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翻訳:ペルペトゥアとフェリキタスの殉教者行伝

 20年近く前に翻訳したものをアップする。邦訳としてはその時期にも教文館版(土岐正策訳、1990年)があったが、それが底本にしたH.Musurilloの英訳(1972年)には、とりわけ古代ローマ史に関する知識に問題があったこと、それ以上に、フェミニズム史学華やかりし頃、女性史関係の叢書の巻頭言部分で引用された邦訳の意味不明さに辟易したという体験から、より正確な邦訳を目指したわけである。
 なお、気が向けば、2001/5/13の日本西洋史学会大会古代史部門での口頭発表レジメを掲載するでしょう。

 この殉教者行伝に関する聖人伝としては、以下がある。
①「三月七日(2)聖女ペルペチユア殉教、聖女フエリシテ殉教、他四名の聖殉教者」シルベン・ブスケ『聖人物語 三月之巻』1912(明治45)年3月16日印刷[全12巻、聖若瑟教育院、1910(明治43)-1926(大正元)年]。
②「3月6日 フェリシタス、ペルペツア両聖女殉教者(Ss.Felicitas et Perpetua MM.)」光明社編『カトリック聖人傳』上巻、光明社、第三版、昭和38年(初版、昭和13年)、215-218頁。
③「167 聖サトゥルニヌス」ヤコブス・デ・ウォラギネ(前田敬作・山中知子訳)『黄金伝説』第4巻、人文書院、1987年、339-343頁(原著は13世紀半ばの著作)。

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『聖ペルペトゥアと聖フェリキタス殉教者行伝』Passio Sanctarum Perpetuae et Felicitatis

I (1)もし古い信仰の諸模範 exempla が、神の恵みを立証し人間形成に参与することで、そのため諸文書に書かれてきたとするならば、というのは、それらの朗読と出来事の描写によって、神はあがめられ人は強められるからだが、それならば、新しい諸文書が等しく両方の目的にふさわしく書かれないことがあろうか。というのは、同様にこれらもいつか古くなるであろうし、そして後代の人々に必要になるからである。古代性のほうが優先的に尊敬されるので、たとえそれらは、それが生じたその時代において、より小さな威厳しかないと見なされるのであるが。
(2)しかし、唯一の聖霊の力が virtutem、もろもろの時代の諸世代に(同じように働いていると)判断する人々は,以下のことを見るべきだろう。より大いなるものとは、より新しくそして最新(=最後)のものであるとみなされるべきである。なぜなら、恵みの豊かさ(噴出)は現世の最終の時期に定められているからである。
(3)「だが終わりの日々に」と主は仰せになる。「わたしはわたしの霊をすべての肉 carnem の上に注ぐ。すると、息子たちと娘たちは預言するであろう。そしてわたしの僕たちとはしためたちの上に、わたしはわたしの霊を注ごう。すると、若者たちは幻をみ、老人たちは夢をみるだろう」【行伝2.17-18:参照ヨエル23.1-2】。
(4)それゆえ、我々も、同じように約束された新しい預言と幻を承認してあがめ、聖霊の他の力をも教会の道具と見なすのである。そこにも同じものが派遣される。主は、あらゆる賜物を管理なさり、すべての人々におのおのに応じて分配なさる【エフェソ書簡4.7】。我らは、不可避的に順序正しく記入し、神の栄光のため朗読を言祝ぐ。それというのも、信仰の弱い人ないし懐疑の人が、殉教あるいは啓示への評価によって、ただ古人たちの場合だけのみに神の恵みが改宗をもたらした、と考えることがないためにである。常に主は、約束されたことを実行なさり、非信者たちには証しを【マルコ6.11】、信者たちには恵みを【ヨハネ3.36】お約束くださってきた。
(5)それゆえ我々もまた「聞き、かつ見、そして触れて」【ヨハネ第一書簡1.1】、そしてまた汝らに伝える【ヨハネ第一書簡1.3】。兄弟たちと幼子たちよ、というのは、あなた方の中で居合わせた人たちは主の栄光を思いだし、そしてそれをいま聞いて学んでいるのなら、聖なる殉教者たちと、また彼らを通して主イエス・キリストとの交わりを持つことができるからである、彼に光輝と誉れが代々に至るまで、アーメン【ヨハネ黙示録5.13】。

II (1)若い教理研究者たちが逮捕された。レヴォカトゥス Revocatus と彼の奴隷仲間フェリキタス Felicitas、それにサトゥルニヌス Saturninus とセクンドゥルス Secundulus である。彼らの中にヴィビア・ペルペトゥア Vibia Perpetua もいた。彼女は高貴な生まれで、自由教養諸学科の教育を受けており、結婚していた既婚婦人で、父と母、それに二人の兄弟 fratres が存命中であり、その1人は等しく教理研究者だった。そして両の乳房に乳飲み子の息子 filiorum infantem を抱いていた。とはいえ彼女自身はおよそ22歳だった。かの女は彼女の殉教のすべてを順に、続いてこれから(示すように)自ら物語った。いわば彼女の手で、そして彼女の意志で書き付けて残したのだった。

III (1)彼女は言った。「まだ、私たちが監視人 prosecutor たちとともにいて、そして私に父が言葉でもって改心させようと望んで、そして彼の愛情によって思いとどまらせるようにし続けた時、私は言います。『お父様、見えますか、たとえば、ここにある容器、水差し、ないしは他のものが』。そして彼は言いました。『見えるとも』。
(2)そこで私は彼に言いました。『それでは、それをそうである別の名前で呼ぶことはできるでしょうか?』。彼は答えた『できない』。『それでは私はキリスト教徒ですから、私であるものとは違う、別のもので呼ばれることはできないのです』。その時、父はこの言葉に怒って、私から両目を抜き取る勢いで、私に向かって詰め寄ってきました。しかしただ悲しみに打ちひしがれ、立ち去りました。悪魔の狡猾さを持っていたのですが、うち負かされたのです。
(3)その後、数日、私は父に煩わされずにいましたので、私は主に感謝しました。そして彼の不在で私はくつろげました。わずかな日々のまさしくこの期間に、私たちは洗礼を受けました、そして私に聖霊が話しかけました。『洗礼ののちは、ただ肉の忍耐以外のなにも期待すべからず』。数日後、私たちは牢獄に収監されました。そして私はびっくりしました。というのは、私はこんな暗闇をまったく体験したことがなかったからです。
(4)なんとひどい日だったことか! 大勢の人いきれによる大変な暑さ、軍隊の職権乱用。最後に、そこにいた乳飲み子の心配で私は苦しめられたのです。その時、テルティウス Tertius さんとポムポニウス Pomponius さん、祝福された執事さんたちが、私たちの世話をしておられたのですが、こころ付けを用立ててくださいました。というのは、わずかな時間でも、牢獄のよりよい空間に移って、私たちがくつろげるようにと。
(5)その時、全員が牢獄から出て、自由になれたのです。私はすでに絶食で衰弱していた乳飲み子に授乳しました。彼のことが心配で、私は母に話しかけ、そして兄弟を fratrem 勇気づけ、息子を委ねたのでした。私はそのため憔悴していました。というのは、私のために彼らが憔悴しているのを私が見ていたからです。
(6)このようなもろもろの心配に幾日も私は耐えました。そして私と共に乳飲み子が獄中で過ごせるようにと願い出て、そしてすぐさま私は元気になりました。そして私は乳飲み子のための心痛と心配から解放されました。そして私にとって牢獄は突然軍団司令本部 praetorium となりました。というのは私はどこよりもそこにいることを好むようになったのです。

IV (1)その時、私の兄弟が私に言いました。『主において姉妹よ、もう大きな地位に dignitas あるのだから、幻を求めたらどうですか、受難するのか、一休みできるのかが、あなたに示されるでしょう』。そして私は主との語らいを会得し、彼の大きな恵みを体験していましたので、確信をもって彼に約束して、こういいました。『明日、あなたに伝えるでしょう』。
(2)そして私が求めたところ、私に次のことが示されました。私はとても巨大な青銅のはしごをみています。それは天へと伸び、そして幅が狭いので一人づつしか登れません。そしてはしごの両脇にはあらゆる種類の鉄器具類が打ち込まれていました。
(3)そこには、剣、やり、鈎(かぎ)、短剣がありましたので、もしだれであれ無造作に、または上の方に気をつけずに登ろうとしたならば、彼は引き裂かれ、彼の肉は鉄器具類に刺さってしまうでしょう。そして、はしごのすぐ下には(一匹の)龍が横たわっていました。とても巨大でして、それは登っていこうとする人々を待ち伏せて、立ちはだかり、また彼らが登ってこれないように追い払ってました。しかしサトゥルス Saturus さんが先に登っていきました。彼はあとから私たちのために自発的に自らを(官憲に)委ねたのでした。というのは、彼自身は私たちを教導してくださっていたのですが、私たちが連行された時に、たまたまその場にいなかったのです。
(4)そして彼ははしごのてっぺんに着くと、振り返り私に言いました。『ペルペトゥアよ、私があなたを守りますから。でも、あの龍があなたに噛みつかないように注意しなさい』。そして私は言いました。『龍は私を傷つけないでしょう、イエス・キリストの名において』。そして龍ははしごのすぐ下で、私を恐れているように静かに頭を投げ出していました。そしてまるで最初の階段を踏みつけるかのように、私はその頭を踏みつけました。
(5)そして私は登っていき、そして見たのです、無限の広さの庭を。そしてその中に白髪の男性が座っていましたが、彼は牧者の衣装を身につけ、大変大柄で、羊たちの乳を搾ってました。そしてまわりに(白い衣装の)志願者たちが何千といました。そして彼は頭を起こし、私に言いました。『よくやってきましたね、子供よ tegnon(gr.)』。そして彼は私に大声で呼びかけ、そして彼が搾りたて(のミルク)で作ったチーズから、私に一口ほどくださいました。そして私は両手を重ねて頂戴し、そして食しました、そして回りにいたすべての人々が言いました。『アーメン』。
(6)そして私は騒がしい声で目覚めたのです。今まで未知だった甘い味を飲み込みながら。そしてすぐに私の兄弟に話しました。そして私たちは来るべき受難を理解したのです。そして私たちはもはや現世にはなんの希望も持たなくなりました。

V(1)しばらく日にちが過ぎて、尋問が行われるという噂が広まりました。しかし私の父が都市からde civitate やって来ました。彼は苦悩で消耗し、そして私を転向させようと、私へと登ってきて ascendit ad me 言いました。『哀れんでおくれ、娘よ、私の白髪を! 父を哀れんでくれ、もし私がお前によって父と呼ばれるのに値するなら。もしお前をこの手ずからこの歳の花盛りまで私が導いてきたなら。もしお前をお前のすべての兄弟たちよりも私が上に置いてきたなら! 私を人々の恥辱の中に委ねないでおくれ! お前の息子のことを考えなさい。あれはお前のあと生きることはできないだろう! 強情を張るものではない。私たちすべてを破滅さないでくれ! わしらのだれも、自由に話しかけられはしないだろう、もしお前がそんなことを甘受しようものなら』。
(2)これらのことを彼は言ったのでした、父がその慈愛のために言うように。彼は私の片手に接吻し、そして私の両足に自らを投げ出し、そして私を涙ながらに娘ではなく婦人と呼んだのでした。
(3)そして私は私の父の問題で悩みました。なぜなら彼一人が私の全一門の中で私の受難を喜んでいなかったからです。そして私は彼を力づけて言いました。『このことは、あの台の中でも生じるでしょう。というのは神がお望みになられたであろうからです。いつか分かってください、確かに私たちは私たちの権力の中にではなく、神の中にあるべき存在なのです!』。そして彼は私から去っていきました、悲しみながら。

VI (1)別の日に私たちが朝食をとっていると、私たちは突然引き裂かれました。それは私たちが尋問されるためでした。そして私たちは広場に ad forum つきました。噂はただちに広場の近くの地域に広まり、そして大勢の民衆がやってきました。私たちは台に上りました。尋問されてほかの人々が告白しました。そして私の番になりました。そして父がその場に私の息子と現れ、そして階段から私を引きずりだし、嘆願したのです。『乳飲み子を哀れんでくれ!』と。
(2)そして、管理官 procurator のヒラリアヌス Hilarianus は、そのとき属州総督 proconsul で死去したミヌキウス・ティミニアヌス Minucius Timinianus の座にいて死刑執行権 ius gladii を拝命していたのです。彼がこう言います。『おまえの父の白髪を大切にしなさい! 乳飲み子の男の子を大切にしなさい! 諸皇帝の健康のために犠牲を行いなさい!』。そして私は答えました、『いたしません』と。
(3)ヒラリアヌスは言います。『お前はキリスト教徒か?』。そして私は答えました。『キリスト教徒です』。そして父は私を転向させようとしつこかったので、ヒラリアヌスによって引きずりおろせと命令されました。そして……彼はむちで痛めつけました。私の父のできごとは私を悲しませました、まるで私がむち打ちされたように、こうして私は彼の哀れな白髪のために悲しみました。
(4)そのとき、彼は私たち全員に判決を下し、そして野獣刑を宣告しました。そして私たちは晴れ晴れと牢獄に降りていきました、そのとき、乳飲み子は私から両の乳房を含み、私とともに牢獄にいることになっていたので、ただちに父のもとへ助祭のポムポニウスさんを乳飲み子を求めて送りました。しかし、父はそうしませんでした。そしてそれは神が望んだことだったのです。彼は以前よりは両の乳房を慕わなくなっていて、それらも私にいらだちをなさなくなっていたのです。私は、乳飲み子の不安も両の乳房の痛みにも苦しまなくなっていたのです。

