月別: 2019年10月

エウトロピウス『首都(ローマ)創建以来の略史』全一〇巻・改訳中

【前口上】これまで『上智史學』第五二(二〇〇七年)〜第五九(二〇一四年)に全訳を訳註つきで掲載しているが(依拠した底本はMGH版:上智大学図書館の「学術情報リポジトリ」から入手可)、このたび全面的見直し作業を開始した(但し、本文のみ)。ただ、まだ訳語確定には至っておらず、現在進行形中とご認識ありたい。

 なお、民族・部族名等は、概ね複数形でたとえば「サムニテス人たち」Samnitesとしたが、我が国で一般に流布した慣用にしたがって、たとえばRomaniを「ローマ人たち」、Veientesを「ウェイイ人たち」と表記した場合もある。

 今般の翻訳では、関係版本の最新と思われるBudé版(初版一九九八年、第二版二〇〇二年)に依拠して見直すことにした。今回の参加者は、三井、江添、桒原、豊田の四名。

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【翻訳】

(我らが)主ウァレンス、

ゴート人の偉大なる(征服者にして)、永遠なる正帝陛下に、

 クラリッシムス級文書局長エウトロピウスが(奉る)。

献辞:小官は、ローマの諸事績を、慈悲深き陛下の意向に従い、首都創建よりurbe condita 我らの時代までad nostram memoriam、実にそれらは戦時と平時の諸々の事柄において卓越しておりましたが、時代順に簡潔な記述で集約しました。小官はざっとではありますがstrictim そのうえetiam、諸元首の生涯において傑出したものとしてegregia 目を引く諸々の出来事を付加しました。これは、静謐なる陛下の神的精神が、帝国行政の中で輝かしい人々のinlustrium 諸行動に準拠なさっていたことを、読書によってお知りになる以前に、陛下が欣快とされんがためであります。

第一巻

Ⅰ.1:(1) ローマ帝国、これよりも始まりにおいて小さく、拡張の際に大きくなったものを全世界で人間の記録はほとんど思い出すことはできない。それはロムルスを始祖としている。彼はウェスタの巫女である処女レア・シルウィアと、伝えられるところでは、マルス(神)の息子であり、兄弟レムスとともに双子の片割れとして誕生した。 (2) 彼が羊飼いの中にあって追い剥ぎを生業としていた一八歳のとき、取るに足らぬ首都をパラティヌス山にmonte 建てた。それは四月二十一日、第六オリュンピア期の第三年目にして、トロイアの滅亡後、人々が長短いろいろ伝えているが、三九四年目のことであった(前七五三年)。

Ⅰ.2:(1) 都市をcivitate 創建すると、それを彼は自らの名前にちなみローマと呼んだ。おおよそ彼は次のことを行なった。彼は近隣の群衆を都市に受け入れ、より年長の者たちからex senioribus 一〇〇名を選び出した。彼らの助言に基づいてあらゆることを彼は行おうとした。彼は彼らを年長senectutem であるがゆえに元老院議員たちsenatores と名付けた。 (2) 当時彼自身と彼の民衆はpopulus suus 妻たちを持っていなかったので、彼は祝祭の見世物へとad spectaculum ludorum 首都ローマに近隣諸部族を招待し、彼らの処女たちをearum virgines 掠奪した。掠奪の復讐のために諸々の戦争が起こったが、彼はカエニネンセス人たち、アンテムナエ人たち、クルストゥミニ人たち、サビニ人たち、フィデナエ人たち、ウェイイ人たちを打ち負かしたvicit。これらすべての(諸部族の)町々はoppida 首都の周りに位置している。そして、突然嵐が生じた後、彼が姿を見せなくなったので、統治すること三十七年目(前七一六年)に彼は神々のもとに渡ったと信じられ、そして神格化された。 (3)ついでdeinde、ローマでは五日ごとに元老院議員たちが統治し、彼らが命令権を保持して一年が完了した。

Ⅰ.3:その後postea、ヌマ・ポンピリウスが王とされたrex creatus est(前七一五年)。彼は一度たりとも戦争をしなかったが、都市にとってロムルスに劣らず有意義であった。というのも、彼はローマ人たちに諸々の法と道義をleges moresque 制定したからである、(それは)彼らが好戦的な習慣により今や追い剥ぎや半野蛮人と見なされてしまっていたからだった。そして彼は一年を一〇か月に区分した、以前何も計算法がなくて混乱していたのだが。そして彼は、ローマで数え切れないほどの宗教儀礼と諸神域を制定した。彼は病死した、命令権を保持すること四十三年目のことだった(前六七三年)。

Ⅰ.4:この者を継承したのがトゥルス・オスティリウスであった(前六七三年)。彼は諸戦争を再開し、首都ローマから十二(ローマ・)マイルのところにいるアルバ人たちを打ち負かし、ウェイイ人たちとフィデナエ人たち、ひとつが首都ローマから六マイル、ひとつが一八マイル離れているが、彼らを戦争で破って、彼は首都を拡張し、カエリウス山を加えた。彼は三十二年間統治した時、雷に打たれて自分の邸宅もろとも燃えてしまった(前六四二年)。

Ⅰ.5:彼の後、母方を通じでマヌの孫にあたるアンクス・マルキウスが命令権を受け取ったsuscepit(前六四二年)。彼はラティニ人たちと干戈を交え、アウェンティヌス山とヤニクルム(山)を都市に加え、ティベリス河の河口にostium ひとつの都市(オスティアOstia)を海に面して、首都ローマから一六マイルのところに創建した。命令権を保持すること二十四年目にして、彼は病気で亡くなった(前六一六年)。

Ⅰ.6:ついで和deinde、王位をプリスクス・タルクイニウスが受け入れたaccepit(前六一六年)。彼は元老院議員たちの数を倍増し、ローマに競技場を建設し、ローマ祭をludos Romanos 定めた。それは我々の時代まで続いている。彼は同様にidem そのうえetiam サビニ人たちを打ち破り、そして諸々の農耕地のagrorum 少なからぬ部分を彼らから奪って、首都ローマの領域に併合した。そして彼は凱旋式を挙行して首都に入城した最初の人物であった。彼は諸城壁と諸下水道を作り、カピトリウム(神殿)を(建設し)始めた。彼は命令権を保持すること三十八年目にアンクスの息子たちにより殺された(前五七九年)。彼(タルクイニウス)自身が彼(アンクス)の王位を継承していたためであるsuccesserat。

Ⅰ.7:彼の後、セウィウス・トゥリウスが命令権を受け取ったsuscepit(前五七九年)。彼は貴顕な女性から生まれた、(母は)にもかかわらずtamen 囚われて婢女となっていたのだが。彼もまたサビニ人たちを征服しsubegit、クィリナリス、ウィミナリス、エスクィリヌスの三つの山を首都に加え、諸々の壕を城壁の周りにめぐらした。彼はあらゆる者の中で初めて人口調査を定めた。これはこの時まで世界中で知られていなかった。彼の下で、ローマは全員が人口調査において申告され、八万三〇〇〇の頭数のローマ人たちの市民をcivium 持った、(但し)農耕地内にin agris いた人々を含めて(の話)だったが。彼は自分の娘婿で、自分が継承していたsuccesserat 王(プルスクス・タルクイニウス)の息子タルクイニウス・スペルブスと、タルクイニウスが妻としていた(自分の)娘の奸策により殺された(前五三四年)。

Ⅰ.8:(1)ルキウス・タルクイニウス・スペルブス、王たちの中の七代目にして最後の者が、カンパニアに赴く際に首都からさほど遠くないところにいるウォルスキ人を打ち破り、都市ガビイとスエッサ・ポメティアを征服したsubegit。彼はトゥスキ人と和平を結び、カピトリウムにユピテルのために神殿を建設した。その後、首都ローマから一八マイルの位置にあった都市アルデアを攻囲しているときに、彼は命令権を失った。 (2) というのも、彼の息子で自身も小タルクイニウスなる者が非常に高貴な女性ルクレティア、(すなわち)コラティヌスの非常に貞淑な妻であるこの女性を凌辱し、そして彼女が侮辱行為について夫と父と友人たちに訴えて、皆の目の前で自殺したからである。それが原因で、自身もまたタルクイニウスの一族であったブルトゥスが民衆を煽り立て、タルクイニウスから命令権を奪った。 (3) まもなくmox、都市アルデアを王自身とともに包囲していた軍隊もまたquoque、彼を見捨てた。首都までやって来たものの諸門が閉じられていたので、王は閉め出されてしまった。二四年間命令権を行使した後で、彼は自分の妻と息子たちとともに逃亡した(前五〇九年)。したがってローマでは七名の王を通じて二四三年間王政が布かれた。それは、依然としてローマが最大でかろうじて(首都から)一五マイルのところまで保持していたときのことである。

Ⅰ.9:(1)一人の王に代わり、次の理由で二人が選出され、このときから執政官職が始まった。すなわち、もし一人が不正な者たろうとしても、もう一人同様の職権を持ち、その者を抑えるようにするためである。また、彼らが一年以上長く命令権を持たず、職権の長さゆえにあまり傲慢になることなく、一年後には私人となることを知って、常に市民的であるように、と決定したのだった。 (2) こうして、王たちが追放されたのちab expulsis regibus 一年目に執政官となったのは、タルクイニウスが放逐されるpelleretur ようもっとも活動したルキウス・ユニウス・ブルトゥスと、ルクレティアの夫タルクイニウス・コラティヌスであった(前五〇九年)。 (3) しかし、タルクイニウス・コラティヌスからはすぐに顕職が奪い去られた。というのもenim、何者であれ首都にタルクイニウスと呼ばれる者が留まるべきではないとされたからである。 (4) それゆえergo、彼は自分の全財産を(持ち出すことを)認められて首都から移住し、彼の代わりにルキウス・ウァレイウス・プブリコラが執政官とされた(前五〇九年)。しかし、追放されたfuerat expulsus タルクイニウス王は首都ローマに対する戦争を扇動し、多くの種族を集め、王位に復帰せんものと干戈を交えた。

Ⅰ.10:(1)最初の会戦pugna で執政官ブルトゥスとタルクイニウスの息子アルンスは相討ちで死んだが、ローマ人たちはにもかかわらずtamen 会戦から勝利者として戻った。 (2)ブルトゥスをローマの婦人たちは、彼女らの貞操の擁護者として、まるで(彼女たち)共通の父であるかのように一年間喪に服した。ウァレリウス・プブリコラはスプリウス・ルクレティウス・トリキピティヌス、すなわちルクレティアの父を自分の同僚としたが、彼が病により死に至ると、再度自分の同僚としてホラティウス・フルウィウスを選出した。 (3)かくしてita 初年度は五人の執政官たちを持った。というのもenim、タルクイニウス・コラティヌスは名前のために首都から去り、ブルトゥスは戦闘中にin proelio 死んでいたし、スプリウス・ルクレティウスは病により死に至っていたからである。

Ⅰ.11:(1)(王たちが追放されたのち=共和政開始後)二年目(前五〇八年)にまたquoque、再度iterum タルクイニウスは王位に復帰すべく、ローマ人たちに戦争を起こし、トゥスキア(エトルリア)王ポルセンナが彼に援軍を提供したので、ローマをほとんどpaene 占領しかけた。だがverum その時もまた tum quoque 彼は打ち負かされた。 (2)王たちが追い出されたexactos のち三年目(五〇七年)にタルクイニウスは王位に受け入れられなかった、(というのは)彼にポルセンナも援軍を送らず、和平をローマ人たちと結んだからで、彼(タルクイニウス)はトゥスクルムに向かった、そこは首都から遠くないところにある。そしてそこで十四年間私人として妻と共に老い朽ちた。 (3)王たちが追い出されたxactos のち四年目(前五〇六年)に、サビニ人たちがローマ人たちに戦争を仕掛けたが、打ち負かされた。そして彼らに対し凱旋式が挙行された。 (4)(王たちが追放されたのち)五年目(前五〇五年)に、あのルキウス・ウァレリウスが、ブルトゥスの同僚で、執政官職四度を務めて、天命を全うして死んだ。彼はそれほど貧しかった、民衆から浄財を募って葬式の費用をあがなったほど。彼に婦人たちはブルトゥスと同じく一年間喪に服した。

Ⅰ.12:王たちが追い出されたexactosのち 九年目(前五〇一年)に、タルクイニウスの女婿が義父への不正行為に復讐すべく大軍を集めたとき、ローマで新たな顕職がdignitas創設された。それは独裁官職dictatura と呼ばれ、執政官職よりも上位である。同年そのうえetiam、騎兵長官がmagister equitum 創られた、それは独裁官にdictatori従っていた。現在静謐なる陛下がお持ちのこの命令権の職権に、古の独裁官職以上に類似した顕職はありますまい。ことにmaxime アウグストゥスまたはquoque オクタウィアヌスーー我々は彼について後に述べるーーと彼以前にガイウス・カエサルが、独裁官職の名と名誉の下にhonore 統治したからである。しかしてautem ローマ最初の独裁官は<ティトゥス・>ラルキウスで、最初の騎兵長官はスプリウス・カッシウスであった。

