月: 2020年6月

長生きはするもんだ:Ticinum銀貨

 ニコメディア・レリーフ関係でコインをチェックしていたら、なんと驚くべきことにぶつかった。それは2020/3/11のほうに追記として入れておいたが、私の一生の間にこんな僥倖に遭遇するなど考えたこともなかった。2020/1/12掲載のSPES PVBLICAEが3000ドル、2020/3/28のConと息子二人のが7750ドルで、特に前者が市場に出てきたことはそれでもまあ可能性としてあり得るような気がしていたが、今回のTicinum銀貨のご登場にはまったく度肝を抜かれてしまった。なにしろ現存4枚目という超稀少コイン、その上新品同様の保存状態なので、2825万円(25万スイスフラン)という落札価格も納得である。オークションからすでに二年、然るべき博物館の所蔵になっていて、いずれご対面の機会が得られることを祈っているのだが。

https://www.numisbids.com/n.php?p=lot&sid=2518&lot=1051

 以前表側をみつけたエルミタージュ博物館蔵の、鮮明な裏側写真も探しているが、まだみつけえていない。情報をお待ちしている。

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4/9発注本、ようやくのご到着

 インターネットで古書販売のAbeBooksに発注していた本が一冊ようやく届いた。そもそもの到着日に関しては以下のように書いてあって、早くて5月半ば、遅くても6月上旬だったはずが、でも平常だとこの数字より早く着くのがいつものことだったが、コロナ騒ぎのせいでそれよりも余分に20日遅れたわけだ。

Estimated Delivery Date: June 3, 2020 
Approximate Shipping Speed: 21 - 36 business days

 1996年出版の疫病関係の書籍で、価格が4.60ドルで送料が9.00ドル。目次を見たら、本文220ページ中、私に必要なのはとりあえず8ページだけ。こんなの国内大学図書館にあれば(ないから海外発注した)、まあ今回の半額以下でコピーがとれるのに、と思ってしまう。しかも、すでに当面の関心は別に移動しちゃっているので、読むのはいつになることやら、だ。

 その前後で海外発注した数冊の本、いつ届くことやら。なにもかも、一件以来宅配便は遅れがちであるが、まあこれまでが無用に早かったともいえるので、これでいい気がする。

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ニコメディア出土のレリーフ:遅報(41)

 小アジア半島の北西端に位置するニコメディア(現在名イズミット)は、テトラルキア体制の上級正帝ディオクレティアヌスが自らの都に定めた場所であるが、なぜかこれまでめぼしい遺跡に恵まれず、他の諸皇帝の首都(トリーア、ミラノ、シルミウムないしテッサロニカ)に比べて、もの足らないものがあった。21世紀に入り、市内中心部のチュクルビク地区のビル解体時に地下に眠っていた遺跡が発見され、2度(2001,2009年)の緊急発掘にめぐまれ、そこからかつての煌びやかな帝都にふさわしいディオクレティアヌス時代の多色レリーフや立像が出土した。ニコメディアはかの時代、大理石の集散地で、主としてマルマラ海に浮かぶプロコンネソス島産や、ニコメディアの南東200kmのフリュギア地方のドキミオン産大理石を扱っていたが、今般の出土品はプロコネンソス産。出土品はレリーフ30以上、少なくとも4体の巨像の諸断片、1ダースほどの建築資材であった由。

右平面図の黄土色が、ビルに取り巻かれた発掘地点で、黒点箇所からレリーフが発見された:まず下方、次いで上方、だったのだろう

 まだ悉皆的な紹介・報告はなされていないようだが、もっぱら報道され目を奪うのは、何らかの歴史的場面を描いた諸レリーフで、軍事遠征、戦闘、捕虜の移送、凱旋式、将軍たちの会合が描かれていた(といっても、公表されているのは、ここで示したものに限られている)。ヘラクレス、アテネ、ローマ、ニケないしウィクトリアといった神々は持物(「じぶつ」と読む)によって容易に判別可能で、また、剣闘士競技、戦車競走、劇場での演劇など、ニコメディアの人々の日常生活も描かれている由。いずれも完品の出土ではないが、部分的に着色がまだ残っているほど保存状態は良好である(劣化を防ぐため保存処理中で、現在非公開)。私の印象では、人物の描き方が後期帝国に顕著な静的で冷厳な様式からはかけ離れていて、むしろ帝国東部の緻密で繊細なモザイク表現に似かよった親しみやすささえ感じてしまう。たとえが変かもしれないが、肩肘張らず一本力が抜けた感じの造形なのだ。

