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コインから引退皇帝の表情をうかがう

 面白いコインが売りに出ていた(PEGASI NUMISMATICS SALE 158 Hosted by Agora Auctions)。周知のように、四分治帝tetrarchの東西両正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは305年5月1日に同時に引退した。それを記念した銀5%程度含有の青銅貨AE FOLLIS、よって発行年は一応305-6年とされている。出品業者の説明では、左がディオクレティアヌスで造幣場所はロンドン、右がマクシミアヌスでトリーア製、裏面はいずれも同じで,右側のProvidentia(「神意」の擬人化)が手に持った枝を左のQuies「静寂」に差し出しているデザイン。両方ともマクシミアヌスの後継西部正帝コンスタンティウス・クロルス領域での打刻であるが、今回の政権禅譲で帝国が平静であれかしとの思いが伝わってくるような気がする。マクシミアヌスのほうの表情によりリアリティを感じることができるのも、これまで彼の副帝で女婿コンスタンティウスによるものだからかも知れない。落札希望価格も同じで$335。$250からのオークションとなっているが、すでにマクシミアヌスのほうは「SOLD」表示が。開始直後に言い値で落札されたわけだ。収集家がほしくなるような個性をマクシミアヌスに感じることができたからだろうと納得。ちなみに、ディオクレティアヌスは引退時60歳で、マクシミアヌスは4、5歳年下だったと想定されている。

 彼らが二分治体制dyarchyを敷いた286年では、ディオクレティアヌスが41歳、マクシミアヌスが36, 7歳で、その頃の少壮期の両帝の表情と比較してみるのも一興であろう。それが以下のローマ造幣所打刻の記念金貨*。両者ともに精悍さに満ちた顔つきであるが、多少くずれているとはいえ20年後もほぼまだその線を維持しているかのように見えるマクシミアヌスに比べ、ディオクレティアヌスの衰えは著しい。精気がまったく感じられないのである。よもや病み上がりが反映されていたとも思えないが。それでもディオクレティアヌスは隠居地Split(現クロアチアのダルマチア海岸の町)で引退後8年間生き続けた。他方、マクシミアヌスは帝位復活を目論んで再三策謀をめぐらし、ために実子マクセンティウス、女婿コンスタンティヌスに疎(うと)まれ、後者によって5年後に死に追いやられてしまった。いずれが武人としての生涯を全うしたというべきか、微妙である。

裏面は、象のクワドリガに両名が乗っての架空の執政官就任行列か
  • J.P.C.Kent,photo.by Max & Albert Firmer, Roman Coins, London, 1978, p.323によると、本コインは287年の両帝執政官就任行列を描いたもの。その根拠は、裏面銘文「IMPP DIOCLETIANO III ET MAXIMIANO CCSS」だが、両帝同道の行列そのものは架空のものか。これはAureus金貨5枚分に相当する記念金貨として軍高官や高級官僚に送られた一品で(すなわち流通貨幣を意図していない:cf., S.Williams, Diocletian and the Roman Recovery, London, 1981, p.49)、現品はAboukir遺跡(エジプトのアレクサンドリア北東端の岬)から出土の由。
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コロナ・トイレ関連三題:トイレ噺(15)

【閲覧注意!】「英国でトイレ危機 草むらで続出、女王の居城までも被害」(https://digital.asahi.com/articles/ASN7S3DVKN7RUHBI01V.html?iref=com_rnavi_arank_nr02)。2020年7月24日 但し有料。

 内容をまとめると、コロナで休業しているパブや公共施設が多いせいで、公園内での処理が続出している、とおもいきや、それ以前から予算削減で公衆トイレ全体の二割が閉鎖されていて・・・、というお話。それはたくさんの「拭いた紙」(但し、ティッシュなので雨でもすぐには分解しないわけで)が捨てられてのことで、だから小ではなく大なのだろう。

ロンドン東部の公園、ロンドン・フィールズ内に設置された「ここは公園で、トイレではありません。それは家に帰っておやりください」と書かれた掲示

 ポンペイやオスティアなど広大な遺跡でも、物陰にその痕跡があったりするが、元ワンゲルの私には「野ぐそ」は爽快で、普通にやっていたので違和感はない(但し、スコップで掘ってやっていた。いわゆる「キジ打ち」)。ただ、素人さんへ緊急時におけるご注意をひとつ。蛇やサソリなんかに咬まれないため事前に草むらをふみつけるのを必ずやること。また、これは実体験したことだが、朝夕の一定時間帯にはブトの活動が活発化する、それを知らなかった入部直後に露出したお尻を集中攻撃され(金玉もやられた)、テントに帰ってかゆくてしかたなくシュラフの中でボリボリかいて指の爪が血だらけになったことがある。皮膚の直下に血だまりがデキているからだ。呉々もお気をつけください。

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https://digital.asahi.com/articles/ASN572V8GN57UHBI00M.html?iref=pc_extlink 2020/5/7

いかにも英国:「ロックダウン」教授から「パンツダウン」教授に:外出制限中に自宅で密会  

 英国で、新型コロナウイルスの感染抑止策として厳しい外出制限の導入を政府に進言した著名な大学教授が5日、外出制限のさなかに女性を自宅に招いたと報じられた。教授は「判断を誤った。後悔している」として、政府の専門家会議の委員を辞任した。

 英紙テレグラフによると、感染症数理モデルの専門家、インペリアル・カレッジ・ロンドンのニール・ファーガソン教授は、政府が同世帯の人以外とは会わないことなどを国民に要請する外出制限に踏み切った3月下旬以降、少なくとも2回、交際している既婚女性(!)を自宅に招いていたことがわかり、大衆紙から「パンツダウン教授」とやゆされるはめに。