Ⅰ.13:(1)王たちが追い出されたexactos のち十六年目(前四九四年)に、暴動をseditionem ローマの民衆populus は起こした、あたかも元老院と執政官たちに抑圧されていたかのように。 (2)そのときtum そして彼ら自らが自分たち自身のために護民官たちをtribunos plebis あたかも自分らの裁判官たちそして擁護者たちとして創設した。彼らにより(民衆が)元老院と執政官たちから護られることを可能とするためである。

Ⅰ.14:翌年(前四九三年)、ウォルスキ人たちがローマ人たちに対し戦争を再開し、そして野戦でacie打ち負かされvicti、そのうえetiam 彼らが最高(の格式)を与えていた都市civitatem コリオリを失ってしまった。

Ⅰ.15:(1)王たちが追放されてeiecti erant 以来十八年目(前四九二年)に、首都から駆逐されたexpulsus ローマの将軍dux クィントゥス・マルキウスは、ウォルスキ人たちの都市コリオリを占領した(のにそんな目にあったので)、怒りに駆られてまさしくウォルスキ人たち自身に身を投じ、そしてローマ人たちに対する援軍を受け取った。 (2)彼はローマ人たちを幾度もsaepe 打ち負かしvicit、首都の第五里程標まで接近したが、彼はそのうえetiam 彼の祖国をpatriam suam 包囲したであろう、彼は和平を要請していた使節団をlegatis 拒絶していたので、もし彼のところに母ウェトリアと妻ウォルムニアが首都からやって来なければ。彼女たちの悲嘆と懇願に心を動かされて、彼は軍隊をexercitum 引いたのである(前四八八年)。そしてatque タルクイニウス後に祖国に敵対した将軍dux として、彼は二人目であった。

Ⅰ.16:(1)ガイウス・ファビウスとルキウス・ウィルギニウスが執政官たちのときに(前四七九年)、ファビウス氏出身だった三〇〇人の貴族nobiles の男たちが、ウェイイ人たちに対する戦争をbellum 彼らだけで企て、元老院と民衆にpopulo 独力であらゆる抗争を完了させることを約束したのである。 (2)そしてかくしてitaque 彼らは出発したのだがprofecti、貴族全員が、そして彼ら一人一人が大軍の将軍たちduces であったが、戦闘中にin proelio 倒れたのである。 (3)たった一人が氏族全体から生き残った。その彼は未成年のゆえに会戦にpugnam 連れて行かれることができなかったのである。これらののち、人口調査が首都で執り行われ、そして市民たちのcivium 頭数が十一万七三一九名であることが明らかになった。

Ⅰ.17:(1)翌年(前四七八年)アルギドゥス山の中で、(それは)首都から約ferme 十二マイルで、ローマ軍は包囲されたので、ルキウス・クインティウス・キンキナトゥスが独裁官とされた。彼は四ユゲルムの農地をagrum 所有し、自分の両手で耕していた。 (2) 彼は、野良仕事に従事している最中に見いだされ、汗をぬぐい、(高級政務官用の)紫縁飾付上着をtogam praetextam 受け取り、そして敵たちを倒すと、軍隊をexercitum 解散した。

Ⅰ.18:(1) 首都創建以来三〇二年目(前四五二年)に、執政官命令権が中断した。そして、二人の執政官の代わりに一〇人が作られた。彼らは最高権力を保持することになり、一〇人委員会decemviri と名付けられた。 (2)しかしsed、一年目は首尾よく振る舞ったものの、二年目に彼らの中の一人、アッピウス・クラウディウスが、ウィルギニウス某ーー彼は、まさにiam 誉れ高き兵役(複数)にstipendiis あって、ラティニ人たちに対してアルギドゥス山の中で軍務に服していたーーの未婚の娘を傷物にすることを望んだ。彼女を父は殺した、(それはかの)一〇人委員による恥辱をもって生きていかなくていいようにと、そして兵士たちのところにad milites 帰還して騒乱を起こした。一〇人委員たちから職権がpotestas 奪われ、かつ彼ら自身も罰せられた。

Ⅰ.19:(1) 首都創建以来三一五年目(前四三七年)に、フィデナエ人たちがローマ人たちに対して反乱を起こした。援軍をauxilium 彼らに与えたのはウェイイ人たちとウェイイ人たちの王トルムニウスだった。 (2)彼ら両者の諸都市はそれほどtam 首都(ローマ)に近く、フィデナエが六(ローマ・)マイル、ウェイイが十八マイルしか離れていない。これらの者たちとウォルスキ人たちも同盟を結んだ。しかしsed 彼らは独裁官アマメルクス・アエミリウスと騎兵長官ルキスス・クインティウス・キンキナトゥスにより打ち負かされ、そのうえetiam 王を失ってしまった。

Ⅰ.20:(1) 二十年後(前四一七年)、ウェイイ人が反乱を起こした。独裁官として彼らに送られたのはフィリウス・カミルスだった。彼はまずprimum 彼らに野戦でacie 勝利し、まもなくmox そのうえetiam その都市を長期間包囲した後に占領した(前三九六年)、そこはイタリアで最古かつ-que 最も豊か(な都市)だった (2) その後にpost eam 彼はフェリスキ人たちにも(勝利し)、やはり名高さで劣ることのない(一つの)都市も占領した(前三九四年)。しかしsed、彼が戦利品を不正分配したかのごとく彼への嫉妬心が扇動され、かつ-que 彼はそれを理由に断罪され、都市からcivitate 追放された(前三九一年)。 (3) 直後にstatim ガリア(地方)のセノネス人たちが首都へとやって来て、そしてローマから十一(ローマ・)マイルのアリア河畔で打ち負かしたローマ人たちを追って、そのうえetiam 首都までも占領した。(ローマは)カピトリウムを除いて何も防衛することができなかった。彼らが長期間攻囲し、そしてまさにiam そのうえetiam ローマ人たちが飢餓に瀕していたとき、【版本の混乱あり:彼らは黄金を受け取ってカピトリウムを占領せずに(軍を)引いた。しかしsed】近隣の都市に亡命していたカミルスにより、彼らは手ひどく打ち負かされた。 (4) その後にもかかわらずそのうえpostae tamen etiam、そして彼らに与えられていた黄金も、彼らが獲得していたすべての軍旗も取りもどした。 (5)かくしてita三度目の凱旋式を挙行しながら彼は首都に入り、あたかも彼自身もまた、祖国の創建者であるかのように、第二のロムルスと呼ばれた。

第二巻

Ⅱ.1:(1) 首都創建以来三六五年目、(すなわち、首都)占領後、しかしてautem 最初(の年)にprimo(前三八九年)、諸々の顕職がdigniates 変更された、そして二名の執政官の代わりに執政官権限付軍隊司令官たちがtribuni militares consulari 定めおかれた。この時まさにhinc iam、ローマ人の国家が大きくなり始めた。 (2) というのもnam、カミルスがその年に、七〇年間戦争を行っていたウォルスキ人たちの都市を打ち破り、そしてアエクイ人たちの首都、そしてストリウム人たちの(首都)、同じ諸都市のすべての軍隊がexercitibus 殲滅され、彼は(それらを)占領した。そして三つの凱旋式を同時に挙行したからである。

Ⅱ.2:(1) そのうえetiam ティトゥス・クインティウス・キンキナトゥスは、戦争と同時に首都ローマの諸城門まで来襲していたプラエネステ人たちを、アッリア河まで追撃し打ち負かした。(こうして彼は)彼ら自身の下にあった八都市をローマ人たちの下に加え、プラエネステそれ自体に迫って降伏を受け入れた。 (2) 彼によるそれらすべてのことは二十日の間に行われ、そして彼自身に対し凱旋式が決議された(前三八〇年)。 

Ⅱ.3:とはいえ軍隊司令官たちの顕職は長期間続かなかった。というのもnam しばらくして誰も(その職に)任命されないことが決まったからである。そして首都で四年間が過ぎた、そこに上級権限(を持つ政務官)が存在することなく。にもかかわらずtamen(その後)執政官検眼付軍隊司令官たちは再度iterum 権威を回復し、そして(彼らは)三年間継続した。元通りrursus 執政官たちが採用された(前三六七年)。

Ⅱ.4:ルキウス・ゲヌキウスとクイントゥス・セルウィリウスの執政官在職年(前三六五年)に、カミルスが死んだ。彼にロムルスに次ぐ二番目の名誉が授与された。

Ⅱ.5:(1)独裁官dictatorティトゥス・クインティウスが、イタリアに襲来していたガリア人たちに向けて派遣された(前三六一年)。彼らは首都から四(ローマ・)アイルのアニオ川対岸に陣取っていた。そこで、元老院議員たちの中で最も高貴な青年ルキウス・マンリウスは一騎打ちをsingulare certamen 挑発するあるガリア人に進みでて、(彼を)殺し、そして黄金の首輪をtorque aureo奪い、そして自分の首につけたので、永遠にトルクアトゥスの添え名をcognomen彼自身にも子孫にも受けた。 (2) ガリア人たちは追い払われfugati sunt、まもなくmox独裁官ガイウス・スルピキウスにそのうえetiam打ち倒された(三五八年)。ほどなくしてnon mulot postガイウス・マルキウスによりトゥスキ人たちが打ち倒され、そして彼らの中から捕虜八〇〇〇名が凱旋式へと連行された(前三五六年)。

Ⅱ.6:(1) 人口調査がcensus 再度iterum もたれた。そしてラテン人たちはローマ人たちによって支配されていたのだが、兵士たちを提供することを望まなかったので、ローマ人たちからのみ新兵たちは徴集された。そして一〇個軍団が編成され、その規模は武装兵たち六万かそれ以上に達した。依然としてローマ人たちの諸資源は貧しかったが、軍事においては高い武徳があった。 (2) 諸軍団が将軍duce ルキウス・フリウスによりガリア人たちに向かって進発させられたときprofectae essent、ガリア人たちの中のある者がローマ人たちの中に最強の人をと(一騎打ちを求めて)挑発した。 (3) その時tum、我こそはと軍団将校tribunus militum マルクス・ウァレリウスが名乗り出て、そして武装した彼が進み出た時、一羽のカラスがcorvus 彼の右腕の上に止まった。 (4)まもなくmox(一人の)ガリア人との闘いがpugna 始まると、その同じカラスは両翼と(両足の)爪でガリア人の両眼を彼はまっすぐに見れないように遮った。こうしてita彼は、(軍団)将校tribuno ウァレリウスによって殺害されinterfectus、勝利だけでなく彼にそのうえ名前もetiam nomen 与えたのだった。というのもその後nam postae 同人はコルウィヌス(カラス男)と呼ばれるようになったからである。加えてac この功績により、彼は二十三歳でもって執政官とされた(前三四八年)。

Ⅱ.7:(1)ラティニ人たちは兵士供出を望んでいなかったが、また(以下の)このことをローマ人たちから求め始めた、 一人の執政官が彼らから、もう一人がalter ローマ人たちの民衆からpopulo 選出されるべきである、と。 (2)それが拒否され、彼ら(ローマ人たち)に対する戦争が企てられ、諸々の激しい戦闘によって、彼ら(ラティニ人たち)は破られた(前三四〇年)。またac彼ら(ラティニ人たち)を完全に屈服させて凱旋式が挙行された。 (3)諸彫像が執政官たちのために戦勝の功績によって、演壇にRostris 置かれた。その年にそのうえeo anno etiam、アレクサンドリア(アレクサンドレイア)がマケドニア人アレクサンデル(アレクサンドロス)により創建された(前三二一年)。

Ⅱ.8:(1)今やiam ローマ人たちは強力になり始めた。というのもetiam、戦争は首都からほぼ一三〇(ローマ・)マイル離れたサムニウム人のところで行われていたからである。彼らはピケヌム、カンパニア、アプリアの間にいた。 (2)ルキウス・パピリウス・クルソルが独裁官の栄誉をもってcum honore その戦争へと進発したprofectus est(前三二五年)。彼がローマへ帰還しようとした際、彼が軍に残した騎兵長官magistro equitum クイントゥス・ファビウス・マクシムスに、自分の不在中には闘わないようにと指示していた。 (3) かの者は(ファビウス)ille機に乗じて最上の幸運に恵まれて干戈を交え、そしてサムニウム人たちを殲滅した。このことによってquam rem、彼は独裁官により格頭刑をcapitis宣告された、というのは彼が禁止されて(いたにもかかわらず)闘ったからであるが、兵士たちと民衆のpopuli 圧倒的な好意により解放された。パピリウスに対し大規模な暴動が扇動され、彼は殺されかけた。