入城式adventusでの、中央に女神ローマ座像、手に女神ニケ像、左右両端はトガ姿の市民たちか(少年もいる)

 2001年の発掘をもとに当初は、後2世紀末のセプティミウス・セウェルス帝関係の戦勝記念物と想定されたが、2009年の発掘結果により、ディオクレティアヌス時代がらみ(後284-330年の間)の戦勝記念物で、ただ、幾つかのレリーフはより以前の建造物の再利用や奪取spoliaによるせいで、より以前の表現形式が見られる、と分析された。注目すべきは、幾つかのレリーフがテトラルキア時代の芸術で基本となるモチーフが表現されていることで、その代表例が以下である。これは2009年に発見されたレリーフで、中央にひときわ大きく二名の人物が描かれており、彼らは、玉座が設えられた4頭立4輪馬車carrucaから降りて歩み寄り抱擁しているので、この二人をディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝と特定して同定することも可能であろう。ならば、テトラルキア以前の二皇帝diarchia時代(後293年以前)の場面を表していることになる。となると、コンスタンティヌスのアーチ門(315年落成)に先立つこと20数年前、テッサロニカのガレリウス凱旋門(303年落成)に先行することわずか10年ほどの作ということになり、必然的にそれらとの比較が可能となるはずである。とりわけ風雪で摩滅が甚だしいガレリウス凱旋門上のレリーフの復元の参考になるであろう(ここでは詳しく触れないが、同時代の画像として、エジプトのLuxor神殿内のフレスコ画、スペインはCentcellesの天井モザイク画、シシリー島のVilla Romana del Casaleの床モザイク等との比較研究は心躍るものがある。これらのいずれについても現地訪問も果たしているのだが。問題は私に残された時間である・・・)。

1枚のレリーフはおおむね高さ1m、幅1.5m

 ところで、これがなぜディオクレティアヌス時代の基本的モチーフなのかというと、以下のヴェネツィアのサン・マルコ聖堂前の四帝立像や、ヴァチカン図書館所蔵の二帝立像(いずれも紫斑岩製)がどちらも抱擁の挨拶を交わしていて、それによりテトラルキア体制でのスローガン「一致 concordia・一様 similitudo・友愛 fraternitas」が強調されているからである。この件は貨幣その他のデザインとも通底しており、いずれ詳しく比較検討したいテーマではあるのだが、その時間が残されているかどうかは神のみぞ知るなので、ここでも興味深いネタが転がってますよと、若い後進にお知らせしておこうと思う。

左からヴェネツィア、ヴァチカン、ニコメディア:比較してみると、右端の緻密さは圧倒的だ

 なお、色彩が鮮やかに残っているので、発掘プロジェクト責任者のTuna Şare Ağtürk博士などは、建築後そう時を経ず、おそらく358年に当地を襲った大地震でこの記念建造物が破壊されてしまったのであろう、と想定している(http://archive.antiquity.ac.uk/projgall/sare346;https://www.jstor.org/stable/10.3764/aja.122.3.0411)。屋内の展示であればその仮説も可能かもしれない。私はそれ以上に、コンスタンティヌス王朝時代の意図的破壊や、コンスタンティノポリス建設材料に回されてしまった可能性ありかもと、想像しているがどうだろう。

Tuna Şare Ağtürk博士:生誕年不明

【参考図版】

① Luxor神殿内のフレスコ画:

