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コプト正教会、同性婚問題でカトリック教会に反対

https://www.christiantoday.co.jp/articles/33498/20240409/coptic-orthodox-church-suspends-theological-talks-with-catholics.htm

2024年4月9日

コプト正教会が、同性カップルの祝福を認めることを決めたカトリック教会との神学的対話を停止した。

コプト正教会は3月7日、エジプト北部ワディエルナトルンの聖ピショイ修道院で年に一度の聖シノドスを開催した。聖シノドスでは、各種修道院の承認や、結婚カウンセリングへのメンタルヘルスに関する項目の追加、教会内の一致のための祈りなど、さまざまな議題を討議した。一方、同教会の広報担当者であるムサ・イブラヒム神父は、今年の聖シノドスの「最も注目すべき」決議は、「同性愛の問題に対するカトリック教会の立場の変化を受け、カトリック教会との神学的対話を停止したこと」だと説明した。

コプト正教会は声明(英語)で次のように詳述している。

「(われわれは)あらゆる形態の同性愛関係を拒否するという確固とした立場を確認しました。なぜなら、それらは聖書と、神が人間を男と女として創造された律法に反するからです。コプト正教会は、そのような関係の祝福は、それがどういう形であれ、罪に対する祝福と見なし、これを容認することはできません」

「東方正教会の姉妹教会と協議した結果、われわれはカトリック教会との神学的対話を停止し、20年前に始まった対話がもたらした成果を見直し、また今後、対話を進めていくための新たな基準と仕組み作りをすることを決定しました」

「同性愛の傾向に苦しみ、性的行動から自らをコントロールする者は誰でも、そのコントロールが苦闘として信用されます。苦闘している人たちには、異性愛者と同じように、思考、視覚、魅力の戦場が残されているのです。しかし、同性愛の行為に陥る人については、不貞や姦淫(かんいん)の罪に陥る異性愛者と同じように、真の悔い改めが必要です」

教皇フランシスコは昨年12月、同性カップルの祝福を認める宣言「フィドゥチァ・スプリカンス」を承認した(関連記事:教皇、同性カップルの祝福を許可 ただし結婚に類似するものはNG 結婚の教理も堅持)。

宣言を起草した教皇庁教理省によると、この宣言は「典礼的観点と密接に結び付いている祝福の古典的な理解の幅を広げ、豊かにすることを可能にする」ものだという。また、宣言は教皇の司牧的ビジョンに基づくものであり、「これまで教導権や教会の公式文書の中において、祝福について語られてきたことからの真の発展を意味する」とし、次のように述べている。

「まさにこの文脈の中でこそ、通常とは異なる状況にあるカップルや同性カップルを、その地位を公式に認めたり、結婚に関する教会の永遠の教えをいかなる形においても変えたりすることなく、祝福する可能性を理解し得るのです」

宣言は、結婚などにおける典礼的祝福と、神の憐(あわ)れみを求める人々に与える司牧的祝福を区別。後者について、「人々が祝福を求めるとき、徹底的な道徳的分析が祝福を与える前提条件とされるべきではありません。祝福を求める人々は、事前の道徳的完全性を要求されるべきではありません」とし、司牧的祝福に限り同性カップルに対しても認める内容になっている。

教理省は宣言について、同性愛は罪深いものであり、同性婚は容認されるべきものではないというカトリック教会の教理を堅持するものだとしている。しかし、宣言に対する批判者は、結婚とセクシュアリティーに関するカトリックの教えと矛盾していると主張している。

今年2月には、宣言撤回を求める公開書簡が発表され、100人近いカトリックの聖職者や学者が署名した。書簡は次のように主張している。

「(宣言は)教理や典礼と司牧実践との間に分断を持ち込もうとしています。しかし、これは不可能です。事実、司牧は全ての行為と同様に、常に理論を前提としています。従って、司牧が教理と一致しないことを行うのであれば、実際に提案されているのは別の教理なのです」

