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最新「世界キリスト教情報」より

 今回の第1478信(2019/5/20)は、これこそカトリック、というべき話題(聖母マリア出現奇跡地への巡礼認可や、奇跡的治癒実施者の聖人認可など)満載。まあ、こういったことも受け入れちゃう感性がないとカトリックは理解できないだろう。
 また、2番目の新求道共同は、実は1番目にも顔を出している。ローマで教皇が今年新司祭に叙階した19人中8人が「レデンプトリス・マーテル」神学校出身者だった、と。
 最後のジャン・バニエ氏の死亡記事は内容が落ちているが、障がい者尊厳のための活動家。

▼「世界召命祈願日」=19人の新司祭を教皇叙階      
▼米ニューメキシコ州ラスクルーセスに『新求道共同体』の補佐司教      
▼教皇、「メジュゴリエの聖母」への巡礼を許可      
▼スイス連邦大統領がトランプ米大統領と会談      
▼米アラバマ州で中絶禁止法成立 大統領選の争点化必至      
▼台湾でアジア初の同性婚法が成立、養子縁組認めず      
▼ナイジェリアの反ボコ・ハラム民兵組織が子ども兵士894人解 放      
▼ブラジルのイルマン・ドゥウセ修道女が聖人に      
▼『ラルシュ』創設者ジャン・バニエ氏死去
▼《メディア展望》

 興味ある向きは以下に、送信希望してみて下さい。
世界キリスト教情報  連絡先:ckoriyama@gmail.com(ご連絡の際は「@」を半角にしてください)

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転送:「世界キリスト教情報」

2019年05月13日
◎教皇、虐待の通告義務とそのための制度整備を促す自発教令

 【CJC】教皇フランシスコは5月9日、自発教令の形をとった使徒的書簡「ヴォス・エスティス・ルクス・ムンディ」を発表した。この自発教令は、虐待や暴力を届け出るための新しい手続きを定め、司教や修道会の長上らにとるべき態度を周知させるもの。教皇は教令の中で、「過去の苦い教訓」から学ぶべき時と述べている。

 カトリック教会では、オーストラリア、チリ、ドイツ、米国を含む世界各国で聖職者による性的暴行が相次いで明らかになっている。

 『バチカン・ニュース』によると、教令は、聖職者・修道者による性的虐待や、虐待調査への介入やごまかしにつながる、司教や修道会の長上の不注意との闘いを目的としている。

 その主な内容の中でも重要なのは、世界のすべての教区に、2020年6月までに、聖職者・修道者による性的虐待、児童ポルノ素材の使用、その虐待の隠ぺいについて、「一般の人々が通告するための、アクセスが容易な、常設のシステム」を備えることを義務づけている点。

 その「システム」がどのようなものであるかは定義せず、地域の文化や状況に合わせ、各教区の選択に任せている。

 もう一つの重要な点は、すべての聖職者、修道者に対する、虐待に関するすべての情報を「ただちに通告する」義務。この情報には、虐待の件の扱いをめぐる怠慢や、隠ぺいも含まれる。

 これまで、この義務はある意味で個人の良心によるものであったが、今後は普遍的な一つの法規となった。

 この義務は聖職者と修道者のためのものであるが、教令では、すべての信徒もこのシステムを通して、虐待やハラスメントを、教会の同問題における担当責任者に勇気をもって通告するよう励ましている。

 この通告義務は、聖職者側からの女子修道者に対するあらゆる暴力のケースや、成人の神学生あるいは志願者へのハラスメントのケースも含んでいる。

 教皇は、この新しい法的手段をもって、カトリック教会が虐待を防止し、この問題と闘うための新しい確固たる一歩を記すことを期待している。□

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 幾度も言っていることだが、これは決して現代だけの問題ではない(これを問題視する世情になったからこそ、表ざたになっているだけのこと)。カトリックを、否、人間を歴史的に考えるということは、こういう恥部にも触れざるをえないわけである(ま、ありていに言うと、人間の性欲という本源に関わっているからだが)。それを黙殺したり無視するのではなく、丸ごと射程に入れて考察することから出発しなければならない。しかも、人間が人間である限り、こういった問題行動はとうてい撲滅など期待すべくもないはずで。

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遅報(7):一万年後に思いをはせてみる

 昨日、ウェブ検索していて偶然見つけ記事に興味をもち、今日四谷に行ったときに大学図書館で以下を借りた。

 柳沼重剛『語学者の散歩道』研究社出版、1991年。

 今から30年も前に上梓されたものである。これには2008年に再版された文庫版(今話題の岩波書店)もあるが、原典から削除されたものと付加されたものがあって、両方読み比べたほうがいいらしい。著者は改めて紹介する必要もない古典ギリシア・ラテン文学の碩学。

 借り出してみたら、読まれていないこと歴然の新品同様の様態で、これならアマゾンの中古品としても十分売れそうである。ま、これがかつて在職していた大学での西洋古典の偽らざる現状をあらわしているのだろう。

 さっそく帰りの電車の中で繙いて読み出した。語学能力に著しく劣る私には、ただただ敬して拝読するしかない内容で(なにせ、p.2には、留学先のイギリスで教授から「ラテン語やっていてイタリア語をやらんとはなんたることだ:What a shame!」といわれ、二週間の速成で身につけて一冊を読み報告したとか、p.3には、アメリカ進駐軍の中佐と語学交換教授したが、彼は九つめの語学として日本語を覚えたいと希望、それまでに英・独・仏・伊・露・西・希・トルコ語を読み書き話すことができた人で、などという話が平気で出てきて「語学者」の面目躍如なのだ)、しかし新版で削除された「一万年後の東京大学あるいはポケット・ティッシュについて」が、私の関心の射程にも触れていたせいか特に興味深かった。