Ⅱ.9:(1) その後postea、サムニテス人たちはローマ人たちへ、ティトゥス・ウェトゥリウスとスプリウス・ポストゥミウスの執政官在職年(前三二一年)に、巨大な恥辱で勝利し、そして軛の下に送った。しかしtamen 和平が、彼らと必要に迫られて結ばれていたが、元老院と民衆によって破棄された。その後postae サムニテス人たちは執政官ルキウス・パピリウスに打ち負かされ、彼らの(うちの)七〇〇〇名が軛の下に送られた。パピリウスはサムニテス人たちに対し凱旋式を挙行した[最初の人物であった:トイプナー版](前三一五年)。 (2)その頃eo tempore(前三一二年)、監察官censor アッピウス・クラウディウスがクラウディウス水道を引いて、アッピウス街道を敷設した。サムニテス人たちは、戦争が再開されて、クイントゥス・ファビウス・マクシムスを打ち負かし、三〇〇〇名の男たちを殺した(前二九二年)。その後postea、彼の父ファビウス・マクシムスが副官legatus となった時(前二九一年)、一方でサムニテス人たちを打ち負かし、他方で彼ら自身の多くの町を占領した。 (3) それからdeinde、両執政官のプブリウス・コルネリウス・ルフィヌスとマニウス・クリウス・デンタトゥスが、サムニウム人たちに対して送られ、諸々の激しい戦争で彼らと決着をつけた(前二九〇年)。 (4) そのときtum、彼らはサムニウム人たちと四十九年間にわたって行われた戦争を終えた。一つたりとも、ローマ人の武徳をより以上magis 試すような敵は、イタリア内に存在しなかった。

Ⅱ.10:数年が経過して(前284年)、再びiterum ガリア人たちの軍勢がcopiae 自らをローマ人たちに対して、トゥスキ人たちならびにサムニウム人たちと同盟を結んだ。しかし、彼らがローマへと進撃したとき、執政官グナエウス・コルネリウス・ドラベラにより消滅させられた(前二八三年)。

Ⅱ.11:(1)同じ頃eodem tempore、今でもiamイタリアの最遠部にいるタレントゥム人たちに戦争が通告された(前二八二年)。というのも、彼らがローマ人の使節団に対しlegatis 愚弄したからであった。彼らは、エピルス(エペイロス)の王ピュルス(ピロス)にローマ人に対する援軍を要請した、それは彼がアキレス(アキレウス)の後裔に由来する血統を結びつけていたからだった。彼はまもなくmoxイタリアへとやって来て(前二八一年)、かつそのとき初めてtumque primum、ローマ人たちは渡海してきた敵と干戈を交えることになったdimicauerunt。 (2) 彼に対し送られたのが、執政官プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌスであった(前二八〇年)。彼はピュルスの斥候たちを捕らえたとき、彼らを陣営を(くまなく)案内させ、全軍を見させ、かつそれからtumque 釈放するよう命じた。これは彼らがローマ人たちによってなされたことすべてを報告させるようにするためであった。すぐにmox 戦いの火ぶたが切られたため、まさにiam ピュルスは(戦いを)避けようとしたのだが、象の援軍によりelephantorumu auxilio、(ローマ軍を)打ち負かした。ローマ人たちは象などは未知の存在でビックリ仰天したのである。 (3)しかし夜が戦闘に終わりを告げたfinem dedit。ラエウィヌスはにもかかわらずtamen 夜陰に乗じて逃げ切った。ピュルスはローマ人たち一八〇〇名を捕らえ、そして彼らを最高の名誉でもって遇し、戦死者たちを葬った。彼は向こう傷と恐ろしい形相をして横たわっている死者たちを見て、天へと両手を差し伸べて、こう言ったといわれている。自分を全世界の主人とすることができたであろうに、もしこれほどの兵士たちが自分に与えられたなら、と。

Ⅱ.12:(1)その後、ピュルスは自分をサムニテス人たち、ルカニ人たち、そしてブルッティア人たちと結んで、ローマへ出陣し、あらゆる(場所)を鉄と火でもって荒らし、カンパニアを冦掠し、そしてプラエネステにやって来た、そこは首都から十八マイル(のところ)だった。 (2) まもなくmox、彼は(ローマ)軍への恐怖によって、それが彼を執政官とともに追跡していたからだが、カンパニアに退いた。 (3)(ローマの)使節団は、ピュルスのもとに捕虜たちの身請けについて(話し合うために)送られたが、彼により丁重に受け入れられた。彼は捕虜たちを身代金なしでローマへと送った。(ピュルスは)ローマ人たちの使節団の内の一人ファブリキウスが貧乏だと知った時、以下のことで彼に驚嘆した。それは、王国の四分の一で約束してpromissa(ファブリキウスを)惑わせて、彼のところへと寝返らせようと望み、かつ-que ファブリキウスによって軽蔑されたからである。 (4) そのゆえにquare、ピュルスはローマ人たちへの多大なる称賛でとらえられたので、和平を妥当な諸条件で求めて、一人の使者を送った、(その使者は)優れた男で、名をキネアスと(言った)。かくしてita、ピュルスがまさにiam兵力でもって占拠していたイタリアの地方を、保持しようとするものであった。

Ⅱ.13:(1) 和平は不調に終わった:ピュルスに元老院によって以下が返答された、彼とローマ人たちとは、彼がイタリアから撤退しない限り、和平をもつことはできぬ、と。 (2) そのときtum、ローマ人たちはピュルスが返還していたすべての捕虜たちについて、彼らは恥ずべき者たちとみなされると、決した、なぜなら彼らは武器を持って闘うことができたのに捕虜になったからで、また、彼らが殺された二名の敵の戦利品を持ち帰ることなしに、以前の地位には戻れない、と。かくしてピュルスの使者は引き返した。 (3) 彼にピュルスがローマをいかに見たかと問うたので、キネアスは、王たちの住まう場所のように私には見えました、と言った。つまりそれがほぼfere 全員(が王のごとく)であったのである、一人ピュルスがエピルスとギリシアの残り(の地方)では(そう)思われているが。 (4) ピュルスに対し送られた将軍たちはdices、執政官のプブリウス・スルピキウスとデキウス・ムスであった(前二七九年)。激闘がcertamine 始まると、ピュルスは負傷し、象たちは殺され、敵たちの二万名が打ち倒され、そしてローマ人たちからはたったtantum 五〇〇〇名だった。ピュルスはタレントゥムに追い払われたfugatus。

Ⅱ.14:(1)一年をおいてinteriecto anno、ピュロスに対しファブリキウスが送られた(前二七八年)。彼は以前prius 使節団の中にあって、王国の四分の一を約束されてもpromissa、惑わされなかった(人物である)。そのときtum、近くに(それぞれ)陣を彼自身と王は張っていたが、ピュルスの侍医medicus がある夜、彼の所にやって来て、薬物でveneno 自分がピュルスを殺すと約束したpromittens、もし自分と何らかの誓約をしてくれるならpolliceretur、と。その彼をファブリキウスは、拘束し、主人の所に連れ戻し、かつ-que ピュルスに以下を言うように命じた、侍医が彼の首級に対して保証したspopondisset ことどもを。 (2)そのときtum、彼に驚嘆した王が言ったと伝えられている。「まさしくファブリキウスこそ、太陽がその軌道から逸らされるよりも、名誉から逸らされうるほうが難しい」と。そのときtum 王はシキリアへと進発した(前二七八〜二七六年)。ファブリキウスは、ルカニ人たちとサムニテス人たちが打ち負かされたのでvictis、凱旋式を挙行した(前二七八年)。 (3) それからdeinde、執政官たち、マルクス・クリウス・デンタトゥスとコルネリウス・レントゥルスがピュルスに対し送られた(前二七五年)。クリウスは彼に対して奮戦しpugnavit、彼の軍隊を打ち倒し、彼自身をタレントゥムへと退け、陣営を占領した。その日一日で的の二万三〇〇〇名が打ち負かされた。クリウスは執政官在職中に凱旋式を挙行した。彼は初めてローマに象を四頭連れて帰った人物だった。ピュルスはそのうえetiam タレントゥムからまもなく撤退し(前二七四年)、ギリシアの都市アルゴスで殺された(前二七二年)。

Ⅱ.15:ガイウス・ファビウス・リキニウスとガイウス・クラウディウス・カニナの執政官在職年(前二七三年)、首都創建以来四六一年目(前二九三年)に、アレクサンドリア人たちの使節団がプトレマエウス(プトレマイオス)から送られ、そしてローマにやって来て、ローマ人たちから彼らが求めていた友誼関係を得た。

Ⅱ.16:クイントゥス・オグルニウスとガイウス・ファビウス・ピクトルの執政官在職年(前二六九年)に、ピケンテス人たちが戦争を扇動したが、そして次の執政官のプブリウス・センプロニウスとアッピウス・クラウディウスにより(前二六八年)、打ち負かされた。そして彼らに対し凱旋式が挙行された。ローマ人たちにより創建されたのは、ガリアでアリミヌス、サムニウムでベネウェントゥムの諸都市だった(前二六八年)。

Ⅱ.17:マルクス・アティリウス・レグルスとルキウス・ユリウス・リボの執政官在職年(前二六七年)に、アプリア内のサレンティニ人たちに対し戦争が宣言され、かつプルデンシニ人たちは同時にsimul 都市と共に占領され、そして彼らに対し凱旋式が挙行された。

Ⅱ.18:(1)(都市創建以来)四七七年目(前二七七年)、まさにiam 首都ローマの令名冠たるものがあった時、とはいえtamen 軍勢arma がイタリア外へ動員されたことはなかった。 (2) かくしてigitur、どれほどローマ人たちの諸部隊copiae があるかということを確認するために、人口調査が執り行われた。そのときtum 明らかになった市民の頭数は二十九万二三三四名であった、首都創建以来諸々の戦争が中断したことは何にもかかわらず。 (3) そして、アフリ人たちに対して戦争が初めてprimum 企てられた、アッピウス・クラウディウスとクイントゥス・フルウィウスの執政官在職年(のこと)だった。シキリアで彼らに対して会戦が行われpugnatum est、そしてアッピウス・クラウディウスがアフリ人たちとシキリア王ヒエロ(ヒエロン)に対し凱旋式を挙行した。

Ⅱ.19:(1)翌年insequenti anno、ウァレリウス・マルクスとオタキリウス・クラッススの執政官在職年(前二六三年)に、シキリアでローマ人たちにより数々の偉業が達成された。タウロメニタニ(タウロメニオン)人たち、カティネンセス(カタネ)人たち、そしてさらにpraeterea五〇の諸都市が誓約をもって(ローマによって)受け入れられた。 (2)三年目(前二六二年)に、シキリア内でのシクリ人たちの王ヒエロに対する戦争が準備された。彼はシュラクサエ人たちの全貴族ともども和平をローマ人たちから得て、かつ銀二〇〇タラントゥムを支払った。 (3)アフリ人たちはシキリア内で打ち負かされ、そして彼らに対しローマで二度目の凱旋式が挙行された。

Ⅱ.20:(1) アフリ人たちに対して行われていたポエニ戦争の五年目(前二六〇年)、初めてprimum ローマ人たちはガイウス・ドゥイリウスとグナエウス・コルネリウス・アシナの執政官在職年(前二六〇年)に、(ローマ人たちは)海で干戈を交えることとなったdimicaverunt。彼らがリブルナと呼んでいる衝角を付けた軍船が準備されたからである[第2節の叙述から、ここでは衝角よりもむしろ「カラス corvus」のほうがふさわしいかもしれない]。

corvus戦術

(2) 執政官コルネリウスは策略によりfraude 欺かれた。ドゥイリウスは戦闘をproelio 始めて、カルタゴ人たちの一人の将軍をducem 打ち負かし、彼は三十一艘の軍船を捕らえ、十四艘を沈め、七〇〇〇名の敵を捕らえ、三〇〇〇名を殺した。ローマ人たちにとってこれ以上に満足できる勝利は何もなかった。というのも、陸で無敵の彼らが、今やiam etiam 海上でも優勢となることができたからである。 (3) ガイウス・アクイリウス・フロルスとルキウス・スキピオの執政官在職年(前二五九年)に、スキピオはコルシカとサルディニアを荒らし、そこから何千もの捕虜を引っ立て、凱旋式を行った。

