月別: 2019年10月

エウトロピウス『首都(ローマ)創建以来の略史』全一〇巻・改訳中

【前口上】これまで『上智史學』第五二(二〇〇七年)〜第五九(二〇一四年)に全訳を訳註つきで掲載しているが(依拠した底本はMGH版:上智大学図書館の「学術情報リポジトリ」から入手可)、このたび全面的見直し作業を開始した(但し、本文のみ)。ただ、まだ訳語確定には至っておらず、現在進行形中とご認識ありたい。

 今般の翻訳では、関係版本の最新と思われるBudé版(初版一九九八年、第二版二〇〇二年)に依拠して見直すことにした。その際、愚直なまでに直訳を試みること、すなわち、可能な限り語順も変えない、可能な限り同一訳語を当てる、単数・複数も明記することを旨とする。ただたとえば、民族・部族名等は、概ね複数形でたとえば「サムニテス人たち」Samnitesとしたが、我が国で一般に流布した慣用にしたがって、たとえばRomaniを「ローマ人たち」、Veientesを「ウェイイ人たち」と表記した場合もあるので、了解願いたい。

 なお、参加者は現段階で、三井、江添、桒原、豊田の四名。

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【翻訳】

(我らが)主ウァレンス、

ゴート人の偉大なる(征服者にして)、永遠なる正帝陛下に、

 クラリッシムス級文書局長エウトロピウスが(奉る)。

献辞:小官は、ローマの諸事績を、慈悲深き陛下の意向に従い、首都創建以来ab urbe condita 我らの時代までad nostram memoriam、実にそれらは戦時と平時の諸々の事柄において卓越しておりましたがeminebant、時代順に簡潔な記述で集約しました。小官はざっとではありますがstrictim そのうえetiam、諸元首の生涯において傑出したものとしてegregia目を引く諸々の事柄を付加しました。これは、静謐なる陛下の神的精神が、帝国行政の中で輝かしい人々のinlustrium 諸行動に準拠なさっていたことを、読書によってお知りになる以前に、陛下が欣快とされんがためであります。

第一巻

Ⅰ.1:(1) ローマ帝国、これよりも始まりにおいて小さく、拡張の際に大きくなったものを全世界で人間の記録はほとんど思い出すことはできない。それはロムルスを始祖としている。彼はウェスタの巫女である処女レア・シルウィアと、伝えられるところでは、マルス(神)の息子であり、兄弟レムスとともに双子の片割れとして誕生した。 (2) 彼が羊飼いの中にあって追い剥ぎを生業としていた一八歳のとき、取るに足らぬ首都をパラティヌス山にmonte 建てた。それは四月二十一日、第六オリュンピア期の第三年目にして、トロイアの滅亡後、人々が長短いろいろ伝えているがtradunt、三九四年目のことであった(前七五三年)。

Ⅰ.2:(1) 都市をcivitate 創建すると、それを彼は自らの名前にちなみローマと呼んだ。おおよそ彼は次のことを行なった。彼は近隣の群衆をその都市にcivitatem受け入れ、より年長の者たちからex senioribus 一〇〇名を選び出した。彼らの助言に基づいてあらゆることを彼は行おうとした。彼は彼らを年長senectutem であるがゆえに元老院議員たちsenatores と名付けた。 (2) そのときtum 彼自身と彼の民衆はpopulus suus 妻たちを持っていなかったので、彼は祝祭の見世物へとad spectaculum ludorum 首都ローマに近隣諸部族を招待し、彼らの処女たちをearum virgines 掠奪した。掠奪の復讐のために諸々の戦争が起こったが、彼はカエニネンセス人たち、アンテムナエ人たち、クルストゥミニ人たち、サビニ人たち、フィデナエ人たち、ウェイイ人たちを打ち負かしたvicit。これらすべての(諸部族の)町々はoppida 首都の周りに位置している。そして、突然嵐が生じた後、彼が姿を見せなくなったので、統治すること三十七年目(前七一六年)に彼は神々のもとに渡ったと信じられ、そして神格化された。 (3) それからdeinde、ローマでは五日ごとに元老院議員たちが統治し、彼らが命令権を保持して一年が完了した。

Ⅰ.3:(1) その後postea、ヌマ・ポンピリウスが王とされたrex creatus est(前七一五年)。彼は無論quidem 一度も戦争をしなかったが、都市にとってcivitatiロムルスに劣らず有意義であった。 (2) というのも、彼はローマ人たちに諸々の法と道義をleges moresque 制定したからである、(それは)彼らが好戦的な習慣により今や追い剥ぎや半野蛮人と見なされてしまっていたからだった。そして彼は一年を一〇か月に区分した、以前何も計算法がなくて混乱していたのだが。そして彼は、ローマで数え切れないほどの宗教儀礼と諸神域を制定した。彼は病死した、命令権を保持すること四十三年目のことだった(前六七三年)。

Ⅰ.4:(1) この者を継承したのがトゥルス・オスティリウスであった(前六七三年)。彼は諸戦争を再開し、首都ローマから十二(ローマ・)マイルのところにいるアルバ人たちを打ち負かしvicit、ウェイイ人たちとフィデナエ人たち、ひとつが首都ローマから六マイル、ひとつが一八マイル離れているが、彼らを戦争で破ってsuperavit、彼は首都を拡張し、カエリウス山を加えた。 (2) 彼は三十二年間統治した時、雷に打たれて自分の邸宅もろとも燃えてしまった(前六四二年)。

Ⅰ.5:(1) 彼の後、母方を通じでマヌの孫にあたるアンクス・マルキウスが命令権を受け取ったsuscepit(前六四二年)。彼はラティニ人たちと干戈を交えdimicavit、 (2) アウェンティヌス山とヤニクルム(山)を都市にcivitati 加え、ティベリス河の河口にostium ひとつの都市(オスティアOstia)をcivitatem 海に面して、首都ローマから一六マイルのところに創建した。命令権を保持すること二十四年目にして、彼は病気で亡くなった(前六一六年)。

Ⅰ.6:(1) それからdeinde、王位をプリスクス・タルクイニウスが受け入れたaccepit(前六一六年)。彼は元老院議員たちの数を倍増し、ローマに競技場を建設し、ローマ祭をludos Romanos 定めた。それは我々の時代まで続いている。彼は同様にidem そのうえetiam サビニ人たちを打ち負かしvicit、そして諸々の農耕地のagrorum 少なからぬ部分を彼らから差し出させsublatum、首都ローマの領域に併合した。そして彼は凱旋式を挙行して首都に入城した最初の人物であった。 (2) 彼は諸城壁と諸下水道を作り、カピトリウム(神殿)を(建設し)始めた。彼は命令権を保持すること三十八年目にアンクスの息子たちにより殺された(前五七九年)。彼(タルクイニウス)自身が彼(アンクス)の王位を継承していたためであるsuccesserat。

Ⅰ.7:(1) 彼の後、セウィウス・トゥリウスが命令権を受け取ったsuscepit(前五七九年)。彼は貴顕な女性から生まれた、(母は)囚われたがにもかかわらずtamen そして婢女となっていたのだが。彼もまたquoque サビニ人たちを押さえ込みsubegit、クィリナリス、ウィミナリス、エスクィリヌスの三つの山を首都に加え、諸々の壕を城壁の周りにめぐらした。彼はあらゆる者の中で初めて人口調査を定めた。これはそのときまでadhuc 世界中で知られていなかった。 (2) 彼の下で、ローマは全員が人口調査において申告され、八万三〇〇〇の頭数のローマ人たちの市民をcivium 持った、(但し)農耕地内にin agris いた人々を含めて(の話)だったが。彼は自分の娘婿で、自分が継承していたsuccesserat 王(プルスクス・タルクイニウス)の息子タルクイニウス・スペルブスと、タルクイニウスが妻としていた(自分の)娘の奸策により殺された(前五三四年)。

Ⅰ.8:(1)ルキウス・タルクイニウス・スペルブス、王たちの中の七代目にして最後の者が、ウォルスキ人を打ち負かしvicitーーその部族はgens カンパニアに赴く際に首都からさほど遠くないところにいるーー、都市civitatemガビイそしてスエッサ・ポメティアを征服したsubegit。彼はトゥスキ人と和平を結び、カピトリウムにユピテルのために神殿を建設した。その後、首都ローマから一八マイルの位置にあった都市civitatem アルデアを攻囲しているときに、彼は命令権を失った。 (2) というのも、彼の息子で自身も小タルクイニウスなる者が非常に高貴な女性ルクレティア、(すなわち)コラティヌスの非常に貞淑な妻であるこの女性を凌辱し、そして彼女が侮辱行為について夫と父と友人たちに訴えて、皆の目の前で自殺したからである。それが原因で、自身もまたタルクイニウスの一族であったブルトゥスが市民をpopulum煽り立てconcitavit、そしてタルクイニウスから命令権を奪った。 (3) すぐにmox、都市アルデアを王自身とともに包囲していた軍隊exercitus もまたquoque、彼を見捨てたreliquit。首都までやって来たものの諸門が閉じられていたので、王は閉め出されてしまった。二十四年間命令権を行使した後で、彼は自分の妻と息子たちとともに逃亡したfugit(前五〇九年)。したがってローマでは七名の王を通じて二四三年間王政が布かれた。それは、そのときまでadhuc ローマが最大でかろうじて(首都から)一五マイルのところまでずっとusque 保持していたときのことである。

Ⅰ.9:(1)一人の王に代わり、次の理由で二人が選出され、このときから執政官職が始まった。すなわち、もし一人が不正な者たろうとしても、もう一人同様の職権を持ち、その者を抑えるようにするためである。 (2)そして、彼らが一年以上長く命令権を持たず、職権の長さゆえにあまり傲慢になることなく、一年後には私人となることを知って、常に市民的であるように、と決めたのだった。 (3) こうして、王たちが追放されたのちab expulsis regibus 一年目に執政官となったのは、タルクイニウスが放逐されるpelleretur よう殊にmaxime 活動したルキウス・ユニウス・ブルトゥスと、ルクレティアの夫タルクイニウス・コラティヌスであった(前五〇九年)。 (4) しかし、タルクイニウス・コラティヌスからすぐに顕職が委ねられた。たしかにenim、何者であれ首都にタルクイニウスと呼ばれる者が留まるべきではないとされたからである。 ゆえにergo、彼は自分の全財産を(持ち出すことを)認められて首都から移住し、彼の代わりにルキウス・ウァレイウス・プブリコラが執政官とされた(前五〇九年)。 (5) にもかかわらずtamen、首都ローマに対する戦争を追放されたfuerat expulsus タルクイニウス王は扇動し、多くの部族をgentibus 集め、王位に復帰せんものと干戈を交えたdimicavit。

Ⅰ.10:(1)最初の会戦pugna で執政官ブルトゥスとタルクイニウスの息子アルンスは相討ちで死んだが、ローマ人たちはにもかかわらずtamen 会戦から勝利者として戻った。 (2)ブルトゥスをローマの婦人たちは、彼女らの貞操の擁護者として、まるで(彼女たち)共通の父であるかのように一年間喪に服した。ウァレリウス・プブリコラはスプリウス・ルクレティウス・トリキピティヌス、すなわちルクレティアの父を自分の同僚としたが、彼が病により死に至ると、再度iterum 自分の同僚としてホラティウス・フルウィウスを選出した。 (3)かくしてita 初年度は五人の執政官たちを持った。たしかにenim、タルクイニウス・コラティヌスは名前のために首都から去り、ブルトゥスは戦闘中にin proelio 死んでいたし、スプリウス・ルクレティウスは病により死に至っていたからである。

Ⅰ.11:(1)(王たちが追放されたのち=共和政開始後)二年目(前五〇八年)にもまたquoque、再度iterum タルクイニウスは王位に復帰すべく、ローマ人たちに戦争を仕掛けintulit、トゥスキア(エトルリア)王ポルセンナが彼に支援をauxilium 提供したので、ローマを危うくpaene 占領しかけた。だがverum そのときもまた tum quoque 彼は打ち負かされた。 (2) 王たちが追い出されたexactos のち三年目(五〇七年)にタルクイニウスは王位に受け入れられなかった、(というのは)彼にポルセンナも支援をauxilium 送らず、和平をローマ人たちと結んだからで、彼(タルクイニウス)はトゥスクルムに向かった、その都市civitas は首都からab urbe 遠くないところにある。そしてそこで十四年間私人として妻と共に老い朽ちた。 (3)王たちが追い出されたxactos のち四年目(前五〇六年)に、サビニ人たちがローマ人たちに戦争を仕掛けたが、打ち負かされた。そして彼らに対し凱旋式が挙行された。 (4)(王たちが追放されたのち)五年目(前五〇五年)に、あのルキウス・ウァレリウスが、ブルトゥスの同僚で、執政官職四度を務めて、天命を全うして死んだ。彼はそれほど貧しかった、市民からa populo 浄財を募って葬式の費用をあがなったほど。彼に婦人たちはまさしくsicutiブルトゥス同様一年間喪に服した。

Ⅰ.12:(1) 王たちが追い出されたexactosのち 九年目(前五〇一年)に、タルクイニウスの女婿が義父への不正行為に復讐すべく大軍ingentem exercitumを集めたとき、ローマで新たな顕職がdignitas創設された。それは独裁官職dictatura と呼ばれ、執政官職よりも上位である。同年そのうえetiam、騎兵長官がmagister equitum 創られた、それは独裁官にdictatori従っていた。 (2) 古の独裁官職以上に類似して呼ばれることのできるものは、今や静謐なる陛下がお持ちのこの軍事命令権のimperii職権よりありますまい。殊にmaxime アウグストゥスまたはquoque オクタウィアヌスーー我々は彼について後述するがーーと彼以前にガイウス・カエサルが、独裁官職の名と名誉の下にhonore 統治した。ところでautem ローマ最初の独裁官は<ティトゥス・>ラルキウスで、最初の騎兵長官はスプリウス・カッシウスであった。

Ⅰ.13:(1)王たちが追い出されたexactos のち十六年目に(前四九四年)、暴動をseditionem ローマ市民populus は起こした、あたかも元老院と執政官たちに抑圧されていたかのように。 (2)そのときtum そして彼ら自らが自分たち自身のために護民官たちをtribunos plebis あたかも自分らの裁判官たちそして擁護者たちとして創設した。彼らにより(民衆が)元老院と執政官たちから護られることを可能とするためである。

Ⅰ.14:翌年(前四九三年)、ウォルスキ人たちがローマ人たちに対し戦争を再開し、そして野戦でacie打ち負かされvicti、そのうえetiam 彼らが最高(の格式)を与えていた都市civitatem コリオリを失ってしまった。

Ⅰ.15:(1)王たちが駆逐されてeiecti erant 十八年目(前四九二年)に、首都から追放されたexpulsus ローマの将軍dux クィントゥス・マルキウスは、ウォルスキ人たちの都市コリオリを占領した(のにそんな目にあったので)、怒りに駆られてまさしくウォルスキ人たち自身に進んで赴きcontendit、そしてローマ人たちに対する援軍をauxilia受け取った。 (2) 彼はローマ人たちを幾度もsaepe 打ち負かしvicit、首都の第五里程標までずっとusque 迫ったが、彼はそのうえetiam 彼の祖国をpatriam suam 包囲したであろう、彼は和平を要請していた使節団をlegatis 拒絶していたので、もし彼のところに母ウェトリアと妻ウォルムニアが首都からやって来なければ。彼女たちの悲嘆と懇願に打ち破られてsuperatus、彼は軍隊をexercitum 引いたのである(前四八八年)。そしてかつatque タルクイニウス後に祖国に敵対した将軍dux として、彼は二人目であった。

Ⅰ.16:(1)ガイウス・ファビウスとルキウス・ウィルギニウスが執政官時に(前四七九年)、ファビウス氏出身だった三〇〇人の貴族nobiles の男たちが、ウェイイ人たちに対する戦争をbellum 彼らだけで企て、元老院と市民にpopulo 独力であらゆる抗争を完了させることを約束したのである。 (2)そしてかくしてitaque 彼らは出発したのだがprofecti、貴族全員が、そして彼ら一人一人が大軍のmagnorum exercituum将軍たちduces であったが、戦闘中にin proelio 倒れたのである。 (3)たった一人が氏族familia全体から生き残った。その彼は未成年のゆえに会戦にpugnam 連れて行かれることができなかったのである。これらののち、人口調査が首都で執り行われ、そして市民たちのcivium 頭数が十一万七三一九名であることが明らかになった。

Ⅰ.17:(1)翌年(前四七八年)アルギドゥス山の中で、(それは)首都から約ferme 十二マイルで、ローマ軍はRomanus exercitus 包囲されたので、ルキウス・クインティウス・キンキナトゥスが独裁官とされた。彼は四ユゲルムの農地をagrum 所有し、自分の両手で耕していた。 (2) 彼は、野良仕事に従事している最中に見いだされ、汗をぬぐい、(高級政務官用の)紫縁飾付上着をtogam praetextam 受け取り、そして敵たちを倒すと、軍隊をexercitum 解散した。

Ⅰ.18:(1) 首都創建以来三〇二年目(前四五二年)に、執政官命令権が中断した。そして、二人の執政官の代わりに一〇人が作られた。彼らは最高権力を保持することになり、一〇人委員会decemviri と名付けられた。 (2)しかしsed、一年目は首尾よく振る舞ったものの、二年目にsecundo 彼らの中の一人、アッピウス・クラウディウスが、ウィルギニウス某ーー彼は、まさにiam 誉れ高き兵役(複数)にstipendiis あって、ラティニ人たちに対してアルギドゥス山の中で軍務に服していたーーの未婚の娘を傷物にすることを望んだ。彼女を父は殺した、(それはかの)一〇人委員による恥辱をもって生きていかなくていいようにと、そして兵士たちのところにad milites 帰還して騒乱をtumultum 起こした。一〇人委員たちから職権がpotestas 差し出され、かつ彼ら自身も罰せられた。

Ⅰ.19:(1) 首都創建以来三一五年目(前四三七年)に、フィデナエ人たちがローマ人たちに対して反乱を起こした。支援をauxilium 彼らに与えたのはウェイイ人たちとウェイイ人たちの王トルムニウスだった。 (2)彼ら両者の諸都市はそれほどtam 首都(ローマ)に近く、フィデナエが六(ローマ・)マイル、ウェイイが十八マイルしか離れていない。これらの者たちとウォルスキ人たちも同盟を結んだ。しかしsed 彼らは独裁官アマメルクス・アエミリウスと騎兵長官ルキスス・クインティウス・キンキナトゥスにより打ち負かされ、そのうえetiam 王を失ってしまった。

Ⅰ.20:(1) 二十年後(前四一七年)、ウェイイ人が反乱を起こした。独裁官として彼らに送られたのはフィリウス・カミルスだった。彼はまずprimum 彼らを野戦でacie 打ち負かしvixit、すぐにmox そのうえetiam その都市を長期間包囲した後に占領した(前三九六年)、そこはイタリアで最古かつ-que 最も豊か(な都市)だった (2) その後にpost eam 彼はフェリスキ人たちにも(勝利し)、やはり名高さで劣ることのない(一つの)都市も占領した(前三九四年)。しかしsed、彼が戦利品を不正分配したかのごとく彼への嫉妬心が扇動され、かつ-que 彼はそれを理由に断罪され、都市からcivitate 追放された(前三九一年)。 (3) ただちにstatim ガリア(地方)のセノネス人たちが首都へとやって来て、そしてローマから十一(ローマ・)マイルのアリア河畔で打ち負かしたローマ人たちを追って、そのうえetiam 首都までも占領した。(ローマは)カピトリウムを除いて何も防衛することができなかった。彼らが長期間攻囲し、そしてまさにiam ローマ人たちが飢餓に瀕していたとき、【版本の混乱あり:彼らは黄金を受け取ってカピトリウムを占領せずに(軍を)引いた。】しかしsed近隣の都市に亡命していたカミルスにより、ガリア人たちは奇襲されsuperventum est 、かつ極めて苛酷にgravissimeque打ち負かされた。 (4) その後にもかかわらずそのうえpostae tamen etiam、そして彼らに与えられていた黄金も、彼らが獲得していたすべての軍旗も取りもどした。 (5)かくしてita三度目にtertio 凱旋式を挙行しながら彼は首都に入り、あたかも彼自身もまた、祖国の創建者であるかのように、第二のロムルスと呼ばれた。

第二巻

Ⅱ.1:(1) 首都創建以来三六五年目、(すなわち、首都)占領後、ところでautem 最初(の年)にprimo(前三八九年)、諸々の顕職がdigniates 変更された、そして二名の執政官の代わりに執政官権限付軍隊司令官たちがtribuni militares consulari 定めおかれた。この時まさにhinc iam、ローマ人の国家が大きくなり始めた。 (2) というのもnam、カミルスがその年に、七〇年間戦争を行っていたウォルスキ人たちの都市を打ち負かし、そしてアエクイ人たちの首都、そしてストリウム人たちの(首都)、同じ諸都市のすべての軍隊がexercitibus 殲滅され、彼は(それらを)占領した。そして三つの凱旋式を同時に挙行したからである。

