月: 2020年4月

またもやコーカソイドの知的盗作?:遅報(30)

 といっても、ヘレニズム時代の話である。「ヒッパルコスが最初じゃなかった。3700年前のバビロニアの粘土板に記されていた世界最古の三角法」:https://reader.elsevier.com/reader/sd/pii/S0315086017300691?token=C12854E53EEDE2FAF51476A392B88C5B72F0B0CD5F9DE74AA07FA1AF0B5AC4A19409EDA5015BA3DAA1BD48EDDAE47B41

 20世紀初めに発見された粘土板(Plimpton322:縦12.7cm、横8.8cm)は、約3700年前のものと判定されているが、その粘土板の記述を再検討していたオーストラリアの研究者が、そこに世界最古の三角法の表を記している、という見解を発表した。

 これが本当だとすると、これまで前120年頃にヒッパルコスが考案していたとされる三角法が、1000年も古い時代に解明されていたということになる。

 私にはその当否を論じる能力はないが(ウィキペディアの「プリンプトン322」を読んでも何も理解できません)、なんでもかんでもギリシアとかヘレニズム起源としたがる向きへのしっぺ返しには、一種の快感を覚えるものである。

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この息苦しさってなんだ:痴呆への一里塚(20)

 ”Stay Home!”の掛け声に和したつもりではないが、行くところもないままに自宅に引きこもっていたが、今日、近所のセブンイレブンまで行こうと思い立った。その準備していると(いや、単に外出の服を着ていただけなのだが)、ただそれだけでなんだか息苦しい。やれやれまた体重増えたせいか、と思いつつ、重い体をのろのろと前に運んで家を出た。相変わらず息苦しく心臓に負担をかけているのが歴然で、こんなのが狭心症の前期症状かな、などと自己診断しながら歩いて買い物して帰る段になると、あら不思議、その息苦しさが消えていることに気付いたのであ〜る。

 いったいこれはなんだったのだろうか。謎である。が、いい兆候であるはずはない。

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集団感染(免疫)で、誰が勝利するのか

 田中宇氏がまたまた面白い見解を示した。2020/4/28「都市閉鎖 vs 集団免疫」:http://tanakanews.com/200428corona.htm。以下、彼の数字と論理を使っての私見である。

 中国の武漢は1月末から完全に都市封鎖を行い、3か月を経て勝利宣言をしたが(中国当局の主張を真に受けると)、むしろそのため免疫を得たのは約3%留まりにすぎなかった。すなわち中国全体は集団免疫の60%にはほど遠いから、確実に再流行に見舞われるはずで、この感染症の影響は長引かざるをえない。それは経済的ダメージの長期継続を意味する。

 他方で、対応が遅れて3月末から都市閉鎖したNY市では現在21%の免疫保有者がいるが、それ以外の地域は5%程度に留まっているだろう。トランプは確実に集団免疫の道を歩みたがっている(貧民層および不法移民は確実に打撃を受ける)。4月上旬に規制を厳しくした東京は、それまで事実上集団免疫の道を歩んでいたので、30%以上になっているかもしれない。意図的に集団免疫政策を採用しているスウェーデンは40-50%あたりだろうか。

 集団免疫は、無能・無策な国ほど獲得できる。もちろん多くの死者を出すが(有能な国は、一応の高齢者対策を講じているフリはしないといけない)。他方で、非常事態宣言を出して都市封鎖を実施すればするほど、また免疫効果が短期間であれば再感染が長引き、かえって都市封鎖を持続せざるをえず、結果的にかえって、経済・財政・金融破綻、生活困窮者の増加というマイナス面のほうがはるかに大きくなる、というメカニズムに捕らわれてしまう。

 こうしてパンデミック(くり返して言うが、歴史的に見て、今回の件は規模的に未だ実際はたいしたことない、のだが)が長引けば、社会問題にすらなってきたお荷物の医療を必要とする高齢者、年金生活者が一掃・淘汰され、免疫を得てコロナと共生できた人類が生き延びていく。このパンデミック後の地球の姿は果たしてどうなっていくのか。私自身は淘汰される側であるが(そして、淘汰されてもいいと思っている。ま、それも運命かと)、それでもなんだか見届けたくなっている私がいる。

