投稿者: k.toyota

太陽神としてのネロ貨幣

 このところ貴重な珍品の出品が続いているCNGのウェブ・オークションにまた出物があった。皇帝ネロの巨像colossusがらみのもので、しかも金貨と銀貨が。ちなみに、このコインたち、業者想定価格は、銀貨が$8500、金貨が$7500。銀貨の方が高いのはなぜだろう。それだけ品薄なのだろうか。

 デザインと打刻銘文はまったく同じ(ただ明らかに彫り手は違っている:よく見ると頭髪の襟足部分も異なっているが):表側が右向き月桂冠着装の皇帝ネロ(銀貨のほうは顎髭あり)、銘文は「NERO CAESAR」。裏面は、皇帝が放射冠をかぶって、トーガ姿で全体は正面を向いているが、左足をやや折り曲げ、右手に小枝、左手に円球の上に立つ女神Victoria像を持し、皇帝の顔は女神に向いている。銘文は「AVGVSTVS GERMANICVS」。彼の正式称号はNero Claudius Caesar Augustus Germanicusなので、ちゃんと符合している。

 このコインが注目されるのは、裏面の皇帝立像が、最初彼の黄金宮の前庭に建てられた高さ30メートル(台座含みで37メートルか)の巨像を彷彿させるからである。というより実際には、コインのデザインが巨像の復元において影響を与えている、というべきであろう。ただ、コロッセウム関係のコインのデザインを見てみると、共に巨像が描かれているものは多くない(ゴルディアヌス3世のみで、ティトゥス[その理由は、コロッセオ近くへに移動はハドリアヌス帝時代のため]、アレクサンデル・セウェルスにはない[悪帝コンモドゥスを想起させるからか]:メタ・スーダンスのほうは確実に描かれている:なお、東側の、右に描かれている建物が今一明快でないので、識者のアドバイスをいただけたらと思っている:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp)。

左はGordianus III世貨幣の舵を持つ巨像、その手前は噴水のメタ・スーダンス;右側のようなコロッセウム建設当事者のTitus時代の衝角付円柱上の太陽神立像もあったらしい
色々の復元があるが、巨像を支えるため舵と肘置き台は必要だったと思う:この復元図だとコンスタンティヌスアーチ門が描かれているので、後315年以降の風景となる(但し、307年にアーチ門右奥のウェヌスとローマ神殿は火災に遭っていた)。

 上掲のゴルディアヌス打刻コインの裏側も機会があれば詳しく触れたい興味深い物件である。皇帝ハドリアヌスがかの巨像をフラウィウス円形闘技場の西北に移動させた件は、拙稿「記念建造物の読み方:コンスタンティヌス帝の二大建造物をめぐって」豊田編著『モノとヒトの新史料学:古代地中海世界と前近代メディア』勉誠出版, 2016年,87頁あたりで多少触れたことがある。

【付論】ところで、この巨像は金メッキの青銅製で中は中空だった。そしてその片足(たぶん上の想定図だとまっすぐの右足のほうか)の内部に、おそらく螺旋状の階段があり上に登れる構造となっていたらしい。私的には肘置き台のほうがありえると思うのだが。その階段の一部と称するものがトラヴァーチン製で残っていて、それが東から聖道Via Sacraを登り切って、ティトゥス凱旋門の手前、現在入場口となっている場所の右側になにげに放置されている(https://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Gazetteer/Places/Europe/Italy/Lazio/Roma/Rome/_Texts/PLATOP*/Colossus_Neronis.html)。それが巨像の階段だったと断定されている根拠を、私は知らない。住宅の階段のように、こっから上は案外木製だったのかもしれない。いや皇帝の建築だからそんなことないか。

左が正面、右が裏側:2015年冬撮影

【追記】2020/5/30のCNGでは、上記ネロ帝金貨が、想定価格5000ドルで再登場している(2500ドルもコストダウン!)。現在入札は4人目で3500ドル。銀貨は売れたのだろうか。

【追記2】https://gigazine.net/gsc_news/en/20210203-rome-in-3d/

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古代地中海通商路地図

 論文検索していて、偶然見つけた。使いこなせればなかなか有用に思える。”ORBIS:The Stanford Geospatial Network Model of the Roman World.” 19 November 2014(http://orbis.stanford.edu/). 人も物も、そして感染症もこれらを通じて移動していく。

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古代ローマの感染症:(5)簡略学説史

 私は、2ー3世紀の感染症が古代地中海世界の「3世紀の危機」の付随的ながら第1要因だった、という仮説を検証しようと思っている。より決定的要因は、おそらく地球規模の気候変動によるものだろう(その原因としては、太陽黒点の問題や地軸の移動、小氷河期の到来、などが考えられている)。簡単に言えば、当時生きていた人々にとって前代未聞の事態(気候変動)が生じ、それがそれまで定着・依存してきていた農耕牧畜生産に重大な影響を及ぼし、飢饉による食糧難状況が出来していたところに、東方渡りの感染症が伝播してきて、それが波状的反復的に流行することで、多大な人的損耗を生じ、経済的・軍事的基盤に顕著な後退をもたらした、と考えるのである。

