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第68回日本西洋史学会大会古代史部会発表原稿

 2018年5月20日発表原稿です。もう先がないので、一応アップしておこうというわけです。レジメがうまくアップできませんので、別途画像で付加しておきます。悪しからず。

 「戦勝顕彰碑としてのコンスタンティヌスのアーチ門」

 最初に幾つかお断りしておきます。
 1つは、名称の問題で、日本ではこれまで文献番号31青柳先生のように「コンスタンティヌスの凱旋門」と呼ばれてきましたが、私はそれを「アーチ門」と呼ばせていただきます。私なりの考えがあり、それについてはすでに簡単ですが文献番号37で書いているので、ここでは繰りかえしません。
 2つ目は、予め提出した発表要旨を若干修正いたします。実はそこで書いた内容をすでに論文にまとめてしまい(文献番号39です)、この場でそれを再述するよりも、さらに話を先に進めたいと考えたからです。コンスタンティヌスのアーチ門が312年のイタリア遠征の勝利を顕彰するものであったこと、そこに描かれたレリーフを詳細に検討してみると、コンスタンティヌス勝利の功労者としてレリーフ上で顕彰されているのは、なんとローマ正規軍団ではなく、ゲルマン人や北アフリカのムーア人といった、いわゆる非ローマ人の兵士たちだったこと、まあすこし前時代風に表現するなら、同盟部族の補助軍だったことが判明します。
 これを簡略に皆さんに紹介した上で、今回の発表はさらに進んで、コンスタンティヌス時代に製作されたアーチ門のレリーフ上で、神々の神像やローマ軍徽章類がどのように表現されているか、を検討したいのです。
 そして発表の最後に、これは発表要旨に書いておりますが、私が最近ようやく気づいたことですが、すなわち、カエサレア司教エウセビオスがとりわけその著書『コンスタンティヌスの生涯』において、どうやら彼はコンスタンティヌスのアーチ門レリーフの順番順に(西側から南に、東から北側に)依拠して叙述しているようだ、ということに付言したいと思います。

 なお、寄る年波で視力が衰え、タイプミスなどあると思いますが、お許しください。

 では、さっそく本論に入ります。必要な図版はほとんどすべてレジメに掲載しておりますので、以降それに従い、もし時間が余れば、補足資料をデジタルプロジェクタでお見せすることにします。 
 レジメ1ページ目をご覧ください。
 そこにも書いておりますが、文献番号31の青柳先生は、他については詳細に触れておられるのに、なぜか挿図261で両脇通路に番号を付されておりません。本発表にとってこれは大きな問題となります。  なお、以下、この挿図のナンバーに依拠し、ただアーチ門の壁面レリーフには裏表ありますので、東西南北の方位を付して、たとえばすぐ下の2)に出てくるように、西1といった表記で示そうと思います。すなわち西面のナンバー1というわけです。
 スポリアと表現されている2世紀のレリーフには今日、私は触れません。私が扱うのは4世紀初頭に新たに作成されたもの、すなわち挿図での円盤型トンドの2、が東西2枚(これは直径2m2,30cmの大きさです)、そして横長レリーフの、挿図1、14,15(これはばらつきありますが、だいたい高さ1m強、長さは南北面で5m半、東西面のはちょっと長くて6.5mといったところですが)、それらが南北両面にあるので6枚、それに円柱台座、これはおのおの3面あって、それが26から29、そして南北両面にあるので、台座レリーフだけで小計24枚ありました。さらに、先ほど述べた両、脇通路に彫像が東西壁面に各々4体ありますので、8体、総計で検討対象は40 となります。

 最初に横長レリーフに関する私の検討結果を、簡単にご報告します。6枚のレリーフのうち戦闘場面を描いたものは、南14と15の2枚ですが、そこでコンスタンティヌス軍の戦闘員として描かれている兵士は、端的にいって3種類のみなのです。レジメ2ページ目の3)がそれです。
 まず皇帝をもっとも身近で警護する、ゲルマン人コルヌーティ、彼らは二股の角がある兜をかぶり、特有の模様が描かれた楯を持っています。そして彼らは、西1、南14,15、それにどうやら円柱台座北面29の、左側面にもその特徴的な楯とともに登場しているようです。当時コンスタンティヌスはガリアとゲルマニアを根拠地としていました。その彼にとって、彼らコルヌーティは虎の子の隠し球だった可能性があります。そして私は、後世に文書記録を残したキリスト教関係者,具体的にはエウセビオスとラクタンティウスですが、彼らが、コンスタンティヌスがキー・ローの旗印をひっさげて戦いに臨んだと書いているのを、私はコンスタンティヌス全軍のことではなく、コルヌーティの楯の文様を強引にそう読み込んだのか、それともキー・ローをそれに書き加えたのであろう、以後コンスタンティヌスはそれを旗印として全軍の先頭に歩ませた、としているのを、彼の側近警護部隊、より直接的には、彼の旗印の皇帝旗のこと、と考えているのですが、それについては別の機会に触れることにします。

 それから第二に、軽装騎兵、彼らは兜こそかぶっていますが、鎧を着用しているようにはみえません。そして騎乗している馬も重装備で守られているようには表現されておりません。この種の軽装騎兵はもちろん軍団所属や、皇帝直隷野戦機動部隊(コミタテンセス)にもおりましたが、皇帝がより信頼をおいていたのは、同盟ゲルマン諸部族から派遣されてきていた騎兵連隊だった可能性があります。それはローマ騎兵に比べると、格段に騎馬操作技術が巧みだったからです。  
 彼らはひょっとすると例外的に東1の、ゲルマニア起源の吹き流し軍旗のドラコン旗を奉持して、栄えあるローマ入城式にも参加表現されているのかもしれません。「例外」といったのは、コルヌーティや後から述べるムーア人弓兵の姿は入城式に見ることができないからです。そこでの主役の座はローマ正規軍の歩兵と騎兵でした。帝都ローマに堂々入城する栄えある場面では、どうやらゲルマン人やアフリカ人はお呼びでなかったようです。 
 余談ですが、私は、ここで第二次世界大戦でのアメリカ軍第442連隊戦闘団を思い出してしまいます。ご存知のように、彼ら日系人兵士たちは、過酷な任務を多大な死傷率で全うし、全アメリカ軍の中で最高の、抜群の戦果を挙げ、しかもローマ入城に最も近く進軍していた部隊だったにもかかわらず、ローマ入城の栄誉からはずされて転進させられましたし、その後も、最初にユダヤ人収容所のダッハウ収容所を発見する功績もあったのですが、それもごく最近まで長く秘匿されてきました。

 そして最後になんとなんと、頭に巻いた鉢巻きに矢を蓄えた奇抜な姿で登場している弓兵、それはムーア人、要するに北アフリカのマウレタニア人のことですが、彼らが唐突に南14と南15に登場してまいります。 
 ちょっと立ち入りますと、このムーア人部隊がなぜコンスタンティヌス軍にいるのかというと、北アフリカはマクセンティウスの勢力圏でしたから、もともとマクセンティウス軍の一翼を担っていたはずで、ところが彼らの登場が南14からですので、ウェローナの戦い以前に、コンスタンティヌス軍に降って、コンスタンティヌス軍に編入されていたと考える研究者と、もひとつ、もっと前に、西の復位したマクシミアヌス正帝軍に所属していたものが、310年6月にマクシミアヌスがアルルで自殺ないし処刑されたあと、コンスタンティヌス軍に吸収されていた、と考えている研究者もいます。 
 私は両方ともあったのではないかと思ってます。逆からみてみると、コンスタンティヌス軍を迎え撃つマクセンティウスにとって、敵側に予想以上にまとまった数のムーア弓兵部隊が存在していたことが、不意打ちでの一大脅威となったのかもしれません。
 こうしてみますと、肝心の戦闘場面での、南14と15での戦闘員がいずれもローマ正規軍とはいえなかった、と言う事実は、やはりいくら注目しても注目しすぎではないように私には思えます。この件はこれまで誰も明確に指摘してこなかったと言っていいと思うのですが、あれだけ公然と衆目にさらされてきたレリーフを、実は誰もしっかりと分析的に見ていなかったわけで、これでは私を含め、研究者としては「ぼやーと生きてんじゃねーよ」と誰かさんに叱られてもしょうがない失態、といわざるをえないでしょう。
 
 さて、この話はここまでにして、第二の論点に入ります。
 3ページ目の4)をご覧ください。
 東西、脇通路内の彫像は誰が刻まれていたのか。破壊がかなり進んでいるので、明確に断定可能なのは、そう多くありませんが、No.3が、太陽光線を象徴する放射冠をいただいているので、確実にSol神だと断定できます。
 その正面No.1には、皇帝にふさわしい豪華な甲冑姿の人物が描かれ、さらに彼を背後上部から押し包むように勝利の女神ウィクトリアの羽根が右側に残存していることから、この甲冑姿はコンスタンティヌスに想定可能で、 ならばNo2が当時コンスタンティヌスと同盟関係にあった東部正帝リキニウスで、 No.4がリキニウスの守護神ユピテル像だった、 よって東通路では、国家制度的側面から、諸皇帝と神々の彫像が並んでいたとは、文献番号7番のロランジの見解です。
 破損がより著しい西側についても、ロランジはあれこれ検討した結果、今度はコンスタンティヌスの血縁関係に注目し、コンスタンティヌス王朝プロパガンダに資するべく、コンスタンティヌス、その父コンスタンティウス・クロルス、歴史書ヒストリア・アウグスタで、彼らの先祖に祭り上げられていたクラウディウス・ゴティックス、そしてコンスタンティヌスの義理の父で、正帝に復位したマクシミアヌス、の肖像だったと想定しています。

現在のところ、私はこのロランジ説に対する代案を持ち合わせておりませんが、他はともかくとして、No.1とNo.3に関してはほぼ確実で、となると後述との関わりで、このアーチ門建設時における、ヘリオス・Sol神の位置づけは決定的に重要といっていいのではないかと、思います。
 
 さて続いて5)、円柱台座のレリーフを簡単にまとめてみます。南北それぞれに12面のレリーフがあり(現在欠損1がありますが)、正面はすべて勝利の女神ウィクトリアが描かれ、左右両側面には、捕虜、ローマ兵、勝利のみ印のトロパイオンなどが描かれています。注目すべきは対称性で、若干の相違はあるものの東西・南北で対称的配置となっています。とりわけ注目に値するのは、中央通路に面した内側のレリーフには、明らかに、南側では軍団旗である鷲旗や歩兵大隊旗の軍旗を捧持したローマ兵が、そして北側では神々の神像、具体的には、勝利の女神ウィクトリアと放射冠を戴いたSol神を捧持したローマ兵が刻まれていて、やはりもっとも目を引きます。

 ここで余談ながら、他のレリーフでどんな神像や軍徽章が描かれているかを見てみますと、西1の右端に、勝利の女神ウィクトリアとやはり放射冠の痕跡があるSol神が登場するほか、東1の左の隅っこにvexillum 1旒がありました。たぶんこれは皇帝の所在を明示する皇帝旗なのでしょう。そして東1の中央には、先に触れたゲルマニア起源のドラコン旗が2旒、描かれています。 
 4ページ目をごらんください。さらに北14、それはローマに入城したあと公共広場フォルムの、西の端のロストラ上で、コンスタンティヌスが演説している場面です。彼の頭部は完全に削り取られていますが、その背後に二旒のvexillumが立てられているのが見えます。これは先ほどの東1左隅のそれと同じく皇帝旗だと思われます。
 それ以外に彼の背景に5本の円柱が認められ、これらは第一次テトラルキア時代の303年にディオクレティアヌス皇帝位就任20周年を記念して立てられた柱なのですが、それらの中央がユピテル神、左右に四人の皇帝像を戴いておりました。
 なお、今回は拡大写真を載せてませんが(2頁、北14参照)、ロストラの左右両端に椅子に座った彫像が一対ありまして、向かって右は、杖と円球グローブを持つ皇帝ハドリアヌス,左は、皇帝マルクス・アウレリウスとされています。
 こうして、コンスタンティヌスはテトラルキアの正統後継者であると同時に、2世紀のアントニヌス王朝の後継者でもあることがさりげなくプロパガンダされているわけです。

 最後に東西2の円盤型レリーフ、トンドについて触れておきましょう。方位に合致して、東に4頭立て戦車、クワドリガで今まさに海上から天空に浮かび上がってきた太陽神、それを導くアモル、海中でそれを眺めている海の神オケアノスが描かれています。なおここでの太陽神は、放射冠をかぶっていません。西1は、2頭立ての馬車を御しつつ、海中に没しようとしている月の女神Luna、それを先導するアモル、それを海中から見守っている海の神オケアノスが描かれております。

 さてこれらのレリーフ、彫像群をトータルで眺めてみて、まずもって注目しておきたいのは、勝利の女神ウィクトリアの頻出、そして太陽神ヘリオス・Sol神像の登場が目立つことです。そして軍、徽章関係では、次に述べる、エウセビオス叙述での強調点a)、とは異なって、コンスタンティヌスがらみの軍旗・神像類に、キリスト教文書から期待されるような、キリスト教的な痕跡がまったく認められない、という事実です。すなわち、コンスタンティヌスのアーチ門の神像・レリーフ表現の核心はヘリオス・Sol神であった、という事実です。これを文献番号37の内容と重ねますと、少なくとも315年段階においてコンスタンティヌスはキリスト教信仰を公表していなかった、むしろヘリオス・Sol神を自らの守護神に選んでいた、ということが再確認されるわけです。従いまして、例えば文献番号34番のポール・ヴェーヌが312年段階でコンスタンティヌスはキリスト教を選んでいた、というような見解は四離霧散することにならざるをえないでしょう。

 残り時間も少なくなりましたが、最後に、『コンスタンティヌスの生涯』におけるエウセビオス叙述を辿ることで、ローマに行った記録のないエウセビオスですが、アーチ門建設前後の時期に関する彼の叙述の流れを見てみますと、どうやら彼は、何らかの手段で、コンスタンティヌスのアーチ門レリーフ・トンド等の情報をかなり詳しく知っていて、それに沿って書いていたと考えざるをえないという心証を、私は得たことをご報告しておきます。レジメ4枚目と5枚目に列挙しておりますので、ご一読いただければすぐにご理解いただけることと思います。

 このアーチ門において、誰が戦勝の功労者として顕彰されているかというと、どうやらローマ正規軍ではなく、ガリア・ゲルマン系のコルヌーティ、それにゲンマン系軽装騎兵、さらには北アフリカ系弓兵だった、という意外な事実に行き当たりました。
 また、神像として突出しているのは、勝利の女神Victoriaを別にすると、明らかに太陽神Helios-Solである。この時期のコンスタンティヌスの軍事力の基盤がガリア・ゲルマニアにあったことを想起すれば、ケルト系の著名な太陽神Apollo-Grannusを、彼が統治開始以来、自らの公式信仰に採用していた、ないしそうせざるをえなかった理由も、論ずるまでもなく自明です。そして、それを当時のキリスト教指導者たちが、(ヒラメ官僚よろしく)イエス・キリストと重ね合わせようと、さまざま贅言を尽くして後付け的に忖度していた、という図式の検討が、今後当面の研究課題となりますが、今日はここまでにしたいと思います。

