月別: 2019年3月

ケルト・メモ:(3)ストーン・サークル研究の今

3月23日土曜 BS4K 午後5時30分~ 午後7時30分  奇跡の巨石文明! ストーンヘンジ七不思議

 橋本環奈が“不思議の扉”を開く! イギリス巨石文明のシンボル「ストーンヘンジ」に秘められた七つの謎を最新科学で徹底解明! 誰が何のために? 人類究極のミステリーに迫る橋本環奈が“不思議の扉”を開く! 伝説と神話に彩られたイギリス巨石文明のシンボル「ストーンヘンジ」。大人気の世界遺産に秘められた七つの謎を最新科学で徹底解明! 数千年の時を超えた“驚異のテクノロジー”が判明! 古代人が仕掛けた“視覚トリック”の正体とは!? 誰が何のために築いたのか? 古代文明の存亡を賭けた壮大なドラマに、最新科学が鋭く切り込む。絶景のストーンサークルも続々登場! 人類究極のミステリーに迫る!

【司会】橋本環奈,【ゲスト】サヘル・ローズ,荒俣宏,松木武彦,志村史夫,山田英春,【アナウンサー】魚住優

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 これを私は後半の1時間だけ見ました。BSはなんども再放送しているようなので、運良ければまたみることできるでしょう。充実した2時間番組のように思います。

 古代ブリトン人は石器時代の担い手だった。その際、貴重な資源となったのが、フリントだった。石英で白色に光るサーセン石で造られたストーンヘンジは墓であると同時に儀式の場所だった。その儀式の中心は、冬至における日没で、それを確認することは太陽の再生を確認するために重要だった。そして古代人にとって太陽運行も星座も円環運動だったので、これも最古の世界観として「円」が、再生の象徴だったのである。ストーン・サークルが巨大化したのは前2500年頃で、これは、その頃地球規模の寒冷化が襲い、農業危機が訪れたことに起因して、太陽の再生を願ったためだったのであろう、と。冬至がその中心で、人々は巡礼してここに集合したが、そのときストーンヘンジの向こう側で西に落ちる太陽をみたであろう参道も発掘発見されている。

 DNAの調査で、巨石文明の担い手の古代ブリトン人が、今から4000年前に渡来したビーカー人とあっという間に入れ替わったという現象を、ビーカー人が大陸から疫病を持ち込んだせいと想定していたのは興味深かった(どっかで聞いたことある話だ)。たしか原聖氏の『ケルトの水脈』(講談社、2007)では、武力とか人的移住ではなく文化受容による変化だったとしていたが、疋田隆康氏がそれはありえないだろうと書評で書いていた記憶がある(『西洋史学』229, 2008)。テレビでは、それに加えて青銅や金の金属器を持ち込んだのが決定的と言っていた。これはまあ理解できる。

【後追い1】以下を見つけました。4/20:ストーンヘンジは誰が作ったのか?現代の遺伝子解析がその謎に迫る(英研究)

https://news.biglobe.ne.jp/trend/0420/kpa_190420_1648375436.html

【後追い2】6/22:NHKオンデマンドで、上記のビデオを見た。そこで最初あたりで、日本人のゲストの考古学者が、いかにも新しい学説のように喋っていたので、私に奇異だったのは、「巨石文明の原点はイギリスだった」という件である。というのは、私は1995年翻訳出版されていた、ヘルムート・トリブッチ(渡辺正訳)『蜃気楼文明:ピラミッド、ナスカ、ストーンヘンジの謎を解く』工作舎(原典:H.Tributsch, Das Rätsel der Götter: Fata Morgana, Ullstein Verlag, Berlin, 1983)で、すでにその説に触れていたからだ(但し、トリブッチの主眼は蜃気楼の話のほうにあったのだが。この本の巨石文明の新説に驚嘆した私は、授業の必読書にしていたのだが、どれくらいの学生が読んでくれたのやら:図書館には入っていた)。

 ま、あの考古学者は日本が専門のはずなので、かの学説が、邦訳で25年前、原著だと35年も前に出ていたことをご存じなくてもしょうがないが。それにしても、なんだかなと思ってしまう。