Ⅱ.21:(1) ルキウス・マンリウス・ウルソとマルクス・アティリウス・レグルスの執政官在職年(前二五六年)に、戦争がアフリカに移された。カルタゴ人たちの将軍ハミルカルに対し海で戦闘が行われ、かつ彼は打ち負かされた。というのもnam 六十四席の軍船を失って、後方にretro 彼は退いたからである。ローマ人たちは二十二を喪失した。 (2) しかしsed彼らがアフリカに渡っていて、最初のアフリカの都市クリュペアを降伏へと受け入れた。執政官たちはカルタゴまで進軍し、かつ多くの砦を荒廃させ、勝利者マンリウスはローマへと戻り,捕虜たちの二万七〇〇〇名を連れ帰り、アティリウス・レグルスはアフリカ内に留まった。 (3) 彼はアフェル人たちに対し戦列を整えた。三名のカルタゴ人たちの将軍たちducesに対し干戈を交え,勝利者となった。彼は敵たちの一万八〇〇〇名を倒し、五〇〇〇名を一八頭の象と共に捕らえ、七十四都市を誓約をもって受け入れた。 (4) そのときtum、打ち負かされたカルタゴ人たちは和平をローマ人たちから求めた。それをレグルスはきわめて苛酷な条件でなければ与えることを望まなかったので、アフェル人たちは 援助をラケダエモニ人たちから求めた。そして、ラケダエモニ人たちから送られていた将軍duce クサンティップス(クサンティッポス)によりローマ人たちの将軍dux レグルスは徹底的にultima 打ち負かされた(前二五五年)。 (5) というのもnam 全ローマ軍勢のうちわずか二〇〇〇名が逃げ、五〇〇名が最高軍事司令官imperatore レグルスもろとも捕らえられ,三万名が殺され、レグルス自身鎖の中に繫がれたからである。

Ⅱ.22:(1)マルクス・アエミリウス・パウルスとセルウィウス・フルウィウス・ノビリオルの執政官在職年(前二五五年)に、両ローマの執政官たちはアフリカに三〇〇隻の軍船の艦隊と共に進発した。 (2)まず彼らはアフリ人たちを軍船の闘いでnavalis certamen 制圧した。執政官アエミリウスは敵たちの船一〇四隻を撃沈し、三〇隻を戦闘員もろとも拿捕し、敵たちの一万五〇〇〇名をあるいは殺し、あるいは捕らえるかし、彼自身の軍隊をmilitem 膨大な利得で豊かにしてやった。そして、このときにアフリカは征服されていたであろう、もしより長く軍隊がexercitus 待てないほどの飢餓がなかったならば。 (3) 執政官たちは、勝利を得た艦隊と共に戻っていて、シキリア付近で難破した。そして非常に激しい嵐だったので、四六四隻の軍船のうちわずかtantum 八〇隻しか救えなかった。いかなる時にもそれほどに猛烈な海の時化は耳にされたことはなかった。 (4) ローマ人たちは、それにもかかわらずtamen すぐにstatim 二〇〇隻の軍船を再建造し、誰においても精神はこれらの出来事により打ちのめされなかった。

Ⅱ.23:(1) 執政官のグナエウス・セルウィリスゥ・カエピオとガイウス・センプロニウス・ブラエススが二六〇隻の軍船と共にアフリカへと進発した(前二五三年)。若干のaliquot 諸都市を彼らは占領した。彼らは莫大な戦利品を持ち帰る最中に、難破した。 (2) そしてかくしてitaque、たび重なる損害はローマ人たちにとって好ましいものではなかったので、元老院は以下を決議した。諸々の海戦からは手を引かざるを得ないこと、そして僅か六〇隻の軍船がイタリア防衛のためにとっておかれること、を。

Ⅱ.24:(1)ルキウス・カエキリウス・メテルスとガイウス・フリウス・プラキドゥスの執政官在職年(前二五一年)に、メテルスはシキリアで、アフリ人たちの一将軍をducem一三〇頭の象と大部隊とともにやって来たが破り、敵の二万人を倒し、二十六頭の象を捕らえ、残りのうろついていた(象)を集めたが、それは彼が援軍の中に持っていたヌムディ人たちの手を借りてのことだった、そしてローマへとそれらを長大な行列に従えて連れ戻った。というのも、一三〇頭という象の数が、道中を埋め尽くしたからである。 (2)これら諸々の惨事の後、カルタゴ人たちは彼らが捕らえていた将軍ducemレグルスに対し以下を求めた。ローマへと進発し、そして和平をローマ人たちから得て、そしてac捕虜たちの交換を行うように、と。

Ⅱ.25:(1) 彼がローマへとやって来たとき、元老院内に通された彼は、ローマ人ではないかのように振る舞い、かつ言った、自分はアフリ人たちの権力内に落ちたあの日から、ローマ人であることを止めたのだ、と。 (2)そしてかくしてitaque et 妻を抱擁から遠ざけ、そして元老院に、和平がポエニ人たちと結ばれてはならない、と説得した。というのもenim,彼らは多くの災難で意気消沈しており、もはや希望を持っていないからだ、自分はそれのほどの者ではない、何千もの捕虜たちが、たった一人の老人の自分と僅かな者たちのために戻されるほど。そしてかくしてitaque 彼は(望んだとおりの結果を)得た。というのも和平を求めるアフリ人たちを誰も聞き入れなかったからである。 (3) 彼自身は、カルタゴへと戻り、かつ彼にローマに留まるようにと申し出たローマ人たちに対し、自分がその首都に滞在することを断った、そこの中においては、アフリ人たちに服した後では、名誉ある市民の尊厳を保持できないからである、と。彼はこうしてigitur アフリカへと戻り、あらゆる拷問により滅ぼされた(前二五〇年)。

Ⅱ.26:(1) プブリウス・クラウディウス・プルケルとルキウス・ユニウスの執政官在職年(前二四九年)に、クラウディウスは鳥占いに反してcontra auspicia闘い、そしてカルタゴ人たちにより打ち負かされた。というのもnam、二二〇隻の軍船のうち三〇隻と共に彼(Claudius)は逃亡し、九〇隻は海兵もろとも拿捕され、残りは沈められたからであるdemersae。 (2) もう一人の執政官もまたquoque 難破により艦隊を喪失したが、それにもかかわらずtamen 軍隊を無傷で保持した、というのは近くに浜辺があったからである。

Ⅱ.27:(1) ガイウス・ルタティウス・カトゥルスとアウルス・ポストゥミウス・アルビヌスの執政官在職年、プニキ(ポエニ)戦争の二十三年目(前二四二年)に、カトゥルスにより戦争がアフリ人たちに対して始められた。彼は三〇〇隻の軍船と共にシキリアへと進発し、アフリ人たちは彼に対し四〇〇隻を用意した。(2)決してnumquam 海においてこれほどの諸部隊によるcopiis 戦いが行われたことはなかった。ルタティウス・カトゥルスは病んだまま一つの軍船に乗船した、というのもenim、彼は以前の戦いで負傷していたのである。シキリアの都市リリュバエウム(現マルサラ)に対し、ローマ人たちの素晴らしい武徳で戦われた。 (3)というのもnam、六十三隻のカルタゴ人たちの軍船が拿捕され、一二五隻が沈められ demersae、敵たちの三万二〇〇〇名が捕らえられ、一万三〇〇〇名が倒され、数え切れないほどの金、銀、戦利品が、ローマ人たちの権限の中に置かれた。ローマ艦隊のうち、十二隻の軍船が沈められたdemersae。それが戦われたのは、三月十日のことだった(前二四一年)。 (4) 直ちにstatim 和平をカルタゴ人たちは求め、かつ-que 彼らに和平が許諾された。ローマ人たちの捕虜たちーーカルタゴ人たちの下に置かれていたーーが戻されたredditi sunt。さらにetiam、カルタゴ人たちは捕虜ーーアフリ人たちの中(の捕虜)でローマ人たちがもっていたーーを買い戻すことを許可するよう求めた。 (5) 元老院は以下の事を命じた、代価なしで誰でも、国家の管理下にある者たちは与えられる、さらにautem 私人たちによって保持されている者たちは、主人たちに代価が補填されればカルタゴへと戻され、そしてかつatque その代価はカルタゴ人たちよりむしろ(ローマの)国庫から支払われること、と

Ⅱ.28:クイントゥス・ルタティウスとアウルス・マンリウスが執政官たちに選出され(前二四一年)、(彼らは)ひとつの戦争をファリスキ人たちに起こした[・・・に兵を挙げた]。彼らの都市はcivitas かつてquondam イタリアで裕福だった。その(戦争)を両執政官はやって来てから六日以内に片付け、敵たちの一万五〇〇〇人を倒し、他の者たちには和平が赦し与えられたにもかかわらずtamen、土地の半分が奪われた。

第三巻

Ⅲ.1:(1) かくしてigniter 二十三年にわたり続いた(前二六四〜二四一年)プニキ(ポエニ)戦争が終結するとfinito ・・・tractum est、ローマ人たちはいまやiam 傑出した栄光によって知られるようになったが、アエギュプトゥス王プトロマエオスに使者を送って、援軍を約束した、というのはquia シュリア王アンティオクスが彼に戦争を起こしていたからである。彼はローマ人たちに感謝をしたが、ローマ人たちからの援軍は受け入れなかった。 (2) いまやiam すでにenim 戦いは終わっていたからだった。同じ頃、強勢を誇るシキリア王ヒエロがローマを競技を見物すべく訪れ、そして二〇万モディウスの小麦の贈り物を民衆に与えた。

Ⅲ.2:ルキウス・コルネリウス・レントゥルスとフルイウス・フラックスの執政官在職年(前二三七年)に、この時ヒエロがローマに来ていたのだが、すでにetiam イタリア内でリグレス人たちに対しても戦争が行われ、彼らから凱旋式が挙行された。カルタゴ人たちは、しかしtamen 戦争を再開しようと試み、サルディニア人たちに反乱を起こすように唆した、彼らが和平の条件によってローマ人たちに服属しなければならなかったからだ。だがtamen ローマへとカルタゴ人たちの使節団が訪れ、そして和平を得た。

Ⅲ.3:ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥスとガイウス・アティリウス・ブルクスの執政官在職年(前二三五年)に、サルディニア人たちからの凱旋式が挙行され、そして和平が全地で達成され、ローマ人たちはまったく戦争をしなかった。それは彼らにとってローマ創建以来、ヌマ・ポンピリウス王の治世にたった一度semel tantum あっただけである。

Ⅲ.4:ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスとグナエウス・フルウィウス・ケントゥマルスが執政官として、戦争をイリュリア人たちに対しておこなった(前二二九年)、そして多くの都市をciuitatibus 攻略し、そのうえetiam 諸王から降伏までも受け入れた。そしてac このときtum 初めてイリュリア人たちからの凱旋式が挙行された。

Ⅲ.5:ルキウス・アエミリウスが執政官のとき(前二二五年)、ガリア人たちのおびただしい部隊がcopiaeアルペスを越えてやって来た。しかし、ローマ人たちのために全イタリアが一致協力し、かつ伝えられているところでは、かの戦争に居合わせた歴史家ファビウスによると、八〇万の人々がこの戦争のために召集された。しかしsed 事態はかの執政官のためにこれほど上首尾に運ばれた、(すなわち)四万人の敵兵が殺害され、そして凱旋式がアエミリウスのために決議された。

Ⅲ.6:(1) 次いでdeinde 数年後にaliquot annis post、ガリア人たちに対してイタリア内で戦いが行われ、かつ-que 戦争はマルクス・クラウディウス・マルケッルスとグナエウス・コルネリウス・スキピオの執政官在職年(前二二二年)に終結した。それからtum マルケッルスはわずかな騎兵の手勢で白兵戦を展開し、そしてガリア人たちの王、ウィリドマルスという名前の者を彼自身の手で殺した。 (2) その後postea 彼は同僚(スキピオ)とともにガリア人たちのおびただしい部隊をcopias 殲滅し、メディオラヌム(現ミラノ)を攻略し、莫大な戦利品をローマへともたらした。そしてac 凱旋式を挙げるとき、マルケッルスはガリアの戦利品を棒で彼自身の両肩に担いで運んだ。