 このような視点で考えるとき、頭をよぎらざるを得ない疑問として、第1に、多大な被害を受けたのは、地中海世界のローマ帝国住民だけだったようだが、ほんとうにそうだったのか、ということである。すなわち、まず、帝国にとって第1戦線だった東部国境線の向こう側(パルティアやササン朝ペルシア)はもとより、帝国内でも、東部諸州に比べて、帝国西部での被害がより大きかった印象がある。第2に、ローマ帝国にとって第2戦線といえるライン・ドナウ国境線の北のゲルマン諸部族はこの感染症によって被害を受けていなかったのかどうか、である。要するに、ローマ帝国西部の一人負け状態だったといえるのか(それはもちろん、5世紀の帝国西部崩壊への布石となる)、という問題提起である。今はやりの言い方をすると、この感染症が多数の地域での罹患流行の「パンデミック」だったのか、一定地域でのそれ「エピデミック」だったのか、ということである。西欧古代史研究者は西欧人が中心なので、もっぱら地中海のみに視野が置かれていたせいもあり、このような周辺地域を比較検討してみる視点が私を含めこれまで欠落していたように思われる。我々東洋人がそれに追従する必要はない。

 忘れないうちに、メモしておこう。

 実は、マクニールなども、ユーラシア大陸の東端の中国でこの時期に疫病の周期的流行が記録されていることに注目してきた。前段の件でもローマと中国が疫病に襲われていた時期に、イラクやインドは人口増加していたとしている(p.109)。それに、ユーラシア大陸の西と東を結ぶ陸路のシルクロードや、インド洋貿易路の活発化、その象徴的出来事としてよく挙げられるのは、後漢の正史『後漢書』に、まさしく166年に大秦王安敦の使者(と称する者)が日南郡(現在のベトナム中部)に渡来し、象牙・犀角・タイマイ(海亀の甲羅)などをもって入貢した、という記述であるが(それに先立つ97年に、西域都護の班超が部下の甘英を大秦に派遣し、パルティアに達したがそこで引き返している)、マクニールは、隊商貿易は2世紀中葉以前に早くも下向きになっていることに注目している(p.107)。とはいえ、こういった遠距離を通商路が媒介となって感染症が伝播した、と言い切るのには正直いって現段階では勇気がいるのであるが。少なくとも途中で感染者がほぼ死亡してしまう陸路よりは、今般のクルーズ船さながらに海路のほうの可能性ははるかに高い、かもであるが。

 また、この時の感染症の目撃者として登場する医師ガレノスは動物だけ解剖して、人体解剖はしていなかった、と言われているが、信じられない。「しなかった」のは、何らかの理由で「してはならない」という忌避観があったので、公然とは避けられていたが、医師教育の秘儀伝授としては行われていたのでは。というのは、少なくともエジプトでははるか紀元前の昔からミイラ製作をしていたではないか。また、アスクレピオス医療団の特異性も麻酔を使っての外科手術とされていたはずではなかったか。なにも16世紀のヴェサリウス(1514-1564年)を待たなくとも、実際にはやっていたが、外聞が憚られたからだけのことではないのか。

 さらに、今般の疫病で、251年に皇帝デキウスの第二子Hostilianusがローマで(Epit.de Caes.30)、270年に皇帝クラウディウス・ゴティックスがSirmiumで没している(Zonaras, 12.26;Historia Augusta, vita Claudii,12.26)。以上、閑話休題。 

 さて、ローマ帝国衰亡との関わりで、後出のJ.F.Gilliam(2004年)はまず簡略な学説史をまとめている。ニーブールは19世紀半ばにこう書いている。「この悪疫は、信じられないほどの激しさで襲いかかってきたに違いない。そして無数の犠牲者を出したのである。マルクス・アウレリウスの治世は、さまざまな分野、特に芸術や文化において転換点となっているので、この危機が疫病によって引き起こされたことを私は疑わない。古代社会が、マルクス・アウレリウスの治世に試練をもたらしたこの疫病から受けた打撃から回復することはもうなかった」。

 オットー・ゼークは20世紀初頭にこう断言している。「帝国の人口の半分以上が失われた。その後のゲルマン人の定着は、長期的な意味での価値に根本的な変革をもたらした」。

 もう少し時代が下ると、パーカーはこのように考えを表明している。「疫病はローマ世界を打ちのめした。多くの地方は、ほとんど人が住まないようになってしまった。おそらくは、他のどんな要因にも増して、ローマ帝国の衰退の原因となったことだろう」。ボークはそれよりも20年ほど後の1955年に、重要な著作Manpower Shortage and the Fall of the Roman Empire in the West において、実質的に同じ意見を踏襲している。特に注目すべきなのは、以下の点である。マルクス・アウレリウスはマルコマンニ戦争の末期に、「ローマ軍に兵力を供給する義務を持った土地所有者として、敗れたマルコマンニ族を帝国内に定住させるという手段に訴えなければならなかった。明らかに、マルコマンニ族を配置する誰もいない土地を見つけることは困難ではなかった」。

 彼らの論述が事実だとすると、はっきり言ってローマ帝国は実質的に崩壊状況だったことになる。

 ギボンやロストフツェフのように、諸史料からの影響をそれほど受けず、ローマ帝国の衰微に関して、帝国に起きた流行の影響をより控え目に見る著述家もいて、疫病なんかに関心持たない研究者は専らこっちの立場に立ってきたわけ。

 多少「マルクス・アウレリウスの疫病」を勉強してみると、より最近の疫病研究である意味画期だった2篇が浮かび上がってきた。重要学説としては以下だろう。J.F.Gillian, The Plague under Marcus Arelius, American Journal of Philology, 82-3, 1961, pp.225-251. この、文書文献の記述内容を抑制的だったギリアムの所説に35年後にその後の成果を加え、一定の修正を施したのが、以下である。R.P.Duncan-Jones, The Impact of the Antonine Plague, Journal of Roman Archaeology, 9,1996, pp.108-136.