VII (1)その後、数日して、私たち全員で祈ってますと、突然祈りの最中に私から声が出てきたのです。そして私はディノクラテス Dinocrates の名前を呼んだのです。そして私は唖然としました。というのは、決してそれはその時以外に私の心に浮かばなかったからです。そして私は苦しみました。彼の死を思い出したからです。そしてすぐに、私がふさわしくそして彼のためにそうせねばならない、と気づきました。そして私は彼自身のためにしばしば祈りをし、そして主に対してうめき ingemescere 始めたのでした。
(2)ただちにその夜、私に以下が示されました。私はディノクラテスが暗い場所からでてきたのを見ました。そしてそこには多くの人たちがいました。彼は大変に暑がりそしてのどが渇いていて、顔つきが汚くそして顔色は青ざめていました。そして彼の顔面には傷がありました。彼が死んだときそれを持ってました。このディノクラテスは私の肉の上での兄弟で、7歳でしたが、彼は病弱のため顔面の腫瘍が悪化して死んでいたのでした。そのために彼の死はすべての人々によって嫌悪されたのです。
(3)この彼のために私は祈祷oratio をしたのです。そして私と彼との間にはかなり距離がありました。そのため私たちはおたがい相互に接近できないほどでした。さらに、ディノクラテスがいたその同じ場所に水をたたえた水槽がありました。それは子供の身長よりも高い縁を持っていました。そしてディノクラテスは飲もうとするかのように背伸びしました。
(4)私は悲しみました。というのは、その水槽には水があったのですが、でも縁の高さのために彼は飲めなかったからです。そして私は目が覚めました。そして私の兄弟が窮していることを知りました。しかし私は、彼の苦労に私が役立つであろうことを信じていました。そして私は彼のために毎日祈りました。それは、私たちが兵営の牢獄にいくまでのことでした。というのは、兵営の余興(見せ物) munura castrensia で私たちは戦わされることになっていたのです。そのとき、副帝ゲタの誕生日に。そして私は彼のために昼も夜も祈りました。うめき、涙を流し、それが私に許されるようにと。

VIII (1)私たちが【自殺防止用拘禁具の】革ひもで過ごした日に、私に以下が示されました。私は、私が以前見ていたあの場所を見ています。そしてディノクラテスを。(彼は)清潔な身体で、よい衣服を着て、くつろいでいます。そして傷があったところに、私は痕跡を見ます。そして以前私が見たあの水槽も、子供のおへそほどに縁が低くなっています。そして水がそこから絶え間なく流れ落ちていたのです。そして、縁の上には水でいっぱいの黄金のfiala(gr.:jialh:平鉢)があります。そしてディノクラテスは近づき、そしてそれから飲み始めました、その平鉢はけっして尽きることがありませんでした、そして彼は水を堪能し、子供たちがよくやるように水で遊びはじめました。彼は喜んでいます。そして私は目覚めたのです。そのとき、彼が罰から移り出たことを私は悟ったのでした。

IX (1)ついでしばしの日々の後、百人隊長補佐 optio の軍人プデンスPudens、彼は監獄長 praepositus carceris だったのですが、彼が私たちをあがめ始めたのです。私たちの中に大きな力を悟ったようです。彼は多くの人々が私たちに(接見することを)許可しました。それで私たちと彼らは相互にくつろいだのでした。
(2)ところで、見せ物の日にちが近づいたので、私の父が私のところに入ってきます。心労で消耗して。そして彼は彼のあごひげをむしり取り、そして地面に投げつけ始めました。そして自ら顔面を打ち据え、そして彼の歳に不平をいい、そしてあらゆる被造物を揺り動かすであろうような多くの言葉を語りました。私は彼の不幸な老年のため悩みました。

X (1)私たちが戦うはずの前日に、私は幻の中で in horomate(cf., gr.:ヤora ォw)以下を見ます。執事のポムポニウスさんが、牢獄の入り口にやってきて、そして激しく叩きます。そして私は彼の方に行き、それを開けました。彼は帯なしの白衣を着ていました。それには多くの玉飾りがついています。そして彼は私に言いました。『ペルペトゥアよ、私たちはあなたに期待してます。お出でなさい!』。そして彼は私の手をとりました。そして私たちはでこぼこの、そして曲がりくねった場所を通って歩き始めました。
(2)やっとのことでついに、私たちはあえぎながら円形闘技場へ ad amphitheatrum つきました。そして、彼は私をアレーナの中央に導き入れ、そして私に言いました。『おびえてはなりません! ここに私はあなたと共にいて、そしてあなたと共に一緒に働きます』。そして彼は立ち去りました。そして私は大観衆を見つめます。彼らは熱狂していました。そして私には野獣に定められていることが分かっていましたので、私は不思議に思いました、なぜ野獣たちが私に放たれないのかと。
(3)そして私に対してエジプト人が出てきたのです。ものすごい形相で、助手たちを伴って cum adiutoribus、私と戦うために。そして私には美しい青年たちが現れました。私の助手たちそして世話係たち fautores です。そして私は(衣服を)奪い去られ、そして男になりました facta sum masculus。そして世話係たちは私をオイルで磨き始めました。そうするのが競技では in agonem 習慣だったのです。そして私が見ると、それに対しかのエジプト人は土ぼこりの中を in afa 転がり回っています。
(4)そしてとても巨大なある人物が出てきたのでした。たしかに彼は円形闘技場の天井のてっぺんを突き出るほどで、帯なしでした。彼は、2つの縁飾りclavus の間から胸の真ん中で紫衣を(みせて)着ていて、そして金と銀でできた多くの玉飾りもつけていました。そして彼は帯同していたのです、剣術師範の lanista 鞭のようなものと緑の枝を。その中に黄金のリンゴpl.がありました。
(5)そして彼は静粛を要求し、言いました。『このエジプト人は、もしこの者(女性形)に勝てば、この者を剣で殺すだろう。そして、もし彼女が彼に勝てば、彼女はかの緑(の枝)を得るだろう』。そして彼は去りました。そして私たちは相互に接近し、そして私たちは両拳を放ち始めました。彼は私の両足をつかもうとしました。他方で私は彼の顔面を(両方の)かかとで打ちました。
(6)そして私は空中に持ち上げられ、そして私はほとんど地面を踏むことなく、彼を打ち始めました。でも、時間がかかりそうだと見てとった私は、両手を組みました。指pl.の中に指pl.をつっ込んでそうしたのです。そして彼の頭をとらえようとしたのです。そして彼は顔面から倒れました。そして私は彼の頭を踏みつけたのです。そして人々は歓呼し始めました。そして私の世話係たちは詩篇を歌い始め、そして私は剣術師範に近づき、緑(の枝)を受け取りました。
(7)そして彼は私に接吻し、そして私に言いました。『娘よ、汝とともに平安あれ』。そして私は栄光とともに勝利者の門へと portam Sanavivariam 向かい始めました。そして私は目覚めました。そして理解したのでした、私は野獣とではなく悪魔に対してこそ戦おうとしていることを。しかし私が勝利することも分かりました。こうして見せ物の前日にいたるまで私は過ごしました。さらに見せ物そのものの実際については、もし誰かが欲すれば、その人が書くでしょう。」

XI (1)ところで、そして祝福されたサトゥルスは彼自身の以下の幻を述べた。それを彼自身が記したのだった。彼は言った、「私たちは受難しました。そして私たちは肉から離れました。そして私たちは4人の天使によって東に運ばれ始めました。彼らの手は私たちに触れていませんでした。私たちはしかし、後ろ向きにねじられて垂直に上の方にではなく、まるでおだやかな丘陵を登るように(運ばれたの)でした。
(2)そしてこの世を離脱すると最初に私たちは無限の光を見ました。そして私はペルペトゥアに言いました。というのはこの人は私の傍らにいたからです。『これこそ、私たちに神が約束されていたものです。私たちは約束を受け取りました』。そして私たちが4人の天使たち自身によって運ばれている間に、私たちに広い空間が示されました。そこはまるで庭園のようで、バラの樹木やあらゆる種類の花々がありました。樹木の高さは糸杉ほどもありました。それらの葉っぱが絶え間なく降下していました。
(3)ついでさらに、庭園の中に別の4人の天使たちがいました。彼らは他よりもより輝いていました。彼らが私たちを見た時、彼らは私たちをうやうやしく迎え、そして他の天使たちに言いました、感嘆を込めて。『ほら、彼らですよ! ほら、彼らですよ!』。
(4)そして、その4人の天使たち、すなわち私たちを運んでいた天使たちは畏れかしこんで、私たちを下に置きました、そして私たちは私たちの足で広い道を競技場へと stadium 移動しました。私たちはイオクンドゥス Iocundum、サトゥルニヌス Saturninum そしてアルタクシウス Artaxium に会いました。彼らは同じ迫害で生きながら燃えたのでした。そしてクイントゥス Quintum にも。彼自身は獄中で殉教者として旅立ったのですが、私たちは彼らに尋ねました。他の人たちはどこにいるのですか、と。天使たちは私たちにいいました。『まずおいでなさい、入りなさい。そして主にご挨拶なさい!』。

XII (1)そして私たちはその場所の近くに行きました。その場所の壁は次のようでありました。まるで光で作られたもののようで、そしてその場所の入り口の前に、4人の天使たちが立っておりました。彼らは入ってくる人々に白のストラを着せていました。そして私たちは入りました。そして次のように斉唱している声を聞きました。『聖なるかなagios、聖なるかな、聖なるかな』と、絶え間なく。
(2)そして私たちは、その同じ場所の中に座っているまるで白髪の人を見ました。彼は真っ白な頭髪を持っています。そして若者の顔つきです。彼の両足を私たちは見ませんでした。そして右と左に4人の老人たち、そして彼らの後ろには別の多くの老人たちが立っていました。
(3)そして私たちは入ったのですが、感嘆しながら玉座の前に立ちました。そして4人の天使たちが私たちを持ち上げ、そして私たちは彼に接吻しました。そして彼は、彼の片手を私たちへと(差し出し)顔をお向けになりました。そして別の老人たちは私たちに言いました。『立ちましょう!』。
(4)そして私たちは立ち、そして平和(の接吻)をしました。そして老人たちは私たちに言いました。『あなたは行きなさい、そして楽しみなさい』。そして私はペルペトゥアに言いました。『あなたの望みはかなえられましたね』。そして彼女は私に言いました。『神に感謝! 私は肉においても晴れやかでしたが、ここでこのようにより一層晴れやかです』。

XIII (1)そして私たちは出ました、そして私たちは扉の前に司教オプタトゥス Optatus さまが右に、教師役の司祭アスパシウス Aspasius さまが左にいるのを見ました。彼らは別々でそして意気消沈してました。そして彼らは私たちの足もとに身を投げ、そして言いました。『私たちを調停してください。なぜならあなたたちは出ていっていまったのです、私たちを残したまま』。そして私たちは彼らに言いました。『あなたは私たちのパパさんであり、あなたは長老ではないのですか。どうしてあなた達が私たちの足もとに身を投げるのですか』。そして私たちは心を動かされ、そして彼らを抱擁しました。
(2)そしてペルペトゥアはギリシア語で彼らとしゃべり出しました。そして私たちは彼らを庭園の中のバラの樹木の下に別々に連れて行きました。そして私たちが彼らと話していますと、天使たちがあの人たちに言いました。『彼らを放ってあげなさい! 彼らはくつろぐべきでしょう! そしてもしあなた達があなた達の中で何らかの不一致をもっているのなら、あなた達相互で解決なさい!』。そして彼らはそれら(の言葉)で当惑しました。
(3)そして彼らはオプタトゥスさまに言いました。『あなたの平信徒を正しなさい。というのは彼らはあなたのところへ、まるで競技場から de circo 帰ってきたかのように、そして党派で張り合っているかのように、集まってくるのですから』。そして私たちには、まるで彼らが門を閉鎖しようと望んでいるかのように見えました。そして私たちはそこに多くの兄弟たち(がいる)こと、しかも殉教者たちだということに気づき始めました。私たちは全員名状しがた香りで強められました。それは私たちを満足させました。その時、私は喜びに満たされて目覚めたのでした」。

XIV これらきわめて顕著な幻視こそ、サトゥルスとペルペトゥア、至福なる殉教者たち自身のものであり、それらを彼らが自分で書き付けた。セクンドゥルスをだが神はより早めに現世から、それゆえ獄中からの出立で召還された。これも恩恵であった。彼が野獣たちに与えられないようにとの。とはいえ、魂ではないにせよとにかく彼の肉は、剣を認識したわけである。