 ファーガソン教授は3月半ば、感染が疑われる症状が出た人だけに自宅待機を求めるなどの緩い措置のままでは25万人以上が死亡し、医療態勢もパンクするという試算を発表。これがきっかけとなり、英政府は全ての人を対象にした外出制限や商店の閉鎖などを含む厳しい措置に踏み切った。政府の施策に強い影響力を持つことなどから、同紙は教授を「ロックダウン都市封鎖)教授」と名付けている。

 ファーガソン教授は報道後の声明で、新型コロナに感染して回復し、自分には免疫があると信じていたと弁明した上で「ウイルスの流行を抑えるためには社会的距離をとることが必要であり続けるという明確な(政府の)メッセージを揺るがしたことを深く後悔している」としている。(ロンドン=下司佳代子)

 記者は別所のインタビューで以下のように述べている(但し、有料):

Q なんか、めちゃくちゃですね。……。

A もっとも、不倫が問題になったというよりは、ロックダウンを言い出した専門家が自ら外出制限を破っていたことが批判されました。 たとえばジョンソン首相にしても、過去に2人の妻がいて、子どもは「少なくとも6人」と言われるなど、・・・(イギリス人に)あまり気にされている様子もありません。退院後に出産した婚約者ともまだ正式な結婚はしていませんし、日本とはとらえ方が違うのかもしれませんね。(聞き手・神田大介

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 コロナがらみでトイレ話をもうひとつ。「トイレスリッパは必要?実験でわかった意外な効果」(https://lidea.today/articles/46?utm_source=outbrain&utm_medium=display&utm_content=lifehack2&dicbo=v1-6676fddf5cf95f190087fecd57c801cd-00db9f691cb51569c0c01ab018dcadb8bc-geydayjugq3dcljtgi4tcljumm4tsllbg43ggllbmfswmztcmnrgeyrvgm)。アップは2014/10/23。

 欧米でのコロナ感染拡大に、屋内での土足そのままでの生活が一役かっているのかも。

 「思わぬところにリスクも トイレとウイルス感染の関係」2020/7/29(https://style.nikkei.com/article/DGXMZO61535750V10C20A7000000?&ora)

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コンスタンティヌスのアーチ門:北面東側レリーフをめぐって

 以前、「続・コンスタンティヌスのアーチ門の太陽神について」(2020/6/5)の中でちょっと触れているが、あらためてここで図版を掲示して説明を加えておきたい。掲載図版はすべてウェブから拝借した。

 実は、テトラルキア時代のフォロ・ロマーノについて面白い研究テーマが転がっている。ディオクレティアヌスが開始したテトラルキア体制の理念を象徴する建造物がそこに幾つかあり、それにその支配体制の継承者を自認していたマクセンティウスが一連の公共建築物を追加、だがその後、征服者としてローマに入城したコンスタンティヌスは彼らとは一線を画して、マクセンティウスの造営を乗っ取ると同時に、ローマ帝国の単独支配理念を復活させている、という視点で彼の公共建築造営を位置づけようというものである。それが最もよく現れているのが、アーチ門の北面東側のレリーフである。

北面東側レリーフ全体図

 左から見てゆく。さりげなく背景として刻まれている記念建造物に集中したい。

左はフォロ・ロマーノ西端の平面図;右再現想像図は、西からの景観。手前左からセプティミウス・セウェルスのアーチ門、ロストラ、ティベリウスのアーチ門、そして90度向こう側にバシリカ・ユリア

 レリーフ左端から見ていく。この部分の背景左半分を占めて4連のアーチが見えるが、これらは明らかにBasilica Juliaを示している。そして右端に若干大きめのアーチが続いているが、これはArcus Tiberiを示していると思われる。前者がガリア戦争での戦利品で前54年から建設が開始され、アウグストゥス時代に完成、後者は後9年にゲルマン人に奪取された軍旗返還を記念して後16年に建立された。前面の群像はローマ市民男性で、一人男児が描かれている。

 ただ、中央広場から西を見たときに、Basilica Juliaは正面ではなく左に位置している。そしてArcus Tiberiは、最近の説ではBasilica JuliaとAedes Saturuniの間の通りvicus Jugariusの入り口に想定されている場合もあるので(上記平面図でゲタ記号状の印の箇所がそれ)、その場合これも中央広場から直接見れたはずはないので、いうまでもなくレリーフ製作側の意図的意志だったと思われる。

 次に、レリーフ中央部分。背景に見える列柱は、テトラルキア体制創設10周年を記念して303年に建設された5柱記念物で、中央柱頭上に主神ユピテル像(ディオクレティアヌス帝の保護神でもある)、その左右に4帝立像が配置されていた。手前の囲い部分がロストラ(演壇)で、その左右端にマルクス・アウレリウス帝とハドリアヌス帝が座像で描かれている。群像中央の顔面が破損された立像がコンスタンティヌス帝で、あとの登場人物は元老院議員集団。

左がロストラ正面の想定例、右が背後からの復元想像図、の一例(レリーフに一致したものを選んだ)
こちらの方が円柱の配置に関しては正しいかも

 最後にレリーフ右端背後に見える3連アーチは、セプティミウス・セウェルスのアーチ門。いうまでもなく対パルティア戦勝利(後194/5と197-9年)を記念して後203年に創建された建造物。手前の群像はローマ市民男性で、右端に男児2名が紛れ込んでいる。