 一万年後になって東大があった場所を発掘した考古学者の書いた報告書が「およそ大学などというものではないものを想定する結論を出す。何が想定されていたかが思い出せないのだが、とにかくその推論の一つ一つが、非常にもっともらしいどころか、論理的ですきがない、にもかかわらず出てくる結論は東京大学を知っているわれわれには奇妙なことこのうえなく、しかも何ともおかしいのだ。・・・その時思ったことは覚えている。考古学というのは発掘品があるだけに危ないなということだ。発掘品、つまり証拠があるから強いのであると同時に、発掘品という、そのまま証拠だと信じられがちなものを手にするから危ないのだ。発掘品はたしかに証拠になり得る。しかし一つの発掘品は一つの事実だけの証拠になるのではなく、というよりは、一つの発掘品は、他と関連づけて(つまり、文章ならば前後関係を参照して)読み取って、それではじめて証拠としての力をもつ。だから一つの発掘品は、その読み取りかた次第で、いくつかの事実の証拠として利用できる。考えてみればあたりまえのことだが、われわれはつい忘れがちがだ」(p.260-1)として、身近な例として街頭で無料配布されているサラ金業者なんかのポケット・ティッシュが自宅のメール・ボックスにあって溜まっていたが、風邪気味だったので八つも持っていて交通事故に遭って意識不明になった場合、警察はこの身元不明人をどう断定するだろうか。「私の所持品の中に八つものサラ金業者のポケット・ティッシュがあった、これは事実である。しかしこの事実は、それだけではまだ何の証拠でもないということだ。ここまで思った時、ふだん私が学問だといってやっている仕事の中でも、これと似たようなことを、気がつかずにやっているのではないかと恐ろしくなった。危ないのは考古学だけではないということである」(p.263-4)。

 それで思い出したことがある。史学科全体のゼミ代表者の卒論発表会が毎年年度末に開催されていたが、さていつごろのことだったか、日本現代史で70年安保の大学「紛争」を扱った男子学生がいた。それを聞いていて私は異常な違和感にとらわれたのだ。「全然違う、わかっていない、ずれている」と。同年齢の東洋史のO教授も同じだったとみえて、期せずして二人で突っ込んで彼をいじめる結果となってしまったのだが、ことほど左様に、その現場に身を置いた人間の感覚・記憶と、それをまったく知らない者の文字をたどっての把握の間には、埋めようもない溝が存在することを実感した瞬間だった。こういう体験はおそらく初めてのことだった。たった3, 40年前のことなのにそうなのである。

 で、思ったことは、オレも歳を食ったものだという感慨と、50年経たないと歴史として扱えないとよく聞かされてきたが、それは隠された史料がその頃にならないと出つくさない、という意味では正しいのだろうが、それにしても体験者の消えた後の歴史叙述とはいったいどれほど事実に切迫したものでありえるのだろうか、そして、それが2000年前の古代ローマとなるとほとんど不可能では、という思いであった。この疑念は柳沼先生の慨嘆に通底していると思う。

 ちなみに私は1968年当時学部3年生で、1969年1月の東大安田講堂攻防戦のときイチョウ並木を切り倒したことで惡名を轟かした革共同中核派の拠点校に身を置いていたこともあり、いっぱしの全(文)共闘シンパだった。O先生は民青同シンパだったようだが(なにせ奥さんとは歌声喫茶で知り合った、と聞き及んでいたのだが、あるときそれを言ったら逆鱗に触れたので違うのかも知れない。ま、二人で互いに、この暴力集団が、とか、なに民コロが、とじゃれ合っていたわけだが、おかげであの二人は仲が悪いと学生が噂し、どうやら学生間で代々伝承されるというおまけもついて、学生の理解能力のなさにあきれ、また心外だったが)、こんなところで共闘するとは予想外のことだった。そして、まあ二人とも大学を卒業式もなく卒業したわけで、決してそのトラウマのせいではないのだが(問題が何も解決されていない幕引きとなり、正直卒業式なんかどうでもよかった)、言い合わしたわけでもないのに、二人とも卒業生が主催する謝恩会参加を「謝恩されるいわれはない」と拒否する問題教員でもあった。ま、このあたり、橋口先生が学生のコンパで軍歌が唱われるのを嫌って一切出席されなくなったという故事と一脈通じるのではと思う(今日日の学生さんは不思議に思うのだろうが、私の学生時代の1960年代後半には軍歌とかよく歌われていた。まだ戦後を引きずっていたわけだ)。

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こんなのみっけ:バーチャル大学

 http://www.izumipb.co.jp/izumi/virtual-u.html

 ビザンツ史研究者の井上浩一氏のHP。この大学の教員は井上先生だけのようだが、これに私みたいな老害が次々に採用されていくと面白いなあと。

 でも、そうなると段々縛りが厳しくなって、私がやっている意図的な掟破り(画像の知的所有権の無視)が不可能となることも必定。となると、ま、無理か。

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興味津々の「陣営図」貨幣

 今回、また悪いクセが出て、あまり状態がよくない、それゆえ安かったローマ貨幣follisを競売で入手してしまった。郵送料・手数料込みで170ドル台。

 それは、コンスタンティヌス1世時代の319年の、テッサロニカ造幣所打刻のいわゆる「陣営図」camp plan型貨幣で、ただ表面の皇帝像はコンスタンティヌスではなくて、銘文「CONSTANTINVS IVN NOB C」から息子のコンスタンティヌス2世。父帝だったらこの箇所が「CONSTANTINVS AVG」となる。

