投稿者: k.toyota

勉強会の休会と感染症関係読書

 実は本気で心配しているわけではないが、私も読書会を2週間ほど休会にすることにした。別途4/8に東京港区で、そして5/13に川崎で講演会が入っているが、これらはさてどうなるのだろうか。川崎はテーマが決まっているが、ちょうど一ヶ月後の港区のは「お好きなテーマで」と言われていたので、これまでは従来取り上げてきたもので見繕おうと思っていたが、これほど感染症が話題になっているのだから、そっちにチャレンジしてみようか、などと思い立った。

 そこで、我が図書室にある本で面白そうなものを昨日漁り、とりあえず以下を借り出した(余談だが、この分野で必須の古典は、W.H.マクニール(佐々木昭夫訳)『疫病と世界史』新潮社、1985年[原著:Plagues and Peoples, 1976]で異論はなかろうが、なんと我が図書館には文庫本も所蔵されていなかったのには、びっくり)。ジェニファー・ライト(鈴木涼子訳)『世界史を変えた13の病』原書房、2018年(原著:Get Well Soon:History’s Worst Plagues and the Heroes Who Fought Them, 2017)。原題と邦訳題はだいぶイメージが違う感じ。それとこの女性、語り口がかなりざっくばらんで軽妙なのである(ナウいアメリカの流行語を多用しているので、私などにはそのウイットの大部分が理解不能である。これは読者によって評価が分かれるところだろう:こうなると翻訳ももっと砕けた超訳にしたほうがよかったのでは)。論旨は「はじめに」で以下のごとし。

J. WRIGHT:今年34歳らしい 。若い!  W.H.McNeil(1917-2016)

 「先進資本主義国の人々は、自分は老人ホームで90歳で死亡すると思っているようだ。 それにはもっともな理由がある。状況が変わらなければ、2000年に生まれた子どもたちの50%が100歳まで生きる。状況が変わらなければ。【著者は、変わるんだ、といいたいのでしょう】

 ・・・この幸運が尽きるかどうかはわからない:続くことを願っているが、過去に続いたことはない。この不愉快な事実を忘れてしまいたい。そうすれば心が落ち着くし、おそらくそれが人の性だ。だが過去の疫病を無視し、無知でいると、いつか必ず発生する疫病に対してますます脆弱になる。

 疫病が発生すると、驚くほどうまく対処する人がいる。そういう人々が周囲の死や破滅を最小限に抑えるのだ。彼らは心優しく勇敢で、人間の最良の本質を示してくれる。【著者が本書で一番言いたいのは、このことのようだ】

 その他の人々は迷信深く常軌を逸した行動を取って、死者の数を増やす。

 ・・・ 驚くほど愚かな知識人が何を言おうと、過去の人々やその関心事は、現在のそれと同様、必ずしも高尚なわけでも真面目なわけでもなく、軽薄でばかげている。・・・結核患者はアリゲーター猟師になるべきだと考えた人物を知ったあとで、過去の人がみな深い尊敬に値する真面目な人だと考えるのは不可能だ。」

 そして著者が最初に選んだのが、紀元後2世紀後半にローマ帝国を襲った「アントニヌスの疫病」である(それ以前、アテナイでの感染症とかもあるが)。筆者はそれこそがローマ帝国没落の真の原因だったと言い切るのである。これからこの疫病を少し、勉強してみたいと思う。

 ちなみに他のエピソードは、14世紀の腺ペスト、16世紀のダンシングマニア、16世紀の天然痘、梅毒と列挙したあと、19世紀以降に、結核、コレラ、ハンセン病、腸チフス、スペイン風邪、嗜眠性脳炎、ロボトミー、ポリオ、と目白押しだが、これは医療が進んで病名の特定が明らかになっただけのことで、それ以前も実は存在していたのが多いのではないか、と私は想像する。

 ところでライト女史は、テーマと離れたところで私的に面白い事をあちこちで書き散らしている。たとえばスタンフォード大学のWalter Scheidelの研究(2005年)を元に、160年頃に第七軍団クラウディアから除隊した2年分の除隊兵239名は、規定の25年間の兵役中、実際の戦闘活動に参加せずに終わったが、「その軍団は、25年ものあいだ戦闘に加わらなかったのだ。彼らは笑いものになったに違いない。しかし、いいことだ! 一度も戦わずにすんだのだから!」(p.12)。それをヒントに考えてみると、我が自衛隊は1950年編成の警察予備隊を含めて実に70年間、戦っていないのだ! これも素晴らしいことだ!

 また、疫病で兵士不足になったので、マルクス・アウレリウス帝は誰でも軍隊に入れた。その中にはもちろん戦い方を知っていた剣闘士もいたが、それが民衆から娯楽を奪い不評だったので、皇帝は代わりに死刑囚を提供したが、この中にキリスト教徒がいた[この連結は秀逸]、また、盗賊や解放奴隷、ゲルマン人も採用した。つまり、皇帝は「かつては強力だったローマ軍を、テレビドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』(2011年から現在)の冥夜の守人[ナイツウォッチ]に変えてしまったのだ」が、「死んだ仲間の代わりに80代の元奴隷や馬泥棒が入ってきたら、それまで世界一栄えある軍隊で20年戦ってきた兵士は、ローマにおける軍隊の地位は劇的に変化したと感じたのかもしれない」(p.25)。こういう当事者的視点は少なくとも私にとってとても斬新で、教えられた。

 本書にはアマゾン・ジャパンのカスタマーレビューで翻訳ミスが指摘されている(すばらしい読者だ!)。私的にはp.101の梅毒発生年が読んでて一見しておかしいなと思っていたので、これはやっぱり誤植だったが、あとは勉強になった。

【追記】3/11発の田中宇氏情報によると、ドイツのメルケル首相は3月10日に独議会の非公開の委員会で「ドイツ国民の60-70%が新型コロナウイルスに感染するだろう」との予測を述べた由(http://tanakanews.com/200311virus.htm)。

