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バチカンに勝算あるのか:最新世界キリスト教情報

 第1485信:2019/7/8

 今回の筆頭に「天主教愛国会への参加許可するが強制はしない、とバチカン新指針」との記事がでていた。昨年、バチカンと中国の間で「暫定合意」がなされて以来、混乱が続いている。当然、台湾や香港の高位聖職者からは決定に対して異論が出てきていた。どういう勝算があってバチカンはこのような行動に出たのか、果たして深謀遠慮あってのことなのか、私には未だ判然としない。暫定合意の核心は、中国側がすでに任命していた司教をバチカンが追認することにあった。ところで片手落ちにも、これまでバチカンに忠誠を誓ってきた地下教会やその聖職者に関しての取り決めの有無は今に至るまで明らかにされていない。だが、中国側がこれまでに倍して居丈高に地下教会に対して振る舞うのは当然で、混乱が生じないはずないことは事前に十分に予想されたはずである。それに対して今回バチカンは「良心に照らし合わせて、現状では愛国会に登録することができないと決断した者の選択を理解し、また尊重する。バチカンはこのような決断を下した者に今後も寄り添い、それぞれが試練に直面しているとしても、信仰における信者との交流をお守りするよう主に願う」と記している。同情と理解に満ちた言葉とは裏腹に、これまでの行きがかりを捨て、気持ちを整理して、早く愛国会に合流しなさい、と言っているようにしか思えないのだが。

 司教叙任権問題なので、教会法的にみるときこの妥協に正統性があるようには到底思えないが、これが実は、その場その場での状況に合わせてきていた教会法の真の実態であった、と考えればいいだけなのかも知れない。汎用性のある、体制教会にとって都合のいい法文が収集され保存され教会法となり、後世の教会にとって都合の悪いものは意図的に忘却ないし抹殺されてきたというのが、実態だったのだろう(もし再発見されても、地方的決定に過ぎないとか、異端的で誤っている、として葬るわけ)。このダブルスタンダードを研究者は想定して立ち向かわなければ、まんまと制度教会の術中にはまることになるだろう。それにしても、これが266代目教皇フランシスコ下におけるいかなる新機軸になるのだろうか。

 こういった視点から3、4世紀の北アフリカのキリスト教分裂を考え直してみると、さてどうなるのだろう。実はあの時の喫緊の課題は、これまで研究者がかかずらわってきている表側の神学的論義にあったのではなく、ローマ教会や有力信者が北アフリカに保有していた所領保全にあった、という見解に私は1票を投じているのだが(それが、前に触れた故M.A.Tilley女史の論文である:Theological Studies, 62-1, 2001, pp.3-22)、その時ローマ教会と大土地所有者側に立って現地で論陣を張ったのが、アウグスティヌスだった。あの時も地元のドナトゥス派のほうが圧倒的に優勢だった。中国でも目下圧倒的に有力なのは地元の天主教愛国会のほうなのだが、ローマのバチカンは今回、現地の誰の後ろ盾になって事態を乗り切ろうというのだろうか。現代の中国に、はたして劣勢を覆すアウグスティヌスがいるとでもいうのだろうか。

【追伸】2019/7/15発信の同情報によると、「カトリック天津教区の石洪禎司教、愛国教会不参加で司教の権利失う?」の記事。

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イタリア情報:ブログの消長と坂本鉄男先生

 イタリアの情報(私の場合、言うまでもなく歴史とか考古学関係)を得るのにこれまでたいへん役立ってきたブログにcucciolaさんによる「ルネサンスのセレブたち」があった。現地の新聞や雑誌からのトピックスの紹介がすばらしかった。書き手の女性はたぶん美術系で、イタリア人と結婚されてCastelli Romaniにお住まいであった。私にとっても貴重な情報をたくさん掲載されていたが(関係分は保存している、はず)、先日行ってみると休止の掲示があって、なぜか過去ログも全部読めなくなっていたので、単純な休止とは思えない。理由は不明ながら、私的には著作権侵害などでの中断でないことを念じている(こっちも居直って危ない橋を渡っているので(^^ゞ)。再開を心待ちにしている次第。なにしろ退職してそれまで継続的に購入していた考古学関係の一般向け雑誌を打ち切ったので、なおさらである。

【追伸】cucciolaさんのツィッター(小食で下戸、なのに食文化に興味津々の一主婦)は、2014/1から始まり、今年の6/2まで書き継がれていて、未だ読めることを確認。これだけでも相当量の情報だ:https://twitter.com/cucciola1007(その中でお名前とお写真も入手できたが、一般人であらしゃるのでここでの掲載は思いとどまっておこう)。

 このように、ブログは書き手の都合で突然終わる運命を辿る。たとえば、今は昔、パソコン通信時代から古代ローマ史関係の書き込みが盛んにされていた「古代ローマ」(http://www.augustus.to/:2000/8以降)は、2000/8/18からaugustus氏主催で始まったが、まだ昔の過去ログが読める。途中から髙島某氏が盛んに出版情報を掲載しだして、たいへん賑わっていたが、2012/11月に彼の書き込みが前触れもなく中断すると、ぴたりと書き込みがなくなり、1年に3通ほどが続き、とうとう2018/2以降現在まで投稿はひとつもない。また、それが掲載しているリンク先36(玉石混合ながら)中,20年後の現在も見ることできるのは10となっていて(継続更新しているものはもっと少ない)、その半数は海外の検索サイトである。ここからも、残念ながら我が国のデータ蓄積力の底の浅さを感じざるを得ない。いつになったらシステマティックな構築がなされるようになるのやら。心許ないことである。

 それに代わって新顔が現れていないわけではないが、どれもこれも短命で開店休業ばかりのようだ。どうも我が国の研究者は、小規模な個人企業の認識しかないようで、それでは記事的に片寄っていて読者には面白くなくて、しかも早晩息切れしてしまうわけである(このブログもご同類だが)。

 そんな中で、いつからか始められたのか存じ上げていないが、坂本鉄男先生がずっと産経新聞に隔週(昔は毎週)の火曜日に「外信コラム:イタリア便り」を書かれていて、今も継続されていて、市井のイタリア的感覚を発信し続けていらっしゃる(たまに新聞記者と誤解されて叩かれているが)。私はかつてウェブで産経新聞が無料だったときからこのコラムを愛読していたが、産経の無料が終わって、しかし今は日伊協会のHPで若干の遅れはあるが読むことができるのは有難い(https://www.aigtokyo.or.jp/?cat=27:但し、現在は2010年11月以降のもの:私はそれを2009年 11月15日からすべて保存している)。それはこんな話で始まっている。

彼がまだ現役だったころのお写真

坂本鉄男 イタリア便り 犬と外国語

    イタリアの有力紙の一つによると、犬は人間の2歳から2歳半の幼児と同じ頭脳を持つという。また、一番頭のよい犬種は「名犬ラッシー」の種類のコリーで、次いでプードル、シェパードの順になるらしい。  ここで、「犬と外国語」について私の経験をお伝えしたい。  約30年ほど前、ローマで真っ白な縫いぐるみのようなかわいい子犬を購入したことがある。購入直後、わが家を訪問した当時のローマ市立動物園の園長氏が子犬を見るなり「この犬は羊の群れを守るためオオカミと闘ったことで有名なマレンマ犬だ。体重は30キロ以上になりますよ」という。   しかし、幸いメスであったことと、少し雑種だったことから体重は二十数キロで止まった。だが、オオカミと闘った祖先には申し訳ないほど気が弱く、散歩中に小猫を見ても大きな体をしているのに立ちすくんでしまう。   家族の愛情を一身に集めたが約11年の短い寿命だった。愛犬で一番困ったのは旅行のときであった。家庭内では日本語しか使わないため純粋なイタリア犬なのに自国語が全然わからないこと。このため、旅行に行くのに犬屋に預けるのはあまりにもかわいそうだ。   結局、日本に1カ月ほど帰国旅行したときは、ナポリまで車で運び日本語が達者な大学の同僚夫妻に世話を頼み、1週間前後のときは大学の教え子に自宅に泊まってもらった。犬だって外国語には弱いのである。