XV (1)フェリキタスについては、実に(以下のようなことだった)。そして彼女に主の恵みがこのように到達した。彼女はすでに8ヶ月のお腹だったので、つまり彼女は妊娠していて捕らえられたのだったが、見せ物の日が目前に迫り、彼女はおおいに悲しんでいた。お腹のために彼女は別にされてしまうのではないかと。というのは妊娠している者は(出産まで刑の)執行が許されないからである。そして他の冒涜的な人たちの中で、後から彼女が聖なるそして高潔な血を流すことになるのでは、と。
(2)しかし仲間の殉教者たちも真剣に悲しんでいた。同志のごときよき仲間を同じ希望の道に一人で残こすことになるのかと。そこでひとつに結ばれて、見せ物の日の三日前に主に祈ってうめいたのだった。祈りの後に直ちに陣痛が始まった。
(3)そして8ヶ月だったので当然困難で、彼女は出産において難儀して苦しんでいた時に、彼女に落とし格子の役人のある者が quidam ex ministris cataractariorum、言う。「この程度で苦しんでいて、獣たちに向かい合ったらどうするつもりだ。あんたは犠牲を捧げることを拒否した時は、屁とも思っていなかったらしいが!」。そして彼女は答える。「今私が苦しんでいるのは、私(一人)が苦しんでいるからです。でも、そこでは他の人が私の中にいらっしゃるでしょう。彼は私のために苦しんでくださるでしょう。なぜなら私は彼のために受難しようとしているのですから」。こうして彼女は一人の娘を生んだ。それをある姉妹が自分の娘として教育した educauit。

XVI (1)聖霊は、見世物の顛末を書き記すことを許し給うた。そして許し給うたということは、書き記すことを望まれたということである。そこで、私たちはこのような大きな栄光につつまれた物語に何事かを付け加えるにふさわしい者ではないが、あたかもいと聖なるペルペトゥアの命令、というよりは彼女が私たちに託した遺言のように考えてこれを実行し、ペルペトゥアの毅然とした態度と崇高な精神の一例をつけ加えよう。
(2)愚かな人々が密告したため、副官 tribunus は、殉教者たちがある種の魔術で牢獄から連れ去られるのを恐れて、殉教者たちの監視と制限をこれまで以上に厳しくした。この時、ペルペトゥアは副官に向かって抗議した。「一体どうして私たちがくつろぐのを許して下さらないのですか。私たちはもっとも重要な罪人、つまり副帝の罪人で、副帝の誕生日に(獣と)戦うことになっていますのに。それとも、私たちがもっと太った姿でそこに引き出されたら、あなたの不名誉になるのですか」。副官は恐れ恥じて、殉教者たちをもっと人間らしく取り扱うようにと命じた。その結果、ペルペトゥアの兄弟たちや他の人々が訪れて、殉教者たちと一緒に食事することが許された。この頃までに、監獄の百人隊長補佐その人もキリスト教徒になっていた。

XVII そしてその翌日、彼らが「自由の食事libera」 と呼ぶあの最後の食事を、彼ら自身の中では自由の食事ではなく「アガペ」(愛餐)として agapem であったが、摂ったとき、彼らはおなじ確固不動さで人々にむけて以下の言葉を繰り返し述べ、神の裁きがあると警告し comminantes、彼らの受難は恵みであると確証し、民衆の好奇心をあざ笑った。サトゥルスは言った。「明日で十分ではないのですか、あなた達には。今日の友は明日の敵。しかしあなた達のために私たちの顔をしっかりと憶えておくがいい。私たちをその日思い出せるように!」。このため、すべての人々は驚嘆して退去したのだった。彼らのうちで多くの者が信じた。

XVIII (1)彼らの勝利の日が明けた。そして彼らは牢獄からあたかも天へいくように円形闘技場の中へと in amphitheatrum 前進した。晴れやかな優美な表情で。もし(震えていたとしても、それは)おそらく、喜びによって奮えていたのであって、決して恐怖からではない。ペルペトゥアは光り輝く表情で、そして穏和な足取りで後に従っていた。キリストの妻として、神のしとやかな娘として、両眼の活力で彼女はすべての人々の視線をなぎ倒していた。
(2)同じくフェリキタスは喜んだ、野獣たちと戦うために健康を手に入れたことを。そして血から血へ、産婆から三叉剣闘士 retiarius へ、出産の後に第二の洗礼で洗われることを(喜んだ)。そして彼らは門の中につれていかれ、そして衣装、男はサトゥルヌス神の神官たちの sacerdotum Saturni、女性はケレス女神の聖女たちの sacratarum Cereris それを着るのを強要されたとき、気高い彼女は最後まで断固として抵抗した。
(3)なぜなら彼女は言った。「今まで自発的に私たちがこのような目にあっているのは、私たちの自由を閉じこめないためだったはずです。だから、私たちの魂を私たちが委ねたのは、このようなことを多少でも行いたくなかったからだったはずです。これについてはあなた達も(意見が)一致していました」。不正義が正義を容認した。副官は屈した。そのままで、彼らはそのまま導き入れられたのだった! ペルペトゥアは詩篇を歌った。すでにエジプト人の頭を踏みつけているのだ。
(4)レヴォカートゥスとサトゥルニヌスとサトゥルスは見物の民衆に警告した。そのあと、ヒラリアヌスの視野の下に彼らが達するやいなや、身振りと手振りで彼らはヒラリアヌスに語り始めた。「あなたは私たちを(裁いたが)」、彼らは話した、「だが神はあなたを(裁くだろう)」。これで民衆は激昂し、並んだ闘獣士たちの venatorum 鞭で彼らが虐待されることを渇望した。そしてとにかく彼らは感謝した。それで多少とも主の諸受難に従えたからである。

XIX (1)しかし、「求めよ、さらば与えられん」と述べた方は、求める人々おのおのに彼が熱望してきたところのご自分の成果を与えてこられた。たしかに、もし彼らの中で殉教に関する彼らの願望をしゃべった時、サトゥルニヌスはすべての野獣に自分が差し出されることを要求すると公言していた。なぜなら、当然より大いなる栄光の冠を彼は得れるだろうから、と。
(2)そこで見せ物の始めに、その彼とレヴォカトゥスは、一匹の豹(ひょう)を体験させられ、さらにまた舞台の上で一匹の牡熊から虐待された。
(3)しかしサトゥルスは、もっとも牡熊を嫌っていたので、むしろ豹のひと噛みで自分がかみ砕かれることを以前から期待していた。このようにして、彼が一匹の牡猪の下に運ばれた時に、彼を牡猪にしっかり縛り付けるようとしていた一人の闘獣士 venator が、むしろその野獣によって下から突き上げられて、余興の数日後に死んだ。サトゥルスはまったくただ引きずられただけだった。そして一匹の牡熊に彼が橋の上でしっかり結ばれてしまった時も、その牡熊は檻から出てこようとしなかった。そこで、二度、サトゥルスは無傷で戻らされた。

XX (1)しかしながら、悪魔は娘たちにはきわめて凶暴な雌牛を準備した。そしてそれは準拠すべき慣習法に反しているのだが、彼は獣のかの性にすら嫉妬するのである。こうして、彼女たちは(衣服を)はぎ取られ、そして網をかぶせられて引き出された。市民たちは戦慄した。一方がしとやかな娘であり、一方が出産直後で両の乳房から(乳が)滴っているのを観察したからである。それで彼女たちは連れ戻され、そして帯なし(の衣服)を着せられた。
(2)最初にペルペトゥアが投げ倒され、そして腰まわりを切り裂かれた。そして彼女は座り直すやいなや、脇が引き裂かれたチュニカを太ももを覆うため引き戻した。苦痛のためというよりも恥じらいをより一層感じたからである。その後、彼女はピンがなくなったのに気づき、そして乱れた頭髪を留め金で縛った。というのは彼女は髪を振り乱して殉教を受け入れてはならない、彼女の栄光にあって嘆き悲しんでいると見られてはならない、と考えたからである。このようにして彼女は立ち上がり、そしてうち倒されたフェリキタスを見つけた時、彼女は近づきそして彼女に手を差し伸べ、そして彼女を立たせたのだった。
(3)そして彼女たちは二人ともいっしょに立ち上がった。そして民衆の冷淡さはうち負かされ、彼女たちは勝利者の門に ad portam Sanavivariam 呼び戻された。そこでペルペトゥアは、ある、名前をルスティクス Rusticus といい彼女にくっついていた教理研究者に支えられ、そしてあたかも眠りから覚めたかのように──その時まで彼女は聖霊の中に、そして恍惚状態にあったのだった──、周りを見回し始めた。そしてすべての人々が驚いたことに、彼女は言うのである。「いつ」と彼女は尋ねる。「私たちはあの雌牛へと連れ出されるのでしょうか。それを私は知りません」。
(4)そして、彼女は何がすでに起こったかを聞いたときにも、虐待の印を彼女の体や服装に認める前には信じなかった。そこで、呼び寄せられた彼女の兄弟と acccersitum fratrem suum、かの教理研究者を励まして、言う。「信仰を守り、そしてみな互いを尊重しなさい! そして、私たちの受難につまずいてはなりません!」

XXI (1)同様にサトゥルスは別の門のところで兵士プデンスを鼓舞して言う。「要するに」、彼は話す。「たしかに、私が期待し前もって言ったように、私はいまだ一頭たりとも野獣を経験していない。そして今こそ、こころから信じなさい! 見て下さい、私はあちらに進み出て、そして豹のひと噛みで殺されますから。」
(2)そしてただちに見せ物の最後に豹に投げ出され、ただのひと噛みで血で染められた。それで民衆は、戻ってくる彼に第2の洗礼を証しして何度も叫んだのだった。「いい湯加減 Saluum lotum! いい湯加減!」。たしかにとにかく彼は救済されたのだった。このように(血で)入浴したことで。その時、彼は兵士プデンスに言う。「さようなら!」、そして言う。「私の信仰を覚えておいてほしい。そしてこれらのことがあなたを混乱させずに、むしろ強めますように」。
(3)そして同時に指輪を彼の指から求め、そして自分の傷に漬けられた形見を彼に戻し、こうして彼に血の証拠と記憶を残した。それからすぐに気を失い、他の者たちとともに刺殺されるのが常の場所に投げ捨てられた。そして民衆が彼らを真ん中に求めたとき、というのは彼らが彼ら(殉教者たち)の体の中に剣が入るのを彼らの目でみて殺害の仲間となるためだったが、自発的に彼らは起きあがった。そして民衆が望んだそこに彼らは移動した。その前に相互に接吻した。こうして彼らは殉教を平和の儀式によって完成した。
(4)他の人々もたしかに微動だにせず、そして沈黙と共に匕首(あいくち)を受け入れたのだが、すごかったのはサトゥルスで、まっさきに(梯子を)登ったように、まっさきに霊を(天に)返し、こうしてペルペトゥアを待つこととなった。ペルペトゥアはだが別の苦痛を享受せねばならなず、肋骨の間を差し貫かれ叫び声をあげた。そして新米の剣闘士の gladiatoris 戸惑っている右手を自分で自分ののどに運んだ。おそらく、汚れた霊によって恐れられたこれほどの女性は、自ら望まない限りは殺されることはなかったであろう。
(5)おお、もっとも勇気あるそしてもっとも祝福された殉教者たちよ! おお、真に我らの主イエス・キリストの栄光の中への招待者たち、そして選ばれた人たちよ! (彼の栄光)を賞賛し、そして尊敬し、そして切願する者は、たしかにそして古き人々に(ことどもに)劣らないこの諸模範を、教会建設のため読むべきである。それは、新しい諸力 novae virtutes も、唯一のそして常に同じ聖霊が、そして全能の神なる父と彼の御子イエス・キリスト、我らの主が今までお働きになっていることを立証しているからである。彼に光輝と限りない権能が、代々に至るまで、アメン。

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第68回日本西洋史学会大会古代史部会発表原稿

 2018年5月20日発表原稿です。もう先がないので、一応アップしておこうというわけです。レジメがうまくアップできませんので、別途画像で付加しておきます。悪しからず。

 「戦勝顕彰碑としてのコンスタンティヌスのアーチ門」

 最初に幾つかお断りしておきます。
 1つは、名称の問題で、日本ではこれまで文献番号31青柳先生のように「コンスタンティヌスの凱旋門」と呼ばれてきましたが、私はそれを「アーチ門」と呼ばせていただきます。私なりの考えがあり、それについてはすでに簡単ですが文献番号37で書いているので、ここでは繰りかえしません。
 2つ目は、予め提出した発表要旨を若干修正いたします。実はそこで書いた内容をすでに論文にまとめてしまい(文献番号39です)、この場でそれを再述するよりも、さらに話を先に進めたいと考えたからです。コンスタンティヌスのアーチ門が312年のイタリア遠征の勝利を顕彰するものであったこと、そこに描かれたレリーフを詳細に検討してみると、コンスタンティヌス勝利の功労者としてレリーフ上で顕彰されているのは、なんとローマ正規軍団ではなく、ゲルマン人や北アフリカのムーア人といった、いわゆる非ローマ人の兵士たちだったこと、まあすこし前時代風に表現するなら、同盟部族の補助軍だったことが判明します。
 これを簡略に皆さんに紹介した上で、今回の発表はさらに進んで、コンスタンティヌス時代に製作されたアーチ門のレリーフ上で、神々の神像やローマ軍徽章類がどのように表現されているか、を検討したいのです。
 そして発表の最後に、これは発表要旨に書いておりますが、私が最近ようやく気づいたことですが、すなわち、カエサレア司教エウセビオスがとりわけその著書『コンスタンティヌスの生涯』において、どうやら彼はコンスタンティヌスのアーチ門レリーフの順番順に(西側から南に、東から北側に)依拠して叙述しているようだ、ということに付言したいと思います。