 危機管理の基本的立場は、かくのごとく最初に最悪の事態を想定して行動を開始するのが常道なのだそうだが(具体的には、その後、「これは大丈夫」「それも大丈夫」と消去していき、しかるべく事態収拾していくわけ:たとえば、WHOは3/6に「夏になれば流行が終わる根拠はない」と発表して、従来型と誤認しないように注意を喚起している:https://mainichi.jp/premier/health/articles/20200310/med/00m/100/008000c?cx_fm=mailhealth&cx_ml=article)、島国根性が抜けない我が政府(それはすなわち日本国民のことでもある)には残念ながらその意味で危機管理思考そのものがない、といわざるを得ない。大丈夫大丈夫と希望的観測で出発するから、結果的に後手後手になって、「想定外でした」という言い訳に終始することになる。そしてそれを容認してしまう国民性。震災しかり、原発しかり、そして今回の感染症しかり・・・。こうしてオリンピックも中止になってしまうのだろうか。もうやめたほうがいいと個人的には思う。

 この点で、例の神戸大学の岩田教授が重要な指摘をしていた。感染症対策を官僚が指揮することの危うさ、それに反省検討会で「終わったことを蒸し返すな」という体質:https://toyokeizai.net/articles/-/335971?page=3

 ところで、なにしろ母数が少ないので正確なことは言えないが、我が国はさいわい現象的に感染者数を押さておりながら、マスメディアで首相の責任問題が声高に云々されるようになってきた。政局がうごめきだしたようだ(http://nml.mainichi.jp/p/0000066d75/2378/body/pc.html)。これはどうしたことか。実際には押さえていないという情報を掴んだ上でのことか。現段階で政局的に責任が問われることには、なにか奇妙な違和感を感じざるをえないが、これも彼のこれまでの懲りない言動と愚策のつけがまわってきたということだろうか。庶民、というよりもマスメディアの煽る責任追及は往々にして理不尽である。表には秘められている何かが裏にうごめいている作為が感じられてならない。と思っていたら、3/15になってオリンピック中止決定・5月公表説が浮上した(https://www.mag2.com/p/money/900767/2)。

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ペルペトゥア・メモ:(9)埋葬場所について

 480年代著作の、Victor Vitensis, Persecutionis Africanae Provinciae, I.3 (9), in:MGH, AA, Tom.III, Pars 1, 1879 (rep.1961), p.3に、以下の文言が残っている。「そして必須の事どもを述べるなら、彼ら(ヴァンダル人たち)は、聖殉教者たちペルペトゥア、かつそしてフェリキタスの遺体が埋葬されたMaior(先人たち)の教会、Celerinaの(教会)、またScillitaniの(教会)、そして彼らが破壊しなかった他(の諸教会)を、彼ら(アレイオス派)の宗教へ暴君的な許可により引き渡したのだ」Et ut de necessaires loquar, basilicam maiorem, ubi corpora sanctum martyrum Perpetuae atque Felicitatis sepulta sunt, Celerinae vel Scillitanorum et alias, quas non destruxerant, suae religioni licentia tyrannia mancipaverunt.

 要するに、二世紀後の情報としてペルペトゥアたちの埋葬地が「Basilica Majorum」だ、と断言されている。実際には彼女らが葬られた墓所の上に後にキリスト教会の殉教者巡礼教会が建てられ、それが段々と拡張されていった、ということだったのだろう。それが50年前にアレイオス派のヴァンダル人に占拠され果たして無事に保存されていたのかどうか、Victorは何も述べていない。だがその後、7世紀後半にイスラームによりこの地が征服されていることを考慮にいれると、たとえ聖遺物が公然・非公然にキリスト教徒たちによって持ち出されたとしても、それは長い年月の間に霧散して、やっぱり消滅してしまう運命に遭ったのでは。まあ偽物はもちろん出回るだろうが(後述、およびペルペトゥア・メモ(8)参照)。

図の最上部(北端)中央がBasilica Majorum
Basilica Majorumの空撮写真:高台の遺跡平地中央の建物は1929年に聖遺物室confessio跡に建てられたが、現在は土台のみ古代ローマさながらの廃墟と化している

 いわずもがな、7世紀以来ムスリム化されていたこの地に、キリスト教が再進出する契機となったのは、19世紀半ば以降、1881年から1956年までのフランス保護領下のことであった。

今は昔、90年間の時は流れて:左写真の左端の立像はアウグスティヌス像、往事ここでカトリックの大集会が催されていた

 最初にこの地を発掘してBasilica Majorumと断定したのは、アフリカにおけるキリスト教宣教を目的に、1868年にアルジェ大司教によって創設された「白衣宣教師会」Pères Blancs(ドミニコ会系らしい:Ch.-R.アージュロン[私市正年・中島節子訳]『アルジェリア近現代史』クセジュ文庫、白水社、2002年[初版1964, 11e édition, 1999]、 p.87)に所属していたAlfred-Louis Delattre師(1850-1932年)で、早くも1907年4月にペルペトゥアらの墓碑発見を報告している(A.-L.Delattre, Lettre à M.Héron de Villefosse, sur l’inscription des martyrs de Carthage, sainte Perpétue, sainte Félicité et leurs compagnons, in:Comptes rendus des séances de l’académie des Inscriptions et Belles-Lettres, 51e année, N.4, 1907, pp.193-5)。この書簡の宛先の人物は、Antoine Héron de Villefosse(1845-1919年)で、当時フランスで著名な考古学者、とりわけラテン碑文学の権威で、言うまでもなく投稿先の l’Académie des inscriptions et belles-lettresの会員であった。

Alfred-Louis Delattre師        Antoine Héron de Villefosse
Delattre師によるBasilica Majorum平面図:教会堂中央が聖遺物室