 裏面左右の刻印は「軍隊の武徳 VIRT EXERC」、下には「TSB」とあって、テッサロニカ造幣所第二工房を示す。問題は中央部分で、左右からの斜めにずれた線四本(というより、くの字型と逆くの字型の組み合わせというべきか)が交わる中央交点の上部に、右手を前方に伸ばし、左手にグローブを保持している神像が立っていて、その姿勢から、頭部の刻みが不明確ながら、別例では放射冠をいただいているので、Sol神とされている。そのつもりで眺めると肩で留める騎馬用外套chlamysの輪郭が左肩側にかすかに見えている。こういった意匠は父帝でも同様である。より明確な刻印の類例を示しておこう。ちなみにこれも第二工房製作だが、一見して同一工房なのに同一金型でないことは明白。価格は私が今回入手したものの3倍、500ドル以上はしたと思われる。

 コンスタンティヌス二世は、316年8月7日生まれとされているので、この貨幣打刻時は3歳くらいのはずだが、幼児というよりは青年の表情で表現されている。彼は生まれて半年の317年3月1日に、異母兄クリスプス(当時17歳くらい)と、正帝リキニウスの息子リキニウス(当時2歳未満)と共に、セルディカ(現在のブルガリアの首都ソフィア)で副帝とされていた。 

 この類いの貨幣は、もっぱら319年にテッサロニカ造幣所で 打刻された。工房はAからΕまで5工房が確認されている。これは果たして「陣営図」なのか、そして太陽神と陣営図の組み合わせが、何ゆえこの時、ギリシア北部のこの場所で打刻されたのか、私には興味津々なのである。打刻皇帝名は彼ら父子以外に、正帝リキニウス、副帝クリスプス、副帝リキニウスが確認されているので、317年のセルディカで両正帝がそれぞれの息子たちを副帝に任命したこととの関連があるのは確かだろうが。どなたかこの謎を解いてくれないものかと思うようになって久しい。

【追記】実は、もうひとつ、コンスタンティヌス1世のものを持っていた。これも状態があまり好くないので、稀少品にしては購入経費を含めて110ドルとやたら安かった。ちなみに工房は第4。表面の胸像の胸をみると胴鎧装着のようだ。

        ご感想やご意見はこちらまで:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

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フォロ見学での注意点

 昨年の渡伊では失敗をした。それはフォロ・ロマーノの入場券でこれまで通り通常の12ユーロを購入したのだが、16ユーロの特別入場券Super ticketを購入すると、ここ数年閉鎖されていたアウグストゥスの家Casa di Augustoやもう10年以上入れなかったリウィアの家Casa di Liviaなど7カ所の見学が可能になるが(ちなみに他は、Criptyoportico Neroniano, Museo Palatini, Aula Isiaca-Loggia Mattei, Tempio di Romalo, Santa Maria Antiqua[相変わらずRampa imperiale付き公開なのはうれしいが、教会でデジタル映像はもうやっていなかった])、それは一旦構内に入るともう修正が効かなかったことだ。逆にいうと、博物館とかこれまで追加料金不用で見ることできた重要な場所を見られなくなった、わけである。

 今年の5月にはいつものように、いつも空いているグレゴリオ通りから入ったのだが、なんとこれまでになく1時間くらい行列するはめになった(その前にコロッセオは予約入場券を持参していたが、あまりの行列に諦めた:否、並んでいたのだがなぜか3列あって[バウチャーのガイドだと2列のはずなのだが]、入場直前になって係員から「我らの会社の券ではない」とわけのわからないことを言われ、列外に出されてしまったので、腹を立てたてやめたのだ:あとから考えると、そこは現地での客引きされた人が並ぶ列で、本当は本来の2列目とおぼしき真ん中の列に並ぶべきだったのだろう)。ともかく今回はどこもひどい人出で、サンピエトロ大聖堂に入るのも、フィレンツェでダビデ像を見るのも諦めた。なぜか今年春に訪れた京都や奈良のうんざりするような観光客の群れがそのまま移動してきたような感じだった(が、イタリアでのその主体は東洋人ではなく、白人だったのはどういうことなのだろう、疑問である)。

やっと入り口が見えだして撮った写真:S字型の行列

 グレゴリオ通り入り口に掲示されていた料金表を見ると、これまではコロッセオと共通券だったはずなのにそれは書いてなかったので、制度変更があったのかも知れない。ともかく16ユーロ払って正午ごろに入場したが、昨年から無料公開(但し、昨年は時間制限あったはず)された緑の散歩道Percorsi nel Verdeを、またまたなつかしさのあまり回ったりしていたので、時間切れで全部回ることはできなかった。だから全部見るとしたらそれだけで一日仕事となるだろう。

 しかし、制度が変わるのは日常茶飯で、なにごとも計画性や永続性がないイタリアのこと[30年前になるだろうか、至るところで行われていたGruppo archeologicoの遺跡公開も、20年前くらいからあって便利この上もなかったArcheoBusも、今は昔、なくなってしまった:でもこんな昔話していると、永続性ないというのがおこがましい年月の流れであったなあ、と気付かざるをえないが]、入れるときに入っておかないと、次にいつ見ることができるかわからない。先のない身としてはどうしても欲張りたくなるのだが、足が思うに任せれなくなっていて、これはもうジレンマである。

 今回の訪問で意表を突かれたのは、フォロ・ロマーノでの、コンスタンティヌスのバシリカとロムルス廟の間の小道vicus ad Carinasで、ウェスパシアヌスのフォロと平和の神殿につながっている箇所が整備されてすべて無料公開されていたことで、私的にはバシリカのエクセドラに安置されていたコンスタンティヌスの巨像の破片が落下していたはずの場所でもあり、これまでずっと横目でうらめしく眺めていた箇所だったので、たいへん嬉しかった(こういうサプライズがあるのもイタリアなのである)。この小路地からだと、コンスタンティヌスのバシリカ(Basilica Nova)の地下部分をかすめ、セプティミウス・セウェルス時代に大理石版の「Forma Vrbis Romae」(首都ローマ地図)が貼られていたという壁も目前で見ることができて、私など感無量となる(ウェスパシアヌスのフォロに入ることは現段階ではできない)。

