月: 2021年9月

どう思いますぅ? 河岸のローマ道発見!?:オスティア謎めぐり(15)

  先にテヴェレ川の左岸を歩いたと書いたが、それはオスティア遺跡のちょうど裏側のことである。そこから遺跡まで帰る道すがら、妙なことに気付いた。寡聞のせいかこれまで触れた文献に出会っていないので(絶対あるはず)、にわかには信じられない、というか確信をもてないのだが。この件、ご存知よりの方からのアドバイスを求めています。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 それをやはりGoogle Earthのストリートビューの画像で紹介しよう。現代のテヴェレ川の湾曲部の凹の地点にコンクリートを15m×10m の長方形に平打ちした感じの簡易船着き場がある。そこから下流にさらに175m 歩くと葦に遮られて道が途絶えてしまう。地図的にはその葦原を250m 突破するとヨットハーバーに出ることできるようにおもえるのだが、その時の私はそれを試みる体力が奪われていたので、オスティア遺跡に帰り着くべくUターンした(グーグル・アースで後からみると、船着き場に降りないでそのまま遺跡の北側にそって河口方向に向かう道もあるようだ。次回があれば試してみたいが、それにしたところでヨット・ハーバー目前で「Da qua nun se passa,toma indietro」とわざわざ表記されているので行き止まりとなっているのだろうし、藪を突破したところでヨット・ハーバーの柵があるだろう)。その船着き場から約1km 弱のところに例の石柱が立っているわけだが、まずは船着き場から140m 戻ると左側に2軒ほど民家があり(番犬がいてやたら吠える)、右側はオスティア遺跡事務所(コ字型のピンクの天井)の裏口といった趣の三叉路に出る。そこから川筋を遡上すると来た道になるが、今回の復路は三叉路の右であった。そこをものの20m も歩かないうちに,私は道路面の変化に気付いてしまったのだ。

 それまで未舗装のはずの差し渡し4.4m 幅のその道の片一方、帰途の私にとっての左半分にどうやら平たい小石が敷き詰められていたのである。最初は断続的に、しばらくするとずっとそれが次の人家の手前まで続いている。その距離約300m。その写真が以下である。後日、動画も撮っていたはずだ。

   、初め付近          、向こうに人家が見え出す

 残念ながら私は考古学者ではないので、この道の舗床がいわゆるローマ時代のものそのものかどうかは判定できない。みなさんおなじみの大きな玄武岩を敷きつめたアッピウス軍道などと比べれば石自体があまりに小型である。砕石を敷きつめたようにさえ見える。しかし私にはスペインでサンチャゴ巡礼した時、河原から拾い集めたような若干大きめな丸っこい玉砂利のこれは正真正銘のローマ軍道を目撃した経験があるので、違和感はない。ローマ街道はよく画一的規格で解説されがちであるが、石材も工法も地域的特色があるのが普通だった。今の場合、古代ローマ時代に平底船を綱で牽引していた奴隷や牛にとって一番いい舗床がどういうものだったかが重要だったはずである。

 また、この石が敷きつめられているのが、現在の道幅の半分、せいぜい2m なのはなぜか、これも疑問である。もともと2m 幅だったのが、現代生活で不可欠な自動車の普及で道幅を拡張したのではないか、というのがど素人の私の思い付きなのだが、どうだろう。川端近くの三叉路付近には先に述べたように1、2軒の民家しかないが、オスティア遺跡の裏口として物品の運搬時に8トン・トラックにしたところで車幅は2m強なので、この道の使用も十分可能だからである。この件は、遺跡内を避けてその東西大通りdecumanus maximus の北側を遺跡入場口受付から事務棟、さらにはその奧の収蔵庫にむけて走っている舗装道路の道幅も4.4m とほぼ同じことも、それを傍証しているように思える)。