 そして、今年の2/19はこんな具合。

坂本鉄男 イタリア便り 誰がために鐘は鳴る

   時計が1軒の家にいくつもある現在と違って、昔は洋の東西を問わず、お寺や教会の鐘の音は冠婚葬祭などの宗教的行事のみならず、時刻を知らせる役割も果たしていた。  日本の童謡「夕焼け小焼け」や、ミレーの名画「晩鐘」などは、寺や教会の鐘の音が子供や農民に遊びや仕事をやめて帰宅する時間が近づいたことを知らせていたことを示す代表的な童謡と絵画である。   ローマから東に約160キロのぺスカッセロリ村は海抜約1千メートルの山地にあり避暑地として名高い。  この村に約1,100年前に創立された「聖ピエトロ・パオロ教会」の司祭アンドレア・フォリオ神父は、村の少子高齢化で教会の鐘が葬式ばかりに鳴るのにうんざりして一計を案じた。「村民の諸君、特に若い女性の皆さん、今度から赤ちゃんが生まれるたびに赤ちゃんの100歳までの長寿を祈り教会の鐘を100回鳴らすことにします」と。奇抜な案に村民は驚いたものの多くが賛成した。  イタリアの少子化は著しく、一昨年の老齢化による死者の数が63万4千人だったのに対し、新生児は44万8千人であった。  これではフォリオ神父が心配するごとく、教会の鐘はまさに「誰(た)がために鳴る」のか問いたくなる。

 坂本先生は1930年3月生まれなので、そろそろ90歳。すごい、の一言である。代わりの人材がいないというよりは、余人に代え難いのである。一昔前の研究者にはこういう傑物・快物がごろごろいた、という印象があるが、現在は、一見情報があふれかえっていて、その中に埋没を余儀なくされ、しかもその実その大半はつぶやいた途端に消え去る泡沫情報といっしょの運命をたどるようで、昨今の思考の軽さはなんなのだろう。なんだかな、と慨嘆したくもなる。

 又、最近私が注目しているのが「ARCHAEOLOGY NEWS NETWORK」の「Archaeology」である(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/#Pu8yKs0jVC7UIz6m.97)。ここに掲載されたトピックスを他のウェブ記事を加味して継続的に紹介するだけでも、かなりの有益な情報を共有することができると思うのだが。といっても、なにしろ量が多いので、自分の持ち領域をそれぞれ分担する仲間が数人いるといいな、と思ったりもしているのだが。なにせ古代ローマの考古学は日本ではまだ黎明期以前、地中海のそれを紹介するだけで意味あることだと、私など思っているのだが。

 しかも、である。このHPを見ていると、新発掘の情報のみならず、遺跡で観光客が遺物を失敬して捕まった記事(やっぱり、ね)、それから、エジプトやギリシアが遺物を持ち帰った西欧諸国の博物館に返還要求をし、それを拒否したり、返したりしている記事、それどころか盗難品が出てきたの、また博物館がフェイクを掴まされているのが判明したの、といった普通おもてに出ない情報も出ていて、なかなか目端がきいてセンスがいいのである。

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遅報(11):アウグストゥスの寝落ち

 以下、「痴呆への一里塚(10)」にすべきかと迷ったのですが、こっちの「ちほう」にしました。

 以前、昼間、突然の睡魔に襲われて、といった類いのことを書いたことがあるが、最近どこかで読んだウェブで「寝落ち」という病気があることを知った。

 私はこれまで、老人になって食後の眠気の状態が極端に出ていると素人判断していたのだが(自体験的には、どうも退職後顕在化したような気がしたこともあり)、これが、ナルコレプシーという脳内物質の分泌不全の可能性もある、ということのようだ。

 ま、私にとってそれはそれで老化現象の一種でしょうがないわけだが、アウレリウス・ウィクトルを見直していて、ひょっとしてと思いついたのは、アウグストゥスのことだった。「1-4:性癖的にかの人物は市民的で魅力的だったが、まったく節度がないほどの贅沢三昧と諸競技に熱中し、そのうえ睡魔には抑制がきかなかった」。彼、ひょっとするとこれではなかったのかな、と。大叔父のカエサルにはてんかんという持病(当時てんかんは「神聖病」と捉えられていたらしい:https://dot.asahi.com/dot/2017080900082.html?page=1,2)があったので、あの家系は(なんて今日日不用意にいうと怒られるかもだが)、脳機能に先天的遺伝的な弱点があったのかもしれない、と妄想をたくましくしたくもなるのだが、どうだろう(cf., スエトニウス『ローマ皇帝伝』[國原吉之助訳、岩波文庫]「カエサル」I.45、「アウグストゥス」II.16;プルタルコス『英雄伝』[長谷川博隆訳、ちくま文庫]「カエサル」17)。

2008年アルル付近のローヌ川底から発見された最古(生前製作)のカエサル像

 絵に描いたような正常で健康な人間などというものはどこにも存在しない。ちょっと常態を踏み外した存在がある才能に特化していると天才だったりする。そこまで生産性はなくて回りに「あいつ普通じゃない」とうさんくさく思われる存在は変人・奇人といわれるのだろう。さらにそれが病的に問題行動をとるようになると異常者か。しかし、常習性はなくて突発的に問題行動をとってしまう場合もあるはずだ。どうみても天才ではない私は、せめて奇人で終わりたい。

【追記】書いていて思い出したのだが、実は、一昨日の火曜日、渋谷での勉強会を終えて地下鉄で帰宅途中、21時前だったろうか。車内で女性の小さなどよめきが聞こえた、ような気がした。それで声のほうをみると、満員の車内のほんの2m先で30歳くらいの若い女性が隣の人にもたれかかるようにして床に倒れていた。別のそばの女性が親切にも助け起こそうとしたが(日本人の男はこう言う場合動かない、いや、あれこれ考えてしまって動けないのでア〜ル)、その時は目を閉じ上半身がずるずるとなるだけで、立てそうもない感じだった。私にはペットボトルをしっかり握っていたのが妙に印象に残っている。こりゃ何ごとかととまどっているうちに、1、2分たっただったろうか、ようやく立ち上がることもでき、一番近くに座っていた男性が立ち上がり席をゆずろうとしたのだが、ちょうど停まった駅でプラットフォームに降りることもできた。あとはもちろん知らない。

【追記2】4年前に、カエサルの症状での新知見もでていたようだ。https://www.afpbb.com/articles/-/3045562

 カエサルの顔の復元も試みられている:https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/07/julius-caesar-may-have-been-less-heroic.html#LRlAIOW6s1FvbFxZ.97

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予告:ポンペイ埋没日時問題について

 6/29のTBSで放映された「日立世界ふしぎ発見!」で、ポンペイ新発見の落書きが紹介されました。番組自体はとっちらかった内容で今一でしたが、ヴェスビオ山噴火の日時に関しては、実は昨年10月のポンペイ考古遺物管理事務所の公表以来、坂井聰氏が注目されていた件です。私は氏から第一報をいただいていたのですが、不覚にもこの番組まで失念しておりました。

 しかも、今回の落書きに関しては、最初の公表時の読み(こちらのほうがウェブで拡散)と、その後読み替えがあったようで、そのあたりを含めて近々にまず坂井氏の第一報を掲載したいと思ってます。これは2016年3月に出版された我々の『モノとヒトの新史料学』勉誠出版に氏にお書き頂いた論考「ポンペイはいつ埋没したのか:噴火の日付をめぐる論叢」の続編という意味合いがあります。【坂井氏による第一報が、2019/7/23にHPのほうに掲載されましたので、ご一読ください】

【追伸】その前座として、今回の発掘地点の情報を検討しておきます。2018年の発掘地点は、pompeiiinpicturesの情報から、第5地区の第2、3、6、7街区で、2018年に続々公表された新発掘はいずれもこの箇所からと思われます。

 その中で、V.3の「Casa con Giardino 」なる場所から、埋没後に貴重品の盗掘者たちが跳梁跋扈していて、少なくとも6体の遺体から金品を奪い取ったあとの骸骨が積み重なって出てきた部屋が、2018年10月に公表されてます。例の落書きもどうやらここから出現したようです。Five skeletons found at Pompeiihttps://www.pompeionline.net/edifici/regione-v/casa-con-giardino;https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/10/five-skeletons-found-at-pompeii.html#cdq63TI4GsPMS9xV.97

以上、pompeiiinpicturesより
発掘地風景

 なお、この区画で発掘された素晴らしいフレスコ画を綺麗な画像で紹介している記事を2つ紹介しておきます。やたらプリアポス画が注目されてますが (^^ゞ

http://www.iitaly.org/magazine/focus/art-culture/article/consolidation-work-pompeii-reveals-new-fresco-priapus:ここではV.6としてます。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/08/pompeii-fresco-of-prosperity-in-house.html#GKdBwDtbscMk6yko.97

 以下は、レダと白鳥図。 https://edition.cnn.com/style/article/leda-and-the-swan-pompeii-mural/index.html ;そこから今年になって今度はナルキッソスのフレスコ画が公表されました。往年の生活空間の華やかさ、なんともすごいですね!:https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2019/02/stunning-narcissus-fresco-at-pompeii.html#TCl7pW1523lc3RAZ.97;https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2019/03/the-thermopolium-of-pompeiis-regio-v.html#boIj2XrUcA3WX2eV.97