聖道から北に折れる
この上にコンスタンティヌスの巨像があった
この壁は平和の祭壇の内壁だったが、そこに首都ローマ地図が貼られていた由
左が復元想像図、右が現在の壁面での地図の想定位置
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遅報(6):ハドリアヌスのアテナエウム発見

 本稿は、豊田ゼミ論集『COMMENTARII』第 28号(2017年)からの修正転載で、『上智史學』61(2016年)、p.154、註(3)への補遺を兼ねている。(知的所有権の問題があるので、ここでは部分的にあえて情報を開示していない。全責任は豊田にある)

 以前ゼミ論集『COMMENTARII』第28号、2017年、pp.42-49に掲載した記事を再掲する。なおこれは、『上智史學』61、2016年、p.154、註(3)への補遺でもある。

 SHA, Pertinax伝、11.3:(ペルティナクスは)、その日、詩[の朗読]を聞くために準備していたアテナエウムへの出発を生贄を捧げた際の悪い予兆のために延期したので・・・                   

 Alex.Severus伝、35.2:(アレクサンデル・セウェルスは)、ギリシア語やラテン語による雄弁家の朗読や詩人の歌を聴くために、アテナエウムへしばしば通った。

 Gordiani伝、3.4:(ゴルディアヌス1世は)後に成人してからは、アテナエウムで、自分が仕える皇帝たちが聴講に来ている時も、「論争」型練習演説を弁じたてていた。

Aurelius Victor, Liber de Caesaribus, 14.1-4:(ハドリアヌスは)東方で和平を整えてローマに帰還する。そこでギリシア人たち、ないしヌマ・ポンピリウスのやり方で諸々の儀式、諸法令、諸体育場、教師たちを差配し始めた。それほどにたしかに、有能な人々のための諸学芸のための一つの学校、それを人々はアテナエウムと呼んだのだが、それを彼は創設し、そしてケレスとリベラの秘儀、それらはエレウシナと名付けられているが、それをアテナエ人の方式でローマにおいて執り行うほどだった。

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ハドリアヌス帝の「アテナエウム」

  Roberto Meneghini, Die Kaiser Foren Roms, Darmstadt, 2015, S.97-8. 

 ・・・ さらに大がかりな発掘が、2007年に、新しい地下鉄[C]線の建設のための試掘調査の中で、S.Maria di Loreto教会とPalazzo delle Assicurazioni Generali[in Piazza Venezia:ヴェネツィア広場東側に面したジェネラリ保険会社ビル]の間の巨大な花壇の中心で、始まった。ローマ遺跡管理局によって実施された諸調査は、すでに1902年から1904年に出くわしていた建築物のさらなる部分の発見へと導いた。それはボールト天井をもつ巨大な空間で、約13×22mの床面積からなっていて、123年から125年の時代の夥しいレンガ刻印のおかげで日付されることができた。[その空間の]両側には大きな、60cm幅の演壇階段が取りつけられていた。それらは元来大理石平板が張られていて、そしてたぶんsubsellia(低い腰かけ)として役立っていた(図版117)。

図版117

 あらゆる諸要素は、以下を指し示している、それは講堂auditoriumであったと。また、たとえレンガ刻印が10から15年くらい後の日付を明らかに抱かせるとしても、それにもかかわらず、それはAthenaeumとして同定されるだろう、それは、一種のアカデミアで、皇帝ハドリアヌスによって135年のパレスティナでの戦争からの彼の帰還ののちに建設された(Aur.Vic.,Caes.14.2)。その建物の床ーーそれはなお広範囲に保存されているがーーは、灰色の花崗岩からなる長方形の平板で構成されている。それら平板は細長いGiallo Antico[北アフリカ産黄色大理石]の平板によって囲まれている。その外見はそれと同時に、いわゆる[隣接するトラヤヌスの広場の二つの]図書館の中に付設された床と似ている。その建物は、我々が見てきたように、ハドリアヌスによって完成された。諸発掘の続行はより広い建築諸構造を白日のもとに曝した。それらは以下を証明する、3つの同様な広間に関する複合体が重要で、それらは1902年から1904年に発見された曲がった道の回りを放射状にぴったり合っていた(図版118)。

図版118
  付図a 旧来の発掘状況(トラヤヌス神殿外の左側面の空白部分が埋められたわけ)
付図b 一番北の講堂か
付図c  同左を横から見る
付図e ヴェネツィア広場周辺 中央右の不等辺方形部分が発掘現場

ハドリアヌスのアテネウム

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 ハドリアヌスのアテナエオ

                エレナ・パナレッラ(メッサッジェーロ紙)

世紀毎の変遷図

 ローマでは、どんな発掘にも本当の驚きが待っている。こうして、パラティーノのネロの回転宴会場を支えていたと考えられる構造物の発見に次ぐものとして、「国父の祭壇」[「ヴィットーリオ・エマニエーレ二世記念堂」のこと]の正面にあるマドンナ・ディ・ロレート広場における地下鉄C線建設にともなう掘削のさなか、詩人や哲学者、文学者、科学者などを迎え入れるために建設されたハドリアヌスのアテナエオが発見された。

 発見は2007年にさかのぼる。発掘作業の結果、ここ70年で見つかった公共建築の中でも特に重要なものの一つが、中心部の考古学区域に再び姿を見せた。この建物は保存状態がよく、考古学特別局に委ねられることになった。

