月別: 2019年2月

歴史真実とは

 最近こんな文章に出会った。

   私が学部生だった頃、歴史学の教授たちは、客観的な歴史は存在しない、と教えた。フォン・ランケ(Von Ranke)は死んだ。ランケの研究法もまた過去のものとなった。「起こった事をその通りに」見出す方法はない。歴史家たちは彼等自身の目的のために、彼等自身の偏見と立場から記述した。客観性を装っている者によって騙されるよりも、臆面もなく偏向している歴史家を読む方がましである、と教授たちはいった。」(モーリーン・A.ティリー「第39章 ペルペトゥアとフェリシティの受難」『聖典の探索へ:フェミニスト聖書注解』日本キリスト教団出版局、2002[原著1994]、p.621)

 これでようやく納得したことがある。フェミニズムないしジェンダー史学華やかりし頃、学位を取って売り出し中のアメリカ系女性研究者たちの、私見ではやたら主観に走った論述に辟易した記憶があったからだが、彼女らの理解だとアメリカでは「臆面もなく偏向」した歴史が推奨されていたらしいことがわかり、ようやく腑に落ちるものがあったからである。(誤解なきよう付言しておく。これはティリー女史をあげつらってのことではない。私は彼女の論文を若干読んでいて、かねてその視角や論点に親近感をもっていた[もちろん批判点もあるが]。今回ウェブ検索し直してみると1948年生まれで私より1歳若く、そして2016年4月に脾臓ガンですでに死亡していた。合掌するのみ)。

 確かに人は「真実」(truth)を追求しがちである。「事実」(fact)に直観による信念を加えたものが「真実」である由。究極的な「事実」は一つでも、「真実」は主観的で人の数だけある。なるほど世間にはもっともらしく「客観性を装っている」研究があふれているだろう。しかしだからといって私は「事実」追求の矛先を緩めていいとは思わない。「臆面もなく偏向」していていいわけではない、はずである。それはむしろ歴史小説のジャンルというべきであろう。

 ただ客観的「事実」といえども唯一ではない。たとえばA地点で武力衝突が生じても、2、3ブロック離れたB地点は平穏そのものであれば、事件の評価にA地点とB地点の証言で温度差が生じるのは当たり前で、だが史料的にBしか残っていない場合、それが客観的「事実」になっていいはずはないからである。「事実」の認定には諸状況を勘案しての史料批判が必要で、しかしその検証を経たところで絶対的に正しい「事実」と断定できるわけでもない、と歯切れは悪くとも相対的位置づけに留めることは重要であろう。その意味ではじめて、たとえ真摯な研究者の立論といえども「独断と偏見」にすぎない、といえるのである。

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ケルト読書会:体感的キリスト教

 これもうろ覚えですが。
 今日、偶然にも途中からBS4で「知られざる古代文明:マヤのピラミッド」をみたら、最後に極めつけの文言が研究者の口から発せられて、脱帽。
 征服者スペイン人がやってきてキリスト教を強要した。マヤ人たちはそれまで多神教だったが、それまで1000の神を信じていたとして、彼らはキリスト教を単に1001番目の神として受け入れたに過ぎなかった、と。
 まあ、ケルト人にとっても、同じことであったのではないか、と。

ところで、多神教の中で自分の守護神として一人の神を選び取ることを「一神礼拝」monolatryといいます(アブラハムもそうだったとされてます)。キリスト教側では教義的に自分たちは「唯一神礼拝」monotheismだ、と一生懸命主張するわけですが、実際の信者たちの多くにとっては「一神礼拝」にすぎなかったりします。
 信者であれば体感的にこのことは分かっているのですが(特にカトリックでは)、頭で自分はキリスト教を理解できていると思いこんでいる信者でない人たちは(いや、自分はちゃんと信じていると思っている人でさえも)、この肝腎な部分が分かっていないので、見当外れの言説を飽きもせず再生産しているように思うのは、私だけでしょうか。