 以上で発表を終わります。有り難うございました。

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2018/2/5-11フランス調査旅行

 留学中の林君のお世話になって、約1週間、交通費・宿泊費は当方持ちということで、行ってきました。
 余裕があれば、年末のアルジェリア旅行も転載するでしょう。

2/5(月)成田1105-1555Paris AF275 Paris泊
  6(火)Neufchâteau泊  Hôtel EdenValue Deal 69.30€
  7(水)Metz泊 Inter-Hotel Modrne 86€+
  8(木)Nimes泊 Aparthotel Adagio access Nîmes   60.80€
  9(金)Nimes泊 Aparthotel Adagio access Nîmes   60.80€
 10(土)Paris泊 Hôtel Viator Paris  147.00€
 11(日)Paris1605- AF272
 12(月) -1205羽田

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2/7
浩志@ヌフシャトーです。

 3時に起きだして書きました。林君間違っていたら教えてください。

 昨日、今回の訪仏前半の山場のグランGrandに行ってきました。パリの東駅
に隣接した宿泊ホテルは昨晩は全員白人従業員でしたが今朝は全員黒人でした
。このあたりが現在のパリの状況なんでしょう。
 そこから8:10発のTGV(新幹線)に1時間40分、一面雪景色とスノウ・ホワイ
トが続くうち、Nancy着(雪のため30分程度延着でしたが、もともと待ち合わ
せ時間が40分あったので乗り継ぎはセーフ)。そこからToulまで地方線に乗り
換えて、進行方向右側にゆったりとした水量の川をみつつ、15分(なぜか雪が
消えてました)、本当はそのまま列車でNeufchateauまで行けるはずだけど途
中が工事中とかで、そこで乗り換え時間5分のバスに飛び乗って、延々と平原
状の地形での農地景観の中を直線で走る、よって旧ローマ軍道を彷彿させる道
を40分、ようやく正午前にヌフシャトー駅前に到着できました。こういう複雑
な経路だったので、林君抜きにはとうてい行き着くことはできなかったでしょ
う。感謝。

 ここのホテルに荷物を置き、フロントでお願いして、でも大分待たされたタク
シーで、1時半にGrand目指して出発。タクシー代は往復70+10ユーロ。往復と
も林君相手に絶え間なくしゃべり続ける同じ中年女性が運転手でした。ヌフシ
ャトーの町外れには近世と思える城塞跡が残っているようで、水量の多い川を
渡り、徐々に高度を上げていく感じでした。そこの自動車道も直線が主体でし
た。

 グランには20分も走ったでしょうか。まず小学生用と思われる漫画チックな
掲示板のある広場で、町のパン屋で買ったパニーニをかじって、ちょうど2時
間見学しました。ここの目玉遺跡の円形闘技場とモザイクの家は冬季休業中で
、これは事前にわかっていたことなので、しょうがありません(もし開いてい
たらもう1時間は必要でしょう)。若干ぱらぱら小雨の降る曇り空の中、住民4
00名の小さな村落で、出会う人も皆無の村の中の道を、表示板にしたがって、
厳重に金網で囲まれた円形闘技場(片方が未復元)、1035年に記録が初出の皇
帝ユリアヌス下での女性殉教者、Libaireの殉教者記念堂(村の共同墓地付き
)を覗き、列柱廊や浴場があった広場、閉館中で旧バシリカの床を飾っていた
モザイクを収めた家は素通りして、当時この地域を丸く囲っていた城壁の土台
跡、神殿跡に立っているという教会とその下の洗濯場、などを見学して歩きま
した。この間すれ違った住民は数名のみ。
 帰り道でのこと、モザイクの家の裏側で保育園の子供たちが園庭に遊びに出
てきて賑やかな歓声が聞こえ、保母さん一人に10名余り、全員白人の可愛い顔
で向かえてくれたので和みました。そのちょっと向こうにあるこぢんまりとし
た小学校には、場違いな感じで統廃合反対の横断幕が貼られていたのでなおさ
らでした。

 ここに、コンスタンティヌスが310年頃立ち寄り、ケルト起源のガリアの太
陽神Grannusの聖域で、アポロン神の出現を体験し、30年間の統治を予言され
た、という異教側史料があって、それがキリスト教側にとっては、太陽神と重
なり得るキリストやキーローの出現と、後年解釈されえたわけです。私見では
、その後の展開を考えると事実は異教側にあって、それを強引に改ざんしたの
がキリスト教プロパガンダだったと判断すべきで、私としては真偽を確かめる
ヒントを得るべくグランを訪問しなければならなくなったわけです。

 私にとっては、現在は寒村にすぎないグランが、かつては、ガリア古来の清
冽な聖泉が存在し、霊験あらたかな治癒祈願の聖地で、当時巡礼が引きも切ら
ず訪れてきていて賑わっていた保養地でもあったこと(帝国内有数の規模を誇
る円形闘技場がその証です。おそらく東部のアスクレピオス神の医療施設エピ
ダウロスなどに比すべき地だったのでしょう、規模はあれほどはありませんが
)、212年ごろに時の皇帝カラカッラが訪れた記録もあるようで、それらが確
認できたことで十分でした。
 あいにく季節はずれの訪問で、旧バシリカの広大な床モザイクが保存されて
いる施設に置いてあるはずのパンフレットなども、入手できませんでしたが、
ともかく、その夜のホテルのレストランでは林君と祝杯をあげたことでした。
ちなみに二人で63.76で切りよく70(食前酒+生ビール)。イタリアのあっさ
りした味に慣れている私には若干重い夕食でした。
 到着時に林君がめざとく観察してましたが、この町ではフランス人以外は見
ることありませんでした。我ら二人がまぎれもなく異邦人だったわけです。と
はいえ別段奇異のまなざしに会うこともなく、それどころか、タクシー運転手
のおばさんの甥は、木工の技術を習得して、日本人女性と結婚して東京に住ん
でいるのだそうで、最後の挨拶は日本語で「さよなら」でした。

 今日は、メッスに向かいます。そこの博物館にはグランの治癒神と深い関係
のあるらしい円柱上に飾られた石灰岩製のAnguipedeの騎馬像が展示されてい
て、それを拝見するためです。同様のものは反対側に位置するEpinalの博物館
にもあるようですが、そこに寄る時間は今回残念ならがありません。
 なお、ホテルに帰ってからの林君のウェブ調査では、ドイツのバイエルンの
Lauingen近くのFaimingenにはローマ時代のApollo-Grannus神殿があったよう
です。ここに212年にカラカッラがやってきて病気治癒のため神殿を建てたと
のこと。ストラスブールを挟んで東西にガロ・ローマン時代の著名な治癒神神
殿があったわけです。

 コンスタンティヌスにはなぜ、それを崇拝する意味があったのか。私見では
それを、彼は当時トリーアを拠点にしていて、彼の麾下の最も信頼していたゲ
ルマン・ガリア出身の兵士たちの支持を獲得する必要があったから、と想定し
ているわけですが、それ以上のことは、将来後続の研究者が実証してくれるこ
とを念じております。

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2/8
各位:豊田@Nimeです。

 アルジェリアから帰って、ずっと頭の中はアウグスティヌスだったのですが
、2/5から丸一週間の予定でフランスに来ています。前半は北東の若干僻地に
コンスタンティヌスの秘められた足跡を訪ねてましたが、朝の気温氷点下のMe
tzから半日かけてずっと同じTGVに乗り続け(一部300キロの速度ですが、在来
線も走るのでそう速くなくて)、昨晩ニームにつきました。列車から降りて駅
の階段を下るとき不覚にも足がもつれあぶなかったです。

 今日一日と明日午前中までここに滞在してパリに帰りますが、ニームでは単
純に、昔撮っていたはずのどこかに行ってしまった円形闘技場の立ちション用
トイレの写真再撮影するのが主務です。これだけなので大幅に時間余るのです
が、ニームの博物館は改装のため閉館中の由で、今日は新たに博物館ができて
いるというポン・デュ・ガールにバスで行く予定です。南仏では昔回った他の
ローマ遺跡も再訪したかったのですが(実は立派なトイレ遺構が多い)、その
余裕がないのが残念です。

 そろそろ頭の中を帰国便がよぎりだしてますが、パリは雪だとかでちゃんと
飛行機が飛んでくれるかどうか心配です。昨日フランスを北から南に縦断した
のですが、ところどころに薄っすら残雪あっても、ずっと霧の風景でした。南
仏のニームも夕食に出た夜の温度は3度と、体感的には北と変わりません。
 夕食は本格中華にありつけました。同行の林君は麻婆豆腐が食べれたと感激
してました。私は「ポタージュ」と頭についていたので疑問でしたが、酸辛ス
ープを頼んでみましたが、イタリアの「アグロ・ピッカンテ」と同じで、増量
したその辛さに疲れが癒やされました。4皿と青島ビールを含め二人で50ユー
ロ。やっぱ中華は貧乏人の味方です。今回のホテルには台所もついているので
、今日の夕食は分厚いステーキ焼こうと話してます。

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2/10
豊田@ニームです。

 昨日は、午前中に円形闘技場、昼にPons du Gard、夜はフランス料理でした

 実は、今回訪仏の最後のミッションには失敗し、元気が出ません。

 舐めるように入れるところは見て回ったのですが、お目当てのものがみつか
りません。座席下に位置するアーチ通路の曲線の内側に沿って立ちション用と
おぼしき、だけど大理石製の平たい浅い彫りの石材がずらーとはめ込まれたの
を、30年前には見た記憶あったのですが、・・・お母さん、あれはどこに行っ
たのでしょうか・・・。研究書にも写真があるというのに。林説では、立ち入
り禁止の工事用具置き場にあるのでは、というのですが。

 負け惜しみですが、でも転んでもただでは起きない! 階段の上下で足をガ
クガクにしながら歩き回るうち、地階からの登り階段の踊り場部分に妙な遺物
を今回見つけました。なぜかどこの通路にでもというわけではないのですが、
添付写真のようなものが両方の壁沿いの床に浅く彫られてまして。ご丁寧に下
方に小さな穴が開いているのと開いていないのがあって、統一感がなく、用途
的によくわからない遺物なんです。
 ご存じの方、教えてください。私は、当然立ちション用便器と考えてますが

 長くなるので昼は飛ばして、夜です。台所あっても油も調味料ないので、林
君が探した地元のレストランに行きました。定食23.5ユーロのコース、二人で
2016年産地元赤ワイン1本込みで70弱ユーロで、満腹しました。ワインも渋み
が強く肉料理に合ってました。

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2/10
各位:豊田@パリです。

 本日、ニームでは十分すぎる時間を町歩きで消化し(17500歩、昨日は25000
歩の由:晴れていて7度くらい、ひなたは暖かったが、風はきつかった)、午
後にtgvに乗り、先ほどパリに着きました。車窓からの風景は、最初の1時間は
晴れ、次の1時間はだんだん雲が多くなってきて、ところどころに残雪、そし
てパリが近づくと、日没したせいでもないでしょうが、一面の残雪となりまし
た。
 今日のホテルは、パリ・リヨン駅から歩いて5分くらい。

 そこでご報告があります。今回の宿泊ホテルすべてで、パスポートの提示を
要求されませんでした。これはどうしたことなんでしょうか。あののんきなイ
タリアでも必ず提示するのに。

 2日続けてのフランス料理は重たいので、これから名代の中華料理屋にメト
ロに乗って行こうと思います。
 明日、帰国の途につきますが、天気予報だと「晴れ」らしいので、飛行機が
ちゃんと飛んでくれることを祈ってます。
 林君には本当にお世話になりました。

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赤いシリウスの謎

 一週間ほど前、面白いテレビ番組があった。
 以下、うろ覚えですが。

 プトレマイオスの「アルマゲスト」や、キケロやセネカの記録によると、彼らの時代、すなわち古代ローマ時代においては、シリウスは赤色だったという。現在は青白いから、2000年間の間に色が顕著に変わったことになる。
 天体や星座の世界で、たった2000年での変化というのは考えがたい現象で、これまでの学説だと数万年はかかるとされてきた。
 となるとありえないのだが、多くの学者が入り乱れて色々な仮説を提出した挙げ句、どうやら最近の学説だとこういうことらしい。
 恒星は普通青く光っているが、寿命が来ると赤色巨星になり、消滅すると青白く白色矮星となるが、そのとき、特殊な条件下でファイナル・ヘリウム・フラッシュ現象が起こって、わずか数ヶ月で急激に膨張して赤色に変わり、最終的に燃え尽きることがある、のだそうだ。

 天体を観測していて、その現象を偶然見つけたのが、なんと日本人の桜井幸夫というアマチア天文家で20年前のことだった。1996年2月、見なれない星が射手座の一角に突然出現したのだ。それは「桜井天体」と名づけられた。
 こうして、現在青白く光るシリウスBが昔は赤色だった、という謎が解明されたわけである。

 ウェブでも、まだ旧聞の内容しか載っていない。
 http://mirahouse.jp/drop/seishu/red_sirius.html

 だけど、現在NHKオンデマンドで公開中のようだ。但し単品だとアップの期限は2/22。もう時間がないが、見放題だといつでも見ることできるらしい。
 古代ローマ史をやっているのなら、是非見ておいたほうがいいだろう。
 http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018084847SC000/?capid=nte001

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私はドラキュラ?

 今日、起床は朝11時だった。寝たのが5時くらいだからしょうがないが。昨日も午前中はだめだった。昼過ぎからごそごそし始める最近の私。

 健全な人間は、太陽を浴びて体内時計を調節しなければならない。それも紫外線であって、ガラス越しの室内ではだめなのだそうだ。

 これといった昼間の定例行事が少ない今の私は、どうしても夜型になってしまう。まあその傾向はこれまでもあったのだが、最近は、食事後になると、大げさでなく昏倒しかねない睡魔に襲われるようになり(血流の関係か)、シェスタ風に寝ちゃうものだから、ますますその傾向がつよくなっている。

 しかし、これは健全な人間の姿ではない。電気エネルギー的にもかなり無駄をしているし、必然的に体内に無駄なカロリー・エネルギーを蓄積し、太る結果となあ〜る。目の疲労も半端ではない。しかも思ったほど仕事ははかどっているわけではない。困ったものだ。

 それにしても、夕方になってやっと外に出ようか、という気になるのはどうしたことか。
 これではまるで、ドラキュラじゃないか、ということに昨日やっと気がついた次第。

 でもドラキュラは痩せてるな。
 トマトジュース飲んでダイエットするか。

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忘れられた名著?