発掘現場

 だが、この大きく反響を呼ぶ建物の今後の運命はどうなるのだろうか。コロッセオの長を務める考古学者ロゼッラ・レアは、現地説明会で次のように明言している。「もちろん構造物は修復されます。有効利用ならびに一般公開ができるように作業を行なっているところです。作業現場の柵に設けられた開口部から日々顔をのぞかせて、驚嘆しながら通り過ぎていく人の数から考えますと、ローマ市民や観光客の皆さんも公開を大いに待ち望んでいるのではないでしょうか」。さらに加えて、「トラヤヌスの広場周辺でのこの発見は、ヴェネツィア広場一帯の価値をさらに高めてくれるかもしれません。そして将来、地下鉄C線の駅をつくることができたなら、この遺跡は地下鉄出入口と一体化した、他に例を見ない観光コースの一部となることでしょう」。何はともあれ、人や車が行き来するそばで、頑丈な柵の裏側に最新の異例な考古学的な発見が隠れている。そこは、アテネにおけると同様、ローマでも討論や公演が行なわれていた場所である。レアによれば、123年――両執政官の名が刻印された無数のレンガから得られた年代である――以降に、「講堂アウディトリウム(全部で三つある)のそれぞれの部屋の中央で、作者や雄弁家が朗読や朗唱を行なったり、修辞学の講義をしている様子が目に浮かびます。聴衆は演壇階段の上の座席や立ち見席にいたでしょう。演壇階段は当時、壁もそうですが、表面を大理石で覆われていました。この大理石は中世にはぎ取られてしまい、今では下の方にほんのわずかに残っているだけです」。

 この場所の調査を行なったのは、考古学者ロベルト・エジディである。古代よりも新しい時代の部分は、中世考古学者のミレッラ・セルロレンツィが担当した。セルロレンツィは「年代学研究や特定された金属、発見された鋳塊から考えると、いくつか仮説はあるのですが、銅貨を製造するためのローマにおけるビザンツの造幣局があったのではないかという説があります」と説明している。

歴史的な事実

 ローマの地下鉄C線建設工事では、重要なモニュメントがいくつも発見された。その中でも、ヴェネツィア広場に位置する、おそらくハドリアヌス帝によって133年に建設された講堂アウディトリウムは群を抜く発見である。この講堂は「アテナエオ」として知られているが、アテネのアテナ神殿にあったものをモデルとした、200人まで収容可能な哲学の施設である。

 考古学者ロベルト・エジディは「教養豊かな皇帝であったハドリアヌスは、古典期ギリシアで行なわれていたような聴衆を前にした朗読、講演、詩の競演の伝統を再興しようと望んでいました」と述べている。

 発掘により、対になるように配置され、座席として用いられていた二つの演壇階段――849年に起きた地震により上層階が崩れ、今も一部が埋まっている――、廊下、そして中央部では、50メートル向こうのトラヤヌス帝の記念柱の脇にハドリアヌスが建てた図書館の床とそっくりな、古代黄色大理石の平縁のある花崗岩の床が出てきた。だが、203-211年に制作された古代ローマの地図、セウェルス帝の大理石平面図「フォルマ・ウルビス」には登場しないことから、この発見は予見されていないものだった。

 たくさんの考古学的遺物――中世初期にいたるまで再利用されていたローマ時代のタべルナや16世紀の館の基礎も含め――がヴェネツィア広場で見つかっている。

 考古学調査が必要とされていたのは、階段や通気孔を設ける部分のみである。全長25キロに及ぶ地下鉄は、深さ25-30メートルの場所に通される予定だからである。この深さは、かつて人が住んでいたあらゆる時代の層よりも深い。いずれにせよ、掘削する部分の多くで、またもローマ時代の地層に達することになろう。多くの驚きが待ち受けているかもしれない。

 沿線各地でその他にも建造物が見つかっているが、それらはネロ帝が建てたギリシア体育館の列柱廊、カンポ・マルツィオを貫いてテヴェレ川にまでに達していた運河、サン・ジョヴァンニ門とメトロニア門の間のアウレリアヌスの市壁の遺構と思われる。パンターノ・ボルゲーゼ地区で発見された、銅器時代や青銅器時代(前四-三千年紀)にさかのぼる考古学的証拠もある。

 文化財省次官のフランチェスコ・ジーロ、ローマ考古学局局長アンジェロ・ボッティーニ、アンドレア・カランディーニ教授も参加した『考古学とインフラ:経済発展と文化遺産』という学会において、現状報告が行なわれた。

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ローマでハドリアヌスのアテナエオが地上に姿を現わした

               カルロ・アルベルト・ブッチ(レプブリカ紙)

 地下鉄建設工事の最中に四角い部屋が見つかった。建設工事が中断されることはなく、地下鉄C線の出入口は数メートル移されることになった

 ハドリアヌス帝の記憶が、地下わずか5メートルのところに隠れていた。それは「国父の祭壇」の正面で見つかった。英国貴族院議場のような、対置された二重の演壇階段という、これまで例を見ない形をしていた。おそらくはアテナエオの座席であろう。ハドリアヌス帝は紀元後133年に、詩人、雄弁家、哲学者、文学者、科学者、官吏たちを集め、ギリシア語やラテン語で弁論、詩の競演、白熱した討論で競い合わせるためにアテネオを建設した。

 それは、アウレリウス・ウィクトルが諸術の天才たちの競技の場と呼んだ有名な講堂であった。そして、アテネのアテナ神殿で見たものをモデルに、哲人皇帝が自らの費用で建設したものである。だが、ローマにおけるこの哲学機関の痕跡はこれまで失われていた。その足跡を探る動きはだいぶ昔からあった。

