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新年を迎えての読書会予定告知

明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

一部の方たちへ送った賀状返礼で(リタイア後から基本的に、こちらから紙メールでの賀状は出さないと決意しまして)、年号を「平成30年」としていたようで、失礼しましたm(__)m  ま、耄碌爺のやることなので、お許しください。

 さて、新年初頭での四ッ谷での読書会ですが、アウグスティヌス『神の国』を第13巻まで読んだところで、みなさんくたびれ果て(彼のぐだぐだ話に付き合うのは、本当に忍耐がいります)、またまた休憩します。実は、 第14巻おもしろそうだったのですが(^^ゞ。

 代わりに、ケルト関係で以下をやることになりました。 アマゾンで古書で出物あります。
 ヤン・ブレキリアン(田中仁彦・山邑久仁子訳)『ケルト神話の世界』上下 、中公文庫

とりあえず次のような予定です。

 1/24 序章・第2章

 2/ 7 第3章  

 2/21 第4・5章  

 3/ 7 第6・7章  

 3/21 第8・9章  

 3/27 第10・終章   

場所は、四ッ谷駅下車、麹町教会南の真田堀通りをちっと下ったところにあるイエズス会日本管区で、その門を入り右の建物でエレベータで三階の304号室です。18時から90分程度です。場所代その他で、一回2000円が参加費です。

 奮ってのご参加を大歓迎します。

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痴呆への一里塚(3)身体能力低下

  今朝、NHKの「朝イチ」で緊急事の対応をやっていて、やってみないと分からないことばかりで(防火壁の蹴破り方、等々)、勉強になった。たぶん知らなければ、いざというとき、せっかくの救命設備が全然役立たないことだらけだった。

さて、いつごろからだったろうか、一,二年まえくらいか。これまでなんなくできていたことが、できなくなった。たとえば、実に日常的なささいなことなのだが、包装紙にちゃんと切れ目が入っていても、両手の指の力では破れなくなった(素人診断だが、原因はわかっている:長年の痛風投薬の後遺症かと)。

実は、80台後半あたりの母が、そうだった。「こんなこと、なぜできないの」と不思議に思ってやってあげていたのだが、自分がそうなってみると(しかも、母よりえらく早い年齢だ)、指に全然力が入らないのである。しょうがないから、はさみで切れ目を入れてから破っている。

で、今日の「朝イチ」だが、航空機が着水して救命胴衣を座席下からとりだして、ビニール・カバーを破らないといけないのだが、たぶん私にはそれすらできなくなっている、という現実である。

 これを見ていた妻が、「だから私は小さなはさみをいつも持っている」と。機内にナイフは持ち込めないから、化粧・裁縫道具として持ち込めばいいか。セラミック製だと完璧か。

でも、もういいや、と思わないでもない。今さらじたばたしたところでなにほどのことあらんや、だ。正月の初仕事として、3日夜に妻のエレクトーンを大型ゴミで出したが、気をつけたつもりでそう無理な体勢とったとは思わなかったのだが、3階から地下1階まで妻と2人で、片方の端を台車に載っけて(工夫したつもり)、そっちを私が後ろ向きになって引っ張って、廊下とエレベーターで移動させたら、私だけ二日後くらいから一種のぎっくり腰状態が出てこのところ続いている(まだ直りそうもない)。そのうえ昨日など、地下鉄で優先席が空いたので座ったのはいいのだが、下車しようとして、座席から立ち上がれないのには畏れ入った。どういう具合か分からないが、身体全体のシステムが連動して機能不全という感じで、足が悪いわけではないのに、足に力が入らないのである。幸い端に座っていたので腕を回して横棒をてこにしてなんとか立ち上がったが、よそ目には老人が棒立ちで立とうとしている、と見えたに違いない(実際、見た目通りそうなのだが)。そのうえおまけに、そのとき読書会のため若干重た目の書籍や辞書を入れたリュックを担いでたせいだろう、今朝は体の節々が強ばった感じで前かがみでとぼとぼ、よろよろと歩いているざまで、これではまるで老いぼれのご老体である。あ、もう老いぼれだった。

後日談:上記二日後には、立てない症状はほぼ元に戻りました。おかしなものです。なにげに立てるというのは精妙なシステムなのだと実感。ただし、朝起きて「いたた」と言いながらベッドから転げ落ちながら起きるのは従前通りですが。慢性筋肉痛。

 

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痴呆への一里塚(2)上首尾!:フィッシング始末記

昨日は午前中からやたら疲れた。アドレナリン大放出だった。

朝、パソコンを立ち上げると私のメイン・バンクから「ダイレクトの期間満了につき更新されたし」というメールが来ていたので、さっそくデータを入れようとすると、ダイレクトのはずがクレジット・カードの個人情報3点セットのデータ記入を要求してきた。ここでおかしいと気付くべきだったのだろうが、銀行のキャッシングのカードと一体型だったので、かすかに違和感はあったのだがデータ入れて、最後のクリックを押すと、画面に「上首尾!」という大きな文字がっ。

こりゃおかしい、中国系のフィッシングだあああ、と、やっと気付く。それまでの日本語はまったく違和感なかったけど、遅ればせながら送信のアドレスを見直すとやっぱりおかしかった。これを最初に確認すべきだったのだ。

大慌てで銀行の電話番号をさがして「フィッシングに引っかかりました!」と電話すると、事情を聞かれ色々個人情報のデータ確認させられて、まずはカード会社にと転送、そこでも同じデータを確認されて、では銀行の消失受付センターに、と転送され、そこでも同じデータを復唱させられて、ようやく銀行口座の凍結、クレジットカードの凍結完了。銀行口座作った支店に電話して、その旨伝えてカードの再発行の持参物をきいてくださいと。ここまでに優に30分ほど経過していた。
その間に預金が引き出されていたらどうしてくれるんだー、とやきもきしながらの30分。
電話の転送に意外と時間がかかる、その途中で思いついてダイレクトで残高を確認してみるが、変化なし。
ほっと胸をなで下ろすが、銀行と最後の確認していて、フィッシングにあったのは銀行口座ではなく、カードのほうだとやっと気付き、そっちも速報で確かめてみるが、新記載なし。

…>_<… …>_<…

これで一応今回は実害なく、無事に終わったわけだが、再発行には印鑑・カード・身分証明書の3点セットを持参して、銀行窓口に出頭しないといけません。それでなくとも慌ただしい年末なのに(年金生活者もそれなりに多忙です)、ご苦労なことだ。

というより惰性でやってはいけない、なけなしとはいえ貴重な年金とられてどうする、と貧乏な年金生活者は猛省。

しかし、前にも似たようなことあったなあ。

災害は忘れたころにやってくる、とはよくぞ言ったものだ。

いつかボケが進んだらまたやりそうだぞこりゃ。ボケ老人は運転免許証だけじゃなく、メルアド返上もしないとドツボにぜったいはまるじゃないか・・・。

それだと、おいらの老後の楽しみというか、生きる術の大部分を失うことになるけど・・・。う〜ん、困った。

それにしても疲れました。

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下水構造考

老衰の母から、広島の実家の管理を任されて、賃貸2軒と自宅の3軒長屋の管理人となって、2,3か月に一回は帰省している。
とはいえ、偶発的な事故には対処できないので、地元の不動産会社に一般的な管理をお願いしているのだが、ちょうど帰省していたときに出会ったトラブルで学ぶことがあった。

それは真ん中の家で下水が風呂場であふれたので、下水の掃除をしなければならないという事案であった。その作業は、業者がやってきて掃除して簡単に終わったのであるが、私はその時初めて、台所や風呂場の家庭排水とトイレの汚物排水が同じ下水で流れているという、驚愕の事実を知ったのだった。
それまでは、汚物は別のルートで汚水槽につながっていて、そこで多少の処理がなされて街路地下の排水溝に行くものと思い込んでいたのだが、業者さんから、下水は家庭排水も汚物も同一の下水溝を通り、雨水は別ルートなのだ、ということを教えられたのであ〜る。