 あと、石器時代の古代ブリトン人は平等だった、金属器時代のビーカー人は階級社会だった、それをよしとしなかった古代ブリトン人は消え去っていった(それは暴力的に激しく劇的な変化だった)、ということを強調していたが、まあケルト人との関連で古代ブリトン人は他と比べて多少は平等の傾向はあったかもしれないが、これは程度問題にすぎず、かなり強力な指導者抜きにストーンヘンジのような大規模は工事はなしえなかったのでは、と私など思わざるを得ないのだが、どうだろう。考古学の仮説にはときどき研究者の希望的観測が封入されているような気がしてならないのだ。

ターナー「ストーンヘンジ、ウィルトシャー」 1827~28年 ソールズベリー博物館 On loan from The Salisbury Museum, England

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遅報(2):新訳の聖書のこと

 なんと昨年12月に共同訳の新訳が出ていたことを、さっき知った。旧約聖書続編付きで、6000円弱だから決して安くないが、買わざるをえないだろう。

 で、田川建三氏が何か言っていないか気になったので検索してみたが、ご自分の翻訳の後始末でご多忙なようで、とりあえずみあたらないようだ。でも、ついでに彼の獅子吼を久し振りに読ませてもらった。

 面白かったのは、もう昨年の夏頃のことだが、彼が一仕事終わったので眠たくてたまらない、と書いていることだった。この眠たいということに関しては10歳若い私と同じだ。

 それにしても、彼には、『新約聖書概論』を早く書いてほしいと思う。ご長寿を祈っております。

【補遺1】田川訳新約聖書も大小出ていたので、貧乏人の私は安い小を購入したが、失敗した。字があまりにも小さくて、ま、読めないことはないにしてもストレスだ。どうせ携帯するより研究用なので大のほうがいいと思い直している。

【補遺2】大学の紀伊國屋書店で1割引きで両方を購入した。共同訳は、ちょっと印刷が薄い感じがするが、それは、2段組みの真ん中と下部に典拠記載欄が挟まれているせいと、活字が小さいせいなのだろう。なんだか読みにくい感じ。

田川訳の大判のほうはさすがに読みやすかった。しかしこんどは節番号がやたら目立っていて、若干目障りか。マルコを冒頭に置いているのはぜんぜん違和感ないが、今回の新機軸として、ルカのあとに使徒行伝を置き、パウロ書簡も疑似を後に置くなど、あっと驚かされる構成となっていて、いかにも田川大先生らしい。

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先達の足跡:(1)水川温二

 エウセビオスの叙述について、戦前に以下のものがある。私的には、エウセビオスに対し温かい視線で、中庸を保ち落ち着いた論調で読ませる内容、と感じている(但し、註記によるとNPNF版(1890)の英訳に依拠)。とまれ、これまでエウセビオス関係の個別論文で私が見つけえた我が国最古のものである(それ以前に『教会史』の翻訳、鑓田研一訳『ユウセビウス信仰史』前後篇[賀川豊彦監修『信仰古典叢書』]、警醒社書店、1925年、が出版されてはいるが)。

 水川温二「教会史家ユウゼビウスの『コンスタンティヌス大帝伝』執筆の動機に就いて」京都帝國大學文学部西洋史研究室編『西洋史説苑:時野谷先生獻呈論文集』第1輯、目黒書店、1941年。

 「みながわ おんじ」と読むらしい。しかし、戦後の研究者で彼のこの文献を引用する人を私はこれまで知らない。後述の弓削氏も引いていないと記憶する。

 ウェブで調べてみると、第八高等学校教授から名古屋大学文学部史学科教授になった人らしい(生没年不明:名古屋大学には彼の情報があるはずだ)。京都大学から1962年2月13日付けで学位が授与されている。ちなみに論題は『ローマの平和とキリスト教との接觸面に関する一考察』。知ることできた論文は以下で列挙しておくが、なんと『警友あいち』71号、1955年にも「イェズス・キリストの刑死」を書いていて(古書店から入手予定)、この表記の癖からひょっとしたらカトリック系だったのかもしれない(聖書の『共同訳』までカトリックは「イエズス」表記だったので)。