 ゴリラ研究者の山極寿一氏の、人間による自然破壊が、野生動物=宿主と人間の接触機会を増加させている、という記事も面白かった:http://nml.mainichi.jp/h/acsXa4zdwRncttab

【追記】田中氏続報(5/4:中国式とスウェーデン式):http://tanakanews.com/200504sweden.htm

【追記2】世の識者の中には、感染症は社会的上下、貧富に関係なく犠牲者が出る、とノー天気なことを仰っている人がいるが、それは現実問題としてまったくの嘘だ。どうしてそんな戯言を平気で言えるのか。言外に富者の気の緩みを案じてのことだろう、と一応は言っておこう。だが、そんな人に是非ともお読みいただきたい記事が出てきた。ここにも数字の嘘が潜んでいるわけ:2020/5/16「新型コロナ危機による「不平等な死」 欧州のマイノリティー感染拡大から」(https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20200514/pol/00m/010/010000c?cx_fm=mailpol&cx_ml=article&cx_mdate=20200517)。スウェーデンでの患者や死者の内訳をちゃんと見れば(政府は意図的にそうしないわけ)、移民や社会的少数者・弱者が圧倒的なのである。

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訃報・山本博文さん:遅報(29)

 さっき、久々に郵便局に行って帰りにポストを覗くと、おや「S経新聞」が。前にはN経が入っていたことがあり、有難くこの拡販を持ち帰って読んでいて、びっくり。死後出版の記事に出会う。日本史の人なので私のウェブ情報に引っかからないから、こんなことが起こる。

 なんと一ヶ月も前の2020/3/29 に腎盂ガンで63歳にてご死去。若い。分野も違うので面識はないが(私が一方的にテレビで拝見していた)、私の側からすると、私が10年間居住していた岡山県津山市の出身で、県立津山高校から東大文三に進学されたことを、たぶん話題になった『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩邸』かなんかで知り、なんとなく親近感を感じて(錚々たる箕作一族、とりわけ元八を出した幕末・明治・大正期は別にして、津山出身で史学はめずらしいので)、心情的に応援していたら、詳しくは知らないが倒錯、もとえ盗作(コラムでの無断使用)騒ぎがあったことを小耳に挟んだこともあったが、てらいもなくテレビに登場しているのを見て、たいしたことなかったんだと思っていた、まあその程度でしかない。

 なんでも一〇〇冊以上の本をお書きになっている由で、大学教員歴40年の間にどうすればそんなことできるのか不思議で、もちろん才能があったに違いないが、史料編纂所という恵まれた勤務環境のせいかもしれないと思ったり。いまさら追っつく話ではないものの、後学のため多作のコツを知りたいと思ったり。

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世界キリスト教情報第1527信:2020/4/27

= 目 次 =      
▼ロシア正教会、感染拡大で復活祭に司祭らだけで礼拝      
▼バチカンが新型コロナ対応へ新委員会設立、「パンデミック」後の影響分析や対策提案  ▼教皇が訪中準備、最初の訪問地は武漢?      
▼教皇の武漢訪問は「フェイクニュース」と中国『環球時報』      
▼台湾がバチカンにマスクの追加支援、教皇は台湾に気遣い      
▼『チビルタ・カットリカ』誌が簡体字中国語版を創刊

 今回は、カトリック教会の中国・台湾関係での微妙な動きが目立っているが、私的にはいささか微妙です。最後の Civiltà Cattolica 誌は1850年以来イエズス会が出版してきたものである(https://www.laciviltacattolica.it:このウェブ版にはこれまでイタリア語以外に、英語・スペイン語・フランス語・ハングル語版があった。残念ながら日本語は入ってない。アジアに於けるバチカン外交の重点の在り方が明確に示されている)。そもそもフランシスコ・ザビエルが日本に上陸したのも中国伝道の橋頭堡としてであり、たった2年の日本滞在、600人余の信者を獲得しただけで、渡航目的を果たせそうにないので日本を去り、ゴアを経由して中国入境を試みるが、1年後に広東省の上川島でなすすべもなく病没した。享年46歳。

