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ドイツの中世の便所から「呪詛板」発見

ラテン語で “defixiones “と呼ばれる呪詛板は、古代ギリシアやローマではキリスト教時代まで広く使われていた。ライバル企業、ライバル・スポーツチーム、恋敵、訴訟の相手、さまざまな悪事を働いた人々を滅ぼすために、悪魔や神の力を呼び出したのだ。また、対象者の愛や情熱を強制したり、過ちを正させたりすることを目的とした、愛や性の呪文もあった。

呪いは柔らかい鉛の小さなシートに書かれ、内側に書かれた文章とともに丸められたり折りたたまれたりして、墓、井戸、神殿など、神々の力の入り口とされる場所に置かれた。古代の呪いの金属板は、考古学的な記録でおよそ1,500枚が確認されており、ある場所が何世紀にもわたって呪いの受け皿として人気があったため、定期的に、時には数十枚単位で新しいものが現れている。

鉛の呪いの金属板の時代は7世紀初頭に終わりを告げた。それ以後の時代にも呪いは見つかっているが、その形式は異なっている。どうやら中世のロストクでは、古代の伝統が少なくとも一度はまだ実践されていたようだ。

https://www.livescience.com/archaeology/medieval-curse-tablet-summoning-the-devil-discovered-at-the-bottom-of-a-latrine-in-germany

December 16, 2023 

ドイツの考古学者が、”ベルゼブブ “またはサタンを呼び出す中世の “呪いの金属板”と思われる、丸められた鉛の破片を発見した。

ドイツ北部の都市、ロストクの建設現場の便所の底から発見されたため、研究者たちは一見したところ、この「目立たない金属片」を単なるスクラップだと思ったという。

しかし、それを広げてみると、考古学者たちはこの15世紀の遺物には、肉眼ではほとんど見えないゴシック体の極小文字で刻まれた暗号のようなメッセージが書かれていることに気づいた。そこには “sathanas taleke belzebuk hinrik berith “と書かれていた。研究者たちはこの文章を、タレケTalekeという女性とヒンリックHinrik(ハインリッヒ)という男性に向けられた呪いの言葉であり、サタン、ベルゼブブ(サタンの別名)、ベリト(別名aka Baʿal Berith、ラビの伝統ではベルゼブブと同一視されるカナン人の神)を召喚するものだと解読した。文字的に二人の男女を悪魔たちが分断しているのである。

研究者たちは、これらの人々が誰であったかを知ることはないかもしれないが、悪縁の背後にある理由についてのいくつかのアイデアを提供した。

「誰かがタレケとハインリッヒの関係を壊したかったのだろうか?」

考古学者たちは、この発見はユニークなものだと述べている。特に、同様の「呪いの金属板」が、紀元前800年から紀元後600年までのギリシア・ローマ地域の古代から実際に知られているからだ、と今回の発掘を率いたドイツのグライフスヴァルト大学の考古学者ヨルグ・アンゾルゲ Jörg Ansorge 博士は声明の中で述べている。例えば、現在のイスラエルで発見された1500年前のギリシア語で刻まれた鉛の金属板は、ライバルのダンサーに危害を加えるよう悪魔に呼びかけており、ギリシアで発見された2400年前の金属板は、冥界の神々に数人の酒場の主人を狙うよう求めている。

「一方、我々の発見は15世紀のものです。これは本当に特別な発見です」。

研究者たちは、呪いの金属板が呪いをかけられた人々によって「見つけにくい、あるいは見つけられない場所に置かれていた」ことを考えれば、この遺物が便所の底から発見されたことに驚きはしなかった、と声明は述べている。

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大理石製ローマ地図 Forma Urbis Romae, 100年の時を経て再び展示

 以前このブログでも触れたことのある後3世紀初頭作成の大理石製「首都ローマ地図」Forma Urbis Romae に新展開があった。といっても新断片が発見されたというわけではなく、再公開されることになったという情報である。

実は、私がローマに住んでいた30年前には上記写真のようなファッショ時代の残滓のローマ帝国版図の古めかしい拡大図がまだ皇帝通りに飾られていた。さて除去されたのはいつの頃だったか。

本情報末尾に、隣接のウェスパシアヌス「平和の神殿」発掘関係記事も掲載する。

左がSanti Cosma e Damiano 教会の現況外壁(右端石作りは教会入り口);右が元来壁に張り付けられた大理石ブロックの配置図

かつての「平和の神殿」の展示部屋内壁想像図:これが今、教会外壁になっているわけ。

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http://www.thehistoryblog.com/archives/69228

2024年1月12日  

紀元203年から211年にかけて作成された大理石製のローマ市街地図「フォルマ・ウルビス・ロマエ」Forma Urbis Romae の現存する断片が、カエリアヌスCaelianus 丘陵の新しい博物館に展示された。新しい「フォルマ・ウルビス博物館」Museum of Forma Urbis は、1748年にGiovanni Battista Nolli が描いたローマの図像計画『Pianta Grande di Roma』と重ね合わせながら、その断片をメインホールの床下に埋め込んでいる。