② Centcellesの天井モザイク画:https://www.mnat.cat/en/monumental-complex-of-centcelles/

上図のように四人の玉座が描かれている;下図での人物像表現にも注目したい

③ Villa Romana del Casaleの床モザイク:https://www.piazzaarmerina.org/villa-del-casale/la-villa-del-casale

皇帝と目されもする人物たち:左中央がマクシミアヌス、右中央がマクセンティウスと想定説あり

④ テッサロニカのガレリウス凱旋門:http://galeriuspalace.culture.gr/en/monuments/kamara/

上部中央のトガ姿の4名がテトラルキア・メンバー:中央着座の2名の左右に月桂冠を捧げる有翼のアモル
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ツタンカーメン:遅報(39)

 専門外の著名な考古学的知見については、素人なので触れたくは無いのだが、先ほどBS4Kで「地球ドラマチック」「ツタンカーメン:財宝に刻まれたファラオの真実」(2018年フランス製作)の再放送をみて、びっくり。それよりちょっと前にこれも偶然見た再放送、たぶんBSプレミアムでの「探険!ツタンカーメン王墓」(2017/11/18放送)がCG技術を駆使して詳細に扱っていたのをみた後だったので、まあ、製作の時差が一年あるにしても、あれれと思わされてしまった。「探険!」の内容がもう古い感じなのだ。

王墓全体の透視CG画像

 核心はなにかというと、2018年のほうがなかなか興味深い話で、仏人研究者マルク・ガボルド博士の仮説に基づいて、これまでツタンカーメンのものと思われていた副葬品やあの黄金のマスクも別人用に作られていたことが、カルトゥーシュの書き変え痕跡から判明した、というもの。書き換えの事実は2015年頃にすでに判明していたようで、元の名前については諸説あったようだが(https://55096962.at.webry.info/201601/article_19.html)、2018年の番組ではイクナートンの四女だっけの「メリトアテン」で、どうやらツタンカーメンが大きくなるまでつなぎで女性ながらファラオをやっていたということらしい。以下の図の緑がツタンカーメンのカルトゥーシュで、赤の部分がそこに残されていた前の痕跡、それに基づいての復元例が黄色というわけ。

以下から拝借:https://55096962.at.webry.info/201601/article_19.html

 その説に基づいてのことかどうかは不明だが、最近の以下の論文でもツタンカーメン王墓内出土品に「メリトアテン」名が残っていると指摘されていて、これはもう定説となっているようで、素人にはたいへん興味深かった(野中亜紀「トゥトアンクアメン王墓出土のクラッパーに関する一考察」『貿易風 :中部大学国際関係学部論集 』第14号、2019)。

 ところでコロナ騒ぎで取り紛れ忘れていたが、私の余命はあと2610日。

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ポンペイ修復作業終了:遅報(38)

 ポンペイ遺跡は、それまでの遺跡保存管理が不十分だったこともあり、10年前頃から各所で遺構が倒壊した。そのためユネスコが世界遺産登録取り消しを警告したのをきっかけに、2014年からEUの支援を受けて修復作業に入っていたが、2020/2/18に終了が宣言された。かかった費用は約125億円。

 修復の一環で、ポンペイ発掘開始270周年を記念して第五地区の一部が新発掘され、すばらしい成果を上げているが、ここでは2019/10に公表された剣闘士競技のフレスコ画を紹介する。今回はさすがに遠慮して、小さな画像に留めるが、詳しくは下記の「Pompeiiinpictures」をご覧ください(YouTubeつき:それをみると規模的に小さく狭いことがわかる)。

 管理局はいつものように正確な番地を公表していないが(まだ未定なのかも)、「剣闘士たちの宿舎」 Caserma dei Gladiatori(V.v.3) 近く(?)の居酒屋(タベルナ)の二階への階段下で発見された(私には中二階にみえる。だったらそこは倉庫だった可能性もある:なお、ある記事で地下室とされているが誤訳:たぶんground floorがらみ?)。写真右側で勝負あった瞬間が描かれている。左側に下半身だけ一人描かれているが、その服装からすると審判員のようにみえるがどうだろう。このタベルナについて詳細な紹介が「PompeiiinPictures」のHPですでにアップされているのは、さすがだ。これをみただけで、誰もがおびただしい新発見に目を見張るはず(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R5/5%2008%2000%20gladiatori.htm)。そこでは出土場所は「Termopolio con Gladiatori Combattenti : Bar with fresco of gladiatorial contest at crossroads between Vicolo delle Nozze d’Argento and Vicolo dei Balconi」と名付け、表現されている。