「事実は、性的な意味におけるカップルで、そしてまさに客観的に罪深い関係によって定義されたカップルである2人に対して、司祭が祝福を与えるようになるということです。従って、この宣言の意図や解釈、あるいは司祭が行おうとする説明にかかわらず、この行為は伝統的な教理に反する、異なる教理の目に見える具体的なしるしとなるのです」

一方、米団体「カトリック・フォー・チョイス」のジェイミー・L・マンソン会長は、宣言は「驚くべき、歴史的なもの」だとし、歓迎する声明(英語)を発表。「(宣言は)LGBTQIA+(性的少数者)の可視性と包摂性を前進させるための変革をもたらすでしょう」として、次のように主張した。

「教会が、LGBTQIA+のカトリック信者や私たちの結婚、そして私たちの家族の、神から与えられた固有の尊厳と平等を完全に肯定するまでには、まだ長い道のりが必要でしょう」

「宣言は、これが教皇フランシスコの問題ではなく、(カトリック教会の)中間管理階層の問題であることを明らかにしています。この対立は、教会をより包摂的な方向へ向かわせようとしている教皇に真っ向から反対して、文化戦争でますます泥沼化している中間管理階層による、何十年にもわたる硬化した組織的汚点と反LGBTQIA+擁護の声によって引き起こされたのです」

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花粉症と私

 今から55年程前、20代に入った頃から私は花粉症に悩まされ出した。ワンゲルに属していて山に登っていたのだが、山から下りて下界の自動車道にでるとおかしくなるので、当時は排気ガスと関係があるのだろうと思っていたが、最盛期には春先になると咳、鼻水、目の炎症にひどく悩まされていて、いわば全身炎症状態。結局2月頃から梅雨になるまで、この頃の私にとって花が満開になる春先は苦悶以外のなにものでもなかったので、花見など楽しむ余裕はなかった。当時は特効薬もなく、身体が炎症を起こす前に酒を飲んでごまかすという乱暴で身勝手な対処療法を独自に導き出して実践する以外に対応策がなかった感じだった。実はこれは風呂に入ると鼻が通るだけでなく全身の炎症も軽くなるという状況から導き出した素人療法だったのだが。

 その後、まずまずの特効薬が開発され出したが、副作用として眠たくなったり胃の調子が悪くなったりしたし、鼻の穴にちり紙を押し込むなどしていたものだ(妙なもので一人でリラックスしているとき症状がひどくなり、人前に出るなどして緊張しているとそうでもなくなる)、だから5月6月の学会発表のための準備の時期の、春先の仕込み時期は花粉症に悩まされながら、本当に苦しかったことを思い出す。だから自律神経症でもあるような。

 そうこうしているうちに、薬の改良と加齢によるのだろうが、徐々に楽になってきたのはさていつごろからだっただろうか。60代ごろだったかな。最近では、おっ花粉症だろうと思っても薬も飲まずに凌いでいる。春だなと思うのはもっぱら目に限定されてきているように思う。そして、今日、福袋的に以下の情報を得た。「花粉症とがんの不思議な不思議な関係」(https://mainichi.jp/premier/health/articles/20240402/med/00m/100/002000c?utm_source=article&utm_medium=email&utm_campaign=mailhealth&utm_content=20240406)。ガンの種類によってはがん発症リスクが減少するのだそうだ。私は基本的に認知症になるまでに普通に病死することを願っているので、さてどういう結末になることやらと思いつつ。

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今日のクリスチャン・トゥデイ

今回最大の話題は以下かと。

福岡カトリック神学院が閉校 東京カトリック神学院が「日本カトリック神学院」に

2024年3月30日11時14分

福岡カトリック神学院
2023年度で閉校となる福岡カトリック神学院(写真:クータロ)