Ⅲ.7:(1) マルクス・ミヌキウス・ルフスとプブリウス・コルネリウス(・スキピオ)の執政官在職年(前二二一年)に、ヒストリ人たちに対して戦争が引き起こされた。というのも穀物を運んでいたローマ人たちの船(pl.)に対して彼らが海賊行為を働いていたからである。かつ、彼らすべてが完全に征服された。 (2) 同年、第2次プニキ(ポエニ)戦争が、ローマ人たちに対してカルタゴ人たちの将軍ハンニバルによって引き起こされた。彼はヒスパニアのローマ同盟都市viuitatem amicam サグントゥムを攻囲し始めたが、二〇歳という時期を過ごしていて、そのため十五万もの部隊が召集されたのである。 (3) その彼に対し、ローマ人たちは使節団を介して戦争を自粛するよう警告した。彼は使節団を引見するのを望まなかった。ローマ人たちはカルタゴにも(使節団を)送ったが、これはローマ市民の同盟者たちに対して戦争をしないようにと、ハンニバルに命じられるためであった。冷淡な諸回答がカルタゴ人たちから返ってきた。サグントゥム人たちはその間にinterea 飢餓のために打ち負かされ、かつハンニバルによって占領され、極刑に処される(前二一九年)。

Ⅲ.8:(1) そのときtum プブリウス・コルネリウス・スキピオは軍と共にヒスパニアへと、ティベリウス・センプロニウスはシキリアへと進発した。戦争がカルタゴ人たちに対して宣言された。 (2) ハンニバルは、兄弟ハスドルバルをヒスパニアにの故地、ピュレネーを越えた。アルペスはその上そのときadhuc tum その部分に道がなかったので、(彼が)自ら切り開いた。伝えられるところでは、彼はイタリアへ歩兵八万、騎兵一万、そして三七頭の象を率いてきた。その間にinterea 多くのリグレス人たちやガキア人たちがハンニバルと同盟を結んでいた。センプロニウス・グラックスは、イタリアにハンニバルが到着したことを知ると、シキリアから軍をアリミヌム(現リミニ)へと移動させた。

Ⅲ.9:(1) プブリウス・コルネリウス・スキピオがハンニバルに初めてprimus 対峙した。戦闘が始まると、彼の兵士たちは追い払われfugatis suis、自身も負傷して陣営へ戻った。センプロニウス・グラックス自身もトレビア河畔で干戈を交えた(前二一七年)。彼もまた打ち負かされる。ハンニバルに多くの者がイタリア内で降伏した。 (2) 次いでinde トゥスキアへと行くと、ハンニバルは執政官フラミニウスに対峙した。フラミニウス自身を彼は片づけた。ローマ人たちの二万五〇〇〇人が倒され、残りは散り散りになった。ハンニバルに対して次にpostea ローマ人たちによって派遣されたのが、クイントゥス・ファビウス・マクシムスだった。彼は彼を、戦いを避け、逸る気持ちを抑えて、機会を見いだすやまもなくmox 打ち破った。

Ⅲ.10:(1) 首都創建以来五四〇年(前二一六年)に、ルキウス・アエミリウス・パウルスと プブリウス・テレンティウス・ウァッロがハンニバルに対して送られる、かつファビウスを継ぐ。そこでqui ファビウスは両執政官に、抜け目ないが性急な将軍ハンニバルを打ち負かすには、戦闘を避ける以外にお前たちに勝利はない、と戒めた。 (2) しかしverum 執政官ウァッロの性急さにより、もう一人の執政官、すなわちアエミリウス・パウルスが反対したにもかかわらず、アプリアのカンナエと呼ばれている村でvicum 戦いが行われ、両執政官はハンニバルによって打ち負かされる。  (3) この闘いで、アフリ人たちの内の三〇〇〇が命を落とし、ハンニバル軍の大部分が負傷を受ける。しかしtamenポエニ戦争においてローマ人たちがこれ以上に損害を被ったことはなかった。というのもenim この(戦いで)、執政官アエミリウス・パウルスが命を落とし、そして執政官級と法務官級で二〇名、元老院議員三〇名が捕虜とされたり、またはaut 殺され、貴族の男たち三〇〇、兵士四万、騎兵三五〇〇にのぼったからである。かくのごとき逆境に遭っても、しかしtamen ローマ人たちの中で誰ひとりとして和平を口にしようとする者はいなかった。奴隷たちが、以前には決してなかったことだが、解放されそして兵士とされた。

Ⅲ.11:(1) この闘いの後、ローマ人たちに従っていた多くのイタリア諸都市がハンニバルへと鞍替えした。ハンニバルはローマ人たちに捕虜たちを買い戻すよう提案したが、かつ元老院から返答されたのは、武装していながら捕虜とされてしまうような者たちは必要ない、と。彼はすべての者をその後postea さまざまな責め苦を与えて殺害死、そしえ指輪の金三モドゥスをカルタゴに送ったが、それはローマ人たちの騎士身分、元老院議員、そして兵士たちの手から奪ったものだった。 (2) この間にinterea ヒパニアでは、ハンニバルの兄弟ハスドルバルがその(スペイン)全土をアフリ人たちに従わせるために、大軍とともに残留していたが、ローマの将軍である二人のスキピオたちによって打ち負かされる。彼はその戦いで三万五〇〇〇の兵を失う。すなわち、彼らのうち一万が捕らえられ、二万五〇〇〇が殺される。彼にカルタゴ人たちから、戦力補充のため一万二〇〇〇の歩兵と四〇〇〇の騎兵、二〇頭の象が送られる(前二一八〜二一五年)。

Ⅲ.12:(1) イタリアへハンニバルが来て四年目(前二一四年)、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスが、カンパニアの都市ciuitatemノラでハンニバルに対して善戦した。ハンニバルはアプリア、カラブリア、ブリッティイのローマ人たち(側)の多くの諸都市をciuitates 占領した。 (2) この時、そのうえetiam マケドニアの王フィリップス(フィリッポス)も彼に使節団を送った。彼がローマ人たちに対する援軍を以下の条件下で約すためだった、すなわちローマ人たちを殲滅したら、彼(フィリップス)自身もquoque  ギリシア人たちに対してハンニバルから援軍を受ける、と。 (3) かくしてigitur フィリップスの使節団は捕まってしまい、そしてことが露見すると、ローマ人たちはマケドニアにマルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスを、サルディニアに前執政官proconsulem ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥスを行かせることを決した。それというのもnam そのうえetiam そこ(サルディニア)もハンニバルによって惑わされ、ローマ人たちを見限っていたからである。

Ⅲ.13:(1) かくてita、一度に四箇所で戦いが行われていた。イタリアではハンニバルに対して、ヒスパニア諸州では彼の兄弟ハスドルバルに対して、マケドニアではフィリップスに対して、サルディニアではサルディ人たちそして別のカルタゴ人ハスドルバルに対して。 (2) 彼(ハスドルバル)は、サルディニアに派遣されていた前執政官のティトゥス・マンリウスによって生きたまま捕らえられたが、彼とともにいた一万二〇〇〇人が殺され、一五〇〇人が捕虜とされ、そしてローマ人たちによってサルディニアは征服された。勝利者マンリウスは捕虜たちとハスドルバルをローマに連れ帰った。 (3) この間にinterea そのうえetiam フィリップスはラエウィヌスによってマケドニアで打ち負かされ、そしてヒスパニアではスキピオたち(兄弟)によってハスドルバルとマゴ、(すなわち)ハンニバルの三番目の兄弟が(打ち負かされる)。

Ⅲ.14:(1) ハンニバルがイタリアへやって来てから一〇年目、プブリウス・スルピキウス・とグナエウス・フィルウィウスの執政官在職年(前二一一年)に、ハンニバルは首都から第四里程標のところまで、彼の騎兵隊は一つの市門のところまでad portam 迫った。直ちにmox 執政官たちは軍隊を率いて来て、(その)脅威のためハンニバルはカンパニアへと退いた。 (2) ヒスパニアでは、(ハンニバルの)兄弟ハスドルバルによって、両スキピオ、彼らは長年にわたって勝利者たちであったが、殺害される。軍隊はだがtamen 無傷のまま残った。というのはenim 武徳というよりもむしろ不運のゆえに、彼ら(両名)は欺かれたからである。 (3) この頃、のみならずetiam 執政官マルケッルスによってシキリアの大部分が占領された(前二一四〜一年)、(それは)そこをアフリ人たちが手中に収めようとしていたので、そして非常に名高いシュラクサエの都市urbs が(占領され)、莫大な戦利品がローマに持ち去られた。 (4) ラエウゥヌスはマケドニアでフィリップスとそして多くのギリシアの諸市民、アシア王アッタルス(アッタロス)と友誼を結ぶと、シキリアへと進発し、ハンノ某、アフリ人たちの将軍を都市ciuitatem アグリゲントゥムで、その町oppido ともども捕らえた(前二一〇年)。(ラエウィヌスは)彼をローマへと捕虜になった(アグリゲントゥムの)貴族たちとともに送った。彼は四〇の諸都市のciuitates 降伏を受け入れ、二六(の諸都市)を攻略した。 (5) かくしてita 全シキリアは取り戻され、マケドニアは押さえ込まれ、彼(ラエウィヌス)は栄光と共にローマへと帰還した。ハンニバルはイタリアで執政官グナエウス・フルウィウスを急襲し、八〇〇〇の兵士たちともども彼を殺害した。

Ⅲ.15:(1) その間にinterea ヒスパニア諸州では、二人のスキピオが殺されてローマの将軍が誰もいなくなったので、プブリウス・コルネリウス・スキピオ、(すなわち)同じ場所でibidem 戦争を遂行していたプブリウス・スキピオの息子が 送られる(前二一〇年)。(息子の)彼は二四歳だったが、あらゆるローマ人たちのうちで、そして彼の時代においても後代においても、ほぼfere 第一の者である。 (2) 彼はヒスパニアのカルタゴ(カルタゴ・ノヴァのこと)を占領する、その地にあらゆる物、すなわち金、銀そして戦闘用具をアフリ人たちは持っていたし、非常に高貴な人質たちobsides をもquoque 持っていた、(アフリ人たちは)彼らをヒスパニア人たちから受け取っていたのだ。 (3) ハンニバルの兄弟マゴまでもetiam 彼は同じ場所でibidem 捕らえて、彼をローマへ他の者たちと共に送る。ローマではこの上ない歓喜がその通知の後にあった。スキピオはヒスパニア人たちの人質たちを親元へと帰した。それゆえにquare ほぼfere すべてのヒスパニア諸州が心を一つにして彼へと鞍替えしたのである。これらの後に、ハンニバルの兄弟ハスドルバルを、彼(スキピオ)は打ち破って、しりぞけ、そして多くの戦利品を獲得する。

Ⅲ.16:(1) その間にinterea イタリアでは、執政官クイントゥス・ファビウス・マクシムスが、タレントゥムを取りもどした(前二〇九年)、(がイタリアにはまだ)ハンニバルの夥しい部隊がいた。そこでibi 彼はハンニバルの将軍カルタロをも殺し、補助二万五〇〇〇人を売却し、戦利品を兵士たちに分配して、(捕虜の)人々を売った代金を国庫へと納めた。それからtum ハンニバルに以前鞍替えしていたローマの多くの都市が、またもやrursus ファビウス・マクシムスに身を委ねた。 (2) 翌年insequenti anno(前二〇八年)、スキピオはヒスパニアで自らも、そして彼の兄弟ルキウス・スキピオによっても、赫々たる業績をあげた。(すなわち)七〇の諸都市を取り戻したのである。しかしtamen イタリアでの戦いは不首尾だった。というのもnam、執政官クラウディウス・マルケッルスがハンニバルによって殺されたからである。

Ⅲ.17:スキピオがヒスパニア諸州へと進発してから三年目(前二〇六年)に、彼はまたもやrursus 人口に膾炙したことどもを行う。(すなわち)あるヒスパニア(部族の)王を大きな戦争で打ち負かし、友誼へと受け入れ、そして敗者から人質たちを要求しなかったすべての人々の最初となった。

Ⅲ.18:(1) ハンニバルはヒスパニア諸州をスキピオに対してこれ以上保持することはできないと絶望し、自分の兄弟ハスドルバルをイタリアへと全部隊とともに召喚した。 (2) 彼は、ハンニバルが到来したその同じ経路でやって来て、執政官たちアッピウス・クラウディウス・ネロとマルクス・リウィウス・サリナトルによってピケヌムの都市セナで仕掛けられた奸計に陥ってしまった(前二〇七年)。彼は懸命に闘ったが、にもかかわらずtamen 殺されてしまった。彼の夥しい部隊は捕虜とされたりあるいはaut 殺害されたりして、かなりの重さの金や銀がローマへと運ばれた。 (3) それからpost hac ハンニバルは今やjam 戦争の行く末に疑念を抱き始めた。ローマ人たちの間では大いなる自信がingens aminus 高まっていた。かくしてitaque 彼ら(ローマ人たち)もet ipsi ヒスパニアから プブリウス・コルネリウス・スキピオを召喚した(前二〇六年)。彼はローマへと大いなるingenti 栄光と共にやって来た。