理念追求の神学や哲学はそれでいいとして(正直本音では、いいとはまったく思ってませんが (^^ゞ)、現実を重視すべき歴史やってる人がそれでは、どうもね。

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殉教のテンション

 2/5に偶然見た、NHK BS4K「知られざる古代文明 発見! ナスカ;大地に隠された未知なる地上絵」。2年以上前の再放送のようだ。俳優の佐藤健がレポーター。 
 新しい考古学的成果でいい加減な従来説が崩壊し、なかなかいい線いっている気がしました。私はこれまでそれに触れている著述家たちは現地に入っていると思ってきたが,どうも違うらしい。ひょっとして航空写真しか見ないであれこれもっともらしいことを言ってきたのだろうか。今回現地に入っての調査団は山形大学チーム。やっぱり現地に立ってみて初めて分かることがある、という当たり前のことを地で行っている好例。あの線が足幅しかなくて、ただ片足を引きずって描かれたものということなど、聞いて驚くことばかり。
 たしか、あれを用水路だといった説もあったよな。赤面ものだ。
 南アメリカでの人身犠牲についても、ここでも自ら自発的に提供した者もいたらしい。キーワードはやっぱり水資源。雨乞いなのだ。研究者が「命は大切、だからそれを守るために大切な命を捧げる」という視点で述べて、それに対して佐藤が「どういうテンションでやったのでしょうかねえ」と反問すると、研究者のほうが「あっ、テンションっていう表現はなかなかいいですね」と返す場面があって、面白かった。
 私的には、殉教の場面で、このテンションを考えてみたいと思ってます。

[後日補遺]このシリーズのマヤ文化もみることできた。そこでも水資源が文明の衰退と関連していたらしいとされ、ただしナスカとは逆に干魃ではなくて、雨量が多くてそのためだったと。この真逆な発想には学ぶべきものがある。

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痴呆への一里塚(4)健康診断

 退職してから、それまで年一回あった職場での健康診断がなくなって、清々した思いで、Ⅰ年目に区から来たその通知を無視したけど、2年目の今年、通っている整形外科で、検査をそれで代行するから受けなさいといわれたので行くことにした。あの通知は12月中が期限だからそれまでに最寄りの提携病院に行かなければならない。私は通知の読み違えしていて、1月中まで大丈夫だと思っていたのだが、それはバリウムのことだったようだ。

 というわけで、11月中ごろに練馬駅前の医院でレントゲンから大腸ガンまでの一式の検査をした。あらかじめ電話したとき、12月は混むから朝早めに来るようにと言われ、しかし行ってみるとさして混んではいなかったが。後日提出せよと検便を渡され、それを提出すると、結果を2週間後に取りに来るようにといわれ、ま、3週間後くらいに行くと、結果もらう前に簡単な医師の診断もあって、かくして医師所見欄には「肝機能障害 要医療」と。

 今日は、そのころ同時に郵便で申し込んでおいたバリウム検査のため(一ヶ月後くらいに検査日を指定される)、区役所の検査室にいってきた。なにせ指定集合時間が8時半。こんなに早く地下鉄乗るのも久々で、大勢のみなさんが足早に急いでいるのを見るのも久し振り。15分前に所定場所にいくと3番目で(先に来てた人が、番号札とるようにと教えてくれた)、まだ職員きていなかったので殺風景ながらんとした部屋で芸能ネタのテレビを見る(ムードコーラスの純烈のなにがし脱退が放映されていた)。こうして定刻までに来た人は男性ばかり数名。遅れてくる人も数名いた。職員が出てきて若干待たされて、番号札順に書類提出、人定確認、400円出して、留置所のように検査服を受領して(S、M、Lと積み重ねられてる)、コインを渡され、更衣室でパンツ1枚になり着替えさせられて、順番待ちし、バリウム飲み、台の上でぐるぐる回らせられ、下剤もらって解放。所要時間30分程度で終了。そんなことないのだろうが、心なしか職場のそれよりも手早い感じだった。こっちの結果は郵送らしい。