福岡カトリック神学院(福岡市城南区)が2023年度で閉校し、東京カトリック神学院(東京都練馬区)が24年度から「日本カトリック神学院」と改称することになった。

長崎大司教区の「カトリック教報」(24年4月号)によると、福岡カトリック神学院では2月23日、閉校式と感謝ミサ、祝賀会が長崎教会管区主催で行われ、約130人が参加。長崎教会管区の5教区(長崎、福岡、大分、鹿児島、那覇)の司教5人のほか、福岡カトリック神学院を運営していたサン・スピルス司祭会(聖スルピス会)のハイメ・モラ総長・カナダ管区長代理や、東京カトリック神学院の稲川圭三院長、同窓の司教や司祭らが出席した。

福岡カトリック神学院は1948年、戦後の求道者増加に伴い司祭養成が急務となり、「福岡サン・スピルス大神学院」として、福岡市内にあった聖母訪問会の建物を譲り受けて開校。51年、現在地に新校舎が完成し移転した。戦前から神学生の指導に当たっていた聖スピルス会カナダ管区が養成を担い、開校以来70年余りの間に、約800人の神学生が学び、約300人が司祭に、14人が司教に叙階された。

2009年から10年間は東京カトリック神学院と統合し、「日本カトリック神学院」の福岡キャンパスとなっていたが、19年には再び独立した「福岡カトリック神学院」に。長崎教会管区の5教区による諸教区立神学校として、司祭養成を行っていた(関連記事:日本カトリック神学院、東京と福岡の2つの諸教区立神学校に移行へ)。

鹿児島教区の「鹿児島カトリック教区報」(24年4月号)によると、「神学生数の減少により、共同体としての養成が困難になった」ため、長崎教会管区の司教団が閉校を決めた。

東京カトリック神学院の改称により、「日本カトリック神学院」が再設立されることになるが、福岡カトリック神学院は閉校となるため、かつてのような東京・福岡の2つのキャンパス体制ではなく、東京のキャンパスのみとなる。

カトリック中央協議会によると、ローマ教皇庁福音宣教省も今月7日には、福岡カトリック神学院の閉校と、東京カトリック神学院の日本カトリック神学院への改称を発表した。

 【物覚え悪い私は、サン・スルピス会諸師著/サン・スルピス大神学校訳『羅典文法』改訂版、光明社、1956年、でラテン語を学びはじめ、現在もサン・スルピス会諸師著/ジャック・ツルデル監修『ラテン文法』三訂版、サンパウロ、1984年、をかつて古本で買いあさっていまだ使用している】

以下の関連情報は旧聞に属するが、これだけ並べられると迫力ありすぎて:

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ローマ軍ドラゴン旗について

 ポーランドのブログ「IMPERIUM ROMANUM」をチェックしたら、「ドラゴン旗」dragon standard を見つけた(2024/3/24)。

Roman dragon head | Photo: © Generaldirektion Kulturelles Erbe Rheinland-Pfalz:30x12x12 cm

 このブログはご多分にもれず新発見報告でもないし、短い説明が多い。せいぜい以下の程度の叙述なのだ。

 「青銅製のローマ時代のドラゴンヘッド。 この物体は西暦 2 ~ 3 世紀に遡る。 Niederbieber(ドイツ)で発見された。 この工芸品はローマ騎兵隊の旗を飾り、一人のdraconariusによって運ばれた。

 風がドラゴンの茶色の口を吹き抜け、今日の空港の吹き流しスタイルで布製の尾をはためかした。 敵を威圧するために、ドラゴンの首に笛が取り付けられ、疾走中に不気味な音を響かせたと考えられている。」

疾走中の保持には、風圧もあってかなり腕力が必要だったようだ

 付加すると、このNiederbieberのドラゴン旗、これまで発見された完品で唯一の存在。音を発する仕組みはよく分かっていないようだが(そもそもあったのか、私的には若干疑問)、中国発祥の凧の音声発生装置がらみの先行例もあって、それが西漸し元々はスキタイ草原地域のステップ遊牧民のものだったが、トラヤヌスのダキア戦争あたりでローマ軍にその存在が認知され、その後補助軍の騎兵隊に採用され、後期帝国では軍団の大隊cohort旗になったとか、弓兵隊のため風向きを探る目的もあった、否、単なるおどろおどろしい風変わりな所属部族のトーテムだったのだ、と様々に想定されているようだ。