 総体的にこのレリーフは、いわゆる対外戦争勝利を記念した記念建造物、とりわけユリウス・クラウディウス朝がらみとセウェルス朝の凱旋門が左右に描き込まれ、中央演壇上にアントニヌス朝の2皇帝、そしてコンスタンティヌスにとっては直前の第一次テトラルキアの4皇帝(その一人が父コンスタンティウス)が刻み込まれていて、自らをローマ帝国を代表する諸皇帝の正統継承者として表現しているわけである。315年、未だ皇帝として盤石の地位を確保できていなかったコンスタンティヌスにとって重要なプロパガンダであったし、実質的にアーチ門建立を担ったローマ元老院としては、新皇帝の治世方針がローマ元老院を尊重する帝国再興の賢帝であれかしとの思いもあったはず。ある意味で両者同床異夢の蜜月時代を演出していたわけである。ただし、コンスタンティヌス帝自身は、旧帝都ローマを疎んじ、すでに過去の遺物と見ていた節があり、それは単独皇帝となった324年以降にあからさまになる。その意味で彼は皮肉にも、テトラルキア体制からの脱却をはかっていたにもかかわらず、こと対旧都ローマに関してはディオクレティアヌス帝の遺志の継承者でもあったのである。

 最近の考古学の成果を反映した以下の書籍が必読(見)文献。Gilbert J.Gorski & James E.Packer, The Roman Forum:A Reconstruction and Architectural Guide, Cambridge UP, 2015;Ed. by Andrea Carandini e Paolo Carafa, Translated by Andrew Campbell Halavais, The Atlas of Ancient Rome:Biography and Portraits of the City, 2vols., Princeton UP, 2012;Gregor Kalas, The Restoration of the Roman Forum in Late Antiquity: Transforming Pbulic Space, University of Texas Press, 2015.

【付記】ほとんど知られていないはずだが、フォロ・ロマーノにはここで触れた古来からの「ロストラ」(別名「西のロストラ」「アウグストゥスのロストラ」)の他に、中央広場を挟んで3世紀末ないし4世紀初頭に「東のロストラ」も造られていた(それ以前からあったとする説もある)。これは現在の遺構だとカエサルの火葬場遺構の前方西側に見ることができる。その建設はテトラルキア体制によるフォロ・ロマーノの再構成の一環だった。よってこの東のロストラは別名で「ディオクレティアヌスのロストラ」Rostra Diocletianiとも呼ばれているが、テトラルキアの正統継承者を自認するマクセンティウスが、フォロ・ロマーノ東端で自らの権威を誇示すべく一連の公共建造物(ロムルス霊廟と新バシリカの新築、女神ウェヌスと女神ローマの神殿修復;その他、アッピア街道沿いに競技場、さらにクイリナーレの浴場もか)を建設した時のものとする説もある。

左はフォロ・ロマーノを南東上のパラティーノ丘から見た写真、中央長方形区画の左に残る遺構が「東のロストラ」跡;右は後310年頃の復元想像図
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長生きはするもんだ:Ticinum銀貨

 ニコメディア・レリーフ関係でコインをチェックしていたら、なんと驚くべきことにぶつかった。それは2020/3/11のほうに追記として入れておいたが、私の一生の間にこんな僥倖に遭遇するなど考えたこともなかった。2020/1/12掲載のSPES PVBLICAEが3000ドル、2020/3/28のConと息子二人のが7750ドルで、特に前者が市場に出てきたことはそれでもまあ可能性としてあり得るような気がしていたが、今回のTicinum銀貨のご登場にはまったく度肝を抜かれてしまった。なにしろ現存4枚目という超稀少コイン、その上新品同様の保存状態なので、2825万円(25万スイスフラン)という落札価格も納得である。オークションからすでに二年、然るべき博物館の所蔵になっていて、いずれご対面の機会が得られることを祈っているのだが。

https://www.numisbids.com/n.php?p=lot&sid=2518&lot=1051

 以前表側をみつけたエルミタージュ博物館蔵の、鮮明な裏側写真も探しているが、まだみつけえていない。情報をお待ちしている。

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4/9発注本、ようやくのご到着

 インターネットで古書販売のAbeBooksに発注していた本が一冊ようやく届いた。そもそもの到着日に関しては以下のように書いてあって、早くて5月半ば、遅くても6月上旬だったはずが、でも平常だとこの数字より早く着くのがいつものことだったが、コロナ騒ぎのせいでそれよりも余分に20日遅れたわけだ。

Estimated Delivery Date: June 3, 2020 
Approximate Shipping Speed: 21 - 36 business days

 1996年出版の疫病関係の書籍で、価格が4.60ドルで送料が9.00ドル。目次を見たら、本文220ページ中、私に必要なのはとりあえず8ページだけ。こんなの国内大学図書館にあれば(ないから海外発注した)、まあ今回の半額以下でコピーがとれるのに、と思ってしまう。しかも、すでに当面の関心は別に移動しちゃっているので、読むのはいつになることやら、だ。

 その前後で海外発注した数冊の本、いつ届くことやら。なにもかも、一件以来宅配便は遅れがちであるが、まあこれまでが無用に早かったともいえるので、これでいい気がする。

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ニコメディア出土のレリーフ:遅報(41)

 小アジア半島の北西端に位置するニコメディア(現在名イズミット)は、テトラルキア体制の上級正帝ディオクレティアヌスが自らの都に定めた場所であるが、なぜかこれまでめぼしい遺跡に恵まれず、他の諸皇帝の首都(トリーア、ミラノ、シルミウムないしテッサロニカ)に比べて、もの足らないものがあった。21世紀に入り、市内中心部のチュクルビク地区のビル解体時に地下に眠っていた遺跡が発見され、2度(2001,2009年)の緊急発掘にめぐまれ、そこからかつての煌びやかな帝都にふさわしいディオクレティアヌス時代の多色レリーフや立像が出土した。ニコメディアはかの時代、大理石の集散地で、主としてマルマラ海に浮かぶプロコンネソス島産や、ニコメディアの南東200kmのフリュギア地方のドキミオン産大理石を扱っていたが、今般の出土品はプロコネンソス産。出土品はレリーフ30以上、少なくとも4体の巨像の諸断片、1ダースほどの建築資材であった由。