「フォルマ・ウルビス」については、先月、フォルマ・ウルビスが設置された「平和の神殿」Templum Pacis の内壁の発掘に関連して触れたばかりだ。この地図は240分の1の縮尺で、鉄のピンで壁に固定されていた150枚の大理石の板に、実質的に部屋ごとに細部まで彫られた都市の見取り図である。何世紀にもわたり、大理石は破損し、略奪された。残されたものは1562年に再発見され、その破片は1741年までファルネーゼ宮殿に保管されていたが、責任ある管理者ではなかった。多くの平板が割られ、ファルネーゼ庭園の建設資材として使われた。

1742年、破片はローマ市立カピトリーノ美術館のコレクションとなった。現在では、正体不明の破片からブロック全体を覆う板まで、1,186枚(オリジナルの10~15%)しか残っていない。平和の神殿は、フォロ・ロマーノにあるサンティ・コスマ・エ・ダミアノ教会に組み込まれ、古代の教室の壁は現在バシリカのファサードとなっている。壁に残された痕跡(ピンが差し込まれた穴、平板の外形など)は、考古学者たちが破片をつなぎ合わせるのに役立っている。約200の破片が特定され、Nolli によって作成された現代の地形に配置された。

フォルマ・ウルビス博物館は、コロッセオを見下ろす丘の上にある緑地、カエリアヌス考古学公園内にあり、多数の考古学的、建築学的、碑文学的遺跡が展示されている。これらは、ローマが統一イタリアの首都として建設ラッシュを迎えていた19世紀後半の発掘調査で発掘されたものである。市立アンティクアリウム Municipal Antiquariumは、発掘調査で見つかった大量の考古学資料を保管するために、1884年にカエリアヌス丘に建てられた。1929年から1939年まで博物館として開館していたが、地下鉄建設による構造上の問題で閉館せざるを得なかったらしいのだが、さて20年も前のことだったか、庭園のみならずこの施設内を見学した記憶があるので、完全に閉鎖されていたわけではないように思うのだが、さて。

新しい公園では、これらの出土品がテーマ別に展示され、ローマ社会の様相、葬祭モニュメントにおける社会的地位の表現、控えめな神聖空間 modest sacred spaces(祠堂 shrines、聖域 sanctuaries)と帝政時代の最大規模の神殿との対比、公共建築と私的建築の違い、建築趣味や大理石加工技術の変遷、出土品の再利用や再加工のされ方などを知ることができる。

公園と博物館の一般公開は本日1月12日から。考古学公園は毎日開園しており、ローマ市非居住者は 入場料9 ユーロで見学できる。

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http://www.thehistoryblog.com/archives/69112

「平和の広場」発掘調査で明らかになったローマ千年の歴史

2023年12月26日 

諸皇帝通りと隣接のフォロ・ロマーノ:一番右の水色が「平和の神殿」

ローマの皇帝フォルムにあるウェスパシアヌスによって建てられた「平和の神殿」の発掘調査によって、帝政時代にはまだ至っていないものの、数千年にわたるローマの歴史が明らかになった。

「平和の神殿」は、ウェスパシアヌス帝(西暦69-79年)が第一次ユダヤ・ローマ戦争での勝利を祝して、西暦71年から75年にかけて建設したものである。ウェスパシアヌスは、西暦67年にガリラヤの反乱を鎮圧したローマ軍団を自ら率い、西暦69年に皇帝に昇格してローマに赴いた後、息子のティトゥスをエルサレム包囲のために残した。エルサレム略奪で得た戦利品は、平和の女神パックスを祀るウェスパシアヌスの新しい神殿の建設資金となった。

後にコロッセオとなる場所に面して建つ、大きく重要な神殿である「平和の神殿」は、ウェスパシアヌスの死後長い年月を経て増築されたことで、今日最もよく知られているだろう。それは、150枚の大理石の板に刻まれた幅60フィートの信じられないほど詳細なローマの地図で、240分の1の縮尺で市内のあらゆる建物、記念碑、浴場、通り、階段の見取り図まで記録されていた。3世紀の最初の10年間、セプティミウス・セウェルス帝によって神殿の内壁に飾られた。西暦410年のアラリックによるローマ略奪で損傷を受け、次第に多くの部分が失われていった。多くの古代大理石と同様、中世には石灰を作るために採取された。現在では1,186個(オリジナルの10〜15%)しか残っておらず、いまだに謎解きが続けられている。

これまで考古学的に調査されたことのない神殿東部の発掘調査が2022年6月に始まり、先週終了した。

多くの皇帝の大理石が石灰に変化する運命にあったことが容易に想像できる地下室や大きな窯が発見され、これまで考古学的調査の対象になっていなかったこの地域の非常に複雑な証拠が考古学者たちに明らかになった。さらに、国家復興レジリエンス計画(PNRR)の資金も活用した今後の発掘調査によって、おそらく帝政期のもの、さらにはそれ以前のものにまで到達することが可能になるだろう。現在使われている方法論では十分に調査されていない、この比較的小さな皇帝フォルムの一角が、一見よく知られているだけのこの地域の理解に、新たな興味深いデータをもたらしてくれることを期待している。文献資料、眺望、19世紀の写真、20世紀前半の旧式の発掘(科学的発掘ではない)では、ローマのように何千年もの間、絶え間なく変貌を遂げてきた都市の諸相を理解するのに十分な遺産とは言えない。