追伸:1月末に郵送で、医師が状況を説明するから出頭するようにという郵便が届いた。あらかじめ電話連絡して予約して1/31に行ってきた。地図とかバス経路が書かれたチラシが同封してあって〇〇医療検診センターとかで、高野台2丁目。ともかく練馬区はこういう区関係の施設がばらばらで行ったこともない場所ばかり。高野台だったらまず西武線で、それからバスないし徒歩となるが、今回は最初からバスでいけばシルバーパスでタダやねん、とおもって練馬駅北口から指定の成増行きバスに乗ったつもりが、違っていたようで西へ向かうはずがじゃんじゃん北上、あわてて降りてもタクシー来そうもない田舎道なので、下赤塚の幹線道路で降りて、なかなか来ないタクシーをやっと捕まえて20分遅れで到着。タクシー代2170円也。えらく高くついてしもうた。すなおに西武線で行けばよかったのに。とほほである。

 あらかじめ電話しておいた受付はお待ちかねで、しかし持参品に明記されていた健康保険証以外に医療費負担が書いてある高齢受給者証も必要とかで(チラシの持参品に書いてなかったぞぅ)、「確か・・・3割負担」と口頭で許してもらった。やっぱり検査で引っかかっていたわけで、医師らしき人から図入りで簡単な説明を受ける。「噴門部小弯バリウム斑」で、要精密検査。10年以上前にもひっかかったことあって、傷跡があってその痕跡では。そんなことを話して10分程度で終わった。実はこのところ胃が痛んでまして・・・。

そのあと事務で400円払ってレントゲン写真もらって帰る(無料での貸し出しもあったが、その場合は持参返却しなければならないので、購入した方が安上がりと判断)。それを持参ししかるべき医院・病院で精密検査を、というわけだ。

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ケルト読書会:鹿の奇蹟譚とキリスト教

 読書会で読んでいる、ヤン・ブレキリアン『ケルト神話の世界』上、138-142ページに出てきている聖エダーンSt.Edern(聖ユベールSt.Hubert)の牡鹿の角の間に十字架を見たという幻視に関連して、ローマ市内のSant'Eustathio教会の正面屋根上にも枝角をもった鹿が飾られているが、関連は、という質問が〇〇さんからありました。そういえばそうだよね、というわけで、家に帰って調べてみたのですが、Eustathiusの伝説のほうが時代的にかなり古いので直接の関係はないけれど、類似伝承としては知られていたようです(普通だと、古い方が先行伝承なんですが:翻訳者もそのように想定してます。p.141)。  
 以下、ウキペディア情報。エウスタティウスは、ローマ皇帝トラヤヌスに奉職していた将軍で、元々の名前はPlacidusだった。彼はティヴォリで牡鹿の狩りをしていた時、鹿の角の間に十字架を幻視したので、すぐに家族ともども改宗し、名前をEustathius(堅固)と変えた。彼はヨブと同様の数々の試練を受けたが、信仰を堅持した。だが、118年に異教犠牲を拒否して、妻子ともども青銅製の牛像の中に入れられあぶり殺された、のだそうです。 
 たぶん伝説上の人物だったせいでしょうが、カトリック教会は、1970年に聖人暦から彼を削除しましたが、地方的崇敬は存続しているそうです。未だ英国国教会や正教会では聖人で9月20日が祭日だそうです(手元にある光明社版の『カトリック聖人傳』下巻、1938年、p.282には、その日付の[共祝]欄に以下のように書かれている:ローマにおいては聖エウスタキオ将軍、その妻聖女テオピスチス、その子聖アガピトおよび聖テオピスト各殉教者ーー猛獣の餌食にされようとしたがなんの危害もこうむらず、最後に鉄牛の内部に押しこまれて焼きころされた)。  
 この教会、パンテオンのすぐ西南にあります。その広場の一画にあるカフェがくだんのサンテスタッチオ・イル・カフェで、エスプレッソは絶品。ローマ1、と私は思ってます。ローマに行くと必ず行き、お土産に豆を買います。今度いったら、この御縁で,鹿と十字架の図案付きカップも買おうかな(ウェブでも購入可能のようだけど,送料とか高そうだし)。でも我が家にはカップがもういっぱいあって、すでに断捨離趣味の嫁さんの標的にされてる気配が (^^ゞ
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