 なお、寄る年波で視力が衰え、タイプミスなどあると思いますが、お許しください。

 では、さっそく本論に入ります。必要な図版はほとんどすべてレジメに掲載しておりますので、以降それに従い、もし時間が余れば、補足資料をデジタルプロジェクタでお見せすることにします。 
 レジメ1ページ目をご覧ください。
 そこにも書いておりますが、文献番号31の青柳先生は、他については詳細に触れておられるのに、なぜか挿図261で両脇通路に番号を付されておりません。本発表にとってこれは大きな問題となります。  なお、以下、この挿図のナンバーに依拠し、ただアーチ門の壁面レリーフには裏表ありますので、東西南北の方位を付して、たとえばすぐ下の2)に出てくるように、西1といった表記で示そうと思います。すなわち西面のナンバー1というわけです。
 スポリアと表現されている2世紀のレリーフには今日、私は触れません。私が扱うのは4世紀初頭に新たに作成されたもの、すなわち挿図での円盤型トンドの2、が東西2枚(これは直径2m2,30cmの大きさです)、そして横長レリーフの、挿図1、14,15(これはばらつきありますが、だいたい高さ1m強、長さは南北面で5m半、東西面のはちょっと長くて6.5mといったところですが)、それらが南北両面にあるので6枚、それに円柱台座、これはおのおの3面あって、それが26から29、そして南北両面にあるので、台座レリーフだけで小計24枚ありました。さらに、先ほど述べた両、脇通路に彫像が東西壁面に各々4体ありますので、8体、総計で検討対象は40 となります。

 最初に横長レリーフに関する私の検討結果を、簡単にご報告します。6枚のレリーフのうち戦闘場面を描いたものは、南14と15の2枚ですが、そこでコンスタンティヌス軍の戦闘員として描かれている兵士は、端的にいって3種類のみなのです。レジメ2ページ目の3)がそれです。
 まず皇帝をもっとも身近で警護する、ゲルマン人コルヌーティ、彼らは二股の角がある兜をかぶり、特有の模様が描かれた楯を持っています。そして彼らは、西1、南14,15、それにどうやら円柱台座北面29の、左側面にもその特徴的な楯とともに登場しているようです。当時コンスタンティヌスはガリアとゲルマニアを根拠地としていました。その彼にとって、彼らコルヌーティは虎の子の隠し球だった可能性があります。そして私は、後世に文書記録を残したキリスト教関係者,具体的にはエウセビオスとラクタンティウスですが、彼らが、コンスタンティヌスがキー・ローの旗印をひっさげて戦いに臨んだと書いているのを、私はコンスタンティヌス全軍のことではなく、コルヌーティの楯の文様を強引にそう読み込んだのか、それともキー・ローをそれに書き加えたのであろう、以後コンスタンティヌスはそれを旗印として全軍の先頭に歩ませた、としているのを、彼の側近警護部隊、より直接的には、彼の旗印の皇帝旗のこと、と考えているのですが、それについては別の機会に触れることにします。

 それから第二に、軽装騎兵、彼らは兜こそかぶっていますが、鎧を着用しているようにはみえません。そして騎乗している馬も重装備で守られているようには表現されておりません。この種の軽装騎兵はもちろん軍団所属や、皇帝直隷野戦機動部隊(コミタテンセス)にもおりましたが、皇帝がより信頼をおいていたのは、同盟ゲルマン諸部族から派遣されてきていた騎兵連隊だった可能性があります。それはローマ騎兵に比べると、格段に騎馬操作技術が巧みだったからです。  
 彼らはひょっとすると例外的に東1の、ゲルマニア起源の吹き流し軍旗のドラコン旗を奉持して、栄えあるローマ入城式にも参加表現されているのかもしれません。「例外」といったのは、コルヌーティや後から述べるムーア人弓兵の姿は入城式に見ることができないからです。そこでの主役の座はローマ正規軍の歩兵と騎兵でした。帝都ローマに堂々入城する栄えある場面では、どうやらゲルマン人やアフリカ人はお呼びでなかったようです。 
 余談ですが、私は、ここで第二次世界大戦でのアメリカ軍第442連隊戦闘団を思い出してしまいます。ご存知のように、彼ら日系人兵士たちは、過酷な任務を多大な死傷率で全うし、全アメリカ軍の中で最高の、抜群の戦果を挙げ、しかもローマ入城に最も近く進軍していた部隊だったにもかかわらず、ローマ入城の栄誉からはずされて転進させられましたし、その後も、最初にユダヤ人収容所のダッハウ収容所を発見する功績もあったのですが、それもごく最近まで長く秘匿されてきました。

 そして最後になんとなんと、頭に巻いた鉢巻きに矢を蓄えた奇抜な姿で登場している弓兵、それはムーア人、要するに北アフリカのマウレタニア人のことですが、彼らが唐突に南14と南15に登場してまいります。 
 ちょっと立ち入りますと、このムーア人部隊がなぜコンスタンティヌス軍にいるのかというと、北アフリカはマクセンティウスの勢力圏でしたから、もともとマクセンティウス軍の一翼を担っていたはずで、ところが彼らの登場が南14からですので、ウェローナの戦い以前に、コンスタンティヌス軍に降って、コンスタンティヌス軍に編入されていたと考える研究者と、もひとつ、もっと前に、西の復位したマクシミアヌス正帝軍に所属していたものが、310年6月にマクシミアヌスがアルルで自殺ないし処刑されたあと、コンスタンティヌス軍に吸収されていた、と考えている研究者もいます。 
 私は両方ともあったのではないかと思ってます。逆からみてみると、コンスタンティヌス軍を迎え撃つマクセンティウスにとって、敵側に予想以上にまとまった数のムーア弓兵部隊が存在していたことが、不意打ちでの一大脅威となったのかもしれません。
 こうしてみますと、肝心の戦闘場面での、南14と15での戦闘員がいずれもローマ正規軍とはいえなかった、と言う事実は、やはりいくら注目しても注目しすぎではないように私には思えます。この件はこれまで誰も明確に指摘してこなかったと言っていいと思うのですが、あれだけ公然と衆目にさらされてきたレリーフを、実は誰もしっかりと分析的に見ていなかったわけで、これでは私を含め、研究者としては「ぼやーと生きてんじゃねーよ」と誰かさんに叱られてもしょうがない失態、といわざるをえないでしょう。
 
 さて、この話はここまでにして、第二の論点に入ります。
 3ページ目の4)をご覧ください。
 東西、脇通路内の彫像は誰が刻まれていたのか。破壊がかなり進んでいるので、明確に断定可能なのは、そう多くありませんが、No.3が、太陽光線を象徴する放射冠をいただいているので、確実にSol神だと断定できます。
 その正面No.1には、皇帝にふさわしい豪華な甲冑姿の人物が描かれ、さらに彼を背後上部から押し包むように勝利の女神ウィクトリアの羽根が右側に残存していることから、この甲冑姿はコンスタンティヌスに想定可能で、 ならばNo2が当時コンスタンティヌスと同盟関係にあった東部正帝リキニウスで、 No.4がリキニウスの守護神ユピテル像だった、 よって東通路では、国家制度的側面から、諸皇帝と神々の彫像が並んでいたとは、文献番号7番のロランジの見解です。
 破損がより著しい西側についても、ロランジはあれこれ検討した結果、今度はコンスタンティヌスの血縁関係に注目し、コンスタンティヌス王朝プロパガンダに資するべく、コンスタンティヌス、その父コンスタンティウス・クロルス、歴史書ヒストリア・アウグスタで、彼らの先祖に祭り上げられていたクラウディウス・ゴティックス、そしてコンスタンティヌスの義理の父で、正帝に復位したマクシミアヌス、の肖像だったと想定しています。

現在のところ、私はこのロランジ説に対する代案を持ち合わせておりませんが、他はともかくとして、No.1とNo.3に関してはほぼ確実で、となると後述との関わりで、このアーチ門建設時における、ヘリオス・Sol神の位置づけは決定的に重要といっていいのではないかと、思います。
 
 さて続いて5)、円柱台座のレリーフを簡単にまとめてみます。南北それぞれに12面のレリーフがあり(現在欠損1がありますが)、正面はすべて勝利の女神ウィクトリアが描かれ、左右両側面には、捕虜、ローマ兵、勝利のみ印のトロパイオンなどが描かれています。注目すべきは対称性で、若干の相違はあるものの東西・南北で対称的配置となっています。とりわけ注目に値するのは、中央通路に面した内側のレリーフには、明らかに、南側では軍団旗である鷲旗や歩兵大隊旗の軍旗を捧持したローマ兵が、そして北側では神々の神像、具体的には、勝利の女神ウィクトリアと放射冠を戴いたSol神を捧持したローマ兵が刻まれていて、やはりもっとも目を引きます。

 ここで余談ながら、他のレリーフでどんな神像や軍徽章が描かれているかを見てみますと、西1の右端に、勝利の女神ウィクトリアとやはり放射冠の痕跡があるSol神が登場するほか、東1の左の隅っこにvexillum 1旒がありました。たぶんこれは皇帝の所在を明示する皇帝旗なのでしょう。そして東1の中央には、先に触れたゲルマニア起源のドラコン旗が2旒、描かれています。 
 4ページ目をごらんください。さらに北14、それはローマに入城したあと公共広場フォルムの、西の端のロストラ上で、コンスタンティヌスが演説している場面です。彼の頭部は完全に削り取られていますが、その背後に二旒のvexillumが立てられているのが見えます。これは先ほどの東1左隅のそれと同じく皇帝旗だと思われます。
 それ以外に彼の背景に5本の円柱が認められ、これらは第一次テトラルキア時代の303年にディオクレティアヌス皇帝位就任20周年を記念して立てられた柱なのですが、それらの中央がユピテル神、左右に四人の皇帝像を戴いておりました。
 なお、今回は拡大写真を載せてませんが(2頁、北14参照)、ロストラの左右両端に椅子に座った彫像が一対ありまして、向かって右は、杖と円球グローブを持つ皇帝ハドリアヌス,左は、皇帝マルクス・アウレリウスとされています。
 こうして、コンスタンティヌスはテトラルキアの正統後継者であると同時に、2世紀のアントニヌス王朝の後継者でもあることがさりげなくプロパガンダされているわけです。

 最後に東西2の円盤型レリーフ、トンドについて触れておきましょう。方位に合致して、東に4頭立て戦車、クワドリガで今まさに海上から天空に浮かび上がってきた太陽神、それを導くアモル、海中でそれを眺めている海の神オケアノスが描かれています。なおここでの太陽神は、放射冠をかぶっていません。西1は、2頭立ての馬車を御しつつ、海中に没しようとしている月の女神Luna、それを先導するアモル、それを海中から見守っている海の神オケアノスが描かれております。

 さてこれらのレリーフ、彫像群をトータルで眺めてみて、まずもって注目しておきたいのは、勝利の女神ウィクトリアの頻出、そして太陽神ヘリオス・Sol神像の登場が目立つことです。そして軍、徽章関係では、次に述べる、エウセビオス叙述での強調点a)、とは異なって、コンスタンティヌスがらみの軍旗・神像類に、キリスト教文書から期待されるような、キリスト教的な痕跡がまったく認められない、という事実です。すなわち、コンスタンティヌスのアーチ門の神像・レリーフ表現の核心はヘリオス・Sol神であった、という事実です。これを文献番号37の内容と重ねますと、少なくとも315年段階においてコンスタンティヌスはキリスト教信仰を公表していなかった、むしろヘリオス・Sol神を自らの守護神に選んでいた、ということが再確認されるわけです。従いまして、例えば文献番号34番のポール・ヴェーヌが312年段階でコンスタンティヌスはキリスト教を選んでいた、というような見解は四離霧散することにならざるをえないでしょう。

 残り時間も少なくなりましたが、最後に、『コンスタンティヌスの生涯』におけるエウセビオス叙述を辿ることで、ローマに行った記録のないエウセビオスですが、アーチ門建設前後の時期に関する彼の叙述の流れを見てみますと、どうやら彼は、何らかの手段で、コンスタンティヌスのアーチ門レリーフ・トンド等の情報をかなり詳しく知っていて、それに沿って書いていたと考えざるをえないという心証を、私は得たことをご報告しておきます。レジメ4枚目と5枚目に列挙しておりますので、ご一読いただければすぐにご理解いただけることと思います。