マンションや公共建築物なんかだと確か地下に下水を貯めての沈殿構造があって、年に何回か掃除もしているけど、一般住居ではどうもそれが一般的なようである。

ということで、古代ローマ遺跡での下水構造お勉強していますが、目の前にあっても地下に埋もれているとなにも見えていない、という話でした。

以下はつけたし。

そのあと、考えるでもなく思いついたのは、だったら風呂場で小便くらいしても結局は同じことじゃん、という禁じ手であった。むしろ西洋式水洗トイレで流す水の節約と、トイレットペーパーの節約、下水の詰まり問題解消、という視点からは、・・・よきことかもしれない、という結論になるのであ〜る。

まあ、幼児が風呂で気持ちよくなってとか、小学生が学校のプールでトイレに行くのが面倒で、といった話はなんとなく知っていた私ではあったが(チコちゃんもそういってたよな)。オリンピック選手もご同様とのこと。

それでなくとも、湯船につかって温まっても洗い場に出ると寒いわけで、もよおすのは理解できる。

数日前、メールに送られてきたウェブ・ニュースに「シャワー時に小便する人が〇〇%」という記事が出ていて、あれれ、と。「朝シャン」ならぬ「シャワ・ション」かあ。
試しにググってみたら、この話題は早くも(?)2007/12/6に「YAHOO!知恵袋」に出てまして。次は2011年、そして2013年。このあたりまでは否定的な見解が多いです。2017年から肯定派が多くなってるような。
そして今年になると大流行。ま、例のごとく最近は過激な書き込みだらけのようでして(俺は大もやってる、とか)。こうなると信用はできませんが。

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奇蹟譚発生を考える:モーゼの奇蹟

 偶然見たケーブルテレビで、旧約聖書に書かれているモーゼの「10の災い」は火山の噴火がもたらした異常気象が原因だという話をやっていた。
 その可能性はあるかもと思ったが、もひとつ、出エジプトの際の「海が分かれた」という件が、サントリーニ島の大噴火で、一時的に地中海の海水が地下空洞に吸い込まれ、海水が引いたその時のことだ、というのもやっていて、こうなるとこりゃちょっと眉唾だわ、と。

 でもそれで思いついたのは、津波だったらありかも、と。南アメリカでの地震の影響で日本にも影響あるようだから、ユーラシア大陸西端のどこかで大地震が起こって、そのため急に海水が後退し海底が露出、その後にどっと津波が来ることはありえるわけで。もちろんモーゼご一行様の移動経路は紅海ではなくて、地中海の海岸沿いをシナイ半島に向かっていたときの葦の原(マンザラ湖やバルダウィール湖)でのことだったようですし。

 ま、それがヘブライ人たちの「出エジプト」のときにちょうど起こったというのは、どう考えてもできすぎの話ではあるが、あのころこんな意表外のことあったよね、というレベルで人びとに記憶されていたものが、後世になって「あの時」それが起こった、という奇蹟譚に造られた可能性は十分あるかも、と。
 そもそもカエサル『ガリア戦記』で、ローマ兵は大西洋で潮の満ち引き現象に初めて出会って驚いた、ということは、地中海世界では干満は目立たなかった、ということらしいし。

 地震にせよ火山噴火にせよ、直撃受けていない遠距離の人びとにとっては、その結果としての天変地異や天災は「神の懲罰」としてしか理解できなかったのは当たり前だったろうし。
 
 新約聖書の福音書に書かれているイエス誕生時の、星の移動に導かれた東方3博士の件も同様で、しかもそれは当時のローマ皇帝アウグストゥスの登場を言祝ぐ吉兆として、前12年のハレー彗星が同定されていたりしているのも、事後予言として「あのころ、こんなことありました」という一般論が、「あの時」と短絡的にイエスやアウグストゥスに結びつけられた、と考えればいいだけのことのような気がする。民族の記憶とはこういうもののような気がする。

 こういう問題は史実としてあった、と居丈高になる必要はないと、私は考えたい。

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痴呆への一里塚(1)

私は「認知症」という名称を好まない。以前使われていた「痴ほう」のほうがそのものずばりだと思うからだ。
究極の希望として、痴ほうになる前に、立派なガンになって病死したいのである、私は。

それに気付いたのは、いつごろだっただろうか。一ヶ月前かな。耳の後を触ると、これまでになくやけにべたついた感じになりだしたのだ。汗というより油がにじみ出しているというか。
そういえばどこかで聞いたような。老人の発する臭気、加齢臭は耳の後の汗腺から分泌されてる、と。
やれやれ、想像はしていたが、気付かなかったとはいえ、だとしたら、まさしく加齢臭を周囲に振りまきながら、このところ生きてきたことになる。

この夏の現地調査中に、左足膝がひねった記憶はないのだが、痛み出した。日頃運動不足なので、足が弱っているのは自覚していたが、痛くなるとトレーニングもできないし。負のスパイラルである。
ケーブルテレビでは膝の軟骨が減ったせいでそれ飲むとどうのこうのと、サプリメント広告満載なので、まあもうじたばたしても駄目かなとおもいつつ、帰国して1か月しても直らないので、歩いて3分の整形外科に通ってみることにした。最初はレントゲンだとかでかなり取られたが、通うようになって、暖めて、電気かけてもらって、ちょっとだけマッサージしてもらっての通院をほぼ日課にしてきたが(一回330円)、どれもこれも効果があるように感じられず、痛みも去りそうになかったので、医者やマッサージ師はそうはいわないけど、やっぱり軟骨減ったせいだろうと思っていたのだが、この一週間前くらいから急に治癒感に捕らわれた。要するに足を引きずることも、普通に階段降りる分には痛みも感じなくなったのだ(代わりといってはなんだが、右の足首の痛みが気になりだした)。
俄然、マッサージ師さんが「膝の裏の奥の、普段使っていない筋肉ですね」といっていたのが、真実味を帯びだした瞬間で、現金なものだ。
痛み出して3か月か。通ってよかった。「これまでどこでもいわれてきているでしょうが」と前置きして、マッサージ師さんが言うには、やっぱり体重です、散歩して下さいと。よくなってきたのだから、せめて練馬まで歩こうか。そういえばお金払っていても行っていないなあ、練馬のフィットネス。

もひとつ、これは昨日気付いたのだが、10月末の学会発表の準備中から耳鳴りがまた出てきていたのだが(ぼこぼこ、という感じで、実に耳障り)、それがおさまった。約一ヶ月か。これはちょっと無理してると出てくるようになったという記憶がある。

追伸:この書き込みの数日後、世間が静かだった時、両耳の中で途切れないでセミがジーと鳴いているのに気がついた。このジーは不快感は感じないのでこれまで気付かなかったのだろうか。

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翻訳:ペルペトゥアとフェリキタスの殉教者行伝

20年近く前に翻訳したものをアップする。邦訳としてはその時期にも教文館版(土岐正策訳、1990年)があったが、それが底本にしたH.Musurilloの英訳(1972年)には、とりわけ古代ローマ史に関する知識に問題があったこと、それ以上に、フェミニズム史学華やかりし頃、女性史関係の叢書の巻頭言部分で一部引用された邦訳の意味不明さに辟易したという体験から、より正確な邦訳を目指したわけである。
なお、気が向けば、2001/5/13の日本西洋史学会大会古代史部門での口頭発表レジメを掲載するでしょう。

この殉教者行伝に関する邦訳の聖人伝としては、以下がある。
①「三月七日(2)聖女ペルペチユア殉教、聖女フエリシテ殉教、他四名の聖殉教者」シルベン・ブスケ『聖人物語 三月之巻』1912(明治45)年3月16日印刷[全12巻、聖若瑟教育院、1910(明治43)-1926(大正元)年]。
②「3月6日 フェリシタス、ペルペツア両聖女殉教者(Ss.Felicitas et Perpetua MM.)」光明社編『カトリック聖人傳』上巻、光明社、第三版、昭和38年(初版、昭和13年)、215-218頁。
③「167 聖サトゥルニヌス」ヤコブス・デ・ウォラギネ(前田敬作・山中知子訳)『黄金伝説』第4巻、人文書院、1987年、339-343頁(原著は13世紀半ばの著作)。

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『聖ペルペトゥアと聖フェリキタス殉教者行伝』Passio Sanctarum Perpetuae et Felicitatis