 これまで発掘が行なわれたことがなかったヴェネツィア広場のこの一角には松の木が植えられていたが、これらの松は調査を進めるために昨年切り倒された。まさにその下に、パレスティナ旅行からの帰国後にハドリアヌスが建てることを望んだアテナエオがあったのではないかという仮説については、10月21日にローマの考古学特別局の考古学者たちが説明を行なうことになっている。その日は、地下鉄建設代表委員のロベルト・チェッキが市内全域の建設工事の進捗状況を報告する予定の日である。発見のニュースは二重の意味でよい知らせだった。これまで知られていなかった建物(203-211年の地図である大理石平面図「フォルマ・ウルビス」には載っていない)が博物館化される予定であること、そして地下鉄C線の出入口を数メートル先に移すことが可能であるという意味においてである。

 したがって、ローマでは、パラティーノのネロの回転宴会場を支えていたと考えられる構造物の最近の発見に次ぐ、もう一つの重要な発見ということになる。すべては2008年4月に起こった。ヴェネツィア広場のサンタ・マリア・ディ・ロレート教会脇の最初の調査において、モニュメンタルな階段が出てきた。それは帝政期の公共建築の入口と目された。そしてその直後、考古学局の考古学者アンジェロ・ボッティーニは、この階段が上り下りするためのものというよりも、着席するために設けられたということを明らかにした。それから「双子の階段」の発見があった。それで、アテナエオではないかという仮説が具体化した。これこそ、大広間の段なのではないか。

 まずは発掘を完了させる必要があった。市の清掃局がごみの収集のため、清掃車をそばに駐車することに決めたせいで悪臭が漂う中ではあったが、作業は進められた。「ローマ地下鉄」の作業場の柵の向こうをのぞくと、長方形の部屋の形がもうはっきりと見える。対に置かれた二つの階段は、上層階の崩壊により部分的に埋まっている。演壇階段はそれぞれ六段あるが、二つあるこの階段の一方では、部屋の出口があるために少し短くなっている。部屋の大きさは長さ約20メートル、幅3メートルである。中央部は皇帝や詩人たちが作詩を行なった場所だが、そこには古代黄色大理石の平縁がついた花崗岩の床がある。

 それは、ハドリアヌスが50メートル向こう、トラヤヌスの円柱の脇に建てた図書館の床と同じタイプのものである。床はすべて同じ高さにある。したがって、統一的で、モニュメンタルで、輝かしい都市プランと結び付いたものである。

コメント

 皆がだいたい同じことを言う。おそらくアテナエオが見つかった。思わず「素晴らしい発見だ」と言いたくなるものだ。ローマでどこを掘っても、何らかの芸術作品が見つかるのは誰でも知っている。時折、下水道維持工事等に立会うことになれば、必然的に古代ローマのアンフォラの破片や、あちこちに散らばったアンフォラの取っ手を見ることになる。つるはしで既にひどく傷つけられた後であるか、これからそうなるかであるからだ。

 何日か前のこと、サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会近くで、オプス・レティクラトゥム床を備えた貴族のドムスが開けられたが、すぐさま閉じられた。では、中にあったものは? 闇の中である。

 それでは今聞いてみよう。アテナエオにあったものはありふれたものだったのだろうか。ヘルマス像、碑文、欠けた彫像、そういったものは何もなかったのだろうか。ローマでは、街路樹の根元の土中を探していても古代の遺物が見つかるのだが、地下鉄A線、B線、C線建設工事では石ころさえ出てこない。ローマの地下にはこうしたものがたくさんあるということは分かっているので、遺物が見つかっていることは確かである。でも、そうした遺物がどういう運命をたどったかを見る必要がある。なぜなら、我々のところでは、何年か後に外国の博物館で再発見されるものを除き、遺物が姿を消してしまうのが通例だからである。

 そして、厚かましくもそれらを「盗まれたもの」と呼ぶのである。誰かが彫像を腕の後ろに隠して、まるでブリーフケースみたいに持ち去ってしまったかのように。彫像一体を包んでしまうには、そうした梱包を専門とする会社、高い専門能力、幅広い運搬機械、広い空間、使える時間が必要となる。博物館の扉が開いて彫像がクレーンで引き出されていたとき、監督や他の人たちは何をしていたのだろうか。

 考えられるのは二つである。今までがそうであったように、誰かが地下鉄の下で発見された遺物(それはとても大切な遺産である)をすべて持ち去ってしまうのか、アテナエオの遺物を私たちに見せようと心に決めるのか。後者でない場合、何度も繰り返されているように、我々の考古学遺産、国家財産が消失することになる。これまでずっと起こってきたように。

地下鉄建設工事

 首都の地下鉄C線は2000年に完成するはずであったが、掘削はまだ続いている。一方で建設費用は19億ユーロから33億ユーロ(公のお金だけで)に跳ね上がった。それ以外に通例の多額の贈与(私的なお金)がたくさんある。唯一、大規模工事に対する会計検査院の非常に厳しい報告書(2012年2月1日)が出されているが、それはただ著しい不名誉である。

 22年も待った挙げ句、無制限に公金を浪費し、何百回も厳粛に告知を行い、何百万回も鑑定や検査をし、何十億回も変更や調停を行なった後でも、2012年初めになっても地下鉄新線はまだできていない。工事がいつまでも終わらない作業現場に加え、見通しが不確かなこともあって、どれだけのお金を飲み込んでいく危険があるか誰も分からない底なし井戸である。