Ⅲ.19:クィントゥス・カエキリウスとルキウス・ウァレリウスが執政官たちの時(前二〇六年)に、ブリッティイでハンニバルによって保持されていた全都市が、ローマ人たちに身を委ねた。

Ⅲ.20:(1) ハンニバルがイタリアへとやって来てから十四年目に(前二〇五年)、スキピオは、多くのことを上首尾にヒスパニア内で成し遂げていたので、執政官とされ、そしてアフリカへと送られた。この人物には神的な何かが内在していると考えられており、彼は神霊らとさえもetiam 会話すると思われていたほどだった adeo ut 。 (2) 彼はアフリカで、アフリ人たちの将軍ハンノと戦い、彼の軍隊を滅ぼす(前二〇四年)。二度目の戦闘で彼は陣営を四五〇〇人の兵士もろとも占領し、そして一万一〇〇〇人を殺し(前二〇三年)、ヌミディア王シュファックスを、彼がアフリ人たちと同盟を結んでいたが、捕らえ、そして彼の陣営を襲う。シュファックスは、非常に高貴なヌミディア人たちと無数の戦利品とともに、ローマへとスキピオにより送られる。  (3) このことを聞くと、ほぼfere すべてのイタリアがハンニバルを見捨てる。彼(ハンニバル)自身は、カルタゴ人たちにより、スキピオが荒らしていたアフリカへと帰還するように命じられる。

Ⅲ.21:(1) かくしてita 十七年目にしてハンニバルからイタリアは解放された(前二〇三年)。カルタゴ人たちの使節団が和平をスキピオに請うた。 (2) 彼(スキピオ)により彼ら(使節団)はローマ元老院に送られた。四十五日間にわたり、休戦が承諾されたが、それは彼らがローマへと行ってそして帰ってくることができる程度の期間で、そして三万ポンドの銀が彼ら(使節団)によって受け入れられた。元老院は、スキピオの判断で和平をカルタゴ人たちとなすよう、命じた。 (3) スキピオは以下の諸条件で(和平を)承諾した:(カルタゴ人たちは)三十隻より多くの(軍)船を保有しないこと、そのためut (カルタゴ人たちは)五〇万ポンドの銀を支払い、(ローマ軍の)捕虜たちと脱走兵たちを返還すること、である。

Ⅲ.22:(1) とかくするうちにinterim ハンニバルがアフリカへとやって来たため、和平はかき乱され、アフリ人たちから多くの敵意が生じた。 (2) 使節団はしかしtamen 首都から戻ってきて、ローマ人たちによって捕らえられ、そしてスキピオが命じて放免された。ハンニバルもquoque たびたび諸戦闘で打ち負かされ、スキピオからさらにetiam 彼自身和平を請う。会談に至ると、以前と同じ諸条件で(和平が)承諾された、(ただし)以前の銀五〇万ポンドに、一〇万リブラ(≒ポンド)が加えられることになった、新たな背信のゆえに。(これらの)諸条件はカルタゴ人たちには気に入らず、そしてハンニバルに戦うよう彼らは命じた。スキピオとマシニッサ、もう一人のヌミディア人たちの王で、彼はスキピオと友誼を結んでいたが、彼らによってカルタゴへの戦争が勃発した。ハンニバルは、三名の斥候たちをスキピオの陣営へと送ったが、捕らえられた彼らを、スキピオは(以下のようにするように)命じた、陣営中連れ回し、そして彼らに全軍をみせ、その後mox そのうえetiam 食事を与えて、そして釈放するように、と。(それは)彼らがハンニバルにローマ人たちの所で見たことを伝えるようにするためだった。

Ⅲ.23:(1) この間にinterea 戦闘が両将軍によって準備されていたが、(その準備は)ほとんどuix 何らulla 記録が(残されてい)ないほどのものだった。というのも最も熟練した人物たちが自身の諸部隊を戦争に率いていたからである。スキピオは勝者として帰還し、ハンニバルは危うく paene 捕虜になりかけた。彼は初めは多くの騎兵たちとともに、次いで二十騎とともに、最後に四騎とともに脱出した。 (2) ハンニバルの陣営内で銀二万ポンド、金八〇(ポンド)の他cetera さまざまの装備品が見つかった。この激闘の後、和平がカルタゴ人たちとなった。スキピオはローマへと帰還し、比類なき栄光と共に凱旋式を挙行し、かつまたatque アフリアヌスとこのことゆえに呼ばれ始めた。 (3) 第二次ポエニ戦争は勃発から十九年目を経て終幕を迎えた。

第四巻

Ⅳ.1:ポエニ戦争が片付いて transacto、続けて行われたのは、マケドニア(戦争)で、フィリップス王に対して、首都創建以来五五一年目のことだった。

Ⅳ.2:ティトゥス・クインティウス・フラミニウスは、フィリップスに対して上首尾に事を運んだ rem prospere gessit(前一九七年)。和平が彼(フィリップス)に対して以下の諸(講和)条件でhis legibus 与えられた、(すなわち)ローマ人たちが彼に対して防衛したギリシア諸都市に戦争を仕掛けないことinferret、(ローマの)捕虜たちと脱走兵たちを返還すること、五〇隻の軍船だけsolas naues を持ち、残りはローマ人たちに引き渡すこと、一〇年間にわたり銀四〇〇〇ポンドを提供し、そして人質として彼の息子デメトリウス(デメトリオス)を差し出すこと。 (2) ティトゥス・クインティウスはさらにetiam ラケダエモニイ人たちにも戦争を仕掛けたintulit(前一九五年)。彼は彼らの将軍ナビスを打ち負かし、そして彼が望んだ諸条件で帰順を受け入れた。彼は破格の栄光により、戦車の前に最高の貴顕な人質たち、フィリップスの息子デメトリウスとナビスの(息子)アルメネスを引き立てたのである。

Ⅳ.3:(1) マケドニア戦争が片付いて、続いて行われたのがシュリア(戦争)で、アンティオクス(アンティオコス)王に対するものだった。プブリウス・コルネリウス・スキピオとマニウス・アキリウス・グラブリオの執政官在職時(前一九一年)のことである。 (2) このアンティオクスにハンニバルは結びついていた。(ハンニバルは)自身の祖国カルタゴをローマ人たちに引き渡されないかと心配して、捨てていたのである。マニウス・アキリウス・グラブリオはアカイアで善戦した。アンティオクス王の陣営は夜戦で占領され、彼自身は追い払われたfugatus。フィリップスは、アンティオクスに対峙しローマ人たちに援軍を提供したので、息子デメトリウスは返還された。

Ⅳ.4:(1) ルキウス・コルネリウス・スキピオとガイウス・ラエリウスの執政官在職時に(前一九〇年)、スキピオ・アフリカヌスは、自身の兄弟である執政官ルキウス・コルネリウス・スキピオの代理官legatus として、アンティオクスに対して進発した。ハンニバルは、アンティオクスとともにいたが、艦隊戦でnauali proelio 打ち負かされた。 (2) その後postea、アンティオクス自身もアシアの都市、マグネシア・アド・シピュルスで、執政官コルネリウス・スキピオによって激闘の末、撃破された。ローマ人たちにこの戦いで援軍したアッタルス(アットロス)王の兄弟エウメネスは、フリュギアにエウメニアを創設した。五万の歩兵、三〇〇〇の騎兵がその激闘でeo certamine(アンティオコス)王側で殺された。 (3) その後tum 、

Ⅳ.5:(1) (2)

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第五巻

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Ⅴ.2:(1) (2)

Ⅴ.3:(1) (2)  (3) (4)

Ⅴ.4:(1) (2)

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Ⅴ.6:(1) (2) 

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第六巻

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Ⅵ.22: (1) (2)

Ⅵ.23:(1) (2) (3)

Ⅵ.24:

Ⅵ.25:

第七巻

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忙中閑あり:今日の読書『しょぼい喫茶店の本』

 例の如く行き当たりばったりのテレビで、妙なドキュメンタリーを途中からみた。10/13(日)の午後「ザ・ノンフィクション」で「好きなことだけして生きていく 後編」。そこでの主役は京都でシェアハウスを10年あまりやっていたpha(ファ)氏が、40歳になったのを期に、猫と一緒の一人暮らしを始めた、という内容。「働きたくない、好きなことだけして生きていきたい」という彼の生き方に共感する若者たちが色々登場して、その中に喫茶店始めた25才の池田達也くんがいた。

 私が彼に注目したのは、なに、彼の出身大学が在職してた大学のしかも同じ文学部出身だったからで、それで興味を持った次第。彼の書いた本をさっそく古書で発注した。古書なのにそう安くなかったが(税抜きでのほとんど定価だった)、今年の4月発刊(百万年書房)なんだけど。それが今日家を出るときポストに届いていたので、このところ連日登学の四谷に往復の地下鉄の中で半分以上読み進めた。まあだいたいテレビで紹介されていた内容だったせいもある。

 現在、私は同時進行の作業を3つ4つ抱えていて、多忙の極みなのだが、家に帰ってとうとう完読してしまった。いかにも現代の若者らしく情報入手が、インターネットのツイッターなんかで、ツイッターで知り合った色んな人たちの援助を得て、それでとんとん拍子に話が展開して、喫茶店を立ち上げるという話である。実際にはサギまがいのほうの事例が多いはずなので、これは幸運というほかない。それなりの青春旅立ち物語であるが、社会に合わせて生きていくのが苦手な不器用な感性の持ち主の悩みが素直に表現されていて、生きにくい、死にたいと感じている人たちの共感をえる内容となっているように思う。これ読んで一人でも前向きな気持ちになってくれればと願う。せっかく生まれたのにもったいないよ。

 でも、これが今のような飽食のゆるい世界ではなく生存競争まっただなかの飢饉の時代だったりしたら、他人を押しのけても生きたい、と人はおしなべて思うものだろうか。それともひっそりと餓死していく人間類型っていたのだろうか。昔の私はもちろんみな前者になると思っていたのだが、最近はひょっとして後者もいたのではと思い直すようになった。戦災孤児なんかを想像してのことである。

【追伸】今テレビで「カイジ」とかいうアニメ流れていて、突然ブルー・ハーツの「未来は僕等の手の中」が大音量で飛び込んできた。しかもアニメが終わる毎に(https://www.youtube.com/watch?v=m4RPWG0A2MI)。どうやらカバーらしいが、その1節を提示したい。「僕等は泣くために 生まれたわけじゃないよ、僕等は負けるために 生まれてきたわけじゃないよ 生まれてきたわけじゃないよ」。

 その翌日、今日も今日とて内田裕也主演の映画「コミック雑誌なんかいらない!」が放映されて、終わったと思ったら真っ暗な画面で頭脳警察のそれがかすかに流れていて、秀逸。なぜかこのCD持ってるんだよね。

【付録】一昨日の読書:礫川氏に導かれて最近読んだ、というより再読した。松本清張『或る「小倉日記」伝』角川文庫、昭和33年。これには、表題の他、「父系の指」「菊枕」「笛壺」「石の骨」「断碑」が納められているが、最初のものを除くと、考古学や歴史、そして文学に取り憑かれた人間のいびつな姿がこれでもか、これでもかと登場する。昔読んだはずだが全然記憶にないのはどうしたことか。

 しかし、私も高校生の時は考古学やりたいと思っていたのだが、それでは食っていけない、不幸な人生になる、とよく知りもしないくせになんとなくそう思い込んで、進路を若干ずらして史学科にしたのだが、その頃に読んで影響を受けていたのかも知れない。一丁前に悩んだ挙げ句、意識的にその記憶を封印してしまったのだろうか。いずれにせよ、これらの登場人物たちに若き時代の清張の屈折感情が投影されているように思うのは、私の勘ぐりすぎか。かなり自伝的要素の強い「父系の指」に書かれていてびっくりだが、清張が広島駅前の京橋付近の生まれとは(但し、ウィキペディアでは旅行中の出生とのこと)、今回初めて知った。

 ところで最近の若者は清張なんか読んでいるのだろうか。最近ケーブルテレビで彼原作のドラマが延々と流されているが(生誕110周年のせいか)、時代の変化か、あまり触手が伸びない。同様に、私が学生の頃一世風靡していた西洋中世史家に阿部謹也もいたのだが、どうなんだろう。

【後日記】2019/10/31:NHK BS4で「反骨の考古学者ROKUJI」をやっていたのを途中から見た。松本清張の「断碑」のモデル、森本六爾を扱っていた。番組の最後が切ない。彼の死後、彼が求めていた弥生稲作の証拠となる資料ががっぽり発掘されたのだから。彼の生涯については、以下参照。https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=676

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今週の世界キリスト教情報(2019/10/14)