 そして、飛んできた石にあたって頭部の飛んだ骸骨。これの出土場所もここだったのかもしれません。 https://www.bbc.com/news/world-europe-44303247

 これには後追い記事も。なんだかビックリして大口開けての死に顔にみえます: https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/07/ancient-pompeii-victim-not-crushed-by.html#rqH59eTFZPPorzPz.97

 これらもこの発掘地点でしょう。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/10/enchanted-garden-discovered-in-pompeii.html#9qqWwBQXKpF5q2W0.97; https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/08/pompeii-new-discoveries-brilliant.html#dpBbzmxrU5gojsTC.97;https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/06/new-findings-in-pompeii-paint-vivid.html#mejZ1Hq8VGzR7zh4.97;https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/05/spectacular-wall-frescoes-discovered-at.html#zsbD3fw5wd3z11gm.97; https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/05/alley-of-balconies-uncovered-at-pompeii.html#0fqtYGr82ms2m1GM.97

 これまで遺跡で、発掘以来200年を経た色あせた壁面ばかり見ていた身からすると、その鮮やかさには目を奪われます。どうしても博物館での展示は生活感ないので、現地保存の重要性とともに、現地保存していると「発掘は遺跡破壊」という思いにかられますが、往年の保存技術よりは数段進んでいることを期待せざるをえません。

【追伸2】今回の落書きの周囲の状況が現段階で一番よく分かるのは以下かと。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/10/charcoal-inscrip
tion-points-to-date.html#6Jw2qeBrgFZXhO0h.97
EPA9029. POMPEYA (ITALIA), 16/10/2018.- Vista de una inscripción en una pared encontrada durante una excavación en Pompeya, Nápoles, Italia, hoy 16 de octubre de 2018. Una inscripción a carboncillo descubierta en las paredes de una de las casas de Pompeya acaba finalmente con la duda histórica sobre la fecha de la erupción del Vesubio que sepultó a la ciudad y que fue el 24 de octubre y no el 24 de agosto del año 79 d.C como se había creído. El ministro italiano de Cultura, Alberto Bonisoli, ha calificado este descubrimiento como “extraordinario”. EFE/ Ciro Fusco

【追伸3】この区画でもすでに盗掘が!  https://www.discoverychannel.jp/0000042029/

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ペルペトゥア・メモ:(6)XIX-XXIで気になる箇所

 この箇所は、私からすると突っ込みどころ満載、すなわち素直に読んでいると引っかかる箇所だらけなのである。

① XIX.2-6:自分はどの野獣にやられたいかという、獄中での男どもの与太話は、いかにも獄中での会話でありそうな話で、リアリティ十分で面白かった。その中でHeffernanの指摘で興味深かったのは、サトゥルスが自分は豹の一噛みで死にたいといっていたが、実際にはまず猪、ついで牡熊に向けられたけれど、野獣の都合で闘獣がうまくいかず、結局彼の予言通り豹により瀕死の重症を負ったことを、サトゥルヌスの予言の成就とみなしている点だった。

② XIX.5:闘獣士がサトゥルスと猪を「しっかり縛りつけ」ようとしたとは、闘わせる人間と野獣、野獣同士を、互いに鎖で繫いでいたことを意味していた。

Jamahiriya Museum所蔵,リビア:結びつければ互いに闘い出すものでもないだろう。そこでそばから闘獣士が鞭を振るって向かわせるのだろう(右端にちょっと見えている:余談ながら、牛の下の人物は、石器時代の画期的発明だった投槍器で獲物を仕留めている)

③ XIX.6:サトゥルスが牡熊と対決させられたとき、彼が「橋の中で縛られ」たsubstrictus esset in ponteという意味が自明でない。熊が檻から出て死刑囚が縛られている台の階段を上っていく装置が「橋」に見えたのだろう。観客が見やすいようにするため、そういう舞台をしつらえたようだから。これについては、以下の論文で、奴隷売買の台catasta、舞台の奈落pegma、演台pulpitumといった装置と同様のものをponsと呼んでいたことが分かった。Jean-François Géraud, «Ad bestias ».Manger des hommes, Journées de l’Antiquité et des Temps anciens 2012-2013, Université de La Réunion, Apr 2012, pp.19-46.

奴隷市場風景:Gustave Boulanger,19世紀(売りに出されている老若男女それぞれの表情が、いかにもそれらしく描かれていて感心する:真ん中の品のない老人は奴隷商人か)
ランプ(北アフリカ出土:現所在不明)やテッラ・シギラータ(Vienne)では、野獣刑がこんな感じで描かれているので、中央が高いローマ式の橋に見えないことはない
こういう立派な舞台が仮設された場合もあったらしい。四隅に立っているのはトロパイオン:Sollertiana Domus出土, El-Djem博物館所蔵
上記モザイクのモデルだったと思われる植民都市Thysdrusの円形闘技場(現El-Djemそば)は、プテオリ、カルタゴに次いで帝国七番目の規模だった。そこでの現代版仮設舞台

④ XX.1:「娘」に慣習法に反して「雌牛」をあてがったという表現は、表面的には意味不明である。「悪魔は・・・」とか「性にすら嫉妬する・・・」といった、刺激的で大げさな表現が見てとれる、こういう箇所にはだいたいにおいて書き手にとって都合の悪いことが隠されている。裏に表ざたにしたくない事情があり、編纂者はその真意をごまかしたい意図があるからだ。ここでは、出産を経験しているペルペトゥアとフェリキタスをなぜか「娘」とことさら呼んでいることにまず引っかからずにはすまないはず。すなわち編纂者は事実に反して彼女たちを処女とみなしたかったようだ。彼女たちは二人とも出産を経験していることが明言されているので、この表現は読者に違和感を感じさせずにはおれないが、それでもなお編纂者は彼女たちを「娘」と表現したかったわけである(Heffernan、p.346f.は、PolyxenaやIphigeniaといった悲惨な犠牲に捧げられたギリシア神話に登場する女性を援用して解読を試みているが、今の場合まったく見当外れだろう)。その彼女たちが雌牛の前に立たされるのだが、この編纂者いうところの「娘と牝牛」という異例の組み合わせの裏に、どんな異例さがあったのか、私にはこれといった予備知識はないが、おそらく北アフリカの、カルタゴ地方の一般民衆にとって当時自明の慣習的共通認識があり、その意味合いを否定できなくともできるだけ薄めようと編纂者が苦心惨憺していたように思えてならない。私はこの箇所を、彼女たちは不義密通者・姦通者として扱われたと想定する時一番よく理解できると考える。この想定が当たっているなら、彼女たちの妊娠・出産の実際を判定する上で、きわめて重要となるはずだ(すなわち、この箇所は冒頭第2章の編纂者の編集句と連動していることになる)。すなわち、彼女たちの妊娠が当時の社会通念に反していたという認識が世間一般にあり、野獣刑もその線で具体的に実施されたのだろう(それを受難記は削除しているわけだ)。殉教者にふさわしからぬこの不都合な「濡れ衣」に対抗するべく、編纂者はあえて彼女たちを「娘」と呼んでいるのではないか。まあ、キリスト教の神にとっては殉教者は純潔な存在でしょ、なにしろ殉教者はすぐさま天国に行ける存在なのだから、だから処女といっていいんです、という苦しい言いくるめで乗り切ろうというわけだ(そのもくろみは、当座は事情通が生き残っているときは無理だったにしても、中世聖人伝で見事に定着化して成功するわけである)。だから彼女たちはまず見せしめ的に屈辱的な全裸で網だけかぶせられて登場させられ、それから牛との闘いのため服を着せられ再登場する。この見世物の見せ場は、死刑囚が牛の角ではね飛ばされて宙を舞う瞬間だったろう。その様子を描いたモザイクがある。きっとその瞬間に観衆は「お〜っれっ」といったかけ声を楽しげに唱和したに違いない。

Villa di Dar Buc Amméra、Zliten出土、リビア:In situ
考えてみると、地中海世界ではミノア文明以来「牛飛び」の見世物があり、現在でもトロスで幕間見世物のひとつとして披露される。クノッソス宮殿壁画:https://en.wikipedia.org/wiki/Bull-leaping

⑤ XX.5:ペルペトゥアがピンをなくして髪が乱れるのを気にしているのは、淑女のたしなみとして当然であったが、編纂者の味付けとして、当時の葬儀の場に雇われてきた泣き女が髪を振り乱して嘆くパフォーマンスをしていたから、そのイメージを排して、あくまで天国に喜んで行く、としたかったのだろう。また霊媒や巫女が霊力を得ようとする場合、神懸かりしていることを示すべく、むしろ意図的に髪を振り乱して狂乱の様相を呈するわけで、そういう印象を排除するということもあったのかもしれない。