Ⅱ.2:(1) そのうえetiam ティトゥス・クインティウス・キンキナトゥスは、戦争と同時に首都ローマの諸城門までずっとusque 来襲していたプラエネステ人たちを、アッリア河まで追撃し打ち負かした。(こうして彼は)彼ら自身の下にあった八都市をローマ人たちの下に加え、プラエネステそれ自体に迫って降伏を受け入れた。 (2) 彼によるそれらすべてのことは二十日の間に行われ、そして彼自身に対し凱旋式が決議された(前三八〇年)。 

Ⅱ.3:とはいえ軍隊司令官たちの顕職は長期間続かなかった。というのもnam しばらくして誰も(その職に)任命されないことが決まったからである。そして首都で四年間が過ぎた、そこに上級権限(を持つ政務官)が存在することなく。にもかかわらずtamen 執政官権限付軍隊司令官たちは再度iterum 権威を回復し、そして(彼らは)三年間継続した。またもやrursus 執政官たちが採用された(前三六七年)。

Ⅱ.4:ルキウス・ゲヌキウスとクイントゥス・セルウィリウスの執政官時に(前三六五年)、カミルスが死んだ。彼にロムルスに次ぐ二番目の名誉が授与された。

Ⅱ.5:(1)独裁官dictatorティトゥス・クインティウスが、イタリアに襲来していたガリア人たちに向けて派遣された(前三六一年)。彼らは首都から四(ローマ・)里程標のアニオ川対岸に陣取っていた。そこで、元老院議員たちの中で最も高貴な青年ルキウス・マンリウスは一騎打ちをsingulare certamen 挑発するあるガリア人に進みでて、(彼を)殺し、そして黄金の首輪をtorque aureo奪いsublato、かつ自分の首につけたので、永遠にトルクアトゥスの添え名をcognomen彼自身にも子孫にも受けた。 (2) ガリア人たちは追い払われfugati sunt、すぐにmox 独裁官ガイウス・スルピキウスにそれでもついにtamen 打ち負かされた(三五八年)。ほどなくしてnon mulot postガイウス・マルキウスによりトゥスキ人たちが打ち負かされ、そして彼らの中から捕虜八〇〇〇名が凱旋式へと連行された(前三五六年)。

Ⅱ.6:(1) 人口調査がcensus 再度iterum もたれた。そしてラテン人たちはローマ人たちによって屈従させられていたsubacti erantのだが、兵士たちを提供することを望まなかったので、ローマ人たちからのみ新兵たちは徴集された。そして一〇個軍団が編成され、その規模は武装兵たち六万かそれ以上に達した。 (2) そのときまでadhuc ローマ人たちの諸資源は貧しかったが、にもかかわらずtamen 軍事においては高い武徳があった。諸軍団がガリア人たちに向かって将軍duce ルキウス・フリウスにより進発させられたときprofectae essent、ガリア人たちの中のある者がローマ人たちの中に最強の人をと(一騎打ちを求めて)挑発した。 (3) そのときtum、我こそはと軍団将校tribunus militum マルクス・ウァレリウスが名乗り出て、そして武装した彼が進み出た時、一羽のカラスがcorvus 彼の右腕の上に止まった。 (4)すぐにmox(一人の)ガリア人との闘いがpugna 始まると、その同じカラスは両翼と(両足の)爪でガリア人の両眼をまっすぐに見れないように遮った。こうしてita 彼は、(軍団)将校tribuno ウァレリウスによって殺害されinterfectus、勝利だけでなく彼にそのうえetiam 名前もnomen 与えたのだった。というのもその後nam postae 同人はコルウィヌス(カラス男)と呼ばれるようになったからである。加えてac この功績により、彼は二十三歳でもって執政官とされた(前三四八年)。

Ⅱ.7:(1)ラティニ人たちは兵士供出を望んでいなかったが、(以下の)このこともまたquoqueローマ人たちから求め始めた、 一人の執政官が彼らから、もう一人がalter ローマ人たちの民衆からpopulo 選出されるべきである、と。 (2)それが拒否され、彼ら(ローマ人たち)に対する戦争が企てられ、諸々の激しい戦闘によって、彼ら(ラティニ人たち)は打ち破られたsuperati sunt(前三四〇年)。またac彼ら(ラティニ人たち)を完全に屈服させて凱旋式が挙行された。諸彫像が執政官たちのために戦勝の功績によって、演壇にRostris 置かれた。 (3)その年にそのうえeo anno etiam、アレクサンドリア(アレクサンドレイア)がマケドニア人アレクサンデル(アレクサンドロス)により創建された(前三二一年)。

Ⅱ.8:(1)まさにiam ローマ人たちは強力になり始めた。そのうえetiam、戦争は首都からほぼ一三〇(ローマ・)マイル離れたサムニウム人のところで行われていた。彼らはピケヌム、カンパニア、アプリアの間にいた。 (2)ルキウス・パピリウス・クルソルが独裁官の栄誉をもってcum honore その戦争へと進発したprofectus est(前三二五年)。彼がローマへ帰還しようとした際、彼が軍隊にexercitum 残した騎兵長官magistro equitum クイントゥス・ファビウス・マクシムスに、自分の不在中には闘わないようにと指示していた。 (3) かの者(ファビウス)はille機に乗じて最上の幸運に恵まれて干戈を交えdimicavit、そしてサムニウム人たちを殲滅した。このことによってquam rem、彼は独裁官により格頭刑をcapitis宣告された、というのは彼が禁止されて(いたにもかかわらず)闘ったからであるが、兵士たちと市民のpopuli 圧倒的な好意により解放された。パピリウスに対し大規模な暴動が扇動され、危うくpaene彼は殺されかけた。

Ⅱ.9:(1) その後postea、サムニテス人たちはローマ人たちへ、ティトゥス・ウェトゥリウスとスプリウス・ポストゥミウスの執政官時に(前三二一年)、巨大な恥辱で勝利し、そして軛の下に送った。和平がにもかかわらずtamen、彼らと必要に迫られて結ばれていたが、元老院と民衆にpopuloよって破棄された。その後postae サムニテス人たちは執政官ルキウス・パピリウスに打ち負かされ、彼らの(うちの)七〇〇〇名が軛の下に送られた。パピリウスはサムニテス人たちに対し凱旋式を挙行した[最初の人物であった:トイプナー版](前三一五年)。 (2)その頃eo tempore(前三一二年)、監察官censor アッピウス・クラウディウスがクラウディウス水道を引いて、アッピウス街道を敷設した。サムニテス人たちは、戦争が再開されて、クイントゥス・ファビウス・マクシムスを打ち負かし、三〇〇〇名の男たちを殺した(前二九二年)。その後postea、彼の父ファビウス・マクシムスが副官legatus となった時(前二九一年)、一方でサムニテス人たちを打ち負かし、他方で彼ら自身の多くの町を占領した。 (3) それからdeinde、両執政官のプブリウス・コルネリウス・ルフィヌスとマニウス・クリウス・デンタトゥスが、サムニウム人たちに対して送られ、諸々の激しい戦争で彼らと決着をつけた(前二九〇年)。 (4) そのときtum、彼らはサムニウム人たちと四十九年間にわたって行われた戦争を終えた。一つたりとも、ローマ人の武徳をより以上magis 試すような敵は、イタリア内に存在しなかった。

Ⅱ.10:数年が経過して(前二八四年)、再度iterum ガリア人たちの軍勢がcopiae 自らをローマ人たちに対して、トゥスキ人たちかつサムニウム人たちと同盟を結んだ。しかし、彼らがローマへと進撃したとき、執政官グナエウス・コルネリウス・ドラベラにより消滅させられた(前二八三年)。

Ⅱ.11:(1)同じ頃eodem tempore、まさにiamイタリアの最遠部にいるタレントゥム人たちに戦争が通告されたindictum est(前二八二年)。なぜならquia、彼らがローマ人の使節団に対しlegatis 愚弄したからであった。彼らは、エピルス(エペイロス)の王ピュルス(ピロス)にローマ人に対する支援をauxilium 要請した、それは彼がアキレス(アキレウス)の後裔に由来する血統を結びつけていたからだった。彼はすぐにmoxイタリアへとやって来て(前二八一年)、かつそのとき初めてtumque primum、ローマ人たちは渡海してきた敵と干戈を交えることになったdimicauerunt。 (2) 彼に対し送られたのが、執政官プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌスであった(前二八〇年)。彼はピュルスの斥候たちを捕らえたときに(以下を)命じたiussit、彼らを陣営を(くまなく)案内させ、すべての軍隊をomnem exercitum 見させ、かつそれからtumque 釈放するように、と。これは彼らがローマ人たちによってなされたことすべてを報告させるようにするためであった。すぐにmox 戦いの火ぶたが切られたため、まさにiam ピュルスは(戦いを)避けようとしたのだが、象たちの支援によりelephantorum auxilio、(ローマ軍を)打ち負かした。ローマ人たちは象などは未知の存在でビックリ仰天したのである。 (3)しかし夜が戦闘に終わりを告げたfinem dedit。ラエウィヌスはにもかかわらずtamen 夜陰に乗じて逃げ切った。ピュルスはローマ人たち一八〇〇名を捕らえ、そして彼らを最高の名誉でもって遇し、戦死者たちを葬った。彼は向こう傷とそのうえetiam 恐ろしい形相をして横たわっている死者たちを見て、天へと両手を差し伸べて、こう言ったといわれている。自分を全世界の主人とすることができたであろうに、もしこれほどの兵士たちが自分に与えられたなら、と。

Ⅱ.12:(1)その後、ピュルスは自分をサムニテス人たち、ルカニ人たち、そしてブルッティア人たちと結んで、ローマへ出陣し、あらゆる(場所)を鉄と火でもって荒らし、カンパニアを冦掠しpopulatus est、そしてかつatqueプラエネステにやって来た、そこは首都から十八マイル(のところ)だった。 (2) すぐにmox、彼は(ローマの)軍隊exercitus への恐怖によって、それが彼を執政官とともに追跡していたからだが、カンパニアに退いた。 (3)(ローマの)使節団は、ピュルスのもとに捕虜たちの身請けについて(話し合うために)送られたが、彼により丁重に受け入れられた。彼は捕虜たちを身代金なしでローマへと送った。(ピュルスは)ローマ人たちの使節団の内の一人ファブリキウスが貧乏だと知った時、以下のことで彼に驚嘆した。それは、王国の四分の一で約束してpromissa(ファブリキウスを)惑わせて、彼のところへと寝返らせようと望み、かつ-que ファブリキウスによって軽蔑されたからである。 (4) そのゆえにquare、ピュルスはローマ人たちへの多大なる称賛でとらえられたので、和平を妥当な諸条件で求めて、一人の使者を送った、(その使者は)優れた男で、名をキネアスと(言った)。かくしてita、ピュルスがまさにiam兵力でもって占拠していたイタリアの地方を、保持しようとするものであった。

Ⅱ.13:(1) 和平は不調に終わった:ピュルスに元老院によって以下が返答された、彼とローマ人たちとは、彼がイタリアから撤退しない限り、和平をもつことはできぬ、と。 (2) そのときtum、ローマ人たちはピュルスが返還していたreddiderat すべての捕虜たちについて、彼らは恥ずべき者たちとみなされると、決した、なぜなら彼らは武器を持って闘うことができたのに捕虜になったからで、また、彼らが殺された二名の敵の戦利品を持ち帰ることなしに、以前の状態にstatum 帰還できないreverti、と。かくしてピュルスの使者は帰還したreversus est。 (3) 彼にピュルスがローマをいかに見たかと問うたので、キネアスは、王たちの住まう場所のように私には見えました、と言った。まさにscilicet そのようにそれがほぼfere 全員(が王のごとく)であったのである、一人ピュルスがエピルスとギリシアの残り(の地方)では(そう)思われているが。 (4) ピュルスに対し送られた将軍たちはduces、執政官のプブリウス・スルピキウスとデキウス・ムスであった(前二七九年)。激闘がcertamine 始まると、ピュルスは負傷し、象たちは殺され、敵たちの二万名が打ち倒され、そしてローマ人たちからはわずかtantum 五〇〇〇名だった。ピュルスはタレントゥムに追い払われたfugatus。

Ⅱ.14:(1)一年をおいてinteriecto anno、ピュルスに対しファブリキウスが送られた(前二七八年)。彼は以前prius 使節団の中にあって、王国の四分の一を約束されてもpromissa、惑わされなかった(人物である)。(2) そのときtum、近くに(それぞれ)陣を彼自身と王は張っていたが、ピュルスの侍医medicus がある夜、彼の所にやって来て、薬物でveneno 自分がピュルスを殺すと約束したpromittens、もし自分と何らかの誓約をしてくれるならpolliceretur、と。その彼をファブリキウスは、拘束し、主人の所に連れ戻し、かつ-que ピュルスに以下を言うように命じたiussit、侍医が彼の首級に対して保証したspopondisset ことどもを。 (3)そのときtum、彼に驚嘆した王が言ったと伝えられている。「まさしくファブリキウスこそ、太陽がその軌道から逸らされるよりも、名誉から逸らされうるほうが難しい」と。そのときtum 王はシキリアへと進発した(前二七八〜二七六年)。ファブリキウスは、ルカニ人たちとサムニテス人たちが打ち負かされたのでvictis、凱旋式を挙行した(前二七八年)。 (4) それからdeinde、執政官たち、マルクス・クリウス・デンタトゥスとコルネリウス・レントゥルスがピュルスに対し送られた(前二七五年)。クリウスは彼に対して奮戦しpugnavit、彼の軍隊をexercitum 打ち倒し、彼自身をタレントゥムへと退け、陣営を占領した。 (5)その日一日で的の二万三〇〇〇名が打ち負かされた。クリウスは執政官中に凱旋式を挙行した。彼は初めてローマに象を四頭連れて帰った人物だった。ピュルスはそのうえetiam タレントゥムからすぐにmox 撤退し(前二七四年)、そしてギリシアの都市アルゴスで殺された(前二七二年)。

Ⅱ.15:ガイウス・ファビウス・リキニウスとガイウス・クラウディウス・カニナの執政官時で(前二七三年)、首都創建の四六一年目(前二九三年)に、アレクサンドリア人たちの使節団がプトレマエウス(プトレマイオス)から送られ、そしてローマにやって来て、ローマ人たちから彼らが求めていた友誼関係を得た。

Ⅱ.16:クイントゥス・オグルニウスとガイウス・ファビウス・ピクトルの執政官時に(前二六九年)、ピケンテス人たちが戦争を扇動したが、そして次の執政官のプブリウス・センプロニウスとアッピウス・クラウディウスにより(前二六八年)、打ち負かされた。そして彼らに対し凱旋式が挙行された。ローマ人たちにより創建されたのは、ガリアでアリミヌス、サムニウムでベネウェントゥムの諸都市だった(前二六八年)。

Ⅱ.17:マルクス・アティリウス・レグルスとルキウス・ユリウス・リボの執政官時(前二六七年)に、アプリア内のサレンティニ人たちに対し戦争が通告され、かつプルデンシニ人たちは同時にsimul 都市と共に占領され、そして彼らに対し凱旋式が挙行された。

Ⅱ.18:(1)(都市創建以来)四七七年目(前二七七年)、まさにiam 首都ローマの令名冠たるものがあった時、にもかかわらずtamen 軍勢arma がイタリア外へ動員されたことはなかった。 (2) こうしてigitur、どれほどローマ人たちの軍勢copiae があるかということを確認するために、人口調査が執り行われた。そのときtum 明らかになった市民の頭数は二十九万二三三四名であった、首都創建から諸々の戦争が中断したことはないにもかかわらず。 (3) そして、アフリ人たちに対して戦争が初めてprimum 企てられた、アッピウス・クラウディウスとクイントゥス・フルウィウスの執政官時(のこと)だった。シキリアで彼らに対して会戦が行われpugnatum est、そしてアッピウス・クラウディウスがアフリ人たちとシキリア王ヒエロ(ヒエロン)に対し凱旋式を挙行した。

Ⅱ.19:(1)翌年insequenti anno、ウァレリウス・マルクスとオタキリウス・クラッススの執政官時に(前二六三年)、シキリアでローマ人たちにより数々の偉業が達成された。タウロメニタニ(タウロメニオン)人たち、カティネンセス(カタネ)人たち、そして加えてpraeterea 五〇の諸都市が誓約をもってin fidem (ローマによって)受け入れられた。 (2)三年目(前二六二年)に、シキリア内でのシクリ人たちの王ヒエロに対する戦争が準備された。彼はシュラクサエ人たちの全貴族ともどもomni nobilitate 和平をローマ人たちから得て、かつ銀二〇〇タラントゥムを支払った。 (3)アフリ人たちはシキリア内で打ち負かされ、そして彼らに対しローマで二度目にsecundo 凱旋式が挙行された。

Ⅱ.20:(1) アフリ人たちに対して行われていたポエニ戦争の五年目(前二六〇年)、初めてprimum ローマ人たちはガイウス・ドゥイリウスとグナエウス・コルネリウス・アシナの執政官時に(前二六〇年)、(ローマ人たちは)海で干戈を交えることとなったdimicaverunt。彼らがリブルナと呼んでいる衝角を付けた軍船が準備されたからである[第2節の叙述から、ここでは衝角よりもむしろ「カラス corvus」のほうがふさわしいかもしれない]。

corvus戦術

(2) 執政官コルネリウスは策略によりfraude 欺かれた。ドゥイリウスは戦闘をproelio 始めて、カルタゴ人たちの一人の将軍をducem 打ち負かし、彼は三十一艘の軍船を捕らえ、十四艘を沈め、七〇〇〇名の敵を捕らえ、三〇〇〇名を殺した。ローマ人たちにとってこれ以上に満足できる勝利は何もなかった。というのも、陸で無敵の彼らが、まさにそのうえiam etiam 海上でも優勢となることができたからである。 (3) ガイウス・アクイリウス・フロルスとルキウス・スキピオの執政官時に(前二五九年)、スキピオはコルシカとサルディニアを荒らし、そこから何千もの捕虜を引っ立て、凱旋式を行った。

Ⅱ.21:(1) ルキウス・マンリウス・ウルソとマルクス・アティリウス・レグルスの執政官時に(前二五六年)、戦争がアフリカに移された。カルタゴ人たちの将軍ハミルカルに対し海で戦闘が行われ、かつ彼は打ち負かされた。というのもnam 六十四席の軍船を失って、後方にretro 彼は退いたからである。ローマ人たちは二十二を喪失した。 (2) しかしsed彼らがアフリカに渡っていて、最初のアフリカの都市クリュペアを降伏へと受け入れた。執政官たちはカルタゴまでずっとusque 進軍し、かつ多くの砦を荒廃させ、勝利者マンリウスはローマへと戻り戻ったrediit、そして捕虜たちの二万七〇〇〇名を連れ帰り、アティリウス・レグルスはアフリカ内に留まった。 (3) 彼はアフェル人たちに対し戦列を整えた。三名のカルタゴ人たちの将軍たちducesに対し干戈を交えdimicans,勝利者となった。彼は敵たちの一万八〇〇〇名を倒し、五〇〇〇名を一八頭の象と共に捕らえ、七十四都市を誓約をもってin fidem 受け入れた。 (4) そのときtum、打ち負かされたカルタゴ人たちは和平をローマ人たちから求めた。それをレグルスはきわめて苛酷な条件でなければ与えることを望まなかったので、アフェル人たちは支援をauxilium ラケダエモニ人たちから求めた。そして、ラケダエモニ人たちから送られていた将軍duce クサンティップス(クサンティッポス)によりローマ人たちの将軍dux レグルスは徹底的にultima 打ち負かされた(前二五五年)。 (5) というのもnam 全ローマ軍omni Romano exercitu のうちわずか二〇〇〇名が逃げ、五〇〇名が最高軍事司令官imperatore レグルスもろとも捕らえられ,三万名が殺され、レグルス自身鎖の中に繫がれたからである。

Ⅱ.22:(1)マルクス・アエミリウス・パウルスとセルウィウス・フルウィウス・ノビリオルの執政官時に(前二五五年)、両ローマの執政官たちはアフリカに三〇〇隻の軍船の艦隊と共に進発した。 (2)まず彼らはアフリ人たちを軍船の闘いでnavalis certamen打ち破ったsuperant。執政官アエミリウスは敵たちの船一〇四隻を撃沈し、三〇隻を戦闘員もろとも拿捕し、敵たちの一万五〇〇〇名をあるいは殺し、あるいは捕らえるかし、彼自身の兵をmilitem 膨大な利得で豊かにしてやった。そして、アフリカはこのときにtunc 屈従させられていたsubactaであろう、もしより長く軍隊がexercitus 待てないほどの飢餓がなかったならば。 (3) 執政官たちは、勝利を得た艦隊と共に戻っていて、シキリア付近で難破した。そして非常に激しい嵐だったので、四六四隻の軍船のうちわずかtantum 八〇隻しか救えなかった。いかなる時にもそれほどに猛烈な海の時化は耳にされたことはなかった。 (4) ローマ人たちは、にもかかわらずtamen ただちにstatim 二〇〇隻の軍船を再建造し、誰においても精神はこれらの出来事により打ちのめされなかった。