 左端のアプシスと右端のAreaを除き、61m×45mの広さの長方形の教会堂の中央身廊の真ん中に3.7m×3.6mの、床モザイクが敷かれたアプシス付き礼拝堂が建てられており、その地下クリプトは聖遺物室となっていて、巡礼が両脇の階段で昇り降りできるようになっていたらしい。礼拝堂のアプシスが教会堂のそれと逆向きになっているので、おそらくAreaがもともと1,2世紀起源の異教墓地で、そこに最初殉教者たちが葬られていたのであろう。但し、Noël Duval, Études d’architecture chrétienne nord-africaine, in:Mélanges de l’École française de Rome, Antiquité, 84-2, 1972, p.1117のFig.19では、教会堂からAreaへの入り口を囲むように小アプシスが、そしてArea内の南側、即ち、聖遺物室のアプシスと同方向に大きなアプシスがそれぞれ描かれており、後者の方は「Abside trouvée en 1929」と表記されている(この二重アプシス構造は、とりわけ北アフリカの特徴のようだ:cf., N.Duval, Les Églises africaines à deux absides : recherches archéologiques sur la liturgie chrétienne en Afrique du Nord, 2vols., Roma, 1971,1973)。ローマ世界では2世紀末から3世紀初頭にかけて火葬(遺灰壺埋葬)から土葬(木・石棺埋葬)への移行期だったので、異教墓地のほうの主流は火葬墳墓だったはず。教会堂とAreaの東側にキリスト教徒の土葬墓が集中的に確認されている他、例外的に教会堂北東の壁沿いに5基が描かれている(以下の写真Fig.3 参照)。

発掘開始時の遺跡の状況
中央の構造物は、聖遺物室から見て北側の列柱付近から出たモザイク付き墳墓か
発掘された聖遺物室のニッチを北側から見る:Rivista di Archeologia Cristiana,7,1930,p.303
聖遺物室の直下に葬られた2つの土葬墓を南側から見る
若干分かりづらいが聖遺物室(手前がそれ)周辺の模式図:西から東方向を見る:上図2121が中央奥
教会敷地北東角の土葬墓写真:ここから最初に殉教者名を記した墓碑断片が出土した由

 そこからDelattre師が1906-8年に発掘した碑文断片は総数4000で、うち最も注目された大理石板の墓碑諸断片は全部で34で、以下上図が師によるその組み合わせ、下図の左が師によるその復元の読み,右がL.Ennabliの読みである。

左はDelattre師の、右はL.Ennabli, ICKart. II, 1982, p.35, n.1の読み

 Delattre師に依拠するなら以下のように読める。「ここに、殉教者たち、サトゥルス、サトゥルニヌス、レウォカトゥス、セクンドゥルス、フェリキタス、ペルペトゥアが、3月7日に受難し(て埋葬され)た。マイウルスは・・・」。興味深いのは殉教者の記載順で、サトゥルス以下四名の男性が列挙されたあとに、フェリキタス、そして最後がペルペトゥアとなっている。この点を突いてくるのが、J.Divjak-W.Wischmeyer, Perpetua felicitate oder Perpetua und Felicitas? Zu ICKarth 2,1, in:Wiener Studien, N.F., 114, 2001, pp.613-627、である。彼らは、この碑銘を男性殉教者のみを書いたものと考え、女性殉教者の名前を「豊穣が永遠(に続きますように)」と誓願定文として捕らえ直すのである。従って女性殉教者二名の記念碑は別の場所(そこが文書史料が触れているBasilica Maiorumということになる)というわけで、面白い指摘である。

 また碑銘の行の頭に✚印がついていて、これと字体をもって現在ではこの墓碑は、師が想定したような殉教直後のものではなく、ヴァンダル支配末期の6世紀初めの製作と考えられている(となると、ヴァンダル時代この聖所は保全されていたことになる、のかも)。

 ちなみに最後のマイウルスなる人物は、テルトゥリアヌス『スカプラへ』iiii.5に「Hadrumetum(現在のスース付近)のMaiulus」として登場しているほか、幾つかの殉教暦では殉教日が3月7日とされているが、 Kalendarium CarthaginensisMartyrologium Hieronymianumでは5月11日になっている。

 以下の石灰岩製の石板も出土している。場所は聖遺物室から南西に数歩のところの、数百の遺骨が埋まっていた深い井戸の中に混じっていたらしい。3世紀の字体で「Perpetuaに、最も甘美な娘に filie dulcissimae」と彫られているが、それが聖ペルペトゥア自身を示しているとしたら、この埋葬場所は彼女が出生したVibii家の所有する墓所だったのか(その場合、カルタゴ出身家系説が有力となる)、それとも処刑された娘のために新たに購入したのか(生地としてカルタゴの西53KmのThuburbo Minus説あり)、はたまた聖女の名前を霊名として頂戴した後世の、またはまったくの別人なのだろうか。私見では上記の新見解も踏まえ、最後の可能性が大と思われる。同様にこの井戸から、彼女と同家名、同名の銘文が他に3例出土しているが、これとて件のVibii家のものと速断するのは慎むべきであろう(cf., Delattre, Comptes rendus, 52-1, 1908, p.61ff.;E, F, G, H)。

 この発掘場所は、現在Mcidfaと呼ばれている場所で、奇しくも第2次世界大戦で戦死したアメリカ兵の広大な墓地が隣接し、また歩いていける距離で、音楽堂Odeon遺跡のそばには2004年に時の大統領Zine el-Abidine Ben Aliの名前の、堂々たるモスクも建設されている。しかし、2011年1月の「アラブの春」「ジャスミン革命」勃発で彼はサウジアラビアに亡命し、その地で2019年9月に死亡しているので、その後モスクはどうなったのだろうか。

手前は米兵墓地、立木の奥に見えるのがZine el-Abidineモスクのミナレット

 墓碑発見後すでに1世紀経過しているが、この墓碑を巡っての論義は活発とは言いがたいらしいが続いている。上記で触れたように、そもそもDelattre師の発掘地点が本当にVictorが述べているBasilica Majorumなのか、ということ自体に疑問があるし、Delattre師たちの発掘方法が問題視されたり(正直、次段落のモザイクの発掘地点がどこなのか、私にはよくわかっていない)、銘文の復元を巡っても異論が提出されている(cf., B.D.Shaw, The Passion of Perpetua, Past & Present, 139, 1993, p.42, n.88, 89)。おそらく聖書考古学での発掘にありがちな最初に結論ありきの決め打ち発掘や、強引な論証、さらには調査方法の杜撰さが指摘されているわけであるが、だがH・シュリーマンのトロイア発掘(1870年代)やH・カーターのツタンカーメン発見(1922年)でもそうだったように、調査方法がまだ手探りだった考古学黎明期では多かれ少なかれそれが普通のことだったというべきか。この件は、このブログでもポンペイでの最近の再調査でこれまでのロマンあふれる解釈がもろくも崩壊していることを考え合わせると納得していただけるかもしれない(2019/4/14)。それにしても、この問題をからめて集中的に掘り起こすと色々面白そうなテーマなので、誰かきちんとやってくれないかな、と思う。