 この野外の弱々しい日差しはいかにも冬の地中海ですよね〜

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そろそろ日常復帰:なのに礫川全次を覗く

 年末から年始にかけて、リタイアしてもそれなりにある定例のスケジュールから解放されて、没頭してきたことから(結局まとめきれなかったが)、そろそろ復帰する時期に来ている感じで、今日からと思っていたのだが、ふと過去ログを点検しているうちに、2019/9/3の書き込みで、ほんとうに久々に礫川全次(こいしかわ・ぜんじ)に目がとまり、彼のブログに行ってつまみ読みすることになって日が暮れてしまった。https://blog.goo.ne.jp/514303

 彼は私と同世代で「団塊の世代の在野史家。年金生活者。趣味で原稿を書き、たまに稿料、印税をいただくことがある。南方熊楠、尾佐竹猛、中山太郎といった在野系の研究者に惹かれる」と自己紹介している。私も年金生活者だが怠け者で、「たまに稿料、印税をいただ」けるなんていいご身分でうらやましい。今回目についたのはこの新年の1/6に書かれた「大野晋(すすむ)さんの話は素人受けしやすい」。内容は、田中克彦『ことばは国家を超える』(ちくま新書、2021)の引用で、まあウィキペディアなどに書かれていない大野への同業者によるそれなりに角度のある洞察である。ここでは自分への自戒を含めて引用する。

 「大野さんの著書にはよくあることだが、その説の提唱者、発明者のことにふれることは一言もなく、まるで全部がご自身の発明かのようにしてどんどん話が進められるのである。だから大野さんの話はしろうと受けしやすいのである。ことばについてしろうとという点で最たる人たちは作家である。たぶんこれは大野さんが親しくつきあわれたらしい作家たちのよくない習慣に学んだものではないかと思う。作家という名を帯びる人たちは研究者たちの仕事から多くのヒントを得ながらも、決してそれには言及しないという文芸世界特有の流儀が身についているらしいのである。
 それからまた大野さんには、単に「著者」という立場を超えた、一種「エディター(編集者)気質」のようなものが感じられる。それは自分の手で研究し開発したというよりも、近隣の畑から気に入った野菜を集めてきて、楽しい料理を作ってしまうわざにたとえられよう。その気軽な気質が、自分のとは異なるいろいろな専門の研究室を渡り歩いて必要な知識を集めるという作業に向いているのであろう。」

 前半と後半は実は通底している。前半は研究者としてはどうかなと思うわけだが、論旨をすっきりさせるにはくどくど学説史や注釈をいれていないほうがいいのは確かである。普通は個別論文で細々書いて、一般向け著書では「拙稿○○参照」としたらスミなのだが、彼はそれをしない人だったのだろうか。後半はこれは一種の才能ともいえるので、私的には無碍に否定しようとは思わないが、まあ本家取りされた側からすると「勝手ないいとこ取りも、いいかげんにせーよ」ということになる。本人にとっては身を削っての乾坤一擲の研究成果を横から易々と盗まれてはたまらないのだが、これは被害者側にしかわからないことだし、節度をわきまえた?研究者が声を上げることはほとんどないし、たとえあげたにせよ無名なので、めったに表ざたにならないわけだが。

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再放送「徹底解明!コロッセオの秘密」をみた

 2023/5/20にNHK BSプレミアムで放映されたものの再放送を、2024/1/7にみた。フランス製作のものだったが(このところNHKのこの手の編集者はもっぱらフランス製作のものを使っている印象がある:製作費削減のせいか)、これまで見た記憶がうかつにも私にはなかったものだ。私からすると時々おかしなことを言っていたのだが、最新の考古学的調査の成果公表としては意味あると考える。間違ってはいけないのは、それでもわかってきたことはほんの一部にすぎないということだ。要するに、研究レベルでは本当のことは何もわかっていないのに、これまでいい加減な仮説を思い込まされていたという認識をこそ持つべきなのだ。

 たとえば、コロッセオの地下からアレーナへの昇降システム、我が国の歌舞伎で言う「奈落」は船への荷の積み下ろしから学んでの仕組みであるとしていたが、これは話が逆のように思えるし、その再現映像も幾つか言いたいことがある。

 第一に、船が波止場に横付けに表現されていること、さらに波止場から海に突き出ている上向きの装置の解釈として船舶係留装置を採用してロープを巻き付ける丸太をそこに入れ込んでいるようだが、荷の上げ下ろしのクレーンがらみかもしれないという件は、最近の拙稿「ポンペイ遺跡の謎を探る:(1)船舶係留装置考」(『西洋史学』50、2023、pp.193-211)で触れていて、しかしそこではわざと図示しなかったのだが、時に奴隷を動力源とする人力クレーンとの組み合わせとして描かれる場合があるが(下図の下の方参照)、文書史料や絵画資料に指摘・描かれているわけではないので、簡単に是認するわけにはいかないのである。

