故ジャン・ダニエルー枢機卿の名誉回復

 以下は、昨年7月にアップしたつもりになっていたもの。ずっと下書きのままでした。

 旧聞に属するが、私が在職中にテキストに採用してきた『初代教会』平凡社ライブラリー、の著者ジャン・ダニエルー Jean Daniélou の名誉回復の記事が、他を探していたら偶然出てきたので、ここに掲載しておく。著作権の問題あるので、ここには詳細を明記しないが、興味ある向きはお問い合わせください(k-toyota@ca2.so-net.ne.jp)。

(14 May 1905 – 20 May 1974)

 英文のウィキペディアでは、彼の死に関して以下のように簡単に述べている。「1974年、娼婦とされる女性の自宅で急死。調査の結果、イエズス会は、ダニエルーが女性の夫の保釈金を支払うために贈り物を持ってきたと発表した。他の多くの著名人と同様、ダニエルの兄は彼を強く擁護し、最も困っている人々のために常に尽くしてきたと指摘した。」

 とはいえ、私がダニエルー師を話題に出した時、日本人イエズス会士たちはスキャンダルめいた情報にとらわれていて触れたくない雰囲気だったのを思い出す。その中には新約学の人も含まれていたので私には意外だった。修道会の公式声明など信じていない感じだったからだ。同僚さえそうなのだから、他は推して知るべしだろう。死後の彼は陰口の対象であり、セクハラの当事者とされていたのである。

ダニエルー 奪われた真実                     2012年5月8日

 デュロン通り56番のアパートに呼び鈴はない。入るために、私はだれかが来るのを待っている。建物の前にはルーテル教会、その少し先にはタイ式マッサージ屋がある。隣は催眠セラピスト。反対の隣は怪しい金貸屋だ。家族連れがやってきて門をあける。私は中を見せてもらえないかと頼んだが、乱暴に押しのけられる。しばらくして化粧の濃い若い女性がやってきた。こわがりながらも、ついに入れてくれた。「あなたを入れたのは私じゃないわよ」と言って。私は4階まで、薄汚れたカーペットが敷かれた72段の階段を上る。薄暗さとわびしさにうんざりさしながら。4階。娼婦ミミ・サントーニのドアの前に私はいる。ノックはしない。1974年心臓発作に襲われたジャン・ダニエルー枢機卿は、この場所で死んだ。ダニエルーは第二バチカン公会議という神学シーズンの忘れられた主役である。彼は新神学Nouvelle Théologieの主要な提唱者の一人だった。キリスト教史料集 Sources Chrétiennes の創立者のひとりで、雑誌編集長であり約70冊の著書があり、公会議でもっとも影響力のあったメンバーに数えられる。しかし彼が死に、パリの新聞でスキャンダラスに報じられてからは黙殺されている。今日、その著書はほぼ全てが絶版になっている。

彼については、不可解な死の状況だけが記憶されている。

「いつも急ぎ足でしたね。まず頭から入ってきて、残りはその後!」

パリのマリアの御心会の家で会ったグラツィア・ザングランド修道女はこう語る。枢機卿は晩年、彼女たちのもとで過ごした。数十年来ともに暮らしていたイエズス会士たちと激しく対立して、修道女たちの家に引っ越してきたのだった。彼は1972年10月23日のバチカン放送局のインタビューで、思い切ったことを言った。

「今、信仰生活はとても重大な危機にあると思っています。改革についてより、むしろ退廃について話す必要があります。(中略)この危機の根本的な原因となったのは、第二バチカン公会議の誤った解釈なのです。」

これは彼が直属する上位者らに対する非難に聞こえた。当時、各宗教団体の管長連合の長は、イエズス会総長【ペドロ・デ・アルペ師(在職1965-1983):ちなみに、スペイン出身の日本管区所属で、原爆投下時には広島長束の修練院にいた】だった。

グラツィア修道女は語る。

「ここにいらしてすぐ、私たちの朝課のミサを7時にあげることが可能だとおっしゃいました。しかし聖体拝領の後、枢機卿は20分の沈黙の祈りを捧げるためにお座りになりました。祝福をする前に。このように、修道院のあらゆるスケジュールがかき乱されました。」

実際のところ、司祭は二重生活をしていたのだろうか。

「そんな話は信じられません。」とグラツィア修道女は手を広げる。

1972年、若きノルウェー出身の彼女はダニエルー神父の簡素さに衝撃を受けた。枢機卿だとわかる外見の唯一の特長は、赤い靴を履いているということだけ。多くの任務を抱えているにもかかわらず、どうにか昼食は修道院で年老いた司祭のジラールといっしょに取ろうとした。さもなければジラールは一人になってしまっただろう。1974年5月19日、ダニエルーはブルターニュ地方に、ある修練の説教(とりわけ司祭の独身性の重要性ついて語っていた)のため赴いた。翌日ミサをあげ、キリスト教史料集の仕事をし、午後には町の反対側にある Porte de Clichy 行きの68番バスに乗り、娼婦ミミ・サント―ニの家に着いた。これはエマニュエル・ド・ボワソンが伝えたミミの談話である。