右平面図の黄土色が、ビルに取り巻かれた発掘地点で、黒点箇所からレリーフが発見された:まず下方、次いで上方、だったのだろう

 まだ悉皆的な紹介・報告はなされていないようだが、もっぱら報道され目を奪うのは、何らかの歴史的場面を描いた諸レリーフで、軍事遠征、戦闘、捕虜の移送、凱旋式、将軍たちの会合が描かれていた(といっても、公表されているのは、ここで示したものに限られている)。ヘラクレス、アテネ、ローマ、ニケないしウィクトリアといった神々は持物(「じぶつ」と読む)によって容易に判別可能で、また、剣闘士競技、戦車競走、劇場での演劇など、ニコメディアの人々の日常生活も描かれている由。いずれも完品の出土ではないが、部分的に着色がまだ残っているほど保存状態は良好である(劣化を防ぐため保存処理中で、現在非公開)。私の印象では、人物の描き方が後期帝国に顕著な静的で冷厳な様式からはかけ離れていて、むしろ帝国東部の緻密で繊細なモザイク表現に似かよった親しみやすささえ感じてしまう。たとえが変かもしれないが、肩肘張らず一本力が抜けた感じの造形なのだ。

入城式adventusでの、中央に女神ローマ座像、手に女神ニケ像、左右両端はトガ姿の市民たちか(少年もいる)

 2001年の発掘をもとに当初は、後2世紀末のセプティミウス・セウェルス帝関係の戦勝記念物と想定されたが、2009年の発掘結果により、ディオクレティアヌス時代がらみ(後284-330年の間)の戦勝記念物で、ただ、幾つかのレリーフはより以前の建造物の再利用や奪取spoliaによるせいで、より以前の表現形式が見られる、と分析された。注目すべきは、幾つかのレリーフがテトラルキア時代の芸術で基本となるモチーフが表現されていることで、その代表例が以下である。これは2009年に発見されたレリーフで、中央にひときわ大きく二名の人物が描かれており、彼らは、玉座が設えられた4頭立4輪馬車carrucaから降りて歩み寄り抱擁しているので、この二人をディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝と特定して同定することも可能であろう。ならば、テトラルキア以前の二皇帝diarchia時代(後293年以前)の場面を表していることになる。となると、コンスタンティヌスのアーチ門(315年落成)に先立つこと20数年前、テッサロニカのガレリウス凱旋門(303年落成)に先行することわずか10年ほどの作ということになり、必然的にそれらとの比較が可能となるはずである。とりわけ風雪で摩滅が甚だしいガレリウス凱旋門上のレリーフの復元の参考になるであろう(ここでは詳しく触れないが、同時代の画像として、エジプトのLuxor神殿内のフレスコ画、スペインはCentcellesの天井モザイク画、シシリー島のVilla Romana del Casaleの床モザイク等との比較研究は心躍るものがある。これらのいずれについても現地訪問も果たしているのだが。問題は私に残された時間である・・・)。

1枚のレリーフはおおむね高さ1m、幅1.5m

 ところで、これがなぜディオクレティアヌス時代の基本的モチーフなのかというと、以下のヴェネツィアのサン・マルコ聖堂前の四帝立像や、ヴァチカン図書館所蔵の二帝立像(いずれも紫斑岩製)がどちらも抱擁の挨拶を交わしていて、それによりテトラルキア体制でのスローガン「一致 concordia・一様 similitudo・友愛 fraternitas」が強調されているからである。この件は貨幣その他のデザインとも通底しており、いずれ詳しく比較検討したいテーマではあるのだが、その時間が残されているかどうかは神のみぞ知るなので、ここでも興味深いネタが転がってますよと、若い後進にお知らせしておこうと思う。

左からヴェネツィア、ヴァチカン、ニコメディア:比較してみると、右端の緻密さは圧倒的だ

 なお、色彩が鮮やかに残っているので、発掘プロジェクト責任者のTuna Şare Ağtürk博士などは、建築後そう時を経ず、おそらく358年に当地を襲った大地震でこの記念建造物が破壊されてしまったのであろう、と想定している(http://archive.antiquity.ac.uk/projgall/sare346;https://www.jstor.org/stable/10.3764/aja.122.3.0411)。屋内の展示であればその仮説も可能かもしれない。私はそれ以上に、コンスタンティヌス王朝時代の意図的破壊や、コンスタンティノポリス建設材料に回されてしまった可能性ありかもと、想像しているがどうだろう。

Tuna Şare Ağtürk博士:生誕年不明

【参考図版】

① Luxor神殿内のフレスコ画:

② Centcellesの天井モザイク画:https://www.mnat.cat/en/monumental-complex-of-centcelles/

上図のように四人の玉座が描かれている;下図での人物像表現にも注目したい

③ Villa Romana del Casaleの床モザイク:https://www.piazzaarmerina.org/villa-del-casale/la-villa-del-casale

皇帝と目されもする人物たち:左中央がマクシミアヌス、右中央がマクセンティウスと想定説あり

④ テッサロニカのガレリウス凱旋門:http://galeriuspalace.culture.gr/en/monuments/kamara/

上部中央のトガ姿の4名がテトラルキア・メンバー:中央着座の2名の左右に月桂冠を捧げる有翼のアモル
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ツタンカーメン:遅報(39)