 この遺跡からはキリスト教的モザイクも出土している。時間があればいずれ多少詳しく検討するに値すると思っているが、とりあえず白黒画像をアップしておこう。メダイオン内部の文字列とそとに描かれている鳥(鳩?)などの向きが逆なのが、ちょっと解せないが。ところでカラー版が見当たらない。ご存知寄りの方からの提供を期待している。

右が逆転写真:中段の鳥はブドウの房、下段左の鳥はオリーブの枝をくわえ、右は薔薇の中にいる

 関連で、さらに浴場近くのDermech地区の遺跡(le monastère de Saint-Étienne)からは、モザイクで描かれたメダイオンの中に、5+2名の聖人名が記されていたものが出土している。右端からSaturninusとSaturusの銘文が埋め込まれ、次いでSirica、Istefanus、Speratus、そしてかろうじてフェリキタスを予想させる「・・・TAS」が続き、となるとほとんど失われてしまった左端のメダイオンにはペルペトゥアが想定される一連の殉教者モザイクなのである。これは現在バルドー博物館に展示されている。これもカラー写真が見当たらない(中央部分の2つのは見つけた)。ご存知寄りの方からの提供を期待している。

出土状態:ペルペトゥアとフェリキタスが書かれている肝心の左2つの破損がひどい
左はバルドー博物館での修復後の展示状況,右はSperatusとIstefanusの部分

 ところで、ウェブ情報(https://www.wikiwand.com/fr/Perpétue_et_Félicité)で以下を知った。彼女の聖遺物は439年(ヴァンダル族のカルタゴ占領時)にローマに移動され、それから843年にBourges大司教Raoulにより、フランス中部のSaint-Georges-sur-la-PréeにあったDèvres (ないしDeuvre)大修道院に移され、そこが903年のノルマン人に掠奪された後に、926年に近隣のVierzonに移され、そこの現在の市庁舎に置かれていたが、1807年にNotre-Dame de Vierzon教会内に移葬され今に至っている由。以下の写真は、その教会内のもの。以上の聖遺物の移葬情報はベリー地方の伝承によるものなので、その真偽を問うのは野暮というものだろう。

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ペルペトゥア・メモ(8):聖遺物

 (9)の原稿を書いていて、待てよと思い付き、ググってみたら、なんと幾つかペルペトゥアとフェリキタスの聖遺物に行き当たった。最初の2つは、ドミニコ会O.P.所属のLawrence Lew修道士のウェブ写真の中にあった。残念ながら所蔵場所は不明である。

https://www.flickr.com/photos/paullew/6961176479
https://www.flickr.com/photos/paullew/6815062432/in/photostream/

 もう一つはフェリキタスで、University of Dayton所蔵の160を数える聖遺物の中にあった。大学だからもちろんちゃんとした鑑定書付きである。以下いずれもアメリカ合衆国の事例。

https://ecommons.udayton.edu/uscc_relics/37/

 他に大学関係では、University of Notre Dameにもペルペトゥアとフェリキタスの聖遺物がある由(http://faith.nd.edu/s/1210/faith/interior.aspx?sid=1210&gid=609&pgid=13647&cid=28385&ecid=28385&crid=0)。

 カトリック教会関係では、ミシガン州のKalamazooにあるSt Mary’s Catholic Church所蔵10数個の中にペルペトゥアもある。

 以前、フランシスコ・ザビエルがらみでイエズス会関係の聖遺物が出品されていたことを思い出したので、ebayのオークションも覗いてみた。あっけなくペルペトゥアとフェリキタスがらみで1件出ていた。しかしこっちは「Saints Perpetua and Felicity Kissing Reliquary」と表記されているように、聖遺物というよりは礼拝用の聖具のようで、価格は$1,125。他の多くが$300ー400なので、かなり高価で骨董的な価値があるのだろう。

 以下では、「ローマのフェリキタス」という165年頃の別の女性殉教者の聖遺物との触れ込みで$425で販売されていた(https://www.russianstore.com/en/online-store/catholic-reliquaries/item/1092-theca-housing-relics-of-saint-felicity-of-rome-martyr)他、フランシスコ・ザビエルなどのものも10以上販売中。他にも格安な聖遺物が以下で山ほど販売中。https://picclick.com/Antique-Reliquary-S-Felic-Can-Religious-283794401627.html

 ところでこの聖遺物調査をしていて気付いたのは、聖ペルペトゥアと聖フェリキタスの聖遺物は伝えられているのに、彼女たちと一緒に殉教したサトゥルスたち男性の聖遺物は見当たらなかった、という事実である。また、一見奇妙な事実にも気付かざるを得ないのは、彼女たちの故郷北アフリカで名のある教会で彼女たちにちなんで命名された教会が皆無であるという現象であろう(しかも、Basilica Majorumで発見された銘板だと、男性のほうが明らかに優位にある。参照、ペルペトゥア・メモ(9))。この逆転現象は興味深い。

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ペルペトゥア・メモ:(7)天への梯子

 ペルペトゥアの夢の中に出てくる「天に向かう(ヤコブの)梯子」La scala del cielo(di Giacobbe)に関して、以下の文獻から首尾よくフレスコ画の出版当時の残存状況のカラー画が入手できたので衆知します。

Joseph Wilpert, Roma Sotterranea : Le pitture delle Catacombe romane, Roma, 1903, tavole, Tav.153 ; testo, p.445, Fig.43.
 