⑥ XX.7:ここで「生者門」をporta Sanavivariaとしているが、一般的にはporta Sanivivariaと表記していたようだ。だが、本来は「入場門」とでもしたほうが正確と考えたい。というのは、今回の場合ペルペトゥアたちは死刑囚なので、見世物への再登場までに一旦アレーナから退場したのがそこであったからだ。通常の円形闘技場には、「入場門」と、勝者の剣闘士が退場する「凱旋門」porta triumphalisと、逆に敗者が引きずられて出ていく「死者門」porta libitinensis(そこに付設の「剥ぎ取り部屋」spoliariumがあって、死者は武具や衣服を剥ぎ取られたり、敗者にまだ息がある場合はそこで喉を切られた)、があったようだ。施設によっては「入場門」と「凱旋門」が同一の場合もあったようで、今回のカルタゴの場合も、受難記叙述に依る限りそのようだったが(cf., X.13)、しかしペルペトゥアたちは死刑囚だったので「凱旋門」が受難記に登場する機会がなかっただけのこと、だったのかもしれない。

畠の中から発掘中のカルタゴの円形闘技場:平面図探索中
死者門想像図

 また円形闘技場は長径と短径があるので、東西南北で十字で区切られるアレーナのどちら側にそれらの門が設置されるかは、その規模によってさまざまだったようだ。例えばポンペイでは、東西の長径の西側に「入場門」、東側に「凱旋門」が、短径の南側に「死者門」が設置されていた(ちなみに北側は貴賓席:東西門の内側に付設されている部屋carcerは剣闘士たちが出演を待つ部屋だったのだろうか)。

ポンペイの円形闘技場平面図

 試みに、イタリア半島のアドリア海側の小都市Larinoのそれを見てみると、やはり門は3箇所で、しかし「剥ぎ取り部屋」は長径の南北にそれぞれ2箇所づつ割り当てられているが、ポンペイと同様の待合室だった可能性もあるはずだ(その場所の詳細画像は以下参照:https://www.pinomiscione.it/historica/vita/anfiteatro/)。

Larinoの円形闘技場平面図:1〜4が剥ぎ取り部屋とされている

⑦ XX.8:ここで初めて登場する洗礼志願者のルスティクスとは何者か。おそらく彼はアレーナ内でのペルペトゥアの受難にずっと付き添っていたわけではなく、彼女が一旦退場したとき門で待ち受けて抱きかかえるようにして支えたのであろう。誰憚ることなくこのような場所に自由に出入りできるのは、ウィビウス家当主の指示のもと、官憲の許可を受けた上で、ペルペトゥア付きの家内奴隷だったからとしか考えられない。農夫を意味する名前も彼の奴隷の素性を傍証しているようだ(但し、Heffernan, p.58によると、北アフリカで一般的な名前ではなかった由)。ひょっとすると、彼は彼女が幼少のころから身の回りの世話をしてきた彼女専属の、たとえば養育係奴隷paedagogusだったのかもしれない。その彼が洗礼志願者であった(この事実は当然官憲には伏せられていた、ないしは官憲が問題にしていなかったわけである)とすると、ウィビウス家にキリスト教が入り込みつつあったことになる。というのは、奴隷に信仰の自由があったわけではなく、ご主人様のお目こぼしというよりもおこぼれに与る形で同じ信仰なら持ち得た可能性があるからである。ペルペトゥアにしても外出時に監視係を手なずけておいたほうが都合よかったはずである。

 ペルペトゥアの兄弟の一人が洗礼志願者だったのが事実だとするなら(II.2)、彼はたぶん次男だったのではなかろうか。家督を継ぐはずの長男は将来の社会的立場を考えてキリスト教改宗には慎重だったはずだからである。1世紀半ほど後のヌミディア山間部のアウグスティヌスでさえ、洗礼は先延ばしにされていた。V.6での叙述を真に受けるなら、おそらくペルペトゥアの母も秘密裏の洗礼志願者だった可能性が強い。

⑧ XX.10:「呼び寄せられた彼女の兄弟(sg.) そしてかの洗礼志願者(sg.) 」という表現は、文脈にそってそのまま素直にとるなら、II.1に登場している血縁上の兄弟と直前に登場しているルスティクスの二人だと、読者は理解するのが普通で、よもや兄弟と洗礼志願者が同一人物を示しているわけではないだろう(そっちのほうがよほどわかりやすいのだが)。上述の理由で後者はともかくとして、前者はペルペトゥアのご指名でわざわざ呼び出されているわけだが、処刑の場で、死刑囚が親族を呼ぶなどということが当時は可能であったということか。

⑨ XXI.1:その時、サトゥルスは「別の門」の所にいた、と書かれている。彼は野獣刑が不成立で一旦退場したのだが、それがどこかXIX.5-6で明記されていない。ペルペトゥアたちがいた生者門(XX.7)ではなく、まだ生きていたので死者門も除外されるからには(別に除外しなくてもいいかもしれないが)、すなわちたぶん凱旋門にいたのであろうか。

⑩ XXI.6-8:死刑囚が最終的にとどめを刺される場所とは、そのための設えられているはずの「剥ぎ取り部屋」のはずだが、ここの叙述からはアレーナの一隅であったように思われる。いずれにせよ、今回の彼らは見物人の要望に応じて、おそらくアレーナの中央(橋の上だったかも)に自発的に移動し、そこでとどめを受けた。下記のモザイクは、野獣狩りの見世物がまだ行われている最中で、その負傷者や死者がたぶんアレーナ内の端に集められている様子を描いた希有の事例。野獣狩りといえどもかなりの犠牲者が出た様子がわかる。服装から彼らはよもや死刑囚ではあるまい。

ボルゲーゼ博物館所蔵、ローマ:中央上部のラテン語Sabati(v)sは闘獣士の名前か。別所のモザイクでは死者には「Θ」(おそらくθάνᾶτος)印がつけられている
中央上部は馬で、一人の男性が頭を抱いているようだ

⑪ XXI.9:ペルペトゥアの死:剣闘士のとどめは、左鎖骨の上から心臓に向けて刃を刺すやり方もあったようだが(1993年エフェソス発見の剣闘士の墓場発見による出土遺骨への刃物傷から)、ここでは肋骨の間から心臓を貫こうとして失敗したので、ペルペトゥアは刃を左頸動脈に導いたのであろう。

https://www.livescience.com/48385-photos-gladiator-burial-pit.html
ペルペトゥア殉教想像図
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ペルペトゥア・メモ:(5)サトゥルス問題

 一歩踏み込み出すと謎満載の『ペルペトゥア殉教伝』であるが、ここでは、第11章から第14章にかけての、サトゥルスについて若干の気付きに触れてみたい。

 XI.1は、編纂者の編集句である。「祝福されたサトゥルスは彼自身の以下の幻を述べた。それを彼自身が記したのだった」。編纂者はそう述べることで、サトゥルス自身が話し記した、と強調しているわけである。実は、サトゥルスがらみの編集枠の最後、XIV.1でも、ここではペルペトゥアを道連れにして同様の文言を再言している。このくどさ、ないし編集句によって読者をある方向に導こうという強烈な意志をもっていた編纂者にとって、彼ら両名が自ら話し書き記したという「事実」は決定的に重要だったからだ。ただ彼は、ペルペトゥアとサティルスが述べ書き記した内容そのものの改変は手控えていた、と考えるべきだろう。筆(速)記者にしても編纂者にとっても彼らの言葉は神の啓示に他ならなかったはずだからである。

 ところで、私が今回改めてM版をもとにワード数(全語数 3618ワード)を検索比較し直してみたところ、以下の結果となっているので、本来は「ペルペトゥアとサトゥルス、そして彼らの仲間たちの殉教伝」とつけられて然るべきものだったことが明確になるだろう。

編纂者・筆(速)記者部分:462語 13%

ペルペトゥア:1625語 45%

サトゥルス:478語 13%

殉教記録:1051語 29%  

 ここで注目すべきは、フェリキタス関連はわずかにXVとXVIII.2のみ(173語 5%)という事実である。

 私はこれまでこのサトゥルスに関して、ギリシア語Σάτυροςから、ギリシア神話に登場する半人半獣(通例、上半身が人間で下半身は山羊)のラテン語表記、したがっていささかマイナス・イメージを持っていて、だから本殉教伝も当時の読者にいらぬ憶測をさせないためにも「ペルペトゥアとフェリキタスの」すなわち「永遠の繁栄・豊かさ」と呼び習わされてきたと考えて来た。だがThomas J.Heffernan, The Passion of Perpetua and Felicity, Oxford UP,  2012, p.275によると、ラテン語形容詞のsatur,-ura,-urum「満ち足りた、豊富な、肥沃な」を語源にしている由である。こうして、キリスト教的な意味でサトゥルスとは、「聖霊に満たされし者」というプラス・イメージの名前となり、紀元後3世紀半ばのカルタゴ司教キュプリアヌスは書簡(21,28)で彼とは別人のサトゥルス2名に言及しているので、北アフリカでは決して珍しい名前ではなかった由である。