 船着き場から人家まで約500m のこの道は、おそらくかつて大湾曲していたFiume Morto 沿いの道にほぼ相当していたのではという私の直感が正しければ、往時、奴隷や牛に曳かせてテヴェレ川を平底船が帝都ローマまで遡上していた運搬路があったことは確かで、しかし、その時のものと断言するのはさすがに勇気がいるが、大湾曲部分が洪水でFiume Mortoとなってしまった1557年まで、この道は河沿いの道路として機能していたのは確実といっていいように思うが、どうだろう。

       ↑船着き場から人家までの道筋↑      下隅、ユリウス2世の砦Castello
、1884年:大湾曲部の片鱗が砦付近にまだ残っていた   、1911年の航空写真
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河岸河床監督官の石柱みっけ?:オスティア謎めぐり(14)

 前の書き込みの続き。Mauro Greco氏の叙述内に「2つの大きな石柱」があって未だ直立しているほうにラテン語碑文が刻まれていてと、写真も2葉添えられていた(下の写真)。ただどうやら二つとも同一石柱の写真で、しかもそれから刻字を読み取るのは無理なようだ。立っていないほうの石柱はどうなっているのだろう、といつものない物ねだりで気になるところではある。

 最終的にみつけた場所をGoogle Earthで表示しておこう。大通りに面したOstia Antica 遺跡の正面玄関の真ん前に教皇ユリウス二世が枢機卿時代に創建した砦があり(下の写真①だと右下隅の三角形構造物)、そこの白丸を基点として黄色の線を辿って最初の三叉路(白丸)を左折して次の三叉路の交差点中央(白丸)にそれ(ら)があった。基点からの距離は340m ほど。

写真①  Ostia遺跡    煉瓦色の屋根が屋敷   中央の白色の道筋と白丸の交差地点が石柱設置場所

 かのお屋敷(といってもそれほどの豪邸にはみえないが)は、オスティア遺跡だと以前このウェブで扱ったことのある「御者たちの浴場」Terme dei Cisiarii (II.2.I3) の北側真裏になる。今から20年も前そういえば、ミトラエウムを探しあぐねて格子越しにのぞき込んで、境界に設置された頑丈な金属製の柵に寄りすがって「ここにあるんだろう。入りたい」と嘆息したことを思い出してしまった。

 これももう数年前のこと、思い立ってテヴェレ川のかつての川筋(Fiume Morto)の痕跡を求めてボルゴの東北地域の畑の中をさ迷ったことがある。遺跡の神様も哀れに思ってくださったのだろう、偶然、一面の畑の真ん中にぽつんと保存された遺跡にひとつだけ行きつくことができた(いずれ触れる予定)。平べったい農地の中の農道をひたすら歩くだけなのだが、そのときは体調思わしくなく、めまいに襲われたこともあり、涼しい午前中に出発しても炎天下なので昼過ぎには体力と同時に気力も奪われてしまう。しかしあきらめず帰り道は西に歩いて現在のテヴェレ川の左岸に至り、川筋沿いに道がある限り下ってみた。そこはちょうどオスティア遺跡の本当にま裏だったが、そっから先は葦の原になっていて、ワンゲルでは普通の昔とった杵柄とはいえ、その時の私にはもはや藪こぎする余力は残っていなかったし、単独行だったので河岸で事故った時が怖かったので、川辺でしばし休憩してからUターンした。川筋のすぐ南側はオスティア遺跡の敷地なのだが、ここも丈夫な柵で閉鎖されているので、目前に慣れ親しんだ遺跡を見ながら大回りせざるを得ないことを呪いながらだったが、その帰り道、何が幸いするかわからないもので、実は今問題の石柱が設置されている交差点で件の石柱にこれも偶然遭遇し、由来もなにも知らないまま念のために写真も撮った記憶がある。今はそれを探す手間を厭って手っ取り早くGoogle Earthのストリートビューを利用しての写真を掲載しておく。有難い時代となったものだ。