I (1)もし古い信仰の諸模範 exempla が、神の恵みを立証し人間形成に参与することで、そのため諸文書に書かれてきたとするならば、というのは、それらの朗読と出来事の描写によって、神はあがめられ人は強められるからだが、それならば、新しい諸文書が等しく両方の目的にふさわしく書かれないことがあろうか。というのは、同様にこれらもいつか古くなるであろうし、そして後代の人々に必要になるからである。古代性のほうが優先的に尊敬されるので、たとえそれらは、それが生じたその時代において、より小さな威厳しかないと見なされるのであるが。
(2)しかし、唯一の聖霊の力が virtutem、もろもろの時代の諸世代に(同じように働いていると)判断する人々は,以下のことを見るべきだろう。より大いなるものとは、より新しくそして最新(=最後)のものであるとみなされるべきである。なぜなら、恵みの豊かさ(噴出)は現世の最終の時期に定められているからである。
(3)「だが終わりの日々に」と主は仰せになる。「わたしはわたしの霊をすべての肉 carnem の上に注ぐ。すると、息子たちと娘たちは預言するであろう。そしてわたしの僕たちとはしためたちの上に、わたしはわたしの霊を注ごう。すると、若者たちは幻をみ、老人たちは夢をみるだろう」【行伝2.17-18:参照ヨエル23.1-2】。
(4)それゆえ、我々も、同じように約束された新しい預言と幻を承認してあがめ、聖霊の他の力をも教会の道具と見なすのである。そこにも同じものが派遣される。主は、あらゆる賜物を管理なさり、すべての人々におのおのに応じて分配なさる【エフェソ書簡4.7】。我らは、不可避的に順序正しく記入し、神の栄光のため朗読を言祝ぐ。それというのも、信仰の弱い人ないし懐疑の人が、殉教あるいは啓示への評価によって、ただ古人たちの場合だけのみに神の恵みが改宗をもたらした、と考えることがないためにである。常に主は、約束されたことを実行なさり、非信者たちには証しを【マルコ6.11】、信者たちには恵みを【ヨハネ3.36】お約束くださってきた。
(5)それゆえ我々もまた「聞き、かつ見、そして触れて」【ヨハネ第一書簡1.1】、そしてまた汝らに伝える【ヨハネ第一書簡1.3】。兄弟たちと幼子たちよ、というのは、あなた方の中で居合わせた人たちは主の栄光を思いだし、そしてそれをいま聞いて学んでいるのなら、聖なる殉教者たちと、また彼らを通して主イエス・キリストとの交わりを持つことができるからである、彼に光輝と誉れが代々に至るまで、アーメン【ヨハネ黙示録5.13】。

II (1)若い教理研究者たちが逮捕された。レヴォカトゥス Revocatus と彼の奴隷仲間フェリキタス Felicitas、それにサトゥルニヌス Saturninus とセクンドゥルス Secundulus である。彼らの中にヴィビア・ペルペトゥア Vibia Perpetua もいた。彼女は高貴な生まれで、自由教養諸学科の教育を受けており、結婚していた既婚婦人で、父と母、それに二人の兄弟 fratres が存命中であり、その1人は等しく教理研究者だった。そして両の乳房に乳飲み子の息子 filiorum infantem を抱いていた。とはいえ彼女自身はおよそ22歳だった。かの女は彼女の殉教のすべてを順に、続いてこれから(示すように)自ら物語った。いわば彼女の手で、そして彼女の意志で書き付けて残したのだった。

III (1)彼女は言った。「まだ、私たちが監視人 prosecutor たちとともにいて、そして私に父が言葉でもって改心させようと望んで、そして彼の愛情によって思いとどまらせるようにし続けた時、私は言います。『お父様、見えますか、たとえば、ここにある容器、水差し、ないしは他のものが』。そして彼は言いました。『見えるとも』。
(2)そこで私は彼に言いました。『それでは、それをそうである別の名前で呼ぶことはできるでしょうか?』。彼は答えた『できない』。『それでは私はキリスト教徒ですから、私であるものとは違う、別のもので呼ばれることはできないのです』。その時、父はこの言葉に怒って、私から両目を抜き取る勢いで、私に向かって詰め寄ってきました。しかしただ悲しみに打ちひしがれ、立ち去りました。悪魔の狡猾さを持っていたのですが、うち負かされたのです。
(3)その後、数日、私は父に煩わされずにいましたので、私は主に感謝しました。そして彼の不在で私はくつろげました。わずかな日々のまさしくこの期間に、私たちは洗礼を受けました、そして私に聖霊が話しかけました。『洗礼ののちは、ただ肉の忍耐以外のなにも期待すべからず』。数日後、私たちは牢獄に収監されました。そして私はびっくりしました。というのは、私はこんな暗闇をまったく体験したことがなかったからです。
(4)なんとひどい日だったことか! 大勢の人いきれによる大変な暑さ、軍隊の職権乱用。最後に、そこにいた乳飲み子の心配で私は苦しめられたのです。その時、テルティウス Tertius さんとポムポニウス Pomponius さん、祝福された執事さんたちが、私たちの世話をしておられたのですが、こころ付けを用立ててくださいました。というのは、わずかな時間でも、牢獄のよりよい空間に移って、私たちがくつろげるようにと。
(5)その時、全員が牢獄から出て、自由になれたのです。私はすでに絶食で衰弱していた乳飲み子に授乳しました。彼のことが心配で、私は母に話しかけ、そして兄弟を fratrem 勇気づけ、息子を委ねたのでした。私はそのため憔悴していました。というのは、私のために彼らが憔悴しているのを私が見ていたからです。
(6)このようなもろもろの心配に幾日も私は耐えました。そして私と共に乳飲み子が獄中で過ごせるようにと願い出て、そしてすぐさま私は元気になりました。そして私は乳飲み子のための心痛と心配から解放されました。そして私にとって牢獄は突然軍団司令本部 praetorium となりました。というのは私はどこよりもそこにいることを好むようになったのです。

IV (1)その時、私の兄弟が私に言いました。『主において姉妹よ、もう大きな地位に dignitas あるのだから、幻を求めたらどうですか、受難するのか、一休みできるのかが、あなたに示されるでしょう』。そして私は主との語らいを会得し、彼の大きな恵みを体験していましたので、確信をもって彼に約束して、こういいました。『明日、あなたに伝えるでしょう』。
(2)そして私が求めたところ、私に次のことが示されました。私はとても巨大な青銅のはしごをみています。それは天へと伸び、そして幅が狭いので一人づつしか登れません。そしてはしごの両脇にはあらゆる種類の鉄器具類が打ち込まれていました。
(3)そこには、剣、やり、鈎(かぎ)、短剣がありましたので、もしだれであれ無造作に、または上の方に気をつけずに登ろうとしたならば、彼は引き裂かれ、彼の肉は鉄器具類に刺さってしまうでしょう。そして、はしごのすぐ下には(一匹の)龍が横たわっていました。とても巨大でして、それは登っていこうとする人々を待ち伏せて、立ちはだかり、また彼らが登ってこれないように追い払ってました。しかしサトゥルス Saturus さんが先に登っていきました。彼はあとから私たちのために自発的に自らを(官憲に)委ねたのでした。というのは、彼自身は私たちを教導してくださっていたのですが、私たちが連行された時に、たまたまその場にいなかったのです。
(4)そして彼ははしごのてっぺんに着くと、振り返り私に言いました。『ペルペトゥアよ、私があなたを守りますから。でも、あの龍があなたに噛みつかないように注意しなさい』。そして私は言いました。『龍は私を傷つけないでしょう、イエス・キリストの名において』。そして龍ははしごのすぐ下で、私を恐れているように静かに頭を投げ出していました。そしてまるで最初の階段を踏みつけるかのように、私はその頭を踏みつけました。
(5)そして私は登っていき、そして見たのです、無限の広さの庭を。そしてその中に白髪の男性が座っていましたが、彼は牧者の衣装を身につけ、大変大柄で、羊たちの乳を搾ってました。そしてまわりに(白い衣装の)志願者たちが何千といました。そして彼は頭を起こし、私に言いました。『よくやってきましたね、子供よ tegnon(gr.)』。そして彼は私に大声で呼びかけ、そして彼が搾りたて(のミルク)で作ったチーズから、私に一口ほどくださいました。そして私は両手を重ねて頂戴し、そして食しました、そして回りにいたすべての人々が言いました。『アーメン』。
(6)そして私は騒がしい声で目覚めたのです。今まで未知だった甘い味を飲み込みながら。そしてすぐに私の兄弟に話しました。そして私たちは来るべき受難を理解したのです。そして私たちはもはや現世にはなんの希望も持たなくなりました。