Ⅱ.23:(1) 執政官のグナエウス・セルウィリスゥ・カエピオとガイウス・センプロニウス・ブラエススが二六〇隻の軍船と共にアフリカへと進発した(前二五三年)。若干のaliquot 諸都市を彼らは占領した。彼らは莫大な戦利品を持ち帰る最中に、難破した。 (2) そしてかくしてitaque、たび重なる損害はローマ人たちにとって好ましいものではなかったので、元老院は以下を決議した。諸々の海戦からは手を引かざるを得ないこと、そして僅か六〇隻の軍船がイタリア防衛のためにとっておかれること、を。

Ⅱ.24:(1)ルキウス・カエキリウス・メテッルスとガイウス・フリウス・プラキドゥスの執政官時に(前二五一年)、メテッルスはシキリアで、アフリ人たちの一将軍をducem一三〇頭の象と大部隊とともにやって来たが打ち破りsuperavit、敵の二万人を倒し、二十六頭の象を捕らえ、残りのうろついていた(象)を集めたが、それは彼が支援の中にin auxilium 持っていたヌミダエ人たちの手を借りてのことだった、そしてローマへとそれらを長大な行列に従えて連れ戻った。というのも、一三〇頭という象の数が、道中を埋め尽くしたからである。 (2)これら諸々の惨事の後、カルタゴ人たちは彼らが捕らえていた将軍ducemレグルスに対し以下を求めた。ローマへと進発し、そして和平をローマ人たちから得て、そしてac捕虜たちの交換を行うように、と。

Ⅱ.25:(1) 彼がローマへとやって来たとき、元老院内に通された彼は、ローマ人ではないかのように振る舞い、かつ言った、自分はアフリ人たちの権力内に落ちたあの日から、ローマ人であることを止めたのだ、と。 (2)そしてかくしてitaque et 妻を抱擁から遠ざけ、そして元老院に、和平がポエニ人たちと結ばれてはならない、と説得した。たしかにenim 彼らは多くの災難で意気消沈しており、もはや希望を持っていないからだ、自分はそれのほどの者ではない、何千もの捕虜たちが、たった一人の老人の自分と僅かな者たちのために戻されるほど。そしてかくしてitaque 彼は(望んだとおりの結果を)得た。というのも和平を求めるアフリ人たちを誰も聞き入れなかったからである。 (3) 彼自身は、カルタゴへと戻ったrediit、かつ彼にローマに留まるようにと申し出たローマ人たちに対し、自分がその首都に滞在することを断った、そこの中においては、アフリ人たちに服した後では、名誉ある市民の尊厳を保持できないからである、と。彼はこうしてigitur アフリカへと戻り、あらゆる拷問により滅ぼされたextinctus est(前二五〇年)。

Ⅱ.26:(1) プブリウス・クラウディウス・プルケルとルキウス・ユニウスの執政官時に(前二四九年)、クラウディウスは鳥占いに反してcontra auspicia闘い、そしてカルタゴ人たちにより打ち負かされた。というのもnam、二二〇隻の軍船のうち三〇隻と共に彼(Claudius)は逃亡し、九〇隻は海兵もろとも拿捕され、残りは沈められたからであるdemersae。 (2) もう一人の執政官もまたquoque 難破により艦隊を喪失したが、にもかかわらずtamen 軍隊をexercitum 無傷で保持した、なぜならquia 近くに浜辺があったからである。

Ⅱ.27:(1) ガイウス・ルタティウス・カトゥルスとアウルス・ポストゥミウス・アルビヌスの執政官時、プニキ(ポエニ)戦争の二十三年目(前二四二年)に、カトゥルスにより戦争がアフリ人たちに対して始められた。彼は三〇〇隻の軍船と共にシキリアへと進発し、アフリ人たちは彼に対し四〇〇隻を用意した。(2)決してnumquam 海においてこれほどの諸部隊によるcopiis 戦いが行われたことはなかった。ルタティウス・カトゥルスは病んだまま一つの軍船に乗船した、たしかにenim 彼は以前の戦いで負傷していたのである。シキリアの都市リリュバエウム(現マルサラ)に対し、ローマ人たちの素晴らしい武徳で戦われた。 (3)というのもnam、六十三隻のカルタゴ人たちの軍船が拿捕され、一二五隻が沈められ demersae、敵たちの三万二〇〇〇名が捕らえられ、一万三〇〇〇名が倒され、数え切れないほどの金、銀、戦利品が、ローマ人たちの権限の中に置かれた。ローマ艦隊のうち、十二隻の軍船が沈められたdemersae。それが戦われたのは、三月十日のことだった(前二四一年)。 (4) ただちにstatim 和平をカルタゴ人たちは求め、かつ-que 彼らに和平が許諾された。ローマ人たちの捕虜たちーーカルタゴ人たちの下に置かれていたーーが返還されたredditi sunt。そのうえetiam、カルタゴ人たちは捕虜ーーアフリ人たちの中(の捕虜)でローマ人たちがもっていたーーを買い戻すことを許可するよう求めた。 (5) 元老院は以下の事を命じたiussit、代価なしでsine pretio 誰でも、国家の管理下にある者たちは与えられる、ところでautem 私人たちによって保持されている者たちは、主人たちに代価がpretio 補填されればカルタゴへと返還され、そしてかつatque その代価はpretiumカルタゴ人たちよりむしろ(ローマの)国庫から支払われること、と。

Ⅱ.28:クイントゥス・ルタティウスとアウルス・マンリウスが執政官たちに選出され(前二四一年)、(彼らは)ひとつの戦争をファリスキ人たちに仕掛けた[・・・に兵を挙げた]。彼らの都市はcivitas かつてquondam イタリアで裕福だった。その(戦争)を両執政官はやって来てから六日以内に片付け、敵たちの一万五〇〇〇人を倒し、他の者たちには和平が赦し与えられた、にもかかわらずtamen 土地の半分が差し出されたsublato。

第三巻

Ⅲ.1:(1) こうしてigniter 二十三年にわたり続いた(前二六四〜二四一年)プニキ(ポエニ)戦争が終結するとfinito ・・・tractum est、ローマ人たちはまさにiam 傑出した栄光によって知られるようになったが、アエギュプトゥス王プトロマエオスに使者を送って、援軍をauxilia 約束した、なぜならquia シュリア王アンティオクスが彼に戦争を仕掛けていたからであるintulerat。彼はローマ人たちに感謝をしたが、ローマ人たちからの援軍はauxilia 受け入れなかった。 (2) まさにiam たしかにenim 戦いは終わっていたからだった。同じ頃、強勢を誇るシキリア王ヒエロがローマを競技を見物すべく訪れ、そして二〇万モディウスの小麦の贈り物を民衆にpopulo与えた。

Ⅲ.2:ルキウス・コルネリウス・レントゥルスとフルイウス・フラックスの執政官時に(前二三七年)、この時ヒエロがローマに来ていたのだが、そのうえetiam イタリア内でリグレス人たちに対しても戦争が行われ、彼らから凱旋式が挙行された。カルタゴ人たちは、にもかかわらずtamen 戦争を再開しようと試み、サルディニア人たちに反乱を起こすように唆した、彼らが和平の条件によってローマ人たちに服属しなければならなかったからだ。にもかかわらずtamen ローマへとカルタゴ人たちの使節団が訪れ、そして和平を得た。

Ⅲ.3:ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥスとガイウス・アティリウス・ブルクスの執政官時に(前二三五年)、サルディニア人たちからの凱旋式が挙行され、そして和平が全地で達成され、ローマ人たちはまったく戦争をしなかった。それは彼らにとってローマ創建後に、ヌマ・ポンピリウス王の治世にたった一度semel tantum あっただけである。

Ⅲ.4:ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスとグナエウス・フルウィウス・ケントゥマルスが執政官として、戦争をイリュリア人たちに対しておこなった(前二二九年)、そして多くの都市をciuitatibus 攻略し、そのうえetiam 諸王から降伏までも受け入れた。そしてかつac そのときtum 初めてイリュリア人たちからの凱旋式が挙行された。

Ⅲ.5:ルキウス・アエミリウスが執政官時に(前二二五年)、ガリア人たちのおびただしい軍勢がcopiaeアルペスを越えてやって来た。しかし、ローマ人たちのために全イタリアが一致協力し、かつ伝えられているところではtraditum、かの戦争に居合わせた歴史家ファビウスによると、八〇万の人々がこの戦争のために召集された。しかしsed 事態はかの執政官のためにこれほど上首尾に運ばれた、(すなわち)四万人の敵兵が殺害され、そして凱旋式がアエミリウスのために決議された。

Ⅲ.6:(1) それからdeinde 数年後にaliquot annis post、ガリア人たちに対してイタリア内で戦いが行われ、かつ-que 戦争はマルクス・クラウディウス・マルケッルスとグナエウス・コルネリウス・スキピオの執政官時に(前二二二年)終結した。そのときtum マルケッルスはわずかな騎兵の手勢で干戈を交えdimicavit、そしてガリア人たちの王、ウィリドマルスという名前の者を彼自身の手で殺した。 (2) その後postea 彼は同僚(スキピオ)とともにガリア人たちのおびただしい軍勢をcopias 殲滅し、メディオラヌム(現ミラノ)を攻略し、莫大な戦利品をローマへともたらした。そしてかつac 凱旋式を挙げるとき、マルケッルスはガリアの戦利品を棒で彼自身の両肩に担いで運んだ。

Ⅲ.7:(1) マルクス・ミヌキウス・ルフスとプブリウス・コルネリウス(・スキピオ)の執政官時に(前二二一年)、ヒストリ人たちに対して戦争が仕掛けられた。なぜならquia 穀物を運んでいたローマ人たちの船(pl.)に対して彼らが海賊行為を働いていたからである。かつ、彼らすべてが完全に征服された。 (2) 同年、第2次プニキ(ポエニ)戦争が、ローマ人たちに対してカルタゴ人たちの将軍ハンニバルによって仕掛けられた。彼はヒスパニアのローマ同盟都市viuitatem amicam サグントゥムを攻囲し始めたが、二〇歳という時期を過ごしていて、そのため十五万もの部隊が召集されたのである。 (3) その彼に対し、ローマ人たちは使節団を介して戦争を自粛するよう警告した。彼は使節団を引見するのを望まなかった。ローマ人たちはそのうえetiam カルタゴにも(使節団を)送ったが、これはローマの民衆のpopuli Romani同盟者たちにsocios 対して戦争をしないようにと、ハンニバルに命じられるためであった。冷淡な諸回答がカルタゴ人たちから返ってきた。サグントゥム人たちはその間にinterea 飢餓のために打ち負かされ、かつハンニバルによって占領され、極刑に処される(前二一九年)。

Ⅲ.8:(1) そのときtum プブリウス・コルネリウス・スキピオは軍隊exercitu と共にヒスパニアへと、ティベリウス・センプロニウスはシキリアへと進発した。戦争がカルタゴ人たちに対して通告された。 (2) ハンニバルは、兄弟ハスドルバルをヒスパニアにの故地、ピュレネーを越えた。アルペスはそのときまでadhuc その当時 tum その部分に道がなかったので、(彼が)自ら切り開いた。伝えられるところではtraditur、彼はイタリアへ歩兵八万、騎兵一万、そして三七頭の象を率いてきた。その間にinterea 多くのリグレス人たちやガキア人たちがハンニバルと同盟を結んでいた。センプロニウス・グラックスは、イタリアにハンニバルが到着したことを知ると、シキリアから軍隊exercitum をアリミヌム(現リミニ)へと移動させた。

Ⅲ.9:(1) プブリウス・コルネリウス・スキピオがハンニバルに初めてprimus 対峙した。戦闘が始まると、彼の兵士たちは追い払われfugatis suis、自身も負傷して陣営へ戻ったrediit。センプロニウス・グラックス自身もトレビア河畔で干戈を交えるconfligit(前二一七年)。彼もまたquoque打ち負かされる。ハンニバルに多くの者がイタリア内で降伏した。 (2) そこからinde トゥスキアへと行くと、ハンニバルは執政官フラミニウスに対峙した。フラミニウス自身を彼は片づけた。ローマ人たちの二万五〇〇〇人が倒され、残りは散り散りになった。ハンニバルに対してその後postea ローマ人たちによって派遣されたのが、クイントゥス・ファビウス・マクシムスだった。彼は彼を、戦いを避け、逸る気持ちを抑えて、機会を見いだすとすぐにmox 打ち負かした。

Ⅲ.10:(1) 首都創建から五四〇年(前二一六年)に、ルキウス・アエミリウス・パウルスと プブリウス・テレンティウス・ウァッロがハンニバルに対して送られる、かつファビウスを継ぐ。そこでqui ファビウスは両執政官に、抜け目ないが性急な将軍ハンニバルを打ち負かすには、戦闘を避ける以外にお前たちに勝利はない、と戒めた。 (2) だがverum 執政官ウァッロの性急さにより、もう一人の執政官、すなわちアエミリウス・パウルスが反対したにもかかわらず、アプリアのカンナエと呼ばれている村でvicum 戦いが行われ、両執政官はハンニバルによって打ち負かされる。  (3) この闘いで、アフリ人たちの内の三〇〇〇が命を落とし、ハンニバルの軍隊exercitu の大部分が負傷を受ける。にもかかわらずtamen ポエニ戦争での戦闘においてproelio ローマ人たちがこれ以上に苛酷だったgravius ことはなかった。たしかにenim この(戦いで)、執政官アエミリウス・パウルスが命を落とし、そして執政官級と法務官級で二〇名、元老院議員三〇名が捕虜とされたり、またはaut 殺され、貴族の男たち三〇〇、兵士四万、騎兵三五〇〇にのぼったからである。かくのごとき逆境に遭っても、にもかかわらずtamen ローマ人たちの中で誰ひとりとして和平を口にしようとする者はいなかった。奴隷たちが、以前にはante 決してなかったことだが、解放されそして兵士とされた。

Ⅲ.11:(1) この闘いの後、ローマ人たちに従っていた多くのイタリア諸都市がハンニバルへと鞍替えした。ハンニバルはローマ人たちに捕虜たちを買い戻すよう提案したが、かつ元老院から返答されたのは、武装していながら捕虜とされてしまうような者たちは必要ない、と。彼はすべての者をその後postea さまざまな責め苦を与えて殺害死、そしえ指輪の金三モドゥスをカルタゴに送ったが、それはローマ人たちの騎士身分、元老院議員、そして兵士たちの手から奪ったものだった。 (2) この間にinterea ヒパニアでは、ハンニバルの兄弟ハスドルバルがその(スペイン)全土をアフリ人たちに従わせるために、大軍magino exercitu とともに残留していたが、ローマの将軍たちである二人のスキピオたちによって打ち負かされる。彼はその戦いで三万五〇〇〇の兵を失う。すなわち、彼らのうち一万が捕らえられ、二万五〇〇〇が殺される。彼にカルタゴ人たちから、戦力補充のため一万二〇〇〇の歩兵と四〇〇〇の騎兵、二〇頭の象が送られる(前二一八〜二一五年)。

Ⅲ.12:(1) イタリアへハンニバルが来て四年目(前二一四年)、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスが、カンパニアの都市ciuitatemノラでハンニバルに対して善戦した。ハンニバルはアプリア、カラブリア、ブリッティイのローマ人たち(側)の多くの諸都市をciuitates 占領した。 (2) この時、そのうえetiam マケドニアの王フィリップス(フィリッポス)も彼に使節団を送った。彼がローマ人たちに対する援軍をauxilia 以下の条件下で約すためだった、すなわちローマ人たちを殲滅したら、彼(フィリップス)自身もまたquoque  ギリシア人たちに対してハンニバルから援軍をauxilia 受ける、と。 (3) こうしてigitur フィリップスの使節団は捕まってしまい、そしてことが露見すると、ローマ人たちはマケドニアにマルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスを、サルディニアに前執政官proconsulem ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥスを行かせることを決した。というのもnam そのうえetiam そこ(サルディニア)もハンニバルによって惑わされ、ローマ人たちを見限っていたからである。

Ⅲ.13:(1) かくてita、一度に四箇所で戦いが行われていた。イタリアではハンニバルに対して、ヒスパニア諸州では彼の兄弟ハスドルバルに対して、マケドニアではフィリップスに対して、サルディニアではサルディ人たちそして別のカルタゴ人ハスドルバルに対して。 (2) 彼(ハスドルバル)は、サルディニアに派遣されていた前執政官のティトゥス・マンリウスによって生きたまま捕らえられたが、彼とともにいた一万二〇〇〇人が殺され、一五〇〇人が捕虜とされ、そしてローマ人たちによってサルディニアは屈従させられたsubacta。勝利者マンリウスは捕虜たちとハスドルバルをローマに連れ帰った。 (3) この間にinterea そのうえetiam フィリップスはラエウィヌスによってマケドニアで打ち負かされ、そしてヒスパニアではスキピオたち(兄弟)によってハスドルバルとマゴ、(すなわち)ハンニバルの三番目の兄弟が(打ち負かされる)。

Ⅲ.14:(1) ハンニバルがイタリアへやって来てから一〇年目、プブリウス・スルピキウス・とグナエウス・フィルウィウスの執政官時に(前二一一年)、ハンニバルは首都からずっとusque 第四里程標のところまで、彼の騎兵隊は一つの市門のところまでad portam ずっとusque 迫った。すぐにmox 執政官たちは軍隊をexercitu 率いて来て、(その)脅威のためハンニバルはカンパニアへと退いた。 (2) ヒスパニアでは、(ハンニバルの)兄弟ハスドルバルによって、両スキピオ、彼らは長年にわたって勝利者たちであったが、殺害される。軍隊はexercitus にもかかわらずtamen 無傷のまま残った。たしかにenim 武徳というよりもむしろ不運のゆえに、彼ら(両名)は欺かれたからである。 (3) この頃、そのうえetiam 執政官マルケッルスによってシキリアの大部分が占領された(前二一四〜一年)、(それは)そこをアフリ人たちが手中に収めようとしていたので、そして非常に名高いシュラクサエの都市urbs が(占領され)、莫大な戦利品がローマに持ち去られた。 (4) ラエウゥヌスはマケドニアでフィリップスとそして多くのギリシアの諸市民、アシア王アッタルス(アッタロス)と友誼を結ぶと、シキリアへと進発し、ハンノ某、アフリ人たちの将軍を都市ciuitatem アグリゲントゥムで、その町oppido ともども捕らえた(前二一〇年)。(ラエウィヌスは)彼をローマへと捕虜になった(アグリゲントゥムの)貴族たちとともに送った。彼は四〇の諸都市のciuitates 降伏を受け入れ、二六(の諸都市)を攻略した。 (5) かくしてita 全シキリアは取り戻され、マケドニアは押さえ込まれ、彼(ラエウィヌス)は並はずれた栄光と共にローマへと帰還した。ハンニバルはイタリアで執政官グナエウス・フルウィウスを急襲し、八〇〇〇の兵士たちともども彼を殺害した。

Ⅲ.15:(1) その間にinterea ヒスパニア諸州では、二人のスキピオが殺されてローマの将軍が誰もいなくなったので、プブリウス・コルネリウス・スキピオ、(すなわち)同じ場所でibidem 戦争を遂行していたプブリウス・スキピオの息子が 送られる(前二一〇年)。(息子の)彼は二四歳だったが、あらゆるローマ人たちのうちで、そして彼の時代においてもより後代においても、ほぼfere 第一の者である。 (2) 彼はヒスパニアのカルタゴ(カルタゴ・ノヴァのこと)を占領する、その地にあらゆる物、すなわち金、銀そして戦闘用具をアフリ人たちは持っていたし、非常に高貴な人質たちobsides をもまたquoque 持っていた、(アフリ人たちは)彼らをヒスパニア人たちから受け取っていたのだ。 (3) ハンニバルの兄弟マゴをそのうえetiam彼は同じ場所でibidem 捕らえて、彼をローマへ他の者たちと共に送る。ローマではこの上ない歓喜がその通知の後にあった。スキピオはヒスパニア人たちの人質たちを親元へと返還したreddidit。それゆえにquare ほぼfere すべてのヒスパニア諸州が心を一つにして彼へと鞍替えしたのである。これらの後に、ハンニバルの兄弟ハスドルバルを、彼(スキピオ)は打ち破って、しりぞけ、そして多くの戦利品を獲得する。

Ⅲ.16:(1) その間にinterea イタリアでは、執政官クイントゥス・ファビウス・マクシムスが、タレントゥムを取りもどした(前二〇九年)、(がイタリアにはまだ)ハンニバルの夥しい軍勢copiaeがいた。そこでibi 彼はハンニバルの将軍カルタロをも殺し、捕虜二万五〇〇〇人を売却し、戦利品を兵士たちに分配して、(捕虜の)人々を売った代金を国庫へと納めた。そのときtum ハンニバルに以前鞍替えしていたローマの多くの都市が、またもやrursus ファビウス・マクシムスに身を委ねた。 (2) 翌年insequenti anno(前二〇八年)、スキピオはヒスパニアで自らも、そして彼の兄弟ルキウス・スキピオによっても、傑出したegrerias 業績をあげた。(すなわち)七〇の諸都市を取り戻したのである。にもかかわらずtamen イタリアでの戦いは不首尾だった。というのもnam、執政官クラウディウス・マルケッルスがハンニバルによって殺されたからである。