 中長期的に見たローマ帝国の衰微におけるアントニヌスの疫病の役割に疑問符を呈する研究者たちの中で、もっとも説得的なのはギリアムである。彼によると、本質的な問題は、マルクス・アウレリウスの治下に疫病で何人が死んだのかを理解することである。ギリアムは自らの論証に基づく答えを導くために、1961年の上記論文の中で、165年に始まった疫病が致死率の点で強い衝撃を与えたことを支持する数々の研究者たちが行った論証を批判的に分析しようと試みている。

 ギリアムによれば、綿密かつ広範な統計はない上に、包括的で正確で信頼に足る悪疫の話は一つもないとされる。文字史料が肯定的な答えを出すための主要な証拠だとするならば、より興味深く広範な記述は4世紀や5世紀まで時代が下るものであり、したがって事件の同時代の著述家が直接書いたものではないという点を特に気づかせてくれる。ガレノス自身、この件について何ら著作を残さず、いつも付随的に、他の出来事との関連で述べるにとどまっている。つまり、ギリアムの意見では、現代まで伝わっている報告には、後の世紀の著述家たちによって過度に誇張されたものであるとか、同時代の人々が客観的ではなかったのではないかという疑惑があるというのである。特にオロシウスにはあまり信頼を置くことができず、エウトロピウスやヒエロニュムスさえもほとんど信頼できないとする一方で、『ローマ皇帝群像』には一定の信用性があるとされる。「疫病については、皇帝が指揮する大戦争と関係がある場合、あるいはローマを襲った場合を除いて、ほとんど何も報告されていない」という疑念が持たれている」。

 ギリアムの批判はこれらの文書史料にとどまらない。その見解をまとめると、仮説を論証するために持ち出された疫病にまつわるギリシアの碑文も、作成年代が確かではない。軍の苦境に関するデータも、問題となっている時代の募集可能人数の低下によって部分的なものにとどまっており、信頼に値する評価はできない。そして彼の判断するところ、エジプトが大規模な流行に見舞われた証拠はなく(クレペレイオスを除き、エジプトで流行が拡大していたことを報告している史料はまったくない)、農村部からの逃亡やその結果として172年または173年に起こった牧人たちの反乱――アウィディウス・カッシウス指揮下のローマ軍団が介入することを余儀なくされた――は、重すぎる税徴収や他の原因(国粋主義的な衝動か)によるものだった、とされる。

 さらにギリアムは、貨幣発行において疫病への言及が期待されるが、実際にはそうしたものは特段見られないと指摘する。あいまいな形ではなく、明確に疫病に言及されている事例は、ガリア王国の貨幣で確認されており、そこでは救済者アポロン(Apollo Salutaris)の肖像が登場するくらいである。

 最後にギリアムは、帝国の国境線内に蛮族出身の住民を登用する慣行は何もマルクス・アウレリウスに始まるものではないという点も気づかせてくれる。ストラボンは、アウグストゥスの治世に4万4千のゴート族がドナウ以南に定住したこと、またネロの治世にモエシア総督が10万以上の蛮族を属州に受け入れたことを記している。ギリアムは、マルクス・アウレリウスがローマ帝国を蛮族の領域にまでさらに拡大させてドナウ以北に新しい属州を創設しようとしていたかについては否定的である。また、国境線内に蛮族の住民を登用するという皇帝の意志は、これらの未開の地においてローマの庇護の下で植民活動の可能性を広げると同時に、ローマ軍がよりコストの小さい部隊を保有する機会を手にするためのものであり、さらにはこうした動きによって外敵の最前線を政治的軍事的に分断するための施策と解釈すべきだと考えている。哲学を見事に論じることもできたほどの高度な知的能力により、やがて哲人皇帝の異名を取るようになったマルクス・アウレリウスの知的な力量の高さを忘れてはいけない、というわけである。

 ギリアムは、その批判的著作を結論づけてこう書いている。「ともあれ、改変や修辞的な慣例を大目に見れば、マルクス・アウレリウスの治世に破壊的な大流行があったことはかなりはっきりしている。確実ではないものの、おそらくこの流行は、3世紀半ば以前のローマ帝国で起きたいかなる流行よりも多くの死者を出したものと思われる」。

 疫病がどれだけの死者を出したかという疑問に関しては、現在残っている唯一のデータ、すなわちディオン・カッシオスが挙げている数字から推計している。ディオンは、189年にローマで一日に2千名が死んでいったと記しているのだが、その際、この死者数はそれまで述べてきたどんな流行の時よりも多かったと述べる。それゆえギリアムは、アントニヌスの疫病の致死率が1から2%であり、5万から10万の死者を出したと推計している。

 これに対し、社会経済史家Duncan-Jonesは、35年後に、考古学資料を加味してギリアム説の一部修正に成功している。まず彼はエジプトのパピルス史料を読み込み、得られたデータを分析することで、アントニヌスの疫病がローマ帝国に及ぼした全体的な損害について見積もろうとする。要約すると、流行の初期にあたる調査対象の時期において、以下のことが分かる。

1) エジプトの村々で記録されている納税者の数は、流行に伴う死亡や逃避によって、33%から93%まで揺れ動いている。

2) 農地の賃貸契約の種類が増えていることが確認される。ただし、貸し出される農地の面積は小さくなり、同時に契約期間は延びている。このデータは労働力不足を示すものと解釈されている。