写真② 左奥にAldobrandini家の建物がみえる   東から見た石柱   右の道を行くとテヴェレ川左岸に出る   

 ストリートビューは撮影機器が通った道にしか進めないので、今の場合、左の道はAldobrandini家のお屋敷のファサードに導く並木のアプローチ道であり、私有地だから撮影されていない。それで石柱のそっち側や裏側の映像は確認できないのが残念だ。だが、石柱のそばに倒れた切り石が見つかったのは、なにはともあれ収穫だった。但し、重そうだし、ここでひっくり返したりして刻文をチェックしたりしていると(何もないかもだが:じゃあなんなのさ、この切り石)、車で通りすがる地元民のみなさんに怪しまれること請け合いだろう。

写真③ 石柱を北西側からみる

 さて、その石柱に刻まれている銘文は以下の通りらしい:CIL XIV 4704 = AE 1922, 95(但し、未確認)。不完全だが現段階での試訳も付記しておく。

1 C(aius) Antistius C(ai) f(ilius) C(ai) n(epos) Vetus /

2 C(aius) Valerius L(uci) f(ilius) Flacc(us) Tanur(ianus) /

3 P(ublius) Vergilius M(arci) f(ilius) Pontian(us) /

4 P(ublius) Catienus P(ubli) f(ilius) Sabinus /

5 Ti(berius) Vergilius Ti(beri) f(ilius) Rufus /

6 curatores riparum et alvei /

7 Tiberis ex s(enatus) c(onsulto) terminaver(unt) /     

8 r(ecto) r(igore) l(ongum) p(edes) //

9 Sine praeiudic(io) /                 

10 publico aut /                    

11 privatorum                     

 1行目のAntistiusのみ祖父まで書いた若干くどい念入りな標記なのは、彼が執政官格の本監督官評議会の筆頭者だからで、後の4名は法務官格だったから、だろう。

 6行目から7行目冒頭に出てくる「curatores riparum et alvei / Tiberis」は一般に知られている政務官職名だが、Greco氏が書いている「オスティア・アンティカの」di Ostia anticaが抜けているのが気になるし、その語が di Ostiaと、しかもアンティカと現代表記したイタリア語なのだ。奇妙だとようやく気付いたが、あれはGreco氏の勝手な付加だとすれば、帝都ローマのcuratores (pl.)がこれを建てたことになって、それはそれでリーゾナブルではある。

 実は、8行目については別の読み方もあり、最後に欠字もあるようだ(あってほしい)。ちょっと調べてみたら、9-11行目は研究論文などでなぜか省略されている場合が多い。定型表現のようだが、異読もあり、いずれにせよこの銘文いずれきちんと検討・詳述できればと思っているので、ご意見いただければ嬉しい。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 ところでこの探険、もうひとつの思わぬ副産物にこれも偶然出会った。それは続きで。

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アルドブランディーニ家とミトラエウム:オスティア謎めぐり(13)