 専門外の著名な考古学的知見については、素人なので触れたくは無いのだが、先ほどBS4Kで「地球ドラマチック」「ツタンカーメン:財宝に刻まれたファラオの真実」(2018年フランス製作)の再放送をみて、びっくり。それよりちょっと前にこれも偶然見た再放送、たぶんBSプレミアムでの「探険!ツタンカーメン王墓」(2017/11/18放送)がCG技術を駆使して詳細に扱っていたのをみた後だったので、まあ、製作の時差が一年あるにしても、あれれと思わされてしまった。「探険!」の内容がもう古い感じなのだ。

王墓全体の透視CG画像

 核心はなにかというと、2018年のほうがなかなか興味深い話で、仏人研究者マルク・ガボルド博士の仮説に基づいて、これまでツタンカーメンのものと思われていた副葬品やあの黄金のマスクも別人用に作られていたことが、カルトゥーシュの書き変え痕跡から判明した、というもの。書き換えの事実は2015年頃にすでに判明していたようで、元の名前については諸説あったようだが(https://55096962.at.webry.info/201601/article_19.html)、2018年の番組ではイクナートンの四女だっけの「メリトアテン」で、どうやらツタンカーメンが大きくなるまでつなぎで女性ながらファラオをやっていたということらしい。以下の図の緑がツタンカーメンのカルトゥーシュで、赤の部分がそこに残されていた前の痕跡、それに基づいての復元例が黄色というわけ。

以下から拝借:https://55096962.at.webry.info/201601/article_19.html

 その説に基づいてのことかどうかは不明だが、最近の以下の論文でもツタンカーメン王墓内出土品に「メリトアテン」名が残っていると指摘されていて、これはもう定説となっているようで、素人にはたいへん興味深かった(野中亜紀「トゥトアンクアメン王墓出土のクラッパーに関する一考察」『貿易風 :中部大学国際関係学部論集 』第14号、2019)。

 ところでコロナ騒ぎで取り紛れ忘れていたが、私の余命はあと2610日。

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ポンペイ修復作業終了:遅報(38)

 ポンペイ遺跡は、それまでの遺跡保存管理が不十分だったこともあり、10年前頃から各所で遺構が倒壊した。そのためユネスコが世界遺産登録取り消しを警告したのをきっかけに、2014年からEUの支援を受けて修復作業に入っていたが、2020/2/18に終了が宣言された。かかった費用は約125億円。

 修復の一環で、ポンペイ発掘開始270周年を記念して第五地区の一部が新発掘され、すばらしい成果を上げているが、ここでは2019/10に公表された剣闘士競技のフレスコ画を紹介する。今回はさすがに遠慮して、小さな画像に留めるが、詳しくは下記の「Pompeiiinpictures」をご覧ください(YouTubeつき:それをみると規模的に小さく狭いことがわかる)。

 管理局はいつものように正確な番地を公表していないが(まだ未定なのかも)、「剣闘士たちの宿舎」 Caserma dei Gladiatori(V.v.3) 近く(?)の居酒屋(タベルナ)の二階への階段下で発見された(私には中二階にみえる。だったらそこは倉庫だった可能性もある:なお、ある記事で地下室とされているが誤訳:たぶんground floorがらみ?)。写真右側で勝負あった瞬間が描かれている。左側に下半身だけ一人描かれているが、その服装からすると審判員のようにみえるがどうだろう。このタベルナについて詳細な紹介が「PompeiiinPictures」のHPですでにアップされているのは、さすがだ。これをみただけで、誰もがおびただしい新発見に目を見張るはず(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R5/5%2008%2000%20gladiatori.htm)。そこでは出土場所は「Termopolio con Gladiatori Combattenti : Bar with fresco of gladiatorial contest at crossroads between Vicolo delle Nozze d’Argento and Vicolo dei Balconi」と名付け、表現されている。

 ところで古代ローマ時代では、居酒屋といえば,酌婦は売春婦を兼ねていて(そのほとんどが女奴隷だった)、二階へとお客さんをいざなったり、だからそこにベッドがあるので簡易ホテルにもなっていた、そういう場所である。ただ、剣闘士が描かれているからといって、「剣闘士の宿舎」の住人たちがなじみ客だったと結びつけるのは私には疑問だ。二区画西のさらに北側なので隣接しているわけではないし、剣闘士が自由に居酒屋で飲食できていたとすると、私などカーク・ダグラス主演「スパルタカス」やラッセル・クロウ主演「グラディエータ」などで獲得した、従来のイメージを大幅に修正しなければならない(そもそも、目抜き通りの1つ「ノラ大通り」の真ん中に面して剣闘士宿舎があることすら、私には納得できないのである:剣闘士がらみの落書きがいかに多くあるにせよ、だ。むしろそこは興行主やパトロンの屋敷で、試合前夜に招かれ供応されてのそれら、と考えたいところである)。ポンペイの専門家たちはどういう根拠でそう言っているのだろうか。

【疑問】フレスコ画の右端の敗者がこちら向きだとして、右手の動きがよくわからない。兜を脱ごうとしているのか、顔を覆っているのか。左手の指を1本立てているのは「降参」のサインだろう。

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続・コンスタンティヌスのアーチ門の太陽神について

 論じ残しているちょっとしたテーマに、ローマのコンスタンティヌスのアーチ門(凱旋門)上の東面に掲げられているトンド内の太陽神像があります。以下に、トンド全体像と太陽神拡大図を掲載してみます。

東面トンド

 何かお気づきのことありませんか。・・・ 私は以前からこの太陽神に違和感を感じてきました。らしくない、のです。まずなんとなく女性っぽい描き方なんですが、この点は西面の月神が明らかに女神として描かれているので、それとの対照により一応除外しておきます(顔つきは月神のほうがきつい感じすらします:太陽神のほうが摩滅しているせいかもしれません)。また、着衣が横皺が目立つトガのようにではなく、ギリシア風に見えるせいもあるでしょう。