 今回の目玉は、南アメリカ関係でのカトリックの教会会議開催である。
  ▼「アマゾン特別シノドス」が6日開幕   
  ▼「アマゾン特別シノドス」全体会議に入る

 これの成り行きでは、神学上根拠がないが、宗教改革時代以降これまで堅持されてきた聖職者の独身制が見直されるかも、という観測があるらしい。

 ところで、これを掲載してきた「メルマ」が来年1月でサービス終了を予定している旨の告示が。場所が変わっても「世界キリスト教情報」は継続してほしい。

【補遺】https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47315445
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私へのオレオレ・サギ:痴呆への一里塚(10)

 なぜか電話はかかってこないけど(向こうも無駄なことしないわけだ)、最近メールでやたら妙なのが送られてくる。

 今日も今日とて、持ってもいないから使ったはずもないアメックスから(と称して)、655.58€の不正請求の恐れありますとの連絡あった。まあ、こんなのは即無視できるが、海外からの本は購入しているので、使っているカードや銀行名で来たら、やっぱり気になってつい確認したくなるし、じっさいした記憶もある。どうもあのカード番号狙われているようだと思ったので、カード番号を切り替えてもらったこともある(担当から、効果ないと思いますが、というコメント付きでしたが。相当あちらも悩まされているご様子)。

 運転免許証返上ではないけど、呆けないうちにカード返上したほうがいいような気になってくる。世の中の動きとは逆コースだが(アレはお上の露骨に税収確保目的だと睨んでいるが)。

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イタリアを知るために:ミヤザキ マリさん

 他のことを検索していたら、偶然ヒットした。イタリア関係で最近なんだかすっかり塩野七生大先生の後継者となった観のある「ミヤザキ マリ」さんのブログである。大先生と違って彼女は取り澄ましたところはないし、なにしろ即物的にマンガで表現できるし、結婚して深〜くイタリア社会に漬かっているので下世話に通じているからだろうが、気軽に読ませてくれるので、あれこれ笑いながら読んでしまった。以下に行くと、芋づる式に読めるはずです(連載としてはもう終わったらしいが)。 http://italia.miguide.jp/lifestyle/5434

 それを読んでいるうちに、既視感にとらわれた。どこかで読んだ記憶を思いだしたのである。これも偶然だが、カルチャーでの講演の準備をしていたらそれが出てきた。2004年のレジメ掲載だった。

 以来15年。アマゾンを見てみると、内田さんはその後も毎年のように書き綴っているようだ。20世紀末には、たぶん夫の赴任で異文化社会イタリアに居住することになった女性の滞在記が、主婦感覚でよく書かれていた。内田さんはそれとは若干違った構造的な切り口だったような記憶がある。

 それで思い出した。以下もあった。いや、もちろん今もある。難攻不落のバチカンへの普通では考えられない、すごい食い込み方だった。

郷富佐子『バチカン:ローマ法王庁は、いま』岩波新書、2007年。 

 郷さんがイタリア特派員だったときの朝日新聞の扱いは破格だった。さて今彼女はどこにいるのだろうか。えっ、シドニぃー?

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何かおかしい、災害報道:飛耳長目(15)

 このところ、泰山鳴動が続いている感じの天気予報。データもどこまで本当なんだろうか。なにせ、経済指数でも数字を操って一向に恥じないお上のやることだから。狼少年にならなければいいのだが。

 台風や異常気象にことよせて、その実、交通機関の一斉休業の訓練しているとしか思えないのは、私だけだろうか。不必要なまでに大袈裟すぎる印象が拭いきれないのだ。そして、大義名分、号令一下で、マスコミも運輸会社も、唯々諾々の昨今の動きは、どうも腑に落ちないというか、落ち着かないのである。事後の追跡調査を怠りなくやってほしいものだ(が、期待薄かな)。そうでなければ、ネオ全体主義国家出現の予感がする、否、もうなっちゃってるような。

 ま、台風だから皆も家に温和しく籠もっているが(さっき行ってみたセブンイレブン、まばらだが客はいたが、パン・コーナーは昨晩から空棚のまんま)、さて、バイオテロの場合そううまくいくだろうか。

【追伸】今回はこれまでになくひどいことになった。しかし被災者には申し訳ないが、練馬では台風は12日夜10時頃には終わった感じ。台風一過の13日、きつい日差しの晴天。しかし、夕方、セブンイレブンに行ってみて驚いた。まだほとんど棚が埋まっていなかったことだ(9月末に最寄りのスーパーは閉店したので、そっち関係の様子は不明だが)。郵便受けにも郵便物は届いていない。

【追追伸】今日(15日)の夕方、セブンイレブンを覗いてみたら、ようやく棚は旧態に復していた。 郵便も届いていた。ということでわが身近は復旧に3日間かかったということになる。

【言いたかったこと】(10/31)ようやく核心に触れる言説が出てきた感じがする。マスコミは自然災害ばかりいうが、あれの大部分は人災なのだ。

https://www.mag2.com/p/news/422242?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_thu&utm_campaign=mag_9999_1031&trflg=1

 私はかつての平成29年の広島市安佐北区の土砂災害でよくわかったことがある。あそこは土地勘があるので、人が家を建ててはいけない場所ということがぴんときた。中国地方の山は花崗岩(御影石)がぼろぼろになった「マサ土」の土壌なので、それでなくとも崩れやすい。なのに、山の斜面にへばりついて新興住宅団地が造られていて、それが危なっかしいことは、下の写真を見ただけでわかるはずだが、それを誰も言わないのだ。土地開発に関わっている政治家・業者・専門家たちの思惑、それを忖度しているとしか思えないマスコミ報道。

https://ja.wikipedia.org/wiki/平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害

 もうひとつは宇宙規模・地球史の視点から見ることの重要性。家正則「人類文明の品格と寿命:宇宙目線からの憂い」『図書』2019/11,14-17。

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考古学とリチウム電池:飛耳長目(14)

 各新聞がウェブで採りあげているが、ノーベル化学賞受賞者の吉野彰さんが高校・大学で考古学のクラブに入っていて、なんとそこで奥さんとも出会った、と。こういうのを聞くとたいへん嬉しい、と素直に思う。https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201910/CK2019101002100031.htm ;https://digital.asahi.com/articles/ASMB44TJTMB4UBQU008.html?iref=pc_rellink_02

 彼をめぐっての研究がらみのエピソードも満載で、分野は違えどそのはしくれの私も似たような体験があるので、こんなことあるよねと、これはよくわかる。https://mainichi.jp/articles/20191009/k00/00m/040/248000c

 とはいえ、細々と外国の歴史をやっている私などとは社会に対するインパクトや経済効果の圧倒的な違いを否応なく感じざるをえないのである。男子の本懐はいずこにありやと問いかけたくもなる。あるところで放言してしまったが、歴史学など「女性がするのに適した分野なのかも。男子たるもの、もっとリスクの高い場面に自己を投入すべきでは」。これは、わが分野への女性進出のめざましさについ口をついて出た昭和団塊世代の負け惜しみの言葉であるのだが。

 それにしても、このところの日本の基礎研究力の低下は著しい。それにめげず地道に頑張っている若手たちを救済すべく、国家的規模での支援を期待したいところである。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50835470Q9A011C1I00000/

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禁断の落書き調査(1):エルコラーノにて

 といっても、古代ローマではなく、現代の、である。

【警告!:以下の画像を見て不快感を感じる人がいるかもしれません】

 広島に帰省して充電のためパソコンにiPhoneを繋いだら、これまでの写真がずらーと出てきて、最新のものとして今年の夏にエルコラーノからの帰りに撮ったものがあった。電車が来るまで時間を持てあましていたら目に付いてしまったので、とっさに現地調査となったわけである(同様に、ポンペイ・サンチュラリオ駅のほうはニコンで撮っている:それにこれまでの折に触れての蓄積もあるのだ。乞うご期待、かな)。今回のものはすべてプラットフォームの、地下通路から階段で上がってきた所の構造物に書かれたもの。ここは、刺すような太陽光線が容赦なく照りつけるプラットフォーム上で唯一日差しを避けることができる場所なので、地元民が集まりやすいわけ。落書きは一目瞭然で解説はいらないだろうが、ここに時代を超えての落書きの常識がすでに見えているように思う。

 まず、同じ書き手が複数場所に書き付けていることが、絵のタッチで明確に確認できたり、文字と数字の組み合わせと筆跡で分かるものがある、ということ。

 第二に、こんな衆人の目に触れる公共の場所に、名前を明記という行為の意図で、私には、当事者二人が自分たちの愛の宣言というよりは、悪友のいたずらないし悪意を持った第三者による暴露のような気がしてならないのだが、どうだろう。

ヴェスヴィオ周遊鉄道では、ずっと以前から、
例外なく、通過電車もこんな調子
上の方に縦書き風に書かれているのは、漢字のつもりか。二つ前にも登場

 これを2000年前の祖先たちのそれと同期させて考えるとき、さてどういうことになるだろう。

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史料論:庶民と法律

 母が今年の初め2/11に亡くなって、その後始末で翻弄されている。法律的には申告期限が決まっていて、慣れていながゆえにやたらストレスとなる。たとえば、死亡時から4か月以内に「準確定申告」をしなければならない。ところが取り紛れて気付いたときには4か月過ぎていた。慌ててこれまで広島の実家がらみの確定申告でお世話になっている税理士事務所に「どうしたらいいのですか」とメールしたら、「お宅の場合、最初の二ヶ月足らずだから放っておいて大丈夫でしょう」と言われて肩すかしの一件落着。

 次なるそして最大の関門は10か月以内に手続きしなければならない相続税の申告であるが、その前段階として銀行口座の凍結をしなければならない。そのためには、母の除籍された戸籍謄本や住民票が銀行ごとにいちいち必要らしいので、ノウハウ本に書かれてあった「法定相続情報証明制度」を利用することにした。これだと謄本とかがワンセットで済むという触れ込みだったからだ。

 この「証明」のコピーを入手するためには関連の書類を揃えて法務局に提出しなければならない。母の場合は提出先は広島法務局である。この法務局にはもうひとつ用事があった。相続財産の財産目録作成のため必要な書類として、土地・建物の登記状況を把握しておかないといけない。そこで猛暑の今夏に帰省して、広島法務局を訪ねて行った。もちろん生まれて初めての体験である。案内図を頼りに汗だくになりながら街中をうろうろし、くたくたになりながらようやく建物に到着、冷房に生き返り申請用紙を提出して待っていると、呼び出されて「その地番、ないのですが」と。そこで私は「地番」という呼称があって、それは本籍地の表記とは異なっていることを、初めて知った。本籍地は広島市西区○○町三丁目530番地○なので、それで申請したのだが、その付近の平面図を示されてそこが「地番」としては三丁目112番△、であることを初めて知ったのである。これまでの私の生涯70年間で地番はまったく関係なかったのだから,知るよしもない。

 こうしてなんとか登記簿の写しを入手し、次いで「法定相続情報証明制度」の窓口へ。窓口のお役人たち(みな女性だった)は親切であった。そこでもっとも大変なのは母の出生から死亡までのすべての戸籍謄本を集めることですよ、とご指導をいただき、手順を書いた説明書や申出書をもらって、こっちは後日郵送で処理すべく、また湿気のひどい真夏の午後の外気に放り出された。

 もう一人の相続人の妹は手回しよく関係書類を準備してくれていていた(実際は、経験あるご主人の手をわずらわせていたのであろうが)。さらにメールで母の実家の従兄弟に母の両親の名前を問い合わせたうえで、広島西区役所にいく。そこでかなり待たされて除籍謄本と2通の改製原戸籍なるものをまずゲット(私と母の関係を証明する書類が必要なのはいうまでもない)。次の日に、母の出生以来の古い戸籍を得るために、郵送でも可なのだが、帰省ついででもあるし、いっちゃえという感じでJR山陽本線に乗って東広島市役所へむかう。ここではそう待たされなかったが,ぶ厚い(田舎なので子供が多かったせいだろう)2通を受領することに成功。以上、再度足を運ぶ手間を考えて,上記すべて3通入手申請したので、予想外に費用がかかった。

 こうして、帰京して今度は練馬区役所に行き、自分と母の住民(除籍)票とか関係書類を揃え、返信用封筒に念のため簡易書留料金の切手を貼って広島法務局に送付したのは、月曜だった。さていつ返信が帰ってくるのかと思っていたら、木曜の朝に電話があり、書類関係は揃っているが「法定相続情報一覧」に不用な記入があるので出し直してほしい、と。で,何が不備だったかというと、住民票通りに書いて欲しいので、マンション名とか削除して下さい、と。練馬区ではなんかの時にマンション名まで書けといわれた記憶あったのでそうしたつもりだったのだが、役所が違い担当が違うとこんな調子で、ストレスとなる。