 私はイエズス会士の現教皇が「フランシスコ」を教皇名に採用したことについて、奇異の念にとらわれざるをえなかったが、それはかつての日本布教でもイエズス会のライバルであったフランシスコ会の創設者のアッシジのフランシスコを採用したと受け取ったからである。しかるに、教皇着座以来の彼の妥協的な親中国外交を見るにつけ、彼の秘められた真意は「フランシスコ」・ザビエルの果たさざる夢の実現にあるのでは、と思わざるを得ないのだが、これははたして妄想にすぎないのであろうか。彼は現在すでに83歳で、中長期的展望は望むべくもないとはいえ。

 バチカン市国国境よりBorgo Santo Spiritoを東に歩いて数分に位置するイエズス会総本部(Casa generalizia della Compagnia di Gesù a Roma)内では、たぶんそんなジョークが話されているはずだ。

左のイエズス会総本部からサン・ピエトロ方向(西)を見る
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ローマ軍の金属製水筒? ほぼ完品で出土

 https://archaeology-world.com/a-roman-laguncula-water-bottle-of-the-4th-century-ad-discovered-in-france/

 みなさんは、これ↓を見てなにを想像しますか。

 私は一目見て「水筒」と思った。しかし説明文を読んで混乱する。水筒ではなく、携帯食糧の容器だ、というのである。まだ完全に納得させられてはいないが(下に表示されているスケールは全体で10cmを表示:江添誠氏ご教示による。最初一目盛りが10cmと誤認していたので汗顔の至り)。

左がSeynodの場所、右が出土状況

 スイス国境に近いフランスのSeynodの古代ローマ時代の神域から、例外的に良好な状態で、後4世紀前半のlaguncula(私は最初「水筒」と訳していた)が出土した。そこはショッピング・センター建設予定地での、緊急発掘だった。第一層からは1世紀末に神殿の最初の痕跡、次いで42の土葬墓が出土し、それらから貨幣、土器、小立像が見つかった。こういった奉納品の中から、金属製の容器が出てきたのである(大きさは、本体直径12,3cm、幅7cm程度)。鉄製円板2枚を、月桂樹の葉状の丸い突起のアウトラインの青銅製平板で接合し、把手とフタも青銅製で、フタはかつて銅製の鎖で本体に結ばれていた痕跡が残っている。フタと底は同心円状の輪型で装飾されている。

 私的には、この器の使用目的に短い把手と底の輪型の存在が、ヒントになるように思う。火中に立てるなり横倒しにして温めていたのでないか、と。

上は底の形状、下は側面

 軍隊用水筒は一般には19世紀後半にさかのぼるとされてきた。すでに水筒型の容器が古代ローマ時代にあったことはこれまでも出土例が2、3例あって知られていたらしいが、今回は完品に近い出土で改めて注目されている次第。そもそもローマ兵が日々の軍用糧食の貯蔵用に帯同していたもので、おそらく、8人からなる分隊contubernium個々人の常備品だったのだろう。まあ確かに、行軍中ラバが曳く荷車もあったらしく、石臼・鍋・釜・その他の共同装備品がそれで運ばれていた。当時ローマ軍の食糧供給は、一軍団(約5000名)で一日当たり1.2トンの穀物を必要としていた由。ならば単純計算で一人当たり240g/日か(兵士は行軍中通常3日分の食糧配給されていた由)。この水筒型容器の容量がどれほどになるのか、計算すれば出るはずなので、算数得意な人はチャレンジしてください(後述の【追記】の復元品は、水筒を前提とし、本出土品よりも、直径で1.5倍、幅で2倍の大きさで、容量は1.5リットルとなっている)。

 容器内の底から残留有機物が検出された。キビ粒(Panicum miliaceum)、ブラックベリー、乳製品の痕跡もあった。そしてオリーブ酸も確認されたのでオリーブも入っていたようだ(別説だと、それら動物性・植物性材料は加熱され、料理されていた、と想定されている)。かくしてこの容器、固形食物を入れることができたので、一種の実験台apprenticeshipだった、のかもしれない。