堀賀貴編著『古代ローマ人の都市管理』九州大学出版会、を読んでいて、関連でちょっと調べたら、アルドブランディーニ家がらみで偶然23つの事例が引っかかってきた。 ことの発端は以下である。ティベリス川の洪水に古来悩まされ続けたローマは、河岸河床監督官を定めたというくだりで、その官職名curatores riparum et alvei Tiberis をググっていて(それはそれで、「使徒行伝」13.4-12に登場するキプロス総督[正確には騎士身分から派遣される管理官procuratorのはず]Lucius Sergius Paulus/Paullusと関係あるかものという名前も出てきて、知らなんだ〜と大いに興奮したのだが、念のためと田川建三大先生の注解書を開いてみたら、すでにK.Lakeが1933年の注解書でちゃんと説明しているように同一人物とはいえない、とそっけなく却下なさっていて、私はエウセビオス研究がらみでかねてK.Lake先生のご研究を尊敬してきたので、こりゃもうあかんとガックリ)、たまたまなんと、curatores riparum et alvei Tiberis di Ostia antica もヒットした。 おいおいこれはなんなんだ、そんな官職オスティアにあったって聞いてないよ〜とそっちをググり出すと、Mauro Greco氏が2018/2/4にアップされた「Il cippo dei Curatores riparum et alvei Tiberis di Ostia antica」(http://visiteromeguide.altervista.org/cippo-dei-curatores-riparum-alvei-tiberis-ostia-antica/)が引っかかった。最近クラウディウス帝のローマ市域石標pomerium cippus を紹介していたので、あれれこんなものオスティアにあったかいなと、レジメ作成作業を中断してとうとう大幅に横道にそれることに。Mauro Greco氏によるその紹介文に「オスティア・アンティカをよく知る人なら、遺跡の左側にあるアルドブランディーニ家の敷地に沿った未舗装の道を散歩したことがあるだろう。アルドブランディーニ家の敷地に通じる大通りから数十メートルのところにある分かれ道で、2つの大きな石柱に出会う」とあって、これまたはじめて知った「アルドブランディーニ家」Aldobrandini という存在(ググってみれは、これはフィレンツェ起源の大変な名家だった。以下の[付記]参照)や、それが遺跡の左側にあるという叙述に、どっちから見て左側なんだ、現在牧場風の空間が広がっている右側の間違いじゃないの〜、と首を傾げながら、Google Earthで検索したりググってみたりする中で、今度は「Mithraeum Aldobrandini」なんてものもヒットして(http://www.visitostiaantica.org/en/2017/07/02/the-mithraeum-aldobrandini/:但し、Stefania Gialdroni女史撮影の掲載写真は表紙の1枚を除きすでに見ることできなくなっている)、これはひょっとして20年も前に気になって探していた19番目のミトラエウムのことでは、と。 昔、オスティア遺跡にあるミトラエウムに興味を持ち調べたときの知識では、オスティアのローマ側からの入城門 Porta Romana門の右側城壁をテヴェレ川方向に辿ると塔があって、そこがミトラス教の祠だった、というごく簡単な説明しかなかったと記憶しているが、現地で遺跡とテヴェレ川の間のそれらしい場所を見当つけて道伝いに探し歩いたこともあったのだが、農地と私有地だらけで、その上甲高い番犬どもに吠えられたりで目的を果たせなかった過去があった。今回みつけた写真はあのとき探せなかったのも道理で、「塔」というにはおこがましい小型の構造遺物で、しかも「アルドブランディーニ家」の私有地の中にあって非公開ということも分かり、まあこれで一応積年の疑問を解消することができただけでなく、上記ウェブ掲載のリンク先に飛んでみるとなんとそれは例の「OSTIA:Harbour City of ancien Roma」で、いつの間にか充実した記事となってアップされていて(https://www.ostia-antica.org/regio2/1/1-2)、めでたく写真や碑文も入手できたのである。そのウェブの管理人Jan Theo Bakker氏の尽力はかくも偉大なのである。これはこれで十分紹介する内容を備えているので、誰か手早く紹介すればいいのになと思わざるを得ない。ああ、天我をして十年の命を長らわしめば・・・。 さて本論のcippusに話を戻したいが、それは続きで。最後にGialdroni女史撮影の「塔」の表紙写真を転載させていただこう。
ところでこの項目、なんど段落切っても修正されない。どうしたことか。読みづらくて申し訳なし。 [付記]2021/11/24 帝都ローマのトラヤヌス市場の3D画像をGoogle Earthで切り取ろうとしたら、そのすぐ北に「Villa Aldobrandini」を見つけてしまった。これは今は庭園だけのようだが、フラスカーティには文字通りの豪邸があるようだ。
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オスティアって実は季節労働だった、はず:オスティア謎めぐり(12)