 もう、2000年以降、費用の増大から駅建設の中止にいたるまで、ありとあらゆることが起きている。無限に起こる一連の変更(2011年7月までに39回におよぶ)を考慮に入れなくても、である。こうした変更の結果、2001年の事業の費用見通しでは19億ユーロであったのに、2009年にCEPI(経済発展関係閣僚会議)が30億ユーロ以上の資金を交付しても不足することとなった。フランチェスコ・ルテッリからワルテル・ヴェルトローニ、ジャンニ・アレマンノ、マリーノの市長時代にいたるまで、長期間にわたって首都行政が実施する非常にお金のかかる経済的政治的ビジネスを進めていくために、これだけの金額が使われた。アンジェロ・バルドゥッチ、アネモーネ、頓挫しそうな地下鉄C線のために相談役として招聘されたベルトラーゾといった人びとも関わっているのを見てきた。事業を監視し、事業実現の任を引き受けている地下鉄C線株式会社の元に集結した大手ゼネコンを監査するために採用された元国庫会計監督庁のアンドレア・モノルキオに言及するまでもない。地下鉄会社の株主にはメッサッジェーロ紙のオーナーであるフランチェスコ・ガエターノ・カルタジローネが所有するヴィアニーニ社や、アスタルディ、アンサルド、カルピ・レンガ積み工および日雇い労働者組合、建設業協同組合といった他の有力者が名を連ねている。

 20年続いている事業の結果はどうだろうか。その答えが会計検査院から出された。長い審査を経て、会計検査院は爆弾報告書を提出したところである。182ページにのぼる文書で、国家事業の実施を統制するための中央部局が書いたものであるが、濫費や遅延を狙い撃ちし、地下鉄C線の実際の作業状況やコストの問題点を初めて指摘した。大変厳しい一撃だった。多くの箇所で、「事業の全体的な実現可能性に関しては、予測不可能な点がないとはいえない」とある。たとえば、会計検査官は、どのようにして「完成前に資金が尽き」ていくのかに注目しながら報告書を書いている。一方で、もともとの計画は「中心部の区間において二義的補完的とみなされる事業をやめることで、著しく見直しが行なわれ」ているようである。

 では、アテナエオについては? ハドリアヌスが126-128年頃、つまり長い旅を終えてローマに戻ったときに、カンピドーリオの上に哲学や修辞学、法学を教えるアテナエオの建設を命じていたことは分かっている。ハドリアヌスはギリシア哲学に熱を上げており、ひげを伸ばしていたのもまさに皇帝が心酔していたギリシアの風習によるものである。

ハドリアヌスのアテナエオ

 ハドリアヌス帝のアテナエオは、史料によってその存在が知られるが、これまで発見されていなかった。地下鉄C線掘削中にヴェネツィア広場で姿を現わした帝政期の階段にはどのような意味があったのか、あるいはむしろ、この階段はどういった施設の一部だったのだろうか。ヴィットリアーノ[「国父の祭壇」のこと]のまさに正面、5メートルの深さの場所で、ローマの考古学的発見の中でも最も新しい異例の発見がなされた。アテネ同様に、ローマでも討論や公演が行なわれていた場所である。

 二年前に特定された階段のまさにその正面に、同種の階段が見つかった。階段は発見されたばかりだが、残念ながら保険会社の建物の下に隠れており、そこで地中に潜り込んでいる。階段には多色の大理石床があって、観客席の役割を果たしていた。皇帝ハドリアヌスはアテネにおいて、132年建設の大図書館の脇にアテナエオを建てていたが、これはその正確な復元である。上演や討論、演説や詩の朗読を行なう講堂である。

 すべては、表面を大理石で覆ったローマン・コンクリートの最初の大階段の発見に始まった。15メートルの幅の堂々とした五段の演壇階段が、ヴェネツィア広場において地下鉄C線の出入口をつくるために掘削を行なっていたさなかに姿を現わした。

 演壇階段はジェネラリ保険会社ビルに向かって下っており、花崗岩と黄色大理石の床の前で地表に達していた。設備はどちらの側でもレンガの柱で閉じられている。この柱は崩れているのだが、おそらく地震によるものだろう。用いられているレンガはローマの「二フィートレンガ」、すなわち一辺59センチの黄色がかった正方形の厚くて大きなレンガである。柱には大規模な火災の跡が見られるが、おそらくは390年の火事によるものだろう。

 ハドリアヌスに関しては、「アクリロポリスの南にはテセウスのアテネ、アクロポリスの北にはハドリアヌスのアテネがある」と言われることがよくあった。アテネでは、ハドリアヌスの図書館がフォーロ・ロマーノのきわ、北側にあった。この図書館は同皇帝により132年に建てられたもので、アテネで最も大きい建物であった。アテナエオはこの図書館のそばにあり、皇帝のお気に入りの場所であった。アテナエオについては史料の叙述から分かっている。その双子であるローマのアテナエオは、帝政期の考古学知見にとり思いもかけない援軍となった。

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黄金宮殿の皇帝ネロの秘密部屋発見?

 ローマから帰ったばっかりなのに、5/8付け情報によると、皇帝ネロの黄金宮殿Domus Aureaの修復中の2018年秋に偶然、華やかなフレスコ画で装飾された部屋に通じる穴を発見したという。そこは、責任者Alfonsina Russo女史らによって「スフィンクスの広間」Sala della Sfingeと名付けられた。AD65-68年建築とのこと。これだから、ローマは、イタリアは・・・油断できない。


 気が向いたら、ネロ関係での新発見「円形回転宴会場」の記事を掲載するでしょう。

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iPhoneの万歩計:痴呆への一里塚(9)

 iPhone買ったらついている万歩計での統計が信じられない。最初からなんの設定もしないままで(設定する場面あったっけ)、時々見てるが、試しに今回の渡伊での状況を書いてみる。時差があるので、日時的に厳密には正確ではないが。

 ま、それにしても不調の右脚でびっこを引き引きながらの歩行だったが(もっと回りたかったけど限界かと)、老妻と孫娘がよく耐えた、というよりも、彼女らの歩行速度までこちらが落ちてしまった、というのが実情のようで、情けない (^^ゞ

