左がSanti Cosma e Damiano 教会の現況外壁(右端石作りは教会入り口);右が元来壁に張り付けられた大理石ブロックの配置図
かつての「平和の神殿」の展示部屋内壁想像図:これが今、教会外壁になっているわけ。
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2024年1月12日
紀元203年から211年にかけて作成された大理石製のローマ市街地図「フォルマ・ウルビス・ロマエ」Forma Urbis Romae の現存する断片が、カエリアヌスCaelianus 丘陵の新しい博物館に展示された。新しい「フォルマ・ウルビス博物館」Museum of Forma Urbis は、1748年にGiovanni Battista Nolli が描いたローマの図像計画『Pianta Grande di Roma』と重ね合わせながら、その断片をメインホールの床下に埋め込んでいる。
フォルマ・ウルビス博物館は、コロッセオを見下ろす丘の上にある緑地、カエリアヌス考古学公園内にあり、多数の考古学的、建築学的、碑文学的遺跡が展示されている。これらは、ローマが統一イタリアの首都として建設ラッシュを迎えていた19世紀後半の発掘調査で発掘されたものである。市立アンティクアリウム Municipal Antiquariumは、発掘調査で見つかった大量の考古学資料を保管するために、1884年にカエリアヌス丘に建てられた。1929年から1939年まで博物館として開館していたが、地下鉄建設による構造上の問題で閉館せざるを得なかったらしいのだが、さて20年も前のことだったか、庭園のみならずこの施設内を見学した記憶があるので、完全に閉鎖されていたわけではないように思うのだが、さて。
旧聞に属するが、私が在職中にテキストに採用してきた『初代教会』平凡社ライブラリー、の著者ジャン・ダニエルー Jean Daniélou の名誉回復の記事が、他を探していたら偶然出てきたので、ここに掲載しておく。著作権の問題あるので、ここには詳細を明記しないが、興味ある向きはお問い合わせください(k-toyota@ca2.so-net.ne.jp)。
1972年、若きノルウェー出身の彼女はダニエルー神父の簡素さに衝撃を受けた。枢機卿だとわかる外見の唯一の特長は、赤い靴を履いているということだけ。多くの任務を抱えているにもかかわらず、どうにか昼食は修道院で年老いた司祭のジラールといっしょに取ろうとした。さもなければジラールは一人になってしまっただろう。1974年5月19日、ダニエルーはブルターニュ地方に、ある修練の説教(とりわけ司祭の独身性の重要性ついて語っていた)のため赴いた。翌日ミサをあげ、キリスト教史料集の仕事をし、午後には町の反対側にある Porte de Clichy 行きの68番バスに乗り、娼婦ミミ・サント―ニの家に着いた。これはエマニュエル・ド・ボワソンが伝えたミミの談話である。
彼は学生たちに話をするのに時間をかなり費やした。配置の最初の数年間は、セーヴルの高等師範学校の司祭をつとめ、ソルボンヌ大学で文学部のカトリック団体付きの司祭を補助していた。次に聖母被昇天修道会の修道院長とともに Circolo san Giovanni Battista という信者の活動を始めた。le matinées spirituellesという信仰に関する講話に続く主日のミサには女子学生たちのグループが集まった。彼の著書の多くはこの説教から生まれたものだ。そのひとつ、「異教の神話とキリスト教の神秘」の冒頭の序文の中で彼はこう書いている。