 以下で触れる件は、一般向けのカルチャでは話してきたが、これまで秘中の秘として温めてきた構想である。文献的に見落としあれば、ご連絡いただけると幸甚である。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 帝都ローマの外港オスティアのことを調べていると、私は思考の落とし穴のひとつに、古代地中海世界の船舶航行にとって航行可能期間が春から夏にかけてと限られていたという指摘から、あることに気付いてしまった(やっぱ、才能は隠せんものじゃの〜 (^^ゞ)。それは、当時の港湾労働のかなりの部分が人力に頼っていたという当たり前の事実から、当時の人力の最大の供給源は奴隷だったはずで、ここまではそれぞれ従来から普通に言われていたことであったが、ちょっと待てよと。

 前段と後段を繫いで、はたと気付いたのが、じゃあ航海不能の期間に奴隷たちはどうしていたのか、ということだった。奴隷の所有者は無駄飯を食わせていなかったはずだ。これを別視点から見てみると、港湾労働が季節労働だったということであり、具体的には繁忙期は3月から9月までで、10月から翌年の3月までの実に半年が、毎年決まったように港での仕事閑散期となるのであれば、私が奴隷所有者であれば当然、労働力の有効活用の途を探ったに違いないはずなのだが、というわけである。

 奴隷労働の季節的転用といっても、なにしろ本邦どころか管見の限りとはいえ欧米研究者の文献中にも具体的に触れているものにお目にかかったことがなく、データ的に若干間遠いけれどようやく見つけえたのが以下の図33と解説だった。K.グリーン『ローマ経済の考古学』白水社、1999年、p.191、図33.

 

この図をじっくり拝見していて、なんと都合いいことに、地中海世界では港湾作業の閑散期が農繁期にあたり、とりわけオリーブ収穫期に集約的な労働力が必要とされていた、すなわちおそらく春先から港湾労働に投入されていた奴隷たちは、秋以降はオリーブの、そして穀物やブドウの手入れや収穫作業へと就業場所を移動していたのでは、との想定が可能になったのではと思う。

 私は、後四世紀の北アフリカの初期キリスト教運動でのドナティストの一派、キルクムケリオーネスを久々に思い出してしまった。彼らは、属州の現地人なので、いかにカラカッラ帝以降とはいえローマ市民権保持者として遇せられていたとは思えないが、奴隷ではなく、季節労働に従事する無産階層、いわば現代のフリーターだった(厳然と存在していたいわゆる下級市民humiliores:別件だが、池袋での運転ミスした現代の上級市民honestioresさん、当然のことながら処罰されてよかったと思う。でも収監はされないのだろうけど。同様にサクラ問題の最上級市民に対しても厳正にやってほしいと思うのが私のような庶民感情なのだが、ま、政権に媚びるどっかの国レベルの我が国司法体制ではだめでしょうね、残念ながら)。

 引き続いて次に湧いて出る疑問、ではオスティアでの半年間の港湾労働従事中、奴隷はどこに宿泊していたのか、という問題が出てこざるをえない。果たして港湾労働に従事していた奴隷たちはあの立派な集合住宅内に居住していたのであろうか。そんなことはありえない(家内奴隷でも一室を与えられたかどうか不明だし)。冬が雨期で春から夏は乾期の地中海気候を考慮にいれるなら、臨時宿舎としてせいぜいテント生活していたのでは、との可能性を指摘したくなるのである。そのほうが昼間の熱がこもっている石やレンガ作りの家屋内で過ごすより、はるかに快適という事実がある(私はそれをローマ滞在中や、サンチャゴ巡礼中の巡礼宿で目撃・体験した。日本と違いなぜか蚊が出てこないので、野外での夜のほうがすがすがしい)。奴隷の逃亡を防ぎ、管理しやすい区画が奴隷用にオスティアのどこかに割り当てられていたのではないか、というわけである。雨期には使い物にならな単なる野っ原だったらなおさらいいはずのその場所がどこだったのか、が当面の課題となろう(現段階で私は、川向こう、とりわけ当時存在していたテヴェレ川の大湾曲部分が最適ではと密かに思っている)。