 私的には、海水がローマ・コンクリートをより強固にしていたというメカニズムの説明(真水と違い海水だとアルミナ・トバモライトという物質が成長して水の浸入を防いで強度が増す)は面白かった(この件はしかし、放映中のイタリア人の発見というよりも、すでに5年以上前にアメリカの研究チームが指摘していたのだが:https://wired.jp/2017/07/30/roman-concrete/)。そしてポッツォラーナでコンクリートを作る場合、海水を使用していたのではというのは面白い仮説だと思う。

 またたとえば、私のテーマであるコロッセオのトイレについては何も触れてくれていなかった。あの場で見世物をみながら持ちこんだ弁当なんか食べていた、とは言っていたが、排泄のほうには気付きもしないわけだ。ついでにいうと、コロッセオで殺された動物をその場で食べていたかのような誤解を生じさせかねない説明をしていたのは(おそらく翻訳レベルの誤訳)、いささか問題ありだろう。

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Pompeii,IX.10.1の製粉・製パン場について:新情報

2023/10/20に掲載済みの件だが、ここで新情報を付加して再掲載する。

●ポンペイで、邸宅内で選挙広告がみつかる  2023/10/3

 http://www.thehistoryblog.com/archives/68418

 ポンペイの通りや外壁には1500以上の選挙広告やスローガンが書かれている。今般、IX.10.1の製粉兼製パン業者の遺跡発掘から興味深い出土があった(隣りの2は縮絨工房の由)。

そこはポンペイの一番北を東西に走るノラ大通りに面していて、今年のつい数ヶ月前に発掘されたのだが、なんと邸宅内の家の守り神を祀った祭壇 lararium付近から選挙広告の文字断片がでてきたのである。この普通ではない状況を勘案して、おそらくその家が候補者の親戚か、庇護民か友人の邸宅で、選挙運動がらみの宴会がそこで行われたその残り香がその選挙広告だったのだろうと、研究者によって想像されている。ただその文字全体の確定はいまだきちんとなされていないようなので(一説には「「Aulus Rustiusを国家にふさわしい真のaedileにしてくださるようお願いします」と読めるらしい)、今は造営官aedilisに立候補していた人物名が他からもその存在が確認されるAulus Rustius Verusだったこと以上にここで触れないでおく(彼は、のち二人官duovir候補者として後73年に、それもネロがらみで前回触れたIX.13.1-3のあのC.Iulius Polibiusとペアで登場していた。よって造営官候補だったのは後73年以前ということになるし、おそらく二人官に立候補していることから、このとき造営官に選出されたのだろう)。下記写真にしても、どの場所に文字が書かれているのか、部分拡大写真はあるものの、そもそも私には未確認であることを付言しておく(下の右写真の左端中央隅のアーチがもしオーブンであるとすると、オーブンは平面図の7a、となると祭壇は4の西壁にあって、よって写真は左右を合成したものなのか)。

 左平面図:左1番地が製粉・製パン所、右2番地が縮絨工房  右写真:ララリウムの周辺壁面? あるいは合成写真?

 その他に2つの注目すべき出土が確認された。そのひとつは「ARV」と刻まれた石臼が出土したことで、こうなるとこの製粉・パン製造所は「Aulus Rustius Verus」の援助を得ていたということになって、当時の選挙活動の実態があからさまに見てとれると発掘者たちは指摘している(しかしたとえば、彼の投資設備を使って営業していた解放自由人だったとか、Verusは石臼製造業者だった、といった別の至極穏当な解釈もありそうだが、こういうマスコミ受けしそうな穿った解釈はポンペイ関係でよく見受けられる)。普通の写真では刻印部分が不分明なので文字部分をなぞったものを掲載しておく。

 もう一つは、ララリウムの祭壇からかつての献げ物の遺物が収集できたことで、分析によると、噴火前の最後の献げ物はナツメヤシとイチジクで、オリーブの実と松ぼっくりを燃料として祭壇で燃やしていたことが判明した。ある報告者が乾燥オリーブの実を暖炉で燃やしたことがあるのだそうだが、素晴らしい香りがしたらしい。そして、燃やした供え物の上にはひとつの卵を丸ごとのせ、祭壇を一枚のタイルで上から覆って儀式を終えていたらしい。なお祭壇の周りからは以前の献げ物の残骸も出てきて、ブドウの果実、魚、哺乳類の肉などが確認されたという。こうして文献史料からつい想像され勝ちなのだが、いつも高価な動物犠牲を奉献していたわけではない庶民層の日常的宗教慣習の具体例をおそらく初めて垣間見ることもできたわけである。