 また悪いクセが出た。
 アウグスティヌスに絡んで、ある邦語の本を読んでいたら、とんでもない本にゆきあたってしまった。それは、戦前に出たイタリア語からの翻訳書で、上智だとキリシタン文庫に所蔵されていて、戦後も改訳版が出ていて、そっちは中世思想研にあった。
 それらを見ていたら、原本がみたく(ほしく)なり、年金生活者のくせに性懲りもなく海外古書に発注してしまったのだ。届いた紙装本は節約して安物にしたせいか、もうぼろぼろで・・・、ウェブ写真で見たものとは似ても似つかぬ姿だったのだが。
 以下は、原稿を書いたEvernoteからの転写である。いずれ写真を添付して紹介したい。

ーーーー
 Giovanni PapiniのSaint’Agostino,1929 が出版されて、五十嵐仁は、すぐさまフィレンツェ在住の著者に翻訳許可を求める書簡をしたため、快諾を得た。翻訳の出版は1930(昭和5)年12月21日で、『パピニ 聖オーガスチン』発行所アルス、がそれである。
 なぜか翻訳者名には寺尾純吉という筆名を使っていた。上智大学図書館の「キリシタン文庫」には、その翻訳者が和名の筆名で(だが、ローマ字でIgarashiのサインも添えられている)ヘルマン・ホィヴェルス先生(神父)に献呈したものが未だ所蔵されている。ちなみに献呈の日付は1930年12月29日。どういう経緯か不明だが、その献本は長らくキリシタン文庫長だったヨハネス・ラウレス神父の手に移った。
 装丁は小豆色のしっかりしたハードカバーで、背表紙には金字で著者名、書名、譯者名がイタリア語と日本語で表記され、表紙には黒字でイタリア語のみで、上に書名、下に著者名、その間に心臓に2本の矢が上から交差状に刺さり、下まで貫通し、心臓の上に炎が描かれた図案が配置されていて(今は詳しく触れないが,他に、炎の火花状のものが4箇所描かれている)、かなり凝った作りとなっている。

 その図案のあらましは、たぶんアウグスティヌス『告白』9.2に由来し、直接原著の表紙から構想を得たものだろう。調べてみると、13世紀創設の聖アウグスチーノ修道会の会章は心臓を貫いている矢こそ1本であるが、やはり心臓の上には炎が見えている。私のところに北イタリアのAlessandriaの古書店から来た原本古書の表紙は、白地で文字は黒、心臓関係の図案が赤、という違いはあるが、シンボル関係は翻訳本と同じである。

 翻訳書を開くと、口絵に白黒で、なんと私も好きなアリ・シェフェール筆「聖オーガスチンと聖モニカ」(1854年)の白黒写真(原著にはない)、そのあとに「譯者序」が付されていて、翻訳の機縁などが述べられている。そこに1930年がかの聖人の没後1500年に当たることも明記されているので、原著や翻訳の契機は自ずと明らかであろう。ちなみに著者パピーニは1881年1月9日フィレンツェ生まれだから、当時49歳と気鋭の時期だった【逝去は1956年7月8日、65歳:ウェブ検索すると、若いときの個性的な頭髪の野心満々な姿と一緒に、どういうものか、言語障害をもたらした大病を患って衰えた姿の彼が、自宅の書斎で孫娘に口述筆記させている1955年9月19日付けの写真や、もう一人別の孫娘で役者の写真なんかも出てきた。巻末に付された同出版社の既刊本の列挙の先頭に、パピニ著大木篤夫譯『基督の生涯』も掲載されていて、著者はこの時期日本でもすでに定評ある書き手だったようだ。実は,その翻訳も後日入手してしまった。ところで上記シェフェールの絵は、ヌミディア人的風貌のアウグスティヌスを表現していて私には好ましいのだが、実は吉満義彦(1904-1945年)の『告白碌における聖アウグスチヌスの囘心への道』(Congregatio Mariana 2)上智学院出版部、1945年、の口絵にも使われていて、さすがと思わされる】。

  本書は、戦後の昭和24(1949)年3月に、中央出版社から、ジョヴァンニ・パピーニ(五十嵐仁訳)『聖アウグスチヌス』として訂正再版された。これは中世思想研究所にある。敗戦後という時代を反映して、薄っぺらな紙装本だが、表紙の図案は今回むしろイタリア語原著と同様となっている。ただ、すでに酸性紙特有の劣化が進んでいて、むしろ戦前もののほうが読みやすいくらいだ。この版には口絵も前書きもないが、その代わりに巻末に「譯者の言葉」が添えられていて、そこに版権取得時に著者から送られてきた快諾の書簡が紹介されていたり、翻訳者はその後1938年から「一官吏として」ローマに行き、終戦の暮れに浦賀に帰国したこと、原著者の生まれ育ったフィレンツェにもよく行ったし、ローマで最後に住んでいたジョヴァンニ・セヴェラーノ通りVia Giovanni Severano(ここはローマ・テルミニの北北東、というよりティブルティーナ駅の西側のといったほうが早いだろうか、Bologna広場の北西に延びている通りである)ではすぐ近所に著者のお嬢さんの婚家があって、「眼の不自由な作家が、ちょいちょいやってくることを、門番の口から聞きもした」が、訪れることもなく終わった、などと書かれていて、亡くなるだいぶ前から作家として著者が不自由な体だったこと、たぶんそれもあって訪問を遠慮していたことも窺える文章に出会え、私にとって興趣大いなるものがある。

 そして、問題の箇所は、原著でp.45-47、戦後の翻訳でp.42-44で、読者は見逃しがたい叙述に出くわすことになる。さすがイタリア人!と絶句せざるをえない、はずなのだが。

 アウグスティヌスは、マダウロスから学業半ばで故郷に帰ってきて、無聊を囲う1年を過ごした時に堕落した生活に陥るが・・・
 
p.43-4「ここにかれは偽らない、しかも明瞭な言葉をもって、友情の堕落、肉慾にまで堕落した友情、肉慾と合體した友情に就いて暗示しているのである。・・・「肉慾によって穢された友情」とは、男の友だちを暗示している。」

 な、なんと、アウグスティヌスが女だけでなく、男色もやってた、とパピーニが明言しているわけで、もう脱帽するしかない。
 かくして、私の「珍説その3」も、90年近くも昔にすでに喝破されていて、新説とはいえないことに。まあ男色は、ローマ史からすると別段驚くべきことではないのだが。養子皇帝で帝権をつなげたいわゆる「五賢帝」の最初の四人は、まさしく女性に興味なかったからから子もなしえず、その故の養子縁組だったことを想起すれば十分だろう。
 しかるに、我が国の自称アウグスティヌス研究者でこれを指摘している者を私は知らない(西洋では、ある女性研究者がそれを指摘している、とどこかで読んだ記憶があるが、それにしてもそれはここ2,30年前のことだったとボンヤリ記憶している)。しかも、パピーニのこの書物を利用して、アウグスティヌスとアンブロシウスの冷たい関係を指摘している、として引用している研究者はいるのだが、男色のほうにはまったく触れないのである。これを偏向といわずしてなんと言うべきか。それにしても、これでは最近の研究者は相も変わらず縮小再生産に嬉々として従事している、と言われてもしょうがないだろう。

 実は、私主宰の読書会で,昨年出版された以下の岩波新書を読んだ社会人女性が、読後感としてそれを指摘していた。
  出村和彦『アウグスティヌス 「心」の哲学者』
 私は、筆者にこの点をどう考えるかメールで問い合わせたのだが、返事は「書き手が意図してない読み方をされてビックリです」だった。
 これこそ素人がプロを凌駕する健全な読解力を示した典型例というべきではなかろうか。繰り返す、これでは、専門家とは実はお仲間の中での共通言語で遊んでいる輩にすぎない,といわれても弁解の余地はないだろう。赤面して、研究者の看板を下ろしていさぎよく退場すべきだろう。

 付記:ここでアウグスティヌス関係の「私の珍説」とは以下の事例である。(〇付きが現在オリジナルのつもり、△は先行研究不十分)
  彼の『告白』叙述の秘密
   彼の出生の秘密:ヌミディア性 △
   彼の家族の秘密:母はめかけ? 〇 
   彼の男色疑惑 〇 → △
   彼の異性関係の秘密
   彼の立身出世の秘密:マニ教ネットワーク
   彼の回心の秘密:△
   彼の司祭・司教就任の秘密 〇
   彼の設立修道院の秘密 〇
  彼の使用言語の秘密 △
  彼の神学の秘密:山田氏にお委せ
  彼の死後の図書移動の秘密 △
  彼の遺骸移動の秘密 △
  彼の神学が西部帝国に伝播した本当の理由△

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お勧めサイト発見

 カルチャで使用する画像を探していて、こんなページにたどり着きました。
 教材開発の試みのようです。私にはなかなか聞き取りがたい英語速度なんですが、繰り返し聞き直せるし、文字が表示される点(とはいえ、今度は読み取れない(^^ゞ)はありがたいです。
 私はローマ史だけしかみてませんが、最新学説もどしどし入れ込まれ、全学科的になかなか工夫した画像を見せてくれてるようなので、興味お持ちのテーマをぜひご覧ください。

 https://www.khanacademy.org/humanities/ancient-art-civilizations/roman#late-empire

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読書会へのお誘い

 現在、こんなことやってます。もし参加希望の方いらっしゃったら、大歓迎ですので、メールで連絡ください。当方のアドレスは「k-toyota@ca2.so-net.ne.jp」です。ご希望あれば(1)と(2)については、これまでのレジメをお送りします。

(1)「アウグスティヌス『神の国』読書会」
 開催方式:隔週で、2017年度の今後の予定は、11/30,12/14,1/11,1/25,2/8,2/22,3/8,3/22、といった調子です。
 日 時:隔週の木曜日、午後6時ー7時半 
 場 所:四谷駅徒歩2分、イエズス会日本管区本部・岐部ホール304号室
 参加費:その日の参加者から、2000円(場所代の寄付金込み)を、参加当日に徴収してます。

 かつての上智大学公開講座の参加者のご希望もあって始めました。現在の参加者は、みなさん女性の社会人と私の、6名です。
 実は、私にとっても3回目の完読の試みで、とりあえずはローマ宗教を学ぶという視点で読んでますが、とにかく「1人では絶対に読み進めれない」とお互い励まし合いながら頑張ってます。 
 原著はラテン語ですが、教文館訳で一回25ページくらい読み進み、第8巻15章まで進みました。
 アウグスティヌスの話は繰り返し多いので(それは、彼は机に向かって文章を推敲しながら書いているのではなく、口頭で喋っていて、それを速記者たちが筆記しているせいもあるかもしれません)、中途参加でも全然問題ありません。
 結局、内容をレジメにまとめて最初に筋を報告している私が一番勉強している感じなんですよね (^^)。
 メンバーから、どこかで最新刊の田川建三『ヨハネの黙示録 訳と註』作品社、を読みたいという希望も出てまして・・・、さてどうしたものかと。

 追伸:11/30の会で、第8巻になって訳者が某氏になってから、よく分からない箇所が多くなったこと、それにそろそろ飽きてきたきたこともあり、『神の国』は次回で第9巻を全部読んだあと、一旦お休みにして、正月からは以下を読みたい、ということに参加者の中でなりました。
   田川建三『書物としての新約聖書』勁草書房、1997年
 なお、古書を見てみると、「日本の古本屋」だとずばり3000円が2冊、3000円台も数冊転がってますので、4000円台のアマゾンよりも安いようです。

(2)「エウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』読書会」
 開催方式:月1回
 日 時:基本、月末の月曜日、午後1時半-3時半:2017年度の今後は、11/27,12/18(時間もずらして+忘年会),1/29,2/26,3/26を予定してます。
 場 所:JR我孫子駅から徒歩1分の「我孫子市けやきプラザ」8階の会議室
 参加費:その日の参加者から、場所代等必要経費込みで、お一人1000円を徴収してます。

 この読書会は、かつて柏のNHK文化センターで開催していた講座の参加者のご希望で始めました。これまで『ガリア戦記』『内乱記』『ローマ皇帝群像』といった西欧古典を読んできました。この調子でいくと、その後のテキストは新刊のアミアヌス・マルケリヌスになるかも。
 現在の参加者は、女性7名、男性7名、そして私の、計15名です。
 『コンスタンティヌスの生涯』の原著はギリシア語ですが、秦剛平訳(京都大学学術出版会)でこの7月から読みはじめてます。速度は一巻を2回に分けて、まあ毎回平均で40-50ページです。ちなみに、11/27は、第一巻後半を予定してます。
 本テキストの内容は私の研究分野に直結してますので、話題はおのずと周辺にも及びます。たとえば、9/25には「2017年夏期調査旅行報告」と題して、この夏の遺跡調査内容を発表しましたし、最新レベルの情報もお伝えしてます。10/23は、あの有名なコンスタンティヌスが見たという十字架の幻視研究の問題点に触れました。11/27の目玉はコンスタンティヌスの凱旋門レリーフで、日本で初公開の最新学説を紹介予定です。

(3)「アウレリウス・ウィクトル『皇帝列伝』ラテン語輪読会」
 開催方式:毎週1回の輪読会
 日 時:毎週金曜日、午前10時半-12時半
 場 所:現在は、渋谷駅から徒歩10分にある、安い渋谷の貸事務室(ワンルームマンション)を借りてやってます。
     来年度は時間も場所も変更の見込みです(夕方から、四谷の某大学図書館のグループ学習室を狙ってます・・・)。
 参加費:現在、その日の参加者で場所代とお互いの交通費をプールして徴収してます。
     (来年度は、図書館館友会員参加費が必要になるかも。それについては以下参照
       http://lux.lib.sophia.ac.jp/HomePage/index.php?page_id=101)

 かつての大学院ゼミの続きでやってます。現在の参加者はいずれも社会人で、男性2名(+時々参加1)、女性1名、それに私の、4ないし5名です。
 輪読ですから、参加者が順番に試訳を担当し、みんなで検討します。読解には箇所によってかなり手こずっていて、これも「これって、一緒に読むからやれるんだよね」といいながら、じわじわしぶとくやってます。詳しくは、このブログにアップした翻訳をご参照下さい。

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Aurelius Victor, Liber de Caesaribus,1.1-5.12

 日進月歩といいたいところですが、そうもいかず・・・(一応の訳了は1年後の予定ですが、さて)。いつまでたっても手直しに切りがないので、ばらばらですが、手を加えたところから、恥ずかしながらたたき台としてアップさせていただきます。(といいつつ、次回がいつになるやら)
 秦剛平氏は、エウセビオス『教会史』や『コンスタンティヌスの生涯』において、意訳箇所に逐一訳註をつけて克明に明記されてます。それは一般読者としては相当にわずらわしいのですが、研究者の翻訳倫理としては本来そうあるべきだ、と私も思います(その彼に細かいことですが私なりにイチャモンつけたい箇所もありますが、それは別の場所で)。ここではできるだけ逐語訳で作業し、最終的に読みやすい「超訳」 (^^ゞを試みたいというのが、私の念願ですが、もとより文才なく、その上先のない身なので、期待しないでお待ちください。
 いずれエウトロピウス『首都創建以来の略史』全10巻もこの作業をしなければと思ってますが、そのためにはだいぶ先まで惚けずに頑張らないと。しかしたとえ私がついえても、若い世代で継いでやってくださる方が出てくることを信じています。それが研究というものではないでしょうか。

 本翻訳で使用のラテン語テキスト:
  Recensvit Fr.Pichlmayr et R.Grvendel, Sexti Avrelii Victoris Liber de Caesaribvs, in:Bibliotheca Tevbneriana, Leipzig, 1970=http://www.thelatinlibrary.com/victor.caes.html
 現代語訳註(*原文テキストを含まない):
  *by C.E.V.Nixon, An Historiographical Study of the Caesares of Sextus Aurelius Victor, Diss., Michigan, 1971.
  par Pierre Dufraigne, Aurelius Victor Livre des Césars, in:Les Belles Lettres, Paris, 1975.
  par Michel Festy, Sextus Aurelius Victor, Livre des Cesars, Thèse Doct. de l’Université Paul Valéry-Montpellier III, 1991.
  *by H.W.Bird, Aurelius Victor:De Caesaribus, Liverpool UP, 1994.
  von Kirsten Groß-Albenhausen u. Manfred Fuhrmann, Die Römischen Kaiser Liber de Caesaribus, in:Tvscvlvm, Darmstadt, 1997.
 索引辞書:
  Conscripsit Luca Cardinali, Aurelii Victoris Liber de Caesaribus Concordantiae et Indices, vol.I, in:ALPHA-OMEGA, Hildesheim/Zürich/New York, 2012.