 また、先行研究者たちによってオスティアの集合住宅から居住者数が想定されてきているのだが、このような諸事情を勘案するなら、奴隷以外の、解放奴隷やローマ人たち、それに貿易に従事して地中海各地から往来していた非ローマ人たちの滞在状況も、現代の海岸のリド・ディ・オスティアでの観察から、ヴァカンツァ期の夏以外多くの集合住宅が無人化し、スーパーも休業して街自体が閑散化していることから連想して、貿易商はもとより、役人・商人たちも同様に相当規模で年中行事的にローマや本拠地とオスティア間を人口移動していた、と想定してもあながち間違ってはいないような気がする。要するに立派な居住家屋も季節使用されていたに過ぎなかったのでは、というわけである。

 そこからさらに、オスティアでの社会インフラ、とりわけ特徴的な多数存在する公共浴場や大規模な製パン工房なども、繁忙期を想定してのそれであって、閑散期にはその多くが店じまいしていたはずという結論が容易に導かれるのであ〜る。

 ただし、そもそもオスティアは創建以来状況の変化の中で都市機能的にずいぶんと変容してきた挙げ句、最後は大理石やトラヴァーチン、ついでにおそらく焼成レンガなどの建築資材の石切場・採掘場となる運命を辿っているからには、二〇世紀における発掘状況で姿を現したその都市景観はその最終段階の姿に他ならないわけで、要するに転用や放棄・破壊を蒙ったあとの景観から、往時を再現しようとするには慎重な配慮が必要とされねばならない。たとえば私など実は、オスティアはポンペイに比べてバール関係がやたら少ないことに不審を覚えたものであるが、それも5,6世紀の都市凋落期の姿とすればなんとなく納得できるような気がしないでもないのである。それにしてもあまりに少ない気がするので、別の仮説を加味すべきだと思っている:現段階では、オスティアは基本的な都市機能が一般市民を前提とした消費都市ではなく、なによりも特殊港湾都市であり、そこに集住していた主要構成員が奴隷であるという特異事情、すなわち、基本的に廉価な賄いで養われていた身分層からなっていたせいでは、と考えている。奴隷には身銭を切っての購買能力が、お目こぼし程度にはあったにしても、基本的に備わっていないはずと考えるからである。

 サァテかくのごとき珍説、いつものことながら、はたしていつになったら真面目に取り上げられることになるのやら、もって瞑すべし。

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その昔、山本七平がいた:先達の足跡(7)

 最近、研究者仲間から「いまどきの学生は映画ベン・ハーもしりませんから」と聞いた。今でも時折放映されているにもかかわらず、そうなのだそうだ。私が幾度となく見てきたそれは、3度目の映画化のもので1959年製作だったので、もう60年も前、私も多感な?中学生だったころになる。

 蛇足ながら、今やそれとだいぶおもむきの違う新作も登場しているが、それすら若い人がどれほどみていることやら:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC_(2016%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)。

 だから、生涯が1921年から1991年(享年69歳)だった山本七平を知る人も少なくなってきているのも当然だろう。その彼を最近私はしばしば思い出している。それは彼が『空気の研究』という小論を1977年に文藝春秋から出していたからだ。私はこれを読んで(出版後かなりたってのことだったと思う:手元には1983年発行の文春文庫版があるがこれとて古本入手だった可能性がある)、日本人は回りの空気に影響されて行動してきたし、これからもそうするはずだ、ということを勉強したのだが、最近ウェブ情報でこの「空気」という表現によくお目にかかるような気がしてならない。たとえば今日、こんなインタビュー記事があった。「自民党総裁選で見えるもの:社会の空気一変の怖さ」:(https://mainichi.jp/articles/20210917/dde/012/010/019000c?cx_fm=maildigital&cx_ml=article&cx_mdate=20210919)。