3) 167年直後に作成された文書の数は40%も減っていることが分かる。

 ナイル渓谷に住む人々にも流行の影響が及んでいたことを確証するとともに、人口減少のあおりを受けた農業経済の苦境を浮き彫りにしているこれらの証拠以外にも、もっと一般的にだが、流行現象の規模を示す別の情報もある。ダンカン・ジョーンズは、ローマやイタリア各地で年代が記された碑文が2世紀後半に明らかに減少していることを報告しているが、これは同時期の公共建築の衰退と関係がある。また、軍団兵の除隊にまつわるデータもヒントになるだろう。実際、兵士の除隊証明書数の減少が観察されており、特に167-180年にかけてはまったく確認されていない。さらに、ローマ――首都では特に167年に確認できる――でも、エジプトでも、通貨発行が劇的に減少していることが分かっている。もちろんナイル渓谷は、ローマ帝国の経済および文化面で最も重要な地理的区域の一つであった。デルタ地帯のいくつかの地域で村が移転していることを語るパピルスも面白い。より多くの支持を集めている仮説は、この人口減少は過度の税負担が原因であり、主にこうした理由から、農民が農村部から逃亡して都市に避難するようになったのだとしているのだが。

 ローマ帝国は農民の労働力で養われており、数多くの都市に食糧を供給するためにはかなりの労働量が必要とされた。そしてこの労働を圧倒的に生み出していたのは、穀物やオリーヴ油やワインを主たる収穫物とする農園であった。要するに、疫病と重すぎる税徴収が経済をうちひしぐ致命的な組み合わせとなって、ナイルのデルタ地帯において、また軍隊に補給し、税の徴収を通して中央政府に新しい資金を供給する義務を負ったその他のローマ帝国内の地域において、さらなる人口減少を招いたのだった。人々が商業をなりわいとし、行政機構で成り立っていた都市も、同様の苦しみを味わうこととなった。食料品が不足するようになって、暴動や反乱の危険があった。この劇的な時期においては、皇帝や国家に対する結束や忠誠が必要とされ、先に見たようにマルクス・アウレリウスが伝統的な信仰に対する信心を実践したのも偶然ではない。

 ところで、疫病に関して軍隊が大きなマイナスの役割を果たしたことは改めて言うまでもないだろう。文字通り「三密」(密閉・密集・密接)だからである。若干話が横に逸れるが、中国において、そもそも「疫病」の「疫」は、軍隊のなかで伝染病が発生しやすかったことから、軍人の服役の「役」に「疒」(やまいだれ)を加えてできたものだったらしい(邵沛「中日疫病史の中の「疫」と「瘟」『日本医史学雑誌』46-3, 2000, pp.140-1)。

 一説によると(https://www.mag2.com/p/news/448191/3;https://wedge.ismedia.jp/articles/-/19337?utm_source=newsletter&utm_medium=email&utm_campaign=20200416)、今回の新コロナウイルスが、米海軍の空母四隻で感染拡大していて、現時点で世界展開するアメリカ海軍の三分の一に相当する戦力が動けず、著しい作戦能力の低下が見込まれている由。その間隙を縫って中国海警が進出し、これまでのバランスが崩れる恐れがあるようで、ローマ帝国と比較対照する上で今後注目していきたい(この場合、中国がゲルマン部族となるが、トランプ大統領がマルクス・アウレリウスの役を演じられるとは思えないのがミソである)。

患者が出た原子力空母「セオドア・ルーズベルト」

 もうひとつ、これまで触れておいたが、医療崩壊もマルクス・アウレリウス時代でご同様だった。おそらく多くの医療従事者がなすすべもなくなぎ倒され、ないしいち早く敵前逃亡して信用を失ったはずで、その時、同様に多大の犠牲を払いつつ罹患者救済に挺身したのがキリスト教であり、それが結果的に教勢拡大に寄与したとする識者も多い。

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古代ローマの感染症:(4)感染症は社会構造転換の契機となり得る

 「マルクス・アウレリウスの疫病」「ガレノスの疫病」「アントニヌスの疫病」は、いずれも紀元後165年から数十年、ないし1世紀間、古代地中海世界ローマ帝国を繰り返し波状的に襲った感染症である。

 その結果、著しい人的消耗=人口減が生じ、ために軍事力の低下、経済構造の破壊で、当時の社会構造全体が崩壊したとする仮説は、これまでも研究者によって注目されてきた。筆者の当面の関心は、この疫病を契機にキリスト教が上昇期を迎えたメカニズムの解明にあるが、それを今般目前で展開している新型コロナウイルスのパンデミック騒動(多分に情緒的な)と重ね合わせることで、探求したいのである。

 その意味で、今日掲載の以下のウェブ記事から学ぶことが多かった。高野猛「剥がれた化けの皮。安倍首相「やってるフリ」で逃げ切り図る賭け」https://www.mag2.com/p/news/447497/4。要するに「ソフトパワー」が変わるのではないか、という予感である。

 今回世界中の笑いものになった茶番劇「アベノマスク」は、あれこれの忖度騒動で国民の信頼感を消失してきた彼にとって(http://nml.mainichi.jp/h/acpjaxr7dDwDt5ab)、これまでと同じパターンで言い逃れようとしてかえって墓穴を掘り、側近政治の底の浅さをあますところなく露呈してしまったわけであるが、ここでそれには深入りしない。筆者が注目するのは高野氏の以下の指摘である。

 「このことを契機に、国家のあり方も世界経済の姿も、大きく構造転換を遂げていくことになるのではないか。米国は、世界最大の経済大国であり、全世界の軍事費の半分近くを一国で使い果たすほどの史上最強の軍事帝国であるけれども、その経済力と軍事力を振り回しても国民の命をろくに守ることができないという、情けない姿を晒している。しかもその責任を逃れようとするためだろう、これを「中国ウイルス」とか「武漢ウイルス」とか呼ぶことで危機の責任が米政府にはないことを国民に認めて貰おうとする、醜い努力を続けている。」「米国は、偉そうなことを言っているけれども、最低の生活保障も、最高の医療保障も、適正な福祉保障もない、詰まらない国だと世界中の人々が思い始めることで、世界は変わるのかもしれない。」