 ところで古代ローマ時代では、居酒屋といえば,酌婦は売春婦を兼ねていて(そのほとんどが女奴隷だった)、二階へとお客さんをいざなったり、だからそこにベッドがあるので簡易ホテルにもなっていた、そういう場所である。ただ、剣闘士が描かれているからといって、「剣闘士の宿舎」の住人たちがなじみ客だったと結びつけるのは私には疑問だ。二区画西のさらに北側なので隣接しているわけではないし、剣闘士が自由に居酒屋で飲食できていたとすると、私などカーク・ダグラス主演「スパルタカス」やラッセル・クロウ主演「グラディエータ」などで獲得した、従来のイメージを大幅に修正しなければならない(そもそも、目抜き通りの1つ「ノラ大通り」の真ん中に面して剣闘士宿舎があることすら、私には納得できないのである:剣闘士がらみの落書きがいかに多くあるにせよ、だ。むしろそこは興行主やパトロンの屋敷で、試合前夜に招かれ供応されてのそれら、と考えたいところである)。ポンペイの専門家たちはどういう根拠でそう言っているのだろうか。

【疑問】フレスコ画の右端の敗者がこちら向きだとして、右手の動きがよくわからない。兜を脱ごうとしているのか、顔を覆っているのか。左手の指を1本立てているのは「降参」のサインだろう。

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続・コンスタンティヌスのアーチ門の太陽神について

 論じ残しているちょっとしたテーマに、ローマのコンスタンティヌスのアーチ門(凱旋門)上の東面に掲げられているトンド内の太陽神像があります。以下に、トンド全体像と太陽神拡大図を掲載してみます。

東面トンド

 何かお気づきのことありませんか。・・・ 私は以前からこの太陽神に違和感を感じてきました。らしくない、のです。まずなんとなく女性っぽい描き方なんですが、この点は西面の月神が明らかに女神として描かれているので、それとの対照により一応除外しておきます(顔つきは月神のほうがきつい感じすらします:太陽神のほうが摩滅しているせいかもしれません)。また、着衣が横皺が目立つトガのようにではなく、ギリシア風に見えるせいもあるでしょう。

 そんなこともあって、らしくない、そう、勇ましくないのです。これは不敗太陽神Sol Invictusとの対比からくるせいかもしれません。このHPの「実験工房」のほうで2018/5/20口頭発表「戦勝顕彰碑としてのコンスタンティヌスのアーチ門」を掲載してますが、その末尾近くでこのトンドについて「東に4頭立て戦車、クワドリガで今まさに海上から天空に浮かび上がってきた太陽神、それを導くアモル、海中でそれを眺めている海の神オケアノスが描かれています。なおここでの太陽神は、放射冠をかぶっていません」と触れていますが、端的に放射冠抜きなのです。となると、本当に太陽神なんだろうか・・・。先に触れた衣装からよりギリシア的にアポロ(ン)神的イメージが勝っているような気にもなってきます。そうは思いませんか。それでトンドに似たアポロンの彫像を見つけようと探したのですが、これがなかなか・・・。というのは神は完璧な肉体をお持ちなので、アポロン様はだいたいが裸でして・・・。そんな中、ようやく見つけることができたのが以下の右です。

左がよくある裸体像、右は竪琴がなければまさしくトンドのそれ:いずれもヴァチカン博物館所蔵

 ところが、アーチ門の東側廊での太陽神はかなり破壊が進んでいますが、斜めからの写真だと頭上に放射の鋭角の三角形が辛うじてわかります。またアーチ門上に複数刻まれている軍旗の竿頭飾りのそれでもちゃんと放射冠が確認できます。下に、ギリシア的なヘリオス神像を示しておきます。