 訳文中での記号、他:
  [ ]:テキスト段階の異読・付加等の場合
  ( ):文脈上の翻訳者の補い
  【 】:翻訳者のコメント
  ラテン語表示:訳語の統一を図るために、ここでは便宜上入れていますが、形式はふぞろいかもです。
  訳注:とりあえず『上智史學』60ー63号(2015ー17年)掲載を参照願いますが、ここでも修正がないわけではありません・・・。なお、そのpdf文書は「上智大学学術情報リポジトリ」(http://digital-archives.sophia.ac. jp/repository/)から「アウレリウス・ウィクトル研究会」と検索にかけると、入手可能です(但し、最近発行の第62号分は未掲載)。

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

        セクトゥス・アウレリウス・ウィクトル
   『皇帝列伝:アウグストゥス・オクタウィアヌス以来の略史、
  すなわちティトゥス・リウィウス(の書)の末尾(前二七年頃)から、
正帝コンスタンティウスが一〇度目、かつ副帝ユリアヌスが三度目の執政官職
          (三六〇年)までの(略史)』

第1章
 1:ほぼfere首都(創建後)七七二年目(前三一年)に、今やetiamローマで一人(の人物)にただただ服従すべしとの慣習が生まれた。なぜならnamqueオクタウィアヌスは、オクタウィウスを父とし、大伯父との養子縁組によってカエサルの、そしてまもなく領袖たちの決議で、諸派閥への(彼の)派閥の勝利が控えめに行使されたことにより、アウグストゥスの添え名で呼ばれたがdictus(それは)、彼が金品で兵士たちを、穀物管理でとりわけ大衆vulgoを取り込んで、他の者たちをもまったく困難なく屈服させたからだった。
 2:そのようにしておよそcirciter四四年間が経過し、彼は病をえてノラで逝去したconsumptus。(その間)市民たちの帝国にラエティアとイリュリクムが加えられ、そして(帝国)外の諸民族の凶暴さは、ゲルマニアを除き沈静化された。
 3:ヌマの後の三人目として、(彼は)アントニウスに勝利すると、ヤヌス(神殿の門)を閉じた。それはローマ法によって諸戦争が鎮まると行われることだった。
 4:性癖的にかの人物は市民的で魅力的だったが、まったく節度がないほどの贅沢三昧と諸競技に熱中し、そしてまた睡魔には抑制がきかなかった。
 5:(今と違って)たくさんいた学者たちと(その)取り巻きたちに(彼は)大いに敬意を払っていた、(それは彼が)雄弁の研究と宗教儀式に驚くほどmire惹かれていたからであった。
 6:彼は寛容さゆえに国父で、また終身護民官職権tribunicia potestateを有していた。そのため(彼を)神に、ローマと全属州でのきわめて著名な諸都市を通じて、(彼の)生存中と死後を問わず、諸神殿、諸祭司団sacerdotes、および諸神官団collegiaが聖別していた。
 7:彼は幸運felixに恵まれ[子供たちと、やはりtamen同時にsimul結婚は別だったが]、インド人、スキュタエ(スキュタイ)人、ガラマンテス人およびバクトリア人は諸使節を派遣して、同盟を嘆願したほどだった。

第2章
 1:次いで、クラウディウス・ティベリウス・ネロは、アウグストゥスの子供たちの中に継子から養子縁組で迎え入れられていたが、恐れていたことどもが(杞憂で)十分にsatis安全であると気づいてから、帝権を受け入れたが、かの(アウグストゥスなる)称号は老獪に拒んでいた。狡猾で必要以上に秘密主義の彼は、しばしば偽って殊にmaxime欲していたことどもを嫌ってみせ、嫌悪していたことどもに欺瞞的に専念したりした。素質的には突発的なことにはるかに鋭敏だった。はじめこそ良かったが、その後(彼)は有害となり、ほぼfereあらゆる年齢性別に対し非常に手の込んだ情欲を持ち、かつ無実だろうとなかろうと厳しく罰し、(これは)自分の身内であるなしに関わらず同様だった。
 2:その上つまりadhuc dum、諸都市や諸集会を忌み嫌うあまり、カプレア(カプリ)島を諸々の破廉恥行為を隠すために求めた。
 3:それゆえ軍事をなおざりにしたので、ローマ法(の下)の多くの場所が強奪された。(治世)劈頭のカッパドキアを除くと、何ひとつ属州として征服されず、(それさえ)アルケラウス(アルケラオス)王が追放されたからだった。ガエトゥリ族の諸々の盗賊行為が鎮圧されたが、彼らは頭目タクファリナスの下でいたるところを襲撃していた。
 4:同時にsimul、スエビ人の王マロボッドゥスは巧妙な計略ではめられた。加えて近衛大隊が集結させられた。(それまで)近くの諸自治都市や、あるいはローマ(市内)で各邸宅に分散宿営していたのを、彼は首都隣接の陣営内に移した。彼はそこで(近衛大隊を)指揮すべく近衛長官職の称号を与え、また(その職権を)強化した。これに対しnam、身辺警護隊員の別の者たちと首都警護隊員たちを設立したのは、アウグストゥスである。

第3章
 1:かくして(ティベリウス・)クラウディウスは熱病ないし諸々の奸計により没した。そのとき彼は二三年間帝権を行使しegisset、八〇歳に一歳足りなかったが、添え名カリグラなるガイウス・カエサルが、皆から熱望されて選ばれる。(それは)祖父たちと父(ゲルマニクス)への信望のゆえだった。
 2:なぜならnamque、(アウグスティヌスの)娘を通じて曾祖父がアウグストゥスで、母方の家系にアグリッパが、ドルススがゲルマニクスの父で、(カリグラは)彼(ゲルマニクス)の子で、彼ら(アウグストゥス、アグリッパ、ドルスス)が祖先だったからである。
 3:彼らの慎み深さと、オクタウィアヌスを別にしての時期尚早の突然の死に(加えて)、大衆vulgusは同時にsimul(カリグラの)母と兄弟たちの(死)にも同情していた。ティベリウスが彼らを気まぐれな災禍で葬り去ったからである。
 4:その理由で、あらゆる者がこれほどの家系の没落を青年への期待でなだめようと努めたわけで、特に彼は軍隊内で生まれ[そこから彼は添え名を軍用靴にちなんで得ていた]、諸軍団にとって愛らしくかつ歓迎されていた。
 5:加うるに、彼はきわめて聰明だったので、誰もが彼ら(祖先)に似るだろうと信じていた。だがそれは、まったく期待とは裏腹がいわば自然法であるかのように、しばしばまるで意図したかのごとく、悪人たちが善人たちbonisから、粗野な者たちがより教養ある者たちから(生み出され)、他のことどもでも同様で、また逆も真なのである。
 6:ついにその先例から賢人たちの多くが、子供たちなどいない方がよりましだと考えるに至った。
 7:その上ceterum、カリグラにおいては、彼らはそれほど間違ってはいなかった。実際、彼は長い間気質の粗暴さを慎み深さと見せかけの従順さで覆い隠していたので、その結果正当にもmerito人口に膾炙したように、彼より良い従僕たちはいなかったが、彼ほど残酷な主人もいなかった。
 8:要するにdenique、職権を手に入れた彼は、このような本性(を持つ者)が近頃常にそうであるように、その年の数か月間諸々の偉業を、民衆へ、元老院議員らの内部で、兵士たちと共に司った。そしてある陰謀が報告されると、とても信じられないかのように、(そんな陰謀は)自分にふさわしくない、なぜなら(自分の)生命など誰にとっても負担や厄介でないからだ、と公言していた。
 9:しかし突如、最初は気まぐれな行為で無実のごくわずかな者たちを粉砕してからはcaesis、あたかも獣が生き血を飲み干すかのように本性をむき出しにし、こうしてその後三年間が過ぎたがconsumptum、その間元老院と最良者たちoptimi各々のたび重なる災難で地球はひどく傷つけられた。
10:むしろ今やetiam、姉妹たちを凌辱し既婚貴婦人たちを弄んでは、神々の装束を着て歩き回っていたが、それは「予は近親相姦によってユピテル神であり、さらにはバッカナリアの合唱でリベル神なり」と主張するためだった。
 11:かと思えばneque secus、ゲルマニア内に踏み込む期待で一ヶ所に諸軍団を集結させた挙げ句、二枚貝や巻き貝を大海(大西洋)の岸辺で拾い集めるよう命じたりもした。
 12:その際彼自身、あるときは流れるようなウェヌス女神の衣装で(兵士たちの)間に立ち、またあるときは武装して、自分への戦利品(貝殻)は人間たちからではなく天界から奪ったものだと強弁したが、明らかにこのような類いの魚(海産物)をギリシア人たちの呼ぶところにしたがいーー彼らはあらゆるものを大げさに言いたがるのだがーー、ニンフたちの瞳と彼は解釈したのである。
 13:これらのことで増長して、(自分のことを)ご主人様dominusと呼ばせdici、そして王の標章を頭に巻き付けようと企てるに至った。
 14:それが原因で、カエレアを首謀者として、鼓舞された者たちーー彼らにはローマ人の武徳が宿っていたーーが、かくも恐るべき破滅から彼を刺殺して国家を(専制政治から)解放した。タルクイニウスを追放した際のブルトゥスの卓越した偉業が再現されたことだろう、もし真のローマ人において軍隊がそれを行ったのであれば。
 15:だが(実際は)市民たちは怠惰にも外国人と蛮人を軍隊に徴募する欲望に取りつかれ、道徳は退廃し、自由は抑圧され、そして所有への欲求は増大していた。
 16:さしあたりinterim、さらにdum元老院決議により今やetiam女性たちも含めた皇帝たちの一門とすべての縁戚者を武装兵たちが捜索していて、はからずもウィミウスなるエピルス(エペイロス)生まれの(近衛大隊)歩兵所属の百人隊長がーー彼らは宮殿でしかるべき拠点で見張っていたーー、身を潜めていた(ティベリウス・)クラウディウスをぶざまな隠れ場所で見つけ出し、彼を引きずり出して、仲間たちに向かって叫んだ、「お分かりか、元首であらせられる」と。
 17:そしてたしかにsane彼は(精神的に)まともでなかったので、きわめて扱いやすいと洞察力のない人々に見られていた。そのことが伯父ネロ(ティベリウス)の邪悪な精神に対して助けとなり、兄の息子カリグラにおいても嫉妬とならなかった。むしろ今やetiam彼は兵士たちと平民militares plebisqueの心を掴んでいて、つまりdum彼への(一族の)目にあまる支配で、彼自身はきわめて哀れむべき存在と同情すらされていた。
 18:そのようなこと、そして多数のことが突如思い出され、誰も躊躇することなく彼をそこにいた群衆trubaeが取り囲み、同時にsimul他の兵士たちmilitumと大勢の大衆vulgiが殺到してきた。それを元老院議員たちが把握するや否や、(自分たちが)この企てausumを鎮圧可能かどうかと、すぐさまocius(人を)派遣する。
 19:しかし、種々のそして忌むべき諸反乱seditionibusで共同体と全身分が引き裂かれてしまった後なので、いわばtamquam帝権からの(命令であるかの)ように全員が(彼に皇帝として)恭順したのである。
20:こうしてローマでは王的職権が強固となり、そしてより平易に明らかにされたのは、死すべき存在(人間たち)の努力など運命の女神fortunaにとってかくも空しく、そして粉砕されてしまうcaesosqueということだった。