 この最後の引用が庶民感覚として流布・定着し出すとどうなるか。各種の数字をもとに、アメリカでの貧富の差の拡大など識者はすでに触れていたことだが(納税者のトップ0.1%、約17万世帯が国の富の20%を占め、全体としてアメリカ経済は成長を続けているにもかかわらず、トップ1%が国の富の約39%をコントロールし、下の90%が国の富に占める割合はわずか26%:https://www.businessinsider.jp/post-191278)、映画やメディア戦略で最大限振りまかれてきた「チャンスの国」幻想にまんまと乗せられてきた世界中が、今般の騒動でアメリカ帝国の実態のもろさに気付いてしまったのである。であれば、これはかつてのローマ帝国と軌を一にした崩壊プロセスのボタンが今回押されてしまった、ことになりはしないだろうか。

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古代ローマの感染症:(3)疫病と人種差別

 私はいい時代に長期滞在していたのだろう、イタリアで表だって東洋人として差別された記憶はない。コンドッティ通りで日本人どもが行列して買い物に狂奔し呆れられていた時代。私もひったくり(ターラント)やスリ(ローマ)、パスポート泥棒(ナポリ)に遭ったことはあるが、これは旅行者=金持ちと見られての被害だから、むしろ光栄だったのだ(と思っている)。まだもっぱら貧民層の中国人流入時代であり(このころ流入チネーゼは貧相な衣服なので一見して判別できた。今はそれができない。むしろニコンD3あたりをフル装備でこれ見よがしにぶら下げていて、私は羨望の眼でみたものだった)、韓国人も目立たなかった。30年前に目についた最底辺労働者は、北アフリカ人(チュニジア、モロッコ)やフィリピン人だった。そう黒人もいたが、彼らは悪いことせずもっぱら路上行商だったなあ。バングラデシュ人が多くなったのは20年前あたりからだったか。

 どこかでしゃべったり書いた記憶があるが、30年前に、アヴェンティヌス丘のサン・サビーナ教会を見学したあと、テヴェレ川を見下ろす見晴台から夕暮れなずむサン・ピエトロ方面を眺めていたら、聞き慣れない女性たちのお喋りが背後から聞こえてきた。そちらを見ると、数台の乳母車を連ねて、ベンチに座ってタガログ語でてんでに喋っている数名のフィリピンさんたち。乳母車の中はイタリア人の赤ちゃん。そうか、ローマでイタリア人の赤ん坊を育てているのは、安い賃金で雇用されているフィリピン女性なんだ、しかしタガログ語聞いてどんなローマ人に育つのやらと思って、ふとひらめいたのは、そうだ! 古代ローマ人を育てていたのは奴隷女だったのだ! ということだった。今も昔も異民族労働を享受して少しも動じないのが富裕層のイタリア人、というわけ。そういえば思い出したが、街を歩いているイタリア人老女の手を取って散歩させているのも一見して分かる多くがフィリピン人女性で、これは数年前私の母がヘルパーさんの世話になるようになって、だいたいは同朋女性だったが、東京練馬区でちょっとたどたどしい日本語の女性もいたりして、なるほどなと納得した次第。

 それほどにイタリア人の日常生活に溶け込んでいても、しかし異常事態になると、誰もが疑心暗鬼になる。こうして疫病流行時には、当然のようにフン族、蒙古人以来の黄禍思想が頭をもたげてくる。これが震源地がアメリカだったらどうなるだろう。アメリカ発祥なのに未だ「スペイン風邪」と表現して居直っている厚かましい彼らのことだ(スペインは抗議しないのだろうか)。どうしたっていずれかの劣等民族になすりつけるに違いない。

 「コロナショック 差別の“感染力”ウイルス以上:イタリアで、米国で 噴出するアジア人蔑視」:https://mainichi.jp/articles/20200323/dde/012/040/019000c?cx_fm=maildigital&cx_ml=article

 それで思い出した。サース騒ぎの2003年の夏に、南イタリア・ポッツオリの西のアヴェルヌス湖完全一巡の最終段階で、爆走してすれ違った車の中から何か叫ぶ声がした。ここの名物の温泉に入りたいなあと、そっちに気を取られていた私には聞き取れなかったが、同行の女子留学生から「サース」と言っていたとご報告が。このあと、アグリッパの隠し海軍基地で有名なルクリーノ湖の駅のジェラート屋に行った彼女が憮然とした顔で帰ってきて言うには、販売の兄ちゃんに「何いるの、サースちゃん」と言われた由。まあこんなもんです。彼らには中国人も日本人も区別できない。

 この2月に私が地下鉄の豊島園駅に向かっていて体験したことだが、マンションから出て車道横の二人並ぶのがせいぜいの狭い歩道を歩いていたとき、なぜか咳き込んでしまった(ちなみに私はマスクをしてました:花粉症なんで)。と、向こうから歩いてきていた若い同朋3名の男性がぎょっとして立ち止まり、塀と車道に身を寄せて、私の目の前には悠々すれ違える空間ができたのであ〜る。こりゃいいや、今度満員の地下鉄の優先席の前でやってみよう、厚かましい若いあんちゃんやねえちゃん、慌てて逃げて、座れるぞ、という着想が湧いたのは言うまでもない。

 しかし、あれもこれもまだ最初だからのような気がする。これ、黒死病みたいに蔓延してきたらどうなるだろう。たぶんそれどころではなくなるのでは。いや、かつてのユダヤ人のように、それ以前に東洋人は撲滅されちゃうのだろうか。