 なぜそれが墓地から出てきたのか。記事では、推察するに、死者の同僚兵士、友人、ないし兄弟による究極の敬意からだった、とされている。

 実際には、ローマ兵たちは水筒として山羊皮製の水袋を使っていた。これだと落としてもこすっても破れないし、素焼きの土器と同じで、外側の表面が濡れて気化熱で冷やされるという利点もあった。だからその皮製水筒は第1次世界大戦時まで使用され、「ghirba」と呼ばれていた(cf., http://new.alpitrek.com/Equipaggiamento-Acqua.html)。

ローマ軍の水筒はたぶん左端のような物だったろう:中央は第1次大戦の伊軍、右端は第二次大戦の仏軍のもの、金属製になってもまだ山羊の形態を留めているのがおもしろい
最近の、ghirba名を継承した品物にこんなのもある、らしい

【補遺】ghirbaをググっていたら、第1次世界大戦のイタリア兵墓銘碑に好んで刻まれていたらしい文言が出てきた。

【追記】こんなものも出てきた。ローマ時代の複製品と銘打って、1.5リットルの水筒として販売されているらしい(販売価格30ユーロ:Lenght : 19 cm ; width : 14 cm ; weight : 855 gr.)。

左:オランダの業者Celtic Webmerchantのカタログより;右想像図の右端にも描かれている

 余談だが、よく兵士たちがこういった日常携帯品を十字架状の棒forcaにくくりつけて(背嚢:sarcina)担いで行軍していたように描かれているが(重量20〜50kgに及んだとも)、あんな棒きれでその重さを支えるなど、ワンゲル出身の私としては考えられない。錬成訓練では30kgをリュックに詰めて仰向けに成って背中に密着させて背負うが、立ちあがるのがやっとで、よろよろ歩きだ(別途持参の武器・防具の重さも考えてみよ)。こんなこと、実際体験すればすぐ分かるのだが、手抜きの紙上研究では平気で間違ってしまう(これを「紙上談兵」「机上の空論」という)。文献的には、兵士が背負って行軍しているかのような記述が残っているが(Appianos, HR, Hisp. 86:Josephos, JW, III.4-5:Vegetius, Epitoma rei militaris, II, ;画像的にはトラヤヌス円柱上)、訓練ならともかく、実戦においては行軍速度を稼ぐためにも、ちょっと考えられないことで、この矛盾をどう解釈すればいいのか、思案のしどころである。上記でも触れたが、普段は荷車使用が普通だったのでは。道なき道に直面して、それが不可能な場合の各自、ないしは従者の下僕の携行だったのではないか、と想像している。

浮き彫りでも兵士が実際に担っているようには描かれていないことに注意すべきかも

 ところでforcaのことを「十字架状の棒」と書いたが、考えてみれば、ローマ兵が揃いもそろってそれを背負っていたとすると、行軍とはまさにイエスの「道行き」Via Dolorosaではないか。であればキリスト教護教家たちの言説にそれが見えても不思議はないが、なぜか私にそれの記憶がない。御存じ寄りからの情報をお待ちしている。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

念のため:私説ではここで金属製水筒はありえない。実際上記トラヤヌス円柱にそれらしきものは見当たらない

【追補】エウトロピウス、Ⅳ.27の事情を知るために、栗田伸子訳で、サルスティウス『ユグルタ戦争』(岩波文庫、2019年)を読んでいたら、第43-45章(p.76-79)で以下の箇所に出会った。前109年の新執政官メテッルスは任地のヌミディアで前任執政官アルビーヌスから無気力な軍隊を引き渡されたが、賢明にも父祖伝来の軍律が回復されるまでは出陣しないことにし、「陣営内でも戦列においても奴隷や荷役獣を所有してはならない」等を命じ、「兵士が食糧と武器とを自ら運ぶようにさせ」、こうして「処罰よりもむしろ過ちから遠ざけることによって、短期間に軍を立て直した」と。換言すると,平時にはそういったことが容認されていた、おそらく非常時にでも、ということでもある。