第4章
 1:かくしてigiturクラウディウスは、恥ずべきほど胃(の腑の食欲)に従順で、同様に(精神的に)まともでなく、かつ忘れっぽくて臆病な気質で、そしてきわめて怠惰だったにもかかわらず、多くのことを恐怖によってにせよ、とりわけpraecipue貴顕階層の諸助言にたいして、やはりtamenすばらしい配慮を示していた。その階層を彼は畏怖していたので尊重したのだった。実際quippe、愚か者たちの本性は、こうしてproinde助言者たちの意のままに行動するaguntからである。
 2:要するにdenique、良き後見人たちによって彼においては諸悪徳が、かつガリアにおいてはドルイド僧たちの悪名高い迷信が鎮圧された。可能なかぎりの有益な諸法が提案された。軍務も遂行され、諸国境は維持され、ないしローマ帝国に(新たに)以下が与えられた:東方ではメソポタミア、北方ではレヌスとダヌビウス、そして南方ではマウリ人が諸属州に加わったが、(最後のものは)ユバのあと王たちが廃されたことによる。そしてムスラミイ人の手勢manusが粉砕されたcaesaque。同時にsimul極西では、ブリタンニアの各地が粉砕されたが、彼はブリタンニアのみを訪れ、オスティアより海路進発した。これに対してnam、他のところ(の征服)は将軍たちが遂行したのである。
 3:その上さらにadhuc、穀物供給の欠乏が解決された。それをカリグラが引き起こしていた。つまりdum彼は、全世界から船舶を駆り集め、海上通路を諸劇場と諸戦車のため公共的損失をしてまでも造ろうと頑張っていたのだ。
 4:かと思えばneque secus、人口調査を新たにおこない、元老院から多くの者たちを締め出したが、ある軽薄な青年がいて、彼を自分たちにとって素晴らしいと親が主張したのでそのままにした時、彼(クラウディウス)は正しくも付け加えたものである。父親こそ子どもたちにとって監察官なのだから、と。
 5:だが彼は配偶者メッサリナの、そして同時にsimulque彼が身を任せっきりだった解放奴隷たちの甘言により堕落へと引きずられていった際に、ただ暴君たちのそれらだけでなく、夫や主人が愚かであれば、女性たちや奴隷の最も愚かな種族ができそうなことを犯したのだった。
 6:なぜならnamque、かの妻は最初みさかいなくあたかも法に則っているかのように姦通をおこなっていた。そしてそれで、非常に多くの者たちが身内もろとも消滅させられたexstincti。それは本性あるいは恐怖から(彼女の誘いを)断ったからである。女性たちのよく知られた手練手管で、彼女がかつて言い寄った者たちを自分に言い寄ったと告発したせいである。
 7:その後dehinc、より凶暴になった彼女は、より貴顕な女性たちを、結婚していようが処女であろうが、娼婦のように自分とともに売春させ、男たちも参加を強いられた。
 8:そしてこのようなことを恐れる者がいたら、犯罪をでっち上げて彼自身と家系全体に残酷極まりなく振る舞った。
 9:なぜならnamque、クラウディウスは、上で我々が示してきたように、生来非常に怖がりだったので、彼らは、彼に恐怖、ことにmaxime共謀への(恐怖)を吹き込むことによって、悩ませていたからである。そのような策略で解放奴隷たちさえも今やetiam彼らが望んだ者たちを破滅へと追いやった。
10:彼らは、最初は(メッサリナの)諸々の悪事を黙認していたが、女主人と対等とされるや否や、彼女をもまた、主人も知らぬうちに、しかしあたかもやはり(彼が)命令したかのように、従者たちを通じて殺害した。
 11:そしてたしかにsane、(その)女性は次のようなところまで進んでしまった。つまり、気質(趣味)と愛妾たち(に会う)ために夫がオスティアへと出立している間に、彼女はローマで結婚式を他の男と挙げてしまった。それでこのため(彼女は)より悪名を高めたのだが、つまりdum不可解にmirum思えるのは、彼女が皇帝の(目と鼻の)先で皇帝以外の男と結婚したことである。
 12:こうして、最高職権を手にした解放奴隷たちは、淫蕩、追放、斬殺caede、財産没収によってあらゆることを汚し、そして家長(クラウディウス)の愚かさを駆り立て、その結果かの老人は兄弟の娘(小アグリッピナ)との結婚を渇望するまでに至った。
 13:彼女は先妻よりも一層突拍子もないとみなされていたとしても、そしてそれゆえ同様の(運命)に怯えてもいて、毒薬で配偶者(の皇帝)を片付けてしまった。
 14:彼の(統治)六年目にーー彼は一四年間支配したがーー、首都創建八〇〇年祭が驚くほどmire(の規模で)祝賀され、そしてアエギュプトゥス(エジプト)ではフェニックスが目撃された。うわさではその鳥は五〇〇年ごとにアラビアから名高い諸所へ飛来するとのことである。そしてアエガエウス(アイガイオス)海の中に突如巨大な島が、ある晩に出現した。それは月食が起こった時のことだった。
 15:その上ceterum、(クラウディウスの)葬儀funusは、かつてのタルクイニウス・プリスクスのように長らく秘匿され、つまりdum女性の手練手管で堕落した番兵たちcustodesは、(彼を)病人に見せかけ、そしてその間に、彼によって継子ーー彼(ネロ)を彼はほんの少し前に子どもたちの中に受け入れていたーーに国家の管理を任されたと(偽って見せかける)。  

第5章
 1:かくのごとき方法で、ルキウス・ドミティウス[これに対して(というのも)namそれが断然certeネロの名前で、父はドミティウスだった]が皇帝とされた。
 2:彼ははるかに若くして義父に等しい年数権勢を司ったgessisset。やはり(はじめの)五年間は、首都を素晴らしくmaxime飾ったので、正当にもmeritoトライヤヌスはきわめてしばしば証言したものである、すべての元首たち(の統治)はネロの五年間にはるかに及ばない、とその期間に今やetiamポントゥス(ポントス)を属州法の下に、ポレモ(ポレモン)の許可によって移動させた。これにより彼(ネロ)はポレモニアクス・ポントゥスなる称号を与えられているappellatur。そして同様にコッティアエ・アルペスもコッティウス王の死により、そうなった。
 3:それゆえ、年齢が武徳にとって障害にならないことは、これから十分にsatis確知できるcompertum。(だが)放縦によって本性が堕落すると、それ(武徳)は容易に変化し、そしてその消失はいわば若気の至りの法則のように、より危険になって戻って来るものなのだ。
 4:なぜならnamque、彼(ネロ)はその類の不品行で残りの人生を過ごしたのでegit、かくのごとき人物についていささかなりとも思い出すのは不快かつ忌まわしい、まして(彼は我が)一門の指揮者rectoremであった。 
 5:彼は、つまりdum会衆者たちを前にギリシア人の発明による冠をかけての試合certamenにおいて竪琴を弾き始めた挙げ句、次のようなことにまで進んでしまった。すなわち、自分と他人の貞節に容赦せず、最終的にextremum結婚する乙女たちのヴェールを身にまとい、公然と元老院で婚資を与えられ、皆が祝祭の慣わしで祝う中、あらゆる怪物どもから選り抜かれた者との手権婚に同意したのである。
 6:それはたしかにsane、彼においてきわめて些細なことと評されるべきである。
 7:実際、犯罪者のように拘束された者たちに対して野獣の皮を被った彼は、(男女)両性に対し(彼らの)生殖器に顔をこすりつけたり、男どもを去勢してより重大な破廉恥行為に及んだのだから。
 8:その上atque、これらの中でも彼が母親すら今やetiam汚したと多くの者がみなしているが、つまりdum彼女もまた支配欲に駆られていて、冒瀆がなんであれ息子を服従させようと熱望していた。   
 9:それを著作家たちは種々証明に及んでいるので、私は真実だと思っている。
10:なぜならnamque精神に諸悪徳が浸蝕するとinvaserint、人間たるもの、羞恥心から外部の人々に結びつこうとは決してしないものだからである。罪を犯す習慣、新奇さそして彼により甘美さをもたらすものは、最終的にはextremum彼の身内の者たちの中で果たされるagit。
 11:そのことは彼ら(二人)によってより以上に明らかにされた。つまりdum、あたかも一種の進歩であるかのように、彼女(アグリッピナ)は他人たちから叔父との結婚へ、他人たちの拷問から夫の死mariti exitiumへと、(他方)彼(ネロ)のほうは漸次、ウェスタの巫女、それから自分自身へと(進み)、最後に両者ともども彼らの身内での冒瀆へと経過した。
 12:だがかくのごとき(悪徳の)魅惑にもかかわらず、やはりtamen彼らは一体となれず、それどころかそれで彼らはやみくもに振る舞い、互いに奸計を巡らした挙げ句、先手を打たれて母のほうが亡くなった。

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アウレリウス・ウィクトル『皇帝列伝』第22章-第39章17節

 以下はごく最近の試訳箇所です(徐々に範囲を広げようと思ってます)。意味不明の箇所が散在し難儀しました。まだ満足いきませんが、一応アップします。
 このところ、いまひとつ著者の語感がつかめなくてどうしたものかと思案しているのは、死亡に関する単語をどう訳し分けるか、です。「亡くなった」「死んだ」「滅びた」「消えた」「殺された」「殺害された」「殺戮された」・・・。絞殺や斬殺など明確な場合はいいのですが、それも他の並行史料でどうあれ、それで見当つけるのは避けなければなりませんし、辞書的にも多義あって思いのほか面倒です。
 共訳者の林君に言わせると、それはウィクトルが同じ単語を使わないで別の言葉で言い換えようとしているせいだ、ということになります。そういえばエウトロピウスの場合は同じ単語を使う傾向があって、翻訳も簡単だったことを思い出しました。その翻訳の場合、同一単語で訳せばむしろ簡単なのですが、ここではあえてこだわってみて、全巻で1,2度しか登場しない単語には角度のある訳語を付してみました。
 よろずご意見・ご指摘は遠慮なくお申し出ください。
 その際、本翻訳では、「逐語訳」でやっている点だけはあらかじめご了解ください。具体的に言うと、「可能なかぎり単語の順番通りに訳す:勝手に入れ替えない」「複数形はそれがわかるように訳す:単数と明確に区別する」「時制も動詞の形どおりに訳す:歴史的現在は現在形で表記する」「極力同一訳語をつけるようにする:翻訳者の意訳によるニュアンスの変化をできるだけ排する」、といった、まあ当然のことなんですが。
 ただ、これまでこの翻訳作業に対して、共訳者間ではかなり辛辣にやり合っていて(だから先になかなか進みません:欧米現代語訳註も肝腎の箇所で参考にならない場合が多く)、ある場合はそれを押さえ込んで豊田個人訳として公表してきたのが実情ですが、であれば世の専門家の方々はもっと言いたいことがありそうなものですが、これまでわずかお一人のみしかご指摘頂戴してません。批判にも値しないしろものだからなのか、それとも、これが内弁慶な日本の学界の現状なのか、いずれにせよ、いずれまとめて公刊を予定している身からしますと、はなはだ残念なことです。(2018/7/4付加修正して最新更新)

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アウレリウス・ウィクトル『皇帝列伝』

第22章 
 1:その後dehincオピリウス・マクリヌス Opilius Macrinus は、近衛長官職を司っていたが、皇帝として、そしてその同じ人物の息子、名はデァドゥメヌスが副帝として、諸軍団から命名されたappellantur。
 2:彼らのうち、彼(息子ディアドゥメヌス)に対しては、失った元首(カラカラ)への強い憧憬があったため、(諸軍団は)青年をアントニヌスと称した vocavere。
 3:(だが)彼ら(両帝)については苛酷で saevos かつ反市民的な性格としてしか、さしあたり我々には思えない。
 4:それゆえに、14ヶ月あまり、かろうじて帝権が保たれただけで、(両帝を)擁立した彼ら(諸軍団)によって、彼ら(両帝)は殺害された。

第23章
 1:そしてマルクス・アントニヌスが呼び寄せられた。彼はバッシアヌスから生まれ、父が亡くなると、ヘリオガバルスとシュリア人たちが呼んでいる太陽神ソルの神官職にあった。あたかもアジールのように奸計を恐れて(その神殿に)逃げ込んでいたので、そしてそれゆえ(彼は)ヘリオガバルスと呼ばれる;そしてローマに神の似姿 dei simulacrum(御神体)を移して、パラティヌスの奥殿 penetralia の中に諸祭壇を設置した。
 2:彼以上に破廉恥で impurus 、邪悪で improbus 、たしかにそのうえ厚顔無恥な petulans 女性たちはいなかった:なぜなら全世界から最も淫らな者たち obscoenus を彼は探していたからで、(すなわち)見た目で、あるいは情欲をを駆り立てる技において(最も淫らなものたちを)。
 3:このような事どもが、日ごとに増えていったので、ますますアレクサンデルの(人気が)増し、オピリウス(前帝マクリヌス)の死が自明となり(確知され)comperta、彼(アレクサンデル)を貴顕階級 nobilitas は副帝と正式声明していたが、彼への愛情が積み重ねられ、近衛軍兵舎内で、統治の30番目の月に(ヘリオガバルスは)窒息死させられた。

第24章
 1:そしてただちに、アウレリウス・アレクサンデルが、ーー彼はシュリア生まれで、(その場所は)カエサレアとアルケという二重の名前があるーー、兵士たちの尽力で正帝の統治権を委ねられた。
 2:彼は青年にもかかわらずquamquam、年齢以上の才覚 ingenium をもっており、やはり、大々的に準備してペルシア王クセルクセスに対して戦争を始める。彼(ペルシア王)は撃破され、そして逃亡したので、(アレクサンデルは)ガリアへときわめて迅速に赴いた、そこがゲルマン人たちの強奪に襲われていたからである。
 3:その時、諸軍団の騒動が起こり、そして彼は断固として打ち負かしたがabjecit、それは当面は栄光と、後には死exitioと見なされた。
 4:というのはnam、それほどの厳格さの力 vis を兵士たちは恐れていたので、<そこから今やetiam、彼はセウェルス<厳格>の添え名を与えられた>、偶然少数の者たちと共に行動していたagentem彼を、ブリタンニアの村 vicus で、それへの名前はシキリア Sicilia だが、(兵士たちは)殺戮したのだった。
 5:きわめて華やかな建造物が首都ににぎにぎしく建造され、そして母への献身については、彼女の名前はマンマエアであったが、(通常の)敬愛以上だった。
 6:その上さらにadhucドミティウス・ウルピアヌスを、ヘリオガバルスは近衛長官に任じていたが、(アレクサンデルは)彼を同じ顕職に留めおき、そしてパウルスを(統治の)初めに祖国に戻すことでーー両者とも法律の権威であったーー、選良たちに対し等しくとても熱心に、説いた。
 7:(彼は)13年間を越えることなく帝権を行使したが、国家をあらゆる点で強化して残した。
 8:それ(国家)はさてその後、ロムルスからセプティミウスまで競って上昇していく。バッシアヌス(カラカッラ)の数々の賢察consiliisによりいわば頂点に立ったのだった。
 9:そこからすぐに落ちなかったのは、アレクサンデルの(おかげ)だった。それ以来abhincつまりdum(諸皇帝は)自国民を支配するのを他国民を服従させることよりもより熱望するようになり、彼らの中でより以上に武装していて、ローマの地位をほとんど深淵に突き落とした、そして帝権へと入ってきた者たちは種々雑多になり、善人も悪人も、貴顕な者たちも卑賤な者たちも、あろうことか多くの野蛮人たちさえいることになった。直ちにconfestim
 10:実際、すべての事どもが、至る所で混乱させられ、そして何事もその本来のやり方でできなくなると、各々が、喧噪(のただ中)においては常であるがuti、他の人々の諸職務ーー彼らが(本来)指揮することのできない(はずの)ーーをひったくるのを当然fasと考え、そして、善き諸習慣の知識を無残に退廃させるのであるcorrumpunt。
 11:かくして、運命の女神の力が、(一旦)奔放に解き放たれると、破壊的な衝動(情欲)によって死すべき者たちを駆り立てるagit。それは、長らくたしかに壁のごとき武徳により制止され(てきたのだが)、ほぼすべての者たちが、様々な破廉恥行為へと駆り立てられた後になると、今やetiam生まれや教育において最下層の者たちにすら国事publicaを委ねたのである。

第25章
 1:なぜならnamque、ガイウス・ユリウス・マクシミヌスは、トレベッリカで属州統治していてpraesidens、兵士たち出身として初めて、ほとんど文盲であったが、統治権を諸軍団の投票で得た。
 2:しかし元老院議員たちも今やetiam、つまりdum非武装(の自分)たちが武装者(マクシミヌス)に抵抗するのは危険と判断して、これを承諾した。そして彼の息子も、同様に名前はガイウス・ユリウス・マクシミヌスだったが、副帝とされた。