V(1)しばらく日にちが過ぎて、尋問が行われるという噂が広まりました。しかし私の父が都市からde civitate やって来ました。彼は苦悩で消耗し、そして私を転向させようと、私へと登ってきて ascendit ad me 言いました。『哀れんでおくれ、娘よ、私の白髪を! 父を哀れんでくれ、もし私がお前によって父と呼ばれるのに値するなら。もしお前をこの手ずからこの歳の花盛りまで私が導いてきたなら。もしお前をお前のすべての兄弟たちよりも私が上に置いてきたなら! 私を人々の恥辱の中に委ねないでおくれ! お前の兄弟たちのことを考えなさい! お前の母や叔母さんのことを考えなさい! お前の息子のことを考えなさい。あれはお前のあと生きることはできないだろう! 強情を張るものではない。私たちすべてを破滅さないでくれ! わしらのだれも、自由に話しかけられはしないだろう、もしお前がそんなことを甘受しようものなら』。
(2)これらのことを彼は言ったのでした、父がその慈愛のために言うように。彼は私の片手に接吻し、そして私の両足に自らを投げ出し、そして私を涙ながらに娘ではなく婦人と呼んだのでした。
(3)そして私は私の父の問題で悩みました。なぜなら彼一人が私の全一門の中で私の受難を喜んでいなかったからです。そして私は彼を力づけて言いました。『このことは、あの台の中でも生じるでしょう。というのは神がお望みになられたであろうからです。いつか分かってください、確かに私たちは私たちの権力の中にではなく、神の中にあるべき存在なのです!』。そして彼は私から去っていきました、悲しみながら。

VI (1)別の日に私たちが朝食をとっていると、私たちは突然引き裂かれました。それは私たちが尋問されるためでした。そして私たちは広場に ad forum つきました。噂はただちに広場の近くの地域に広まり、そして大勢の民衆がやってきました。私たちは台に上りました。尋問されてほかの人々が告白しました。そして私の番になりました。そして父がその場に私の息子と現れ、そして階段から私を引きずりだし、嘆願したのです。『乳飲み子を哀れんでくれ!』と。
(2)そして、管理官 procurator のヒラリアヌス Hilarianus は、そのとき属州総督 proconsul で死去したミヌキウス・ティミニアヌス Minucius Timinianus の座にいて死刑執行権 ius gladii を拝命していたのです。彼がこう言います。『おまえの父の白髪を大切にしなさい! 乳飲み子の男の子を大切にしなさい! 諸皇帝の健康のために犠牲を行いなさい!』。そして私は答えました、『いたしません』と。
(3)ヒラリアヌスは言います。『お前はキリスト教徒か?』。そして私は答えました。『キリスト教徒です』。そして父は私を転向させようとしつこかったので、ヒラリアヌスによって引きずりおろせと命令されました。そして……彼はむちで痛めつけました。私の父のできごとは私を悲しませました、まるで私がむち打ちされたように、こうして私は彼の哀れな白髪のために悲しみました。
(4)そのとき、彼は私たち全員に判決を下し、そして野獣刑を宣告しました。そして私たちは晴れ晴れと牢獄に降りていきました、そのとき、乳飲み子は私から両の乳房を含み、私とともに牢獄にいることになっていたので、ただちに父のもとへ助祭のポムポニウスさんを乳飲み子を求めて送りました。しかし、父はそうしませんでした。そしてそれは神が望んだことだったのです。彼は以前よりは両の乳房を慕わなくなっていて、それらも私にいらだちをなさなくなっていたのです。私は、乳飲み子の不安も両の乳房の痛みにも苦しまなくなっていたのです。

VII (1)その後、数日して、私たち全員で祈ってますと、突然祈りの最中に私から声が出てきたのです。そして私はディノクラテス Dinocrates の名前を呼んだのです。そして私は唖然としました。というのは、決してそれはその時以外に私の心に浮かばなかったからです。そして私は苦しみました。彼の死を思い出したからです。そしてすぐに、私がふさわしくそして彼のためにそうせねばならない、と気づきました。そして私は彼自身のためにしばしば祈りをし、そして主に対してうめき ingemescere 始めたのでした。
(2)ただちにその夜、私に以下が示されました。私はディノクラテスが暗い場所からでてきたのを見ました。そしてそこには多くの人たちがいました。彼は大変に暑がりそしてのどが渇いていて、顔つきが汚くそして顔色は青ざめていました。そして彼の顔面には傷がありました。彼が死んだときそれを持ってました。このディノクラテスは私の肉の上での兄弟で、7歳でしたが、彼は病弱のため顔面の腫瘍が悪化して死んでいたのでした。そのために彼の死はすべての人々によって嫌悪されたのです。
(3)この彼のために私は祈祷oratio をしたのです。そして私と彼との間にはかなり距離がありました。そのため私たちはおたがい相互に接近できないほどでした。さらに、ディノクラテスがいたその同じ場所に水をたたえた水槽がありました。それは子供の身長よりも高い縁を持っていました。そしてディノクラテスは飲もうとするかのように背伸びしました。
(4)私は悲しみました。というのは、その水槽には水があったのですが、でも縁の高さのために彼は飲めなかったからです。そして私は目が覚めました。そして私の兄弟が窮していることを知りました。しかし私は、彼の苦労に私が役立つであろうことを信じていました。そして私は彼のために毎日祈りました。それは、私たちが兵営の牢獄にいくまでのことでした。というのは、兵営の余興(見せ物) munura castrensia で私たちは戦わされることになっていたのです。そのとき、副帝ゲタの誕生日に。そして私は彼のために昼も夜も祈りました。うめき、涙を流し、それが私に許されるようにと。

VIII (1)私たちが【自殺防止用拘禁具の】革ひもで過ごした日に、私に以下が示されました。私は、私が以前見ていたあの場所を見ています。そしてディノクラテスを。(彼は)清潔な身体で、よい衣服を着て、くつろいでいます。そして傷があったところに、私は痕跡を見ます。そして以前私が見たあの水槽も、子供のおへそほどに縁が低くなっています。そして水がそこから絶え間なく流れ落ちていたのです。そして、縁の上には水でいっぱいの黄金のfiala(gr.:jialh:平鉢)があります。そしてディノクラテスは近づき、そしてそれから飲み始めました、その平鉢はけっして尽きることがありませんでした、そして彼は水を堪能し、子供たちがよくやるように水で遊びはじめました。彼は喜んでいます。そして私は目覚めたのです。そのとき、彼が罰から移り出たことを私は悟ったのでした。

IX (1)ついでしばしの日々の後、百人隊長補佐 optio の軍人プデンスPudens、彼は監獄長 praepositus carceris だったのですが、彼が私たちをあがめ始めたのです。私たちの中に大きな力を悟ったようです。彼は多くの人々が私たちに(接見することを)許可しました。それで私たちと彼らは相互にくつろいだのでした。
(2)ところで、見せ物の日にちが近づいたので、私の父が私のところに入ってきます。心労で消耗して。そして彼は彼のあごひげをむしり取り、そして地面に投げつけ始めました。そして自ら顔面を打ち据え、そして彼の歳に不平をいい、そしてあらゆる被造物を揺り動かすであろうような多くの言葉を語りました。私は彼の不幸な老年のため悩みました。