 残存フレスコ画(カラー)はTav.153、復元線描画はFig.43、です。後者で、左右の図柄が同じなのはなぜ、と思っていたが、この原画をみたらWilpertの想像ということが今回判明。中央のイエス像も光輪はなかったのでは。出土場所は、Henri Leclercqによると( par Le R.P.dom Fernand  Cabrol, Dictionnaire d’Archéologie Chrétienne et de Liturgie, Paris, II/1, 1910, col.151-2)、cimetière de Balbineとなっているが、Wilpertでは、arcosolio dei Santi Marco e Marcelliano。製作年代は四世紀末となっているよう。

 この本は、国内では京都大学のみが所蔵していたので、コピーを取り寄せましたが、さすが京大図書館職員で、註記にTav.153, 164が出ているが、と問い合わせがあり、そっちも送ってくださいとお願い。半分当たりで首尾よく上記のカラー版が得られました。古書検索したところ、約90万円で購入可能です。どなたか私、というよりも上智大学図書館に寄附していただけると有難いのですが(^^)。

 実は上智大学には、なぜか以下が所蔵されてます。20年ほど前にそれを見つけたとき狂喜しました。でも・・・ドイツ語とはいえ、出版年など書籍データがイタリア語版とかなり重複しているので、ひょっとして同内容? 明日調べてみましょう。
 Joseph Wilpert, Die Malereien der Katakomben Roms ; Textband, Tafelband, Freiburg, 1903.

 調べたら、構成的に同じでした。かなり痛んでいるので、貴重図書にでもしてほしいと思う。さて、どちらが原文なのでしょうか。ドイツ語版は他に、立教大学、早稲田大学、東芸大が所蔵してます。

 なお、Via Latinaのカタコンベには、320-350年頃の次のフレスコ画がある。

 また、スペインのブルゴスには、四世紀中頃の日付の、以下のような石棺がある。その中央に梯子が。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、一生の思い出である。こんな石棺のことなど知りもしなかった。も一度行きたいと思うが、歩きではもう無理なのが悔しい。

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40年振りに再公開:ポンペイ「恋人たちの家」(I.x.11)

 時々覗いている「Archaeology News Network」(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/02/pompeii-house-of-lovers-reopens-to.html)に情報が。今度、渡伊したら必ず突入しなければ。

 場所はI.x.11の、Casa degli Amanti。1980年の地震による修復がようやく終わって、この火曜日(2/18)からの公開らしい。確かに以下の写真ではぼろぼろであった。https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R1/1%2010%2011.htm

 この家の名称は、以下の落書きに依っている(上図の部屋13の入り口南側に面した、列柱廊10東側の壁):“Amantes ut apes vitam mellita exigent.” :「恋人たちは、蜜蜂のように、蜜の(甘い)生活を営む」[CIL IV 8408a];この落書きの下に以下も見える。”Velle”:「そうあれかし」[CIL IV 8408b]

アヒルの下にも落書きがある。”・・・ Amantes cureges” [CIL IV 8408cでは、”Amantes Amantes cureges”と読んでいて、最後の単語は‘scil.curae egentes, vel egeni sunt’と注釈つき].「恋人たちは恋人たちの世話を焼きたがるものだ」といった類いの意味か。

 このフレスコ画の近くに、以下もあるらしい。”C(aius) Ann(a)eus / Capito / eq(ues) coh(ortis) X pr(aetoriae) / c(enturia) Grati”  [CIL IV 8405]:ガイウス・アンナエウス・カピト、第10近衛歩兵連隊騎士、グラトゥス中隊出身

【ついでに一言】ポンペイ関係でググっていたら、たぶん新顔で「Visitare Pompei」(http://www.visitarepompei.org/buy_now.php?order=23 )という画像解説に行き当たった。24時間使用で6ユーロ。かなり期待して試しに購入して見たが、まったくの期待外れだった。誰にもお勧めしません。金返せ〜。

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ペルペトゥア・メモ:(7)総督代理Hilarianusについて

 『受難記』VI.1以降で、とある都市の公共広場でペルペトゥアたちの裁判が開催されたことがわかる。その場所を研究者たちは例外なくカルタゴと考えてきているが、当時、属州総督=裁判官は管轄属州の主要都市を巡回していたので、なにも州都(今の場合はカルタゴ)である必要はないが、まあ州都での出来事としたいわけだ。彼女たちが収監されていた場所から歩いていける範囲に円形闘技場があったので、カルタゴがその条件を満たしているという事情もある。

 彼女たちの裁判官は「財務管理官procurator ヒラリアヌスHilarianus」だった。元老院管轄属州で最高の格式を誇っていたアフリカ州には当然執政官格の元老院身分が派遣されるのが常だった。ヒラリアヌスは「そのとき属州総督proconsulで死去したミヌキウス・ティミニアヌスMinucius Timinianusの座にいて死刑執行権ius gladiiを拝命していた」、要するに現職の総督が在任中に死亡したので、後任総督が派遣されるまで(ないし、次年時になるまで)、臨時に勅命によりおそらくカルタゴないしその近辺で皇帝直轄領の財務管理官だったヒラリアヌスが任命されたのであろう。Rives, 1996, p.5は、その線で年給金が10万セステルス級のprocurator provinciae Africae tractus Karthaginiensisと、20万級のProcurator IV publicorum Africaeの二つの候補を挙げ,後者と想定している。それが騎士身分の最高位であり、アフリカ属州のproconsulの代理にふさわしいとの判断からである。

 さて、その元来の職掌からヒラリアヌスは宮廷奴隷ないし解放奴隷出身者だった可能性が高い。そもそも命名法的にも本『受難記』で故意にcognomenのHilarianusのみで記され、他方proconsulという職名から元老院身分が確実な前任総督が姓名二単語Minucius Timinianusで表示されていることからも、それは傍証されるだろう。編纂者は冷厳に彼らの身分的違いを見極めていたのだ。