左、東側廊の太陽神を左45度でみる;右、西面レリーフの太陽神:頭部の上枠にギザギザの刻み
前4世紀のものらしい

 こうして、同じアーチ門上で、東面トンドのそれと他の太陽神の表現が放射冠他に関して異なっていること、そして東面トンドのほうがとりわけ不敗太陽神Sol Invictusとしては特異な表示である、と指摘できるように思います。それが何を意味しているのかですが、ひょっとして、トンドのそれはギリシア的アポロン像風に描かれているのかも、と今現在考え直しております。

【追記1】このギリシア的表現は、西面のルナ女神でより一層指摘できるかもしれない。たとえば、彼女の後に羽衣風にたなびいているストール、それにどうやら片肌脱ぎで(ここでは左肩を)露出し、さらに彼女の頭上にかつては三日月があったらしい痕跡も認められ、さらに二頭立て二輪戦車bigaに騎乗していて、むしろギリシア神話のセレネの表象が勝っている印象なのである。

後3世紀作のセレネ:メトロポリタン美術館蔵

【追記2】ここまで書くと、どうしても私は以下の2点を思い出し、触れたくなる。一つは、ギリシアのパルテノン神殿東側ペディメント「アテナイの誕生」の両端彫像である。ここでは、復元修復したものを示す。

左が上昇するヘリオス、右が下降するセレネの戦車:この場合、両方とも四頭立てだが

 もう一つは、Prima Portaのアウグストゥス像の鎧上部のヘリオス神と四頭立て二輪戦車である。

ここでのヘリオス神の衣装はまさしくアーチ門のそれと類似:
中央上部は天空神ウラノス

 こうしてみると、アーチ門東西両トンドの神像は、どの神名をとるかはともかくギリシア的意匠に準拠している、すなわちヘリオス/アポロンとセレネで、それがローマ神話のアポロ/ソルとルナに横滑りし、さらにソルからソル・インウィクトゥスに特化していくプロセスが見てとれる、と考えた方がいいように思われる。コンスタンティヌスがアウグストゥスをも意識して視野に入れていたことは、アーチ門両面に掲げられた銘文から明白である。

【追記3】私は、コンスタンティヌスは彼の統治領域内では、そこ出身の自軍兵士たちの共感を得るためにまずケルト系の太陽神を自分の守護神に選んでいた、それを帝国中心部においては東方起源の同様な太陽神ないし古代ギリシア的なアポロン神・ローマ的なユピテル神に重ねることで汎地中海世界的な自己プロパガンダの基軸とした、との仮説を提示している。したがって、315年段階での本アーチ門での太陽神図像はあくまで首都ローマに寄り添ったものと理解することになる。その観点からすると、帝都ローマでのコンスタンティヌスのアーチ門の西面(出立図:Profectio)と、東面(入城図:Adventus)に描かれている鹵簿での皇帝臨座の馬車の車輪は意味深かもしれない。

西面:Quadrigaというよりも、四頭立て四輪馬車carrucaだったことがわかるが、馬車や人物像の描き方にかなり違和感がある
東面:こちらも玉座仕立ての四頭立て四輪馬車だが、納得できる描き方
20世紀初頭の復元図:かなり杜撰だが車輪はちゃんと描かれている

 なお、今や破壊されて跡かたもないが、同じく東西両面のトンド上の戦車にも車輪があった:現状で車軸のみ確認できる。

上図とここの典拠は以下:Salomon Reinach, Répertoire de Reliefs Grecs et Romains, Paris, 1909.