X (1)私たちが戦うはずの前日に、私は幻の中で in horomate(cf., gr.:ヤora ォw)以下を見ます。執事のポムポニウスさんが、牢獄の入り口にやってきて、そして激しく叩きます。そして私は彼の方に行き、それを開けました。彼は帯なしの白衣を着ていました。それには多くの玉飾りがついています。そして彼は私に言いました。『ペルペトゥアよ、私たちはあなたに期待してます。お出でなさい!』。そして彼は私の手をとりました。そして私たちはでこぼこの、そして曲がりくねった場所を通って歩き始めました。
(2)やっとのことでついに、私たちはあえぎながら円形闘技場へ ad amphitheatrum つきました。そして、彼は私をアレーナの中央に導き入れ、そして私に言いました。『おびえてはなりません! ここに私はあなたと共にいて、そしてあなたと共に一緒に働きます』。そして彼は立ち去りました。そして私は大観衆を見つめます。彼らは熱狂していました。そして私には野獣に定められていることが分かっていましたので、私は不思議に思いました、なぜ野獣たちが私に放たれないのかと。
(3)そして私に対してエジプト人が出てきたのです。ものすごい形相で、助手たちを伴って cum adiutoribus、私と戦うために。そして私には美しい青年たちが現れました。私の助手たちそして世話係たち fautores です。そして私は(衣服を)奪い去られ、そして男になりました facta sum masculus。そして世話係たちは私をオイルで磨き始めました。そうするのが競技では in agonem 習慣だったのです。そして私が見ると、それに対しかのエジプト人は土ぼこりの中を in afa 転がり回っています。
(4)そしてとても巨大なある人物が出てきたのでした。たしかに彼は円形闘技場の天井のてっぺんを突き出るほどで、帯なしでした。彼は、2つの縁飾りclavus の間から胸の真ん中で紫衣を(みせて)着ていて、そして金と銀でできた多くの玉飾りもつけていました。そして彼は帯同していたのです、剣術師範の lanista 鞭のようなものと緑の枝を。その中に黄金のリンゴpl.がありました。
(5)そして彼は静粛を要求し、言いました。『このエジプト人は、もしこの者(女性形)に勝てば、この者を剣で殺すだろう。そして、もし彼女が彼に勝てば、彼女はかの緑(の枝)を得るだろう』。そして彼は去りました。そして私たちは相互に接近し、そして私たちは両拳を放ち始めました。彼は私の両足をつかもうとしました。他方で私は彼の顔面を(両方の)かかとで打ちました。
(6)そして私は空中に持ち上げられ、そして私はほとんど地面を踏むことなく、彼を打ち始めました。でも、時間がかかりそうだと見てとった私は、両手を組みました。指pl.の中に指pl.をつっ込んでそうしたのです。そして彼の頭をとらえようとしたのです。そして彼は顔面から倒れました。そして私は彼の頭を踏みつけたのです。そして人々は歓呼し始めました。そして私の世話係たちは詩篇を歌い始め、そして私は剣術師範に近づき、緑(の枝)を受け取りました。
(7)そして彼は私に接吻し、そして私に言いました。『娘よ、汝とともに平安あれ』。そして私は栄光とともに勝利者の門へと portam Sanavivariam 向かい始めました。そして私は目覚めました。そして理解したのでした、私は野獣とではなく悪魔に対してこそ戦おうとしていることを。しかし私が勝利することも分かりました。こうして見せ物の前日にいたるまで私は過ごしました。さらに見せ物そのものの実際については、もし誰かが欲すれば、その人が書くでしょう。」

XI (1)ところで、そして祝福されたサトゥルスは彼自身の以下の幻を述べた。それを彼自身が記したのだった。彼は言った、「私たちは受難しました。そして私たちは肉から離れました。そして私たちは4人の天使によって東に運ばれ始めました。彼らの手は私たちに触れていませんでした。私たちはしかし、後ろ向きにねじられて垂直に上の方にではなく、まるでおだやかな丘陵を登るように(運ばれたの)でした。
(2)そしてこの世を離脱すると最初に私たちは無限の光を見ました。そして私はペルペトゥアに言いました。というのはこの人は私の傍らにいたからです。『これこそ、私たちに神が約束されていたものです。私たちは約束を受け取りました』。そして私たちが4人の天使たち自身によって運ばれている間に、私たちに広い空間が示されました。そこはまるで庭園のようで、バラの樹木やあらゆる種類の花々がありました。樹木の高さは糸杉ほどもありました。それらの葉っぱが絶え間なく降下していました。
(3)ついでさらに、庭園の中に別の4人の天使たちがいました。彼らは他よりもより輝いていました。彼らが私たちを見た時、彼らは私たちをうやうやしく迎え、そして他の天使たちに言いました、感嘆を込めて。『ほら、彼らですよ! ほら、彼らですよ!』。
(4)そして、その4人の天使たち、すなわち私たちを運んでいた天使たちは畏れかしこんで、私たちを下に置きました、そして私たちは私たちの足で広い道を競技場へと stadium 移動しました。私たちはイオクンドゥス Iocundum、サトゥルニヌス Saturninum そしてアルタクシウス Artaxium に会いました。彼らは同じ迫害で生きながら燃えたのでした。そしてクイントゥス Quintum にも。彼自身は獄中で殉教者として旅立ったのですが、私たちは彼らに尋ねました。他の人たちはどこにいるのですか、と。天使たちは私たちにいいました。『まずおいでなさい、入りなさい。そして主にご挨拶なさい!』。

XII (1)そして私たちはその場所の近くに行きました。その場所の壁は次のようでありました。まるで光で作られたもののようで、そしてその場所の入り口の前に、4人の天使たちが立っておりました。彼らは入ってくる人々に白のストラを着せていました。そして私たちは入りました。そして次のように斉唱している声を聞きました。『聖なるかなagios、聖なるかな、聖なるかな』と、絶え間なく。
(2)そして私たちは、その同じ場所の中に座っているまるで白髪の人を見ました。彼は真っ白な頭髪を持っています。そして若者の顔つきです。彼の両足を私たちは見ませんでした。そして右と左に4人の老人たち、そして彼らの後ろには別の多くの老人たちが立っていました。
(3)そして私たちは入ったのですが、感嘆しながら玉座の前に立ちました。そして4人の天使たちが私たちを持ち上げ、そして私たちは彼に接吻しました。そして彼は、彼の片手を私たちへと(差し出し)顔をお向けになりました。そして別の老人たちは私たちに言いました。『立ちましょう!』。
(4)そして私たちは立ち、そして平和(の接吻)をしました。そして老人たちは私たちに言いました。『あなたは行きなさい、そして楽しみなさい』。そして私はペルペトゥアに言いました。『あなたの望みはかなえられましたね』。そして彼女は私に言いました。『神に感謝! 私は肉においても晴れやかでしたが、ここでこのようにより一層晴れやかです』。

XIII (1)そして私たちは出ました、そして私たちは扉の前に司教オプタトゥス Optatus さまが右に、教師役の司祭アスパシウス Aspasius さまが左にいるのを見ました。彼らは別々でそして意気消沈してました。そして彼らは私たちの足もとに身を投げ、そして言いました。『私たちを調停してください。なぜならあなたたちは出ていっていまったのです、私たちを残したまま』。そして私たちは彼らに言いました。『あなたは私たちのパパさんであり、あなたは長老ではないのですか。どうしてあなた達が私たちの足もとに身を投げるのですか』。そして私たちは心を動かされ、そして彼らを抱擁しました。
(2)そしてペルペトゥアはギリシア語で彼らとしゃべり出しました。そして私たちは彼らを庭園の中のバラの樹木の下に別々に連れて行きました。そして私たちが彼らと話していますと、天使たちがあの人たちに言いました。『彼らを放ってあげなさい! 彼らはくつろぐべきでしょう! そしてもしあなた達があなた達の中で何らかの不一致をもっているのなら、あなた達相互で解決なさい!』。そして彼らはそれら(の言葉)で当惑しました。
(3)そして彼らはオプタトゥスさまに言いました。『あなたの平信徒を正しなさい。というのは彼らはあなたのところへ、まるで競技場から de circo 帰ってきたかのように、そして党派で張り合っているかのように、集まってくるのですから』。そして私たちには、まるで彼らが門を閉鎖しようと望んでいるかのように見えました。そして私たちはそこに多くの兄弟たち(がいる)こと、しかも殉教者たちだということに気づき始めました。私たちは全員名状しがた香りで強められました。それは私たちを満足させました。その時、私は喜びに満たされて目覚めたのでした」。

XIV これらきわめて顕著な幻視こそ、サトゥルスとペルペトゥア、至福なる殉教者たち自身のものであり、それらを彼らが自分で書き付けた。セクンドゥルスをだが神はより早めに現世から、それゆえ獄中からの出立で召還された。これも恩恵であった。彼が野獣たちに与えられないようにとの。とはいえ、魂ではないにせよとにかく彼の肉は、剣を認識したわけである。