「ユダス・マカベウスの叛乱」『史林』18-2、1933年

「セバステに於て殉教せる四十人の軍人に対する崇敬の歴史」『史林』23-1、1938年

「キリスト教迫害と父祖の道(MOS MAJORUM)」『名古屋大学文学部研究論集』2、1952年

「福音史家聖ルカの史観について:ユデア人の納税とイエズスの宗教運動」『名古屋大学文学部研究論集』5、1953

「ローマの支配を諷示する新約聖書の語について」『名古屋大学文学部研究論集』8、1954

「エフェゾ書に関する一考察」『名古屋大学文学部研究論集』14、1956

「小ブリニウスのビティニア総督としての使命について」『名古屋大学文学部研究論集』17、1957

「平和(PAX)と協調(CONCORDEA):キリスト教に於けるローマ的伝統に関する考察」『名古屋大学文学部十周年記念論集』1958年 

 このほかにも、子供向けの古代ギリシアの読み物もあるようだし、長谷川博隆氏が「カエサルの寛恕(clementia Caesaris)」『名古屋大学文学部研究論集』110、1991年、p.97で、「先師」と最大級?の敬意を表して、「ユリウス・カエサルの寛容とキケロ:ローマ帝政初期の仁政思想研究への序説」同『論集』32、 1964年;「カエサルの寛容とその帝国政策」同『論集』41、1966年、を引用されている。このように、きっと他にも業績があるに違いない。ご存知寄りの方からの情報がほしいところである。

 この時期のキリスト教迫害史研究の第1世代には、近山金次(1907-1975:慶應義塾大)、半田元夫(1915-1977:東京帝大)、秀村欣二(1912-1997:東京帝大)らがいる。こうした先達・先師の諸業績、忘れないようにしたいものである。

 エウセビオス研究については、彼の後は、25歳で以下を公表した弓削達(1924-2006:東京商科大)氏の破竹の独壇場となる。但し、『教会史』より『コンスタンティヌス大帝伝』のほうに重心がかかっていたが。

「ヘレニズム期アレクサンドリアにおける文獻考證學の性格について:基督教歴史學成立史研究の一部(その序)」『青山経済論集』1-1、1949年、pp.81-98.

 参考までに付言しておく。その後以下が出るが、これでこのテーマは終わってしまい、続稿は出なかった。

 「最近に於けるホメーロス研究の一傾向:『統一性の牧者』によるアレクサンドリア批判学者の断罪」『史学雑誌』60-7, 1951, pp.50-66.

【追補】ウェブで『名古屋大学文学部研究論集』の以下のリストを見つけた。http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/let/publications-contents/1951-2017_publications_contents.pdf

 その44、1967年の巻頭に水川氏の「略歴・主要論文」がみえた。彼の退官がこのときだったのだろう。そして泰斗・長谷川氏の論考が見え始めるのは65、1975年からである。こうした一覧表を眺めていると、著名な研究者の意外な経歴とか、すでに鬼籍に入られた存じ上げのお名前が散見されて、意想外に懐かしく楽しい。そういえば、以下のようないい導きの本もあった。土肥恒之『西洋史学の先駆者たち』中公叢書、2012年。これには、明治から敗戦までの私関係の広島大学、上智大学関係者も登場していて、よくぞ言及して下さったとその目配りに敬服したものである。

【追記1】日本における初期キリスト教史は、キリスト教神学から派生してきたといっていい。その嚆矢は、波多野精一(1877-1950:京都帝大)で、その弟子に東京帝大史学科から哲学科に転じた石原謙(1882-1976)や、京都帝大での後継者に有賀鐵太郞(1899-1977:同志社大)もいた。その後、史学からの人材が出てくるわけであるが、上記以外にも、キリスト教信者ばかりの中で、浄土真宗僧侶という異色の井上智勇(1906-1984:京都帝大)にも『初期キリスト教とローマ帝国』(1973)がある(レベル的にはそう高くないが)。後期ローマ帝国史を切り拓いた長友栄三郎(1911-?:慶應義塾大)も忘れてはならない。その第2世代に前出の弓削の他、その友人のマルキスト土井正興(1924-1993:東京帝大)が、1966年に書いた『イエス・キリスト』も忘れがたい。そして新田一郎(1932-2007:熊本大・京大院)もいた。それにしても、新田氏の没年は南川高志教授に問い聞きしてのことで、長友氏同様、ウェブ検索でヒットしないという、お寒い現実もある。翻って、冒頭の翻訳者鑓田研一については、十分な情報が書き込まれていた。賀川豊彦に師事し、ちなみに生没年は、1892-1969。

 話は変わるが、最近女性研究者が増えたせいか、奥付著者紹介に生年が記載されないことが多くなっていて、研究世代確認には不便なことだ。出版社の自主規制と想像しているが、こういう誤った女権はやめてほしいと思う。