 奇しくもこのヒラリアヌスについて、同時代人テルトゥリアヌスが212/3年頃書いた『スカプラへ』ad Scapulam,3.1で以下のように述べている。「私たちは嘆かざるを得ません。いかなる都市も私たちの血を流して罰されずにはいられないだろうからです。属州長官ヒラリアヌス下でsub Hilariano praesideのようにです。人々は私たちの墓所の土地についてde areis sepulturarum nostrarum叫んだのです。’(キリスト教徒のための)土地などないareae non sint!’。(ところが)なくなったのは、彼ら自身の脱穀場areaeのほうでした。というのは、彼らは彼らの収穫物に事欠いたのです」。すなわち天罰として天変地異が異教徒を襲った,という意を同音異義語のだじゃれ含みで述べている(参照、大谷哲訳『歴史と地理』No.664, 2013-5, p.30;但し要修正)。ここで注目すべきは二点で、まずpraesesと当時もっぱら騎士身分担当属州の総督に付与された名称を使っていること。即ちここでも書き手のテルトゥリアヌスはヒラリアヌスの所属身分を明確に意識して殊更明記している。またそこでの叙述内容からは『受難記』とは別のキリスト教徒迫害理由が浮かび上がるはずである。

 1968年に公表された2つの碑文史料(A.Garcia y Bellido, Lapidas votivas a deidades exoticas halladas recientemente en Astorga y Leon, in : Boletín de la Real Academia de la Historia, 163, 1968, pp.203-204, figs.4 & 5 ≒ AE, 1968, 227, 228)を投入して、新たな知見が展開されるようになった。出土場所はスペインのレオン県のアストルガ。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、こんな碑文のことなど知りもしなかった。

 T.D.Barnes, Tertullian, Oxford, 1971, p.163 ; W.Eck, Miscellanea prosopographica, ZPE 42, 1981, p.235f. ;J.B.Rives, The Piety of a Persecutor, in: Journal of Early Christian Studies, 4-1, 1996, pp.1-25(idem, Religion and Authority in Roman Carthage from Augustus to Constantine, Oxford, 1995, p.244);Barnes, Early Christian Hagiography and Roman History, Tübingen, 2010, pp.304-7.

p.203 fig.4:男神たちと女神たちーー万神殿内で嘆願されるが正当かつ当然であるーーに、P.Aelius Hilarianus、Publiusの息子、皇帝財務管理官は、子供たちと共に、正帝・・・の安寧のため・・・

p.204 fig.5:Jupiter Optimus Maximus,、Juno Regina、Minerva Victrixに、P.Aelius Hilarianus、Publiusの息子、皇帝財務管理官は、子供たちと共に、敬虔かつ豊穣の正帝・・・の安寧のため・・・

 名前が削り取られた皇帝(たぶんコンモドゥス帝:在位180-192年)の治世下にスペインのアストルガで、Publius Aelius Hilarianusが財務管理官として奉職中に、子供たちと共に皇帝の安寧を願って2つの奉献を行った。ここでのヒラリアヌスが、203年ごろに北アフリカ属州カルタゴ付近に派遣されていた者と同一人物、と考えるわけである。それを、H.-G.Pflaum, Les Carrières procuratoriennes équestres sous le Haut-empire romain, Suppl., Paris, 1982, p.117 や、W.Eck, RE Suppl., XV, 1978, p.3, 69a)は、彼の職名を同じく20万級のprocurator Hispaniae Citerioris per Asturiam et Gallaeciam、ないしprocurator Hispaniae Taraconensisであると結論している。そして彼の父の名前もPubliusだったことが分かる。

 献辞文の一つはよろずの男女の神々に捧げられ、もう一つは帝都ローマのカピトリウムの三対神(ユピテル、ユーノー、ミネルウァ)に若干古風な用語で献辞している。これは、彼がローマ伝統の諸神格を崇敬していたことを示しているはずで、これを根拠にRivesらは、かく伝統的宗教に敬虔だった人物が、キリスト教徒たちのごとき蛮族的諸迷信に好意を示すことなどありえない、他方、他の属州総督たちは多くの場合、彼ほど宗教や迷信の諸問題にたいして興味を持たず、ただ単に彼らが理解した限りでの、一般的な諸先例に準拠して法律や命令を実施していたにすぎない、要するに、ヒラリアヌスをかなり熱心な異教信仰者として描いているわけである。しかし、そもそも公人としての宗教儀礼を個人的宗教心の表れと直結するのは先に結論ありきの安直すぎる理解だし、『受難記』を読む限り、私は、彼自身もレベル的に他の総督たち以上に熱心にキリスト教迫害していたとは思えない。たまたま副帝ゲタの誕生日祝賀の下達があり、それに必要な死刑囚を得ようとしただけのこととみたいのだが、上記テルトゥリアヌスの表現からは、キリスト教徒の墓地所有が問題になっていた可能性がある。真実は奈辺にあったのだろうか。

 さて若干余談ながら、同様に碑文研究から、このカルタゴのヒラリアヌスの子孫も孫の世代まで想定されている。息子P.Aelius Apollonianusとその息子でPrimipilaris職にあったP.Aelies Hilarianusである。

 続きとしていずれ、先任総督ミヌキウス・ティミニアヌスについて言及するつもりである。

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感染症の歴史:飛耳長目(27)

 今般の武漢ウィルスの流行で、なんと北朝鮮や大韓民国、さらには中華人民共和国の崩壊・衰退が、ウェブ上に希望的観測からか、それなりの知識人によってまことしやかに書き込まれていますが、まだまだパンデミックといえる状況では全然ありません。文字通り「大山鳴動鼠一匹」*かと(沈静化に努力されている当事者の尽力は言うまでもなく尊く、感染者や死亡者の方々にはお悔やみを申しあげますが)、効果がそうあるとは思えないマスクが店頭から消え去ったり(時節柄、これから花粉症対策で必要な私はたいへん迷惑しております)、またまたマスコミが扇動してちょっとはしゃぎすぎのような気がしてなりません。ま、発生源が憎まれっ子の中国ということもあるのでしょうが。「パンデミックでなく、インフォデミック」https://mainichi.jp/articles/20200205/k00/00m/040/035000c