 生存中に改めて一文を草する余裕がないかもなので、他の気付きもメモしておこう。東西面レリーフでの登場人物たちの顔の向きが前後を向いているのは、後を向いているというよりも、これらの行列が一直線ではなくて、「⊂」字型に、左隅でUターンしていて、それを正面から見て重複表現している場合もある。また、出立図Profectioの場面は従来説ではなぜかミラノ出立等イタリア内とされているが、皇帝馬回りの登場人物たちが平時のフェルト帽を被り武装していないので、敵地でのそれとは思えず、私はコンスタンティヌスの領域首都トリーア出立とすべきと判断した。またProfectio左端の、まさに城門を出てきたばかりの四輪馬車の座乗人物が他と比べて小さいことから、彼はコンスタンティヌスではなくて、息子クリスプス(当時12歳)とする別説もあるらしい(となると、そこにコンスタンティヌスは描かれていないことになる、かも)。レリーフにおけるコンスタンティヌス像は例外なく少なくとも頭部が破壊されているので(恐らく4世紀後半の反コンスタンティヌス時代に)、ここで頭部が保存されているのは別人と判断されてのことであろうか。いずれにせよあのブロックは違和感の塊である。また、西面の荷駄に馬ないしラバ以外にめずらしくラクダが描かれ、その背後にうずくまった人物がいるが、これは何を示しているのだろうか(捕縛されているのかも)。南面レリーフについては拙稿で多少とも触れているので、省略。

 入城図Adventusの東面レリーフに移る。左端でローマの市門をくぐってコンスタンティヌスが座した四輪馬車carrucaが進む。それに先行する行列の中に武装解除された二名のローマ人捕虜が、徒(かち)でおそらく両手を縛られて引き回されている。たぶん同時代のローマ在住者には誰と見当がついたはずだ。その行列の先頭は浮き彫りの右端から北面東端にかけて、まさに四面門(しかもその屋階上に四頭の象を頂いている:これは剥落が進んだ現在、確認しづらくなっている)をくぐろうとしているが、この門は凱旋式の際行列が必ず通過したPorta Triumphalisに間違いなかろう(cf., Martialis, Epig. 8.65)。

東面右端と北面東端の柱部分の両端にそれぞれ4頭の象の戦車が描かれていたと思われるがぽっこり剥落し、現在かろうじて北面、兵士の兜の左上にその痕跡が残っている(2015/8/29:筆者撮影)

 実はこの門は、コンスタンティヌスのアーチの屋階の北面の東側から2枚目のレリーフ(もともとはマルクス・アウレリウス帝の出立図profectio:皇帝の頭部は18世紀にトラヤヌス帝に似せて修復された)にも描かれており、その屋階上にトロパイオンと四頭の象、それに一体の神像が確認できる。

 北面の2レリーフも興味深い。特に左側の演説図Adlocutioでは、ロストラ(演壇)の両脇の背景に描かれている公共建築物は、左がBasilica Julia、右がセプティミウス・セウェルス凱旋門とされ、ロストラ上についても中央に唯一正面向きで立つコンスタンティヌス(但し顔面破損)、彼の背後に5本の列柱があって、それらは第1テトラルキア体制の成立を記念して立てられたもので、その中央は主神ユピテルをいただき、左右円柱上の小立像は4人の皇帝を示している。また皇帝のすぐ背後の2旒のvexillumは皇帝旗であると私は考えている。ロストラ前面の左右端に二名の座像が見えるが、左がマルクス・アウレリウス帝で、右がハドリアヌスとされている。こうして、このロストラは全体として、コンスタンティヌスが過去30年間のテトラルキア体制の正統継承者であること、ローマ帝国華やかりし時代の、アウグストゥス時代、ハドリアヌスやマルクス・アウレリウス時代の帝国の回復者であることを暗黙のうちに明示しているわけである(なお、このことは政治家コンスタンティヌスがテトラルキア体制を放棄して独自の政治的プロパガンダを以後開始することと矛盾しているわけではない)。なお、彼を左右から見守る男性群像(とりわけ壇上はトガ着用の元老院集団で、一段低く地面に立つのはローマ市民たち)の中に男児三名が紛れている。彼らが大帝の後継者の息子たちとする説は、出生年的にも位置的にも受け入れがたい。