 多くの文字情報のみならず、かつて私が触れたことのあるコンスタンティヌスのアーチ(アーチ東面のローマ入城式で、騎兵隊の頭上に飜っていたのは象徴的)をはじめとするレリーフ等の画像でも表現されていて、魅力的な研究対象となりえ、私自身も今回かなり集めたが(ガレリウスのアーチにもあったのは不意打ちだった)、後進に残しておこうかな(http://www.fectio.org.uk/articles/draco.htm)。また、造形もドラゴンに限らず、野生動物や魚だったりもする。なので、研究者はこれを「dragon」と表記せず総称的に「draco」としているようだ。

 一つだけ付け加えて置くと、紀元前のケルト人が使ったカーニクス carnyx という管楽器(音響兵器)は演者が吹いて音を出すので、基本的に構造が違っているが、不気味さではこっちの音が勝っているように思う。その音声は以下:https://www.youtube.com/watch?v=auR-lJfzTeY&t=15s;https://www.youtube.com/watch?v=X3NUniNi43s

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最近のクリスチャン・トゥデイ

 毎週定期的に送られてくるはずなのだが、そうでもないようで、しょうがないのでこっちからアクセスしてみたら、やっぱり新情報が。色々あるが、カトリック関係で2つほど紹介。

1 神父が男性に不同意性交か、22年に緊急帰国し調査中 カトリック札幌教区が公表:2024年3月21日

https://www.christiantoday.co.jp/articles/33416/20240321/catholic-priest-sexual-assault-catholic-diocese-of-sapporo.htm

2 仙台白百合女子大学、次期学長に加藤美紀教授 棋士・加藤一二三氏の次女:2024年3月19日

https://www.christiantoday.co.jp/articles/33410/20240319/sendai-shirayuri-womens-college-new-president.htm

関連情報:いずれも旧情報ですが

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「トイレの研究」で東大に推薦合格

 2024/3/24:https://toyokeizai.net/articles/-/737664?utm_campaign=ADict-edu&utm_source=adTKmail&utm_medium=email&utm_content=20240323

 最近推薦入学者が増えているのは知っていたが、東北大で30%にもなっていることは知らなかった。詳しくいうと、別途、帰国子女枠や提携高校枠なんかもあって、それらを含めるともっと多くなるはずなのか、それも織り込み済みなのかは不明だが。

 東大でも2016年度から100名を受け入れてきていたそうで、それでも毎年の合格者数3000からみると、わずか3%強にすぎないのだが、その中に「オールジェンダートイレの研究」と言うテーマで昨年、経済学部に合格した女性がいたそうで、驚いた。

 彼女を特集した記事を読むと(https://www.asahi.com/edua/article/15096773)、研究テーマの成果だけでないことも分かって、さすがに推薦といってもそんなに簡単でないことが理解できる。

 

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小田嶋隆がおいしそう、もとえ、面白そう

 ググっていたら偶然、「小田嶋隆さん、お疲れ様でした。そしてありがとう。」(https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00162/)に行き当たり、そこから、日経ビジネス電子版で「『ア・ピース・オブ・警句』~世間に転がる意味不明」(https://business.nikkei.com/article/life/ 20081022/174784)を知り、衝動的に古書で『ア・ピース・オブ・警句 5年間の「空気の研究」2015-2019』日経BP、2020を発注してしまった。

 この著者、1956年東京都生まれで、2022年に65歳で死亡したコラムニスト。一見意味不明の著書名であるが、「a piece of cake」(朝飯前、たやすい、の意)から来ているそうで、他の書名をみても『上を向いてアルコール』とか『諦念後』といったオヤジギャグめいたネーミングもあり、まあ洒脱なお人柄のようにみえた。