上の写真左が発掘途中で祭壇上部が露出したとき、右が発掘完了時の姿を示している

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【追記】2023/12/9付で大略以下のような情報が掲載された(http://www.thehistoryblog.com/archives/68977):「ポンペイのパン屋/製粉場では、奴隷にされた人々や動物の重労働が見られる」

 若干、イタリア、否むしろポンペイ遺跡特有のマスコミに媚びを売るような内容でどうかなと思う最初の出だしの色づけであるが。「Pompeii, IX, 10,1では、奴隷や家畜の悲惨な状況が見てとれる。発掘された生産エリアには外界との連絡ができないようになっている。 唯一の出口は家のアトリウムに通じており、家畜小屋ですら道路に直接アクセスすることはできず、いくつかの窓が鉄格子で固定されている。言い換えれば、それは、所有者が移動の自由を制限する必要があると感じていたことを示している。奴隷には解放の希望も感じられなかったし、ロバ・ラバの作業場である石臼間の間隔は狭く、目隠しをされた二頭はすれ違うためには歩調を合わさないといけなかった。」

 これは実際には外から侵入してくる泥棒への対策だったり、石臼の稼働を交互にして粉を劣化させる熱を持つのを防ぐ工夫と捉えればいいことであって、奴隷の逃亡を防ぎ、ロバ・ラバにいらぬ負担をかけているわけではない、とついイチャモンをつけたくなる口上部分である。

 しかしその後の叙述は、私には新鮮であった。「動物の歩みをガイドするために、玄武岩の舗装に半円形の切り欠き semi-circular cutouts が作られていて、それは同時に、動物が滑らかな玄武岩の平石の上で滑らないようにするという利点もあった」。

 以下の2枚の写真がそれを実証しているというわけである。たしかに玄武岩の床は滑りやすいが、その上を365日ロバやラバが歩くのだから丈夫な玄武岩が敷かれているのは当然でもある。この切れ込みに私は不覚にもこれまでまったく気づかなかった。この「半円形の切り欠き」がどこでも見受けられるのかどうか、今後注目して監察してみようと思う。

ここでロバやラバはこんなふうに働かされていた。

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映画「Perfect Days」を見てきた

 豊島園駅のそばには「ユナイテッド・シネマとしまえん」があって、そこで上演していたので、妻に声をかけていっしょに見てきた。予備知識としては役所広司が主人公ということだけ知っていて、しかし麻生裕未や三浦友和、そして田中泯の出演はまあ想定内といっていいだろうが、さりげなく石川さゆりが登場したのにはいささか虚を突かれた。あの声量はやはり常人ではない。

 そしてなによりも主人公が作業車に乗ったときに古いカセットテープから流れ出る音楽の鮮明さは印象的だった。それは監督が欧米人だからの感性なのであろうが、それに映像として「羅生門」以来の日本人の感性とされるようになった木漏れ日がくり返し映し出されるしかけだ(だが、やたら白黒のコントラストを強調させた映画「羅生門」と違って自然光で撮っているので、そうインパクトを感じることができない恨みが残ったなあ)。

 そして私が観賞する気になった渋谷区のトイレの数々。世界に誇る日本のトイレ水準と、それを日常的に維持している掃除員の手作業の対照、それに銭湯でこれもさりげなく見せる主人公のもう若くない肉体による、先行きの不透明さ。そんな平穏な彼の日常的ルーティーンを破るのが、他ならぬ肉親の闖入と仕事上のシフトの混乱というのもなかなかリアルな設定ではあった。

 ま、しかし、これが人生さ、それでいい、といわんばかりのエンディング。無口な彼が発した唯一の意味ある言語「今度は今度、今は今」もそれに通底しているようだ。

 ところで1100円だっけで購入したパンフレットの表紙、「PERFECT DAY」となってたぞ。そこに書いてあったロケハンの日数たった16日には驚いた。ドキュメンタリー方式だからできた技にしても、それ以前の緻密な事前調査なしにはありえなかったはずだ。スカイツリーや隅田川や桜橋の円錐形オブジェ、それに浅草の地下街とか、外国人(観光客)を意識した映像も各所にちりばめられていて、私は聖地巡礼したくなった、しないだろうが。

 

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宇宙時代の新価値観

 2024/1/4 NHK総合午後11時からの「ヒューマニエンス」での、「宇宙体験:私たちの”次なる章”がはじまる」が面白かった。

 地球上に住んでいる限り人間が逃れられない宿命として常識としてきたのが「重力関係」、それが人間関係ではすなわち上下関係に連動するのだが(社長室は一階にないという理屈は面白かった)、それが無重力空間では消え去ってしまう、というのである。この認識はある意味、ゴリラ体験なんかを超越しているようにさえ私には思えた。

 そして、宇宙船で地球を飛び出すのは人類のおそらく1%以下にすぎないであろうが、それは出アフリカにチャレンジした人々、大航海時代に船で荒海に挑戦し新世界を目指した人々に匹敵する行動なのではなかろうか。自分が産まれて生きてきた社会の閉塞感に敏感な人々、野心と好奇心に満ちた人々、彼らが宇宙に飛び出す未来はそう遠くないわけだ。