 このアーチ門において、誰が戦勝の功労者として顕彰されているかというと、どうやらローマ正規軍ではなく、ガリア・ゲルマン系のコルヌーティ、それにゲンマン系軽装騎兵、さらには北アフリカ系弓兵だった、という意外な事実に行き当たりました。
 また、神像として突出しているのは、勝利の女神Victoriaを別にすると、明らかに太陽神Helios-Solである。この時期のコンスタンティヌスの軍事力の基盤がガリア・ゲルマニアにあったことを想起すれば、ケルト系の著名な太陽神Apollo-Grannusを、彼が統治開始以来、自らの公式信仰に採用していた、ないしそうせざるをえなかった理由も、論ずるまでもなく自明です。そして、それを当時のキリスト教指導者たちが、(ヒラメ官僚よろしく)イエス・キリストと重ね合わせようと、さまざま贅言を尽くして後付け的に忖度していた、という図式の検討が、今後当面の研究課題となりますが、今日はここまでにしたいと思います。

 以上で発表を終わります。有り難うございました。

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2018/2/5-11フランス調査旅行

 留学中の林君のお世話になって、約1週間、交通費・宿泊費は当方持ちということで、行ってきました。
 余裕があれば、年末のアルジェリア旅行も転載するでしょう。

2/5(月)成田1105-1555Paris AF275 Paris泊
  6(火)Neufchâteau泊  Hôtel EdenValue Deal 69.30€
  7(水)Metz泊 Inter-Hotel Modrne 86€+
  8(木)Nimes泊 Aparthotel Adagio access Nîmes   60.80€
  9(金)Nimes泊 Aparthotel Adagio access Nîmes   60.80€
 10(土)Paris泊 Hôtel Viator Paris  147.00€
 11(日)Paris1605- AF272
 12(月) -1205羽田

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2/7
浩志@ヌフシャトーです。

 3時に起きだして書きました。林君間違っていたら教えてください。

 昨日、今回の訪仏前半の山場のグランGrandに行ってきました。パリの東駅
に隣接した宿泊ホテルは昨晩は全員白人従業員でしたが今朝は全員黒人でした
。このあたりが現在のパリの状況なんでしょう。
 そこから8:10発のTGV(新幹線)に1時間40分、一面雪景色とスノウ・ホワイ
トが続くうち、Nancy着(雪のため30分程度延着でしたが、もともと待ち合わ
せ時間が40分あったので乗り継ぎはセーフ)。そこからToulまで地方線に乗り
換えて、進行方向右側にゆったりとした水量の川をみつつ、15分(なぜか雪が
消えてました)、本当はそのまま列車でNeufchateauまで行けるはずだけど途
中が工事中とかで、そこで乗り換え時間5分のバスに飛び乗って、延々と平原
状の地形での農地景観の中を直線で走る、よって旧ローマ軍道を彷彿させる道
を40分、ようやく正午前にヌフシャトー駅前に到着できました。こういう複雑
な経路だったので、林君抜きにはとうてい行き着くことはできなかったでしょ
う。感謝。

 ここのホテルに荷物を置き、フロントでお願いして、でも大分待たされたタク
シーで、1時半にGrand目指して出発。タクシー代は往復70+10ユーロ。往復と
も林君相手に絶え間なくしゃべり続ける同じ中年女性が運転手でした。ヌフシ
ャトーの町外れには近世と思える城塞跡が残っているようで、水量の多い川を
渡り、徐々に高度を上げていく感じでした。そこの自動車道も直線が主体でし
た。

 グランには20分も走ったでしょうか。まず小学生用と思われる漫画チックな
掲示板のある広場で、町のパン屋で買ったパニーニをかじって、ちょうど2時
間見学しました。ここの目玉遺跡の円形闘技場とモザイクの家は冬季休業中で
、これは事前にわかっていたことなので、しょうがありません(もし開いてい
たらもう1時間は必要でしょう)。若干ぱらぱら小雨の降る曇り空の中、住民4
00名の小さな村落で、出会う人も皆無の村の中の道を、表示板にしたがって、
厳重に金網で囲まれた円形闘技場(片方が未復元)、1035年に記録が初出の皇
帝ユリアヌス下での女性殉教者、Libaireの殉教者記念堂(村の共同墓地付き
)を覗き、列柱廊や浴場があった広場、閉館中で旧バシリカの床を飾っていた
モザイクを収めた家は素通りして、当時この地域を丸く囲っていた城壁の土台
跡、神殿跡に立っているという教会とその下の洗濯場、などを見学して歩きま
した。この間すれ違った住民は数名のみ。
 帰り道でのこと、モザイクの家の裏側で保育園の子供たちが園庭に遊びに出
てきて賑やかな歓声が聞こえ、保母さん一人に10名余り、全員白人の可愛い顔
で向かえてくれたので和みました。そのちょっと向こうにあるこぢんまりとし
た小学校には、場違いな感じで統廃合反対の横断幕が貼られていたのでなおさ
らでした。

 ここに、コンスタンティヌスが310年頃立ち寄り、ケルト起源のガリアの太
陽神Grannusの聖域で、アポロン神の出現を体験し、30年間の統治を予言され
た、という異教側史料があって、それがキリスト教側にとっては、太陽神と重
なり得るキリストやキーローの出現と、後年解釈されえたわけです。私見では
、その後の展開を考えると事実は異教側にあって、それを強引に改ざんしたの
がキリスト教プロパガンダだったと判断すべきで、私としては真偽を確かめる
ヒントを得るべくグランを訪問しなければならなくなったわけです。

 私にとっては、現在は寒村にすぎないグランが、かつては、ガリア古来の清
冽な聖泉が存在し、霊験あらたかな治癒祈願の聖地で、当時巡礼が引きも切ら
ず訪れてきていて賑わっていた保養地でもあったこと(帝国内有数の規模を誇
る円形闘技場がその証です。おそらく東部のアスクレピオス神の医療施設エピ
ダウロスなどに比すべき地だったのでしょう、規模はあれほどはありませんが
)、212年ごろに時の皇帝カラカッラが訪れた記録もあるようで、それらが確
認できたことで十分でした。
 あいにく季節はずれの訪問で、旧バシリカの広大な床モザイクが保存されて
いる施設に置いてあるはずのパンフレットなども、入手できませんでしたが、
ともかく、その夜のホテルのレストランでは林君と祝杯をあげたことでした。
ちなみに二人で63.76で切りよく70(食前酒+生ビール)。イタリアのあっさ
りした味に慣れている私には若干重い夕食でした。
 到着時に林君がめざとく観察してましたが、この町ではフランス人以外は見
ることありませんでした。我ら二人がまぎれもなく異邦人だったわけです。と
はいえ別段奇異のまなざしに会うこともなく、それどころか、タクシー運転手
のおばさんの甥は、木工の技術を習得して、日本人女性と結婚して東京に住ん
でいるのだそうで、最後の挨拶は日本語で「さよなら」でした。

 今日は、メッスに向かいます。そこの博物館にはグランの治癒神と深い関係
のあるらしい円柱上に飾られた石灰岩製のAnguipedeの騎馬像が展示されてい
て、それを拝見するためです。同様のものは反対側に位置するEpinalの博物館
にもあるようですが、そこに寄る時間は今回残念ならがありません。
 なお、ホテルに帰ってからの林君のウェブ調査では、ドイツのバイエルンの
Lauingen近くのFaimingenにはローマ時代のApollo-Grannus神殿があったよう
です。ここに212年にカラカッラがやってきて病気治癒のため神殿を建てたと
のこと。ストラスブールを挟んで東西にガロ・ローマン時代の著名な治癒神神
殿があったわけです。

 コンスタンティヌスにはなぜ、それを崇拝する意味があったのか。私見では
それを、彼は当時トリーアを拠点にしていて、彼の麾下の最も信頼していたゲ
ルマン・ガリア出身の兵士たちの支持を獲得する必要があったから、と想定し
ているわけですが、それ以上のことは、将来後続の研究者が実証してくれるこ
とを念じております。

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2/8
各位:豊田@Nimeです。

 アルジェリアから帰って、ずっと頭の中はアウグスティヌスだったのですが
、2/5から丸一週間の予定でフランスに来ています。前半は北東の若干僻地に
コンスタンティヌスの秘められた足跡を訪ねてましたが、朝の気温氷点下のMe
tzから半日かけてずっと同じTGVに乗り続け(一部300キロの速度ですが、在来
線も走るのでそう速くなくて)、昨晩ニームにつきました。列車から降りて駅
の階段を下るとき不覚にも足がもつれあぶなかったです。

 今日一日と明日午前中までここに滞在してパリに帰りますが、ニームでは単
純に、昔撮っていたはずのどこかに行ってしまった円形闘技場の立ちション用
トイレの写真再撮影するのが主務です。これだけなので大幅に時間余るのです
が、ニームの博物館は改装のため閉館中の由で、今日は新たに博物館ができて
いるというポン・デュ・ガールにバスで行く予定です。南仏では昔回った他の
ローマ遺跡も再訪したかったのですが(実は立派なトイレ遺構が多い)、その
余裕がないのが残念です。

 そろそろ頭の中を帰国便がよぎりだしてますが、パリは雪だとかでちゃんと
飛行機が飛んでくれるかどうか心配です。昨日フランスを北から南に縦断した
のですが、ところどころに薄っすら残雪あっても、ずっと霧の風景でした。南
仏のニームも夕食に出た夜の温度は3度と、体感的には北と変わりません。
 夕食は本格中華にありつけました。同行の林君は麻婆豆腐が食べれたと感激
してました。私は「ポタージュ」と頭についていたので疑問でしたが、酸辛ス
ープを頼んでみましたが、イタリアの「アグロ・ピッカンテ」と同じで、増量
したその辛さに疲れが癒やされました。4皿と青島ビールを含め二人で50ユー
ロ。やっぱ中華は貧乏人の味方です。今回のホテルには台所もついているので
、今日の夕食は分厚いステーキ焼こうと話してます。

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2/10
豊田@ニームです。

 昨日は、午前中に円形闘技場、昼にPons du Gard、夜はフランス料理でした

 実は、今回訪仏の最後のミッションには失敗し、元気が出ません。

 舐めるように入れるところは見て回ったのですが、お目当てのものがみつか
りません。座席下に位置するアーチ通路の曲線の内側に沿って立ちション用と
おぼしき、だけど大理石製の平たい浅い彫りの石材がずらーとはめ込まれたの
を、30年前には見た記憶あったのですが、・・・お母さん、あれはどこに行っ
たのでしょうか・・・。研究書にも写真があるというのに。林説では、立ち入
り禁止の工事用具置き場にあるのでは、というのですが。

 負け惜しみですが、でも転んでもただでは起きない! 階段の上下で足をガ
クガクにしながら歩き回るうち、地階からの登り階段の踊り場部分に妙な遺物
を今回見つけました。なぜかどこの通路にでもというわけではないのですが、
添付写真のようなものが両方の壁沿いの床に浅く彫られてまして。ご丁寧に下
方に小さな穴が開いているのと開いていないのがあって、統一感がなく、用途
的によくわからない遺物なんです。
 ご存じの方、教えてください。私は、当然立ちション用便器と考えてますが

 長くなるので昼は飛ばして、夜です。台所あっても油も調味料ないので、林
君が探した地元のレストランに行きました。定食23.5ユーロのコース、二人で
2016年産地元赤ワイン1本込みで70弱ユーロで、満腹しました。ワインも渋み
が強く肉料理に合ってました。

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2/10
各位:豊田@パリです。

 本日、ニームでは十分すぎる時間を町歩きで消化し(17500歩、昨日は25000
歩の由:晴れていて7度くらい、ひなたは暖かったが、風はきつかった)、午
後にtgvに乗り、先ほどパリに着きました。車窓からの風景は、最初の1時間は
晴れ、次の1時間はだんだん雲が多くなってきて、ところどころに残雪、そし
てパリが近づくと、日没したせいでもないでしょうが、一面の残雪となりまし
た。
 今日のホテルは、パリ・リヨン駅から歩いて5分くらい。

 そこでご報告があります。今回の宿泊ホテルすべてで、パスポートの提示を
要求されませんでした。これはどうしたことなんでしょうか。あののんきなイ
タリアでも必ず提示するのに。

 2日続けてのフランス料理は重たいので、これから名代の中華料理屋にメト
ロに乗って行こうと思います。
 明日、帰国の途につきますが、天気予報だと「晴れ」らしいので、飛行機が
ちゃんと飛んでくれることを祈ってます。
 林君には本当にお世話になりました。

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赤いシリウスの謎

 一週間ほど前、面白いテレビ番組があった。
 以下、うろ覚えですが。

 プトレマイオスの「アルマゲスト」や、キケロやセネカの記録によると、彼らの時代、すなわち古代ローマ時代においては、シリウスは赤色だったという。現在は青白いから、2000年間の間に色が顕著に変わったことになる。
 天体や星座の世界で、たった2000年での変化というのは考えがたい現象で、これまでの学説だと数万年はかかるとされてきた。
 となるとありえないのだが、多くの学者が入り乱れて色々な仮説を提出した挙げ句、どうやら最近の学説だとこういうことらしい。
 恒星は普通青く光っているが、寿命が来ると赤色巨星になり、消滅すると青白く白色矮星となるが、そのとき、特殊な条件下でファイナル・ヘリウム・フラッシュ現象が起こって、わずか数ヶ月で急激に膨張して赤色に変わり、最終的に燃え尽きることがある、のだそうだ。

 天体を観測していて、その現象を偶然見つけたのが、なんと日本人の桜井幸夫というアマチア天文家で20年前のことだった。1996年2月、見なれない星が射手座の一角に突然出現したのだ。それは「桜井天体」と名づけられた。
 こうして、現在青白く光るシリウスBが昔は赤色だった、という謎が解明されたわけである。

 ウェブでも、まだ旧聞の内容しか載っていない。
 http://mirahouse.jp/drop/seishu/red_sirius.html

 だけど、現在NHKオンデマンドで公開中のようだ。但し単品だとアップの期限は2/22。もう時間がないが、見放題だといつでも見ることできるらしい。
 古代ローマ史をやっているのなら、是非見ておいたほうがいいだろう。
 http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018084847SC000/?capid=nte001

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私はドラキュラ?