 最後に言わずもがなのことだが、このレリーフでの登場人物は(そして、アーチ門全体でも女神と円柱台座での捕虜を除けば)、すべて男性であった。昨今の「人種差別主義者」チャーチル像への落書きのように、「性差別主義者」コンスタンティヌスなどと落書きなどされないように願わざるをえない。

腹に巻かれているのは「黒人の命も大切だ!」Black Lives Matterの張り紙らしい

 さて、ぜひとも触れておきたいテーマに、コンスタンティノポリスでの紫斑岩製円柱上の太陽神としてのコンスタンティヌス像の件がある。いつか書く機会があることを念じている(まだ書く気でいるのが、我ながらいじらしい)。これにより、コンスタンティヌスの一貫した自己認識がヘリオス・ソル神であったことが立証されるはずで、キリスト教的プロパガンダの虚構性ないし相対性が明確になるはずでアル。

左、ポイティンガー地図で、コンスタンティノポリスに特に表示されている円柱;中央・右、紫斑岩製円柱上のHelios神としてのコンスタンティヌス像復元図

 以下の写真はこの円柱の柱頭の状況である(この時はパイプで足場を組んでの作業のようだった)。その凸凹を検証して上記のような立像が再現された(後世に、十字架が立てられたりしている)。私はこれをローマで、コンスタンティヌスのアーチでやりたかったのだが、ドローン撮影は許可が必要で果たしていない。

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古代ローマの感染症:(8)その工芸品?への反映[閲覧注意]

 残念ならが、今秋の広島での学会大会も中止されたようだ。確かに晩秋であれば年中行事のインフルエンザの流行にまぎれて、コロナの再発もありえるわけだ。そこで発表予定だった内容の中心部について、概略を記しておこう。初めに弁解を。この勉強を始めて海外に発注した本を二か月経っても未だ入手できていない。航空機が飛んでいないせいだろう。また、国内大学図書館も休館中である。そのため文献的に完璧を期せてないことをお断りしておく。

 マルクス・アウレリウス時代の疫病については、すでに史料的限界が許す限りでの検討が行われてきた。ここではちょっと従来と違うアプローチを試みる。それは、出土遺物の、とりわけ彫像類において病気を示していると思われる諸事例の検討である。それに関して、古来(といってもせいぜい19世紀以降であるが)挙げられてきたものを、感染症の周辺を含めてまずは列挙してみる。

 ちまたでは、疫病の考古学的証拠として著名なのは、たとえば、エジプトのファラオ・ラムセス5世(前1157年死亡)のミイラの頬に一面のイボがある所見から、彼の死亡原因が天然痘だったのではと言われてきたが、最近では、この痕跡は水疱瘡によるものと疑われているらしい(水疱瘡はヘルペスウイルスで、人類誕生以来感染していた)。さてどうだろうか。私のような文系の素人からすると、細胞培養かなんかすれば病原菌も特定できるのではないかと想像するのだが。また、庶民のミイラもたくさん出てきているのだから、それらの調査ではどうなっているのだろうか、とつい思ってしまう。

左はラムセス5世のミイラ、頬のぶつぶつに注目;右は水疱瘡の皮膚所見:ぜんぜん違うような

 古代の医療に関しては、ex voto(病気治癒の祈願成就の奉納品)の出土品がまずは注目される。著名なのは古代ギリシアのアスクレピオス神域からのそれらであろう。ローマ時代だとたとえば以下は、首都ローマのテルミニ駅の東、引き込み線操車場の南に隣接のTempio di Minerva Medica(医療女神ミネルウァ神殿)出土のex votoである。