第26章
 1:彼らは2年間全権を掌握し、まったく不都合なく、ゲルマン人たちに対して戦闘が行われていたのだが、突如アントニウス・ゴルディアヌス(一世)、アフリカ総督proconsulが軍隊によって、元首としてprincepsテュドルスの町Thydri oppidumで、本人不在で任命される。
 2:(ゴルディアヌス一世は)そこに呼ばれ、あたかもそのことで仕組まれていたかのように、到着する。反乱seditioで迎えられるも、それを容易に鎮めてカルタゴへ向かう。
 3:そこで、諸々の凶兆ーーそれらの恐怖で彼は苦悩させられていたのだがーーを追い払うため、神儀を常のごとく行っていたageret時、突如一頭の犠牲獣 hostiaが子を産んだ。
 4:それを腸卜師たちと殊にmaxime彼自身が <というのはnam、彼はその知識の実践において半端なく精通していたので>、次のように解釈した。彼(ゴルディアヌス一世)には確実に死が定められている、しかしながらverum彼は子孫たちに帝権をもたらすであろう、と。そして彼ら(腸卜師たちとゴルディアヌス一世)はより詳細に解釈を進め、同様に1人の子供(ゴルディアヌス三世)の結末exitumを告げたのである。彼らは予言した、(その子は)あの(産まれた)羊pecusのように温和で純真だが、長寿ではなく、そして陰謀にさらされる、と。
 5:とかくするうちに、ローマではゴルディアヌス(一世)の急死が確知されるとcomperto、ドミティウスの教唆により、首都長官と残りの(死刑執行権を持つ)裁判官たちが至るところで近衛大隊によって斬殺されるcaeduntur。
 6:実際、ゴルディアヌス(一世)は、自身に帝権がゆずり渡されると知った後、量的に十分な報酬を約束し、ローマへと使者たちと諸書簡で確約していたのだが、これら(の約束)が彼の殺害で台無しにされたのではと、兵士たちはやきもきしていたのだった。(連中のような)人種は、金銭により強く執着し、そして忠実で有能なのは金もうけのみなのだ。
 7:だがat元老院は、本当に誰ひとり指揮官たちrectoribusがいないと、外見上首都が占領されたように見え、忌まわしい事どもが勃発するのでは、と怖れ、最初に諸職権の差し替えをし、続いてより若い人々を(元老院議員)名簿に登録し、クロディウス・プピエヌスとカエキリウス・バルビヌスを副帝caesaresに任命した。

第27章
 1:そして同時期に、アフリカにおいて兵士たちがゴルディアヌスーー彼はたまたまforte父の幕下で、緋色の縁飾付トガを着用し、そしてついで近衛長官として居合わせたのだがーー、すなわちゴルディアヌス(一世)の息子を正帝に選んだ。たしかにsane貴顕階級 nobilitas はその行為をはねつけなかった。
 2:要するにdenique、彼は首都の起伏に富んだ(場所の)中に呼び寄せられ、しかもその中心部で近衛軍の諸隊manusは、剣闘士の諸隊と新兵たちの部隊によって、戦列をacie抹殺(殲滅)させられたdeletae。
 3:これらのことがローマで行われているgeruntur間に、ユリウス・マクシミヌス(父子)たちは、彼らをたまたまforteその時にトラキアが留めていたのだが、これらのことが生じたことを受けて、イタリアへと急いで向かうpetunt。
 4:彼らをプピエヌスは、アクイレイアの攻囲で打ち負かした。それは戦闘で、うち破られた者たちを(他の)生存者たちが次々に見放した後のことだった。
 5:彼ら父子の帝権については、2年間に、このような諸経過のため、(もう)1年が必要とされた。
 6:その後あまり時を置かないで、兵士たちの武装蜂起で tumultu クロディウス(パピエヌス)とカエキリウスは、ローマで、パラティウムの中で粉砕されcaesis、ゴルディアヌス(三世)は単独で統治を継続した。
 7:そして、その年に(ゴルディアヌス三世は)5年ごとの試合certamineーーそれをネロがローマへと導入し、(その後)拡大強化されていたがーー(それを開催した後に)、彼はペルシア人たちに向けてin Persas進発した。それはまずマルクスが閉じていたヤヌスの聖所を古のやり方で開けてからのことであった。
 8:それから、戦争が目覚ましく行われている時に、マルクス・フィリップス近衛長官の数々の陰謀により、彼(ゴルディアヌス三世)は帝権6年間で亡くなったperiit。

第28章
 1:それゆえにトラコニテス(出身)のアラビア人マルクス・ユリウス・フィリップスは、息子のフィリップスを同僚とし、様々な事柄に関して(帝国)東部について処理し、そしてアラビア(属州)にフィリッポポリスの町oppidumを創建して、彼ら(父子)はローマへと向かった。そしてトランス・ティベリス(地区)に貯水場が建てられた。というのは、その地区を水の窮乏が悩ましていたからだった。彼らは、首都の一千番目の年を、あらゆる種類の祝祭で祝賀することになる。
 2:そしてそれゆえ、それは一人の名前を(私に)思い出させるのであった。またもや私の時代にその後に一千一〇〇番目(の年)が、執政官フィリップスにより、いつものごとく(ut solet)、何らの宗教儀式も行われずに過ぎ去ったからだ:それほどに、日に日に首都ローマへの配慮は縮小しているのである。
 3:無論、その時代に怪奇現象と異常現象によって(このことは彼に)通告されていた、と言われている;これらの事どもから1つをすぐさまbrevi思い出すのが望ましい。
 4:というのはnam神祇官たちpontifexのおきてlexにしたがって犠牲獣たちが捧げられた時に、一頭の雄豚の胎児(腹部)に雌の生殖器が認められたのである。
 5:そのことを、腸卜師たちは、子孫たちの崩壊と予告し、そしてより重要な諸凶事が生じるだろうと解釈した。
 6:予言通りにならないように思案して、皇帝フィリップスは、その時たまたまforte息子に似た一人の(ギリシア人風の)青年 ἔφηβος を(男色楼の)貸部屋meritoriumの前を通り過ぎたとき気づいたので、男娼の習慣を除去せんものと、きわめて気高くも(顧問会議?に)諮問した。
 7:とはいえ、それは(今でも)残っている:実際、場所の状態を変え、一層の破廉恥行為として行われている。つまりdumより貪欲にavidius危険な事どもを何であれ、死すべき者たちは禁じられていても追い求めるものなのである。
 8:それに付け加えるなら、はるか以前に別のことをエトルリア人たちの(腑分けの)諸技術が(予言して)吟じていた。それら(予言の内容)は、良き人々は大部分がおとしめられ、最も女々しい者どもが誰であれ幸福になるであろう、と主張していた。
 9:彼らはまったく真理を無視している、と私は断言する。というのも、どんなにすべての事どもが望み通りに成功していたとしても、しかしながら、慎み深さが失われて誰が幸運でありえるというのか。それ(慎み)を保持することで、その他の事どもは我慢できるのである。
 10:これらが行われてactis、息子は首都に残され、彼(フィリップス)自身は、年齢のため身体が弱っていたにもかかわらずquamquam、デキウスに対してウェロナへと進発し、滅びるcadit/cado。(というのは)軍隊が敗走させられ、失われたからである。
 11:これらがローマで確知されるとcompertis、近衛軍陣営で息子は殺害されるinterficitur。彼らは、統治の年数で5(年)を行使したagunt。

第29章
 1:だがatデキウス(249年6月か? パンノニアで皇帝歓呼)は、シルミウムのある村vicusの出身だったが、軍務の段階から帝権を志していた、そして敵対者たち(フィリップス父子)hostiumの殺害nexをきわめて喜び、エトルスクスという名前の息子を副帝にする(250年5ないし6月;251年6月以前に正帝);そしてただちに彼(エトルスクス)をイリリア人たちへと先遣させ、(彼自身は)しばらくの間ローマに留まる、(それは)彼が築いている諸建造物を奉献するためだった。
 2:そしてその間に、彼(デキウス)に対しヨタピアヌスの、ーー彼はアレクサンデル(大帝、ないしセウェルス)の後裔を鼻にかけ、シュリアで諸変革を試み、兵士たちの意向により死没したのだがoccubuerat、(その彼の)ーー頭部が、それが慣習であるがuti mos est、予期せず(ローマに)運ばれてくる。そしてそれらの日々と同時にsimul、ルキウス・プリスクスに、ーー彼はマケドニア人たちを総督として支配していたが(249/50年)ーー(兵士たちにより)専制dominatioが委ねられた、(それは)ゴート族の攻撃によって、トラキアの大部分が強奪された後に、彼らが彼のところに到達したからだった(250 年末)。
 3:このため、デキウスが可能なかぎり迅速にmaturrimeローマから離れると、ユリウス・ウァレンスが民衆を煽って帝権を占めた。しかしながらverum両者(??)はまもなく粉砕(打倒)されたcaesi、それはプリスクスを(元老院の)ノビリタスが祖国の敵hostemと決議した時のことだった。
 4:デキウスたち(父子)は、蛮人たちをダヌビウス川を越えて追撃していて、アブリットゥスで奸計にかかって死んだcecidere(251年6月前半)、統治の2年間が過ぎていた。
 5:しかしデキウス(父子)の輝かしい死を、多くの人々が称賛している。なぜならnamque息子はきわめて向こう見ずに交戦していて、戦列内で in acie 死んだのだがcecidisse、父もさらに、気落ちした兵士たちが皇帝を慰めようと多く(の言葉)を投げかけた時、即座にstrenue答えた、一人の兵士の損失は自分にとって軽微と思われる、と。こうして(父帝は)戦争を再開し、弛みなく闘っていた時に、(息子と)同じような仕方で消え去ったinterisse。

第30章
 1:これらの事どもを元老院議員たちpatresが確知したcomperereときに、ガッルスとホスティリアヌスに正帝での帝権を、ガッルスから産まれたウォルシアヌスを副帝と定めたdecerno。
 2:その後、疫病が起こる。激しく猛威を振るっていたそれにより、ホスティリアヌスは亡くなった。ガッルスとウォルシアヌスに(民衆の)賛意が獲得された。というのは、注意深く入念に、彼らは最貧層の個々人の埋葬を配慮していたからである。

第31章
 1:かくして、彼らはローマに留まっていたので、アエミリウス・アエミリアヌスが(モエシアで)最高職権を兵士たちを買収してcorruptisかっさらった。
 2:この(権力)奪取に対し、進発した彼ら(ガッルスとウォルシアヌス)は、インテランInterammで自らの(兵士たち)によって粉砕(打倒)されるcaeduntur、(彼ら兵士たちが)アエミリウスからより大きな報酬を期待したからである。彼(アエミリウス)にとって、労苦も不利益も全くなく、勝利が転がり込んだ。同時にsimulそれゆえ、節度のない者どもが、贅沢と放縦によって(帝国に)果たすべき公的職務を退廃させてしまったcorrupeant。
 3:これらすべてにより、たしかにsane2年間が経過したprocessit。これに対してnam、アエミリアヌスもまた3か月間帝権の使用に際し慎重に振る舞ったが、病気で命を奪われたabsumptus est、(その彼のことを)(元老院の)領袖たちproceresは初めは(国家の)敵hostemと呼んでいたが、その後、先行者たちsuperioribus(ガッロやウォルシアヌス)が運命の女神によって消滅させられるexstinctis と、常のことだがuti solet、(彼アエミリアヌスに)正帝の称号を与えたのだった。

第32章
 1:だがat兵士たちーー彼らは(帝国内の)至るところからラエティア付近apud Raetiasに集結させられて、差し迫った戦争のためにとどまっていたーーは、リキニウス・ウァレリアヌスに帝権を譲り渡すdefero。
 2:彼は十分にsatis傑出する出自にもかかわらずquamquam、それでも、またその当時習慣だったとはいえut mos etiam tum erat、軍事に邁進していた。
 3:彼の息子ガッリエヌスを、元老院は副帝に選出する creat。そしてすぐに、ティベリス川が夏の盛りに(もかかわらず)洪水の様相を示して(まだ雨期でもないのに)氾濫した。
 4:(予言の)精通者たちprudentesは、国家の破滅を、かの青年の不安定な性格によるものであると歌った cecinere。というのは、(ガッリエヌスは)呼び寄せられて accitus、エトルリアからやって来ており、前述の(川の)流れはそこから(来ている)からである。それ(国家の破滅)は、無論すみやかにconfestim起こった。
 5:これに対してnam、彼の父はメソポタミアにおいて、どっち転ぶか分からないそして長期間の戦争を準備中だったが、ペルシア人たちのPersarum王の、彼の名前はサペルSaperだったが、(その彼の)たくらみによりdolo計略ではめられcircumventus、むごたらしく切り裂かれて laniatus、亡くなった:帝権の6番目の年であり、きわめて頑健な老年期だったのだが。