Ⅲ.17:スキピオがヒスパニア諸州へと進発してから三年目に(前二〇六年)、彼はまたもやrursus 人口に膾炙したことどもを行う。(すなわち)あるヒスパニア(部族の)王を大きな戦争で打ち負かし、友誼へと受け入れ、そして敗者から人質たちを要求しなかったすべての人々の最初となった。

Ⅲ.18:(1) ハンニバルはヒスパニア諸州をスキピオに対してこれ以上保持することはできないと絶望し、自分の兄弟ハスドルバルをイタリアへと全部隊とともに召喚した。 (2) 彼は、ハンニバルが到来したその同じ経路でやって来て、執政官たちアッピウス・クラウディウス・ネロとマルクス・リウィウス・サリナトルによってピケヌムの都市セナで仕掛けられた奸計に陥ってしまった(前二〇七年)。彼は敏腕strenue にもかかわらずtamen 闘って殺された。彼の夥しい軍勢は捕虜とされたりあるいはaut 殺害されたりして、かなりの重さの金や銀がローマへと運ばれた。 (3) それからpost hac ハンニバルはまさにjam 戦争の行く末に疑念を抱き始めた。ローマ人たちの間では大いなる自信がingens aminus 加わったaccessit。そしてかくしてitaque 彼ら(ローマ人たち)もet ipsi ヒスパニアから プブリウス・コルネリウス・スキピオを召喚した(前二〇六年)。彼はローマへと並はずれtingenti 栄光と共にやって来た。

Ⅲ.19:クィントゥス・カエキリウスとルキウス・ウァレリウスが執政官時に(前二〇六年)、ブリッティイでハンニバルによって保持されていた全都市が、ローマ人たちに引き渡されたtradiderunt。

Ⅲ.20:(1) ハンニバルがイタリアへとやって来てから十四年目に(前二〇五年)、スキピオは、多くのことを上首尾にヒスパニア内で成し遂げていたので、執政官とされ、そしてアフリカへと送られた。この人物には神的な何かが内在していると考えられており、そのうえetiam 彼は神霊らと会話すると思われていたほどだった adeo ut 。 (2) 彼はアフリカで、アフリ人たちの将軍ハンノと戦い、彼の軍隊をexercitum 滅ぼす(前二〇四年)。二度目の戦闘で彼は陣営を四五〇〇人の兵士もろとも占領し、そして一万一〇〇〇人を殺し(前二〇三年)、ヌミディア王シュファックスを、彼がアフリ人たちと同盟を結んでいたが、捕らえ、そして彼の陣営を襲う。シュファックスは、非常に高貴なヌミディア人たちと無数の戦利品とともに、ローマへとスキピオにより送られる。  (3) このことを聞くと、ほぼfere すべてのイタリアがハンニバルを見捨てる。彼(ハンニバル)自身は、カルタゴ人たちにより、スキピオが荒らしていたアフリカへと帰還するように命じられる。

Ⅲ.21:(1) かくしてita 十七年目にしてハンニバルからイタリアは解放された(前二〇三年)。カルタゴ人たちの使節団が和平をスキピオに請うた。 (2) 彼(スキピオ)により彼ら(使節団)はローマ元老院に送られた。四十五日間にわたり、休戦が承諾されたが、それは彼らがローマへと行ってそして帰ってくることができる程度の期間で、そして三万ポンドの銀が彼ら(使節団)によって受け入れられた。元老院は、スキピオの判断で和平をカルタゴ人たちとなすよう、命じたiussit。 (3) スキピオは以下の諸条件で(和平を)承諾した:(カルタゴ人たちは)三十隻より多くの(軍)船を保有しないこと、そのためut (カルタゴ人たちは)五〇万ポンドの銀を支払い、(ローマ軍の)捕虜たちと脱走兵たちを返還すること、である。

Ⅲ.22:(1) とかくするうちにinterim ハンニバルがアフリカへとやって来たため、和平はかき乱され、アフリ人たちから多くの敵意が生じた。 (2) 使節団はにもかかわらずtamen 首都から戻ってきて、ローマ人たちによって捕らえられ、そしてスキピオが命じて放免された。ハンニバルもまたquoque たびたび諸戦闘で打ち負かされ、スキピオからそのうえetiam彼自身和平を請う。会談に至ると、以前と同じ諸条件で(和平が)承諾された、(ただし)以前の銀五〇万ポンドに、一〇万リブラ(≒ポンド)が加えられることになった、新たな背信のゆえに。(これらの)諸条件はカルタゴ人たちには気に入らず、そしてハンニバルに戦うよう彼らは命じた。スキピオとマシニッサ、もう一人のヌミディア人たちの王で、彼はスキピオと友誼を結んでいたが、彼らによってカルタゴへの戦争が勃発した。ハンニバルは、三名の斥候たちをスキピオの陣営へと送ったが、捕らえられた彼らを、スキピオは(以下のようにするように)命じたiussit、陣営中連れ回し、そして彼らに全軍をtotum exetcitum みせ、すぐにmox そのうえetiam 食事を与えて、そして釈放するように、と。(それは)彼らがハンニバルにローマ人たちの所で見たことを伝えるようにするためだった。

Ⅲ.23:(1) その間にinterea 戦闘が両将軍によって準備されていたが、(その準備は)ほとんどuix 何らulla 記録が(残されてい)ないほどのものだった。というのも最も熟練した人物たちが自身の軍勢を戦争に率いていたからである。スキピオは勝者として帰還し、ハンニバルは危うく paene 捕虜になりかけた。彼は初めは多くの騎兵たちとともに、次いで二十騎とともに、最終的にpostremo 四騎とともに脱出した。 (2) ハンニバルの陣営内で銀二万ポンド、金八〇(ポンド)の他cetera さまざまの装備品が見つかった。この激闘certamen の後、和平がカルタゴ人たちとなされた。スキピオはローマへと戻りrediit、並はずれた栄光で凱旋式を挙行し、そしてかつatque アフリカヌスとこのことゆえに呼ばれ始めた。 (3) 第二次ポエニ戦争は勃発から十九年目を経て終幕を迎えた。

第四巻

Ⅳ.1:ポエニ戦争が片付いて transacto、続けて行われたのはマケドニア(戦争)で、フィリップス王に対して、首都創建以来五五一年目のことだった。

Ⅳ.2:ティトゥス・クインティウス・フラミニウスは、フィリップスに対して上首尾に事を運んだ rem prospere gessit(前一九七年)。和平が彼(フィリップス)に対して以下の諸(講和)条件でhis legibus 与えられた、(すなわち)ローマ人たちが彼に対して防衛したギリシア諸都市に戦争を仕掛けないことinferret、(ローマの)捕虜たちと脱走兵たちを返還すること、五〇隻の軍船だけsolas naues を持ち、残りはローマ人たちに引き渡すこと、一〇年間にわたり銀四〇〇〇ポンドを提供し、そして人質として彼の息子デメトリウス(デメトリオス)を差し出すこと。 (2) ティトゥス・クインティウスはそのうえetiam ラケダエモニイ人たちにも戦争を仕掛けたintulit(前一九五年)。彼は彼らの将軍ナビスを打ち負かし、そして彼が望んだ諸条件で誓約をもってin fidem受け入れた。彼は並はずれた栄光により、戦車の前に最高の貴顕な人質たち、フィリップスの息子デメトリウスとナビスの(息子)アルメネスを引き立てたのである。

Ⅳ.3:(1) マケドニア戦争が片付いてtransacto、続いて行われたのがシュリア(戦争)で、アンティオクス(アンティオコス)王に対するものだった。プブリウス・コルネリウス・スキピオとマニウス・アキリウス・グラブリオの執政官時(前一九一年)のことである。 (2) このアンティオクスにハンニバルは結びついていた。(ハンニバルは)自身の祖国カルタゴをローマ人たちに引き渡されtradereturないかと心配して、捨てていたのである。マニウス・アキリウス・グラブリオはアカイアで善戦した。アンティオクス王の陣営は夜戦で占領され、彼自身は追い払われたfugatus。フィリップスは、アンティオクスに対峙しローマ人たちに支援auxilio を提供したのでquia、息子デメトリウスは返還されたredditus est。

Ⅳ.4:(1) ルキウス・コルネリウス・スキピオとガイウス・ラエリウスの執政官時に(前一九〇年)、スキピオ・アフリカヌスは、自身の兄弟である執政官ルキウス・コルネリウス・スキピオの代理官legatus として、アンティオクスに対して進発した。ハンニバルは、アンティオクスとともにいたが、艦隊戦でnauali proelio 打ち負かされた。 (2) その後postea、アンティオクス自身もアシアの都市、マグネシア・アド・シピュルスで、執政官コルネリウス・スキピオによって並はずれた戦闘の末ingenti proelio、撃破された。ローマ人たちにこの戦いで支援したauxilio fuit アッタルス(アットロス)王の兄弟エウメネスは、フリュギアにエウメニアを創設した。五万の歩兵、三〇〇〇の騎兵がその激闘でeo certamine(アンティオコス)王側で殺された。 (3) そのときtum 、王は和平を求めた。(和平が)以前示されたのと同じ諸条件で元老院から与えられた、(王が)打ち負かされたにもかかわらず、である。すなわち、(王は)エウロパとアシアから引き下がり、そしてかつatque タウルス(タウロス山脈)内にとどまること、一万タレントゥムと二〇人の人質を差し出すこと、ハンニバル、戦争の扇動者を引き渡すこと、である。エウメネス王には元老院によって、アンティオクスが戦争で喪失したアシアの全都市が送られたdonatae、そしてet ロドゥス(ロドス)人たちには、支援をauxilium ローマ人たちにアンティオクス王に対抗して提供したので、多くの都市が譲渡されたconcessae sunt。(執政官の)スキピオはローマに戻りrediit、並はずれた栄光でingenti gloria 凱旋式を挙行したtriumphauit。彼自身も兄弟に倣ってアシアゲネスという名前を受け取った、なぜならquia(彼が)アシアを打ち負かしたからである、ちょうどsicuti 彼自身の兄弟がアフリカ(を征した)のでアフリカヌスと呼ばれていたように。

Ⅳ.5:(1) スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスとクイントゥス・マルクウス・フィリップスの執政官時に(前一八六年)、マルクス・フルウィウスがアエトリア(アイトリア)人たちからの凱旋式を挙行した。 (2) ハンニバルは、アンティオクスが打ち負かされたので、ローマ人たちに引き渡されtradereturないようにビテュニア王プルシアス(のもと)へと逃亡していたがfugerat、そのうえetiam 彼(プルシアス)からティトクス・クイントゥス・フラミニヌスの(もとへ降るようにと)繰り返し求められrepetitus、そしてet ローマ人たちに引き渡されそうになったtradendus時、毒をあおった、そしてet ニコメディア人たちの領域内のリビュッサ近郊に葬られた(前一八三年)。

Ⅳ.6:(1) マケドニア王フィリップスは死んだが、(彼はそれまでに)ローマ人たちに対して戦争を起こしもし、その後postea ローマ人たちのためにアンティオクスに対抗して支援をauxilium 提供しもしたが、彼の息子ペルセウスがマケドニアで反乱を起こし、おびただしい軍勢が戦争のために準備された(前一七年)。 (2) というのもnam 、彼は助力者たちとしてトラキア王コテュスそしてイリュリクム王で名をゲンティウスを持ってたからである。ところでautem ローマ人たちの側に支援していたのがin auxilio erant、アシア王エウメネスやカッパドキア(王)アリアラトゥス、シュリア(王)アンティオクス、アエギュプトゥス(王)プトレマイウス、ヌミディア(王)マシニッサがいた。ビテュニア(王)プルシアスはところでautem ペルセウスの姉妹を妻としていたとはいえ、両者に中立を示した。 (3) ローマ人たちの将軍、執政官プブリウス・リキニウスが、彼(ペルセウス)に対して派遣された、そして王によって苛酷な戦闘でgravi proelio 打ち負かされたvictus(前一七一年)。ローマ人たちは、(戦闘で)打ち破られたがsuperati、にもかかわらずtamen、和平を求める王に対し、(それを)保障することをpraestare 望まなかったneque。(ペルセウス)自身と彼の部下たちsuosがローマの元老院と民衆にpopulo 投降するするという諸条件でなければ。 (4) すぐにmox 彼に対して送られたのは執政官ルキウス・アエミリウス・パウルスで、そしてイリュリクムには法務官ガイウス・アニキウスがゲンティウスに対して(送られた)(前一六八年)。しかしsed ゲンティウスはやすやすと一度の戦闘で打ち負かされ、すぐにmox 降伏した。彼の母や妻(s.)、二人の息子、一人の兄弟もまたquoque 同時にsimul ローマ人たちの手の内に落ちたin potestatem Romanorum uenerunt。かくしてita 三〇日以内で戦争が終結したので、戦争の開始が告げられるよりも前にゲンティウスへの勝利が知らされた。 

Ⅳ.7:(1) ペルセウスとは、ところでautem、執政官アエミリウス・パウルスが九月三日に干戈を交えdimicavit、そして彼を打ち負かし、その歩兵二万を殺した(前一六八年)。騎兵隊は王とともに、無傷のまま逃亡した。ローマ人たちの兵士一〇〇人が失われた。王が保持していたマケドニアの全都市がローマ人たちに降伏した。王自身は、友人たちから見捨てられ、パウルスの手の内に落ちたuenit in Pauli potestatem。 (2) しかし栄誉を彼に執政官アエミリウス・パウルスは持たせた、(あたかも王が)打ち負かされたわけではないように。というのもnam (王が執政官に向けて)足下に跪こうとしたにもかかわらず、それを許さなかった、そして自身のそばでイスに座らせたのである。 (3) マケドニア人たちとイリュリア人たちには、ローマ人たちによって以下のような諸法がleges 与えられたdatae、すなわち、彼らは自由であり、彼らが王たちに払っていた貢税の半分を(ローマに)支払う、というものである。それは、ローマ市民populum Romanumが貪欲ゆえというよりも公平さのために干戈を交えるのだdimicareと示すためだった。そしてかくしてitaque 数え切れないほど多くの市民たちのpo;ulorum 集会でパウルスはこのことを宣言し、そして彼の下へ来ていた諸部族のgentium 使節団を非常に盛大に宴会で楽しませ、「戦争で打ち勝つことも、宴会の支度も同一人物の優雅さであらねばならぬ」と言う。

Ⅳ.8:(1) すぐにmox 彼は、反乱を起こしていたエピルスの七〇都市を占領し、戦利品を兵士たちに分配した。彼はローマへと並はずれた豪華さで(飾った)ペルセウスの軍船に乗って戻ったrediit。その軍船は櫂ごとに(漕ぎ手が)十六列sedecim ordines・・・remorum あったと言われるほど、見たこともない大きさだったと伝えられているtraditur。彼は、ところでautem 非常に盛大に黄金の戦車に乗って、両脇に二人の息子を立たせ凱旋式を挙行した。戦車の前に連行されたのは、王の二人の息子たちとペルセウス自身だった、彼は四十五歳だった。 (2) 彼の後、アニキウスはそのうえetiam イリュリア人たちからの凱旋式を挙行した。ゲンティウスも一人の兄弟や息子たちともども戦車の前を引っ立てられたductus est。この見世物のために、多くの部族の王たちがローマへとやってきた。とりわけinter alios アシア王たちのアッタルスやエウメネス、ビテュニア(王)プルシアスもやって来た。多大なる栄誉でもって(王たちは)遇され、そして元老院の許可のもと、彼らは持参した奉納物をカピトリウム(の神殿)に納めた。プルシアスはそのうえetiam 自身の息子ニコメデスを元老院に委ねもしたのである。

Ⅳ.9:翌年(前一五三年)、ルキウス・メンミウスはルシタニアで善戦した。その後、執政官マルケッルスがその同じ場所でibidem 思い通りの諸成果をあげた(前一五二年)。

Ⅳ.10:(1) それからdeinde カルタゴに対する三度目の戦争が企てられ、首都創建以来六〇二年目、ルキウス・マンリウス・ケンソリヌスとマニウス・マニリウスの執政官時に、第二ポエニ戦争以来五十一年目のことであった(前一四九年)。 (2) 彼らが進発して、カルタゴを包囲したoppugnauerunt。彼らに対してカルタゴ人たちの将軍 dux ハスドルバルが干戈を交えたdimicabat。別の将軍ファメアがカルタゴ人たちの騎兵隊を率いていた。 (3) このときにtunc、スキピオ・アフリカヌスの孫のスキピオ(・アエミリアヌス)が、軍団将校tribunusとしてかの地で軍務に服していた。彼に対する多大な畏敬、そして尊敬は、あらゆる者たちに存在していた。というのもnam 、彼は白兵戦についてもad dimicandum 非常に長けており、きわめて思慮深いとされてもいたからである。そしてかくしてitaque 彼のお陰で、多くのことが執政官たちによって上首尾に行われた、(というのは)ハスドルバルにせよファメアにせよ、ローマ人たちのその部分、スキピオが干戈を交えようとしていたdimicaret まさに(その部分)に対して関わることを避けることより以上のことをしなかったからだ。

Ⅳ.11:その同じ頃per id idem tempus、ヌミディア人たちの王マシニッサが、ほぼ fere 六十年にわたってローマ市民のpopuli Romani友人であったが、九十七年の生涯の年齢で死んで、四十四人の息子たちが残されたが、彼はスキピオを彼の息子たちの間で王国を分割する者と命じていたiussit。

Ⅳ.12:(1) こうしてigitur スキピオの令名冠たるものとなっていたので、彼はそのときadhuc若かったが執政官とされ、そしてカルタゴに対して送られた(前一四七年)。彼はそこを占領し、そしてかつac 打ち壊した。戦利品がそこでibi 発見された、それらはさまざまな都市を荒らしてカルタゴが集めてきていたものだったが、そして諸都市urbium (を象徴するような)諸装飾品ornamenta を、シキリア、イタリア、アフリカの諸都市にcivitatibus (諸都市が)自分のものと認識していたものについては、彼は返還したreddidit。かくてita カルタゴが抹殺されたのは、その創建の七〇〇年目だった。 (2) スキピオは彼の祖父が受けた名を得てmeruit、まさにscilicet その武徳のゆえに、そのうえetiam 自身もipse 小アフリカヌスと呼ばれた。

Ⅳ.13:とかくするうちにinterim マケドニアで偽フィリップスなる者が兵力をarma 動かしたmovit、そしてローマの法務官プブリウス・ユウェンティウスが彼に対して送られたが、(偽フィリップスは)完膚なきまでに打ち負かしたvixt(前一四九年)。彼の後、クイントゥス・カエキリウス・メテッルスが将軍dux としてローマ人たちによって偽フィリップスに対して送られ、そして彼(偽フィリップスの兵)二万五〇〇〇を殺し、マケドニアを再占領し、偽フィリップス自身をipsum そのうえetiam 彼の手中にin potestatem suam 収めた(前一四八年)。

Ⅳ.14:(1) コリントゥス(コリントス)人たちに対してもまたquoque、戦争が通告された(前一四六年)。(それは)ギリシアで最も名高い都市civitati だったのだが、ローマ人たちの使節団への不当行為ゆえのことだった。そこを執政官ムンミウスが占領しそして破壊した。 (2) こうしてigitur ローマで同時に三つの非常に華々しい凱旋式があった。アフリカヌスのアフリカからの(凱旋式)では、彼の戦車の前を引っ立てられたのはductus est ハスドルバルだった。メテッレスのマケドニアからのでは、彼の戦車を先行したのが偽フィリップスことアンドリスクス(アンドリスコス)だった、ムンミウスのコリントゥスからのでは、彼の前を諸々の青銅象や諸々の板絵、そして都市のurbis 非常に輝かしい他の諸装飾品ornamenta が(見物人の前を)運び示された。

Ⅳ.15:再度iterum、マケドニアでは偽ペルセス、彼はペルセウスの息子と自称していたが、(彼が)奴隷たちを集めて反乱を起こし、そして一万六〇〇〇の兵力を擁したが、財務官トレメッリウスによって打ち破られたsuperatus est(前一四三年)。

Ⅳ.16:(1) 同じ頃(前一四三年)、メテッルスがケルティベリアでヒスパニア人たちのところで赫々たる業績を挙げた。彼を継いだのがクイントゥス・ポンペイウスだった(前一四一年)。ほどなくしてnec multo post クイントゥス・カエピオもまたquoque同じ(ヒスパニアでの)戦争へと送られた。 (2) その(戦争は)ウィリアトゥスなる者がローマ人たちに対してルシタニアで起こしたものだった。その(クイントゥス・カエピオが到来したという)恐怖のため、ウィリアトゥスは自らの配下たちによって殺害されたinterfectus est、彼は一四年にわたってヒスパニア諸州をローマ人たちに対しかき乱していたmovisset。彼は、最初はprimo 羊飼い、すぐにmox 追い剥ぎどもの首領dux、最終的にpostremo 多くの民衆をtantos populos 戦争へと煽り立てたが、それほどにローマ人たちに対抗してヒスパニアの解放者とみなされていた。そして彼の殺害者たちがinterfectores 執政官カエピオからの褒賞をpraemium求めたとき、返答されたのは、最高軍司令官たちが自身の兵士たちによって殺害されるinterfici などということが、ローマ人たちに喜ばれたことなどけっしてない、と。