XV (1)フェリキタスについては、実に(以下のようなことだった)。そして彼女に主の恵みがこのように到達した。彼女はすでに8ヶ月のお腹だったので、つまり彼女は妊娠していて捕らえられたのだったが、見せ物の日が目前に迫り、彼女はおおいに悲しんでいた。お腹のために彼女は別にされてしまうのではないかと。というのは妊娠している者は(出産まで刑の)執行が許されないからである。そして他の冒涜的な人たちの中で、後から彼女が聖なるそして高潔な血を流すことになるのでは、と。
(2)しかし仲間の殉教者たちも真剣に悲しんでいた。同志のごときよき仲間を同じ希望の道に一人で残こすことになるのかと。そこでひとつに結ばれて、見せ物の日の三日前に主に祈ってうめいたのだった。祈りの後に直ちに陣痛が始まった。
(3)そして8ヶ月だったので当然困難で、彼女は出産において難儀して苦しんでいた時に、彼女に落とし格子の役人のある者が quidam ex ministris cataractariorum、言う。「この程度で苦しんでいて、獣たちに向かい合ったらどうするつもりだ。あんたは犠牲を捧げることを拒否した時は、屁とも思っていなかったらしいが!」。そして彼女は答える。「今私が苦しんでいるのは、私(一人)が苦しんでいるからです。でも、そこでは他の人が私の中にいらっしゃるでしょう。彼は私のために苦しんでくださるでしょう。なぜなら私は彼のために受難しようとしているのですから」。こうして彼女は一人の娘を生んだ。それをある姉妹が自分の娘として教育した educauit。

XVI (1)聖霊は、見世物の顛末を書き記すことを許し給うた。そして許し給うたということは、書き記すことを望まれたということである。そこで、私たちはこのような大きな栄光につつまれた物語に何事かを付け加えるにふさわしい者ではないが、あたかもいと聖なるペルペトゥアの命令、というよりは彼女が私たちに託した遺言のように考えてこれを実行し、ペルペトゥアの毅然とした態度と崇高な精神の一例をつけ加えよう。
(2)愚かな人々が密告したため、副官 tribunus は、殉教者たちがある種の魔術で牢獄から連れ去られるのを恐れて、殉教者たちの監視と制限をこれまで以上に厳しくした。この時、ペルペトゥアは副官に向かって抗議した。「一体どうして私たちがくつろぐのを許して下さらないのですか。私たちはもっとも重要な罪人、つまり副帝の罪人で、副帝の誕生日に(獣と)戦うことになっていますのに。それとも、私たちがもっと太った姿でそこに引き出されたら、あなたの不名誉になるのですか」。副官は恐れ恥じて、殉教者たちをもっと人間らしく取り扱うようにと命じた。その結果、ペルペトゥアの兄弟たちや他の人々が訪れて、殉教者たちと一緒に食事することが許された。この頃までに、監獄の百人隊長補佐その人もキリスト教徒になっていた。

XVII そしてその翌日、彼らが「自由の食事libera」 と呼ぶあの最後の食事を、彼ら自身の中では自由の食事ではなく「アガペ」(愛餐)として agapem であったが、摂ったとき、彼らはおなじ確固不動さで人々にむけて以下の言葉を繰り返し述べ、神の裁きがあると警告し comminantes、彼らの受難は恵みであると確証し、民衆の好奇心をあざ笑った。サトゥルスは言った。「明日で十分ではないのですか、あなた達には。今日の友は明日の敵。しかしあなた達のために私たちの顔をしっかりと憶えておくがいい。私たちをその日思い出せるように!」。このため、すべての人々は驚嘆して退去したのだった。彼らのうちで多くの者が信じた。

XVIII (1)彼らの勝利の日が明けた。そして彼らは牢獄からあたかも天へいくように円形闘技場の中へと in amphitheatrum 前進した。晴れやかな優美な表情で。もし(震えていたとしても、それは)おそらく、喜びによって奮えていたのであって、決して恐怖からではない。ペルペトゥアは光り輝く表情で、そして穏和な足取りで後に従っていた。キリストの妻として、神のしとやかな娘として、両眼の活力で彼女はすべての人々の視線をなぎ倒していた。
(2)同じくフェリキタスは喜んだ、野獣たちと戦うために健康を手に入れたことを。そして血から血へ、産婆から三叉剣闘士 retiarius へ、出産の後に第二の洗礼で洗われることを(喜んだ)。そして彼らは門の中につれていかれ、そして衣装、男はサトゥルヌス神の神官たちの sacerdotum Saturni、女性はケレス女神の聖女たちの sacratarum Cereris それを着るのを強要されたとき、気高い彼女は最後まで断固として抵抗した。
(3)なぜなら彼女は言った。「今まで自発的に私たちがこのような目にあっているのは、私たちの自由を閉じこめないためだったはずです。だから、私たちの魂を私たちが委ねたのは、このようなことを多少でも行いたくなかったからだったはずです。これについてはあなた達も(意見が)一致していました」。不正義が正義を容認した。副官は屈した。そのままで、彼らはそのまま導き入れられたのだった! ペルペトゥアは詩篇を歌った。すでにエジプト人の頭を踏みつけているのだ。
(4)レヴォカートゥスとサトゥルニヌスとサトゥルスは見物の民衆に警告した。そのあと、ヒラリアヌスの視野の下に彼らが達するやいなや、身振りと手振りで彼らはヒラリアヌスに語り始めた。「あなたは私たちを(裁いたが)」、彼らは話した、「だが神はあなたを(裁くだろう)」。これで民衆は激昂し、並んだ闘獣士たちの venatorum 鞭で彼らが虐待されることを渇望した。そしてとにかく彼らは感謝した。それで多少とも主の諸受難に従えたからである。

XIX (1)しかし、「求めよ、さらば与えられん」と述べた方は、求める人々おのおのに彼が熱望してきたところのご自分の成果を与えてこられた。たしかに、もし彼らの中で殉教に関する彼らの願望をしゃべった時、サトゥルニヌスはすべての野獣に自分が差し出されることを要求すると公言していた。なぜなら、当然より大いなる栄光の冠を彼は得れるだろうから、と。
(2)そこで見せ物の始めに、その彼とレヴォカトゥスは、一匹の豹(ひょう)を体験させられ、さらにまた舞台の上で一匹の牡熊から虐待された。
(3)しかしサトゥルスは、もっとも牡熊を嫌っていたので、むしろ豹のひと噛みで自分がかみ砕かれることを以前から期待していた。このようにして、彼が一匹の牡猪の下に運ばれた時に、彼を牡猪にしっかり縛り付けるようとしていた一人の闘獣士 venator が、むしろその野獣によって下から突き上げられて、余興の数日後に死んだ。サトゥルスはまったくただ引きずられただけだった。そして一匹の牡熊に彼が橋の上でしっかり結ばれてしまった時も、その牡熊は檻から出てこようとしなかった。そこで、二度、サトゥルスは無傷で戻らされた。

XX (1)しかしながら、悪魔は娘たちにはきわめて凶暴な雌牛を準備した。そしてそれは準拠すべき慣習法に反しているのだが、彼は獣のかの性にすら嫉妬するのである。こうして、彼女たちは(衣服を)はぎ取られ、そして網をかぶせられて引き出された。市民たちは戦慄した。一方がしとやかな娘であり、一方が出産直後で両の乳房から(乳が)滴っているのを観察したからである。それで彼女たちは連れ戻され、そして帯なし(の衣服)を着せられた。
(2)最初にペルペトゥアが投げ倒され、そして腰まわりを切り裂かれた。そして彼女は座り直すやいなや、脇が引き裂かれたチュニカを太ももを覆うため引き戻した。苦痛のためというよりも恥じらいをより一層感じたからである。その後、彼女はピンがなくなったのに気づき、そして乱れた頭髪を留め金で縛った。というのは彼女は髪を振り乱して殉教を受け入れてはならない、彼女の栄光にあって嘆き悲しんでいると見られてはならない、と考えたからである。このようにして彼女は立ち上がり、そしてうち倒されたフェリキタスを見つけた時、彼女は近づきそして彼女に手を差し伸べ、そして彼女を立たせたのだった。
(3)そして彼女たちは二人ともいっしょに立ち上がった。そして民衆の冷淡さはうち負かされ、彼女たちは勝利者の門に ad portam Sanavivariam 呼び戻された。そこでペルペトゥアは、ある、名前をルスティクス Rusticus といい彼女にくっついていた教理研究者に支えられ、そしてあたかも眠りから覚めたかのように──その時まで彼女は聖霊の中に、そして恍惚状態にあったのだった──、周りを見回し始めた。そしてすべての人々が驚いたことに、彼女は言うのである。「いつ」と彼女は尋ねる。「私たちはあの雌牛へと連れ出されるのでしょうか。それを私は知りません」。
(4)そして、彼女は何がすでに起こったかを聞いたときにも、虐待の印を彼女の体や服装に認める前には信じなかった。そこで、呼び寄せられた彼女の兄弟と acccersitum fratrem suum、かの教理研究者を励まして、言う。「信仰を守り、そしてみな互いを尊重しなさい! そして、私たちの受難につまずいてはなりません!」