「収監されている夫の弁護士への費用を援助するために彼は来てくれたのです。彼はシーツのように潔白です。彼は私の方を見て、窓を開けるように言ったのです。『ここはたまらなく暑い!』と。」

最後の二日間の前触れの無い心臓発作は、多くの証言者たちが気づくことなく起きたのだった。サントーニはこう締めくくった。

「彼は膝をつきました。頭は床に打ち付けられました。最後に一呼吸、そして途絶えました。ずいぶん経ってから、私は自分に言い聞かせました。ひざまずくなんて、枢機卿にとって美しい死に方ではないかと。」

その死をとりまく状況は、残酷な新聞の報道合戦の的になった。だが、ダニエルーがこのような扱いを受けることは本当に妥当だったろうか。最初の著書『神殿のしるし Il segno del tempio』で、彼はクローデルの美しい一文を引用している。

「浄化された魂だけが、バラの香りを感じられるだろう。」そして解説する。

「私は純粋なまなざしを取り戻さなくてはならない。そうすれば、万物が光を放つメッセージへと戻るだろう。」

いったいダニエルー枢機卿とはどんな人物だったのか? 彼をよく知るひとたちが回想するように、自伝においてはどの箇所でも極めて自由で型にとらわれない人物のように思える。彼は、教皇からそして何度も総長から求められた世俗的な職分から離れたところにいた。既成概念とは無縁だった。「私は心から一教会人であり、聖職者であるのはほんのわずかだ。」

静修会などでは、信仰に関して突き刺さるような問いかけをどんどんおこなっていた。

「神が人間の歴史に介入することなどありそうにない、とあなたたちが信じる権利を与えているものはなんだと思いますか。すなわち、聖なる歴史の正当性を私が受け入れる権利を正当づけるものはなんなのでしょうか。(中略)聖書の証言を完全に信用する権利が私にはあるのでしょうか。」

彼は困難と真っ向から向き合うことを恐れなかった。敬虔な言葉でごまかすこともしなかった。同時に、彼の偉大な信念は、強情一徹のものでもない。多大な関心を呼び起こした、フランス語版聖書の訳者アンドレ・シュラキとの公開討論で、彼はこう言った。「私はキリスト教徒として、あなたにイエス・キリストを宣言しなくてはなりませんが、望むことはただ一つ、あなたにキリストを認識していてほしいだけです。そのことは、ユダヤ教の価値に対して私が深い敬意を持つことを何ら阻むものではありません。」

非常に明瞭な率直さである。ダニエルーは対話のできる人間であり、毅然としたたくましい思想家でもあった。譲れない部分では、激しい言葉を使うことも恐れなかった。ヘブライズムのみならず、イスラム、ヒンズー、仏教、アフリカのアニミズムとなどいろいろな宗教を熟知し、評価していることを数多くの文章や会議において彼は示した。人間の宗教的体験をもとにして、共によりよく生きるために共通して利用できるものをなにかあぶりだすこと、それにはキリスト教が最も都合が良いということを明らかにしたいと真摯に取り組んだ。彼はこう言っていた。

「キリスト教はいろいろな宗教のなかのひとつではありません。あらゆる宗教の人々に向けられた本質的な神のメッセージなのです。」

彼が許すことのできない唯一の宗教的な立ち位置、それは無神論だった。「とても非人道的」であるとみなしていた。

「無神論に対しては、宗教の意義について全く無感覚でいられるということに、生理的ともいえるとまどいを感じます。キリスト教徒たちがなぜ無神論を断固としてはねつけないのか私にはわかりません。立派な無神論者が幾人かいるにしても。」

彼は学生たちに話をするのに時間をかなり費やした。配置の最初の数年間は、セーヴルの高等師範学校の司祭をつとめ、ソルボンヌ大学で文学部のカトリック団体付きの司祭を補助していた。次に聖母被昇天修道会の修道院長とともに Circolo san Giovanni Battista という信者の活動を始めた。le matinées spirituellesという信仰に関する講話に続く主日のミサには女子学生たちのグループが集まった。彼の著書の多くはこの説教から生まれたものだ。そのひとつ、「異教の神話とキリスト教の神秘」の冒頭の序文の中で彼はこう書いている。

「神の存在が多くの人から否認されていた昔は、とにかく話すことが必要だった。率直な口調で話すことは、論考の批判にも適していただろうし、心に届きやすいだろう。このことが私は興味深い。」

同様の証言は、グザヴィエ・ティレット神父の『ダニエルー枢機卿のノート Carnets del cardinal Daniélou 』の序文にもみられる。

「彼は、仰々しい研究者の称号やユートピア的な秘跡の司教杖を持ちながら行われる神学的考察を嘆いていた。根もないまま、人々や魂の欲望や飢えを真に経験することもないままそうすることを。彼は力いっぱい実験室の神学をはねつけていたのだ。」

ダニエルーは、人々になによりもキリスト的生活の素晴らしさを教えたいという願いに燃えたひとりの司祭であり、キリストの使徒であった。

【付加情報】2023/11/2のブログ「『ビジュアル世界の偽物大全』を買った;そしてイエズス会士」参照。

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