 今日、起床は朝11時だった。寝たのが5時くらいだからしょうがないが。昨日も午前中はだめだった。昼過ぎからごそごそし始める最近の私。

 健全な人間は、太陽を浴びて体内時計を調節しなければならない。それも紫外線であって、ガラス越しの室内ではだめなのだそうだ。

 これといった昼間の定例行事が少ない今の私は、どうしても夜型になってしまう。まあその傾向はこれまでもあったのだが、最近は、食事後になると、大げさでなく昏倒しかねない睡魔に襲われるようになり(血流の関係か)、シェスタ風に寝ちゃうものだから、ますますその傾向がつよくなっている。

 しかし、これは健全な人間の姿ではない。電気エネルギー的にもかなり無駄をしているし、必然的に体内に無駄なカロリー・エネルギーを蓄積し、太る結果となあ〜る。目の疲労も半端ではない。しかも思ったほど仕事ははかどっているわけではない。困ったものだ。

 それにしても、夕方になってやっと外に出ようか、という気になるのはどうしたことか。
 これではまるで、ドラキュラじゃないか、ということに昨日やっと気がついた次第。

 でもドラキュラは痩せてるな。
 トマトジュース飲んでダイエットするか。

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忘れられた名著?

 また悪いクセが出た。
 アウグスティヌスに絡んで、ある邦語の本を読んでいたら、とんでもない本にゆきあたってしまった。それは、戦前に出たイタリア語からの翻訳書で、上智だとキリシタン文庫に所蔵されていて、戦後も改訳版が出ていて、そっちは中世思想研にあった。
 それらを見ていたら、原本がみたく(ほしく)なり、年金生活者のくせに性懲りもなく海外古書に発注してしまったのだ。届いた紙装本は節約して安物にしたせいか、もうぼろぼろで・・・、ウェブ写真で見たものとは似ても似つかぬ姿だったのだが。
 以下は、原稿を書いたEvernoteからの転写である。いずれ写真を添付して紹介したい。

ーーーー
 Giovanni PapiniのSaint’Agostino,1929 が出版されて、五十嵐仁は、すぐさまフィレンツェ在住の著者に翻訳許可を求める書簡をしたため、快諾を得た。翻訳の出版は1930(昭和5)年12月21日で、『パピニ 聖オーガスチン』発行所アルス、がそれである。
 なぜか翻訳者名には寺尾純吉という筆名を使っていた。上智大学図書館の「キリシタン文庫」には、その翻訳者が和名の筆名で(だが、ローマ字でIgarashiのサインも添えられている)ヘルマン・ホィヴェルス先生(神父)に献呈したものが未だ所蔵されている。ちなみに献呈の日付は1930年12月29日。どういう経緯か不明だが、その献本は長らくキリシタン文庫長だったヨハネス・ラウレス神父の手に移った。
 装丁は小豆色のしっかりしたハードカバーで、背表紙には金字で著者名、書名、譯者名がイタリア語と日本語で表記され、表紙には黒字でイタリア語のみで、上に書名、下に著者名、その間に心臓に2本の矢が上から交差状に刺さり、下まで貫通し、心臓の上に炎が描かれた図案が配置されていて(今は詳しく触れないが,他に、炎の火花状のものが4箇所描かれている)、かなり凝った作りとなっている。

 その図案のあらましは、たぶんアウグスティヌス『告白』9.2に由来し、直接原著の表紙から構想を得たものだろう。調べてみると、13世紀創設の聖アウグスチーノ修道会の会章は心臓を貫いている矢こそ1本であるが、やはり心臓の上には炎が見えている。私のところに北イタリアのAlessandriaの古書店から来た原本古書の表紙は、白地で文字は黒、心臓関係の図案が赤、という違いはあるが、シンボル関係は翻訳本と同じである。

 翻訳書を開くと、口絵に白黒で、なんと私も好きなアリ・シェフェール筆「聖オーガスチンと聖モニカ」(1854年)の白黒写真(原著にはない)、そのあとに「譯者序」が付されていて、翻訳の機縁などが述べられている。そこに1930年がかの聖人の没後1500年に当たることも明記されているので、原著や翻訳の契機は自ずと明らかであろう。ちなみに著者パピーニは1881年1月9日フィレンツェ生まれだから、当時49歳と気鋭の時期だった【逝去は1956年7月8日、65歳:ウェブ検索すると、若いときの個性的な頭髪の野心満々な姿と一緒に、どういうものか、言語障害をもたらした大病を患って衰えた姿の彼が、自宅の書斎で孫娘に口述筆記させている1955年9月19日付けの写真や、もう一人別の孫娘で役者の写真なんかも出てきた。巻末に付された同出版社の既刊本の列挙の先頭に、パピニ著大木篤夫譯『基督の生涯』も掲載されていて、著者はこの時期日本でもすでに定評ある書き手だったようだ。実は,その翻訳も後日入手してしまった。ところで上記シェフェールの絵は、ヌミディア人的風貌のアウグスティヌスを表現していて私には好ましいのだが、実は吉満義彦(1904-1945年)の『告白碌における聖アウグスチヌスの囘心への道』(Congregatio Mariana 2)上智学院出版部、1945年、の口絵にも使われていて、さすがと思わされる】。

  本書は、戦後の昭和24(1949)年3月に、中央出版社から、ジョヴァンニ・パピーニ(五十嵐仁訳)『聖アウグスチヌス』として訂正再版された。これは中世思想研究所にある。敗戦後という時代を反映して、薄っぺらな紙装本だが、表紙の図案は今回むしろイタリア語原著と同様となっている。ただ、すでに酸性紙特有の劣化が進んでいて、むしろ戦前もののほうが読みやすいくらいだ。この版には口絵も前書きもないが、その代わりに巻末に「譯者の言葉」が添えられていて、そこに版権取得時に著者から送られてきた快諾の書簡が紹介されていたり、翻訳者はその後1938年から「一官吏として」ローマに行き、終戦の暮れに浦賀に帰国したこと、原著者の生まれ育ったフィレンツェにもよく行ったし、ローマで最後に住んでいたジョヴァンニ・セヴェラーノ通りVia Giovanni Severano(ここはローマ・テルミニの北北東、というよりティブルティーナ駅の西側のといったほうが早いだろうか、Bologna広場の北西に延びている通りである)ではすぐ近所に著者のお嬢さんの婚家があって、「眼の不自由な作家が、ちょいちょいやってくることを、門番の口から聞きもした」が、訪れることもなく終わった、などと書かれていて、亡くなるだいぶ前から作家として著者が不自由な体だったこと、たぶんそれもあって訪問を遠慮していたことも窺える文章に出会え、私にとって興趣大いなるものがある。

 そして、問題の箇所は、原著でp.45-47、戦後の翻訳でp.42-44で、読者は見逃しがたい叙述に出くわすことになる。さすがイタリア人!と絶句せざるをえない、はずなのだが。

 アウグスティヌスは、マダウロスから学業半ばで故郷に帰ってきて、無聊を囲う1年を過ごした時に堕落した生活に陥るが・・・
 
p.43-4「ここにかれは偽らない、しかも明瞭な言葉をもって、友情の堕落、肉慾にまで堕落した友情、肉慾と合體した友情に就いて暗示しているのである。・・・「肉慾によって穢された友情」とは、男の友だちを暗示している。」

 な、なんと、アウグスティヌスが女だけでなく、男色もやってた、とパピーニが明言しているわけで、もう脱帽するしかない。
 かくして、私の「珍説その3」も、90年近くも昔にすでに喝破されていて、新説とはいえないことに。まあ男色は、ローマ史からすると別段驚くべきことではないのだが。養子皇帝で帝権をつなげたいわゆる「五賢帝」の最初の四人は、まさしく女性に興味なかったからから子もなしえず、その故の養子縁組だったことを想起すれば十分だろう。
 しかるに、我が国の自称アウグスティヌス研究者でこれを指摘している者を私は知らない(西洋では、ある女性研究者がそれを指摘している、とどこかで読んだ記憶があるが、それにしてもそれはここ2,30年前のことだったとボンヤリ記憶している)。しかも、パピーニのこの書物を利用して、アウグスティヌスとアンブロシウスの冷たい関係を指摘している、として引用している研究者はいるのだが、男色のほうにはまったく触れないのである。これを偏向といわずしてなんと言うべきか。それにしても、これでは最近の研究者は相も変わらず縮小再生産に嬉々として従事している、と言われてもしょうがないだろう。

 実は、私主宰の読書会で,昨年出版された以下の岩波新書を読んだ社会人女性が、読後感としてそれを指摘していた。
  出村和彦『アウグスティヌス 「心」の哲学者』
 私は、筆者にこの点をどう考えるかメールで問い合わせたのだが、返事は「書き手が意図してない読み方をされてビックリです」だった。
 これこそ素人がプロを凌駕する健全な読解力を示した典型例というべきではなかろうか。繰り返す、これでは、専門家とは実はお仲間の中での共通言語で遊んでいる輩にすぎない,といわれても弁解の余地はないだろう。赤面して、研究者の看板を下ろしていさぎよく退場すべきだろう。

 付記:ここでアウグスティヌス関係の「私の珍説」とは以下の事例である。(〇付きが現在オリジナルのつもり、△は先行研究不十分)
  彼の『告白』叙述の秘密
   彼の出生の秘密:ヌミディア性 △
   彼の家族の秘密:母はめかけ? 〇 
   彼の男色疑惑 〇 → △
   彼の異性関係の秘密
   彼の立身出世の秘密:マニ教ネットワーク
   彼の回心の秘密:△
   彼の司祭・司教就任の秘密 〇
   彼の設立修道院の秘密 〇
  彼の使用言語の秘密 △
  彼の神学の秘密:山田氏にお委せ
  彼の死後の図書移動の秘密 △
  彼の遺骸移動の秘密 △
  彼の神学が西部帝国に伝播した本当の理由△

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お勧めサイト発見

 カルチャで使用する画像を探していて、こんなページにたどり着きました。
 教材開発の試みのようです。私にはなかなか聞き取りがたい英語速度なんですが、繰り返し聞き直せるし、文字が表示される点(とはいえ、今度は読み取れない(^^ゞ)はありがたいです。
 私はローマ史だけしかみてませんが、最新学説もどしどし入れ込まれ、全学科的になかなか工夫した画像を見せてくれてるようなので、興味お持ちのテーマをぜひご覧ください。

 https://www.khanacademy.org/humanities/ancient-art-civilizations/roman#late-empire

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読書会へのお誘い

 現在、こんなことやってます。もし参加希望の方いらっしゃったら、大歓迎ですので、メールで連絡ください。当方のアドレスは「k-toyota@ca2.so-net.ne.jp」です。ご希望あれば(1)と(2)については、これまでのレジメをお送りします。

(1)「アウグスティヌス『神の国』読書会」
 開催方式:隔週で、2017年度の今後の予定は、11/30,12/14,1/11,1/25,2/8,2/22,3/8,3/22、といった調子です。
 日 時:隔週の木曜日、午後6時ー7時半 
 場 所:四谷駅徒歩2分、イエズス会日本管区本部・岐部ホール304号室
 参加費:その日の参加者から、2000円(場所代の寄付金込み)を、参加当日に徴収してます。

 かつての上智大学公開講座の参加者のご希望もあって始めました。現在の参加者は、みなさん女性の社会人と私の、6名です。
 実は、私にとっても3回目の完読の試みで、とりあえずはローマ宗教を学ぶという視点で読んでますが、とにかく「1人では絶対に読み進めれない」とお互い励まし合いながら頑張ってます。 
 原著はラテン語ですが、教文館訳で一回25ページくらい読み進み、第8巻15章まで進みました。
 アウグスティヌスの話は繰り返し多いので(それは、彼は机に向かって文章を推敲しながら書いているのではなく、口頭で喋っていて、それを速記者たちが筆記しているせいもあるかもしれません)、中途参加でも全然問題ありません。
 結局、内容をレジメにまとめて最初に筋を報告している私が一番勉強している感じなんですよね (^^)。
 メンバーから、どこかで最新刊の田川建三『ヨハネの黙示録 訳と註』作品社、を読みたいという希望も出てまして・・・、さてどうしたものかと。