XXI (1)同様にサトゥルスは別の門のところで兵士プデンスを鼓舞して言う。「要するに」、彼は話す。「たしかに、私が期待し前もって言ったように、私はいまだ一頭たりとも野獣を経験していない。そして今こそ、こころから信じなさい! 見て下さい、私はあちらに進み出て、そして豹のひと噛みで殺されますから。」
(2)そしてただちに見せ物の最後に豹に投げ出され、ただのひと噛みで血で染められた。それで民衆は、戻ってくる彼に第2の洗礼を証しして何度も叫んだのだった。「いい湯加減 Saluum lotum! いい湯加減!」。たしかにとにかく彼は救済されたのだった。このように(血で)入浴したことで。その時、彼は兵士プデンスに言う。「さようなら!」、そして言う。「私の信仰を覚えておいてほしい。そしてこれらのことがあなたを混乱させずに、むしろ強めますように」。
(3)そして同時に指輪を彼の指から求め、そして自分の傷に漬けられた形見を彼に戻し、こうして彼に血の証拠と記憶を残した。それからすぐに気を失い、他の者たちとともに刺殺されるのが常の場所に投げ捨てられた。そして民衆が彼らを真ん中に求めたとき、というのは彼らが彼ら(殉教者たち)の体の中に剣が入るのを彼らの目でみて殺害の仲間となるためだったが、自発的に彼らは起きあがった。そして民衆が望んだそこに彼らは移動した。その前に相互に接吻した。こうして彼らは殉教を平和の儀式によって完成した。
(4)他の人々もたしかに微動だにせず、そして沈黙と共に匕首(あいくち)を受け入れたのだが、すごかったのはサトゥルスで、まっさきに(梯子を)登ったように、まっさきに霊を(天に)返し、こうしてペルペトゥアを待つこととなった。ペルペトゥアはだが別の苦痛を享受せねばならなず、肋骨の間を差し貫かれ叫び声をあげた。そして新米の剣闘士の gladiatoris 戸惑っている右手を自分で自分ののどに運んだ。おそらく、汚れた霊によって恐れられたこれほどの女性は、自ら望まない限りは殺されることはなかったであろう。
(5)おお、もっとも勇気あるそしてもっとも祝福された殉教者たちよ! おお、真に我らの主イエス・キリストの栄光の中への招待者たち、そして選ばれた人たちよ! (彼の栄光)を賞賛し、そして尊敬し、そして切願する者は、たしかにそして古き人々に(ことどもに)劣らないこの諸模範を、教会建設のため読むべきである。それは、新しい諸力 novae virtutes も、唯一のそして常に同じ聖霊が、そして全能の神なる父と彼の御子イエス・キリスト、我らの主が今までお働きになっていることを立証しているからである。彼に光輝と限りない権能が、代々に至るまで、アメン。

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2018/2/5-11フランス調査旅行

 留学中の林君のお世話になって、約1週間、交通費・宿泊費は当方持ちということで、行ってきました。
 余裕があれば、年末のアルジェリア旅行も転載するでしょう。

2/5(月)成田1105-1555Paris AF275 Paris泊
  6(火)Neufchâteau泊  Hôtel EdenValue Deal 69.30€
  7(水)Metz泊 Inter-Hotel Modrne 86€+
  8(木)Nimes泊 Aparthotel Adagio access Nîmes   60.80€
  9(金)Nimes泊 Aparthotel Adagio access Nîmes   60.80€
 10(土)Paris泊 Hôtel Viator Paris  147.00€
 11(日)Paris1605- AF272
 12(月) -1205羽田

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2/7
浩志@ヌフシャトーです。

 3時に起きだして書きました。林君間違っていたら教えてください。

 昨日、今回の訪仏前半の山場のグランGrandに行ってきました。パリの東駅
に隣接した宿泊ホテルは昨晩は全員白人従業員でしたが今朝は全員黒人でした
。このあたりが現在のパリの状況なんでしょう。
 そこから8:10発のTGV(新幹線)に1時間40分、一面雪景色とスノウ・ホワイ
トが続くうち、Nancy着(雪のため30分程度延着でしたが、もともと待ち合わ
せ時間が40分あったので乗り継ぎはセーフ)。そこからToulまで地方線に乗り
換えて、進行方向右側にゆったりとした水量の川をみつつ、15分(なぜか雪が
消えてました)、本当はそのまま列車でNeufchateauまで行けるはずだけど途
中が工事中とかで、そこで乗り換え時間5分のバスに飛び乗って、延々と平原
状の地形での農地景観の中を直線で走る、よって旧ローマ軍道を彷彿させる道
を40分、ようやく正午前にヌフシャトー駅前に到着できました。こういう複雑
な経路だったので、林君抜きにはとうてい行き着くことはできなかったでしょ
う。感謝。

 ここのホテルに荷物を置き、フロントでお願いして、でも大分待たされたタク
シーで、1時半にGrand目指して出発。タクシー代は往復70+10ユーロ。往復と
も林君相手に絶え間なくしゃべり続ける同じ中年女性が運転手でした。ヌフシ
ャトーの町外れには近世と思える城塞跡が残っているようで、水量の多い川を
渡り、徐々に高度を上げていく感じでした。そこの自動車道も直線が主体でし
た。

 グランには20分も走ったでしょうか。まず小学生用と思われる漫画チックな
掲示板のある広場で、町のパン屋で買ったパニーニをかじって、ちょうど2時
間見学しました。ここの目玉遺跡の円形闘技場とモザイクの家は冬季休業中で
、これは事前にわかっていたことなので、しょうがありません(もし開いてい
たらもう1時間は必要でしょう)。若干ぱらぱら小雨の降る曇り空の中、住民4
00名の小さな村落で、出会う人も皆無の村の中の道を、表示板にしたがって、
厳重に金網で囲まれた円形闘技場(片方が未復元)、1035年に記録が初出の皇
帝ユリアヌス下での女性殉教者、Libaireの殉教者記念堂(村の共同墓地付き
)を覗き、列柱廊や浴場があった広場、閉館中で旧バシリカの床を飾っていた
モザイクを収めた家は素通りして、当時この地域を丸く囲っていた城壁の土台
跡、神殿跡に立っているという教会とその下の洗濯場、などを見学して歩きま
した。この間すれ違った住民は数名のみ。
 帰り道でのこと、モザイクの家の裏側で保育園の子供たちが園庭に遊びに出
てきて賑やかな歓声が聞こえ、保母さん一人に10名余り、全員白人の可愛い顔
で向かえてくれたので和みました。そのちょっと向こうにあるこぢんまりとし
た小学校には、場違いな感じで統廃合反対の横断幕が貼られていたのでなおさ
らでした。

 ここに、コンスタンティヌスが310年頃立ち寄り、ケルト起源のガリアの太
陽神Grannusの聖域で、アポロン神の出現を体験し、30年間の統治を予言され
た、という異教側史料があって、それがキリスト教側にとっては、太陽神と重
なり得るキリストやキーローの出現と、後年解釈されえたわけです。私見では
、その後の展開を考えると事実は異教側にあって、それを強引に改ざんしたの
がキリスト教プロパガンダだったと判断すべきで、私としては真偽を確かめる
ヒントを得るべくグランを訪問しなければならなくなったわけです。