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古代ローマの感染症:(7)日常復帰に向けて、沈船データ


 コロナ騒動に付随して多少あれこれ書いてきた。ま、100年に一度の出来事ではあるが、すでに山を越えつつあるという認識で、そろそろ我が日常に戻ろうと思う。それでこのあと罹患して死んだら笑ってください。

 今日、イギリスから書籍が届いた。A.J.Parker, Ancient Shipwrecks of the Mediterranean and the Roman Provinces, BAR International Series 580, Oxford, 1992, pp.547+図版・地図、の大判で、古代ローマ時代の地中海における沈没船研究であるが、本を開いて驚いたことに、その大部分が沈船データのカタログ・リストで、本文といえるのは、最初の30ページを占めている程度。いかにも英国的研究で、価格は古書で¥12,947。本当は所蔵する国内大学図書館が複数あるのだが、図書館が閉鎖中でやむを得ず自腹を切った。相互貸借だとまあ郵送費往復2000円台ですんだのだが。

 これの入手動機は、この秋の某学会大会で発表しませんか、という話があり、じゃあ時節柄マルクス・アウレリウスの疫病についてやろうと思い立ち、関連論文を集めていたら、その中で、疫病蔓延影響のせいで、明らかにマルクス・アウレリウス時代の沈船が少なくなっているとの以下の記述を確認するためであった。R.P.Duncan-Jones, The Impact of the Antonine Plague, Journal of Roman Archaeology, 9, 1996, p.139, n.182. 以下がそこで引用されていたfig.5である。私的にはむしろfig.3のほうが全体を見通せていいと思うので、並載しておく。

Fig.3 Ancient shipwrecks:Mediterranean wrecks by date, grouped in centuries

 あげく、学会大会なくなるかも、だが。その時は、この研究、面白そうなので誰かやってみませんか。

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円は360度(円);朝、仙人が来て言うんだ???:飛耳長目(40)

(4)池田勇人:戦後最高の宰相「日本の未来を見据えていた12人」( https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60133?pd=all)

1899-1965年

このシリーズ、これまで (1)大久保利通 (2)聖徳太子 (3)嵯峨天皇

 広島県広島2区の現竹原市出身、もちろん広島カープとニッカ・ウィスキーのファン。

よく見たら有料だった。もう2年経っているので、転載許してもらえるかな。以下が(2)からの続き。

 昭和16(1941)年、池田は本省主税局の国税課長として呼び戻される。戦時体制で戦費捻出が至上命題となり、税の専門家である池田の知識と経験が必要とされたのだ。昭和20年には京大卒として史上初の主税局長になり新聞に大々的に取り上げられる。必死に目の前の仕事をこなしていた池田も、敗戦直前には国家と己の運命を自覚し始める。部下で生涯の腹心となる前尾繁三郎と「アメリカ軍が上陸したら武器を持って戦うか・・・」と話し合っていた。

 敗戦で日本の運命はアメリカに握られた。占領政策は過酷を極め、公職追放の嵐が吹き荒れる。戦時下の指導層はことごとく公職から追放された。大蔵省も例外ではなかった。ただ、池田にとっては幸いした。池田は官僚の最高峰である次官に登った。もちろん、京大史上初の大蔵次官である。平時ならありえない人事だった。

 仕える大臣は石橋湛山。石橋は戦前戦中と気骨のジャーナリスト・エコノミストとして知られ、軍人や官僚の弾圧にも屈せず、正論を吐き続けた。池田はこの人物に自由主義経済の神髄を学ぶこととなる。その石橋は占領軍にも屈せず、経済理論を武器に徹底的にアメリカ人たちを論破し続けた。これに業を煮やしたGHQは石橋を公職追放してしまう。

 首相の吉田茂も安定政権を築けず短命で退陣、片山哲、芦田均の不安定な連立内閣が続く。

 日本解体を狙う占領軍の魔手は大蔵省も例外ではなく、池田は組織防衛に徹さざるを得なくなる。そもそも、日本経済の破壊も辞さないGHQ相手に、池田は苦労を強いられるが、なんとか生き延びた。言うなれば、「社長に上り詰めたと思ったら、会社そのものがブラックオーナーに買収されていた」といったところか。