 さて、本殉教伝には個人名が特定可能な、ないしは無名表記だがそれに近い登場人物(例えば、「父」とか「母」)が、管見では合計31名いる(男性25、女性6:但し、夢の中に出てくる牧者、エジプト人拳闘士、巨大な人物=剣術師範、白髪の老人の4名、天使4名3組、それに副帝Getaの、計17名等は含めない)。それをHeffernanは総数27名(男性23名、女性4名)と算定している(p.18)。

 冒頭で3名の男性と2名の女性が登場するが、最初の4名がcognomenのみなので、一応当時の命名法の原則に従うなら、非ローマ市民、奴隷ないし解放奴隷の下層身分humilioresだったことになり、さらに冒頭2名RevocatusとFelicitasは「conserva」との文言があるのでまず奴隷だったことが明白だが、他の2名SaturninusとSecundulusの所属身分は厳密には不明とすべきかもしれない(私見では限りなく奴隷身分)。ただ同じ基準にしたがうと、単独名で登場している人々(洗礼志願者教育指導者=伝道師Saturus、助祭TertiusとPomponius、総督代理Hilarianus(今の場合彼は例外で、たぶん解放奴隷あがりだが、しかし身分的には騎士身分)、牢獄長Pudens、ちょっと以前の殉教者のIocundus、Saturninus、Artaxius、Quintus、フェリキタスが産んだ新生女児)はいうまでもなく、司教Optatus、司祭Aspasius、洗礼志願者Rusticusたちも下層身分になってしまうのだが、はたしてそういった理解でいいものかどうか。

 その点、ペルペトゥアはcognomen(Perpetua)のみならずnomen(Vibia)も書かれていて、生来の自由人であることが暗黙の内に主張されている。よって当然のこといずれも実名が出てこない彼女の父、母、二人の兄弟、叔母、結果的にペルペトゥアの乳児、それに死亡した兄弟Dinoclatesもそうなるだろう。また、死亡した総督Minucius Timinianus(Opimianus)は役職上元老院身分が確実で、無名ではあるが軍団将校は騎士身分なので、彼らは問題なくいわゆる上層身分honestioresとなる。計10名(うち女性3名)。

 いずれも無名の牢番、フェリキタスの子供を引き取った姉妹、新米の剣闘士、の計3名はとりあえず下層身分としておこう。

 ところで、考えてみるに、203年3月7日に今般の処刑(=殉教)が行われ(Heffernan,p.65)、通説によると早くて4、5年後の207年ないし208年に本殉教伝が公表されたのであるなら(ibid.,p.66-67)、迫害時の関係者の多くがまだ生存していたはずではないか。その場合、Vibius家関係でも当時洗礼志願者だったと兄弟1名が無名とはいえ明言されているし、Rusticus、洗礼を受けてしまった牢獄長Pudensはもとより、フェリキタスの赤子を引き取ったという「姉妹」などにも累が及ぶことが当然予想されるのだが、それへの対処が編纂者によって考えられているようには思えないことをどう考えればいいのか、頭を捻らざるをえないのである。ただ、時代はまだ迫害勅令を発したとされているセプティミウス・セウェルス帝(193—211年)統治下であったにしても、すでに迫害は当面の成果を得て沈静化し、教会にとって危機的状況が過ぎ去っていた可能性はあるが、今のところ確証はない。

 今般サトゥルスの幻視を読み返して改めて思ったのは、まず、ペルペトゥアのそれと比べると男性の見た夢なんだな、ということだった。一言でいうとペルペトゥアは女性的な特徴、すなわち忙中閑有りとでもいうべきか、衣服の装飾などに目がいっているのだが、彼はいかにも男性性的な、むしろ社会構造的な視角、ずばり言うと、教会内での権力関係で彼が置かれていたのであろう屈辱的位置の反動によると想定される下克上的意識が前面に出てきている件である。そしてまた、彼にとって来世での同伴者はペルペトゥアだけであったという点は、これまでも私が指摘してきたことだが、今回はさらに、サトゥルスの幻視に出てくる音声言語に関して面白いことに気付いた。

 すなわち、殉教伝は J.Armitrage Robinson, 1891以来、一応原典はラテン語で書かれているとされてきたわけであるが、サトゥルスの文章では、どうも教会典礼での常套句、特にミサ聖祭における祈祷文がかなりの割合で繰り返されている気配があって、しかもそれはミサ聖祭の実際の場ではラテン語ではなくギリシア語で唱えられていたのではないか、という点だった。これは、特に天上で天使たちが喋っている言葉において顕著だったのではと思えた。そこで殉教伝の翻訳見直しでもラテン語のウラに潜んでいたであろうギリシア語を並記してみる気になったわけであるが、これは同時にラテン語原典から訳されたギリシア語訳版への見直し、という側面も併せもつことになって、これまでは問題をあまり複雑にしたくなかったので(すっきり原典とされるラテン語版叙述で事態を捉えたいと)、これまで避けていたギリシア語訳版をも射程に入れざるを得なくなってしまうことになるのだが、逆に考えると、もしそうだとして、なぜそれらがラテン語に訳されなければならなかったのか、が今度は気になりだしてしまうのである。よく言われていることであるが、キリスト教においては、3世紀初頭は北アフリカのみならず帝都ローマにおいてさえも、まだギリシア語が典礼使用語であり、聖職者もギリシア系が圧倒的に多かったわけで(それは、北アフリカで2世紀後においても相変わらずアウグスティヌスを取り巻いていた状況でもあった)、そうであればなにゆえここでもラテン語なのだろう、という疑問である。そこでうろうろしていたら、なんと最新研究書のEliezer Gonzalez, The Fate of the Dead in Early Third Century North African Christianity, Tünbingen, 2014, p.6-8は、通説をひっくり返して、ペルペトゥアはギリシア語で書き、編纂者はラテン語で書いた(よって、論の赴くところ、編纂者がペルペトゥアの部分をラテン語訳したことになるのであろう)、という仮説を提出していることに気付いてしまったりもする。

 この言語問題は、このちゃぶ台返しもあってなかなかの難物になりそうな気配がする。

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ペルペトゥア・メモ:(4)彼女の夫問題

 2001年の学会発表内容(レジメを本ブログに既掲載)、まだきちんと論文にしていないなあ。史料的には絶対にそれ以外読めないのでそうなるのだが、その事実があまりに刺激が強すぎて、時期尚早という自制心が働いていたのかもしれない(そんな配慮なんか全然しないくせに、とは陰の声(^^))。

 で、この発表での自分的に一番の目玉は、ペルペトゥアの夫(というか、今風に表現するとパートナー)は、サティルスであると断定した点にあるのだけれど、発表時においても今に至っても、それに注目する我が国での研究者は例の如く皆無であった。これが、そもそも研究者層の薄い我が国の学界の常態なので、別に驚きもしないが、もう先のない身であるので、ここに事後談を含めて書き残しておこう。

 実は、この発表の1年以上後になって文献検索をしていて以下を見つけた。 Carolyn Osiek, Perpetua’s Husband, in:Journal of Early Christian Studies, 10-2, 2002, pp.287-290.