 その時、古代ローマ史などどれほどに意味を持ち得るのだろうか。疑問である。

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都市インフラの維持と、古代ローマ

 ゴリラの研究家がおかしなことを書いているのを読んであきれた:https://mainichi.jp/articles/20231228/k00/00m/040/172000c?utm_source=article&utm_medium=email&utm_campaign=mailcp&utm_content=20240103

 総じてずれたこと書いているなと思った中で、1箇所だけ「ん」と思ったところがあった。

 都市では「下水道や電力のシステムが至る所に配備され、維持するためのコストが高い。住居は密閉されているので冷暖房の設備が必要で、巨大なビルや工場には膨大な電力を供給しなければならない。」

 論旨はだから田舎住まいがいい、と流れていくのだが、人口減がこれから進む我が祖国は、いずれ都市生活の維持が困難になっていくのは確かで、すでに上水道配管の耐用年限が過ぎていて、いずれ都市財政に大負担となりそうなので民営化が模索されていると仄聞するのだが、最近やたら便利に使っている宅配便なんかも運転手不足でいつまで続くかだし、その上、電力問題が俎上に上がるようになったら・・・、とまあ自分の死後にまで思いは飛ぶのである。 

 実際には先のない身であるので、私自身の近未来への悲観はたんなる空想にすぎないが、私がおい待てよと思ったのは、ローマ帝国の衰退の件であった。ローマ文明の冠たる水道渠にしたところで、素人さんは忘れがちだが、そのメンテナンスには多大な労働力と技術力あってのもので、それらが失われていけば、単なる廃墟構造物に化すだけのことである。地震なんかの天災がその崩壊に追い打ちをかけるのは容易に想像できる。

 これからの日本の歩みは、古代ローマの衰退史の実相を追体験できる恰好の事例のように思えたのでる。

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驚愕! 50年前の Pompeii 盗品がみつかった!

 我が国では正月元旦早々能登沖で地震が発生したが、偶然地震がらみの情報が2週間前に届いていた。

2023年12月14日 :https://www.vrt.be/vrtnws/en/2023/12/14/pompei-marble-discovered-flanders-house-wall/

 1975年にポンペイから盗まれた西暦62年の地震を描いた重要な大理石のレリーフが、ベルギーのヘルツェレ Herzele のある家の階段の壁に貼られているのが見つかった。

 家主で当年とって85歳の Raphaël De Temmerman 氏は、1975年に家族でイタリアに旅行し、ポンペイを訪れていたとき、みやげ物を売りたいという男に声をかけられた。彼は大理石の板を見せ高額を吹っかけてきた。現金と品物を手早く交換すると、売り手は立ち去った。

 自宅に戻った一家は、その記念品を家の壁にはめ込んだ。それは50年以上もの間、昨年初め家が売りに出されるまでは、誰からも注目されることなく飾られていた。85歳になった Raphaël 氏がアパートに引っ越すことになり、息子のゲルト Geert 氏は興味本位でこの大理石の価値を調べてみることにした。

 Tongeren ( Limburg ) のガロ(ガリア)・ローマ博物館の専門家は、この大理石のレリーフは、1975年7月14日にポンペイ遺跡の銀行家 L.カエキリウス・イクンドゥス L. Caecilius Iucundus (V.i.26)の家のアトリウムにあった家庭祭壇 lararium から盗まれたものであることを確認した。https://archaeologyunearthed.quora.com/Stairway-decoration-in-Belgian-home-found-to-be-long-lost-Pompeii-artifact-Raphaël-De-Temmerman-80-and-his-son-Ge?ch=1&oid=140189318&share=6c393ab5&target_type=post

 問題の大理石平板には、紀元62年のポンペイ地震の場面が描かれていて、それはもともと二枚あった。そのうちの一枚は現在は2016年に新装なったポンペイ遺跡内の Antiquarium に展示され、昨年の夏の訪問時にも私はそれを見学している(https://www.pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R8/8%2001%2004.htm)。

 これらの石板についてはこのブログでもかつて多少詳しく触れたことがある(2022/1/19:https://www.koji007.tokyo/wp-admin/post.php?post=25020&action=edit)。それは2022/1-4に東博で開催された「特別展ポンペイ」関連での書き込みだった(https://www.koji007.tokyo/wp-admin/post.php?post=25147&action=edit)。

 当然、イタリアはレリーフの返還を求めるはずで、まずはポンペイの専門家たちが確認に向かって真贋を判定することになる。一方、デ・テンメルマン氏は、イタリアのいくつかの法律に違反して持ち出したけれど、少なくとも50年間その略奪品を安全に保管していたと主張して補償を要求するらしい。

 やっぱり現物の写真は鮮明である。いずれにせよ、両板が並んで展示される風景を私の生存中に見ることが可能になることを期待している。

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故ジャン・ダニエルー枢機卿の名誉回復

 以下は、昨年7月にアップしたつもりになっていたもの。ずっと下書きのままでした。

 旧聞に属するが、私が在職中にテキストに採用してきた『初代教会』平凡社ライブラリー、の著者ジャン・ダニエルー Jean Daniélou の名誉回復の記事が、他を探していたら偶然出てきたので、ここに掲載しておく。著作権の問題あるので、ここには詳細を明記しないが、興味ある向きはお問い合わせください(k-toyota@ca2.so-net.ne.jp)。