占領軍の無理難題と戦い日本経済を支える

 池田の退官直前、吉田茂が政権に返り咲く。吉田は池田に白羽の矢を立てた。そして衆議院選挙に出馬、1位当選する。ちなみに、池田は死ぬまで連続7回、トップ当選を続ける。

 池田は、当選1回で大蔵大臣に抜擢された。首相の吉田は自己の政治課題を日本の独立回復に定めて外相を兼任した。内政にはほとんど関心を抱かず、与党自由党統制の為に代議士たちに大臣の椅子を投げ与え「大臣病患者」を大量生産したが、3年半の間、自己の外相兼任と池田蔵相だけは動かさなかった。敗戦で焼け野原になった日本で、池田は衣食住の確保に奔走することとなる。

 大蔵次官から、衆議院議員選挙を経て、大蔵大臣に直行である。しかし、「ブラックオーナー」たる占領軍の存在は変わらない。池田は日本人に衣食住を与えるべく政府が借金してでも財政出動をしようとするが、占領軍は「均衡財政」を命令する。無理難題に耐えながら、既に崩壊している日本経済を支えた。池田は耐えながらも「1ドル360円」だけは勝ち取った。本来は「1ドル300円」が適切な相場だったが、「円は360度だ」などと訳の分からないことを言いながら、「貧乏国の日本に60円くらい、構わないだろう」とアメリカに認めさせた。ちょうどブラック上司の無理難題に耐えながら部下が「1つくらいいいだろう」と言わせるのに似ている。

 吉田は昭和26年のサンフランシスコ講和条約で、独立を回復した。この会議をはじめ、池田は多くの重要な外交場面にも立ち会っている。吉田は明らかに池田を自分の後継者に育てようとしていた。俗説では「吉田学校の双璧は池田勇人と佐藤栄作」と言われるが、後世の創作だ。吉田はほとんどの場合、池田を格上に扱っていた。

 吉田が退陣に追い込まれた後の鳩山一郎内閣では、野党、しかも反主流派に追いやられた。盛り返した石橋湛山内閣では主流派だったが首相自身が2カ月で病気退陣、岸信介内閣では再び反主流派。苦難の時期を迎える。反主流の期間は5年。必死に力を蓄えた。

政治家とブレーンの理想的な関係を体現

 その岸内閣が派閥抗争で揺れ退陣に至った昭和35年、有名な安保闘争で世上が騒然とする中、池田は政権担当の意思を示す。側近たちは全員が「何も、こんな時期に名乗りを上げなくても」と止めたが、池田は聞かなかった。

「朝、仙人が来て言うんだ」

 愚かな歴史学者は、この仙人が誰かを当てようとする。たとえば、右翼の大物の児玉誉士夫のことではないか、など。

 池田は若い頃から生きた学問が好きだった、地方の税務署をドサ廻りしながら、現場のノンキャリと飯を食い、酒を飲みながら、税の勉強をした時から。政治家になっても、官僚だろうと学者だろうと、本気で言いたいことがあるものは屋敷に呼んで、「酒のフルコース」を朝まで付き合わせながら対等に議論をする。

 その中で、最も池田の心を掴んだのは、元大蔵官僚で経済学者の下村治だ。この天才には、廃墟の日本を高度経済成長させる秘策が浮かんでいた。緻密な数式と膨大な事実収拾に基づいた政策を、池田は必死に理解しようとした。もちろん天才下村の言うことなど、池田が何割理解できたかわからない。ただし、その下村の策を実現できるのは、政治家池田勇人なのだ。ちょうど、大江広元が考え付いた世界史のどこにも存在しなかった「幕府」を、その何割かを源頼朝が理解して実現したように。池田と下村の関係は、政治家とブレーンの理想的な関係と言えた。