 ついでに関連情報も。夕食をパスした日が多かったが、これは疲れていて寝ちゃったせいもあるが(これまではそんなことなかったような)、ホテルでの朝食が充実していたことと、昼食をしっかり食べたせいでもある。ちなみに孫娘はフィレンツェでミラネーゼが気に入り、ローマでフィオレンティーナを食していた。私はフィレンツェでフィオレンティーナをがっつり頂いた。そして、今回の最大収穫はテルミニ近くの中華料理屋の経営者が変わっていて、数段よくなったことだ。20年必ず行っていた望郷楼は凋落がひどいので、もう行かないだろう。

 4/28  5,484歩:夕方羽田出発
 4/29  6,576歩:朝ローマ着 午後からヴァティカン博物館(館内で2人で昼食40ユーロくらい)、サン・ピエトロ広場 64番の満員バスでテルミニ経由ホテルに。夕食とらず寝てしまう
 4/30 28,026歩:コロッセオ(外側だけ)、フォロ・ロマーノ、パラティーノ丘(
ホテルで朝獲得したクラッカーとジャム類で昼食)、ジェズ教会、トラムでトラスティベレ往復、諸皇帝広場 夕食はテルミニ近くの中華料理屋香港楼50+5ユーロ 
 5/1  14,192歩:市内観光(ポポロ広場、スペイン階段、トリトン泉、トレビ泉、M・アウレリウス円柱、パンテノン、ナヴォーナ広場) 昼食は広場北のトラットリア 36+4 午後はホテルで寝て、夕食はN氏ご夫婦とサン・ピエトロ南のリストランテIl Giubileo(なんとおごってもらった)
 5/2  15,857歩:テルミニに荷物を預け、国立ローマ博物館(テルメ、マッシモ) 昼食は駅そばの香港楼45+5 午後フィレンツェへ列車で移動 寝てしまい夕食はホテルで女性陣は携帯雑炊を食す
 5/3  20,169歩:シニョーリ広場、雨に降られ昼食はその広場のリストランテ80+5 大聖堂、サンティ・サルヴァトーレ・イン・オニッサンティ教会 その後ホテルに帰り寝てしまい夕食抜き
 5/4  10,887歩:サン・マルコ修道院、昼食は中央駅付近のトラットリア65+5 午後ローマへ列車で移動 夕食はテルミニ近くのトラットリアCecio 90+10
 7/5  11,218歩:朝食抜きでテルミニ発、昼ローマ発 
 5/6   9,556歩:夜成田着
 飛行機や列車といった乗物に乗っていてもカウントしているようで、体感的には2倍になっている感じか。しかしにもかかわらずおかげさまで2Kg体重は落ちたようだ。ま、すぐリバウンドするのはいつも通りだろうが。
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母の日と入浴と:痴呆への一里塚(8)

 母が逝って、5月11日で3か月になる。最初の1,2か月は諸手続きで目が回る忙しさだった。その後はとりあえず時間が元に戻った感じがしている。そして、今年から「母の日」の花のプレゼント先は妻になる。なに、これまで頼んでいた宅配の花屋さんから例年通りカタログが送られてきたからだけのことなのだが。

 留守中に花届かないよねとちょっと気になっていたところで、今日、M新聞のウェブ記事が飛び込んできた。「医療プレミア」の「理由を探る認知症ケア」シリーズでの「家に帰りたいは単なる帰宅願望ではなかった!?」がそれ(有料購読です)。これは私も体験したことだが、「帰りたい」という言葉の内実に迫る読み込みが必要だというのが記事の趣旨ではあるが、「家に帰って○○をしたい」は各人各様であろう。 

 私の母の場合は、施設に入る前は、広島につれて帰ると嬉々として草むしりをし、近所を散歩と称して15分程度歩くのが常だった。「帰りたい」の内容はまあその程度のことだったのだが、施設に入ってからは、新たなルールを強制されて、気ままに生活できない窮屈さが主となっていたように思う。もう一人で日常生活できないのだから、これは我慢してもらうほかない、というのが家族の偽らざる心情だった。

 足を骨折して認知症が進んでからはベッドに寝たきりのような状態になり、言う回数は減ってきたが、それでも帰りたがった。どこへといっても、練馬ではなくて広島だったのだろう。

 そのシリーズの過去記事が気になってちょっと見てみると「お風呂には入りません:拒否行動の真の理由は」というのもあった。そこに書かれていた事例とは異なってはいるが、これも私が体験したことだった。「お母さんの頭がくさい、洗ってないようだ」、そう妻が言い出した。そういえば、風呂に入るように進めると、すぐにでてきて「中にはいってないので綺麗だから、入ってね」と必ず一言言うようになっていた。それを聞いて私はバスタブに入っていないと理解し、「そんなこと気にしないで、ゆっくり入ってよ」と若干とがって返事していた。毎日そんなことが続いていた。

 母とはいえ「オレが一緒に入るのは憚るから、一緒に入って面倒みてやってくれ」と私は妻にいった。それで妻は、母が脱衣場に入ると、一緒に入って面倒みようとして誘うのだが、母はあれこれ30分もぐずぐずして一向に風呂に入ろうとはしない。妻がいなくなると「入った」といってすぐに出てくる。この一連の行動をどう解釈すればいいのか、私にはわからなかった。手に余って当時通っていたデイケアのケア・マネージャさんに相談したら、通っている施設のほうで週一で入れてくださることとなった。

あるところでこの件を話したら、介護経験のある人たちから、「昔の女は最初にお風呂に入るというのはなかったから、遠慮してたのですよ」とあっさりいわれてしまった。そうだったのかもしれない。だったら私なんかが先に入ればよかったのだろうか(追い焚きできるので、入浴は外出前が普通になっていて、夜フロに入る習慣がなくなっている、という現実がある)。でもいずれ、自分で風呂に入って体を洗うこともできなくなる、しなくなる(たぶん面倒になるのだろうか)のかもしれない。さて、私の場合はどうなるのだろう。どこに帰りたがるのだろう。

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