(14 May 1905 – 20 May 1974)

 英文のウィキペディアでは、彼の死に関して以下のように簡単に述べている。「1974年、娼婦とされる女性の自宅で急死。調査の結果、イエズス会は、ダニエルーが女性の夫の保釈金を支払うために贈り物を持ってきたと発表した。他の多くの著名人と同様、ダニエルの兄は彼を強く擁護し、最も困っている人々のために常に尽くしてきたと指摘した。」

 とはいえ、私がダニエルー師を話題に出した時、日本人イエズス会士たちはスキャンダルめいた情報にとらわれていて触れたくない雰囲気だったのを思い出す。その中には新約学の人も含まれていたので私には意外だった。修道会の公式声明など信じていない感じだったからだ。同僚さえそうなのだから、他は推して知るべしだろう。死後の彼は陰口の対象であり、セクハラの当事者とされていたのである。

ダニエルー 奪われた真実                     2012年5月8日

 デュロン通り56番のアパートに呼び鈴はない。入るために、私はだれかが来るのを待っている。建物の前にはルーテル教会、その少し先にはタイ式マッサージ屋がある。隣は催眠セラピスト。反対の隣は怪しい金貸屋だ。家族連れがやってきて門をあける。私は中を見せてもらえないかと頼んだが、乱暴に押しのけられる。しばらくして化粧の濃い若い女性がやってきた。こわがりながらも、ついに入れてくれた。「あなたを入れたのは私じゃないわよ」と言って。私は4階まで、薄汚れたカーペットが敷かれた72段の階段を上る。薄暗さとわびしさにうんざりさしながら。4階。娼婦ミミ・サントーニのドアの前に私はいる。ノックはしない。1974年心臓発作に襲われたジャン・ダニエルー枢機卿は、この場所で死んだ。ダニエルーは第二バチカン公会議という神学シーズンの忘れられた主役である。彼は新神学Nouvelle Théologieの主要な提唱者の一人だった。キリスト教史料集 Sources Chrétiennes の創立者のひとりで、雑誌編集長であり約70冊の著書があり、公会議でもっとも影響力のあったメンバーに数えられる。しかし彼が死に、パリの新聞でスキャンダラスに報じられてからは黙殺されている。今日、その著書はほぼ全てが絶版になっている。

彼については、不可解な死の状況だけが記憶されている。

「いつも急ぎ足でしたね。まず頭から入ってきて、残りはその後!」

パリのマリアの御心会の家で会ったグラツィア・ザングランド修道女はこう語る。枢機卿は晩年、彼女たちのもとで過ごした。数十年来ともに暮らしていたイエズス会士たちと激しく対立して、修道女たちの家に引っ越してきたのだった。彼は1972年10月23日のバチカン放送局のインタビューで、思い切ったことを言った。

「今、信仰生活はとても重大な危機にあると思っています。改革についてより、むしろ退廃について話す必要があります。(中略)この危機の根本的な原因となったのは、第二バチカン公会議の誤った解釈なのです。」

これは彼が直属する上位者らに対する非難に聞こえた。当時、各宗教団体の管長連合の長は、イエズス会総長【ペドロ・デ・アルペ師(在職1965-1983):ちなみに、スペイン出身の日本管区所属で、原爆投下時には広島長束の修練院にいた】だった。

グラツィア修道女は語る。

「ここにいらしてすぐ、私たちの朝課のミサを7時にあげることが可能だとおっしゃいました。しかし聖体拝領の後、枢機卿は20分の沈黙の祈りを捧げるためにお座りになりました。祝福をする前に。このように、修道院のあらゆるスケジュールがかき乱されました。」

実際のところ、司祭は二重生活をしていたのだろうか。

「そんな話は信じられません。」とグラツィア修道女は手を広げる。

1972年、若きノルウェー出身の彼女はダニエルー神父の簡素さに衝撃を受けた。枢機卿だとわかる外見の唯一の特長は、赤い靴を履いているということだけ。多くの任務を抱えているにもかかわらず、どうにか昼食は修道院で年老いた司祭のジラールといっしょに取ろうとした。さもなければジラールは一人になってしまっただろう。1974年5月19日、ダニエルーはブルターニュ地方に、ある修練の説教(とりわけ司祭の独身性の重要性ついて語っていた)のため赴いた。翌日ミサをあげ、キリスト教史料集の仕事をし、午後には町の反対側にある Porte de Clichy 行きの68番バスに乗り、娼婦ミミ・サント―ニの家に着いた。これはエマニュエル・ド・ボワソンが伝えたミミの談話である。

「収監されている夫の弁護士への費用を援助するために彼は来てくれたのです。彼はシーツのように潔白です。彼は私の方を見て、窓を開けるように言ったのです。『ここはたまらなく暑い!』と。」