 あの文庫本の解説で日下公人は、山本の手で「戦中戦前の日本人の思想様式や行動様式が今も変わっていない」ことが提示され、「大正族や昭和ヒトケタ族にはその伸縮しない物差しの重要性と必要性はよくわかるのである。その世代は理由がよく分からない戦争に捲き込まれて、ひどい苦労をさせられたからである」と喝破している。昭和ヒトケタ世代すら消え去ろうとしている昨今、大多数を占めるに到った戦争体験のない国民に、どれほどの説得力があるか不明であるが。一抹の不安を感じざるをえない私である。いや私も昭和22年生まれの戦後族だが、池田内閣以前はまだなんとなく戦前・戦中を引きずっていた気配があった。なにせ復員軍人が社会の主要生産世代だったのだから。

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フォロ・ロマーノの「黄金の里程標」って何なのさ?

 エウトロピウスのラテン語訳を見直していたら、いまさらながらであるが、翻訳仲間からの指摘で妙なことに気がついた。ローマ皇帝たちの治世年月日の表記が基数と序数のごった混ぜが普通に登場することである(詳細は後日予定)。その流れで気になったのは、I.4.1 に2つ初出の「里程標」miliariumである(全10巻中に他に、I.5.2, 8.3, 15.2, 17.1, 19.2, 20.3, II.5, 8.1, 12.1, III.14.1, VI.6.3, 13, VII.15.1, VIII.8.4, IX.2.3)。ちなみにこっちの場合はいずれも序数(第〇〇番目)で表記されているのが特徴なのだが・・・。

 アッピウス軍道の第一里程標は、フォロ・ロマーノの基点から1480mのはずのところ、現在、3世紀後半創建のアウレリアヌス城壁に組込まれているPorta Appia(現サン・セバスティアーノ門)を出てすぐの所に設置されていたと想定されているが(但し、現在そこの民家の壁に塡め込まれる形で設置されているのはレプリカで、現物はミケランジェロによってカンピドリオ丘の再整備時に移設されている:ちゃんとレプリカ円柱の右隣の柄付碑銘板tabula ansata にイタリア語で由来が書かれているのを見逃すことなかれ)、ちょっと気になったのでフォルムからの直線距離をGoogleで確認してみたら、2960mもあった。逆に現在アウレリアヌス城壁付近から1ローマ・マイルの距離を遡ってみるとカラカッラ浴場を通り過ぎて大競技場手前止まり、という結果になった。

、白丸から白丸への黄線がアッピウス軍道の1ローマ・マイルに相当;、第一里程標のレプリカ;、カンピドリオの坂から正面向かって右にある本物
 同様に,北に伸びるフラミニウス軍道はほとんど直線なのでもっと分かりやすいはずだ。ミルウィウス橋は第三里程標とされているが、この橋から直線で4440m遡ってみると、ヴェネツィア広場手前付近で尽きてしまう。要するに、いずれもフォロ・ロマーノには行きつけなかった。あれれ、これは一体どうしたことか。
 この数字をみて、フォロ・ロマーノには「黄金の里程標」Miliarium Aureum なる里程標基準点があって(これは俗称で、「帝都里程標(基準点)」Miliarium Urbis が正式名称だった由)、ロストラ(演説台)の左側に位置しているという私のこれまでの常識が揺らいでしまったのだ(なお、対照的にロストラの右側には「帝都ローマ基準点」Umbilicus Urbis Romae があった:これも里程標基準点とよく誤解されているのでご注意ください)。