 だけど、と思う。たとえ同朋の中でさえも、日常的に学校でいじめがあり、福島原発被災者への心ないいじめもある。忘れっぽい日本人のこと、私は原爆二世だが、一世の時代には疫病扱いであり、結婚差別・就職差別もあったのだっ。もちろん部落差別も。今の若い人は知らないかもしれないが、沖縄差別もあった。欧米人をあげつらう前に、自分たち自身を見直せ!といいたい。というか想定内。

 ということで、166年の疫病の蔓延の時、地中海世界でどんな人種差別が生じていたのか、気になりだしている。瞥見の限りそれに触れた論文はないようだが、実際には絶対あったはずだ。これも研究者の怠慢。

【追記】あちこちでの差別行動が流れ出している。人間とは、どう言いつくろおうが、根底的に同じ人間を差別して一向に恥じないどう猛で、同時に哀れな動物なのである。https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60192?pd=all;https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60204?pd=all;https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60184?pd=all;https://mainichi.jp/articles/20200417/k00/00m/040/323000c?cx_testId=81&cx_testVariant=cx_2&cx_artPos=0&cx_type=trend&pid=14613

 最後のなんか、日本での日本人への仕打ちです。私も故郷にコロナ疎開したら、どうなることやら。ま、自衛はしないといけないだろうけど。

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コイン・オークションから:コンスタンティヌス貨幣

 CNGのオークション465でまたもや珍しいコインが売りに出た。

 320年シルミウム造幣所打刻の、コンスタンティヌス大帝(表側:CONSTANTINVS MAX AVG)、クリスプスとコンスタンティヌス2世(裏側:CRISPVS ET CONSTANTINVS CC:SIRM)の三皇帝の肖像画を刻印したAR Miliarenseで、出品者想定価格は$7750。まず私などの手にはおえない。

 2世は正妻Faustaからの316年頃の出生で、なんと半年後の317年にシルミウムで副帝caesarに昇格されている。クリスプスは300年頃に先妻(内縁)Minervinaから生まれた長男で、同じく317年に17歳で副帝昇格された。要するに以前紹介した319年打刻の陣営図型貨幣(ブログ2019/5/15)の翌年に製作されたもの。ちなみに大帝は47,8歳であった。

 私が注目するのは、この三皇帝並置のデザインが、「ラバルム」labarum、私が言うところの「皇帝旗」にきわめて似かよっていた可能性を感じるからである。以下が、エウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』Ⅰ.31に基づいて作成された想像図である。そこでは「皇帝の胸像と、同じく彼のご子息たちのそれ」と書かれており、複数形の息子たちの数は明らかではないが、312年の後のことなので、まず319/20年段階では上記三帝だったとしていいだろう。

 そして、以下の図は、コンスタンティノポリスの宮殿入り口門に掲げられた巨大なパネル絵の想像図である。これもエウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』Ⅲ.3の叙述をもとに作成されたもの。

 めざといあなたは気付いたはずだ。上図のラバルムはブログ2020/1/12で紹介した「SPES」コイン裏側のデザインでもある。

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古代ローマの感染症:(2)アヘン常用者マルクス・アウレリウス帝

 スーザン・P・マターン女史の著作(p.226ff.)を読んでいたら、私的にとんでもない箇所に出くわした。本音ではしめしめと舌なめずりの体ではあるが。

 ディオン・カッシオスの言として「彼(マルクス・アウレリウス)は非常に小食で、常に夕食のときに取っていた。日中はテリアカという薬以外は決して口にしなかったからである。・・・その[薬の]おかげで、この[病気の]ことも他のことも耐えられたのだと言われている。」『ローマ史』72[71].6.3

 問題は「テリアカ」theriacaである。それについては、ガレノス『解毒剤について』1.1(14.4K)、『テリアカについて、ピソのために』15-16, 14.270-84Kあたりに書かれているらしいが、ずばり「皇帝のテリアカにはアヘン(「ケシの実の液」)も入っていた」由で(p.230f.)、要するにマルクス・アウレリウスはアヘン常用者だったと。この件は最近の文獻だと、Heinrich Schlange-Schöningen, Die römische Gesellschaft bei Galen:Biographie und Sozialgeschichte, Untersuchungen zur antiken Literatur und Geschichte, 65, 2003, Berlin, p.198-204で触れられている由だが、ガレノス処方のそれは3、4%で、マルクスは毎日「エジプト豆の大きさ」分の量を服用していた(『解毒剤について』1.1., 14.3K)、すなわち、一服ごとに33ミリグラムのアヘンが入っていたことになるらしい(Th.Africa, The Opium Addiction of Marcus Aurelius, Journal of the History of Ideas, 22, 1961, pp.97-102=Schlange-Schöningen, op.cit., p.202あたりの算定による)。これは生アヘンとしては少量ながら十分効果がある量だったらしい(p.231)。

ケシの実の樹液(白色)から生アヘン(褐色)の収穫

 というわけで、中毒者までには至らないが、皇帝は常用者だったということにはなりそうだが、これは一日33ミリグラムがどれほどのものかという医学的判定を経なければ結論でないものの、効果の持続のためには徐々に増量していったはずなので、さて実際にはどうだったのか、というところではある。

 となると、ストア派の賢人と誉れ高い人物の言説の背後に薬物依存という現実があったことになって(当時別に禁止されていたわけではないものの)、彼が書いていることのレベルを斟酌する上で、人間マルクス・アウレリウスの実像を追究すべき歴史学的にはとても興味あるテーマで、こういう観点からの『自省録』他の諸史料の読み直しが必要なのでは。誰かやらんかいな。