 20世紀初頭、今とは比べものにならないくらい人々の移動が少なかった時代に、全世界で5千万人とも2千5百万ともいわれる死亡者(死亡者数です、念のため)をもたらしたのが、スペイン風邪でした(実際の発生源はアメリカ・カンザス州の軍施設だったとか)。これこそパンデミック。https://www.mag2.com/p/news/436737;http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html

 また昨年来、アメリカでは通常型のインフルエンザが猛威を振るっており、感染者数1900万人、死者数一万人を越えている由。これこそパンデミック、なのに、我が国では報道もされず、もちろんいつものよう米国人は入国拒否もされず。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55312830W0A200C2000000/

 これまでなぜか表だって主張されることはあまりありませんが、感染症が実はかくれた大きな爪痕を歴史に残してきたのは事実です。ヨーロッパ中世のペスト(黒死病)や、大航海時代のインカ帝国住民を襲った天然痘は有名ですが、この視点は西洋古代史でも、後2世紀後半から3世紀の地中海世界の衰退を考える時、有効でしょう。古代世界では、自然環境が自ずと文明圏の境界となり、それぞれ在地の風土病と折り合って生きていましたので、その境界を越えて侵入した外来の一定数の宿主の移動(多くの場合、軍事行動)が,自文明圏に未知の感染症を持ち込み、大流行をもたらしました。政治や経済の変化ばかり取り上げるのではない歴史がもっとあっていいと思っているのですが。昔より格段に危険度は高くなっているのですから。

 お医者さんのこんな書き込みもある。「新型コロナウィルスが他の感染症に比べてどのくらい恐ろしいのか、グラフで比較してみた【COVID-19】【2019-nCoV】」https://kaigyou-turezure.hatenablog.jp/entry/2020/02/16/111145

【参考資料】新型肺炎とSARS、MERSの違い:しかしいずれにせよ、この程度ではパンデミックとはいえないような。

      感染者数  死者数   致死率 患者1人から感染する人数

SARS 8096人 774人  9.6% 2~3人程度

MERS 2499人 861人 34.5% 1人か1人未満

新型肺炎 8243人 170人  2.1% 2.2人程度?

 (出典は、WHOや米医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンなどのデータによる。新型肺炎は30日現在。SARSは2003年の終息時、MERSは19年12月31日現在:https://mainichi.jp/articles/20200131/ddm/003/030/048000c?cx_cp=nml&cx_plc=bnr&cx_cls=newsmail-cp_article):もちろん、中国は統計操作では我が国政府以上に定評ありますので、あてになりませんが。2/13中国発表で、感染者数6万、死者1360 人:一説では今回の実態は10倍とか:となるとすでにパンデミックと言えるかもです。以下は、田中宇氏による悲観論の最たる見解。http://tanakanews.com/200212virus.htm

*あれれ、これって語源が、Horatius, Ars Poetica,139の「Parturient montes, nascetur ridiculus mus :山々が出産しようとしている。一匹の滑稽なネズミが生まれるであろう」で、ギリシア語の諺からのもの、とは知らなかった。「山々」が複数で、「ネズミ」が単数なのがミソか。ところで、私は今日の今日まで中国起源で「泰山」だと思い込んできた。どこで刷り込まれたのやら。

【追伸1】一方でこんなニュースも。ご冥福をお祈りします:「新型ウイルス、最初に警告の医師が死去 中国・武漢」https://www.afpbb.com/articles/-/3267127?cx_part=top_latest&fbclid=IwAR2pBmUoLw09jIMMesQuWcJdPpA8wJht6SlbWgfhkE1DgPFQ_F-7AipdH2E

【追伸2】2月7-9日、法事で故郷広島に来てます。こちらでマスクを買って帰ろうと目論んでいたのですが、のきなみ見当たりません(^^ゞ。2/9に帰京しておやっと思ったのですが、出た時よりマスクしている人がごっそり減っているような。よもや入手不能のため? 2/15:自宅近くのセブンイレブンでマスクが出回り始めた。そのせいかまたマスク姿が増加。なんとなく安心。

【追申3】田中氏の、ますます悲観的な続報、しかし早くも3日後に撤回。これでは所詮素人のインフォデミック。まあ言いっ放しの言論人ばかりの中で撤回するだけましであるが、いずれにせよ知識人を装うのなら悲観論を煽る素人談議的書き込みはやめてほしい。アクセス数を増やすためと言われても仕方ないだろう。http://tanakanews.com/200215virus.htm;http://tanakanews.com/200218virus.htm

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脳が溶けてガラス化?嘘でしょ:エルコラーノの遺体より発見

 これまで考古学関係でチェックしてきた「Archaeology News Network」の2020/1/23に「Mount Vesuvius Blast Turned Ancient Victim’s Brain To Glass」が掲載されて、わずか4日後に以下の邦語情報が出た。「脳が溶けてガラス化、窯焼きも、新たに浮上したベスビオ噴火の恐るべき死因:2000年前の遺体から読み解く死の真相、議論続く」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/012700049/

 簡単な原文を邦文のほうはだいぶふくらまして書いているが、それも事情を十分知らない日本の読者に向けて、親切というべきであろう。ただガラス質が見つかったのはただ一体のみ、それもcollegium Augustalium(Ins.VI.21-24)からの出土である。遺体の出土場所は、おそらく(a)から玄関に入って右隅の部屋(e)であろう。ここは最近中を覗けないようになってしまったが、これまでアウグストゥス礼賛会の管理人部屋とされていて、ベッドもあって、1961年にそのベッド上で25歳ぐらいの男性の遺骸が見つかった。オリジナル情報は、以下。『New England Journal of Medicine

右の写真は部屋(e)の内側から北(b)方向を写したもの

 ともかく現段階では、子細はまだ不明としか言いようがない感じだが、室内でもあり、頭蓋骨の破裂時にガラス容器が混入しただけのことのように思われるが、もちろん今回発表した研究者はその可能性も念頭に置いて検討し、だがそう結論しているようであるが、さて。