Ⅳ.17:(1) それからdeinde 執政官クイントゥス・ポンペイウスがヌマンティア人たち、(彼らの)都市はヒスパニアでもっとも富んでいたが、その彼らに破られ、屈辱的な和平を結んだ(前一四〇年)。彼の後には執政官ガイウス・ホスティリウス・マンキヌスが再度iterum ヌマンティア人たちと不面目な和平を結んだが、それを市民と元老院は破棄されるべし、そしてかつatque マンキヌス自身を敵たちに引き渡されるべしtradiと命じたiussit。というのは、(ヌマンティア人たちが)約定の張本人である彼を持つことで、約定の解消という不正行為に報復することができるためだった(前一三七年)。 (2) こうしてigitur これほどの恥辱ignominiamの後に、ヌマンティア人たちによって二度もローマ軍Romani exercitus(pl) が軛の下を歩まされたわけで、 プブリウス・スキピオ・アフリカヌスが二度目の執政官とされ、そしてヌマンティアへと送られた(前一三四年)。彼はまずprimum 、潰乱しそして弱体化した兵を罰するよりも、むしろ鍛錬し、なんら過酷な処置も伴わず矯正し、そのときtum 彼は、多数のヒスパニアの都市を、あるものは占領し、あるものは降伏を受け入れて、最終的にpostremo ヌマンティア自体を長期にわたって囲って飢えにより衰弱させ、土台から倒壊し尽くしevertit、残りの属州(s)を誓約をもってin fidem 受け入れた(前一三三年)。

Ⅳ.18: 同じ頃(前一三三年)、アシア王アッタルス、(すなわち)エウメネスの兄弟がなくなり、かつ彼は相続人としてローマ市民を populum Romanum 残したreliquit。かくしてローマ帝国に遺言に従ってアシアは加わったaccessit。かくしてita、ローマ帝国にアシアは遺言に従って加わったaccessit。

Ⅳ.19:すぐにmox、そのうえetiam デキムス・ユニウス・ブルトゥスはカラエキア人たちとルシタニア人たちから、大いなる栄光をgloria もって凱旋式を挙行し(前一三六年あるいは前一三三年)、そして プブリウス・スキピオ・アフリカヌスはヌマンティア人たちからの二度目の凱旋式を行った、彼がアフリカから初めて(凱旋式を)行って以来一四年目のことであった(前一三二年)。

Ⅳ.20:(1) とかくするうちにinterim アシアで戦争がアリストニクス(アリストニコス)によって引き起こされた、(彼は)エウメネスの息子で、妾腹の生まれだった。このエウメネスはアッタルスの兄弟であった。彼(アリストニクス)に対して送られた プブリウス・リキニウス・クラッススが、王たちの無数の援軍をauxilia 指揮した(前一三一年)。というのは、ビテュニア王ニコメデスはローマ人たちを支持し、ポントゥスのミトリダテスーーこの男との戦争はその後postea 非常に苛酷なものにgravissimum なるのだがーーも、カッパドキアのアリアラテスも、パフラゴニアのピュラエメネス(ピュライメネス)も、だった。にもかかわらずtamen クラッススは敗れ、そして戦闘中に殺害された。彼自身の首級はアリストニクスに差し出され、胴体はスミュルナで葬られた。  (2) その後、ローマ人執政官ペルペルナが、クラッススの後継者となることになるのだが(前一三〇年)、戦争の成り行きを聞くとアシアへと急ぎ、そして都市civitatemストラトニケア(ストラトニケイア)近郊の戦線でアリストニクスを打ち負かし、彼が逃げ込んでいたそこ(の都市)を、飢餓で降伏へと強いた。アリストニクスは元老院の命令により、ローマで牢獄内で絞殺された。というのもenim 彼に関して凱旋式を挙行することができなかったからである、なぜならquia ペルペルナはペルガムム(ペルガモン)でローマへ戻ろうとして死を迎えてしまったからである。

Ⅳ.21:ルキウス・カエキリウス・メテッルスとティトゥス・クインティウス・フラミニヌスの執政官在職時に(前一二三年)、カルタゴがアフリカで元老院の命令により再建された、それは今なお存続していてmanet、スキピオによって完全に倒壊し尽くされてからfuerat eversa 二十二年後のことだった。そこにローマ市民たちが搬送されたdeducti(前一二二年)。

Ⅳ.22:首都創建以来六二七年目(前一二四年)、執政官ガイウス・カッシウス・ロンギヌスとセクストゥス・ドミティウス・カルウィヌスが、アルペス(山脈)の向こう側のガリア人たちに対して、戦争を仕掛けたintulit、そしてこのときにtunc アルウェルニ人たちの非常に名高い都市、そしてかつ彼らの首領duciビトゥイトゥスに対しても(仕掛け)(前一二三年)、かつ数え切れないほど大勢をロダヌス(ローヌ)河付近でiuxta 殺害した。ガリア人たちの首輪(トルクイス)からなる膨大な戦利品がローマへと持ち去られたperlata est 。ビトゥイトゥス(王)はドミティウスに降伏し、そしてかつ彼によりローマへと搬送されdeducti(前一二一年)、かつ大いなる栄光で両執政官は凱旋式を挙行した(前一二〇年)。

Ⅳ.23:マルクス・ポルキウス・カトーとクイントゥス・マルキウス・レックスの執政官在職時、(すなわち)首都創建以来六三三年目に(前一一八年)、ガリア内のナルボに植民都市coloniaが建設されdeducta est、かつ翌年に(前一一七年)執政官ルキウス・カエキリウス・メテッルスとクイントゥス・ムキウス・スカエウォラによって、ダルマティアに関する凱旋式が挙行された。

Ⅳ.24:首都創建以来六三五年目(前一一四年)、執政官ガイウス・カトーはスコルディスキ人たち戦争を仕掛けintulit、かつ恥辱的にignominiose闘った。

Ⅳ.25:ガイウス・カエキリウス・メテッルスとグナエウス・カルボの執政官在職時(前一一三年)に、二人のメテッルス兄弟は、同じ日に、一方はサルディニアから、他方はトラキアからの凱旋式を行った(前一一一年)。かつローマに知らされたのは、キンブリ人たちがガリアからイタリアへ越えてきたことだった。

Ⅳ.26:(1) プブリウス・スキピオ・ナシカとルキウス・カルプルニウス・ベスティアの執政官在職時(前一一一年)に、ヌミディア王ユグルタに対して戦争が仕掛けられたinlatum est。というのも彼(ユグルタ)はアドヘルバルとヒエムプサルーー彼(ユグルタ)自身の兄弟ミキプサの息子たちで、王たちにしてローマ市民の友人たちーーを暗殺したからである。彼(ユグルタ)に対して送られたのが、執政官カルプルニウス・ベスティアだった。彼は王の金銭によって籠絡され、彼(ユグルタ)ときわめて破廉恥な和平を結んだが、それは元老院によって拒否された。 (2) その後postea、まさにその彼(ユグルタ)に対して、翌年(前一一〇年)、スプリウス・ボストゥミヌス・アルビヌスが進発した。彼もまたquoque兄弟(アウルス)を介してヌミディア人たちと恥辱的にignominiose闘った。

Ⅳ.27:(1) 三度目に送られたのが、執政官クイントゥス・カエキリウス・メテッルスだった(前一〇九年)。彼は軍隊exercitumを並はずれた厳格さと中庸によって矯正させcorrectum、ローマ的規律へと連れ戻した。彼(メテッルス)はユグルタをあまたの戦闘で打ち負かしvicit、彼(ユグルタ)の象たちを殺したり捕らえたりして、彼の多くの都市を占領した。そしてまさにjam 彼(メテッルス)が戦争に決着をつけようとしていた時、彼を継いだのがガイウス・マリウスだった(前一〇七年)。 (2) 彼はユグルタとマウレタニア王ボックスーー彼はユグルタへの支援をauxiliumし始めていたーーを、双方ともpariter打ち破ったsuperavit。ヌミディアの多少の町をaliquanta oppida彼はまたもや占領し、かつ戦争に結末をつけたが、それは、並はずれた男にして彼の財務官であるコルネリウス・スッラを介してユグルタが捕らえられたからで、それはボックスがユグルタを引き渡したからであった、前にante彼のために闘ったにもかかわらわず。 (3) マルクス・ユニウス・シラヌスーー彼はクイントゥス・メテッルスの同僚だったがーーによって、キンブリ人たちはガリアで打ち負かされ(前一〇九年)、そしてミヌキウス・ルフスによってマケドニアでスコルディスキ人たちとトリパリ人たちが(前一〇九年)、そしてセルウィリウス・カエピオによってヒスパニアでルシタニア人たちが屈従させられたsubacti(前一〇七年)。 (4) そして行われたのが、ユグルタからの二度の凱旋式で、まずprimusメテッルスによって(前一〇六年)、第二がsecundusマリウスによってだった(前一〇四年)。マリウスの戦車の前ににもかかわらずtamen、ユグルタは二人の息子と共に鎖で繫がれて引っ立てられductus est、そしてすぐにmox 執政官の命令により牢獄内で絞殺された。

第五巻

Ⅴ.1:(1) 戦争がヌミディアでユグルタに対して行われている間に、ローマの執政官たちマルクス・マンリウスとクィントゥス・カエビオは、キンブリ人たちとテウトネス人たちとティグリニ人たちとアムブロネス人たちーー彼らはゲルマニアとガリアの諸部族だったーーによってロダヌス河畔で打ち負かされ、そして大虐殺で、そのうえetiam 彼らの陣営と軍隊exercitus の大半を失った(前一〇五年)。 (2) 恐怖はローマで大変なもので、それはほとんどハンニバルのポエニ戦争時に匹敵した、再度iterum ガリア人たちがローマへと戻ってきた(時)ほどではないにしろ。 (3) ゆえに、マリウスは、ユグルタからの勝利の後、二度目にsecundo 執政官とされ(前一〇四年)、かつ戦争が彼にキンブリ人たちとテウトネス人たちに対して決議された。彼には三度目tertioと四度目quartoもまたquoque 執政官職が委ねられた(前一〇三年と前一〇二年)、なぜならquia キンブリ戦争が長引いていたからである。 (4) しかし、四度目の執政官在職に、彼は同僚としてクイントクス・ルタティウス・カトゥルスを持った。そしてかくしてitaque 彼はキンブリ人と干戈を交えconflixit、そして二度の戦闘で二〇万の敵を倒し、八万と彼らの首領ducem テウトボドゥスを捕らえ、この功績のため、(ローマ)不在のまま五度目にquinto執政官とされた(前一〇一年)。

Ⅴ.2:(1) その間にinterea キンブリ人たちとテウトネス人たちは、彼らの兵力copiaはそのときまでadhuc 数え切れないほどだったが、イタリアへと(アルペス山脈を)越えてやって来た。再度iterum ガイウス・マリウスとクイントゥス・カトゥルスによって彼らに対し干戈が交えられたdimicatum est、しかしカトゥルスのほうがより幸運であった。 (2) というのもnam、同時に両者が行った戦闘によって、一四万人があるいは闘いの中で、あるいは敗走中に倒され、六万人が捕らえられた。ローマ兵たちは両軍で三〇〇人を失った。三十三の軍旗がキンブリ人たちから差し出されsublata sunt、これらのうちからマリウス軍は二つを持ち帰り、カトゥルス軍は三十一だった。これが戦争の終わりであった。凱旋式が両者に決議された。

Ⅴ.3:(1) セクストゥス・ユリウス・カエサルとルキウス・マルキウス・フィリップスの執政官在職時、首都創建以来六五九年目(前九一年)に、ほとんどprope 他の全ての諸戦争は終結していたが、イタリアで極めて苛酷なgravissimum 戦争へとピケンテス人たち、マルシ人たち、かつペリグニ人たちが動いたmoverunt、彼らは長年にわたってまさにローマ市民にpopulo Romano 従っていたが、そのときtum 対等の自由を我が物にしようとし始めた。この戦争はまったくもってadmodum 致命的であった。 (2) 執政官プブリウス・ルティリウスがこの(戦争)で殺され(前九〇年),貴顕な若者juuenis カエピオ、もう一人の執政官ポルキウス・カトーも(殺された)(前八九年)。ところでautem ローマ人たちに対峙するピケヌム人たちとマルシ人たちにとっての将軍たちduces は、ティトゥス・ウェッティウス、ヒエリウス・アシニウス,ティトゥス・ヘレンニウス、アウルス・クルエンティウスだった。 (3) ローマ人たちにとって、彼らに対する戦いは上首尾に行われた、(それは)六度目に執政官であったガイウス・マリウスによって、そしてグナエウス・ポンペイウスによって、殊にmaximeにもかかわらず(やはり)tamen ルキウス・コルネリウス・スッラによって、であった。彼(スッラ)は、他のことどもでも赫々たる(成果)を挙げたが、敵の将軍ducem クルエンティウスを大兵力magnis copiisともども撃破し、自軍からは一人しか失わなかった。 (4) 四年にわたって苛酷なgravi 損害を伴いながら、にもかかわらずtamenこの戦争は続いた。五年目にやっとdemum 執政官ルキウス・コルネリウス・スッラにより終結を迎えた(前八八年)が、それ以前にantea 同じ戦争で彼は多くのことを敏腕にstrenue 成し遂げたが、それは法務官としてだった。

Ⅴ.4:(1) 首都創建の六六二年目(前八八年)、初めてローマで内戦が引き起こされ、同年そのうえミトリダテス戦争も(引き起こされた)。 (2) 内戦に原因を与えたのは、ガイウス・マリウスが六回執政官だったからである。というのもnam 執政官スッラが、アシアとアカイアを占領していたミトリダテスに対し、戦争を行うべく送られ、そして彼は軍隊をexercitumカンパニア内にしばらくの間paulisper 留めていたが、それは我々がすでに述べていたイタリア内で行われていた同盟市戦争の残党どもを排除するためだったのだが、マリウスは自分自身がミトリダテス戦争に送られることを熱望した。そのことでスッラは怒りに駆られて軍隊exercituとともに首都へとやってきた。そこでillic マリウスとスルピキウスに対して彼は干戈を交えたdimicavit。彼は首都ローマに武装したまま入った最初(の人物)で、スルピキウスを殺害し,マリウスを敗走させた。そしてかつatque かくしてita 翌年(前八七年)の執政官たちにグナエウス・オクタウィウスとルキウス・コルネリウス・キンナを定めてordinatis、彼はアシアへと進発した。

Ⅴ.5:(1) たしかにenim ミトリダテスはポントゥス王で、そして小アルメニアと全ポントゥス海(黒海)をボスフォルス(ボスフォロス)を含む周辺を支配していたが、まずprimum ローマ市民の友人amicum populi Romani ニコメデスをビテュニアから追放することを欲し,かつ元老院に彼が彼に戦争を行うであろうと通告した、(それは)彼が受けた数々の不正行為ゆえである、と。元老院からミトリダテスへの返答は、もしそんなことをするならローマ人たちへの戦争に自身も晒されることになろう、というものであった。 (2) それゆえにquare 怒った彼はカッパドキアをただちにstatim 占拠し、そしてかの地から王でローマ市民のpopuli Romani 友人アリオバルザネスを敗走させた。すぐにmox そのうえetiam ビテュニアとパプラゴニアに襲いかかり、かの地(s.)からex ea 王たちでローマ市民の友人たちamicis populi Romani ピュラエメネスとニコネデスを撃退したpulsis。そこからinde エフェスス(エフェソス)へ彼は進んで赴いたcontendit,そして全アシアに向けて諸書簡を送った、(それに書かれていたのは)どこであれubicumque 発見されれば、ローマ市民はciues Romani 即日uno die 殺されるべきである、と。

Ⅴ.6:(1) その間にinterea そのうえetiam アカイアの都市ciuitas アテナエ(アテナイ)がアテナエ人アリスト(アリストン)からミトリダテスに引き渡されたtradita est 。たしかにenim すでにiam アカイアへミトリダテスが自身の将軍ducem アルケラウス(アルケラオス)を十二万の騎兵そしてかつac 歩兵とともに送っていたし、彼(アルケラウス)によってそのうえetiam 残るグラエキアも占領されていた。スッラはアルケラウスをアテナエから遠くないピラエウス(ペイライエウス)で攻囲し、アテナエ自体も占領した。 (2) その後posteaアルケラウスに対する戦闘が始まり、次のように彼を打ち負かしたuicit(前八六年)。(すなわち)十二万人のうち、かろうじてuixアルケラウス側で一万人が生き残りsuperessent、スッラの軍隊のうちexercitu 殺害されたのはたった十三人だった。この戦いのことが知られると、ミトリダテスは最精鋭七万をアシアからアルケラウスに送り、彼に対して再度iterum スッラは戦った。最初の戦闘で一万五〇〇〇人の敵とアルケラオスの息子ディオゲネスが殺害された。二度目(の戦闘)で、すべてのミトリダテスの諸部隊copiae が滅ぼされてextinctae sunt、アルケラウス自身は三日間丸裸で沼地に隠れた。このことを聞いて、ミトリダテスはスッラと和平を結ぶように命じたiussit。

Ⅴ.7:(1) とかくするうちにinterim このとき、スッラはそのうえetiam ダルダニ人たち、スコルディスキ人たち、ダルマティア人たち、そしてマエディ人たちをも、一部はpartim 打ち負かしvicit、他の者たちは誓約をもってin fidem 受け入れた。 (2) しかし、ミトリダテス王から(送られて)和平を求めていた使節団が来たときは、以下のようにスッラは返答した、もし王が占拠していた諸処を放棄して自分の王国へ帰らないのならば、何も与えられることはないであろう、と。その後postea にもかかわらずtamen 会談へと両者はやってきて、和平が彼らの間で定められた(前八五年)。スッラは内戦へと急いでいたので、背後からの危険を持たないようにするためだった。 (3) というのもnam スッラがアカイアとかつatque アシアでミトリダテスを打ち負かしているvincit 間に、逃亡していたマリウスと執政官の一人であるコルネリウス・キンナが戦争をイタリアで再開し、そして首都ローマへ入ると(前八七年)、元老院の非常に貴顕な人々と執政官級の人々を殺害し、多くの人々の公権を剥奪し、スッラ自身の邸宅を倒壊し尽くしeversa、息子たちと妻を逃亡に追い込んだ。 (4) 残る元老院のすべては、首都から逃亡し、グラエキアのスッラのもとへ行き、祖国を助けるように懇願する。彼(スッラ)は、イタリアへと渡った(前八三年)、内戦を執政官ノルバヌスとスキピオに対して行うためだった。最初の戦闘でノルバヌスに対し、カプアからそれほど遠くない所で彼は干戈を交えたdimicavit。そのときtum 彼(ノルバヌス)方の六〇〇〇を倒し、六〇〇〇を捕らえ、自軍は一二四を失った。そこからinde そのうえetiam スキピオの方に転進し、そして戦闘に先立ち、彼のすべての軍隊をexercitum 流血なくして受け入れた。

Ⅴ.8:(1) しかし、ローマで執政官たちが変更され、マリウスの息子マリウスとパピリウス・カルボが執政官職を引き受けた時に(前八二年)、スッラは小マリウスに対して干戈を交えdimicavit、彼(マリウス方)の一万五〇〇〇を殺し、自身からは四〇〇を失った。すぐにmox そのうえetiam 彼(スッラ)は首都へと入った。マリウスの息子マリウスを追跡して、プラエネステを攻囲し、死へと追い込んだ。再びrursus、非常に苛酷な会戦をpugnam gravissimam マリウス派の将軍たちduces ランポニウスとカリナスに対してコッリナ門付近でもった。敵七万がその戦闘でスッラに対峙したと言われている。一万二〇〇〇がスッラに降伏したが、残りの者たちは、戦列で、陣営で、逃亡中に、勝利者たちの飽くなき怒りによって(生命を)奪い尽くされたconsumpti sunt 。 (2) 執政官グナエウス・カルボ もまたquoque 、アリミヌムからシキリアへと逃げ去り、そこで、グナエウス・ポンペイウスによって殺害された。スッラは二十一歳の若者である彼(ポンペイウス)に、その精励ぶりを認めて諸軍隊exercitibus の指揮を任せており、スッラにより二番目としてみなされていた。

Ⅴ.9:(1) ゆえにergo カルボは殺され、シキリアをポンペイウスは取り戻した(前八二年)。そこから彼はアフリカへと渡り、マリウス派の将軍ducemドミティウスと、マウレタニア王ヒエルダを殺した。彼がドミティウスを支援auxilium していたからである。これらの後に、スッラはミトリダテスから並はずれた栄光ingenti gloria とともに凱旋式を挙行した(前八一年)。そのうえetiam グナエウス・ポンペイウスは、ローマ人たちの誰にもこのようなことは認められたことはなかったが、二十四歳になっていた彼が、アフリカからの凱旋式を挙行した。 (2) かくて非常に不幸な二つの戦争が終局を迎えた。同盟市戦争とも言われるイタリア(戦争)と、内(戦)ciuile で、両者(の戦争)は一〇年にわたって続いた。ところでautem(それらの戦争が)奪い尽くしたconsumpserunt のは、十五万人以上で、執政官級の人物二十四名、法務官級七名、按察官級六十名、元老院議員約二〇〇名であった。