 そこにはなんとなんと、私と同じ結論が書かれていたのであ〜る。ただこの件については、個人的には、理系論文よろしくどっちが早いとかの先陣争いということよりも、私見が妥当だったという安堵感のほうがむしろ強かった(実際正直にいえば、口頭とはいえ当方の発表の方が先だったという満足感はある。私の研究史上、全世界レベルでの新説発見はこれが初めてかと:もちろん極東の無名の私は、インターナショナルな知名度でOsiek女史に圧倒的に負けているが)。私が何をいってもそれは我が国では「珍説」にすぎないのだが、欧米研究者によってそれの「新説」の可能性が生まれたのだから、これを慶賀しないでどうする。

 その後今にいたるまで、この件に関して私の確信はいささかも揺らいでいない。今回その後の様子をググったり、手元文獻でちょっと調べてみた。まず、Osiek女史がカトリックの聖心侍女会(英語表記でRSCJ:我が国では聖心女子大学を経営している女子修道会)の修道女らしいことを知って文字通り仰天した(https://rscj.org/carolyn-osiek-rscj-provincial-archivist)。どうやら新約聖書学がご本業のようで、すでに10冊以上の単共著を持っているシスターだったのである。

 次いで、ペルペトゥアの夫問題にはシスターの文献がなぜか2012年以降ようやく引用されるようになってはいるが、やはり全幅の賛意からではないように感じるのは、私のひが目であろうか(たとえば、Thomans J.Heffernan, The Passion of Perpetua and Felicity, Oxford UP, 2012, p.273, 328;Ed.by Jan N.Bremmer & Marco Formisano, Perpetua’s Passions :Multidisciplinary Approaches to the Passio Perpetuae et Felicitates, Oxford UP, 2012, p.59, n.12;Rex D.Butler, The New Prophecy, and ‘New Visions’ : Evidence of Montanism in the Passion of Perpetua and Felicitas, BorderStone Press, 2014, p.91, n.18;Eliezer Gonzalez, The Fate of the Dead in Early Third Century North African Christianity:The Passion of Perpetua and Felicitas and Tertullian, Tübingen, 2014, p.5, n.2, in:Studien und Texte zu Antike und Christendom, 83;Petr Kitzler, From Passio Perpetuae to Acta Perpetuae, de Gruyter, in:Arbeiten zur Kirchengeschichte, vol.127, 2015, S.41, Anm.178)。とはいえ、まあこの調子で、刺激的すぎる事実が徐々に受け入れられていけばいいと思う。

 このあたり俗世にまみれ、世事に通じているはずの一般研究者のほうがより身近なので、体験に基づいて積極的に発言すればいいのにと思うわけだが、そんなこと書くと自らの旧悪を暴露・追求されかねないので避けているとしか思えない立ち振る舞いなのであ〜る(実際、常に珍説を唱えている私など、周囲から「お下劣」「好き者」と誤解されまくっている。まあ興味の赴くところにづけづけ踏み込む性格なので否定はしないが、この機会に声を大にしていっておこう。ただひたすら史料の忠実な読み取りをしているだけなのだ、と。誹謗中傷は史料解釈への批判であってほしいと思う。研究者など学問的真理追求を気取り清廉潔白づらしていても一皮むけば、史料の身勝手なちょい読みで、手早く業績を稼ごうというそのレヴェル(この点は私も同類ではあるが)。現実の追究など実は少しもできない、する気もない輩の集団なのであ〜る。その証拠に、私のような俗物はともかく、清浄な生活を送ってこられたシスターの方がむしろ本質に迫ることができている、というこの事実は無視できないはず。これをみてどう判断するのか、よ〜く考えてみてほしいものだ。

 いずれにせよ、欧米の研究者の叙述に依拠して立論するよりも、原典を読み込むことが、結局事態打開の早道なのだということを再認識した次第。

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ペルペトゥア・メモ:(3)書評補遺

 『ペルペトゥアとフェリキタスの殉教伝』関連の、 ジョイス・E・ソールズベリ『ペルペトゥアの殉教:ローマ帝国に生きた若き女性の死とその記憶』後藤篤子監修・田畑賀世子訳 (白水社、2018年)の書評を某学会誌から求められて、8000字の原稿を提出し、査読を受けた結果700字の追加を認められて完成原稿を提出した。そのプロセスで字数制限で削除したり(この耄碌老人は、なぜか上限を12000字と思い込んでいたのだっ(^^ゞ)、削除部分をここに転載し、またその後気付いたことがあったので、記憶の新しいうちにそれをメモしておこうと思う。実は、この殉教伝、謎が満載なのである。

(1)先行研究:以下が冒頭での削除箇所

 最初に私事に触れることをお許し戴きたい。私が本書の存在を知り入手したのは出版直後のことで、翌年前期の演習で十四名のゼミ生たちとともに読み始めた。当時の授業記録を確かめると、演習をするにはゼミ生が多すぎたので、テキストとゼミを二つに分け週二回でそれぞれ読み進めている。註を含めて二〇〇頁強だったので半期で読了し、後期は関連著作のPeter Dronke, Women Writers of the Middle Age, Cambridge UP, 1984と、Cecil M.Robeck,Jr, Prophecy in Carthage : Perpetua, Tertullian, Cyprian, The Pilgrim Press, Clevel an Ohio,1992の関連箇所へと向かった。そして、一九九九年度の院ゼミでラテン語原典の精読に入った。その成果は幾つかの口頭発表のあと論考にまとめられた(1)

  註(1)「ペルペトゥア殉教者伝をめぐって」上智史学会第四八回大会(上智大学)、一九九八年十一月二二日;「『ペルペトゥア殉教者行伝』をめぐる一考察:「兄弟・姉妹」の意味するもの」日本西洋史学会第五十一回大会(東京都立大学)、二〇〇一年五月一三日;「『ペルペトゥア殉教者行伝』をめぐる一考察:「幻視」を中心に」キリスト教史学会第52回大会(梅花女子大学)、二〇〇一年九月二九日;「殉教者と北アフリカ:ペルペトゥアはキリスト教徒といえるのか:及び、西洋古代史でのパソコン利用の一試行作業」古代史の会月例会(東京大学文学部)、二〇〇一年一二月二一日. 

 思い起こせば足かけ四年の作業で、評者にとってことのほか思い入れ深く,同時にたいへん刺激的な体験だったことを告白しておこう。翻訳に付き合い共に考えてくれたゼミ学生・院生には感謝している。かくして、本書や『ペルペトゥアとフェリキタスの殉教者行伝』(以下、『殉教伝』と略称)に対する評者の見解は、すでに公にしているわけで、本書評の論がおもむくところ、必要に応じて再言ないし修正することになる。

 本『殉教伝』に触れた邦語文献は、長らくカトリック系の聖人伝を除き皆無といっていい状況だった(2)。それが様相を転じ出したのは、本書も基本史料としているH.Musurillo編訳の邦訳の出現で(以下、M訳 :但し著者が不可解な修正を時折加えたためか、邦訳者は著者訳に依拠。二七九頁)、以降多少とも関心ある識者の目に触れるようになった(3)

  註(2)「三月七日(2) 聖女ペルペチユア殉教、聖女フエリシテ殉教、他四名の聖殉教者」シルベン・ブスケ『聖人物語 三月之巻』一九一二(全十二巻、聖若瑟教育院、一九一〇~一九二六)年 ;「三月六日 フェリシタス、ペルペツア両聖女殉教者(Ss.Felicitas et Perpetua MM.)」光明社編『カトリック聖人傳』上巻、光明社、第三版、一九六三(初版一九三八)年、二一五~八頁 ; アダルベール・アマン(波木居斉二訳)「5アフリカの若き母、P」『初代キリスト教徒の日常生活』山本書店、一九七八(原著一九七一)年、二八八~二九八頁 ; ヤコブス・デ・ウォラギネ(前田敬作・山中知子訳)「167 聖サトゥルニヌス」『黄金伝説』4,人文書院、一九八七年、三三九〜三四三頁(原著は13世紀半ばの著作);M-L・フォン=フランツ(野田倬訳)「Pの殉教:心理学的解釈の試み」『ユング・コレクション4 アイオーン』人文書院、一九九〇(原著一九五一)年。

  註(3)「聖なるPとフェリキタスの殉教」土岐正策・土岐健治訳『殉教者行伝』(『キリスト教教父著作集』二二)教文館、一九九〇年[英訳、邦訳に問題なきにしもあらず] ; 堤安紀「Pとフェリキタス : 三世紀初頭、北アフリカの殉教者たち」『上武大学商学部紀要』一〇-一、一九九八年、四一~六二頁 : 秋山由加「セプティミウス・セウェルス帝治下のキリスト教徒迫害」『学習院大学人文科学論集』一五、二〇〇六年、二一~四八頁。拙論は、前掲豊田HP「学術論文」(27)〜(30)参照。その動きと無関係だが、志賀亮一訳によるポーリーヌ・シュミット=パンテル「女たちの肉声」:モニック・アレクサンドル「Pあるいは自己意識」G・デュビィ、M・ペロー監修(杉村和子・志賀亮一監訳)『女の歴史Ⅰ 古代二』藤原書店、一九九四(原著一九九〇)年、七七八~七八九頁 ; モーリーン・A・ティリー(指谷朋子訳)「第三九章 Pとフェリシティの受難」エリザベス・シュスラー・フィオレンツァ編・絹川久子・山口里子日本語版監修『聖典の探索へ フェミニスト聖書注解』日本キリスト教団出版局、二〇〇三(原著一九九四)年、六二一~六四四頁。[なお、西洋女性史叢書の古代史篇の類いの邦訳で、本『殉教伝』の一部が巻頭言的にほんの数行転載されていたが、あまりにひどい訳だったものがあった。その典拠を思い出せない。ご存知寄りの方からの情報を期待している]

