門で待ち受けて抱きかかえるようにして支えたのであろう。誰憚ることなくこのような場所に自由に出入りできるのは、ウィビウス家当主の指示のもと、官憲の許可を受けた上で、ペルペトゥア付きの家内奴隷だったからとしか考えられない。農夫を意味する名前も彼の奴隷の素性を傍証しているようだ(但し、Heffernan, p.58によると、北アフリカで一般的な名前ではなかった由)。ひょっとすると、彼は彼女が幼少のころから身の回りの世話をしてきた彼女専属の、たとえば養育係奴隷paedagogusだったのかもしれない。その彼が洗礼志願者であった(この事実は当然官憲には伏せられていた、ないしは官憲が問題にしていなかったわけである)とすると、ウィビウス家にキリスト教が入り込みつつあったことになる。というのは、奴隷に信仰の自由があったわけではなく、ご主人様のお目こぼしというよりもおこぼれに与る形で同じ信仰なら持ち得た可能性があるからである。ペルペトゥアにしても外出時に監視係を手なずけておいたほうが都合よかったはずである。

 ペルペトゥアの兄弟の一人が洗礼志願者だったのが事実だとするなら(II.2)、彼はたぶん次男だったのではなかろうか。家督を継ぐはずの長男は将来の社会的立場を考えてキリスト教改宗には慎重だったはずだからである。1世紀半ほど後のヌミディア山間部のアウグスティヌスでさえ、洗礼は先延ばしにされていた。V.6での叙述を真に受けるなら、おそらくペルペトゥアの母も秘密裏の洗礼志願者だった可能性が強い。

⑧ XX.10:「呼び寄せられた彼女の兄弟(sg.) そしてかの洗礼志願者(sg.) 」という表現は、文脈にそってそのまま素直にとるなら、II.1に登場している血縁上の兄弟と直前に登場しているルスティクスの二人だと、読者は理解するのが普通で、よもや兄弟と洗礼志願者が同一人物を示しているわけではないだろう(そっちのほうがよほどわかりやすいのだが)。上述の理由で後者はともかくとして、前者はペルペトゥアのご指名でわざわざ呼び出されているわけだが、処刑の場で、死刑囚が親族を呼ぶなどということが当時は可能であったということか。

⑨ XXI.1:その時、サトゥルスは「別の門」の所にいた、と書かれている。彼は野獣刑が不成立で一旦退場したのだが、それがどこかXIX.5-6で明記されていない。ペルペトゥアたちがいた生者門(XX.7)ではなく、まだ生きていたので死者門も除外されるからには(別に除外しなくてもいいかもしれないが)、すなわちたぶん凱旋門にいたのであろうか。

⑩ XXI.6-8:死刑囚が最終的にとどめを刺される場所とは、そのための設えられているはずの「剥ぎ取り部屋」のはずだが、ここの叙述からはアレーナの一隅であったように思われる。いずれにせよ、今回の彼らは見物人の要望に応じて、おそらくアレーナの中央(橋の上だったかも)に自発的に移動し、そこでとどめを受けた。下記のモザイクは、野獣狩りの見世物がまだ行われている最中で、その負傷者や死者がたぶんアレーナ内の端に集められている様子を描いた希有の事例。野獣狩りといえどもかなりの犠牲者が出た様子がわかる。服装から彼らはよもや死刑囚ではあるまい。

ボルゲーゼ博物館所蔵、ローマ:中央上部のラテン語Sabati(v)sは闘獣士の名前か。別所のモザイクでは死者には「Θ」(おそらくθάνᾶτος)印がつけられている
中央上部は馬で、一人の男性が頭を抱いているようだ

⑪ XXI.9:ペルペトゥアの死:剣闘士のとどめは、左鎖骨の上から心臓に向けて刃を刺すやり方もあったようだが(1993年エフェソス発見の剣闘士の墓場発見による出土遺骨への刃物傷から)、ここでは肋骨の間から心臓を貫こうとして失敗したので、ペルペトゥアは刃を左頸動脈に導いたのであろう。

https://www.livescience.com/48385-photos-gladiator-burial-pit.html
ペルペトゥア殉教想像図
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