【追記2】『警友あいち』71号、1955年が届いた。それによると、その冒頭で水川温二は旧制高等学校の生徒だった時、キリスト教の洗礼を受けたと書いているが、それ以上のことは分からなかった。

【追記3】エウセビオス研究としては、迂闊にもこれまで射程に入ってこなかったものに、石本東生氏の以下がある。

「エウセビオスの『教会史』における自然環境」『奈良大地理』8, 2002, pp.1-11;「エウセビオスの『教会史』における宗教的環境とその特徴」『明治学院大学キリスト教研究所紀要』35, 2002, pp.123-185;「エウセビオスの『教会史』に見る歴史観と環境観:コンスタンティノス1世を通しての一考察」『國學院雑誌』103-4, 2002, pp.17-29;「«Ουράνιες δυνάμεις» και «Φώς» στα Τρία Τελευταία Βιβλία της Εκκλησιαστικής Ιστορίας τον Ευσεβίου Καισαρείας:エウセビオスの『教会史』における《天の諸力》と《光》の意味」『プロピレア』(日本ギリシア語ギリシア文学会:広島大学)15, 2003, pp.1-14;「ヨセフスとエウセビオスの環境観と歴史観の相違:『ユダヤ戦記』と『教会史』における一比較研究」『明治学院大学キリスト教研究所紀要』36, 2004, pp.75-144 . なお、同著者の以下は残念ながら未入手。「エウセビオスとフィロストルギオス:『教会史』における環境観の相違」『エーゲ海学会誌』15, 2001, pp.84-99. この一連の論文はおそらく後述の学位論文からの抜粋と思われる。『エウセビオス(カイザリア)の『教会史』(Ⅷ巻からⅩ巻)における自然・人間的・宗教的環境』(アテネ大学博士論文,ギリシャ語,単著)1999年11月。ちなみに2004年以降は観光学の分野に研究対象を移動されたようである。

ここで一言蕪辞を述べるとすれば、エウセビオスには『オノマスティコン』というパレスティナの地誌をまとめた一書がある。氏のような関心であれば、それを射程に入れて扱うのが常道と思われるのだが。

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ペルペトゥア・メモ(1):鞭打ちと磔刑

VI.3:滅多にないことだが、他で読んでいる文献から関連記事がみつかった。フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』II.9.308:翻訳第一分冊、p.325。

   その日フルロスはかつて誰もしたことのない大胆な所業、つまり、騎士階級に属する者たちを審判の座の前で鞭打ちし、十字架に釘打ちするという所業をやってのけたからである。たとえ生まれがユダヤ人だったとしても、少なくともローマ人としての地位のある者たちをである。

 ヨセフスは、ここでのユダヤ総督フロルスGessius Florus (在職64-66年)を第一次ユダヤ戦争勃発を目論んだ張本人として描いている。

http://jewishencyclopedia.com/articles/12376-procurators

 その140年後、場所は北アフリカで、ペルペトゥアの父はアフリカ総督代理のHilarianusによって鞭打たれている。この総督代理の臨時職は、正規のアフリカ執政官格属州総督proconsul(アシア州と同格で元老院選出属州総督の筆頭ランク)のMinucius Timinianus(ギリシア語訳での表記のほうがより正しいとされているが、さてどうだろうか:「Mινουκίου Ὀππιανοῦ」= Oppianus ≒ Opimianus = PIR5 M 622,1983:ca.186 consul)の在任中の死亡によるもので、北アフリカのいずこか(おそらく州都カルタゴ周辺)の皇帝直轄所領の財務管理官procuratorだったヒラリアヌスは、後継の正規の総督が派遣されるまでのつなぎだったと思われる。こういった財務管理官の出自は、身分的には元老院身分に次ぐ騎士身分にランクされてはいても、おおよそ皇帝の宮廷における私的雇用人(奴隷、解放奴隷)であったから、姓名表記もここでのように個人名のみとなることが多い(ローマ市民が2つの姓名で表示される場合は、個人名・家系名で、今の場合、ミヌキウス・ティミニアヌスは、ca.123のアフリカ総督のT.Salvius Rufinus Minicius Opimianus,[PIR5 M623]が祖先と考えられるので、Minucius Opimianusと修正されているが、さて)。

【追伸】まったく別の話題ですが、磔刑つながりで。以前学生向けの論文集に磔刑がらみの事を書いた(「ローマ時代の落書きが語る人間模様」『歴史家の散歩道』上智大学出版、2008)。そこで十字架刑を体験した唯一の出土物を紹介したことがあったが、二番目ないし三番目の例として2000年前のイタリア出土の骨が2018年に公表されていた。いずれ再検討したいテーマであるが、なにせ先のない身なので、ここに明記しておきます。志ある人を求めています。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/05/extremely-rare-evidence-of-roman.html#EKZb2MUx2dCPG5RE.97

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なぜ幕末・維新?