(2)『殉教伝』Ⅱの編纂者編集句の箇所: 書評ではⅡ.3にのみ言及したが、そこでの初期原稿と、1とⅢ.1についても素原稿を掲載しておく。

 Ⅱ.1の「若い洗礼志願者が逮捕された。レウォカトゥスと、彼と同じく奴隷のフェリキタス、そしてサトゥルニヌスとセクンドゥルス、そして彼らとともに」Pも逮捕された(一二五頁)、の箇所である。著者は「Pが家の奴隷二人とともに逮捕された」(一六頁)と先述していて、この二人とは「レウォカトゥスと彼の奴隷仲間[女性名詞単数]フェリキタス」(M訳)を指しているのだろうが、なぜ他の二人がそれに含まれないのかは説明しない。また二七頁で「Pと彼女の奴隷フェリキタス」としているが、彼ら二名がPの父のファミリアだったと断定する論拠も示していない。さらに、冒頭の「若い洗礼志願者」に該当するのは最初の四名のみで、すでに子をなして二十二才の既婚婦人Pは含まれていない可能性が高い。有り体にいうなら、少なくとも命名法からして、四名は全員奴隷で、おそらく十代半ば過ぎだったのではないか 。

 そして、Ⅱ・3の最後の一文である。ラテン語原文を、M訳は版本的根拠がないにもかかわらずカッコで括り、著者(=邦訳者)もそれに準拠し「(ここからの彼女の試練の物語はすべて彼女自身が、彼女の考えに従い、彼女自身が選んだ順序で書き記した通りである)」(一二五頁)と訳す。土岐訳は当然のことカッコをはずし「Pその人が、自分の受けた殉教の顛末を、直接自分の手で書いたかのように、すべて順序立てて物語り、自分の意志で(我々のために)残したのである」として、拙訳「彼女は彼女の殉教のすべてを・・・自ら物語った。いわば彼女の手で、そして彼女の意志で書き付けて残したのだった」に近い(以上、下線は評者)。M訳=邦訳者と土岐=豊田の違いは、P自身が書いたのか、彼女は物語っただけで第三者が書いたのか、にある。サトゥルスの場合、彼は「自身の以下の幻を述べた。それを彼自身が記した」としている(Ⅺ・1。 但しXIV・1に誤解を招きやすい文言あり)。よってこの件での軍配は、もちろん編纂者の意図的改竄の可能性も含めて、わが方にあると確信しているが、多くの先行研究者は前者を採用してきた。彼らは、後述のYouTube(「The Perpetua Documentary」)で市井の一視聴者が「She did not write it herself」と喝破しているのを、どう受け取るのだろうか。この一事をもってしても殉教伝全体の構造把握に決定的に重要な文言に、著者を含め研究者が意外に無頓着なのは驚かされる。

 もうひとつ指摘するなら、M訳と邦訳者が、Ⅲ・1「essemus」と5「baptizati sumus」での一人称複数形を、後者だけ単数で訳しているのも疑問だ。また「私たち」とは具体的に誰を指しているのか、これも問題である。Pの父は上流市民の権限を最大限に利用して、娘が収監されるまでに暫時自宅で説得する時間をえた(皇帝祝日挙行の野獣刑用の死刑囚確保は逃亡奴隷で十分だった官憲にとっても、それが好都合だったはず)。奴隷たちはこの特権を享受できるわけもなく、直ちに収監されてしまっていたはずなので、したがって史料を忠実に読む限り、ここでの「私たち」とはPとその幼子だった。洗礼は信者なら誰でも執行できたので、父の不在(Ⅲ・4)を狙って行うことは十分可能だった。おそらく奴隷たちも獄中で陣中見舞いの世話役から受洗したのだろう。ならば先取りして触れておこう。Ⅵ・1-4の裁判の場では彼らがキリスト教徒であることが前提となっていて、これはそもそもの逮捕の根拠となっていた皇帝セウェルスの改宗禁止令(すなわち洗礼志願者とその幇助者が逮捕要件)と微妙に罪状がずれていて違和感がある。殉教伝編纂者の場面短縮によるのか、総督代理の恣意的な審理指揮だったのか。そもそも改宗禁止令など存在しなかったのか。いずれにせよ、著者はそれにまったく関心を示していない。

(3)その後の研究の進展について:以下も全面削除箇所。

 本書出版の翌年から二〇〇〇年にかけて、著名なキリスト教史研究誌に書評が掲載された(4)。興味ある向きは併読されたい。Amazon.comでの一般読者の反応を読むと、おおむね好意的であるが、殉教者というキリスト教徒にとって崇敬対象の人物を、著者が歴史事象の中で解明しようとしていることへの素朴な反発・戸惑いも表明されていて、なるほどと思わされもした。研究対象として扱うことが信仰者をして「何も分かっていない」「headではなくheartでとらえるべき」と苛立たせるのである(この点では、評者は言うまでもなく著者の側であるが)。また本書の表題から『殉教伝』そのものの翻訳の一括掲載が当然のこと期待されていたのに、ばらばらの断片で掲載されていることへの不満も示されていた。なお、本書後も注目すべき学術研究書が上梓されているし(註5)、その上最近、世界に冠たる大学出版会からコミックを加味したものさえ出版されたことに言及しておこう(註6)

  註(4)管見の限りでも、Amy G.Oden, Church History, 67-3, 1998 ; S.Benko, The Catholic Historical Review, 84-4, 1998 ; Shira L.Lander,  Journal of Women’s History, 11-3, 1999 ; Judith E.Grubbs, The American Historical Review, 104-2, 1999 ; M.Heintz, Journal of Early Christian Studies, 7-2, 1999 ; S.Hervé, L’Antiquité Classique, 69, 2000 ; M.Whitby, Classics Ireland, 7, 2000.

  註(5): そのうち主要四冊(二〇一二〜一四年)が以下で書評に取り上げられている。Journal of Early Christian Studies, 24-3, 2016, pp.458-460 ; 25-2, 2017, pp.307-319. とりわけ,今後の研究において版本レベルの検討から出発して逐語的・テーマ的に詳細にいるThomas J. Heffernan, 2012は、見落とせない。

  註(6) Jennifer A.Rea and Liz Clarke,  Perpetua’s Journey : Faith, Gender, & Power in the Roman Empire,Graphic History Series, Oxford UP, 2017. DVDもある(Catholic Heroes of the Faith:The Story of Saint Perpetua, 2009)。 また、関係アニメ・動画も枚挙にいとまない。興味ある向きはYouTubeで、たとえば以下のキーワードを入れると、簡単に鑑賞することができる。 The Story of Saint Perpetua and Saint Felicitas(スペイン語版やインドのドラヴィタ族のマラヤーラム語版もある);Martyrdom of Perpetua; The Perpetua Documentary;St Perpetua and her vision of her little brother in Purgatory !

(4)邦訳について:ここでも初期原稿を転載しておこう。

「訳者あとがき」によると、原書の誤記は断りなしに修正されている由だが(二七八〜九頁)、英語表記「Felicity」については一言あってよかったのではないかと思う。これは書評でBenkoが「Felicitas」とすべきだと指摘していた点である(初出十一頁:但し本訳書では修正済み)。評者が気付いた範囲でも、なぜか一次文献にポリュビオスが抜けているし、六九頁でカルタゴのそれが帝国第二の闘技場となっているのも、通例はカプアがそれに当てられているので異論があるかもしれない。ちなみに、最大はローマのコロッセオ、次いでスパルタクス叛乱で著名なカプア[現Sanata Maria Capua Vetere]、スペインのItalicaと続き、その後は僅差とはいえフランスのCaesarodunum[Tours]、Augustodunum[Autun]、そしてカルタゴとなる計算だからだ。