 追伸:11/30の会で、第8巻になって訳者が某氏になってから、よく分からない箇所が多くなったこと、それにそろそろ飽きてきたきたこともあり、『神の国』は次回で第9巻を全部読んだあと、一旦お休みにして、正月からは以下を読みたい、ということに参加者の中でなりました。
   田川建三『書物としての新約聖書』勁草書房、1997年
 なお、古書を見てみると、「日本の古本屋」だとずばり3000円が2冊、3000円台も数冊転がってますので、4000円台のアマゾンよりも安いようです。

(2)「エウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』読書会」
 開催方式:月1回
 日 時:基本、月末の月曜日、午後1時半-3時半:2017年度の今後は、11/27,12/18(時間もずらして+忘年会),1/29,2/26,3/26を予定してます。
 場 所:JR我孫子駅から徒歩1分の「我孫子市けやきプラザ」8階の会議室
 参加費:その日の参加者から、場所代等必要経費込みで、お一人1000円を徴収してます。

 この読書会は、かつて柏のNHK文化センターで開催していた講座の参加者のご希望で始めました。これまで『ガリア戦記』『内乱記』『ローマ皇帝群像』といった西欧古典を読んできました。この調子でいくと、その後のテキストは新刊のアミアヌス・マルケリヌスになるかも。
 現在の参加者は、女性7名、男性7名、そして私の、計15名です。
 『コンスタンティヌスの生涯』の原著はギリシア語ですが、秦剛平訳(京都大学学術出版会)でこの7月から読みはじめてます。速度は一巻を2回に分けて、まあ毎回平均で40-50ページです。ちなみに、11/27は、第一巻後半を予定してます。
 本テキストの内容は私の研究分野に直結してますので、話題はおのずと周辺にも及びます。たとえば、9/25には「2017年夏期調査旅行報告」と題して、この夏の遺跡調査内容を発表しましたし、最新レベルの情報もお伝えしてます。10/23は、あの有名なコンスタンティヌスが見たという十字架の幻視研究の問題点に触れました。11/27の目玉はコンスタンティヌスの凱旋門レリーフで、日本で初公開の最新学説を紹介予定です。

(3)「アウレリウス・ウィクトル『皇帝列伝』ラテン語輪読会」
 開催方式:毎週1回の輪読会
 日 時:毎週金曜日、午前10時半-12時半
 場 所:現在は、渋谷駅から徒歩10分にある、安い渋谷の貸事務室(ワンルームマンション)を借りてやってます。
     来年度は時間も場所も変更の見込みです(夕方から、四谷の某大学図書館のグループ学習室を狙ってます・・・)。
 参加費:現在、その日の参加者で場所代とお互いの交通費をプールして徴収してます。
     (来年度は、図書館館友会員参加費が必要になるかも。それについては以下参照
       http://lux.lib.sophia.ac.jp/HomePage/index.php?page_id=101)

 かつての大学院ゼミの続きでやってます。現在の参加者はいずれも社会人で、男性2名(+時々参加1)、女性1名、それに私の、4ないし5名です。
 輪読ですから、参加者が順番に試訳を担当し、みんなで検討します。読解には箇所によってかなり手こずっていて、これも「これって、一緒に読むからやれるんだよね」といいながら、じわじわしぶとくやってます。詳しくは、このブログにアップした翻訳をご参照下さい。

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Aurelius Victor, Liber de Caesaribus,1.1-5.12

 日進月歩といいたいところですが、そうもいかず・・・(一応の訳了は1年後の予定ですが、さて)。いつまでたっても手直しに切りがないので、ばらばらですが、手を加えたところから、恥ずかしながらたたき台としてアップさせていただきます。(といいつつ、次回がいつになるやら)
 秦剛平氏は、エウセビオス『教会史』や『コンスタンティヌスの生涯』において、意訳箇所に逐一訳註をつけて克明に明記されてます。それは一般読者としては相当にわずらわしいのですが、研究者の翻訳倫理としては本来そうあるべきだ、と私も思います(その彼に細かいことですが私なりにイチャモンつけたい箇所もありますが、それは別の場所で)。ここではできるだけ逐語訳で作業し、最終的に読みやすい「超訳」 (^^ゞを試みたいというのが、私の念願ですが、もとより文才なく、その上先のない身なので、期待しないでお待ちください。
 いずれエウトロピウス『首都創建以来の略史』全10巻もこの作業をしなければと思ってますが、そのためにはだいぶ先まで惚けずに頑張らないと。しかしたとえ私がついえても、若い世代で継いでやってくださる方が出てくることを信じています。それが研究というものではないでしょうか。

 本翻訳で使用のラテン語テキスト:
  Recensvit Fr.Pichlmayr et R.Grvendel, Sexti Avrelii Victoris Liber de Caesaribvs, in:Bibliotheca Tevbneriana, Leipzig, 1970=http://www.thelatinlibrary.com/victor.caes.html
 現代語訳註(*原文テキストを含まない):
  *by C.E.V.Nixon, An Historiographical Study of the Caesares of Sextus Aurelius Victor, Diss., Michigan, 1971.
  par Pierre Dufraigne, Aurelius Victor Livre des Césars, in:Les Belles Lettres, Paris, 1975.
  par Michel Festy, Sextus Aurelius Victor, Livre des Cesars, Thèse Doct. de l’Université Paul Valéry-Montpellier III, 1991.
  *by H.W.Bird, Aurelius Victor:De Caesaribus, Liverpool UP, 1994.
  von Kirsten Groß-Albenhausen u. Manfred Fuhrmann, Die Römischen Kaiser Liber de Caesaribus, in:Tvscvlvm, Darmstadt, 1997.
 索引辞書:
  Conscripsit Luca Cardinali, Aurelii Victoris Liber de Caesaribus Concordantiae et Indices, vol.I, in:ALPHA-OMEGA, Hildesheim/Zürich/New York, 2012.

 訳文中での記号、他:
  [ ]:テキスト段階の異読・付加等の場合
  ( ):文脈上の翻訳者の補い
  【 】:翻訳者のコメント
  ラテン語表示:訳語の統一を図るために、ここでは便宜上入れていますが、形式はふぞろいかもです。
  訳注:とりあえず『上智史學』60ー63号(2015ー17年)掲載を参照願いますが、ここでも修正がないわけではありません・・・。なお、そのpdf文書は「上智大学学術情報リポジトリ」(http://digital-archives.sophia.ac. jp/repository/)から「アウレリウス・ウィクトル研究会」と検索にかけると、入手可能です(但し、最近発行の第62号分は未掲載)。

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

        セクトゥス・アウレリウス・ウィクトル
   『皇帝列伝:アウグストゥス・オクタウィアヌス以来の略史、
  すなわちティトゥス・リウィウス(の書)の末尾(前二七年頃)から、
正帝コンスタンティウスが一〇度目、かつ副帝ユリアヌスが三度目の執政官職
          (三六〇年)までの(略史)』

第1章
 1:ほぼfere首都(創建後)七七二年目(前三一年)に、今やetiamローマで一人(の人物)にただただ服従すべしとの慣習が生まれた。なぜならnamqueオクタウィアヌスは、オクタウィウスを父とし、大伯父との養子縁組によってカエサルの、そしてまもなく領袖たちの決議で、諸派閥への(彼の)派閥の勝利が控えめに行使されたことにより、アウグストゥスの添え名で呼ばれたがdictus(それは)、彼が金品で兵士たちを、穀物管理でとりわけ大衆vulgoを取り込んで、他の者たちをもまったく困難なく屈服させたからだった。
 2:そのようにしておよそcirciter四四年間が経過し、彼は病をえてノラで逝去したconsumptus。(その間)市民たちの帝国にラエティアとイリュリクムが加えられ、そして(帝国)外の諸民族の凶暴さは、ゲルマニアを除き沈静化された。
 3:ヌマの後の三人目として、(彼は)アントニウスに勝利すると、ヤヌス(神殿の門)を閉じた。それはローマ法によって諸戦争が鎮まると行われることだった。
 4:性癖的にかの人物は市民的で魅力的だったが、まったく節度がないほどの贅沢三昧と諸競技に熱中し、そしてまた睡魔には抑制がきかなかった。
 5:(今と違って)たくさんいた学者たちと(その)取り巻きたちに(彼は)大いに敬意を払っていた、(それは彼が)雄弁の研究と宗教儀式に驚くほどmire惹かれていたからであった。
 6:彼は寛容さゆえに国父で、また終身護民官職権tribunicia potestateを有していた。そのため(彼を)神に、ローマと全属州でのきわめて著名な諸都市を通じて、(彼の)生存中と死後を問わず、諸神殿、諸祭司団sacerdotes、および諸神官団collegiaが聖別していた。
 7:それほどにadeo彼は幸運felixに恵まれ[子供たちと、やはりtamen同時にsimul結婚は別だったが]、インド人、スキュタエ(スキュタイ)人、ガラマンテス人およびバクトリア人は諸使節を派遣して、同盟を嘆願したほどだった。

第2章
 1:次いで、クラウディウス・ティベリウス・ネロは、アウグストゥスの子供たちの中に継子から養子縁組で迎え入れられていたが、恐れていたことどもが(杞憂で)十分にsatis安全であると気づいてから、帝権を受け入れたが、かの(アウグストゥスなる)称号は老獪に拒んでいた。狡猾で必要以上に秘密主義の彼は、しばしば偽って殊にmaxime欲していたことどもを嫌ってみせ、嫌悪していたことどもに欺瞞的に専念したりした。素質的には突発的なことにはるかに鋭敏だった。はじめこそ良かったが、その後(彼)は有害となり、ほぼfereあらゆる年齢性別に対し非常に手の込んだ情欲を持ち、かつ無実だろうとなかろうと厳しく罰し、(これは)自分の身内であるなしに関わらず同様だった。
 2:その上つまりadhuc dum、諸都市や諸集会を忌み嫌うあまり、カプレア(カプリ)島を諸々の破廉恥行為を隠すために求めた。
 3:それゆえ軍事をなおざりにしたので、ローマ法(の下)の多くの場所が強奪された。(治世)劈頭のカッパドキアを除くと、何ひとつ属州として征服されず、(それさえ)アルケラウス(アルケラオス)王が追放されたからだった。ガエトゥリ族の諸々の盗賊行為が鎮圧されたが、彼らは頭目タクファリナスの下でいたるところを襲撃していた。
 4:同時にsimul、スエビ人の王マロボッドゥスは巧妙な計略ではめられた。加えて近衛大隊が集結させられた。(それまで)近くの諸自治都市や、あるいはローマ(市内)で各邸宅に分散宿営していたのを、彼は首都隣接の陣営内に移した。彼はそこで(近衛大隊を)指揮すべく近衛長官職の称号を与え、また(その職権を)強化した。これに対しnam、身辺警護隊員の別の者たちと首都警護隊員たちを設立したのは、アウグストゥスである。