最後の二日間の前触れの無い心臓発作は、多くの証言者たちが気づくことなく起きたのだった。サントーニはこう締めくくった。

「彼は膝をつきました。頭は床に打ち付けられました。最後に一呼吸、そして途絶えました。ずいぶん経ってから、私は自分に言い聞かせました。ひざまずくなんて、枢機卿にとって美しい死に方ではないかと。」

その死をとりまく状況は、残酷な新聞の報道合戦の的になった。だが、ダニエルーがこのような扱いを受けることは本当に妥当だったろうか。最初の著書『神殿のしるし Il segno del tempio』で、彼はクローデルの美しい一文を引用している。

「浄化された魂だけが、バラの香りを感じられるだろう。」そして解説する。

「私は純粋なまなざしを取り戻さなくてはならない。そうすれば、万物が光を放つメッセージへと戻るだろう。」

いったいダニエルー枢機卿とはどんな人物だったのか? 彼をよく知るひとたちが回想するように、自伝においてはどの箇所でも極めて自由で型にとらわれない人物のように思える。彼は、教皇からそして何度も総長から求められた世俗的な職分から離れたところにいた。既成概念とは無縁だった。「私は心から一教会人であり、聖職者であるのはほんのわずかだ。」

静修会などでは、信仰に関して突き刺さるような問いかけをどんどんおこなっていた。

「神が人間の歴史に介入することなどありそうにない、とあなたたちが信じる権利を与えているものはなんだと思いますか。すなわち、聖なる歴史の正当性を私が受け入れる権利を正当づけるものはなんなのでしょうか。(中略)聖書の証言を完全に信用する権利が私にはあるのでしょうか。」

彼は困難と真っ向から向き合うことを恐れなかった。敬虔な言葉でごまかすこともしなかった。同時に、彼の偉大な信念は、強情一徹のものでもない。多大な関心を呼び起こした、フランス語版聖書の訳者アンドレ・シュラキとの公開討論で、彼はこう言った。「私はキリスト教徒として、あなたにイエス・キリストを宣言しなくてはなりませんが、望むことはただ一つ、あなたにキリストを認識していてほしいだけです。そのことは、ユダヤ教の価値に対して私が深い敬意を持つことを何ら阻むものではありません。」

非常に明瞭な率直さである。ダニエルーは対話のできる人間であり、毅然としたたくましい思想家でもあった。譲れない部分では、激しい言葉を使うことも恐れなかった。ヘブライズムのみならず、イスラム、ヒンズー、仏教、アフリカのアニミズムとなどいろいろな宗教を熟知し、評価していることを数多くの文章や会議において彼は示した。人間の宗教的体験をもとにして、共によりよく生きるために共通して利用できるものをなにかあぶりだすこと、それにはキリスト教が最も都合が良いということを明らかにしたいと真摯に取り組んだ。彼はこう言っていた。

「キリスト教はいろいろな宗教のなかのひとつではありません。あらゆる宗教の人々に向けられた本質的な神のメッセージなのです。」

彼が許すことのできない唯一の宗教的な立ち位置、それは無神論だった。「とても非人道的」であるとみなしていた。

「無神論に対しては、宗教の意義について全く無感覚でいられるということに、生理的ともいえるとまどいを感じます。キリスト教徒たちがなぜ無神論を断固としてはねつけないのか私にはわかりません。立派な無神論者が幾人かいるにしても。」

彼は学生たちに話をするのに時間をかなり費やした。配置の最初の数年間は、セーヴルの高等師範学校の司祭をつとめ、ソルボンヌ大学で文学部のカトリック団体付きの司祭を補助していた。次に聖母被昇天修道会の修道院長とともに Circolo san Giovanni Battista という信者の活動を始めた。le matinées spirituellesという信仰に関する講話に続く主日のミサには女子学生たちのグループが集まった。彼の著書の多くはこの説教から生まれたものだ。そのひとつ、「異教の神話とキリスト教の神秘」の冒頭の序文の中で彼はこう書いている。

「神の存在が多くの人から否認されていた昔は、とにかく話すことが必要だった。率直な口調で話すことは、論考の批判にも適していただろうし、心に届きやすいだろう。このことが私は興味深い。」

同様の証言は、グザヴィエ・ティレット神父の『ダニエルー枢機卿のノート Carnets del cardinal Daniélou 』の序文にもみられる。

「彼は、仰々しい研究者の称号やユートピア的な秘跡の司教杖を持ちながら行われる神学的考察を嘆いていた。根もないまま、人々や魂の欲望や飢えを真に経験することもないままそうすることを。彼は力いっぱい実験室の神学をはねつけていたのだ。」

ダニエルーは、人々になによりもキリスト的生活の素晴らしさを教えたいという願いに燃えたひとりの司祭であり、キリストの使徒であった。

【付加情報】2023/11/2のブログ「『ビジュアル世界の偽物大全』を買った;そしてイエズス会士」参照。

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