 池田の側近の誰も、池田ほどの勉強はしていない。池田は長年にわたる自らの学びを通じ、未来が見えていた。それを側近に話しても分かるはずがない。

「朝、仙人が来て言うんだ」

 自分には未来が見える。それを実現する責任を果たす。これはすべてを引き受ける覚悟のトップにしか言えない。

 池田が重大な決断を下すとき、常に側近たちは全員が反対した。しかし、最後には従う。従わせる魅力と説得力が、池田の政治家としての力量だった。

経済学の基本に忠実だった所得倍増計画

 昭和35年7月、池田は自民党総裁選に勝利し、総理大臣となる。目玉は「所得倍増」である。「国民の皆様が真面目に働けば、10年で月給を2倍にします!」と公約した。はじめ、多くの人はあざ笑った。だが、池田は真剣に訴えた。決して上手いとは言えない演説だったが、池田本人は大衆の中に入っていって語るのが好きだった。

 池田の月給2倍は、緻密な理論に基づいていた。だが、原理は簡単で、経済学の基本に忠実だった。

 大前提は2つある。

 第1が、1ドル360円の固定相場制である。60円のハンディをもらっているので輸出に有利である。当時は固定相場制なので、米国がドルを刷ると、「1ドル=360円」を維持するために、円も刷る。自動的なリフレ政策である。占領期にあらゆる理不尽に耐えながら「1ドル=360円」を認めさせた意味が生きた。アメリカ市場は日本製品に席巻される。

 第2が、政府が日銀に公定歩合を上げさせないよう、政治主導を確保した。金利が上がらない安心感は、インフレ期待を発生させる。平たく言えば、金利が安いので企業がお金を借りやすい。

 その上で、サイクルを確立した。

(1)企業がお金を借りて投資する。

 ↓ 積極的に投資をするので、商品の質が向上する。

(2)消費者が良い商品を買うので企業が儲かる。

 ↓ 企業が儲かるので、企業に余裕が生まれる。

 ↓ 給料が上がる。

 ↓ 個人にも余裕が生まれる。

(3)貯金をする。

 ↓ 安心が生まれ、人生設計ができる。

(4)貯金ができるので、安心してモノを買う。

 ↓ 消費が増える。

(1)に戻る

 経済成長率7%が無ければ所得倍増は無理だが、現実には最高13%に達した。人々の生活は急速に豊かになった。

政権運営は安定、議席率も史上最高

 前任の岸内閣の時代、安保闘争の嵐が吹き荒れ、一時はデモ隊を鎮圧するために自衛隊の出動まで検討されたほどだ。また、暗殺も行われる、不穏な時代だった。だが、池田は荒んだ人心を、政治から経済に移した。働けば、給料が上がる! 池田時代に目ぼしい政治闘争は起きなかった。

 これに切歯扼腕したのが、ソ連である。当時のソ連はアメリカと世界の覇権を争い、あわよくば日本でも革命を起こそうと企んでいた。安保闘争も、その一環である。ところが、人々がデモではなく職場に向かうのでは、革命どころか暴動すら起こしようが無い。

 池田の所得倍増とは、単なる経済政策ではなく、安全保障政策だったのだ。

 池田の時代、キューバ危機で、すわ世界大戦、米ソ核戦争かとの危機もあった。この時、池田は即座にアメリカを支持。大統領が民主党であったにもかかわらず、良好な関係を終始維持した。

 その上で、台湾、韓国、東南アジア(特にタイ)、オーストラリア、フランスなど、自由主義陣営の国々との友好を深めた。

 政権運営は安定し、自民党の議席率は単独で64%。史上最高の議席率である。憲法改正を封印しつつ憲法解釈は骨抜きにした。池田内閣の時代、内閣法制局の「憲法解釈は核武装も集団的自衛権の行使も合憲」だった。自衛隊に史上最高の予算がついたのも池田時代である。

引退後に本当にやりたかったこと

 池田は経済見通しが狂うたびに「公約違反だ」とマスコミに叩かれたが、最高権力者がマスコミに叩かれるのは健全な民主主義が機能している証拠だと割り切った。本当の意味での公約違反は、「10年で所得倍増」だった。これは7年で達成された。

 しかし、神は池田に寿命を与えなかった。昭和39年、東京オリンピックを花道に引退する。癌だった。7年目に所得倍増が達成された時、池田はこの世にいない。昭和40年に世を去っていた。