第六巻

Ⅵ.1:(1) マルクス・アエミリウス・レピドゥスとクィントゥス・カトゥルスの執政官職時(前七八年)、スッラが国家を安定させた時に、新たな諸戦争が勃発した。一つはヒスパニア、もう一つはパンフュリアとキリキア、三つ目はマケドニア、四つ目はダルマティアだった。 (2) というのも、マリウス派だったセルトリウスが、抹殺されていた他の者たちの運命を恐れて、戦争へとヒスパニア諸州を扇動したからだった。彼に対し送られたのは将軍たちduces ユグルタ王を打ち負かしたvicit人物の息子クイントゥス・カエキリウス・メテッルスと、法務官ルキウス・ドミティウスだった。 セルトリウスの将軍duce ヒルトゥレイウスにより、ドミティウスは殺された。メテッルスは紆余曲折の経過によりuario successu セルトリウスに対し干戈を交えたdimicavit。その後postea 闘いにpugnae 単独は不利であると思われたので、グナエウス・ポンペイウスがヒスパニア諸州へと送られた。 (3) かくして、二人の将軍たちにducibus 対峙されて、セルトリウスは運命の浮き沈みとともにfortuna uaria(s.)、幾度もsaepe 闘ったpugnauit。八年目についにdemum 彼は自分の部下たちによって殺され(前七二年)、そしてこの戦争に終止符が打たれたのはfinis datus、青年グナエウス・ポンペイウスとクイントゥス・メテッルス・ピウスによってであった。そしてかつ、全ヒスパニアはほとんどprope ローマ市民populi Romani の支配下に置かれた(前七一年)。

Ⅵ.2:(1) マケドニアへ送られたのは、執政官職(前七九年)後post consulatum のアッピウス・クラウディウスだった(前七八年)。諸々の小競り合いをleuia proelia 彼は属州ロドペに居住していた様々な諸部族gentes とし、そしてかつその地で病死した(前七六年)。 (2) そこに送られたのは、後継者ガイウス・スクリボニウス・クリオで、執政官職(前七六年)後post consulatum のことだった。彼はダルダニ人たちを打ち負かしvicit、そしてダニウィウス川にまでずっとusque 達し、かつ凱旋式を得てmeruit、そして三年のうちに戦争にbello 終止符を打ったfinem dedit(前七四年)。

Ⅵ.3:キリキアとパンフュリアへと、送られたのは、元執政官ex consule(在職:前七九年)のプブリウス・セルウィリウスだった。彼は敏腕なstrenuus 人物だった。彼はキリキアを押さえ込みsubegit、リュキアで最も傑出していた諸都市を攻囲しそして占領したが、それらの中には、ファセリスやオリュンプス(オリュンポス)、キリキアでコリュクス(コリュコス)がある。彼はイサウリ人たちもまたquoque 襲撃し、支配下に置き、そしてかつ、三年のうちに戦争に終止符を打ったfinem dedit(前七四年)。彼は全ローマ人の中で初めて、タウルス(タウロス)[山中]に道をつくった。(ローマに)帰還したrevertens 彼は凱旋式を受け入れ、そしてイサウリクスの名を得たmeruit。

Ⅵ.4:イリュリクムへと送られたのは、執政官相当pro consuleのガイウス・コスコニウスだった。彼はダルマティアで広範な部分を押さえ込んだsubegit。彼はサロナエを占領し、そして戦争を処理して、ローマへ二年後には戻ったrediit。

Ⅵ.5:(1) 同じ諸時期にisdem temporibus (pl.)、執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥスが、カトゥルスの同僚だったが、内戦を引き起こすことを望んだが(前七八年)、にもかかわらずtamen 一夏のうちに彼の動きは鎮圧された(前七七年)。 (2) こうして、短期間にuno tempore(s.)、多くの凱旋式が同時に[次々と]simul 挙行された、すなわち、メテッルスのヒスパニアからの、ポンペイウスの二度目がヒスパニアからの、クリオのマケドニアからの、セルウィリウスのイサウリアからの、である。

Ⅵ.6:(1) 首都創建六七六年目に、ルキウス・リキニウス・ルクッルスとマルクス・アウレリウス・コッタの執政官在職時に(前七四年)、ビテュニア王ニコメデスが死去し、そして遺言でローマ市民をpopulum Romanum 相続人とした。 (2) ミトリダテスは和平を破り、ビテュニアとアシアをまたもやrursus 侵攻することを望んだ。彼に対して両執政官が送られ、彼らは運命の浮き沈みを体験したuariam habuere fortunam。コッタは、カルケドン付近において、彼(ミトリダテス)により野戦でacie 打ち負かされ、そのうえetiam 町の中にintra oppiodim 追い込まれ、そして包囲された。 (3) しかし、そこからinde ミトリダテスが自らキュジクス(キュジコス)へ移動したときに、キュジクスを占領した上で、全アシアを侵略しようとしたので、もう一人の執政官ルクッルスが彼に対峙した。そしてかつac、ミトリダテスがキュジクスの包囲に手間取っている間にdum、彼自身(ルクッルス)が彼を背後から包囲し、かつ飢餓で疲弊させ、そして多くの諸戦闘によって打ち負かし、最終的にpostremo ビュザンティウム(ビュザンティオン)へと追い払ったfugauit が、そこは今やnunc コンスタンティノポリスである。(一度のs.)艦隊戦でもまたnauali quoque proelio 彼の将軍たちをルクッルスは制圧した。かくしてita、一冬と一夏でuna hieme et aestate ルクッルスによって王のおよそfere 一〇万が滅ぼされたextincta sunt。

Ⅵ.7:(1) 首都ローマの六七八年目に(前七二年)、マケドニア属州をマルクス・リキニウス・ルクッルスが受け取った、彼は、ミトリダテスに対して戦争をおこなっていたルクッルスの従兄弟である。 (2) そして、イタリア内で新たな戦争がすぐにsubito 引き起こされた。というのもenim 七十四人の拳闘士たちが、指導者duce(s.)スパルタクス、クリクスス、そしてオエノマウスによって、カプアの(拳闘士)養成所を打ち壊して脱走した。そして彼らはイタリア中を動き回り、そこでin ea ハンニバルが(以前)起こしたのにほとんどpaene 劣ることのない戦争を起こしたmoverat。というのもnam、彼らは多くの将軍たちducibus、そしてローマ人たちの二人の執政官たちを同時にsimul 打ち負かしuictis、ほぼfere 六万の武装者たちの軍隊をexercitum 集めたからである。かつ、彼らはアプリア内で執政官格のpro consule マルクス・リキニウス・クラッススによって打ち負かされuictis、そしてイタリアでの多くの災禍の後に、三年目にこの戦争に終止符が定められたest finis inpositus(前七一年)。  

ティグラネスのアルメニア王国最大時、BC69年:基本的に「小アルメニア」はローマ帝国内の地域名で、「大アルメニア」はペルシアとの緩衝王国

Ⅵ.8:(1) 首都創建六八一年に、プブリウス・コルネリウス・レントゥルスとグナエウス・アウフィディウス・オレステスの執政官在職時に(前七一年)、わずかに二つの苛酷な戦争がgravia bella ローマ帝国内であった。ミトリダテスのと、マケドニアの、である。それら(の戦争)に二人のルクッルスたち、ルキウス・ルクッルスとマルクス・ルクッルスがあたっていた。  (2) ゆえに、ルキウス・ルクッルス は、キュウジクスでの戦いで、ミトリダテスを打ち負かし、そして彼の将軍たちを制圧した海戦navalemの後で、彼を追跡した、そしてパフラゴニアとビテュニアを取り戻し、そのうえetiam 彼の王国へと侵攻し、ポントゥスのもっとも著名な都市シノペとアミスス(アミソス)を占領した。  (3) 第二の戦闘のため、都市カビラ(カベイラ)近郊で、そこに ミトリダテスは並はずれた軍勢を王国全土から率いていたが、王の最精鋭三万はローマ人たちの五〇〇〇の兵によって撃滅されたので、ミトリダテスは敗走させられ、彼の陣営は略奪された。彼が保持していた小アルメニアもまた同じ人物(ルクッルス)に差し出された。  (4) にもかかわらずtamen ミトリダテスは敗走後、アルメニア王ティグラネスに保護された。彼(ティグラネス)はそのときtum 並はずれた栄光で支配していた人物で、ペルシア人たちをしばしば打ち負かし、メソポタミア、そしてシュリア、そしてフォエニケ(フォイニケ)の一部を占領していた。

Ⅵ.9:(1)  それゆえ、ルクッルスは敗走した敵を再攻撃して、そのうえetiam アルメニア人たちを支配していたティグラネスの王国へと進撃した。彼はアルメニア人の王国の最も著名な都市である、アルザネア(地方)のティグラノケルタを占領し(前六九年)、王自身を、(彼が)七五〇〇の重装騎兵たちclibnariis、そして弓兵たちsagittariorum と武装兵たちのarmatorum一〇万と共にやって来たので、彼(ルクッルス)が手持ちの一万八〇〇〇の兵でもって打ち負かしvicit 、アルメニア人たちの(軍隊の)大部分を抹殺した。そこから、彼(ルクッルス)はニシビスへと進発すると、この都市をもまたquoque 王の一人の兄弟とともに占領した(前六八年)。 (2) しかし、かの輩ども、即ちポントゥスにルクッルスが軍隊のexercitus の一部と共に残しておいた者たちなのだが、それは打ち負かされかつ今やiam ローマ人たちのものとなった諸地域を防衛するためであったが、自らを省みることなく、そして強欲に振るまったために、再びiterum ミトリダテスがポントゥス内に押し入る機会を与えることになり、そしてかつ、こうして戦争が再開された。ルクッルスによって獲得されたニシビスで、彼がペルシア人たちに対する遠征を準備していた時、後任が送られたのである。

Ⅵ.10:ところでautem、別のルクッルスはマケドニアを管理していたがadministrabat、ローマ人たちの中でベッシ(ベッソイ)人たちに戦争を仕掛けたintulit 最初の人であり、かつそして彼らをハエムス(ハイモス)山中での激しい戦いで打ち破ったsuperavit。ベッシ人たちが住んでいた町oppidum ウスクダマを、彼が襲撃したのと同日に 打ち負かしvicit 、カビュレを占領し、 ダヌビウス川までずっとusque達したpenetravit。そこからinde ポントゥス(海沿岸)にある多くの諸都市をcivitates 襲撃した。そこでアポロニアを完全に倒壊し尽くしevertit、カラティス、パルテノポリス、トミイイ(トミス)、ヒストルム、ブルジアオ(ブルジアオン)を占領し、かつ戦争が終結すると、ローマへと戻ったrediit (前七一年)。両者は(別々に)凱旋式を挙行したが、にもかかわらずtamen ミトリダテスと奮戦していたルクッルスがより大きな栄光をgloria伴った、というのも、これほどの諸王国の勝利者として 帰還したからである。  

Ⅵ.11:(1) マケドニア戦争は終わり、ミトリダテス(戦争)が存続していてmanente、ルクッルスが戻った後、王が援軍をauxiliis 集めて再開し、クレタ戦争が始まった。それに対して送られたクイントゥス・カエキリウス・メテッルスは、諸激戦によって三年のうちに属州全体を占領した(前六七ないし六六年)。かつそしてatque 彼はクレティクスと呼ばれ、(クレタ)島に関する凱旋式を挙行した(前六二年)。 (2) この頃リビュアもまたquoque ローマ帝国に、そこの王だったアッピオ(アピオン)の遺言により、加わったaccessit。その中にはよく知られていた諸と痔urbes、ベレニケ、プトレマイス、キュレネがあった。   

Ⅵ.12:(1) これらのことがなされている間に、海賊たちがあらゆる海域を脅かしていたので、全世界の勝利者たるローマ人たちにとって、唯一船旅が安全でなかったのである。そのゆえに、その戦争がグナエウス・ポンペイウスに(元老院によって)決議された(前六七年)。それを彼はわずか数ヶ月のうちに、おおいに幸運にも迅速さにも(恵まれて)終えた。 (2) すぐにmox 、彼にはミトリダテス王とティグラネス(王)に対する戦争もまたetiam 委ねられた(前六六年)。それを受領した彼は、ミトリダテスを小アルメニア内で野戦で 打ち負かしvicit、陣営を掠奪しdiripuit、彼の四万を殺したが,自分の軍隊からはexercituたった二〇人そして二人の百人隊長を失ったのみだった(前六五年)。ミトリダテスは一人の妻と二人の側近とともに逃亡した。 (3) ほどなくしてneque multo post、彼は自分の部下たちに怒りをぶちまけ、彼の息子ファルナケスによって、兵士たちの面前で死を強いられ、毒薬をあおった。かくのごとき最期をミトリダテスは迎えた(前六三年)。ところでautem 彼が亡くなったのはポスフォルス(王国)においてで、この人物は破格の勤勉さと賢慮をもっていた。彼は六〇年統治し、七十二年生きvixit、ローマ人たちに対して戦争を四〇年間行なった。

Ⅵ.13:ティグラネスにそれからinde ポンペイウスは戦争を仕掛けたintulit(前六六年)。その者(ティグラネス)は彼に降伏し、そしてポンペイウスの陣営にアルタクサタから十六里程標を赴き、かつ彼のディアデマ(冠帯)を、ポンペイウスの膝下に平伏した時に、彼自身の両手の中に置いた。それをポンペイウスは彼に返還し、かつ名誉をもって彼を遇したが、にもかかわらずtamen 王国の一部と多額の(賠償)金で罰した。彼(ポンペイウス)に没収されたのは、シュリア、フォエニケ(フォイニケイア)、ソファネネ(ソフェネ)であった。加えてpraeterea 銀六〇〇〇タレントゥムが、ローマ市民populo Romano に支払うように通告されたindicta、なぜならquia 彼が戦争を理由なくローマ人たちに引き起こしたためだった。

Ⅵ.14:(1) ポンペイウスはすぐにそのうえmox etiam アルバニア人たちに戦争を仕掛けintulit、そして彼らの王オロデスを三度 打ち負かしvicit、最終的にpostremo 諸書簡と諸々の献上品によって懇請されたので、そして彼に赦免と平和とを与えた。ヒベリアの王アルタケスもまたquoque 彼(ポンペイウス)は野戦でacies打ち負かしvicit、そして降伏を受け入れた。彼は小アルメニアをタラティア王デイノタルス(デイオタロス)に贈ったdonavit、なぜならquia 彼がミトリダテス戦争で同盟者socius だったからである(前六四年)。アッタルスとピュラエメネスにパフラゴニアを返還したreddidit。アリスタルクス(アリスタルコス)をコルキス人の王に据えた。すぐにmox、彼はイトゥラエア人たちとアラビア人たちを打ち負かしたvicit(前六三年)。  (2) そして、シュリアに到着すると、アンティオキア(アンティオケイア)近郊の都市セレウキア(セレウケイア)に自由を贈ったがdonavit、それは(セレウキアが)ティグラネス王を受け入れなかったからである(前六三年)。アンティオキア人たちには人質たちを返還したreddidit。かなりの土地をダフネ人たちには与えたが、それはそこの聖なる森がより広大になるようにするためだった。彼は、(その)土地の心地よさと水の豊富さに魅了されていたのである。そこからinde 彼はユダエアに移動すると、(その)部族の首都capto gentis ヒエロソリュマ(エルサレム)を三ヶ月で占領し、一万二〇〇〇のユダエア人たちを殺し、残りの者たちを誓約をもってin fidem 受け入れた。これらのことをなして、彼はアシアへと立ち帰り、そして(ミトリダテスとの)非常に古くからの戦争に終焉をもたらした。

Ⅵ.15:弁論家マルクス・トゥッリウス・キケロとガイウス・アントニウスの執政官在職時、首都創建以来六八九年目(前六三年)に、ルキウス・セルギウス・カティリナ、極めて貴顕な一族の人物、しかしながら生来並はずれて堕落した人物が、祖国を破滅させるために。幾人かのquibusdam無論quidem 傑出してはいるが、しかし無謀な人物たちとともに、共謀した。キケロによって彼は首都から追放されたexpulsus est 。彼の同盟者たちはsocii 牢獄に捕らえられて絞殺された。もう一人の執政官アントニウスによって、カティリナ自身は戦闘でproelio 打ち負かされ、そして殺害された(前六二年)。

Ⅵ.16:首都創建の六九〇年目、できムス・ユニウス・シラヌスとルクス・群れ名の執政官在職時に(前六二年)、メテッルスはクレタからの、ポンペイウスは海賊のとミトリダテスの凱旋式を挙行した。かつて(この)凱旋行進に類似したものはなかった。彼(ポンペイウス)の戦車の前を連行されたのは、ミトリダテスの息子たち、ティグラネスの息子、そしてユダヤ人たちの王アリストブルスであり、並はずれた財宝、量りきれないほどの重さの金や銀が(見物人の前を)運び示されたpraelata est。このとき、全世界を通じて深刻な戦争はなくなった。

Ⅵ.17:(1) 首都創建六九三年目に、後にpostea (皇帝になって)命令権を行使したガイウス・ユリウス・カエサルが、ルキウス・ビブルスとともに執政官とされた(前五九年)。彼に(元老院によって)決議されたのはガリアとイリリクムで、一〇個軍団付きだった。 (2) 彼は最初のヘルウェティイ人たちーーいまやnunc セクアニ人たちと呼ばれているーーを打ち負かしvicit (前五九年)、それからdeinde 非常に苛酷な諸戦争を通じてper bella gravissima 勝利することによって、ブリタンニアの大海(オケアヌス)までずっとusque進軍した(前五六年)。 (3) ところでautem 彼は、九年ですべてのガリアをほぼ支配した、そのガリ跡は、アルペス(山脈)、ロダヌス河、レヌス(河)、そして大海(オケアヌス)の間にあり、その周囲については三二〇万バッススに及ぶ。ブリタンニア人たちにすぐにmox 彼は戦争を仕掛けたintulit(前五五、五四年)、 彼らには彼以前にローマ人たちの名は無論quidem 知られていなかった。彼らをまた打ち負かしvicit、(カエサルは)人質たちを受け入れた上で貢納を課した。ガリアではところでautem 貢税の名のもとにtributi nomine 年間四〇(〇〇)万セステルティルスを命じ、かつゲルマン人たちをレヌス河を越えて襲撃し、非常に凄惨な諸戦闘で打ち負かした(前五五、五三年)。この合間にそれほど成功した彼は、三度不首尾な戦いをすた、一度はsemel 彼がいるときにアルウェルニ人たちのところにおいて(前五二年)、そして彼の不在時にゲルマニアにおいて二回bis あった。というのも彼の二人の総督代理たちlegati、ティトゥリウスとアルンクレイウスが奸計によって倒されたからである(前五四年)。

Ⅵ.18:(1) ほぼ同じころ、首都創建六九七年目にマルクス・リキニウス・クラッススがグナエウス・ポンペイウス・マグヌスの同僚として、二度目の執政官職在職時に(前五五年)、パルティア人たちに対して送られた。そして彼はカッラエ付近で一つの前兆と(幾度かの)鳥占いに反して干戈を交えたdimicasset ときに、オロデス王の将軍duce スレナ(スエナス)によって打ち負かされ、最終的にad postremum きわめて傑出しclarissimoそしてきわめて注目すべきpraestantissimo 青年であった息子とともに殺害されてしまった(前五四年)。 (2) 軍隊exercitusの残りは、財務官ガイウス・カッシウスによって救われた。彼は特異な精神によってsingulari animo、絶望的諸状況を多大な武徳によって立て直した。つまりペルシア人たちをエウフラテス河を越えて帰還する途中の彼が幾多の戦争で打ち負かしたのである(前五二〜五一年)。

Ⅵ.19:(1) ローマ市民populi Romani (2) 軍隊exercitibus   軍隊exercitu (3) 貴族nobilitas  将軍duce

Ⅵ.20:(1)  軍隊exercitus  首領たちdubious  打ち破ったsuperavit (2) 干戈を交えたdimicavit にもかかわらずtamen, なぜならquia  打ち破られたsuperrari (3) 干戈を交えたdimicaverunt  加えてpraeterea 援軍をauxiliis 貴族nobilitatem

Ⅵ.21:(1) そのときまでadhuc 軍勢cope  将軍たちdubious 屈従させえたsubacturae (2)  にもかかわらずtamen (3)  援軍をauxiliis

Ⅵ.22: (1) すぐにmox  もまたquoque  仕掛けられたinlatum est (2)  支援したin auxilium fuerat ローマ市民populi Romani  打ち負かしたvicit

Ⅵ.23:(1) 三度目にtertio 貴族nobilitas (2) ところでautem 将軍たちduces   (3) 多くの激戦の後にpost multas dimicationes