左,上左が胎盤、右上は乳房・下左が内臓、下右が子宮;右、足と手

 こういったex voto以外にも、グロテスクな異形の人物像(例えば、くる病、朱儒など)を表現した遺物は多く、中には義足・義肢らしきものの出土すらある。

左上、エジプト出土ミイラの、左下、イギリス出土の、足指補正具;右はカプア出土の金属製義足とその縦断面

 だが、我々が知りたい感染症関係の証拠はほとんどない。かろうじてこれまでそう主張されてきたものについて列挙し、だが判定にきわめて慎重なのが以下の論考である。M.Grmek e D.Gourevitch, Les Maladies dans l’art antique, Fayard,1998, pp.341-347. なにしろそもそも該当テーマでの彼らの章立てが「錯覚の病理学 Les Patrologies illusoires」となっていて、従来の諸見解は妄想であると概ね斥けている。彼らが列挙するもののうち、マルクス・アウレリウスの疫病に直接関係するのは、②、③、⑤の3つだけで、しかも著者たちはいずれに対しても天然痘を表現したものでないと結論づけている。これをめぐって若干の論争があるがここでは深入りしない。

① 播種性結節により神経線維腫の診断が下された小立像:この写真のみ現存し、大きさすら不明の由

この写真のみ現存し、所在不明で追跡調査不能

② 皮膚に結節が描かれているサテュロス像:ローマのVilla Albani-Torlonia所蔵

足に顕著なぼつぼつは、野蛮性を表現しただけのことでは、と:右二つは美術表現としてそう描かれているシレノス像

③ 多数の結節が描かれた肘ないし膝の断片

何を表しているのか諸説あるが、先述のTempio di Minerva Medicaで発見されたので、膿疱の可能性も否定できない。

④ 単なる女神・女性像の頭髪部分の剥落事例?

これもTempio di Minerva Medicaで発見されたので、「禿頭」平癒祈願との解釈もあながち捨てきれないような

⑤ 髭ないし毛瘡を思わせるドッド模様

首や胸にも見えている:ナポリ国立博物館所蔵

 たしかに古代の事物製作者がいかなる意図でそう描いているのか、慎重に考察すべきであるが、とりわけex votoの場合は病理現象に関わっているという方向で捉えてよいかもしれない。

天然痘の症状:学会の口頭発表では最初にこれらを見せて、つかみにしようと思っていたのだが・・・、我ながら悪趣味である

 最後に付言しておく。このex votoであるが、実は現代にいたるまでよく見られる奉納物である。特に、奇跡を信じるイタリアにおいては。市内を歩いていて突如心臓を模した金具がいっぱいぶら下がっている壁に遭遇したり、巡礼地や教会内の聖母マリア像なんかのまわりに一面にぶら下がっていたり(2019/12/11掲載のSant’Agostino教会の聖母子像右のもそれ)・・・。否応なく庶民の悩みの多くがとりあえず病気や身体的不具合であることに気づかされるのである。治癒を願っての奉納が勝っているような気もしてくる*。となると、右足首が思わしくない私もそろそろ奉納してみようかしら。

石畳が多く冬冷え込むイタリアでは足がらみが多いように思う:子供のそれは受胎祈願、いや水子供養もありか
  • 最近知ったのだが、祈願成就での奉納はvota solutaで、祈願のそれはvota suscepta、というらしい。

【余談】ところで、アスクレピオス神殿等での古代ギリシア以降のex votoの奉献物に、明らかに腹部切開による内臓器や子宮の奉献物があるわけで、これはすでに古代において人体解剖は行われていた、としか私には思えないのだが。やはりガレノスの動物解剖は世間的目くらましだったのだろう、という確信が強まらざるを得ない。我が愛しい嫁さんは、「動物を解体して食していたのだから、生きた人間に何かをするのは避けたにしても、死体を腑分けするなんてことは簡単なこと」とのたもうた。この調子だと私の死後、平気で腑分けされそうで恐ろしい。ちなみにご自分は解剖させていただいた恩返しで献体登録されていらっしゃる。立派なことだ。私は、一年間フォルマリンのプールに無様な裸体でプカプカ浮かんでいるのを想像するだけでおぞましく(それ用にダイエットしなきゃあならんだろ (^_^;)、直行での焼却炉行きを希望している。

左、パレストリーナ博物館所蔵;右、ローマ・ティヴェル川・中の島出土、ローマ国立博物館所蔵
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