 いったいどういうことなんだと、逆走しての到達点、ヴェネツィア広場と大競技場手前をしばし眺めているうちに ・・・ おおひょっとしたら、と思いついたのがRomaのpomerium、具体的には前6〜4世紀初頭にかけて建築されたセルウィウス王のそれじゃないかと。で、それを地図で重ねてみると、あ〜ら不思議、まさしく合致しちゃったのであった。
「13」がPorta Fontinalis、「6」がPorta Capena
 フラミニウス軍道だとPorta Fontinalis、アッピウス軍道だとPorta Capenaからに相当するわけだ(但し、両門とも今は姿形もなく消えてしまった)。要するに里程標表示は、フォロの基点からではなくて、セルウィウス城壁・城門から先の距離だったわけで、日本語ウィキペディア掲載の「黄金の里程標」の説明の最後にそういう説もあると付け足しで述べられているが、そのほうが断然正しかったわけである。なお、あとからググって存在を知ったが、以下参照。3年前にすでに正確な情報をアップしていて、書き手のTatsuoさんの慧眼には敬服:http://roman-ruins.com/milestone/

 これは私にとって恥かきのとんだ落とし穴だったわけだが、じゃあフォロで見つかったという黄金の里程標って一体なんだったんだ?と。余計な知識があってそのせいで安直に考えて間違っていたわけで。諸説あるものの、どうやらそれは、前20年にアウグストゥスが軍道監理官curator viarumになったことを記念して創建されたもののようで(Dio, LIV.8.4)、大理石を金メッキされた青銅で被い、各々の軍道が始まる城門から重要都市に至る里程が記されたものだったようで、少なくともそこが軍道の基点になっていたわけではなかった、という事情が判明(ここでは一応「基準点」と表記しておくが)。
 いずれにせよ、私のように文字情報に踊らされて分かった気になるのではなく、やっぱり具体的に実地に数字化して確認してみるものである、こらお前、これでプロといえるか、と今さらの如く反省した次第。

 以下参照:https://penelope.uchicago.edu/~grout/encyclopaedia_romana/romanforum/milliariumaureum.html;https://it.wikipedia.org/wiki/Miliario_aureo
、フォロ・ロマーノ西端のロストラを挟んでの両基準点の位置;、帝都ローマ基準点跡、本来円錐形だったらしい。背景はセプティミウス・セウェルスのアーチ門(下の左の写真でそのアーチ門左にもっともらしく円錐形の先端が描かれている)
、里程標基準点の復元想像図(里程標の形式を取っていた);、その残存遺物

【付記1】今読んでいるユウェナリス『サトゥラェ』III.10に「水の滴るカペーナ(の門)の古いアーチのところで」との文言をみつけた。ユウェナリスは後60-120年の人なので、当時すでに古色蒼然としていても不思議ではない。

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古代ローマ時代、男女のやや異なる食生活判明

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/08/new-research-shows-men-and-women-of.html

 といっても、ポンペイ近郊のヘルクラネウムでの事例だが。その遺跡では、人々が火砕流からの避難場所を求めていた海岸と平行に走る9つの隣接したフォルニチfornici(石造りの地下室)から、合計で340個体が発掘されている。今回そのうち17遺体のタンパク質の構成要素であるアミノ酸を分析した結果、これまで考えられていたよりもはるかに詳細に、同時代に生きた人々の食生活を復元することができた。

ただし、現場で公開されている遺骨はすべてレプリカ

 男性は女性に比べて食事中のタンパク質の約50%を魚介類から摂取していること、また、男性は女性に比べて穀類から摂取するタンパク質の割合がわずかに高く、女性は動物性食品や地元産の果物や野菜から摂取する割合が高かった。すなわち、男性は、漁業や海洋活動に直接従事する可能性が高く、一般的に社会の中でより特権的な地位を占めていた。また、早い時期に奴隷から解放され、新鮮な魚のような高価な商品をより多く手に入れることができたからだろう、とは研究者の言。

 研究チームは、この新しいアプローチを用いて、古代の食生活をより正確に定量化し、最近の栄養記録と比較し、ヘルクラネウムの食生活では、動物性食品が主流となっている現代の地中海沿岸の平均的な食生活と比較して、魚介類の貢献度が高かったことを示唆している。一方、穀類の摂取量は古代と現代でほぼ同じ割合でした。詳しくは以下参照。

https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abg5791

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