【追記】アヘンに関する簡便な論文を読んだ。最近はウェブからすぐとれる論文も多くなっていて大変有難い。M.H.ツェンク、田端守「アヘン:その薬物史と功罪」『生薬學雑誌』50-2、1996、pp.86-102。それによると、紀元後214年のローマ宮廷在庫品目録に17トンのアヘンの記録があり、312年には独特のアヘン商業組合も存在していた由(H.-G.Behr, Weltmacht Droge, Wien/Düsseldorf, 1980:古書発注中)。アヘンを精製したヘロインの耽溺者は一日に約0.6g(即ち、600ミリグラム)を必要としているとか(p.99)、17世紀の津軽の秘薬「一粒金丹」はアヘンを三倍量の米飯と搗(つ)いて丸薬としたもの(p.90)だとか(参照せよ、松木明知「麻酔の歴史:ケシの渡来と津軽一粒金丹」『日本臨床麻酔学会誌』10-5、1990、p.27によると一粒金丹は「阿芙蓉(アヘン)、膃肭臍の勢(オットセイのペニス)、龍脳、麝香、辰砂、金箔焼酎、三年酒」などで処方されていた由で、上記と内容に食い違いある。ま、混ぜ物も色々なレベルがあり、それによって価格帯もおのずと高低差があったのであろう)。

 となると、マルクス・アウレリウスは耽溺者の18分の1の摂取量となる計算になる。これがケルソスの調合で挙げられていた数字だった。

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古代ローマの感染症:(1)序論

 この御時世に私は何をすべきかなにができるか、を考えると、お勉強の成果の公表しかないので、遅ればせながらちょっと頑張ってみますか(ほんとは、だれか若手にやってほしいところ)。まとめてからアップするのではなく、執筆速度を挙げるため、原稿を随時書き綴っていこうと思う。なので、ところどころメモめいたものになったり、あとから付加したりとなるかもだが、ご寛容のほどを。

 大略は今は昔30年前になるだろうか、全学の1年生対象の西洋古代史概論あたりで言っていた内容の拡大版といった趣である。といってもせいぜい1,2コマでの扱いだったので、その時の受講生たちがどれほどの現実味をもって私の授業を聞いてくれたのかには自信はない。おそらくはるか昔の医学が未開の時代のことで、自分たちの人生にはありえない、無関係、という脳天気なものだったに違いない。しかしこれは研究者においても同様で、疫学的な視点から歴史の転換点を探ろうなどとは、よほどの変わり者として扱われるのがオチで、実際私は変人なのだろうが、さて現況に直面してみなさんどう感じていらっしゃるのだろうか、聞いてみたい気がする。要は、どれほど切迫して該時代の出来事を捉えることが可能か、という再構成能力、想像力の問題だと思うのだが。ただ油断ならないのは、研究者の中にはさすがに変わり者がいて、たとえば、J.Rufus Fears(1945-2012年)などは、ごちゃごちゃ弁解じみたごたくを述べず直球で、166年のローマ帝国を現代のアメリカ合衆国と対比する観点をあっけらかんと主張している(The Plague under Marcus Aurelius and the Decline and Fall of the Roman Empire, in:Infectious Disease Clinics of North America, 18, 2004, pp,65-77)。私としては、彼のローマ帝国に関するギボン的超楽観的論述は脳天気すぎてありえないと思うが、この比較というより、国際化した現代社会における感染症の猛威については、彼はさながら予言者であった、と思う。何しろ彼は、この疫病がキリスト教興隆の決定的要因であったことを指摘するだけでなく、現代のバイオテロの脅威までもそこで見ているからである。彼にはそれがより鮮明な表題の、以下もある:The Lessons of the Roman Empire for America Today, Heritage Lectures, No.917, 2005, Pp.8.

J.Rufus Fears(1945-2012年)

 地中海世界は他の文明圏同様、幾度となく外来の疫病の脅威にさらされてきた(内在していたそれらや寄生虫とは、宿主と寄生側の長年の付き合いの中で風土病として折り合うようになっていて、だがそれに慣れていない外来者には劇症に発症してしまうわけ:https://digital.asahi.com/articles/ASN3B52ZMN3BUCVL00G.html?iref=pc_rellink_02)。古代において著名な疫病として、紀元前430年頃のペリクレス時代のアテナイを襲った疫病がある。ローマ帝国史に名の残るものとしては、直ちに、紀元後2世紀後半の「マルクス・アウレリウスの疫病」(3世紀中葉の「キュプリアヌスの疫病」もその延長線上か)、6世紀半ばから60年流行した「ユスティニアヌスの疫病」が挙げられるであろう。今回は私の守備範囲で「マルクス・アウレリウスの疫病」について触れてみたい。