 いつごろからか、なんでNHK大河ドラマで幕末・維新がよく採りあげられるのか、と疑問に思うようになった。最近だと、言うまでもなく2018年度の「最後うどん」、もとえ「西郷どん」だろう。なんだかなという思いがどこかにあったのだろう、全然みることないうちに終わってくれた。代わりといってはなんだが、朝ドラの「まんぷく」のほうは妻が必ず見て出勤していたので(私はなぜか福子役のデレ〜とした印象が感覚的に好きでないので、朝から見るのはちょっと勘弁なのだが:桃井Kも駄目です、はい)、かなりつきあわされて見せられた気がするのだが、この間ググってみたら主人公の百福氏は台湾人だったことを初めて知った。朝ドラの中ではそれ言ってたっけ。特高の拷問、GHQの逮捕のウラにはもっと複雑ななにかしらのワケがあったはずだ。すべてに寛容なわが妻は「だってどうせ、ドラマでしょ」の一言ですましてしまうが、それでいいのか。たぶん台湾関係者はこの表面的流れに不満なんじゃないかなと、引っかかるのである。

 で、幕末・維新の話に返るが、結局、現在の日本の体制を造り上げたという認識の反芻なのであろう。問題は、肝腎の「影」(暗黒面)の部分は伏せて、もっぱら光だけにスポットライトを当てての、成功物語として仕立てた国策・国民教育なんじゃないか、だから繰り返し演じられるわけじゃないかな、と。さすが国営放送、というわけだ。教科書叙述だって表面的ですましているし(ま、庶民大衆がこういった成功物語を好むという側面も無視できないが。忠臣蔵明治版か)。

 最近ひょんなことで拝読した講演録(磯浦康二「昭和初期は特異な時代だった:日本であって日本でなかった時代」神田雑学大学定例講座No.464 平成21年7月10日)に触発されて、2冊の本に興味を持った。そのひとつ、大学図書館で借りて読んだのが、金子仁洋『政官攻防史』文春新書027、H.11年、である。出版されて20年経っているが、新書だけに(ここ皮肉です)初版本なのに新刊書の新しさで、学生さんにまったく読まれていないこと歴然であるが、明治以降のどろどろの日本の政界・官界の癒着が歯切れよく書かれていた。明治の元勲たちの実像を改めて知って、「どいつもこいつも」といささか辟易ぎみである。

 もう一つは、『統帥綱領・統帥参考』(昭和3年・7年)。これがわが大学図書館にはない。司馬遼太郎『この国のかたち』が口を極めて痛罵しているのだそうだ。「日本の古本屋」には、肝腎の箇所を抹消している田中書店版(1983年)しか出物がなかったが、幸いアマゾンで忠実な復刻の偕行社版(1962年)を見つけることできたので、若干高価だったが勢いで購入することにした。いずれわが図書館に寄贈しようと思う。この本を検索していたら、ウェブで東大法学部出身の弁護士さんの解説に出会った。司馬は小説家なので、こういう専門家的な言説があるのはありがたい(司馬の転写ミスがさっそく指摘されている)。いずれ比較検討する機会を持ちたいものだ。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000685083.html

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『ペルペトゥア殉教伝』読書会参加者募集中!

