大理石製ローマ地図 Forma Urbis Romae, 100年の時を経て再び展示

 以前このブログでも触れたことのある後3世紀初頭作成の大理石製「首都ローマ地図」Forma Urbis Romae に新展開があった。といっても新断片が発見されたというわけではなく、再公開されることになったという情報である。

実は、私がローマに住んでいた30年前には上記写真のようなファッショ時代の残滓のローマ帝国版図の古めかしい拡大図がまだ皇帝通りに飾られていた。さて除去されたのはいつの頃だったか。

本情報末尾に、隣接のウェスパシアヌス「平和の神殿」発掘関係記事も掲載する。

左がSanti Cosma e Damiano 教会の現況外壁(右端石作りは教会入り口);右が元来壁に張り付けられた大理石ブロックの配置図

かつての「平和の神殿」の展示部屋内壁想像図:これが今、教会外壁になっているわけ。

++++++

http://www.thehistoryblog.com/archives/69228

2024年1月12日  

紀元203年から211年にかけて作成された大理石製のローマ市街地図「フォルマ・ウルビス・ロマエ」Forma Urbis Romae の現存する断片が、カエリアヌスCaelianus 丘陵の新しい博物館に展示された。新しい「フォルマ・ウルビス博物館」Museum of Forma Urbis は、1748年にGiovanni Battista Nolli が描いたローマの図像計画『Pianta Grande di Roma』と重ね合わせながら、その断片をメインホールの床下に埋め込んでいる。

「フォルマ・ウルビス」については、先月、フォルマ・ウルビスが設置された「平和の神殿」Templum Pacis の内壁の発掘に関連して触れたばかりだ。この地図は240分の1の縮尺で、鉄のピンで壁に固定されていた150枚の大理石の板に、実質的に部屋ごとに細部まで彫られた都市の見取り図である。何世紀にもわたり、大理石は破損し、略奪された。残されたものは1562年に再発見され、その破片は1741年までファルネーゼ宮殿に保管されていたが、責任ある管理者ではなかった。多くの平板が割られ、ファルネーゼ庭園の建設資材として使われた。

1742年、破片はローマ市立カピトリーノ美術館のコレクションとなった。現在では、正体不明の破片からブロック全体を覆う板まで、1,186枚(オリジナルの10~15%)しか残っていない。平和の神殿は、フォロ・ロマーノにあるサンティ・コスマ・エ・ダミアノ教会に組み込まれ、古代の教室の壁は現在バシリカのファサードとなっている。壁に残された痕跡(ピンが差し込まれた穴、平板の外形など)は、考古学者たちが破片をつなぎ合わせるのに役立っている。約200の破片が特定され、Nolli によって作成された現代の地形に配置された。

フォルマ・ウルビス博物館は、コロッセオを見下ろす丘の上にある緑地、カエリアヌス考古学公園内にあり、多数の考古学的、建築学的、碑文学的遺跡が展示されている。これらは、ローマが統一イタリアの首都として建設ラッシュを迎えていた19世紀後半の発掘調査で発掘されたものである。市立アンティクアリウム Municipal Antiquariumは、発掘調査で見つかった大量の考古学資料を保管するために、1884年にカエリアヌス丘に建てられた。1929年から1939年まで博物館として開館していたが、地下鉄建設による構造上の問題で閉館せざるを得なかったらしいのだが、さて20年も前のことだったか、庭園のみならずこの施設内を見学した記憶があるので、完全に閉鎖されていたわけではないように思うのだが、さて。

新しい公園では、これらの出土品がテーマ別に展示され、ローマ社会の様相、葬祭モニュメントにおける社会的地位の表現、控えめな神聖空間 modest sacred spaces(祠堂 shrines、聖域 sanctuaries)と帝政時代の最大規模の神殿との対比、公共建築と私的建築の違い、建築趣味や大理石加工技術の変遷、出土品の再利用や再加工のされ方などを知ることができる。

公園と博物館の一般公開は本日1月12日から。考古学公園は毎日開園しており、ローマ市非居住者は 入場料9 ユーロで見学できる。

++++++++++++++

http://www.thehistoryblog.com/archives/69112

「平和の広場」発掘調査で明らかになったローマ千年の歴史

2023年12月26日 

諸皇帝通りと隣接のフォロ・ロマーノ:一番右の水色が「平和の神殿」

ローマの皇帝フォルムにあるウェスパシアヌスによって建てられた「平和の神殿」の発掘調査によって、帝政時代にはまだ至っていないものの、数千年にわたるローマの歴史が明らかになった。

「平和の神殿」は、ウェスパシアヌス帝(西暦69-79年)が第一次ユダヤ・ローマ戦争での勝利を祝して、西暦71年から75年にかけて建設したものである。ウェスパシアヌスは、西暦67年にガリラヤの反乱を鎮圧したローマ軍団を自ら率い、西暦69年に皇帝に昇格してローマに赴いた後、息子のティトゥスをエルサレム包囲のために残した。エルサレム略奪で得た戦利品は、平和の女神パックスを祀るウェスパシアヌスの新しい神殿の建設資金となった。

後にコロッセオとなる場所に面して建つ、大きく重要な神殿である「平和の神殿」は、ウェスパシアヌスの死後長い年月を経て増築されたことで、今日最もよく知られているだろう。それは、150枚の大理石の板に刻まれた幅60フィートの信じられないほど詳細なローマの地図で、240分の1の縮尺で市内のあらゆる建物、記念碑、浴場、通り、階段の見取り図まで記録されていた。3世紀の最初の10年間、セプティミウス・セウェルス帝によって神殿の内壁に飾られた。西暦410年のアラリックによるローマ略奪で損傷を受け、次第に多くの部分が失われていった。多くの古代大理石と同様、中世には石灰を作るために採取された。現在では1,186個(オリジナルの10〜15%)しか残っておらず、いまだに謎解きが続けられている。

これまで考古学的に調査されたことのない神殿東部の発掘調査が2022年6月に始まり、先週終了した。

多くの皇帝の大理石が石灰に変化する運命にあったことが容易に想像できる地下室や大きな窯が発見され、これまで考古学的調査の対象になっていなかったこの地域の非常に複雑な証拠が考古学者たちに明らかになった。さらに、国家復興レジリエンス計画(PNRR)の資金も活用した今後の発掘調査によって、おそらく帝政期のもの、さらにはそれ以前のものにまで到達することが可能になるだろう。現在使われている方法論では十分に調査されていない、この比較的小さな皇帝フォルムの一角が、一見よく知られているだけのこの地域の理解に、新たな興味深いデータをもたらしてくれることを期待している。文献資料、眺望、19世紀の写真、20世紀前半の旧式の発掘(科学的発掘ではない)では、ローマのように何千年もの間、絶え間なく変貌を遂げてきた都市の諸相を理解するのに十分な遺産とは言えない。

 この野外の弱々しい日差しはいかにも冬の地中海ですよね〜

Filed under: ブログ

コメント 0 件


コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Comment *
Name *
Email *
Website

CAPTCHA