第33章
 1:同時期に、リキニウス・ガリエヌスは、ガリアからゲルマン人たちを即座にstrenue遠ざけarceret、イリュリクムへ急ぎ下った。
 2:(それは)そこでibi、インゲブス Ingebusをーー彼はパンノニア人たちを管理していたが、ウァレリアヌス(ガリエヌスの長男のJunior)の災難を確認してcompertaーー、帝権への欲望が襲っていたからで、(ガリエヌスはインゲブスを)ムルシアMursiaで完全にうち破り、そしてつづいてレガリアヌスを(完全にうち破った)、(そのレガリアヌスは)、ムルシアMursinaで破滅が生き残らせた兵士たち受け入れ、戦争を再び行ったのである。
 3:これらのことが幸運かつ祈願以上の結果となったので、人間たちの性(サガ)で、より怠惰な者(ガリエヌス)が、息子サロニヌスSaloninusーー彼が副帝の栄誉を授けていたーーともども、国家ローマをほとんど難破状態へと突き落とした。まさしく次のごとくであった、トラキアを自由に闊歩したゴート人たちが、マケドニア人たちとアカエア人たち、そしてアシアの諸境界までを占拠し、メソポタミアをパルティア人たちが、オリエンスについては盗賊ども、否むしろあの情婦(ゼノビア)が支配し、アレマンニ人たちの軍勢visがその時同時にイタリアを、フランク人たちの諸部族がガリアを強奪しつつ、ヒスパニアを確保しpossiderent、タラコ人たちの町oppidumを荒らしそしてほぼpaene強奪した。そしてちょうどよくin tempore船々を入手し、一部はアフリカにまで渡った;そしてイステルIster(ダヌウィウス)川の向こう側(の領土)が失われた、それらを(皇帝)トラヤヌスが得ていたのであったが。
 4:こうして、ほとんどあらゆる方向から風神たちが荒れ狂いsaevientibus、小者に大者が、最低の者が最高の者に、世界全体で混在させられていたのであるmiscebantur。             
 5:そして同時にsimul、(帝都)ローマを疫病が猛威を振るった。それ(疫病)はしばしばきわめて深刻な不安と精神の絶望を引き起こす。
 6:これらの出来事の間に、彼(ガリエヌス)自身は諸々の料理屋popinaeや居酒屋ganeasを巡り、ポン引きたちlenonumや大酒飲みどもvinariorumとの親交を深め、配偶者サロニナ(どころか)、そしてゲルマニア人たちの王アッタルスの娘で破廉恥な愛人、名はピパに身を任していた; 
 7:そのため、今やetiam(ローマ)市民たちははるかに凶暴な諸暴動を起こしたのだった。
 8:(ガリア分離帝国皇帝たち)全員の最初の人物、ポストゥムスは、たまたまforte蛮人たちをガリアで統治していたのだが、帝権をひったくるべくereptum取りかかっていたierat。大勢のゲルマニア人たちを追い払ったが、彼はラエリアヌスとの戦争に引きずり込まれた。その彼を(ポストゥムスは)同様に幸運に恵まれて撃退したが、彼自身の部下たちの騒動でtumultu、亡くなったperiit, というのは、(部下たちは)モンゴティアクム[現マインツ]人たちの強奪をしつこくせがんだのだが、彼ら(モンゴティアクム人たち)はラエリアヌスを支持していたからだったが、彼(ポストゥムス)が拒絶したからである。
 9:かくしてigitur、彼は殺されeo occiso 、マリウス、かつて鉄鍛冶職人で、その当時etiam tum軍務に十分satis秀でていたわけでないが、(その男が)支配をregnum掴む。
10:こうしてporinde、全てのことが限界までextremum落ち込んでいき、それでこのような連中のために、諸々の帝権と全ての人びとの武徳の栄誉decusが嘲りとなったのである。
11:このゆえにhinc さらにdenique ふざけてioculariter (以下のように)呼ばれてもdictum 決して不可解でないと思われるmirum videri、たとえ、ローマ国家をマリウスが再建しようと努力したとして、それは、それ(ローマ国家)を同様の職種artisと血統と名の始祖たるマリウス(伝説の鍛冶職人Mamurius Veturius、それとも共和政末期の軍人政治家Gaius Marius、元首政の皇帝Marcus Aurelius Antoninusのことを示しているのか)が強化しているからだった、と。 
12:この者が2日間の後に喉を掻ききられるiugulatoと、ウィクトリヌスが選ばれる。彼は戦争の知識においてポストゥムスに匹敵したが、しかしながらverum 収まり切れない性欲を持っており、始めのうちは抑制されていたそれ(性欲)によって、2年間の帝権の後に、ほとんどの者が暴力的に凌辱され、Attitianusの妻をconiugem熱望し、そして悪行が彼女によって夫に知らせられた時、密かに兵士たちによって、暴動へと焚きつけられて扇動されaccensis、アグリッピナ(現ケルン)で殺されるocciditur。
13:アッティティアヌスがその地位に置かれていた主計担当官の一団(派閥)はactuariorum factiones、軍隊exercitu内で勢力があり、それはやばいことを追求しても悪行がなし遂げられ得るほどだった;人間の中でこの種の連中はとりわけpraesertimこの時代において放埒でnequam、賄賂がききvenale、狡猾で、反逆的でseditiosum、所有に貪欲で、さらにはatque、諸犯罪をなしそして隠匿するについては、まるでquasi生まれつきそうであったかのようだった。(この種の連中は)穀物配給を支配していて、そしてそのためeoque生産物を管理する人びとや耕作者たちの幸せにとって有害で、都合よくin tempore[=33.3]これらの人びと(諸皇帝)に賄賂を使うことに精通しており、これらの人びと(諸皇帝)の愚行や窮乏damnumで財をかき集めていたのであった。
14:その間にinterim、ウィクトリアが息子のウィクトリヌスを失うとamisso、諸軍団から莫大な金でもって承認を得て、テトリクスを皇帝にした。その彼は、貴顕な家系の生まれで、属州長官職でpraesidatuアクイタニア人たちを治めていた。そして彼の息子テトリクスにも副帝の諸徽章がinsignia分け与えられる。
15:だがat、ローマに居たガリエヌスは、すべてが平和であると、国家の危機について無知な人びとに、邪悪にも(厚かましくも) improbe説いていた。今やetiam頻繁にcrebro、望んでいるように物事を創り出すのが世の常であるが、諸々の見せ物ludosと諸凱旋の祝典を、より一層抜かりなく見せかけて確かにされるように、挙行する。
16:しかし、危機が迫ってきてはじめて、(ガリエヌスは)ようやく首都(ローマ)をurbe発つ。
17:なぜならnamque、アウレオルスは、ラエティア(二州)のために諸軍団を管理していていたpraeessetが、皇帝権へと呼び寄せられた、いつものことだが、これほどの無気力なignavi将軍(ガリエヌス)の怠慢socordiaに刺激され、帝権を得ようとしてローマへと急行しつつあった。
18:彼をガリエヌスは橋の付近で、その橋は彼の名前からaureolusという名付けられているが、戦列で撃破された彼をメディオラヌム(現ミラノ)へと追い込んだ。
19:その都市を、彼(ガリエヌス)があらゆる種類の攻城兵器によって攻撃している間に、彼は身内(の部下たち)によって滅びたinteriit。
20:実際quippe、アウレオルスは、包囲の緩む望みがほとんどないと見て、ガリエヌスの軍司令官たちducumと将校たちtribunorumの名前を、あたかも彼(ガリエヌス)が殺害を決定したような(文書を)彼の策略astuで作成し、そしてその文書を城壁外へと、意図的にこっそりと投げ捨てた。その文書がたまたまforte(書類に)言及された者たちに発見され、死をexitii命じられた(という)恐れと(それが本当なのかという)疑念を引き起こさせたが、しかしながらverumそれら(の文書)が流出したのは、(ガリエヌス)の従者たちのministrorum不注意incuriaによるのだ、と(理解された)。
21:このため、アウレリアヌスの助言consilioによりーー彼(アウレリアヌス)の軍隊内での人望と名声は際立っていたのでーー、敵対者たちのhostium突入が偽装され、不意で危険な事態にはよくあることだが、護衛たちがstipatoribus誰一人守っていなかった(彼)を彼ら(敵対者たち)は天幕から真夜中に引きずり出した。そして一本の投げ槍telumで彼は刺し貫かれるtraicitur、(それが)一体誰のものだったのか暗闇のため確かめようもないのだが。
22:こうして、殺害necisの張本人たちを特定できなかったことにより、ないし、それというのは公共善のため起こった(ということで)、(この)斬殺caedesは罰を免れたのである。
23:にもかかわらずquamquam、諸道徳はそれほどまでに沈み込まされたわけであるprolapsi、(すなわち)国家よりも自分(の利害)のために、そして栄誉への熱意よりもより強大な統治権のために多くの人々が行動してしまうagantほどまでに。
 24:このためまた、同様に物と名の本質もが堕落し、しばしば破廉恥行為によってより強大になった者が、たとえ武力で征服して、専制を排除したところで、公的なものが毀損される(という事態を)もたらすのである。
25:むしろ今やquin etiam、かなり多くの人々が(ガリエヌスと)同等の性欲(を持っているにもかかわらず)天上の集団numerumに連れ帰られている、(彼らは実は)ようやくのこと葬列に値するだけなのだが。
26:誰かがもし、諸事績への信頼を妨害しなかったならば、ーー(その)信頼は、正直な者たちhonestosを記憶の報酬praemiumによってあざむかれたままにさせておかず、(そしてまた)邪悪な者たちimprobisに不朽かつ輝かしい名声をもたらすはずもないのだがーー、わだかまりなく武徳が追求されていたであろう。というのは、かの真実にして唯一の栄誉decusは、かのもっとも悪しき者(ガリエヌス)に対して各人の好意によって授けられていたからで、それは非道にも良き者たちから取り去られたdemptumものであった。
27:要するにdenique、ガリエヌスをクラウディウスによって元老院議員たちは神君と呼ぶことを強いられた、というのは彼(クラウディウス)は彼(ガリエヌス)の意向arbitoriumで帝権を得ていたからだ。
28:というのはnam、出血でそれほどにひどい傷で自分に死が差し迫っていることを彼(ガリエヌス)が悟った時、帝権の諸々の徽章insigniaをクラウディウスへと定めたからでdestinaverat、(その時、クラウディウスは)将校の顕職でTicinum(現パヴィア)攻撃軍を指揮するために留め置かれていたのだった。
29:それ(帝権)はたしかにsane(ガリエヌスから)もぎ取られたのだ、(というのも)ガリエヌスの数々の破廉恥行為は、(未来において)諸都市が存在する限りdum、隠し通されることはできず、また、誰であれ(未来において)最も邪悪な者であれば、常に彼と同様で類似した者とみなされるであろうからだ。   
30:とりわけ、(いずれ)死すべき運命にある元首たちや最高の人士たちは、人生の栄誉decusとして、なるべく名声を乞い求めでっち上げて、推測の限りではあるが天に近づくか、あるいは人々の評判によって神君として賞賛され(ようとす)るものだからである。
 31:だが、元老院はこのような死exitioが確知されるとcomperto、(ガリエヌスの)取り巻きどもsatellitesや親族たちをpropinquosque、ゲモニアの階段へとやみくもにpraeceps追い立てるagendosべしと決議し、(彼らは)元首金庫の保護者patronoque fisciによって、元老院議事堂内に連行され、両目をえぐり出されたことは、十分にsatis周知のことで、乱入してきた大衆vulgusは、同一の雄叫びで、大地母神と冥界の神々に対しても懇願した、不敬な諸座sedes impiasがガリエヌスに与えられますように、と。
32:そして、Claudiusがすみやかにメディオラヌム(現ミラノ)を奪還して、あたかも (降伏した)軍隊の要請であるかのように、彼らの中でたまたまforte生き残った者たちは容赦されるべきであると指示しpraecepissetなかったならば、(ミラノの)貴族や平民はplebesqueより残酷に猛威を振るったgrassarenturであろう。
33:そして、元老院議員たちをたしかにローマ世界共通の不利益以上に、彼(ガリエヌス)は固有の身分の侮辱contemeliaによって苦しめ続けていた。
34:というのも、はじめてprimus彼自身が、自らの怠慢の恐怖metuを、帝権が貴族たちの中で最も優れた者たちに移されることのないように、元老院が軍務に(奉職すること)を、そして軍隊が(元老院に)近づくことを禁止したからである。この者には、9年間の統治権potentiaがあった。

第34章
  1:しかしクラウディウスの帝権を、兵士たちは、一般的なfere(彼らの)本性に反して、絶望的な諸事実が正当に諸々の対処をするように駆り立てたので、あらゆるものが破滅にシンしているのを認識すると、熱心にavide賛同しかつ褒めそやした。その人物(クラウディウス)は諸々の苦難に耐え、そして公正かつacただただprorsus国家に献身的で、
2:実際quippe、長い中断から(共和政代の)デキウスたちの慣習を更新したのだった。
3:というのはnam、彼(クラウディウス)はゴート人たちを追い出すことを切望していたcuperetのだが、彼らを長い期間があまりに強固にし、かつacほとんどprope居住者たち(同然)にしてしまっていたのであるが、シビュラの書から伝承されていたのは、もっとも身分の高い第一人者が勝利に誓約されるべきvovendumということである。
4:それが誰であれcumque is 、彼(クラウディウス)自身が献げられるべきだったと見られたので、彼はむしろ自らそれを責務と心得て進み出た。彼は実際元老院のそしてすべての者たちの筆頭者princepsであった。
  5:こうしていかなる軍隊の損失もなしに、蛮人どもは追い払われfusi、そして撃退されたsummotiqueが、(それは)かの皇帝が生命を国家に奉納するべくdono委ねたdedit後のことだった。
  6:これほどに善き者たちには市民たちのcivium安全と長い彼らの記憶がより貴重なのである;それらは栄光にとってのみならず、ある程度はratione quadam子孫たち[彼の子孫と称したコンスタンティウス一族]の幸運にも役立つのである。
 7:その彼から、もしほんとうにコンスタンティウスとコンスタンティヌス、そのうえatque我らが諸皇帝[コンスタンティウス二世や(副帝)ユリアヌス]が(由来している)なら、・・・・・・そして・・・の体の・・・、それは兵士たちによって、諸特権の、あるいはseu 放縦の希望speでより一層受け入れられた。
8:その結果、勝利はみじめで、そしてより残忍だった、つまりdum、臣下にとってそれが常であるが、欲望を罰なしで犯すためには、弛緩した諸帝権(のほう)を有用なそれらよりもより都合いいので守ろうとするからである。