 2019年度春季の上智大学公開学習センターで以下を開講予定で、現在募集中です。10名の受講者があれば開催されますが、苦戦中です。これが本当に最後かな。連絡先は、03−3238−3552。

 「女性史からみたキリスト教殉教:『ペルペトゥア殉教者伝』をめぐって」

 水曜日 午後7時10分〜8時40分

 開催日:4/24、5/15、5/22、6/5、6/12、6/26、7/3、7/10 の8回

 ジョイス・E・ソールズベリ『ペルペトゥアの殉教:ローマ帝国に生きた若き女性の死とその記憶』白水社、2018年、¥5200+税

【後記】締め切り日までの申込み人数2名につき、開催不能となりました。別途、読書会を開催しますので、そちらにご連絡ください。

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我孫子街歩き

 3/8、我孫子の街歩き「その1」をしました。参加者は読書会メンバーのうち8名。  
 晴天に恵まれ、ときどき風が強かったですが、太陽は暖かく、空気は清明で、街歩きにはいいコンディションでした。日頃の運動不足を解消せんものと頑張りました。  
 我孫子駅南口を出発点に、手賀沼北岸の「はけの道」(丘陵がもとの沼に落ち込んでいる山麓沿い)をたどって、杉村楚人冠記念館、志賀直哉邸跡(我孫子が白樺派の拠点だとは知りませんでした)、旧村川(堅固・健太郎)別荘、と歩き、昼食は2時間ゆったりとイタリア・トラットリア「ジュリエッタ」で過ごしました。すでに田起こしされた水田を沼の手前にみながら、なにもかも美味しかったのですが、地元産の季節の野菜の新鮮さを満喫しました。  

 そこから丘の上に登り、前方後円墳、高野山桃山公園、鳥の博物館を見学して、水の館の道の駅で買い物をし(私は菜の花と、関東では珍しい丸もちを購入)、手賀沼公園を抜けて帰着。水鳥もいっぱいいましたね。  
 諸所で地元のメンバーの解説を聞きながら、梅や椿や早咲きの「河津桜」を愛でながらの半日でした。これからはまず桜並木、そして藤の花もきれいなのだそうです。  
 個人的には、新しく立派で個性的な住宅をそこかしこで拝見できたことも、住宅街で多くの小学生に遭遇したことも、思わぬ収穫でした。さて、30年後はどうなっているのでしょう。  
 私のケータイの万歩計では、なんと2万2千歩弱となってまして、さて足腰大丈夫かなと(実際に疲れが出るのは中二日後でしょうが)、少々心配です。  

 これでも手賀沼界隈の半分の行程だったとか。今度は桜か藤の時期にお願いしたいものと念じております。
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達磨になった私:痴呆への一里塚(5)

 今日もほとんど歩かなかった。

 これでいいわけはないが、歩くのがおっくうな現実がある。パソコン依存症とでもいうか、パソコンの前に座らないと何も進まない。ま、座りっぱなしで、じゃあ能率上がってますか、といわれると、そんなこともないので返答に困るが。

 「まるで、だるまさん」と君がいったから、3月3日はダイエット記念日

 面白い事に気付いた。椅子に座ったままうとうとすることが日に1、2回はあるのだが、さてあれは何年前のことだったか、うとうとしていて食卓の椅子から床に昏倒していた時期があった。こりゃいづれ家具に頭をぶつけて下手したら、と思っていたのだが、どういう加減か、いつのまにか昏倒しなくなった私がいる。さて、これは喜んでいいのか、どうか。

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ピュイ・デュ・フー:もうひとつのフランス革命論

 またまた偶然だが、BS4Kで、「体感世界最大級のスペクタクル劇」の再放送をみた。フランスの西端でナントに近いPuy du Fouでのテーマ・パークの紹介で、フランスではディズニーランド以上に好評を博している由。ヨーロッパの歴史を再現するという触れ込みで、古代ローマの戦車競技の再現など、見所が多いようで、全部見るなら3日間は必要らしい。

 実は、それ以上に私の興味を引いたのは、多数の地元民ボランティア出演による1793年の「ヴァンデ戦争」再現劇のほうだった。フランス革命で宗教弾圧に反対して決起した民衆・農民の反乱に対して、革命政府軍が無差別殺戮をした。革命とは、いわれているほど理想的でも立派なことでもない、という当たり前のことを堂々とイベントにして、自説を主張する心意気に感じるものがあったからである。

 かつて「フランス革命」を理想化する言説が世の中に溢れていた昭和30年代に高校世界史を学んだ私は、わが名物教師(故)西尾先生が「今でも革命記念日にブルボン王家の白百合旗を掲げるフランス人がいるんだ、そもそも三色旗だって白が真ん中にちゃんとあるでしょ」と時流と相容れない、刺激的な情報をさりげなく告げられたことがあって、ある意味強引に、世の中を相対的に見ることの大切さを学んだ気がする。本当にそうなのか、確かめてみたい、これが私の道を決めたと今でもそう思っている。

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