第3章
 1:かくして(ティベリウス・)クラウディウスは熱病ないし諸々の奸計により没した。そのとき彼は二三年間帝権を行使しegisset、八〇歳に一歳足りなかったが、添え名カリグラなるガイウス・カエサルが、皆から熱望されて選ばれる。(それは)祖父たちと父(ゲルマニクス)への信望のゆえだった。
 2:なぜならnamque、(アウグスティヌスの)娘を通じて曾祖父がアウグストゥスで、母方の家系にアグリッパが、ドルススがゲルマニクスの父で、(カリグラは)彼(ゲルマニクス)の子で、彼ら(アウグストゥス、アグリッパ、ドルスス)が祖先だったからである。
 3:彼らの慎み深さと、オクタウィアヌスを別にしての時期尚早の突然の死に(加えて)、大衆vulgusは同時にsimul(カリグラの)母と兄弟たちの(死)にも同情していた。ティベリウスが彼らを気まぐれな災禍で葬り去ったからである。
 4:その理由で、あらゆる者がこれほどの家系の没落を青年への期待でなだめようと努めたわけで、特に彼は軍隊内で生まれ[そこから彼は添え名を軍用靴にちなんで得ていた]、諸軍団にとって愛らしくかつ歓迎されていた。
 5:加うるに、彼はきわめて聰明だったので、誰もが彼ら(祖先)に似るだろうと信じていた。だがそれは、まったく期待とは裏腹がいわば自然法であるかのように、しばしばまるで意図したかのごとく、悪人たちが善人たちbonisから、粗野な者たちがより教養ある者たちから(生み出され)、他のことどもでも同様で、また逆も真なのである。
 6:ついにその先例から賢人たちの多くが、子供たちなどいない方がよりましだと考えるに至った。
 7:その上ceterum、カリグラにおいては、彼らはそれほど間違ってはいなかった。実際、彼は長い間気質の粗暴さを慎み深さと見せかけの従順さで覆い隠していたので、その結果正当にもmerito人口に膾炙したように、彼より良い従僕たちはいなかったが、彼ほど残酷な主人もいなかった。
 8:要するにdenique、職権を手に入れた彼は、このような本性(を持つ者)が近頃常にそうであるように、その年の数か月間諸々の偉業を、民衆へ、元老院議員らの内部で、兵士たちと共に司った。そしてある陰謀が報告されると、とても信じられないかのように、(そんな陰謀は)自分にふさわしくない、なぜなら(自分の)生命など誰にとっても負担や厄介でないからだ、と公言していた。
 9:しかし突如、最初は気まぐれな行為で無実のごくわずかな者たちを粉砕してからはcaesis、あたかも獣が生き血を飲み干すかのように本性をむき出しにし、こうしてその後三年間が過ぎたがconsumptum、その間元老院と最良者たちoptimi各々のたび重なる災難で地球はひどく傷つけられた。
10:むしろ今やetiam、姉妹たちを凌辱し既婚貴婦人たちを弄んでは、神々の装束を着て歩き回っていたが、それは「予は近親相姦によってユピテル神であり、さらにはバッカナリアの合唱でリベル神なり」と主張するためだった。
 11:かと思えばneque secus、ゲルマニア内に踏み込む期待で一ヶ所に諸軍団を集結させた挙げ句、二枚貝や巻き貝を大海(大西洋)の岸辺で拾い集めるよう命じたりもした。
 12:その際彼自身、あるときは流れるようなウェヌス女神の衣装で(兵士たちの)間に立ち、またあるときは武装して、自分への戦利品(貝殻)は人間たちからではなく天界から奪ったものだと強弁したが、明らかにこのような類いの魚(海産物)をギリシア人たちの呼ぶところにしたがいーー彼らはあらゆるものを大げさに言いたがるのだがーー、ニンフたちの瞳と彼は解釈したのである。
 13:これらのことで増長して、(自分のことを)ご主人様dominusと呼ばせdici、そして王の標章を頭に巻き付けようと企てるに至った。
 14:それが原因で、カエレアを首謀者として、鼓舞された者たちーー彼らにはローマ人の武徳が宿っていたーーが、かくも恐るべき破滅からpernicie彼を刺殺して国家を(専制政治から)解放した。タルクイニウスを追放した際のブルトゥスの卓越した偉業が再現されたことだろう、もし真のローマ人において軍隊がそれを行ったのであれば。
 15:だが(実際は)市民たちは怠惰にも外国人と蛮人を軍隊に徴募する欲望に取りつかれ、道徳は退廃し、自由は抑圧され、そして所有への欲求は増大していた。
 16:とかくするうちにinterim、さらにdum元老院決議により今やetiam女性たちも含めた皇帝たちの一門とすべての縁戚者を武装兵たちが捜索していて、はからずもウィミウスなるエピルス(エペイロス)生まれの(近衛大隊)歩兵所属の百人隊長がーー彼らは宮殿でしかるべき拠点で見張っていたーー、身を潜めていた(ティベリウス・)クラウディウスをぶざまな隠れ場所で見つけ出し、彼を引きずり出して、仲間たちに向かって叫んだ、「お分かりか、元首であらせられる」と。
 17:そしてたしかにsane彼は(精神的に)まともでなかったので、きわめて扱いやすいと洞察力のない人々に見られていた。そのことが伯父ネロ(ティベリウス)の邪悪な精神に対して助けとなり、兄の息子カリグラにおいても嫉妬とならなかった。むしろ今やetiam彼は兵士たちと平民militares plebisqueの心を掴んでいて、つまりdum彼への(一族の)目にあまる支配で、彼自身はきわめて哀れむべき存在と同情すらされていた。
 18:そのようなこと、そして多数のことが突如思い出され、誰も躊躇することなく彼をそこにいた群衆trubaeが取り囲み、同時にsimul他の兵士たちmilitumと大勢の大衆vulgiが殺到してきた。それを元老院議員たちが把握するや否や、(自分たちが)この企てausumを鎮圧可能かどうかと、すぐさまocius(人を)派遣する。
 19:しかし、種々のそして忌むべき諸反乱seditionibusで共同体と全身分が引き裂かれてしまった後なので、いわばtamquam帝権からの(命令であるかの)ように全員が(彼に皇帝として)恭順したのである。
20:こうしてローマでは王的職権が強固となり、そしてより平易に明らかにされたのは、死すべき存在(人間たち)の努力など運命の女神fortunaにとってかくも空しく、そして粉砕されてしまうcaesosqueということだった。

第4章
 1:かくしてigiturクラウディウスは、恥ずべきほど胃(の腑の食欲)に従順で、同様に(精神的に)まともでなく、かつ忘れっぽくて臆病な気質で、そしてきわめて怠惰だったにもかかわらず、多くのことを恐怖によってにせよ、とりわけpraecipue貴顕階層の諸助言にたいして、やはりtamenすばらしい配慮を示していた。その階層を彼は畏怖していたので尊重したのだった。実際quippe、愚か者たちの本性は、こうしてproinde助言者たちの意のままに行動するaguntからである。
 2:要するにdenique、良き後見人たちによって彼においては諸悪徳が、かつガリアにおいてはドルイド僧たちの悪名高い迷信が鎮圧された。可能なかぎりの有益な諸法が提案された。軍務も遂行され、諸国境は維持され、ないしローマ帝国に(新たに)以下が与えられた:東方ではメソポタミア、北方ではレヌスとダヌビウス、そして南方ではマウリ人が諸属州に加わったが、(最後のものは)ユバのあと王たちが廃されたことによる。そしてムスラミイ人の手勢manusが粉砕されたcaesaque。同時にsimul極西では、ブリタンニアの各地が粉砕されたが、彼はブリタンニアのみを訪れ、オスティアより海路進発した。これに対してnam、他のところ(の征服)は将軍たちが遂行したのである。
 3:その上さらにadhuc、穀物供給の欠乏が解決された。それをカリグラが引き起こしていた。つまりdum彼は、全世界から船舶を駆り集め、海上通路を諸劇場と諸戦車のため公共的損失をしてまでも造ろうと頑張っていたのだ。
 4:かと思えばneque secus、人口調査を新たにおこない、元老院から多くの者たちを締め出したが、ある軽薄な青年がいて、彼を自分たちにとって素晴らしいと親が主張したのでそのままにした時、彼(クラウディウス)は正しくも付け加えたものである。父親こそ子どもたちにとって監察官なのだから、と。
 5:だが彼は配偶者メッサリナの、そして同時にsimulque彼が身を任せっきりだった解放奴隷たちの甘言により堕落へと引きずられていった際に、ただ暴君たちのそれらだけでなく、夫や主人が愚かであれば、女性たちや奴隷の最も愚かな種族ができそうなことを犯したのだった。
 6:なぜならnamque、かの妻は最初みさかいなくあたかも法に則っているかのように姦通をおこなっていた。そしてそれで、非常に多くの者たちが身内もろとも消滅させられたexstincti。それは本性あるいは恐怖から(彼女の誘いを)断ったからである。女性たちのよく知られた手練手管で、彼女がかつて言い寄った者たちを自分に言い寄ったと告発したせいである。
 7:その後dehinc、より凶暴になった彼女は、より貴顕な女性たちを、結婚していようが処女であろうが、娼婦のように自分とともに売春させ、男たちも参加を強いられた。
 8:そしてこのようなことを恐れる者がいたら、犯罪をでっち上げて彼自身と家系全体に残酷極まりなく振る舞った。
 9:なぜならnamque、クラウディウスは、上で我々が示してきたように、生来非常に怖がりだったので、彼らは、彼に恐怖、ことにmaxime共謀への(恐怖)を吹き込むことによって、悩ませていたからである。そのような策略で解放奴隷たちさえも今やetiam彼らが望んだ者たちを破滅へと追いやった。
10:彼らは、最初は(メッサリナの)諸々の悪事を黙認していたが、女主人と対等とされるや否や、彼女をもまた、主人も知らぬうちに、しかしあたかもやはり(彼が)命令したかのように、従者たちを通じて殺害した。
 11:そしてたしかにsane、(その)女性は次のようなところまで進んでしまった。つまり、気質(趣味)と愛妾たち(に会う)ために夫がオスティアへと出立している間に、彼女はローマで結婚式を他の男と挙げてしまった。それでこのため(彼女は)より悪名を高めたのだが、つまりdum不可解にmirum思えるのは、彼女が皇帝の(目と鼻の)先で皇帝以外の男と結婚したことである。
 12:こうして、最高職権を手にした解放奴隷たちは、淫蕩、追放、斬殺caede、財産没収によってあらゆることを汚し、そして家長(クラウディウス)の愚かさを駆り立て、その結果かの老人は兄弟の娘(小アグリッピナ)との結婚を渇望するまでに至った。
 13:彼女は先妻よりも一層突拍子もないとみなされていたとしても、そしてそれゆえ同様の(運命)に怯えてもいて、毒薬で配偶者(の皇帝)を片付けてしまった。
 14:彼の(統治)六年目にーー彼は一四年間支配したがーー、首都創建八〇〇年祭が驚くほどmire(の規模で)祝賀され、そしてアエギュプトゥス(エジプト)ではフェニックスが目撃された。うわさではその鳥は五〇〇年ごとにアラビアから名高い諸所へ飛来するとのことである。そしてアエガエウス(アイガイオス)海の中に突如巨大な島が、ある晩に出現した。それは月食が起こった時のことだった。
 15:その上ceterum、(クラウディウスの)葬儀funusは、かつてのタルクイニウス・プリスクスのように長らく秘匿され、つまりdum女性の手練手管で堕落した番兵たちcustodesは、(彼を)病人に見せかけ、そしてとかくするうちにinterim、彼によって継子ーー彼(ネロ)を彼はほんの少し前に子どもたちの中に受け入れていたーーに国家の管理を任されたと(偽って見せかける)。  

第5章
 1:かくのごとき方法で、ルキウス・ドミティウス[これに対して(というのも)namそれが断然certeネロの名前で、父はドミティウスだった]が皇帝とされた。
 2:彼ははるかに若くして義父に等しい年数権勢を司ったgessisset。やはり(はじめの)五年間は、首都を素晴らしくmaxime飾ったので、正当にもmeritoトライヤヌスはきわめてしばしば証言したものである、すべての元首たち(の統治)はネロの五年間にはるかに及ばない、とその期間に今やetiamポントゥス(ポントス)を属州法の下に、ポレモ(ポレモン)の許可によって移動させた。これにより彼(ネロ)はポレモニアクス・ポントゥスなる称号を与えられているappellatur。そして同様にコッティアエ・アルペスもコッティウス王の死により、そうなった。
 3:それゆえ、年齢が武徳にとって障害にならないことは、これから十分にsatis確知できるcompertum。(だが)放縦によって本性が堕落すると、それ(武徳)は容易に変化し、そしてその消失はいわば若気の至りの法則のように、より危険になって戻って来るものなのだ。
 4:なぜならnamque、彼(ネロ)はその類の不品行で残りの人生を過ごしたのでegit、かくのごとき人物についていささかなりとも思い出すのは不快かつ忌まわしい、まして(彼は我が)一門の指揮者rectoremであった。 
 5:彼は、つまりdum会衆者たちを前にギリシア人の発明による冠をかけての試合certamenにおいて竪琴を弾き始めた挙げ句、次のようなことにまで進んでしまった。すなわち、自分と他人の貞節に容赦せず、最終的にextremum結婚する乙女たちのヴェールを身にまとい、公然と元老院で婚資を与えられ、皆が祝祭の慣わしで祝う中、あらゆる怪物どもから選り抜かれた者との手権婚に同意したのである。
 6:それはたしかにsane、彼においてきわめて些細なことと評されるべきである。
 7:実際、犯罪者のように拘束された者たちに対して野獣の皮を被った彼は、(男女)両性に対し(彼らの)生殖器に顔をこすりつけたり、男どもを去勢してより重大な破廉恥行為に及んだのだから。
 8:その上atque、これらの中でも彼が母親すら今やetiam汚したと多くの者がみなしているが、つまりdum彼女もまた支配欲に駆られていて、冒瀆がなんであれ息子を服従させようと熱望していた。   
 9:それを著作家たちは種々証明に及んでいるので、私は真実だと思っている。
10:なぜならnamque精神に諸悪徳が浸蝕するとinvaserint、人間たるもの、羞恥心から外部の人々に結びつこうとは決してしないものだからである。罪を犯す習慣、新奇さそして彼により甘美さをもたらすものは、最終的にはextremum彼の身内の者たちの中で果たされるagit。
 11:そのことは彼ら(二人)によってより以上に明らかにされた。つまりdum、あたかも一種の進歩であるかのように、彼女(アグリッピナ)は他人たちから叔父との結婚へ、他人たちの拷問から夫の死mariti exitiumへと、(他方)彼(ネロ)のほうは漸次、ウェスタの巫女、それから自分自身へと(進み)、最後に両者ともども彼らの身内での冒瀆へと経過した。
 12:だがかくのごとき(悪徳の)魅惑にもかかわらず、やはりtamen彼らは一体となれず、それどころかそれで彼らはやみくもに振る舞い、互いに奸計を巡らした挙げ句、先手を打たれて母のほうが亡くなった。

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