 そんな彼の文章の中にこんなのを見つけた。同感である。しかし読ませる筆力も才能であって、「アタマ」抜きにはダメだろうが。

    原稿執筆は、老年と相性が良い。
   テキスト作成は、場所もとらないし、道具もさほどいらない。自分のウデとアタマとPCが一台あれば、たいていのことは間に合ってしまう。
   だから病気をしても仕事ができるし、足腰が衰えてもなんとかなる。
   そんなわけなので、将来の変わり身に向けて多彩な選択肢を持っているみなさんには、いまのうちに「書く技術」を身につけておくことを、強くおすすめする。

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中高の同窓会支部から連絡が

 同窓会関東支部から4/19に大学新入生の歓迎会をするとメール連絡あった。その場所が、銀座の出身県のアンテナショップなので、まあ東京が長い者にはなつかしいかもだが、やっと故郷からトウキョウに上京してきた18歳にはどんなもんだろうか、とちょっと疑問に思ったことだ。

 社会人¥5500で(新入生無料、学生2000円、年金生活者への割引はない)、基本的に参加予定だが、体調の急変があるかもで、突然のキャンセルを前提にしなければならない。昨秋の街歩きはそれにあって急遽参加中止した。

 私は5期生で、今年の卒業年次は63期だから・・・、恐ろしいことに58才も歳が離れている。孫の世代だ。出席したら間違いなく最年長。なんだかやだなあ。

 そういえば、同期生世話人から、同期の死亡連絡があった。私の知る限り、たぶんこれで同期生の二割がみまかったことになるはず。ここから80才になるまでばたばた消えてゆくのだろうな。そのうちの一人が自分のような気がしてならない。

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最近のエウセビオス評価

 我孫子の読書会で、『教会史』のことが知りたいというホント奇特な人がいて、それで「私にとって『教会史』はエウセビオスをすることになるのですが、それでよければ」と断った上で、エウセビオスがらみのおさらいをはじめている。次回が三回目で、その流れで最近の研究書をチェックしていて、たとえば以下を見つけた。

 ① Éric Rebillard, Christians and Their Many Identities in Late Antiquity, North Africa, 200–450 CE , Cornell University Press, 2012.

 ② Candida Moss, The Myth of Persecution: How Early Christians Invented a Story of Martyrdom, New York, 2013.

 いずれも今から10年以上前のものだが、①のほうは我が書棚にあったけど未読だったもの、でも発掘が面倒なので、我が図書館のを借り出した(^^ゞ ②は手元にも我が図書館にもないので発注中(安価な本体より郵送費がかかる計算)。アマゾン・コムの読者レヴューをみると、それなりに評価されているようであるが、問題も多々指摘されているので、まあこういった問題には正解はないといわれかねないかもだが、私からすると、浅薄で表面的な史料批判が目につく、いわば先に結論ありきというか思い付きがあって、それに合わせて史料を並べているようにも思える。それが顕著なのは、両書ともエウセビオス叙述には批判的、というわけで、私的には突っ込みどころ満載の予感がする。ただし、両書とも周辺部分で新知識を与えてはくれはするだろうが。

 いずれにせよ、欧米人研究者に刷り込まれた先入見は未だ強固だ。それを極東人の私なんかが是正できるとは思えないが、しかし私ならではの見直し作業を残りの人生で果たしておきたいとは思う。その意味で、いい時期にいいご提案を頂いたように思う。頑張りたい、私なりの「エウセビオス論」を。

【補遺】以下の著書も重要と思われるが、他はともかく(京産大のみ所蔵)、我が図書館に所蔵がないのはどうしたことか。やっぱりK.リーゼンフーバー師のリタイア(2009年)、死亡(2022年)の影響は大きいようだ。このあたりで恩師の継承なんかなかなかできるものではないと思い知った感じする。

  Dirk Rohmann, Christianity, Book-burning and Censorship in Late Antiquity: Studies in Text Transmission, Baylor UP., 2017:学位論文のせいか高額! でも、いずれ我が図書館のために、こ一万円しても購入しておくか。

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