 邦訳はよくこなれていて読みやすい。そのために邦訳者は多くの時間を費やしたはずである。しかし重箱の隅をつつくようで申し訳ないが、ケアレス・ミスがないわけではない。たとえば、編纂者の手になる冒頭部分に限っても、Pを考える上でキー・ワードとなりえる「matrona」が本文中では「貴婦人」とされている割には(たとえば一〇、一五頁)、[図1・1]では通常訳の「既婚婦人」となっている(二一五頁も)。ここは予断を避けるためにニュートラルな後者で統一すべきではなかったか。また、註(2)の位置が一文ずれたりもしている(一六頁)。六八頁でcolumnsを「円柱」としているが、遺跡写真を見れば一目瞭然で「(土留めの)支柱」とすべきだろう、云々。文献一覧で(そして註記でも)、邦訳を並記する労多き作業をされていて有難いが、管見の限り少なくとも一〇以上見逃しがある。専門家にはいずれも周知とはいえ(たとえば、von Franz, Prudentius, Dumézilなど)、一般読者のために是非再版の機会に付加してほしい。ここで見過ごしやすいものを挙げるなら、第二章註 (17)のオットー・キーファー(大場正史譯『古代・ローマ風俗誌』桃源社、一九六四年、三二頁[但し全訳ではない]; 初版Otto Kiefer, Kurturgesichte Roms unter besonders Berücksichitung der römischen Sitten, Berlin, 1933 ; 英訳初版 Sexual Life in Ancient Rome,  London, 1934)にしろ、彼が引用しているウェレユス・パテルクルス(西田卓生・高橋宏幸訳『ローマ世界の歴史』京都大学学術出版会、二〇一二年、三六頁)など。また、第三章註(19)以降数カ所引用のテルトゥリアヌス『スカプラへ』も目立たないところで邦訳がある(大谷哲訳『歴史と地理:世界史の研究』No.664:235, 二〇一三年、二九〜三三頁)。こういったことを敢えて指摘するのは諸先達の業績に敬意を表したいがためである。

(5)その他の気付き:書評を書いているうちに、ペルペトゥアをめぐる言語状況の複雑さ(と先行研究者の杜撰さ)に気付くことができた。これは私的にはアウグスティヌスのそれと連動してのことなのであるが、それで多少修正付加することができたのはありがたかった(著者ソールズベリはまったく気付きもしていないようだが)。

 また、たとえば『殉教伝』Ⅲ〜Xでの記述が、彼女の獄中日記が元になっているかどうかという論議はなかなか進展しないようである。私見では、彼女を明らかに預言者として位置づけようと種々工夫を凝らして読者を意図的に(誤読へと)誘導している編纂者はいうまでもなく、獄中でおそらく「キリスト再臨直前の最後の預言者」との思いで彼女の言動を逐一聞き漏らすことなく記録しようとしたはずの筆(速)記者が存在したはずなのであるが、そのような視点で立論している研究者が皆無である。管見の限りで、たしかに一応検討している論文があるものの(Jan N.Bremmer, Perpetua and Her Daiary : Authenticity, Family and Visions, in : Hrsg. von Walter Ameling,  Märtyrer und Märtzrerakten, Stuttgart, 2002, pp.77-120;Vincent Hunink, Did Perpetua Write her Prison Account ?, Listy filologické, 133, No.1/2, 2010, pp.147-155)、それでも私見からすると核心に迫っているとは言いがたい現実がある。

 また、あとから気付いたことだが、著者は北アフリカの邸宅の床を飾っていた舗床モザイクに血なまぐさい図像が多く、それが北アフリカ的風土の特徴でペルペトゥアにも影響を与えていた、と強調している(92頁)。まあそう言われてみるとその種の画材がたしかに多くあったなと思い出したりして、なんとなく納得させられてきたのだが、しかしまんまと著者の罠に嵌められていることに気付いたのは、本ブログに掲載するため「野獣刑 ad Bestias」や「野獣狩り Venatio」のモザイクを収集し出してからだった。すなわちバルドー博物館などの所蔵品を総体として見た場合、血なまぐさいモザイクはあることはあるが、著者のようにことさら声高に言って強調するほどには多くないのである・・・。そしてまた、帝国東部や北部においてもこの種の「残酷なモザイク」は存在していて、それについて著者はもちろん知らぬ振りを決め込んでいるわけで、このあたりの印象操作には気をつけないと、とは自戒を込めての反省点。たしかに野獣刑はかなり刺激的な描写となってはいるが、それは再発防止を含めての犯罪者の処刑方法なので、見せしめという別要素が入ってくるわけで、猛獣の狩りなどと同列には論じ得ないように思えるのだが、どうだろう。

野獣刑:リビアのジャマヒリーヤ博物館所蔵
Sousse出土、The J. Paul Getty Museum所蔵
Carthage出土、Tunisia:上記2点、残酷かなあ。噛みつかれているロバの表情がなんだか他人事のようで滑稽
紀元後6世紀イスタンブル大宮殿博物館所蔵:これは残酷ではないわけですね、ソールズベリさん
同上
Römerhalle、Bad Kreuznach,ドイツ
野獣狩りでの思わぬアクシデント? 闘獣士が熊に襲われて:Römische Villa Nennig、ドイツ

【追記】2019/3発行の『西洋古典学研究』67に、本書の監修者の後藤篤子氏が,シンポジウム「古代ギリシア・ローマ世界におけるgender equality:理念と現実」の中でのご発表「古代ローマ社会における女性たちの現実」(pp.95-100)を寄稿されているが、本書やペルペトゥアにまったく触れられていないことを付記しておく。ま、正直いって残念ながらこのような西洋古典学的「上から目線」で論じる限り、いつまでたっても「現実」への接近は果たせないだろう。

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ペルペトゥア・メモ:(2)参考図版

(1)古代ローマの拘置所・監獄のイメージ

都市広場forum地下通路の参考写真(Pompei, il criptoportico di Villa Diomede):
拘置所代用の場合、明かり採りの窓(兼、地上との荷物の搬出入口)を塞ぐと暗闇となる
Napoli市内のローマ時代の地下構造
野獣刑直前に収監されたはずの円形闘技場地下牢跡?

(2)羊(山羊かも)飼いの乳搾り

(3)古代の拳闘士(ボクサー)と拳闘士競技(ボクシング)

クイリナリスの拳闘士,ローマ国立博物館
2018年に、拳闘士が手にはめたグローブがイギリスのウィンドランダで出土が公表された:
https://www.history.com/news/only-known-boxing-gloves-from-roman-empire-discovered
Rheinisches Landesmuseum、トリーア、ドイツ
Villelaure出土、フランス、ca. 175 AD、Getty博物館所蔵:右の人物は頭から出血。しかしなかなかりりしいたたずまいだ
3世紀Thuburbo Majus出土、バルドー博物館所蔵、チュニジア:左の人物は頭から出血。こっちはいささかコミカルな印象

(4)野獣刑 ad Bestias

Sollertiana Domus出土、El Djem博物館所蔵、チュニジア:死刑囚の背中を支えているのは闘獣士か。死刑囚は容貌から南方のガラマンテス人と想定されている。となると、202年後半以降の作?
Villa di Dar Buc Amméra、Zliten出土、ジャマヒリーヤ博物館所蔵、リビア:猛獣相手なので、こんな運搬具も考案されていたらしい
Villa Silin出土、In situ、リビア:ペルペトゥアとフェリキタスの闘牛の見どころは、牛の角に引っかけられて死刑囚が宙を舞う場面だったのだろう。だから衣服や網が必要だった。かけ声をかけて狂喜する観客の声が聞こえてくるようだ。
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墓にSol神?:Ostia謎めぐり(2)

 帝都ローマの外港オスティアには、いまだ解き明かされていない謎が幾つも残っている。 

 この港町には東の城壁門外に墓地があって、紀元前からキリスト教時代までの遺跡が残っている。今回紹介するのは、後1世紀に創建され、その後増改築された「Tomba degli Archetti(弓の墓室)」(Heinzelmann M. – Martin A. – Coletti C. , Die Nekropolen von Ostia, München, 2000 掲載の図版だとB6)である。ここの北側外壁の装飾に、私にとってたいへん興味深い図柄がある。どうやら太陽 Sol(神)なのである。かなり遊び心が加味されているようでおもしろいので、いつか多少踏み込んで紹介したいテーマのひとつである。

 この墓室は紀元後1世紀前半の創建になるが、おそらく二世紀前半(紺色)に改修、三世紀初頭(赤色)に増築されたようで、くだんの壁部分は、赤と黄色のレンガ、それに黒色の軽石がモザイク状に組み合わされている。本来5つのアーチ内に描かれていたが、うち現在4つが残存していて、図案は2種類あったようだ。

 それにしても、なぜここに不敗太陽神Sol Invictusにつながるようなデザインが残されたのであろうか。

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東側からの画像
北(正面)からの画像
左端:一番保存がいいもの
放射光だらけ上記との違いは、円・楕円模様にある
これは黒色の軽石なんかが剥落しただけかも
現在の右端:もともとは、この右にもう一つあった

 この墓室からは他にも興味深い遺物があって、ひとつはすでに失われてしまったらしいが、猪狩り(この墓室名はここから来ているらしい)と船の部品類を描いた多彩色のモザイク床である。もうひとつは、セウェルス朝時代に増築された南側の左の部屋のトラヴァーチンで囲われた通路上のまぐさ石上に「H(oc)・M(onumentum)・H(eredes)・N(on)[S(equetur)]」、すなわち「本建造物は相続人たちに[帰属]しない」(相続人といえども売買することを禁じる)という定形銘文が穿たれていることだ。

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