 生前の池田は、教育と憲法改正をやりたかったらしい。引退後は秘書の伊藤昌哉と全国行脚しながら青年教育を行いたかったとか。池田曰く、自分は自衛隊に戦車も大砲も軍艦も飛行機も付けた。しかし、本当に大事なのは国民が自分の国を自分で守ろうとする気持ちを持つことだ。もし国民が愛国心を持てば、憲法も自然と変わるだろう。総理を辞めたら、そういう教育をしたい。

 伊藤は、池田の実績を3つあげる。1つは言うまでもなく、高度経済成長により日本を世界の経済大国に押し上げたこと。2つは、アメリカ一辺倒ではない、世界政策を持ったこと。3つは、安保闘争後の騒然とした世上で、話し合いによる議会政治の土壌を守ったこと。

 しかし、それにもまさる池田の功績を挙げる。

 日本人の誰もが進むべき道を見失っていた時に、希望を示したことである。

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西欧農業国の実態を見よ:飛耳長目(39)

 コロナがらみで毎日新聞のウェブ記事「食料危機は来るのか」を見て、ビックリした。http://nml.mainichi.jp/p/0000066d75/2595/body/pc.html

 たとえば、農産物の輸出大国フランスでは、農業従事者の8割が北アフリカや東欧出身の外国人に頼っているので(知らなんだ〜)、欧州連合への渡航禁止で労働者確保が困難となり、約20万人が不足すると試算されている。

 農業労働者を急募したら今回の件で職を失った人々が殺到し1週間で24万を越えたが、農場の場所や収穫時期との折り合いがうまくいかないケースや、収穫作業は未経験者にとって簡単でないので、採用に至る数は少ない由。あげく、大幅な収穫減を見越して農産物輸出国が軒並み輸出制限をかけ出している。

 かくして、「世界食糧計画(WFP)は21日発表した報告で、20年に世界で食料不足に陥る人が19年から倍増し、2億6500万人に上る恐れがあると推計している」。もちろんそのしわ寄せは、開発途上国の住民たちに向かう、はず。

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抗体検査による感染者数予測、55倍!

 これまで世間では、感染者数をPCR検査に基づいて想定してきたが、NHK BS1でのアメリカのテレビ報道で、カリフォルニア州で試験的に抗体検査してみたら、罹患率がこれまで考えられていたよりも55倍の可能性がある、と。ただ、検査キットが中国製で信頼できない、免疫の持続が確認されていない、検査対象に偏りがある、といった問題点が指摘されており、その結果にあまり信頼はおけないかも、とも述べていた。それでググってみたら、2日前から関連報道があった。https://wedge.ismedia.jp/articles/-/19372;https://news.yahoo.co.jp/byline/iizukamakiko/20200421-00174391

 ま、話半分としても、ちょっと衝撃的な数字だ。いずれにせよ、これからそれが封鎖態勢解除(=経済活動再開)の目安をどこでつけるか、という場合の基準とされかねないわけで、これからは感染者数よりも抗体検査の結果が注目されるだろう。

 なお、推計を基にしたコロナの致死率は0・1~0・2%と算出。これはインフルエンザのそれと同レベルらしい(くり返す、インフルの年間死亡者数は全世界で20〜50万人。ワクチンがあるといってもろくに効いていない現実がある:https://note.com/geltech/n/n49f508736b94)。となると、今回のコロナ騒動はとんだ「令和のから騒ぎ」かも。

【追伸】ようやく「おかしいぞ」という情報も出だした。「緊急事態宣言は「壮大な空振り」だった」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60539?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link&utm_content=top

 日本がやたら杜撰な対応をしている割には感染者数・死者数が少ないのはなぜか。BCG接種説、マスク説、体質特異説・・・と、色々言われているがまだ不明というべきか。呼吸器の嫁さんに言わせると、なにもBCGのせいではなく、各種の予防接種がきちんと行われていて、それなりに抗体ができているからだろう、と。その点、あれこれ屁理屈をこねて非協力的なエリート分子を内包している西洋や、そういう手当に手が回らないアジア・アフリカは、当然感染症に対して弱点があるわけか。

 庶民は所詮、鼓腹撃壌の徒。安穏な日々が送れればいいのだ。

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