 そんなこともあって、らしくない、そう、勇ましくないのです。これは不敗太陽神Sol Invictusとの対比からくるせいかもしれません。このHPの「実験工房」のほうで2018/5/20口頭発表「戦勝顕彰碑としてのコンスタンティヌスのアーチ門」を掲載してますが、その末尾近くでこのトンドについて「東に4頭立て戦車、クワドリガで今まさに海上から天空に浮かび上がってきた太陽神、それを導くアモル、海中でそれを眺めている海の神オケアノスが描かれています。なおここでの太陽神は、放射冠をかぶっていません」と触れていますが、端的に放射冠抜きなのです。となると、本当に太陽神なんだろうか・・・。先に触れた衣装からよりギリシア的にアポロ(ン)神的イメージが勝っているような気にもなってきます。そうは思いませんか。それでトンドに似たアポロンの彫像を見つけようと探したのですが、これがなかなか・・・。というのは神は完璧な肉体をお持ちなので、アポロン様はだいたいが裸でして・・・。そんな中、ようやく見つけることができたのが以下の右です。

左がよくある裸体像、右は竪琴がなければまさしくトンドのそれ:いずれもヴァチカン博物館所蔵

 ところが、アーチ門の東側廊での太陽神はかなり破壊が進んでいますが、斜めからの写真だと頭上に放射の鋭角の三角形が辛うじてわかります。またアーチ門上に複数刻まれている軍旗の竿頭飾りのそれでもちゃんと放射冠が確認できます。下に、ギリシア的なヘリオス神像を示しておきます。

左、東側廊の太陽神を左45度でみる;右、西面レリーフの太陽神:頭部の上枠にギザギザの刻み
前4世紀のものらしい

 こうして、同じアーチ門上で、東面トンドのそれと他の太陽神の表現が放射冠他に関して異なっていること、そして東面トンドのほうがとりわけ不敗太陽神Sol Invictusとしては特異な表示である、と指摘できるように思います。それが何を意味しているのかですが、ひょっとして、トンドのそれはギリシア的アポロン像風に描かれているのかも、と今現在考え直しております。

【追記1】このギリシア的表現は、西面のルナ女神でより一層指摘できるかもしれない。たとえば、彼女の後に羽衣風にたなびいているストール、それにどうやら片肌脱ぎで(ここでは左肩を)露出し、さらに彼女の頭上にかつては三日月があったらしい痕跡も認められ、さらに二頭立て二輪戦車bigaに騎乗していて、むしろギリシア神話のセレネの表象が勝っている印象なのである。

後3世紀作のセレネ:メトロポリタン美術館蔵

【追記2】ここまで書くと、どうしても私は以下の2点を思い出し、触れたくなる。一つは、ギリシアのパルテノン神殿東側ペディメント「アテナイの誕生」の両端彫像である。ここでは、復元修復したものを示す。

左が上昇するヘリオス、右が下降するセレネの戦車:この場合、両方とも四頭立てだが

 もう一つは、Prima Portaのアウグストゥス像の鎧上部のヘリオス神と四頭立て二輪戦車である。

ここでのヘリオス神の衣装はまさしくアーチ門のそれと類似:
中央上部は天空神ウラノス

 こうしてみると、アーチ門東西両トンドの神像は、どの神名をとるかはともかくギリシア的意匠に準拠している、すなわちヘリオス/アポロンとセレネで、それがローマ神話のアポロ/ソルとルナに横滑りし、さらにソルからソル・インウィクトゥスに特化していくプロセスが見てとれる、と考えた方がいいように思われる。コンスタンティヌスがアウグストゥスをも意識して視野に入れていたことは、アーチ門両面に掲げられた銘文から明白である。

【追記3】私は、コンスタンティヌスは彼の統治領域内では、そこ出身の自軍兵士たちの共感を得るためにまずケルト系の太陽神を自分の守護神に選んでいた、それを帝国中心部においては東方起源の同様な太陽神ないし古代ギリシア的なアポロン神・ローマ的なユピテル神に重ねることで汎地中海世界的な自己プロパガンダの基軸とした、との仮説を提示している。したがって、315年段階での本アーチ門での太陽神図像はあくまで首都ローマに寄り添ったものと理解することになる。その観点からすると、帝都ローマでのコンスタンティヌスのアーチ門の西面(出立図:Profectio)と、東面(入城図:Adventus)に描かれている鹵簿での皇帝臨座の馬車の車輪は意味深かもしれない。

西面:Quadrigaというよりも、四頭立て四輪馬車carrucaだったことがわかるが、馬車や人物像の描き方にかなり違和感がある
東面:こちらも玉座仕立ての四頭立て四輪馬車だが、納得できる描き方
20世紀初頭の復元図:かなり杜撰だが車輪はちゃんと描かれている

 なお、今や破壊されて跡かたもないが、同じく東西両面のトンド上の戦車にも車輪があった:現状で車軸のみ確認できる。

上図とここの典拠は以下:Salomon Reinach, Répertoire de Reliefs Grecs et Romains, Paris, 1909.