 私にとっては、現在は寒村にすぎないグランが、かつては、ガリア古来の清
冽な聖泉が存在し、霊験あらたかな治癒祈願の聖地で、当時巡礼が引きも切ら
ず訪れてきていて賑わっていた保養地でもあったこと(帝国内有数の規模を誇
る円形闘技場がその証です。おそらく東部のアスクレピオス神の医療施設エピ
ダウロスなどに比すべき地だったのでしょう、規模はあれほどはありませんが
)、212年ごろに時の皇帝カラカッラが訪れた記録もあるようで、それらが確
認できたことで十分でした。
 あいにく季節はずれの訪問で、旧バシリカの広大な床モザイクが保存されて
いる施設に置いてあるはずのパンフレットなども、入手できませんでしたが、
ともかく、その夜のホテルのレストランでは林君と祝杯をあげたことでした。
ちなみに二人で63.76で切りよく70(食前酒+生ビール)。イタリアのあっさ
りした味に慣れている私には若干重い夕食でした。
 到着時に林君がめざとく観察してましたが、この町ではフランス人以外は見
ることありませんでした。我ら二人がまぎれもなく異邦人だったわけです。と
はいえ別段奇異のまなざしに会うこともなく、それどころか、タクシー運転手
のおばさんの甥は、木工の技術を習得して、日本人女性と結婚して東京に住ん
でいるのだそうで、最後の挨拶は日本語で「さよなら」でした。

 今日は、メッスに向かいます。そこの博物館にはグランの治癒神と深い関係
のあるらしい円柱上に飾られた石灰岩製のAnguipedeの騎馬像が展示されてい
て、それを拝見するためです。同様のものは反対側に位置するEpinalの博物館
にもあるようですが、そこに寄る時間は今回残念ならがありません。
 なお、ホテルに帰ってからの林君のウェブ調査では、ドイツのバイエルンの
Lauingen近くのFaimingenにはローマ時代のApollo-Grannus神殿があったよう
です。ここに212年にカラカッラがやってきて病気治癒のため神殿を建てたと
のこと。ストラスブールを挟んで東西にガロ・ローマン時代の著名な治癒神神
殿があったわけです。

 コンスタンティヌスにはなぜ、それを崇拝する意味があったのか。私見では
それを、彼は当時トリーアを拠点にしていて、彼の麾下の最も信頼していたゲ
ルマン・ガリア出身の兵士たちの支持を獲得する必要があったから、と想定し
ているわけですが、それ以上のことは、将来後続の研究者が実証してくれるこ
とを念じております。

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2/8
各位:豊田@Nimeです。

 アルジェリアから帰って、ずっと頭の中はアウグスティヌスだったのですが
、2/5から丸一週間の予定でフランスに来ています。前半は北東の若干僻地に
コンスタンティヌスの秘められた足跡を訪ねてましたが、朝の気温氷点下のMe
tzから半日かけてずっと同じTGVに乗り続け(一部300キロの速度ですが、在来
線も走るのでそう速くなくて)、昨晩ニームにつきました。列車から降りて駅
の階段を下るとき不覚にも足がもつれあぶなかったです。

 今日一日と明日午前中までここに滞在してパリに帰りますが、ニームでは単
純に、昔撮っていたはずのどこかに行ってしまった円形闘技場の立ちション用
トイレの写真再撮影するのが主務です。これだけなので大幅に時間余るのです
が、ニームの博物館は改装のため閉館中の由で、今日は新たに博物館ができて
いるというポン・デュ・ガールにバスで行く予定です。南仏では昔回った他の
ローマ遺跡も再訪したかったのですが(実は立派なトイレ遺構が多い)、その
余裕がないのが残念です。

 そろそろ頭の中を帰国便がよぎりだしてますが、パリは雪だとかでちゃんと
飛行機が飛んでくれるかどうか心配です。昨日フランスを北から南に縦断した
のですが、ところどころに薄っすら残雪あっても、ずっと霧の風景でした。南
仏のニームも夕食に出た夜の温度は3度と、体感的には北と変わりません。
 夕食は本格中華にありつけました。同行の林君は麻婆豆腐が食べれたと感激
してました。私は「ポタージュ」と頭についていたので疑問でしたが、酸辛ス
ープを頼んでみましたが、イタリアの「アグロ・ピッカンテ」と同じで、増量
したその辛さに疲れが癒やされました。4皿と青島ビールを含め二人で50ユー
ロ。やっぱ中華は貧乏人の味方です。今回のホテルには台所もついているので
、今日の夕食は分厚いステーキ焼こうと話してます。

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2/10
豊田@ニームです。

 昨日は、午前中に円形闘技場、昼にPons du Gard、夜はフランス料理でした

 実は、今回訪仏の最後のミッションには失敗し、元気が出ません。

 舐めるように入れるところは見て回ったのですが、お目当てのものがみつか
りません。座席下に位置するアーチ通路の曲線の内側に沿って立ちション用と
おぼしき、だけど大理石製の平たい浅い彫りの石材がずらーとはめ込まれたの
を、30年前には見た記憶あったのですが、・・・お母さん、あれはどこに行っ
たのでしょうか・・・。研究書にも写真があるというのに。林説では、立ち入
り禁止の工事用具置き場にあるのでは、というのですが。

 負け惜しみですが、でも転んでもただでは起きない! 階段の上下で足をガ
クガクにしながら歩き回るうち、地階からの登り階段の踊り場部分に妙な遺物
を今回見つけました。なぜかどこの通路にでもというわけではないのですが、
添付写真のようなものが両方の壁沿いの床に浅く彫られてまして。ご丁寧に下
方に小さな穴が開いているのと開いていないのがあって、統一感がなく、用途
的によくわからない遺物なんです。
 ご存じの方、教えてください。私は、当然立ちション用便器と考えてますが

 長くなるので昼は飛ばして、夜です。台所あっても油も調味料ないので、林
君が探した地元のレストランに行きました。定食23.5ユーロのコース、二人で
2016年産地元赤ワイン1本込みで70弱ユーロで、満腹しました。ワインも渋み
が強く肉料理に合ってました。

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2/10
各位:豊田@パリです。

 本日、ニームでは十分すぎる時間を町歩きで消化し(17500歩、昨日は25000
歩の由:晴れていて7度くらい、ひなたは暖かったが、風はきつかった)、午
後にtgvに乗り、先ほどパリに着きました。車窓からの風景は、最初の1時間は
晴れ、次の1時間はだんだん雲が多くなってきて、ところどころに残雪、そし
てパリが近づくと、日没したせいでもないでしょうが、一面の残雪となりまし
た。
 今日のホテルは、パリ・リヨン駅から歩いて5分くらい。

 そこでご報告があります。今回の宿泊ホテルすべてで、パスポートの提示を
要求されませんでした。これはどうしたことなんでしょうか。あののんきなイ
タリアでも必ず提示するのに。

 2日続けてのフランス料理は重たいので、これから名代の中華料理屋にメト
ロに乗って行こうと思います。
 明日、帰国の途につきますが、天気予報だと「晴れ」らしいので、飛行機が
ちゃんと飛んでくれることを祈ってます。
 林君には本当にお世話になりました。

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赤いシリウスの謎

 一週間ほど前、面白いテレビ番組があった。
 以下、うろ覚えですが。

 プトレマイオスの「アルマゲスト」や、キケロやセネカの記録によると、彼らの時代、すなわち古代ローマ時代においては、シリウスは赤色だったという。現在は青白いから、2000年間の間に色が顕著に変わったことになる。
 天体や星座の世界で、たった2000年での変化というのは考えがたい現象で、これまでの学説だと数万年はかかるとされてきた。
 となるとありえないのだが、多くの学者が入り乱れて色々な仮説を提出した挙げ句、どうやら最近の学説だとこういうことらしい。
 恒星は普通青く光っているが、寿命が来ると赤色巨星になり、消滅すると青白く白色矮星となるが、そのとき、特殊な条件下でファイナル・ヘリウム・フラッシュ現象が起こって、わずか数ヶ月で急激に膨張して赤色に変わり、最終的に燃え尽きることがある、のだそうだ。

 天体を観測していて、その現象を偶然見つけたのが、なんと日本人の桜井幸夫というアマチア天文家で20年前のことだった。1996年2月、見なれない星が射手座の一角に突然出現したのだ。それは「桜井天体」と名づけられた。
 こうして、現在青白く光るシリウスBが昔は赤色だった、という謎が解明されたわけである。

 ウェブでも、まだ旧聞の内容しか載っていない。
 http://mirahouse.jp/drop/seishu/red_sirius.html

 だけど、現在NHKオンデマンドで公開中のようだ。但し単品だとアップの期限は2/22。もう時間がないが、見放題だといつでも見ることできるらしい。
 古代ローマ史をやっているのなら、是非見ておいたほうがいいだろう。
 http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018084847SC000/?capid=nte001

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