Ⅵ.24: 四度目にquarto  危うく paene   栄光gloriam  打ち負かしたvicit

Ⅵ.25: 戻ったrediit  市民populo それ以前にantea  危うく paene

第七巻

Ⅶ.1:(1) (2)    将軍たちduces   にもかかわらずtamen  軍隊exercitus

Ⅶ.2:(1) 軍隊exercitu   そのときtum  すぐにmox   軍隊exercitu  (2)  軍勢copias

Ⅶ.3:(1)引き起こしたmoverunt  軍隊exercitus (2)  にもかかわらずtamen  貴族をnobilitatem (3) (4) 干戈を交えたdimicaverat

Ⅶ.4:とかくするうちにinterim  最終的にpostremo

Ⅶ.5: 打ち負かしたvicit    将軍ducem

Ⅶ.6:(1) とかくするうちにinterim (2) 打ち負かしたvicit  にもかかわらずtamen

Ⅶ.7:もまたquoque   滅ぼされたextincta est

Ⅶ.8:(1) 戻ったrediit (2) (3) ずっとusque  (4) ところでautem   生きたvixit   危うく paene

Ⅶ.9:  このときにtunc   打ち負かしたvicit  ところでautem 軍勢copias   屈従させられsubactam もまたquoque  にもかかわらずtamen 返還するreddiderunt etiam

Ⅶ.10:(1) もまたquoque (2) (3)  ところでautem ローマ市民populi Romani ちょうどsicuti (4) ところでautem  まさにscilicet (5)  遺贈したreliquit すぐにmox  最終的にpostremo

Ⅶ.11:(1) 苛酷なgravi (2) 命じたiussit (3)

Ⅶ.12:(1) (2) (3) (4) 敏腕にstrenue 仕掛けたintulit

Ⅶ.13:(1) (2) (3)  ところでautem (4) ところでautem  赫々たる (5) 生きたfixit  仕掛けたintulit

Ⅶ.14:(1) (2) (3) (4)  危うく paene  倒壊し尽くされた eversa sunt (5)  にもかかわらずtamen

Ⅶ.15:(1)   引っ立てられたductus est  ずっとusque (2) (3) consumpta est

Ⅶ.16:(1) 貴族のnobilitatis すぐにmox  軍隊exercitu  (2) 極めて苛酷な諸戦争でgravissimis bellis  (3) にもかかわらずtamen

Ⅶ.17:(1) (2) 仕掛けたintuit (3)  にもかかわらずtamen 軍勢copuas  軍隊exercitibus  敗れたvictus esset  にもかかわらずtamen  引き起こされたmoveretur

Ⅶ.18:(1) 致命的なadmodum にもかかわらずtamen  (2) 苛酷なgravi  (3)  伝えられているtraduntur (4) 将軍たちducibus   (5) ところでautem  最終的にpostremo (6) ところでautem

Ⅶ.19:(1) 干戈を交えた conflixerit   諸部族gentes   (2)   にもかかわらずtamen  にもかかわらずtamen  もまたquoque (3)  加わったaccessit (4)

Ⅶ.20:(1)   にもかかわらずtamen   (2) 市民populo 最終的にpostremo 滅ぼされたextincta est (3)

Ⅶ.21:(1) (2) (3) 加えてpraeterea   (4)

Ⅶ.22: (1) (2)

Ⅶ.23:(1) すぐにmox   にもかかわらずtamen   すぐにmox  煽り立てたconcitavit (2)  命じたiussit (3) (4)  にもかかわらずtamen   将軍duce  軍隊exercitibus (5) もまたquoque (6)

第八巻

Ⅷ.1:(1) 戻ったrediit まったくもってadmodum 敏腕なstrenuus  貴族のnobilitatis (2)

Ⅷ.2:(1)   ところでautem   (2) みごとにnobiliter 押さえ込んだsubegit

Ⅷ.3:(1)   誓約をもってin fidem   打ち負かしたvicit (2) ずっとusque    加わった(迫った)accessit   諸部族gentibus

Ⅷ.4:栄光gloriam にもかかわらずtamen   打ち破ったsuperavit  にもかかわらずtamen 得たmeruit

Ⅷ.5:(1) 偉業egreium (2) 並はずれた栄光 ingentem gloriam 滅ぼされたextincta est ところでautem (3) ずっとusque  栄光gloria

Ⅷ.6:(1)  無論quidem (2) 栄光gloriae   遺贈したreliquit    軍隊exercitus   なぜならquia  引き渡されるtraderentur   軍勢copias

Ⅷ.7:(1) にもかかわらずtamen 干戈を交えたdimicavit  (2)   大いなる栄光gloriam にもかかわらずtamen  (3)   にもかかわらずtamen

Ⅷ.8:(1)  まったくもってadmodum  (2) 生きたvixit 栄光gloria  兵力 (3) 無論quidem 残したreliquit (4)

Ⅷ.9:(1) (2) かつそのとき初めてtumque prinum   ずっとusque

Ⅷ.10:(1) ところでautem (2) そのときtum   将軍たちduces   (3) にもかかわらずtamen  (4)  にもかかわらずtamen

Ⅷ.11:(1) (2) そのときまでadhuc  にもかかわらずtamen

Ⅷ.12:(1) ところでautem (2)  苛酷なgravius   軍隊exercitus   軍勢cope

Ⅷ.13:(1) (2) 通告するindicere 諸装飾品ornamenta   にもかかわらずtamen

Ⅷ.14:(1)   引き渡したtradatur (2)  返還する reddidisset

Ⅷ.15:兵力 干戈を交えたdimicavit

Ⅷ.16:そのときtum

Ⅷ.17:生きたfixit

Ⅷ.18:(1) (2)  すぐにmox  ずっとusque (3)  まったくもってadmodum (4)  打ち負かしたvicit    ずっとusque   打ち破ったsuperavit 同盟者socius

Ⅷ.19:(1) にもかかわらずtamen  栄光gloriam (2) まったくもってadmodum  (3)  残したreliquit   通告するindicatus

Ⅷ.20:(1) 偉業egregium    加えてpraeterea   (2) 

Ⅷ.21: 双方ともpariter

Ⅷ.22: ところでautem 生きたvixit

Ⅷ.23:  軍隊exercitu  まったくもってadmodum  打ち負かしたvicit   もまたquoque

第九巻 

Ⅸ.1:  そのときまでadhuc  加わったaccessit

Ⅸ.2:(1) (2) まったくもってadmodum  無論quidem   (3)    仕掛けたintulit

Ⅸ.3:  軍隊exercitu 連れ戻しreducto  軍隊exercitu   にもかかわらずtamen

Ⅸ.4:        得たmeruit

Ⅸ.5:すぐにmox 

Ⅸ.6: 滅ぼされたextincta est

Ⅸ.7: 軍隊exercitu  すぐにmox  もまたquoque   危うく paene  ずっとusque  打ち破られたsuperatus est  すぐにmox

Ⅸ.8:(1)  すぐにmox  敏腕にstrenue すぐにmox   (2)  達していたpenetraverunt そのときtum    ずっとusque 達していたpenetraverunt

Ⅸ.9:(1) 危うく paene  consumptas 危うく paene  掠奪するdiripiendam  引き渡すtradere (2) (3) きわめて敏腕な人物vir strenuissimus

Ⅸ.10:   ずっとusque   達したpenetravit

Ⅸ.11:(1) (2) 打ち負かしたvicit  にもかかわらずtamen   まさにscilicet

Ⅸ.12:

Ⅸ.13:(1)  にもかかわらずtamen  もまたquoque 極めて敏腕にstrenuissime  打ち負かしたvicit   打ち破ったsuperavit  軍隊exercitum (2) もまたquoque  苛酷なgravi 無論quidem   そのときまでadhuc 生きたvixit ところでautem 存続していて manent 残したreliquit

Ⅸ.14:      にもかかわらずtamen

Ⅸ.15:(1) (2)    にもかかわらずtamen  もまたquoque 得たmeruit

Ⅸ.16:  目覚ましくegregie  にもかかわらずtamen

Ⅸ.17:(1)  栄光gloria  加わったaccessit  まさにscilicet (2)  (3)  eacer鋭敏な、敏腕なstrenuus、人物vir 栄光gloria  ところでautem 打ち破ったsuperaret      にもかかわらずtamen

Ⅸ.18:(1) (2)  もまたquoque  傑出したegregiae 搬送されdeductis

Ⅸ.19:(1) もまたquoque  (2)    軍隊exercitus

Ⅸ.20:(1)  軍隊exercitus (2) 打ち負かしたvicit  軍隊exercitu (3)  煽り立てたconcitassent   ところでautem 将軍たちduces

Ⅸ.21:  敏腕なstrenuae 赫々たるegregiam   返還するreddita

Ⅸ.22: (1)   引き渡す/伝えられているtraitor (2)  にもかかわらずtamen  同盟者ksocius

Ⅸ.23: 軍隊exercitu  もまたquoque  打ち破ったsuperavit  より苛酷なgravibus   にもかかわらずtamen  存続していてmanent   

Ⅸ.24: 干戈を交えたdimicasset  まったくもってadmodum  伝えられてるtradatur

Ⅸ.25:(1) すぐにmox にもかかわらずtamen  掠奪したdiripuit    貴族をnobilitatem そのときtum (2)   屈従させsubactis   軍勢copias

Ⅸ.26: 加えてpraeterea  まったくもってadmodum にもかかわらずtamen   命じたiussit  装飾されたornamenta

Ⅸ.27:(1)   ところでautem  にもかかわらずtamen (2) にもかかわらずtamen  諸部族gentibus  にもかかわらずtamen

Ⅸ.28:        にもかかわらずtamen

第十巻 

Ⅹ.1:(1) (2)  にもかかわらずtamen  傑出したegregius きわめて注目すべきpraestantissimae まったくもってadmodum ところでautem  (3) 

X.2:(1)  傑出したegreius  もまたquoque (2)  加わったaccessit (3) (4) 軍隊exercitu

Ⅹ.3:(1)  にもかかわらずtamen   軍隊exercituum (2)  追放されたesset expulsus   にもかかわらずtamen

Ⅹ.4:(1) 敏腕なstrenuis  (2) そのときtum (3) にもかかわらずtamen  軍勢copias  最終的にpostremo 打ち負かしたvicit (4) もまたquoque

Ⅹ.5: にもかかわらずtamen    仕掛けたintulit

Ⅹ.6:(1) 最終的にpostremo (2) (3)  傑出したegrerium  すぐにmox

Ⅹ.7:(1)   栄光gloriae 打ち破ったsuperaret  諸部族gentes (2) ちょうどsicuti   傑出したegregius

Ⅹ.8:(1) (2) (3)   得たmeruit

Ⅹ.9:(1)  残したreliquit  (2)  将軍たちduces  (3) 敏腕なstrenuum  すぐにmox  苛酷なgravia  (4)  にもかかわらずtamen 鋭敏にstrenue  軍隊exercitui 苛酷なgravi

Ⅹ.10:(1)   苛酷なgravia   軍隊exercitibus (2) 敏腕にstrenue  無論quidem

Ⅹ.11:(1) (2)  もまたquoque   将軍たちducibus かつ、極めて苛酷なgravissimaeque

Ⅹ.12:(1) 危うく paene 激戦によってdimicatione consumptae sunt (2) すぐにmox にもかかわらずtamen   もまたquoque

Ⅹ.13: もまたquoque 滅ぼされたextinctus est

Ⅹ.14:(1) すぐにmox  引き渡されたtradita  軍勢copiae 滅ぼされたextinctae sunt (2) 諸々の偉業egregia

Ⅹ.15:(1)  軍隊exercitus (2) そして得た meruitque 傑出したegregius   すぐにmox にもかかわらずtamen  そのときtum 動かされたmoveretur

Ⅹ.16:(1)  仕掛けたintulit もまたquoque (2) 傑出したegregius (3)  栄光gloriae  栄光gloriae     にもかかわらずtamen

Ⅹ.17:(1) このときにtunc 軍隊exercitus  軍隊exercitu  もまたquoque   無論quidem  引き渡されたtradita    (2)  にもかかわらずtamen 引き渡されたtraderetur そのときtum  (3) 栄光gloriae

Ⅹ.18:(1)  苛酷な gravi (2)  引き渡された/伝えているtradunt  まったくもってadmodum (3)   ところでautem なぜならquia  とかくするうちにinterim

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忙中閑あり:今日の読書『しょぼい喫茶店の本』

 例の如く行き当たりばったりのテレビで、妙なドキュメンタリーを途中からみた。10/13(日)の午後「ザ・ノンフィクション」で「好きなことだけして生きていく 後編」。そこでの主役は京都でシェアハウスを10年あまりやっていたpha(ファ)氏が、40歳になったのを期に、猫と一緒の一人暮らしを始めた、という内容。「働きたくない、好きなことだけして生きていきたい」という彼の生き方に共感する若者たちが色々登場して、その中に喫茶店始めた25才の池田達也くんがいた。

 私が彼に注目したのは、なに、彼の出身大学が在職してた大学のしかも同じ文学部出身だったからで、それで興味を持った次第。彼の書いた本をさっそく古書で発注した。古書なのにそう安くなかったが(税抜きでのほとんど定価だった)、今年の4月発刊(百万年書房)なんだけど。それが今日家を出るときポストに届いていたので、このところ連日登学の四谷に往復の地下鉄の中で半分以上読み進めた。まあだいたいテレビで紹介されていた内容だったせいもある。

 現在、私は同時進行の作業を3つ4つ抱えていて、多忙の極みなのだが、家に帰ってとうとう完読してしまった。いかにも現代の若者らしく情報入手が、インターネットのツイッターなんかで、ツイッターで知り合った色んな人たちの援助を得て、それでとんとん拍子に話が展開して、喫茶店を立ち上げるという話である。実際にはサギまがいのほうの事例が多いはずなので、これは幸運というほかない。それなりの青春旅立ち物語であるが、社会に合わせて生きていくのが苦手な不器用な感性の持ち主の悩みが素直に表現されていて、生きにくい、死にたいと感じている人たちの共感をえる内容となっているように思う。これ読んで一人でも前向きな気持ちになってくれればと願う。せっかく生まれたのにもったいないよ。

 でも、これが今のような飽食のゆるい世界ではなく生存競争まっただなかの飢饉の時代だったりしたら、他人を押しのけても生きたい、と人はおしなべて思うものだろうか。それともひっそりと餓死していく人間類型っていたのだろうか。昔の私はもちろんみな前者になると思っていたのだが、最近はひょっとして後者もいたのではと思い直すようになった。戦災孤児なんかを想像してのことである。

【追伸】今テレビで「カイジ」とかいうアニメ流れていて、突然ブルー・ハーツの「未来は僕等の手の中」が大音量で飛び込んできた。しかもアニメが終わる毎に(https://www.youtube.com/watch?v=m4RPWG0A2MI)。どうやらカバーらしいが、その1節を提示したい。「僕等は泣くために 生まれたわけじゃないよ、僕等は負けるために 生まれてきたわけじゃないよ 生まれてきたわけじゃないよ」。

 その翌日、今日も今日とて内田裕也主演の映画「コミック雑誌なんかいらない!」が放映されて、終わったと思ったら真っ暗な画面で頭脳警察のそれがかすかに流れていて、秀逸。なぜかこのCD持ってるんだよね。

【付録】一昨日の読書:礫川氏に導かれて最近読んだ、というより再読した。松本清張『或る「小倉日記」伝』角川文庫、昭和33年。これには、表題の他、「父系の指」「菊枕」「笛壺」「石の骨」「断碑」が納められているが、最初のものを除くと、考古学や歴史、そして文学に取り憑かれた人間のいびつな姿がこれでもか、これでもかと登場する。昔読んだはずだが全然記憶にないのはどうしたことか。

 しかし、私も高校生の時は考古学やりたいと思っていたのだが、それでは食っていけない、不幸な人生になる、とよく知りもしないくせになんとなくそう思い込んで、進路を若干ずらして史学科にしたのだが、その頃に読んで影響を受けていたのかも知れない。一丁前に悩んだ挙げ句、意識的にその記憶を封印してしまったのだろうか。いずれにせよ、これらの登場人物たちに若き時代の清張の屈折感情が投影されているように思うのは、私の勘ぐりすぎか。かなり自伝的要素の強い「父系の指」に書かれていてびっくりだが、清張が広島駅前の京橋付近の生まれとは(但し、ウィキペディアでは旅行中の出生とのこと)、今回初めて知った。

 ところで最近の若者は清張なんか読んでいるのだろうか。最近ケーブルテレビで彼原作のドラマが延々と流されているが(生誕110周年のせいか)、時代の変化か、あまり触手が伸びない。同様に、私が学生の頃一世風靡していた西洋中世史家に阿部謹也もいたのだが、どうなんだろう。

【後日記】2019/10/31:NHK BS4で「反骨の考古学者ROKUJI」をやっていたのを途中から見た。松本清張の「断碑」のモデル、森本六爾を扱っていた。番組の最後が切ない。彼の死後、彼が求めていた弥生稲作の証拠となる資料ががっぽり発掘されたのだから。彼の生涯については、以下参照。https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=676

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今週の世界キリスト教情報(2019/10/14)

 今回の目玉は、南アメリカ関係でのカトリックの教会会議開催である。
  ▼「アマゾン特別シノドス」が6日開幕   
  ▼「アマゾン特別シノドス」全体会議に入る

 これの成り行きでは、神学上根拠がないが、宗教改革時代以降これまで堅持されてきた聖職者の独身制が見直されるかも、という観測があるらしい。

 ところで、これを掲載してきた「メルマ」が来年1月でサービス終了を予定している旨の告示が。場所が変わっても「世界キリスト教情報」は継続してほしい。

【補遺】https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47315445
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私へのオレオレ・サギ:痴呆への一里塚(10)

 なぜか電話はかかってこないけど(向こうも無駄なことしないわけだ)、最近メールでやたら妙なのが送られてくる。

 今日も今日とて、持ってもいないから使ったはずもないアメックスから(と称して)、655.58€の不正請求の恐れありますとの連絡あった。まあ、こんなのは即無視できるが、海外からの本は購入しているので、使っているカードや銀行名で来たら、やっぱり気になってつい確認したくなるし、じっさいした記憶もある。どうもあのカード番号狙われているようだと思ったので、カード番号を切り替えてもらったこともある(担当から、効果ないと思いますが、というコメント付きでしたが。相当あちらも悩まされているご様子)。

 運転免許証返上ではないけど、呆けないうちにカード返上したほうがいいような気になってくる。世の中の動きとは逆コースだが(アレはお上の露骨に税収確保目的だと睨んでいるが)。

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イタリアを知るために:ミヤザキ マリさん

 他のことを検索していたら、偶然ヒットした。イタリア関係で最近なんだかすっかり塩野七生大先生の後継者となった観のある「ミヤザキ マリ」さんのブログである。大先生と違って彼女は取り澄ましたところはないし、なにしろ即物的にマンガで表現できるし、結婚して深〜くイタリア社会に漬かっているので下世話に通じているからだろうが、気軽に読ませてくれるので、あれこれ笑いながら読んでしまった。以下に行くと、芋づる式に読めるはずです(連載としてはもう終わったらしいが)。 http://italia.miguide.jp/lifestyle/5434

 それを読んでいるうちに、既視感にとらわれた。どこかで読んだ記憶を思いだしたのである。これも偶然だが、カルチャーでの講演の準備をしていたらそれが出てきた。2004年のレジメ掲載だった。

 以来15年。アマゾンを見てみると、内田さんはその後も毎年のように書き綴っているようだ。20世紀末には、たぶん夫の赴任で異文化社会イタリアに居住することになった女性の滞在記が、主婦感覚でよく書かれていた。内田さんはそれとは若干違った構造的な切り口だったような記憶がある。

 それで思い出した。以下もあった。いや、もちろん今もある。難攻不落のバチカンへの普通では考えられない、すごい食い込み方だった。

郷富佐子『バチカン:ローマ法王庁は、いま』岩波新書、2007年。 

 郷さんがイタリア特派員だったときの朝日新聞の扱いは破格だった。さて今彼女はどこにいるのだろうか。えっ、シドニぃー?