 生存中に改めて一文を草する余裕がないかもなので、他の気付きもメモしておこう。東西面レリーフでの登場人物たちの顔の向きが前後を向いているのは、後を向いているというよりも、これらの行列が一直線ではなくて、「⊂」字型に、左隅でUターンしていて、それを正面から見て重複表現している場合もある。また、出立図Profectioの場面は従来説ではなぜかミラノ出立等イタリア内とされているが、皇帝馬回りの登場人物たちが平時のフェルト帽を被り武装していないので、敵地でのそれとは思えず、私はコンスタンティヌスの領域首都トリーア出立とすべきと判断した。またProfectio左端の、まさに城門を出てきたばかりの四輪馬車の座乗人物が他と比べて小さいことから、彼はコンスタンティヌスではなくて、息子クリスプス(当時12歳)とする別説もあるらしい(となると、そこにコンスタンティヌスは描かれていないことになる、かも)。レリーフにおけるコンスタンティヌス像は例外なく少なくとも頭部が破壊されているので(恐らく4世紀後半の反コンスタンティヌス時代に)、ここで頭部が保存されているのは別人と判断されてのことであろうか。いずれにせよあのブロックは違和感の塊である。また、西面の荷駄に馬ないしラバ以外にめずらしくラクダが描かれ、その背後にうずくまった人物がいるが、これは何を示しているのだろうか(捕縛されているのかも)。南面レリーフについては拙稿で多少とも触れているので、省略。

 入城図Adventusの東面レリーフに移る。左端でローマの市門をくぐってコンスタンティヌスが座した四輪馬車carrucaが進む。それに先行する行列の中に武装解除された二名のローマ人捕虜が、徒(かち)でおそらく両手を縛られて引き回されている。たぶん同時代のローマ在住者には誰と見当がついたはずだ。その行列の先頭は浮き彫りの右端から北面東端にかけて、まさに四面門(しかもその屋階上に四頭の象を頂いている:これは剥落が進んだ現在、確認しづらくなっている)をくぐろうとしているが、この門は凱旋式の際行列が必ず通過したPorta Triumphalisに間違いなかろう(cf., Martialis, Epig. 8.65)。

東面右端と北面東端の柱部分の両端にそれぞれ4頭の象の戦車が描かれていたと思われるがぽっこり剥落し、現在かろうじて北面、兵士の兜の左上にその痕跡が残っている(2015/8/29:筆者撮影)

 実はこの門は、コンスタンティヌスのアーチの屋階の北面の東側から2枚目のレリーフ(もともとはマルクス・アウレリウス帝の出立図profectio:皇帝の頭部は18世紀にトラヤヌス帝に似せて修復された)にも描かれており、その屋階上にトロパイオンと四頭の象、それに一体の神像が確認できる。

 北面の2レリーフも興味深い。特に左側の演説図Adlocutioでは、ロストラ(演壇)の両脇の背景に描かれている公共建築物は、左がBasilica Julia、右がセプティミウス・セウェルス凱旋門とされ、ロストラ上についても中央に唯一正面向きで立つコンスタンティヌス(但し顔面破損)、彼の背後に5本の列柱があって、それらは第1テトラルキア体制の成立を記念して立てられたもので、その中央は主神ユピテルをいただき、左右円柱上の小立像は4人の皇帝を示している。また皇帝のすぐ背後の2旒のvexillumは皇帝旗であると私は考えている。ロストラ前面の左右端に二名の座像が見えるが、左がマルクス・アウレリウス帝で、右がハドリアヌスとされている。こうして、このロストラは全体として、コンスタンティヌスが過去30年間のテトラルキア体制の正統継承者であること、ローマ帝国華やかりし時代の、アウグストゥス時代、ハドリアヌスやマルクス・アウレリウス時代の帝国の回復者であることを暗黙のうちに明示しているわけである(なお、このことは政治家コンスタンティヌスがテトラルキア体制を放棄して独自の政治的プロパガンダを以後開始することと矛盾しているわけではない)。なお、彼を左右から見守る男性群像(とりわけ壇上はトガ着用の元老院集団で、一段低く地面に立つのはローマ市民たち)の中に男児三名が紛れている。彼らが大帝の後継者の息子たちとする説は、出生年的にも位置的にも受け入れがたい。

 最後に言わずもがなのことだが、このレリーフでの登場人物は(そして、アーチ門全体でも女神と円柱台座での捕虜を除けば)、すべて男性であった。昨今の「人種差別主義者」チャーチル像への落書きのように、「性差別主義者」コンスタンティヌスなどと落書きなどされないように願わざるをえない。

腹に巻かれているのは「黒人の命も大切だ!」Black Lives Matterの張り紙らしい

 さて、ぜひとも触れておきたいテーマに、コンスタンティノポリスでの紫斑岩製円柱上の太陽神としてのコンスタンティヌス像の件がある。いつか書く機会があることを念じている(まだ書く気でいるのが、我ながらいじらしい)。これにより、コンスタンティヌスの一貫した自己認識がヘリオス・ソル神であったことが立証されるはずで、キリスト教的プロパガンダの虚構性ないし相対性が明確になるはずでアル。

左、ポイティンガー地図で、コンスタンティノポリスに特に表示されている円柱;中央・右、紫斑岩製円柱上のHelios神としてのコンスタンティヌス像復元図

 以下の写真はこの円柱の柱頭の状況である(この時はパイプで足場を組んでの作業のようだった)。その凸凹を検証して上記のような立像が再現された(後世に、十字架が立てられたりしている)。私はこれをローマで、コンスタンティヌスのアーチでやりたかったのだが、ドローン撮影は許可が必要で果たしていない。

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古代ローマの感染症:(8)その工芸品?への反映[閲覧注意]

 残念ならが、今秋の広島での学会大会も中止されたようだ。確かに晩秋であれば年中行事のインフルエンザの流行にまぎれて、コロナの再発もありえるわけだ。そこで発表予定だった内容の中心部について、概略を記しておこう。初めに弁解を。この勉強を始めて海外に発注した本を二か月経っても未だ入手できていない。航空機が飛んでいないせいだろう。また、国内大学図書館も休館中である。そのため文献的に完璧を期せてないことをお断りしておく。

 マルクス・アウレリウス時代の疫病については、すでに史料的限界が許す限りでの検討が行われてきた。ここではちょっと従来と違うアプローチを試みる。それは、出土遺物の、とりわけ彫像類において病気を示していると思われる諸事例の検討である。それに関して、古来(といってもせいぜい19世紀以降であるが)挙げられてきたものを、感染症の周辺を含めてまずは列挙してみる。