第35章
 1:しかもなおceterum、アウレリアヌスはこれほどの成功によってよりたくましくvehementior、すみやかにconfestim、あたかもquasi戦争のやり残しがあったかのように、ペルシア人たちの中に進んだprogressus est。
2:彼らを殲滅させdeletis、彼はイタリアへと戻ってきたrepetivit。そこの諸都市がurbesアラマンニ人たちの諸々の強奪vexationibus によって破滅に瀕していたaffligebanturからである。
 3:同時にsimul、ゲルマン人たちがガリアから駆逐されdimotis、テトリクスーー彼について、我々は上記で言及しておいたーーの諸軍団は、軍司令官自身(テトリクス)ipso duceが裏切者proditoreになって、粉砕されたcaesae。
4:なぜならnamque、テトリクスは、属州長官praesesファウスティヌスのたくらみでdolo、買収された兵士たちによってしばしば襲われたので、アウレリアヌスの庇護praesidiumを書簡で哀願していたimploraverat、そして彼(アウレリアヌス)が到着すると、戦列をacie見せかけで戦闘に出撃させ、自ら(はアウレリアヌスに投降して)委ねる。
5:こうして、指揮官rectoreなしだとありがちなことだが、混乱した諸隊列はordines制圧されoppressi sunt、彼自身は高慢なcelsum二年間の帝権の後、(捕虜として)凱旋式の中で行進させられ(たけれど)、(アウレリアヌスは彼を)ルカニアの監督官職correcturaに、そして(彼の)息子に恩赦veniamと元老院議員の顕職honoremを追綬したcooptavit。
6:かと思えばneque secus、首都の中で貨幣鋳造職人たちが殲滅されたdeleti、というのは、彼らは、首謀者フェリキッシムス、貨幣鋳造会計官rationaliと共に、貨幣の刻印を削り取っていた(量目をごまかしていた)ので、処罰への恐怖から、彼らは戦争を実施したが、以下のようにゆゆしき(事態)だった、彼らはコエリウムの丘に結集し、戦闘員bellatorumのほぼfere7000人を徴募したほどだった。 
7:これほどたくさんの、そして大きな功績を幸運にも行って、彼(アウレリアヌス)は、ローマに太陽神Solのために壮麗な聖域をfanumを築いた、それは豪華な奉納物で飾られていた。そのうえac、ガリエヌスに関して起こった事どもが決して生じないように、彼は、城壁で首都を可能なかぎり強固に外周をより広くして取り囲んだ。そして同時にsimulque、豚肉の利用を、ローマの平民に十分与えられるよう思慮深くかつ気前よく調達した、そして抹殺されたのは、財政上のそして告発者たちの乱訴でcalumniae、それらは首都を悲惨にしていたのだが、このような業務の諸書き板tabulisや諸記録monumentisqueを火で消滅し、そのうえatqueギリシアの慣習によって破棄が決議されたdecreta。それらの間に、貪欲avaritiam、公金横領peculatum、諸属州の略奪者たちを、軍人たちのやり方に反して、彼も彼らの集団numeroの出身だったが、法外なまでに追求した。
8:そのために、ある下僕のministriの悪事によって、その彼に秘密の職務を彼(皇帝)は任せていたのだが、彼(皇帝)は計略ではめられcircumventus、コエノフルリウムで亡くなったinteriit。かの者は諸略奪praedaeと違反の自覚があったので、巧妙に作成された書簡をtribuniたちに、あたかも好意からであるかのように委ねた、それらは彼らを殺害することをinterfici命じていた;彼ら(tribuniたち)はその恐怖で刺激されて、悪行をfacinusなし遂げたのだった。
 9:その間にinterea、兵士たちは、元首(アウレリアヌス)を失って、諸使節をlegatosただちにstatimローマへと向ける。それは、元老院議員たちが彼ら自身の判断で皇帝を選ぶためだった。  
10:彼ら(元老院議員たち)によって、それは汝らの自身の責務にmunusなかんずくふさわしいconveniretと答えたので、もう一度rursum諸軍団は彼ら(元老院議員たち)に委ねるreiciunt。
11:こうして、どちらも慎み深さと抑制によって張り合うことは、人々の武徳において類い希れでrara、とりわけpraesertimこのようなことについて、そのうえac 兵士たちにおいてはほとんどprope知られていない。
12:それほどまでに、かの人物(アウレリアヌス)は、厳格でそのうえ清廉なincorruptis諸手段でartibus影響力があったので、彼の殺害のnecisの<通知>nuntiusは首謀者たちにとってはauctoribus破滅exitioで、邪悪な者たちにとっては恐怖でmetui、おぼつかない人たちにとってもdubiis*同様でsimulata、最良の者各々にとっては憧憬で、誰にとっても傲慢や誇示ではなかった。そのうえatque今やetiam、あたかも彼にだけロムルスに(起きたような)空位期間が転がり込むのだから、はるかにまさに(他の誰よりも)より一層誇りに足るのである。
13:その事実は、とりわけpraecipue以下を徹底的に知らしめた、すべてはその中で円環のように回転する(だけで)、そして(新たなことなど)何も起ったりはしなかった、ということを。というのは、これに反し自然の力は時の機会をaevi spaioもたらすことはできないからである。
14:その上さらにadhuc、元首たちの武徳によって、物事は容易に復興できたり、ないし衰弱させられたりもし、そしてより強固な人々をもやみくもにpraeceps諸不品行に委ねるのである。

第36章
 1:かくしてigiturようやくtandem元老院は、アウレリアヌスの急死interitumn後およそcirtiter 6か月目に、タキトゥスを執政官格たちのうちから、たしかにsane温厚な男だったので、皇帝に選出するcreat。ほとんどあらゆる者にとってより喜ばしいのは、兵士の凶暴さferociaから元首を任命する法iusを領袖たちがproceres取りもどしたことだった。
2:(とはいえ)やはりtamenその喜びはlaetitia短くbrevis、結末はexitu我慢できるものではなかった。なぜならnamque、タキトゥスはすみやかにconfestim統治の200日目の昼luceにティアナで死んだからであるmortuo、その時やはりtamen(彼は死の)直前にアウレリアヌス殺害のnecis首謀者たち、そして殊にmaximeque、軍司令官ducemムカポールーー彼自身の一撃で(アウレリアヌスを)殺していたocciderat——、その彼を(タキトゥスが)拷問にかけてい(て死んだのだっ)た。同一人物の兄弟フロリアヌスは、元老院か兵士たちの決議consultoなしに、帝権を侵蝕したinvaserat。

第37章
 1:彼は一ヶ月ないし二ヶ月やっとのことで専制を掌握していたが、タルススで彼の配下の者たちにab suis殺害される。
2:それは彼らがプロブスをイリュリクムにおいてなされたことを受け入れた後のことで、(プロブスが)戦争に関する並はずれたexercitandisque知識(を持ち)、そして様々に兵士たちを訓練すること、新兵たちを鍛えることに関して第二のハンニバルも同然だったからである。
3: なぜならnamque、その者(ハンニバル)がオリーブの木々でアフリカの大部分を諸軍団を用いて(満たしたが)、諸軍団の余暇は国家やリーダーたちにductoribus疑われてしまうと考えてのことで、同じやり方で、この者(プロブス)は、ガリア、両パンノニアおよびモエシア人たちの諸々の岡をぶどう畑で満たしたからである。その後たしかに野蛮人たちの諸部族が疲弊させられたのであるが。その諸部族は、我らの元首たちが彼らの配下の者たちの悪事によってscelere 殺害されinterfectis、同時にsimul サトゥルニヌスがオリエンスで、アグリッピナ(現ケルン)でボノススが軍隊により粉砕されるとcaesis、闖入してきていたのだったirruperant;これに対してnam、(サトゥルニヌスとボノススの)両者とも専制を、軍事司令官たちが指揮していたmanu手勢を使って、試みていたのだったtenvaverant。このためqua causa、(プロブスは)すべてのことどもを受け入れreceptis、そして平和をもたらし、短時間でbrevi兵士たちは不用になってしまうだろうと言った、ということが暴露されたproditur。
4:このためhinc要するにdenique、より苛立った者たち(兵士たち)が、わずか6年以内にシルミウムで(プロブスを)惨殺した、それは貯水地と水路で彼自身の故郷の都市を干拓させることを強いられたからで、その都市は湿地帯にあって冬の雨水で損なわれているからであるcorrumpitur。
5:それ以来abhinc 軍隊の統治権potentiaは増強し、その上、元老院によって選出されるべきcreandique帝権や元首の法は、我々の記録にいたるまで引ったくられた、それを(元老院)それ自体が怠惰のために望んだのか、(軍隊への)恐怖によってか、あるいは(軍隊との)軋轢を嫌悪odioしてのことだったのかどうかは、不確かであるがincertum。
6:実際、ガリエヌスの勅令により失った(元老院議員の)軍務を回復することも可能となったであろう、タキトゥスが統治する時に、諸軍団が慎み深くmodeste (その支配を)甘受しておれば、そしてまたneque フロリアヌスが無謀にtemere(帝権を)侵蝕するinvasissetようなことをしなかったなら、あるいはaut (共和政代の規律正しい)歩兵中隊のmanipularium見識judicioでもって、帝権が、だれか良い人物に、(すなわち元老院議員という)最高位の amplissimo、その上それほどの身分の者が陣営内で過ごしていればdego、与えられたであろう。
7:しかしながらverum つまりdum、彼ら(元老院議員たち)は余暇を享受し、そして同時にsimulque富に十分注意を払い、その使い方と奢侈を不滅(の栄光)よりもより高く評価し(た結果、彼らは)、兵士たちや半野蛮人たちが、(元老院身分)自らとその子孫たちを支配するようになるべく、道を整えていたことになる。

第38章
 1:かくしてigitur、カルスは、近衛長官職の重職にあったが、正帝の衣をまとわされ、息子たちカリヌスとヌメリアヌスを副帝に(した)。
2:そしてそれゆえet quoniam プロブスの死が知られたので、蛮族の各々が好機とみてopportune(帝国国境を)侵蝕していたのでinvaserant、ガリアの防衛のためad muninentum長男を派遣し、(カルス自身は)ヌメリアヌスを随行してメソポタミアにすぐさまprotinus進んだpergit。というのもquod、そこがあたかもペルシア人たちとの恒常的な戦争(状態)にあったからである。
3:敵どもをhostibus敗走させた際、つまりdum、(カルスは)軽率にも栄光へより貪欲となり、パルティアの有名な首都[ク]テシフォンを越えてしまい、雷に打たれ炎上してしまった。
4:このことを、ある者たちは正当にも彼に起こったことだと記載している。というのもnam cum諸々の神託は、前述の町oppidumまでは勝利によって到達できると告げていたが、彼はより先に進んでしまい、罰を受けたpoenas luitからである。
5:こうしてproinde、(凡夫の常であるが)もろもろの宿命をfatalia逸らすのは厄介でarduum、そのためeoque未来の知らせも聞き流してしま(い勝ちになるものである)。
6:だがat、ヌメリアヌスは、父を失い、同時に戦争がなし終えられたconfectumと評価し、軍隊を撤退させようとしたとき、近衛長官で義父アペルの諸々の奸計によりinsidiis、彼は消されるexstinctis[3節でのカルスの「炎上」と対句で、ヌメリアヌスは「消火」されたと、言葉遊びか]。
 7:その機会をもたらしたのは、青年(ヌメリアヌス)の両眼の苦痛である。
 8:要するにdenique、長い間その(ヌメリアヌス殺害の)悪行facinusは秘匿されていた、つまりdum、輿で閉ざされ、死人を外見上病人のようにみせ、風で視力が損なわれないように(という口実で)、運ばれていたからである。 

第39章
 1:しかし、腐ってきた四肢の臭気で、悪事がscelus露見するproditumと、軍司令官と将校たちの助言により、警護兵たちを指揮しているウァレリウス・ディオクレティアヌスが、英知(に優れていた)ため選ばれるがdeligitur、彼はやはりtamenその諸々の(性格的な)特徴moribusによりmoribus気位の高いmagnus男であった。
2:実際quippe,彼は金を(織り込んだ)絹の衣服をもとめ、その上紫と貴石の力を靴下に熱望した、最初の人だった。
3:これらのことは、市民性を越えていて、そして思いあがった尊大な精神にもかかわらずquamquam、やはりtamenその他のことどもと比べれば軽微なことである。
4:なぜならnamque、彼はすべての人々のうち、自らをカリグラとドミティアヌスの後で、ご主人様と公然と言わせ、自らを神のごとく崇拝させ呼ばせることを受容した最初の人だったからである。
5:これらのことでもって、(ディオクレティアヌスの)本性がどうであれ、私は以下を確知するcompertum(自明であると考える)、最下層の者たちは誰であれ、殊にmaxime高みに上がった時、傲慢と野心によって抑制のきかない者となる、と。   
6:それゆえ、マリウスが父祖の記憶において(そうであったように)、それゆえかの者(ディオクレティアヌス)が我らの(記憶)において、(ローマ人)共通の振る舞いを超越してしまっており、つまりdum、統治権に関与したことのない精神は、あたかもtamquam飢餓から回復した者のように、飽くことを知らないのである。   
7:そのためquo、貴顕階級nobilitatiに大多数の者たちが傲慢を帰しているのは、私には不可解に思えるmirum videtur。貴族patriciaeの子孫のgentis諸々の煩わしさのmolestiarum思い出memorは、 (それで)悩まされている者にとって、特権のjuris避難場所 remedioとしてほんの少し際だたせて扱(ってほしいだけの)ことなのだが。

  8:しかしながら、ウァレリウスの中のこれ(傲慢)は、その他の長所で隠され、さらには彼自身しかしご主人様と呼ばれることを黙認し、父親として振る舞った。そして(彼が)十分に聡明な男である事は明白である、現状のうとましさを知らしめることを、(ご主人様という)名の凶悪さを妨ぐことよりも欲したことで。

  9:さしあたりinterimカリヌスは、起こったacciderant事どもについてより一層知らされ、より安易に起こっている動乱が平定の方向に向かっているという期待で、イリュリクムへと急いでイタリアを迂回して向かう。

10:そこでibi、彼(カリヌス)はユリアヌスを、彼の戦列を敗走させて討ち果たすobtruncat。なぜならnamque、彼(ユリアヌス)はウェネティ人たちに監督官職をcorrectura行使していたのでageret、カルスの死をmorte知り、 帝権をひったくることeripereを熱望し、到着した敵hosti(カリヌス)に向かって進んでいったのだった。        

11:だがat、カリヌスはモエシアに到達した際に、即刻illicoマルクス川Marcus(Margus)ちかくでディオクレティアヌスと交戦しcongressus、つまりdum敗残兵たちを貪欲にavide圧迫していて、配下の者たちの一撃でictu亡くなったinteriit。というのも、(彼は)情欲においてlibidine抑制がきかず、兵士たちの大多数(の女たち)を手に入れようとしたからである。彼女らの男たちはより一層敵対感を募らせていたが、やはりtamen憎しみと侮辱を、戦争の終結eventumまで先延ばししていたdisfulerantのであった。  

12:その(戦争への)不安が消え失せて(カリヌスは)より一層幸運となったので、このような(カリヌスの)本性がますますかの勝利によって放縦にならないように、彼ら(兵士たち)自身によって報復したultus。これがカルスと息子たちの最期である;(カルスは)ナルボが祖国で、二年間の帝権だった。

 13:かくして、ウァレリウス(ディオクレティアヌス)は、軍隊への最初の演説で、剣を抜き、太陽を見据えて、ヌメリアヌスの災難を知らず、また帝権を熱望していないと誓いを立てていた時、すぐ近くに立っていたアペルを一撃で一刺しする;彼(アペル)の策略によって、我々が先述している通り、若者(ヌメリアヌス)は善良で能弁で、(アペルの)婿であったが、滅びたからだった。

 14:その他の者たちには恩赦が与えられ、そして敵対者のほぼ全員と、特に突出した男、(すなわち)アリストブルスという名の近衛長官が、彼ら自身の職務に留め置かれたretenti。

 15:このことは、人間が記憶して以後、内戦で誰も資産fortunis、名声fama、地位dignitateを奪われなかったことなど、新奇でそのうえ驚くべきことだった。というのは、我々は、(事後処理が)非常に誠実にpieそして穏やかに行われ、追放、財産没収、かつ処刑suppliciisや斬殺caedibisに限度が設けられることを歓喜するからである。

 16:なぜ、私はそれらのことについて語るべきであろうか、多くの人々や外国人たちを仲間に引き入れ、ローマ法の恩恵の下で見守りまた促進することについて。

 17:なぜなら、彼(ディオクレティアヌス)が、カリヌスの(ガリアからの)出立によってdiscessu、ヘリアヌスとアマンドゥスがガリアで、住民たちがバガウダエと呼ぶ粗野な連中と盗賊たちの手勢により駆り立てられ、広範に荒らされていた地域において諸都市の多くを襲っているのを知ると、(ディオクレティアヌスは)直ちに、(彼との)友情に誠実なマクシミアヌスを、半分田舎者だったが、やはり軍務とそのうえ本性において優れていたので、皇帝に命じる。

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