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何かおかしい、災害報道:飛耳長目(15)

 このところ、泰山鳴動が続いている感じの天気予報。データもどこまで本当なんだろうか。なにせ、経済指数でも数字を操って一向に恥じないお上のやることだから。狼少年にならなければいいのだが。

 台風や異常気象にことよせて、その実、交通機関の一斉休業の訓練しているとしか思えないのは、私だけだろうか。不必要なまでに大袈裟すぎる印象が拭いきれないのだ。そして、大義名分、号令一下で、マスコミも運輸会社も、唯々諾々の昨今の動きは、どうも腑に落ちないというか、落ち着かないのである。事後の追跡調査を怠りなくやってほしいものだ(が、期待薄かな)。そうでなければ、ネオ全体主義国家出現の予感がする、否、もうなっちゃってるような。

 ま、台風だから皆も家に温和しく籠もっているが(さっき行ってみたセブンイレブン、まばらだが客はいたが、パン・コーナーは昨晩から空棚のまんま)、さて、バイオテロの場合そううまくいくだろうか。

【追伸】今回はこれまでになくひどいことになった。しかし被災者には申し訳ないが、練馬では台風は12日夜10時頃には終わった感じ。台風一過の13日、きつい日差しの晴天。しかし、夕方、セブンイレブンに行ってみて驚いた。まだほとんど棚が埋まっていなかったことだ(9月末に最寄りのスーパーは閉店したので、そっち関係の様子は不明だが)。郵便受けにも郵便物は届いていない。

【追追伸】今日(15日)の夕方、セブンイレブンを覗いてみたら、ようやく棚は旧態に復していた。 郵便も届いていた。ということでわが身近は復旧に3日間かかったということになる。

【言いたかったこと】(10/31)ようやく核心に触れる言説が出てきた感じがする。マスコミは自然災害ばかりいうが、あれの大部分は人災なのだ。

https://www.mag2.com/p/news/422242?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_thu&utm_campaign=mag_9999_1031&trflg=1

 私はかつての平成29年の広島市安佐北区の土砂災害でよくわかったことがある。あそこは土地勘があるので、人が家を建ててはいけない場所ということがぴんときた。中国地方の山は花崗岩(御影石)がぼろぼろになった「マサ土」の土壌なので、それでなくとも崩れやすい。なのに、山の斜面にへばりついて新興住宅団地が造られていて、それが危なっかしいことは、下の写真を見ただけでわかるはずだが、それを誰も言わないのだ。土地開発に関わっている政治家・業者・専門家たちの思惑、それを忖度しているとしか思えないマスコミ報道。

https://ja.wikipedia.org/wiki/平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害

 もうひとつは宇宙規模・地球史の視点から見ることの重要性。家正則「人類文明の品格と寿命:宇宙目線からの憂い」『図書』2019/11,14-17。

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考古学とリチウム電池:飛耳長目(14)

 各新聞がウェブで採りあげているが、ノーベル化学賞受賞者の吉野彰さんが高校・大学で考古学のクラブに入っていて、なんとそこで奥さんとも出会った、と。こういうのを聞くとたいへん嬉しい、と素直に思う。https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201910/CK2019101002100031.htm ;https://digital.asahi.com/articles/ASMB44TJTMB4UBQU008.html?iref=pc_rellink_02

 彼をめぐっての研究がらみのエピソードも満載で、分野は違えどそのはしくれの私も似たような体験があるので、こんなことあるよねと、これはよくわかる。https://mainichi.jp/articles/20191009/k00/00m/040/248000c

 とはいえ、細々と外国の歴史をやっている私などとは社会に対するインパクトや経済効果の圧倒的な違いを否応なく感じざるをえないのである。男子の本懐はいずこにありやと問いかけたくもなる。あるところで放言してしまったが、歴史学など「女性がするのに適した分野なのかも。男子たるもの、もっとリスクの高い場面に自己を投入すべきでは」。これは、わが分野への女性進出のめざましさについ口をついて出た昭和団塊世代の負け惜しみの言葉であるのだが。

 それにしても、このところの日本の基礎研究力の低下は著しい。それにめげず地道に頑張っている若手たちを救済すべく、国家的規模での支援を期待したいところである。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50835470Q9A011C1I00000/

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エルコラーノ駅にて禁断の落書き調査(1):トイレ噺(7)

 といっても、古代ローマではなく、現代の、である。

【警告!:以下の画像を見て不快感を感じる人がいるかもしれません】

 広島に帰省して充電のためパソコンにiPhoneを繋いだら、これまでの写真がずらーと出てきて、最新のものとして今年の夏にエルコラーノからの帰りに撮ったものがあった。電車が来るまで時間を持てあましていたら目に付いてしまったので、とっさに現地調査となったわけである(同様に、ポンペイ・サンチュラリオ駅のほうはニコンで撮っている:それにこれまでの折に触れての蓄積もあるのだ。乞うご期待、かな)。今回のものはすべてプラットフォームの、地下通路から階段で上がってきた所の構造物に書かれたもの。ここは、刺すような太陽光線が容赦なく照りつけるプラットフォーム上で唯一日差しを避けることができる場所なので、地元民が集まりやすいわけ。落書きは一目瞭然で解説はいらないだろうが、ここに時代を超えての落書きの常識がすでに見えているように思う。

 まず、同じ書き手が複数場所に書き付けていることが、絵のタッチで明確に確認できたり、文字と数字の組み合わせと筆跡で分かるものがある、ということ。

 第二に、こんな衆人の目に触れる公共の場所に、名前を明記という行為の意図で、私には、当事者二人が自分たちの愛の宣言というよりは、悪友のいたずらないし悪意を持った第三者による暴露のような気がしてならないのだが、どうだろう。

ヴェスヴィオ周遊鉄道では、ずっと以前から、
例外なく、通過電車もこんな調子
上の方に縦書き風に書かれているのは、漢字のつもりか。二つ前にも登場

 これを2000年前の祖先たちのそれと同期させて考えるとき、さてどういうことになるだろう。

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史料論:庶民と法律

 母が今年の初め2/11に亡くなって、その後始末で翻弄されている。法律的には申告期限が決まっていて、慣れていながゆえにやたらストレスとなる。たとえば、死亡時から4か月以内に「準確定申告」をしなければならない。ところが取り紛れて気付いたときには4か月過ぎていた。慌ててこれまで広島の実家がらみの確定申告でお世話になっている税理士事務所に「どうしたらいいのですか」とメールしたら、「お宅の場合、最初の二ヶ月足らずだから放っておいて大丈夫でしょう」と言われて肩すかしの一件落着。

 次なるそして最大の関門は10か月以内に手続きしなければならない相続税の申告であるが、その前段階として銀行口座の凍結をしなければならない。そのためには、母の除籍された戸籍謄本や住民票が銀行ごとにいちいち必要らしいので、ノウハウ本に書かれてあった「法定相続情報証明制度」を利用することにした。これだと謄本とかがワンセットで済むという触れ込みだったからだ。

 この「証明」のコピーを入手するためには関連の書類を揃えて法務局に提出しなければならない。母の場合は提出先は広島法務局である。この法務局にはもうひとつ用事があった。相続財産の財産目録作成のため必要な書類として、土地・建物の登記状況を把握しておかないといけない。そこで猛暑の今夏に帰省して、広島法務局を訪ねて行った。もちろん生まれて初めての体験である。案内図を頼りに汗だくになりながら街中をうろうろし、くたくたになりながらようやく建物に到着、冷房に生き返り申請用紙を提出して待っていると、呼び出されて「その地番、ないのですが」と。そこで私は「地番」という呼称があって、それは本籍地の表記とは異なっていることを、初めて知った。本籍地は広島市西区○○町三丁目530番地○なので、それで申請したのだが、その付近の平面図を示されてそこが「地番」としては三丁目112番△、であることを初めて知ったのである。これまでの私の生涯70年間で地番はまったく関係なかったのだから,知るよしもない。

 こうしてなんとか登記簿の写しを入手し、次いで「法定相続情報証明制度」の窓口へ。窓口のお役人たち(みな女性だった)は親切であった。そこでもっとも大変なのは母の出生から死亡までのすべての戸籍謄本を集めることですよ、とご指導をいただき、手順を書いた説明書や申出書をもらって、こっちは後日郵送で処理すべく、また湿気のひどい真夏の午後の外気に放り出された。

 もう一人の相続人の妹は手回しよく関係書類を準備してくれていていた(実際は、経験あるご主人の手をわずらわせていたのであろうが)。さらにメールで母の実家の従兄弟に母の両親の名前を問い合わせたうえで、広島西区役所にいく。そこでかなり待たされて除籍謄本と2通の改製原戸籍なるものをまずゲット(私と母の関係を証明する書類が必要なのはいうまでもない)。次の日に、母の出生以来の古い戸籍を得るために、郵送でも可なのだが、帰省ついででもあるし、いっちゃえという感じでJR山陽本線に乗って東広島市役所へむかう。ここではそう待たされなかったが,ぶ厚い(田舎なので子供が多かったせいだろう)2通を受領することに成功。以上、再度足を運ぶ手間を考えて,上記すべて3通入手申請したので、予想外に費用がかかった。

 こうして、帰京して今度は練馬区役所に行き、自分と母の住民(除籍)票とか関係書類を揃え、返信用封筒に念のため簡易書留料金の切手を貼って広島法務局に送付したのは、月曜だった。さていつ返信が帰ってくるのかと思っていたら、木曜の朝に電話があり、書類関係は揃っているが「法定相続情報一覧」に不用な記入があるので出し直してほしい、と。で,何が不備だったかというと、住民票通りに書いて欲しいので、マンション名とか削除して下さい、と。練馬区ではなんかの時にマンション名まで書けといわれた記憶あったのでそうしたつもりだったのだが、役所が違い担当が違うとこんな調子で、ストレスとなる。

 それから10日もたったころだったろうか、文科省科研の現地調査で渡伊する直前に、法務局お墨付きの「証明」書類のコピーが届いたので(ご丁寧にも戸籍謄本などの提出書類も同封返還されていた)、2週間ほど間を開けて帰国してから、こんどは個別に銀行と接触。ところが、ゆうちょの場合、ご近所の窓口で「一番簡単な方法をとりましょう」といわれて、なんと解約関係の書類を渡されてしまった。あれれ、凍結しないでいいいの?という感じ。で後日改めて解約の書類を提出したが、あれほど手間かけた法務局の「証明」書類は不要、と言われて突っ返されてしまったのであ〜る。そのうえその場で貯金残高全額が払い戻されたのであ〜る。本当は喜べばいいのあろうが、なんだかうれしくないのはどうしたことか。貯金残高が少ないせいでの簡易処理だったのかもしれないが、狐につままれた感じだった。

 残りの2つの大都市銀行の預金凍結は、まずその担当窓口に電話かけて書類送付をお願いし、届いた書類を送り返した段階だが、そこでも法務局の書類のことにはまった触れられておらず、あれこれの書類を集めて提出のこととされていたが、今さら戸籍謄本類を同封する気にはならず、法務局の「証明」書類を封入して送り返した。あと、実印の押印と印鑑証明が要求されたので、こんなこともあるだろうと練馬区役所で入手しておいたものを同封した。電話連絡時に、いずれも手続き完了に1,2か月かかりますと言われたが、さて書類不備で返ってくるのかどうか、あちらさんのご都合待ちの昨今だが、こうしてまあ一応この仕事は官僚、もとえ完了となった次第。

 明日から数日また帰省する。今回はいよいよ土地・宅地の相続関係だが、これまで確定申告でお世話になっている税理士事務所に行って、相談する予定である。私の勝手な計算だと遺産相続で納税のレベルに達しないですみそうなのだが(基礎控除3000万+600万×相続人数、の枠内で収まりそう;それ越えた場合の、妻の弟から裏技を伝授されていたのだが、不発ですみそうなのは喜んでいいのかどうか,国家権力からは問題にされていない存在として認定されたようで,ちょっと微妙な感想なのである)、その後の名義変更手続きをどうすれば節税できるのか、がど素人相続人の目下の問題なのだ。

 かくの如く、とかく法律というものは庶民にとって常日頃の日常生活とはかけはなれ、しかも法的定めと窓口の対応も個別的に違っているようで、ますます素人にはとまどうことばかり(せっかくそろえた書類を不用、と突っ返されることも多い)。そこでリタイア歴史家として体感するのは、法律の条文で過去を再現することの非現実性である。たとえそういう原則はあっても、その通り運用されていないことが多いのが現実、という体験を古代ローマ法制史研究に投入している研究者がどれほどいっしゃることやら。歴史の目的は、かつての実際の生活の再現であると私は思っているが、史料不足を口実に(その実、手軽だからと私はにらんでいるのだが)、たまたま残存しえた法律文言を金科玉条のごとく振りかざす研究者のいかに多いことか。ありもしない仮想現実を作りあげて悦に入っている場合ではないのだが。それが実態とは乖離した古代ローマ史ムラでの身内意識のなあなあのお遊びに堕していないことを、過去の自分の生き様を含めて今は祈るばかりである。

【追伸】先日、ひとつの都市銀行から返信が届き、代表人の私の口座に残金を振り込みますとの連絡があったと思ったら、もう一つのほうからも、こっちは若干面倒くさく、私の口座に移行するから振込先を書類に書いて(通帳とカードも返還せよ)、もう一人の相続人の妹の実印登録証と押印した書類を送り返せ、という一件書類が届き、妹へ送って登録証をとってもらったり、書類に押印してもらったりして、返送した。預金の処理はこれで一件落着のようである。あとは、遺産登記の変更で、今年中に済ませれば、広島市から来た書類も提出しないですむようなので、11月中に動きだそうと思っている。

【付論】以下はイタリア(といっても,中南部に限っておいた方がどうしても無難な気がする(^_^;)での私の体験なのだが、まあ現代イタリア人というのはこまめというか、事前に規則はこまごまときちんと作るのだが、実際にはそれはすぐさま反故にされてしまっている事例に日常体験的によくぶつかるのである。結論を先に述べると、この現代イタリア人の規則に対する民族的特性・習性、規則は作ってもすぐさまお上は励行しなくなる,それで誰も守らなくなる、要するに実効性を持たない法律の文言だけが六法全書や判例集に残る現実を、なぜ古代ローマ人に応用していけないことがあろうか、と私は言いたいのである。素人が思うに、イタリアでは何か不都合が生じたら後追い的に法律を気軽に作る、でもそれが適用される事例なんてそうあるわけでないので、発布と同時にほとんど無視される、こんなことの連続なんではないかと。日本人風(というか研究者にありがち)に法律を律儀に考えていると間違う,ような気がする。ローマ法の研究者さんにお聞きしたいことである。

 たとえば、あれは大聖年2000年を前にして、これまで長年閉鎖されていたパラティヌス丘収蔵庫が博物館として新装開店した。この時は無料だったが、入り口に向かう階段前に麗々しく掲示されて目についたのは、入場にさいしての見学者と見学時間の制限規則で、たとえば、10時から10時半まで20人、といった調子で、ご丁寧にも開館時間から閉館時間までそれがずらーと掲示されていたのだった。入り口の外にはちゃんと監視員がいて(そこまではリッパ)、だけどまあ人数や時間をチェックしている様子はなかったのでそのまま入場できて、その時は地下からじっくり見学させていただいた。ここでの私にとっての目玉は「冒瀆の十字架」だったのは言うまでもない。もちろん初見参できて大感激だった。当時は館内にも複数の監視員がそれなりにいて、偏屈そうな東洋人が一箇所にへばりついているので警戒されてはと思い、何度か行きつ戻りつして見学したが、今考えるとそれも十分怪しい行動ではあったなあ。で、本論はこれからで、翌年もその後も毎年のようにもちろん見学に行ったのだが、その時は例の掲示板は健在だったが、入り口の外に監視員はいなくなっていた(例のごとく、入り口の内側に所在なくお一人お座りにはなっていた)。要するにまったくのオープンだった。そしてその翌年くらいだったろうか、掲示板の時間制限の箇所に色ビニールテープが貼られ出して、おやおや掲示板だけはまだあるんだ〜と思いながら通うこと数年、とうとう掲示板そのものも引退されたとみえ、ようやくお姿をお消しになったのであ〜る。

 もう一つの事例。数年前のことだったか、「法律で、今度から博物館や遺跡には一定以上の大きさのバッグはしょって入れず、荷物置き場に預けなければならなくなった」という情報が私の耳に入ってきた。このころになると私など「おいおい、そんな場所、入場者多いポンペイなんかどこに作るというの、人員だって割けないでしょ。また計画倒れだよね」と冷静で、実際いってみても従来通り。唯一エルコラーノ遺跡だけは、観光バス用の駐車場ができたせいで事務棟が奥まった所に新設されたこともあるのだろうが、荷物置き場も作られ職員も一名いらっしゃり、遺跡入り口のチケットチェックの場所にはその掲示も未だある(初年度に比べるとだいぶ小さくなったが)。でもまあ、チケットチェックの監視員さんも法律どこ吹く風とばかりチェックされることは最初からない。今年の夏、荷物置き場と係員さんまだいたが、えっ、と驚きやっぱりねとこれは残念に思ったのは、遺跡構内の博物館グッズ売り場が閉鎖されていたことである。立派な建物は今は空き屋となっている。今年は寄らなかったのでわからないが、ポンペイ遺跡だとスカーヴィ入場口のトンネル横に最近できた売り場はまだ健在なのだろうか。こうなると、国立ナポリ博物館で入手するよう算段したほうが安全な気がする。

【補論】今年の夏の新ならず旧発見。ポンペイの円形闘技場入場口にはこれも3,4年前に作られた「石膏像死体の展示場」二棟がある。ローマのサン・ピエトロ広場を囲む円柱廊よろしく、左右に湾曲して1つずつあるが、これも片方だけと記憶しているが中に入れたのは最初だけで(私は入った)、今は外からガラス越しにしか覗けなくなっている(光って見えづらいので、なんのための展示やら。入り口に向かって左側のもう一棟は物置となっている)。そして今年同行者と落ち合う待ち時間のとき所在なく、左側に貼られていた掲示を見るともなくみていたら、なにやらここに荷物置き場があると書いてあるではないか。例のごとくもはや掲示倒れだろうなと思ったのだが、そうこうするうちに、乳母車の赤ちゃん連れの夫婦が遺跡から出てきてあれこれ騒ぎだし、クストーデ風の男性が鍵を持ってやってきて扉を開け、夫婦だけ二人が中に入ってショルダーバッグを持ち出したので、クストーデ部屋に頼めば制度そのものはまだ生きていることを確認できた。しかしそれが見学者からの申し出による措置となっているのは、預けている人がごくごく限定されている様子から明白で、さて、これさえいつまで続くのだろうか、というより続いてほしいものだと思う。

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HerculaneuminPictures、そしてPompeiiinPictures:遅報(13)

 今年の夏の現地調査は、エルコラーノでは我々は空振りだった。現地考古管理事務所の調査許可が我々の滞在期間には間に合わず、我らは一般観光客として入構するしかなかったのだ。それでも沈船博物館が開いていたし、折から開催されていた展示会に遭遇することができて、新収穫なしというわけでもなかった:私の最近の最大の注目場所「200年祭の家」Casa del Bicentenarioはまだ修復中だったし。

 ところで、10/3段階での情報によるとようやくエルコラーノの調査許可が出たそうで、今回はIV.1-2のCasa dell’ Atrio a mosaicoに入るようだ。ここはこのところずっと修復中で閉鎖されていた。それで今般検索かけたら、なんと標記のHPが新たに立ち上がっていて驚いた(HerculaneuminPictures:2018年5月かららしい)。これは表題からしてこれまでよく利用してきたPompeiiinPicturesの姉妹編で、同じ人たちJackie and Bob Dunnさん(ご夫婦かな)が作成されている。それもあって、元のポンペイのほうも覗いてみたのだが、なんと私にはよく理解できない理由なのだが、とにかくEUからイギリスが離脱したら、このHP、来年の1月1日をもってイギリス以外の者はみることできなくなるとの告知がされていて、かなりショック。これまでたいへん重宝してきただけに、これが本当なら大変残念なことです。

【余談】ところであれこれ検索していたら、なななんと、我らがこっち方面でお世話になっている現地通訳女史がいつの間にかHPを、そして私が201△年に調査で入ったときのことを若干詳しくアップしておられました(そこの紹介はまだ時効でないので、パスしておきます。というのは、調査そのものは問題ないのですが、その中で、当方が申請もしていなかったのに、通訳女史が「みたい!」とお願いしたら、案内してくれていたベテランのクストーデ(鍵の管理人)さんいとも簡単にかぎ取って入れてくれたのが、なんと驚きの「パピルス荘」だったのです。これがイタリア! 頼むのが男だとこうはいかない、と一応やっかんでおこう。彼は、そこで発掘品の整理していたボローニャ大学のメンバーにも紹介してくれました(女性ばっか10名あまり。東洋人もいらっしゃった。中国系かな;遺跡の中では別行動の3人の男性メンバーにも遭遇して、握手)。
 いつも許可を取るのには苦労しているのですが(といっても、現地遺跡管理事務所との交渉で悪戦苦闘しているのは通訳女史なんですが:本当に感謝しないといけませんよね)、お役人のお偉いさんではなくて、現場の人たちの中にはこんな親切な人もいるのです(怖いよね)。逆にいうとこれまでの体験から、両者の間には深い断絶がある感じです。

 こっちは、公表していいかな。https://www.piazzaitalia.info/

 エルコラーノの許可とれなかったので、彼女が気配りして代わりにと紹介してくれたのが、ナポリ市内のアウグストゥスの水道渠遺跡。これの記事その気になったら書くかもです。それには東大のソンマ発掘地見学にも触れないといけないかな。

【追記】2020/3/22に試しに「PompeiiinPictures」に行ってみたら、健在でした。というより2月からエルコラーノやスタビアなどポンペイ周辺の遺跡すべてを含めて再出発していた(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/index.htm)。これで一安心。とりわけポンペイの新発掘「V」が詳細に公開されていて壮観。まだ一般公開されていないので、ありがたいことだ。それにしてもこの公表状況は、公式HP以上のすばらしさで、どうすればこんなことできるにか、不思議でしょうがない。よほどの信頼関係あるのだろう。

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