【追記】この記事、未だ読まれているようなので、2020/4/7の続報を。

 遺体の頭蓋骨から硝子質が発見され、その中から人間の脳組織や毛髪に見られるいくつかのタンパク質と脂肪酸が同定されたという、科学者たちの仮説は、高熱が文字通り被害者の脂肪と体組織を焼き払い、脳のガラス化を引き起こしたというものだ。この遺体は、1961年に当時の所長アメデオ・マイウリが、完全に焼け焦げて灰で埋まった木製ベッドの中から見つけたもの。

 60年振りの再調査で、一連の生体分子およびプロテオミクス分析によって、これらの遺骨の中に、人間の脳や髪の毛のトリグリセリドに典型的に見られる一連の脂肪酸と、とりわけ人間のすべての脳組織に非常に多く見られる7種類の酵素のタンパク質を発見し発見することを可能にした、と。

 実は、考古学の分野でも、医学・法医学の分野でも、このような残滓が発見されたことがないという点で、客観的に見て世界でも類を見ない発見であるが、ガラス固化は考古学で知られているが、これまでのものは、基本的には植物遺体に関するものである。人類学的サンプルの研究はこれからの趨勢と考えられている、とのこと。

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ヤーヴェ神の結婚・離婚報道?:遅報(23)

 1967年に、Raphael Pataiは、古代イスラエル人たちがヤーヴェ神とアシュラ女神Asherahの両方を礼拝していたと言及した最初の歴史家だった。その仮説は、Francesca Stavrakopoulou女史の調査によって新たな光があたることとなった。彼女は、シナイ砂漠のKuntillet Ajrud遺跡で1975/76年の発掘時に見つけられた前8世紀の大甕pithos上に興味深い銘文(むしろオストラコン)を見つけた。大甕は2つあったようで、問題のそれはAのほうで、それが以下である。

右図で、より巨大に描かれ男根ぶら下げているのがヤーヴェ神、右上で横向いているのがアシュラ女神とされる:真ん中の男(ここでは男根なし)は不明
こっちの第三の男には男根がある

 私はヘブライ語を読めないが、研究者によると落書きの上に「サマリアのヤーヴェと[彼の]アシュラ」,即ちヤーヴェ神の妻としてアシュラが並記されていると。  “Berakhti etkhem l’YHVH Shomron ul’Asherato” (“I have blessed you by Yahweh of Samaria and [his] Asherah”

 旧約聖書の「列王記 上」16.29-33には、当代のイスラエル王アハブ(第7代:前869-850在位)が、「シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシュラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った」、さらに同、18.19にエリヤがアハブに「今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシュラの預言者と共に、カルメル山に集め」るよう言っている。要するにこの時期、神殿内にアシュラ像があった、おそらくヤーヴェと対の夫婦神としてだったと思われる。

 こうして、ヤーヴェ神は、かつて女神アシュラと結婚していたが、バビロン捕囚でかの地に単身赴任させられ、遠距離で夫婦関係は疎遠になり、その間ずっと別居状態で、帰国後復縁もできず離婚となってしまった、ということなのだろう。

【追記】以下のような、文字と絵とは無関係とする慎重論も、当然ある。http://www.messagetoeagle.com/ancient-yahweh-and-his-asherah-inscriptions-at-kuntillet-ajrud-remain-an-unsolved-biblical-mystery/

 いずれにせよ、人類創成以来、女神ーー>夫婦神ーー>男性神、といった神々の進化論の系譜からすると、ユダヤ教とて、女神時代、夫婦神時代があって一向に不思議ではないだろう。

 古い翻訳だが、ゼミでも輪読した以下を思い出してしまう。J.G.フレーザー『旧約聖書のフォークロア』太陽社、1977年(原著1923年)。さらに、永橋卓介(『イスラエル宗教の異教的背景』(基督教教程叢書 第13編)、日獨書院株式会社、1935年;『ヤハウェ信仰以前』国文社、1969年、など)も忘れがたく忘れたくない先駆者。彼は、フレーザー『金枝篇』の翻訳者でもある。いずれもまだ古書で入手可。

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私にとっての「三上」:トイレ噺(14)

 欧陽脩「帰田録」に「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃(すなは)ち馬上・枕上・厠上なり」の言あり。すなわち、文章を考えるのに最も都合がよいという三つの場面。馬に乗っているとき、寝床に入っているとき、便所に入っているとき、というわけである。

 私に「馬上」の体験はない。確かに体験的に「厠上」は物思いにふけるにはいい場所のように思う。ただし、私に具体的成果の記憶はないけど、今後に期待しておきたい。そして「枕上」はさしずめ湯川博士だが、しかし私の場合は確実に眠ってしまう。だが「枕」ならぬ「夢」の中なら、いささか体験がある。今はむかし、修論の最終段階で、夢の中でひらめいた着想があった。「これで修論はできた!」と狂喜したのはいいが、もちろん,起きたらすべて忘れてしまっていたのは言うまでもない。 

 私の体験ではむしろ、風呂の湯船につかっているときに、着想が湧くことがある[かつてあった]。だから一時期,風呂の中に防水のメモ用紙をぶら下げていたこともある。いわば「湯上」というわけだが、用意万端だとかえって思いつかないものだ。これも今はむかし、40年近く前のことだが、青山学院大学での日本西洋史学会の口頭発表の前日(というより当日の丑三つ時)のこと、古代史なので残存史料は限定されている。レジメにそれらを網羅して印刷済みだったが、最後の詰め、というか史料をつなぎ新知見を紡ぎ出すための論理のつながりがどうしても決まらず、しかし発表時間は迫るしで時間切れぎみで、平凡な発表になるがしかたがない、諦めて風呂に入ってせめてさっぱりして人前にでなけりゃ、と湯船につかったとき、突然ひらめいたのである。私は水浸しのまま風呂を飛び出して部屋のメモ用紙に駆け寄り、メモった、ことがあった。まるでアルキメデスだったが、「ヘウレーカ!(ηὕρηκα!)、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びはしなかったが。おかげで自分的には満足のいく口頭発表をすることができた記憶がある。

 かくして今後への期待を含めて、「厠上」「湯上」、そして「夢上」が、私の場合の「三上」ということになる。
 しじょう、ゆじょう、むじょう

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