 ちまたでは、疫病の考古学的証拠として著名なのは、たとえば、エジプトのファラオ・ラムセス5世(前1157年死亡)のミイラの頬に一面のイボがある所見から、彼の死亡原因が天然痘だったのではと言われてきたが、最近では、この痕跡は水疱瘡によるものと疑われているらしい(水疱瘡はヘルペスウイルスで、人類誕生以来感染していた)。さてどうだろうか。私のような文系の素人からすると、細胞培養かなんかすれば病原菌も特定できるのではないかと想像するのだが。また、庶民のミイラもたくさん出てきているのだから、それらの調査ではどうなっているのだろうか、とつい思ってしまう。

左はラムセス5世のミイラ、頬のぶつぶつに注目;右は水疱瘡の皮膚所見:ぜんぜん違うような

 古代の医療に関しては、ex voto(病気治癒の祈願成就の奉納品)の出土品がまずは注目される。著名なのは古代ギリシアのアスクレピオス神域からのそれらであろう。ローマ時代だとたとえば以下は、首都ローマのテルミニ駅の東、引き込み線操車場の南に隣接のTempio di Minerva Medica(医療女神ミネルウァ神殿)出土のex votoである。

左,上左が胎盤、右上は乳房・下左が内臓、下右が子宮;右、足と手

 こういったex voto以外にも、グロテスクな異形の人物像(例えば、くる病、朱儒など)を表現した遺物は多く、中には義足・義肢らしきものの出土すらある。

左上、エジプト出土ミイラの、左下、イギリス出土の、足指補正具;右はカプア出土の金属製義足とその縦断面

 だが、我々が知りたい感染症関係の証拠はほとんどない。かろうじてこれまでそう主張されてきたものについて列挙し、だが判定にきわめて慎重なのが以下の論考である。M.Grmek e D.Gourevitch, Les Maladies dans l’art antique, Fayard,1998, pp.341-347. なにしろそもそも該当テーマでの彼らの章立てが「錯覚の病理学 Les Patrologies illusoires」となっていて、従来の諸見解は妄想であると概ね斥けている。彼らが列挙するもののうち、マルクス・アウレリウスの疫病に直接関係するのは、②、③、⑤の3つだけで、しかも著者たちはいずれに対しても天然痘を表現したものでないと結論づけている。これをめぐって若干の論争があるがここでは深入りしない。

① 播種性結節により神経線維腫の診断が下された小立像:この写真のみ現存し、大きさすら不明の由

この写真のみ現存し、所在不明で追跡調査不能

② 皮膚に結節が描かれているサテュロス像:ローマのVilla Albani-Torlonia所蔵

足に顕著なぼつぼつは、野蛮性を表現しただけのことでは、と:右二つは美術表現としてそう描かれているシレノス像

③ 多数の結節が描かれた肘ないし膝の断片

何を表しているのか諸説あるが、先述のTempio di Minerva Medicaで発見されたので、膿疱の可能性も否定できない。

④ 単なる女神・女性像の頭髪部分の剥落事例?

これもTempio di Minerva Medicaで発見されたので、「禿頭」平癒祈願との解釈もあながち捨てきれないような

⑤ 髭ないし毛瘡を思わせるドッド模様

首や胸にも見えている:ナポリ国立博物館所蔵

 たしかに古代の事物製作者がいかなる意図でそう描いているのか、慎重に考察すべきであるが、とりわけex votoの場合は病理現象に関わっているという方向で捉えてよいかもしれない。

天然痘の症状:学会の口頭発表では最初にこれらを見せて、つかみにしようと思っていたのだが・・・、我ながら悪趣味である

 最後に付言しておく。このex votoであるが、実は現代にいたるまでよく見られる奉納物である。特に、奇跡を信じるイタリアにおいては。市内を歩いていて突如心臓を模した金具がいっぱいぶら下がっている壁に遭遇したり、巡礼地や教会内の聖母マリア像なんかのまわりに一面にぶら下がっていたり(2019/12/11掲載のSant’Agostino教会の聖母子像右のもそれ)・・・。否応なく庶民の悩みの多くがとりあえず病気や身体的不具合であることに気づかされるのである。治癒を願っての奉納が勝っているような気もしてくる*。となると、右足首が思わしくない私もそろそろ奉納してみようかしら。

石畳が多く冬冷え込むイタリアでは足がらみが多いように思う:子供のそれは受胎祈願、いや水子供養もありか
  • 最近知ったのだが、祈願成就での奉納はvota solutaで、祈願のそれはvota suscepta、というらしい。

【余談】ところで、アスクレピオス神殿等での古代ギリシア以降のex votoの奉献物に、明らかに腹部切開による内臓器や子宮の奉献物があるわけで、これはすでに古代において人体解剖は行われていた、としか私には思えないのだが。やはりガレノスの動物解剖は世間的目くらましだったのだろう、という確信が強まらざるを得ない。我が愛しい嫁さんは、「動物を解体して食していたのだから、生きた人間に何かをするのは避けたにしても、死体を腑分けするなんてことは簡単なこと」とのたもうた。この調子だと私の死後、平気で腑分けされそうで恐ろしい。ちなみにご自分は解剖させていただいた恩返しで献体登録されていらっしゃる。立派なことだ。私は、一年間フォルマリンのプールに無様な裸体でプカプカ浮かんでいるのを想像するだけでおぞましく(それ用にダイエットしなきゃあならんだろ (^_^;)、直行での焼却炉行きを希望している。

左、パレストリーナ博物館所蔵;右、ローマ・ティヴェル川・中の島出土、ローマ国立博物館所蔵
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