 それから10日もたったころだったろうか、文科省科研の現地調査で渡伊する直前に、法務局お墨付きの「証明」書類のコピーが届いたので(ご丁寧にも戸籍謄本などの提出書類も同封返還されていた)、2週間ほど間を開けて帰国してから、こんどは個別に銀行と接触。ところが、ゆうちょの場合、ご近所の窓口で「一番簡単な方法をとりましょう」といわれて、なんと解約関係の書類を渡されてしまった。あれれ、凍結しないでいいいの?という感じ。で後日改めて解約の書類を提出したが、あれほど手間かけた法務局の「証明」書類は不要、と言われて突っ返されてしまったのであ〜る。そのうえその場で貯金残高全額が払い戻されたのであ〜る。本当は喜べばいいのあろうが、なんだかうれしくないのはどうしたことか。貯金残高が少ないせいでの簡易処理だったのかもしれないが、狐につままれた感じだった。

 残りの2つの大都市銀行の預金凍結は、まずその担当窓口に電話かけて書類送付をお願いし、届いた書類を送り返した段階だが、そこでも法務局の書類のことにはまった触れられておらず、あれこれの書類を集めて提出のこととされていたが、今さら戸籍謄本類を同封する気にはならず、法務局の「証明」書類を封入して送り返した。あと、実印の押印と印鑑証明が要求されたので、こんなこともあるだろうと練馬区役所で入手しておいたものを同封した。電話連絡時に、いずれも手続き完了に1,2か月かかりますと言われたが、さて書類不備で返ってくるのかどうか、あちらさんのご都合待ちの昨今だが、こうしてまあ一応この仕事は官僚、もとえ完了となった次第。

 明日から数日また帰省する。今回はいよいよ土地・宅地の相続関係だが、これまで確定申告でお世話になっている税理士事務所に行って、相談する予定である。私の勝手な計算だと遺産相続で納税のレベルに達しないですみそうなのだが(基礎控除3000万+600万×相続人数、の枠内で収まりそう;それ越えた場合の、妻の弟から裏技を伝授されていたのだが、不発ですみそうなのは喜んでいいのかどうか,国家権力からは問題にされていない存在として認定されたようで,ちょっと微妙な感想なのである)、その後の名義変更手続きをどうすれば節税できるのか、がど素人相続人の目下の問題なのだ。

 かくの如く、とかく法律というものは庶民にとって常日頃の日常生活とはかけはなれ、しかも法的定めと窓口の対応も個別的に違っているようで、ますます素人にはとまどうことばかり(せっかくそろえた書類を不用、と突っ返されることも多い)。そこでリタイア歴史家として体感するのは、法律の条文で過去を再現することの非現実性である。たとえそういう原則はあっても、その通り運用されていないことが多いのが現実、という体験を古代ローマ法制史研究に投入している研究者がどれほどいっしゃることやら。歴史の目的は、かつての実際の生活の再現であると私は思っているが、史料不足を口実に(その実、手軽だからと私はにらんでいるのだが)、たまたま残存しえた法律文言を金科玉条のごとく振りかざす研究者のいかに多いことか。ありもしない仮想現実を作りあげて悦に入っている場合ではないのだが。それが実態とは乖離した古代ローマ史ムラでの身内意識のなあなあのお遊びに堕していないことを、過去の自分の生き様を含めて今は祈るばかりである。

【追伸】先日、ひとつの都市銀行から返信が届き、代表人の私の口座に残金を振り込みますとの連絡があったと思ったら、もう一つのほうからも、こっちは若干面倒くさく、私の口座に移行するから振込先を書類に書いて(通帳とカードも返還せよ)、もう一人の相続人の妹の実印登録証と押印した書類を送り返せ、という一件書類が届き、妹へ送って登録証をとってもらったり、書類に押印してもらったりして、返送した。預金の処理はこれで一件落着のようである。あとは、遺産登記の変更で、今年中に済ませれば、広島市から来た書類も提出しないですむようなので、11月中に動きだそうと思っている。

【付論】以下はイタリア(といっても,中南部に限っておいた方がどうしても無難な気がする(^_^;)での私の体験なのだが、まあ現代イタリア人というのはこまめというか、事前に規則はこまごまときちんと作るのだが、実際にはそれはすぐさま反故にされてしまっている事例に日常体験的によくぶつかるのである。結論を先に述べると、この現代イタリア人の規則に対する民族的特性・習性、規則は作ってもすぐさまお上は励行しなくなる,それで誰も守らなくなる、要するに実効性を持たない法律の文言だけが六法全書や判例集に残る現実を、なぜ古代ローマ人に応用していけないことがあろうか、と私は言いたいのである。素人が思うに、イタリアでは何か不都合が生じたら後追い的に法律を気軽に作る、でもそれが適用される事例なんてそうあるわけでないので、発布と同時にほとんど無視される、こんなことの連続なんではないかと。日本人風(というか研究者にありがち)に法律を律儀に考えていると間違う,ような気がする。ローマ法の研究者さんにお聞きしたいことである。

 たとえば、あれは大聖年2000年を前にして、これまで長年閉鎖されていたパラティヌス丘収蔵庫が博物館として新装開店した。この時は無料だったが、入り口に向かう階段前に麗々しく掲示されて目についたのは、入場にさいしての見学者と見学時間の制限規則で、たとえば、10時から10時半まで20人、といった調子で、ご丁寧にも開館時間から閉館時間までそれがずらーと掲示されていたのだった。入り口の外にはちゃんと監視員がいて(そこまではリッパ)、だけどまあ人数や時間をチェックしている様子はなかったのでそのまま入場できて、その時は地下からじっくり見学させていただいた。ここでの私にとっての目玉は「冒瀆の十字架」だったのは言うまでもない。もちろん初見参できて大感激だった。当時は館内にも複数の監視員がそれなりにいて、偏屈そうな東洋人が一箇所にへばりついているので警戒されてはと思い、何度か行きつ戻りつして見学したが、今考えるとそれも十分怪しい行動ではあったなあ。で、本論はこれからで、翌年もその後も毎年のようにもちろん見学に行ったのだが、その時は例の掲示板は健在だったが、入り口の外に監視員はいなくなっていた(例のごとく、入り口の内側に所在なくお一人お座りにはなっていた)。要するにまったくのオープンだった。そしてその翌年くらいだったろうか、掲示板の時間制限の箇所に色ビニールテープが貼られ出して、おやおや掲示板だけはまだあるんだ〜と思いながら通うこと数年、とうとう掲示板そのものも引退されたとみえ、ようやくお姿をお消しになったのであ〜る。

 もう一つの事例。数年前のことだったか、「法律で、今度から博物館や遺跡には一定以上の大きさのバッグはしょって入れず、荷物置き場に預けなければならなくなった」という情報が私の耳に入ってきた。このころになると私など「おいおい、そんな場所、入場者多いポンペイなんかどこに作るというの、人員だって割けないでしょ。また計画倒れだよね」と冷静で、実際いってみても従来通り。唯一エルコラーノ遺跡だけは、観光バス用の駐車場ができたせいで事務棟が奥まった所に新設されたこともあるのだろうが、荷物置き場も作られ職員も一名いらっしゃり、遺跡入り口のチケットチェックの場所にはその掲示も未だある(初年度に比べるとだいぶ小さくなったが)。でもまあ、チケットチェックの監視員さんも法律どこ吹く風とばかりチェックされることは最初からない。今年の夏、荷物置き場と係員さんまだいたが、えっ、と驚きやっぱりねとこれは残念に思ったのは、遺跡構内の博物館グッズ売り場が閉鎖されていたことである。立派な建物は今は空き屋となっている。今年は寄らなかったのでわからないが、ポンペイ遺跡だとスカーヴィ入場口のトンネル横に最近できた売り場はまだ健在なのだろうか。こうなると、国立ナポリ博物館で入手するよう算段したほうが安全な気がする。

【補論】今年の夏の新ならず旧発見。ポンペイの円形闘技場入場口にはこれも3,4年前に作られた「石膏像死体の展示場」二棟がある。ローマのサン・ピエトロ広場を囲む円柱廊よろしく、左右に湾曲して1つずつあるが、これも片方だけと記憶しているが中に入れたのは最初だけで(私は入った)、今は外からガラス越しにしか覗けなくなっている(光って見えづらいので、なんのための展示やら。入り口に向かって左側のもう一棟は物置となっている)。そして今年同行者と落ち合う待ち時間のとき所在なく、左側に貼られていた掲示を見るともなくみていたら、なにやらここに荷物置き場があると書いてあるではないか。例のごとくもはや掲示倒れだろうなと思ったのだが、そうこうするうちに、乳母車の赤ちゃん連れの夫婦が遺跡から出てきてあれこれ騒ぎだし、クストーデ風の男性が鍵を持ってやってきて扉を開け、夫婦だけ二人が中に入ってショルダーバッグを持ち出したので、クストーデ部屋に頼めば制度そのものはまだ生きていることを確認できた。しかしそれが見学者からの申し出による措置となっているのは、預けている人がごくごく限定されている様子から明白で、さて、これさえいつまで続くのだろうか、というより続いてほしいものだと思う。

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HerculaneuminPictures、そしてPompeiiinPictures:遅報(13)

 今年の夏の現地調査は、エルコラーノでは我々は空振りだった。現地考古管理事務所の調査許可が我々の滞在期間には間に合わず、我らは一般観光客として入構するしかなかったのだ。それでも沈船博物館が開いていたし、折から開催されていた展示会に遭遇することができて、新収穫なしというわけでもなかった:私の最近の最大の注目場所「200年祭の家」Casa del Bicentenarioはまだ修復中だったし。

 ところで、10/3段階での情報によるとようやくエルコラーノの調査許可が出たそうで、今回はIV.1-2のCasa dell’ Atrio a mosaicoに入るようだ。ここはこのところずっと修復中で閉鎖されていた。それで今般検索かけたら、なんと標記のHPが新たに立ち上がっていて驚いた(HerculaneuminPictures:2018年5月かららしい)。これは表題からしてこれまでよく利用してきたPompeiiinPicturesの姉妹編で、同じ人たちJackie and Bob Dunnさん(ご夫婦かな)が作成されている。それもあって、元のポンペイのほうも覗いてみたのだが、なんと私にはよく理解できない理由なのだが、とにかくEUからイギリスが離脱したら、このHP、来年の1月1日をもってイギリス以外の者はみることできなくなるとの告知がされていて、かなりショック。これまでたいへん重宝してきただけに、これが本当なら大変残念なことです。

【余談】ところであれこれ検索していたら、なななんと、我らがこっち方面でお世話になっている現地通訳女史がいつの間にかHPを、そして私が201△年に調査で入ったときのことを若干詳しくアップしておられました(そこの紹介はまだ時効でないので、パスしておきます。というのは、調査そのものは問題ないのですが、その中で、当方が申請もしていなかったのに、通訳女史が「みたい!」とお願いしたら、案内してくれていたベテランのクストーデ(鍵の管理人)さんいとも簡単にかぎ取って入れてくれたのが、なんと驚きの「パピルス荘」だったのです。これがイタリア! 頼むのが男だとこうはいかない、と一応やっかんでおこう。彼は、そこで発掘品の整理していたボローニャ大学のメンバーにも紹介してくれました(女性ばっか10名あまり。東洋人もいらっしゃった。中国系かな;遺跡の中では別行動の3人の男性メンバーにも遭遇して、握手)。
 いつも許可を取るのには苦労しているのですが(といっても、現地遺跡管理事務所との交渉で悪戦苦闘しているのは通訳女史なんですが:本当に感謝しないといけませんよね)、お役人のお偉いさんではなくて、現場の人たちの中にはこんな親切な人もいるのです(怖いよね)。逆にいうとこれまでの体験から、両者の間には深い断絶がある感じです。

 こっちは、公表していいかな。https://www.piazzaitalia.info/

 エルコラーノの許可とれなかったので、彼女が気配りして代わりにと紹介してくれたのが、ナポリ市内のアウグストゥスの水道渠遺跡。これの記事その気になったら書くかもです。それには東大のソンマ発掘地見学にも触れないといけないかな。

【追記】2020/3/22に試しに「PompeiiinPictures」に行ってみたら、健在でした。というより2月からエルコラーノやスタビアなどポンペイ周辺の遺跡すべてを含めて再出発していた(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/index.htm)。これで一安心。とりわけポンペイの新発掘「V」が詳細に公開されていて壮観。まだ一般公開されていないので、ありがたいことだ。それにしてもこの公表状況は、公式HP以上のすばらしさで、どうすればこんなことできるにか、不思議でしょうがない。よほどの信頼関係あるのだろう。

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