 前もって確認しておきたいのは、当時の医療水準のことである。細菌はもとよりウイルスに関する知識もなかったかの時代、病気の原因は、インドを淵源とするギリシア的四体液説に基づき、四体液のバランスが崩れたためとされていた。特に感染症は「悪い空気」=瘴気を体内に取り込んでしまったことに求められ(イタリアの風土病マラリアも、イタリア語の「悪い空気」mal ariaに由来している)、したがってその予防策は瘴気から極力隔離すること、そしてもっとも効果的な治療は体内からの毒素の排出によるバランスの回復(基本的には自然治癒能力を信頼)、すなわち瀉血と考えられていた。日常的経験則から導かれたこの医療観は19世紀に至るまで広く支持され続けていくのである(逆にいうと、我々に身近な医療は19ないし20世紀以降のものとなる:実際、森林太郎陸軍省医務局長の誤った脚気説に代表されるような、多くの試行錯誤があったことを忘れてはならない)。古代ローマの医学を論ずる場合、ヒッポクラテス学派、ガレノス学派が主流で、ともっともらしく述べられるのが普通だが、もちろんそのレベルでさえ当時の一般庶民にとっては間遠く、実際には、病因を呪いや悪霊の祟りとする民間療法をはじめ多種雑多な俗説と有象無象の医療従事者が存在し、活動していたことを失念してはならない(もう一つのアスクレピオス医療団は、さてどのあたりに位置していたのやら)。それを実感したければ、図書館でケルソスやガレノスの当時の医学書や、大プリニウス『博物誌』をちょっと繙くだけでいい。たとえばガレノスは、痛風の治療に腐ったチーズと煮て酢漬けにした豚足を膏薬に混ぜ込んで塗る、といった類いのことを大まじめに書いている。今の我々には読むに耐えない稚拙かつ荒唐無稽な内容の羅列であり、しかもそれが効果的だったとしているのだから、なにをか言わんやである(ガレノス『単体薬の混合と諸力について』10.2.9(12.270-271K):これはS.P.マターン(澤井直訳)『ガレノス:西洋医学を支配したローマ帝国の医師』白水社、2017;Susan P.Mattern, The Prince of Medicine : Galen in the Roman Empire, Oxford UP, 2013、の冒頭のエピソードである)。

Susan P.Mattern:1966-

 そんななか、庶民にとって手に届く医療はとりあえず安価な民間療法しかなかったのが現実だった。そもそも現在のような国家資格での医師は存在していなかったし(それなりの訓練は受けていたにしても)、とりわけ古代ローマ時代の医療従事者はどういうものかギリシア系の奴隷身分ないしせいぜい被解放奴隷だった(小林雅夫「古典古代の奴隷医師」『地中海研究所紀要』6、2008、pp.45-54:http://www.waseda.jp/prj-med_inst/bulletin/bull06/06_07kob.pdf)。ペルガモンの裕福な市民ガレノスは、あくまで例外であったとしておこう。

 キリスト教の教祖イエスも,当時の悩める庶民にとっては安価な病気治しの治癒神に他ならなかった。西欧中世庶民において治癒能力をもつ奇蹟実行者こそ教祖イエスの再演・現身であり、キリスト教信仰の核心であった。いうまでもなく、教会側も治癒行為を宣教の有力な武器と捉えていた。聖人認定に奇蹟が求められたのもその証しであろう(山形孝夫『治癒神イエスの誕生』ちくま学芸文庫、2010年:初版、朝日新聞社、1991年)。

山形孝夫(1932ー):当たり前のことだが、お歳を召された。

 そして当然のことながら、いつの時代も庶民が従来の伝統的神(々)を放棄する契機となったのは、彼らが願った平穏な日常生活が、天変地異、特に気候変動や感染症の大流行で破綻して、従来の権威が失墜したとき、入れ替わりに新たな(自称を含めた)治癒神が登場したときである。いつの世も治世者にとり感染症をどう沈静化するのかは大問題であった。絶望にさらされた民意はまたたく間に統治者や聖職者から離反する。それがまさにローマ帝国でのキリスト教受容の大躍進期、すなわち三世紀で目撃された。その前段階に「マルクス・アウレリウスの疫病」があったのだ。その時点ですでにギリシア・ローマを始めとする旧来の神々は民衆から愛想づかしされていたといっていいのかもしれない(この既成宗教の凋落を、国家宗教であって個人救済とは無関係だったから、などともっともらしくこれまで研究者は説明してきたわけであるが、単なる空想的観念論にすぎない)。

 そして同様に、黒死病が宗教改革の影の主導者となったわけだが、近代医療の幕開けが今度はキリスト教信仰の屋台骨を揺るがす一大転機となったのは偶然ではない。カトリック教会はこういった近代科学主義への対抗措置として、聖母マリア崇敬を称揚し(1854年に、無原罪の御宿りが信仰箇条になった、その4年後にフランスのルルドで聖母出現、そして1913年ポルトガルのファティマでの聖母出現、その各々での奇跡的治癒による聖地化などで)、失地回復を試みてきていたともいえる。もちろん結果的に成功しているとは言いがたいが。

 現代においては、ごく一部の最先端の医療関係者を除くと、すでに新薬開発が救世主の地位にあって、ちまたの医者はその単なる販売促進メンバーといって過言でない(現代版富山の薬売り)。その現代の救世主たる製薬会社が実はガンなど収益性の高い治療薬開発にもっぱら資金を投資し、感染症のワクチン研究をおろそかにしてきた現実もあるらしい:http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52269982.html。そもそもワクチンできた時には疫病が終熄していたりする。否、開発以前に終息してしまったりもしている。サースしかり、マースしかり。そのつけが現在の状況をもたらしているとしたら、どうだろう。以上、閑話休題でした。

 165年末ないしその翌年の初めに、皇帝マルクス・アウレリウスMarcus Aurelius(在位161-180年)の共同統治者でノー天気なルキウス・ウェルスLucius Verus(在位161-169年)を総大将とするパルティア遠征軍が持ち帰った疫病がまたたく間に蔓延したらしい(SHA, Verus, 8:南川高志訳『ローマ皇帝群像1』西洋古典叢書、京都大学学術出版会、2004年、p.216;cf., p.166、172、182:もちろん、この類いには当然のこと別説あり)。結果、多くの死者が出た。この感染症の症状については、当代随一の医師を自認するGalenos(129-199年:小アジアのペルガモン出身)らの記述が残っていて、おそらく天然痘だったらしいとされている。

ルキウス・ウェルス貨幣:裏側で共同統治者マルクス・アウレリウスと握手している

 この件と関連して、だがあまり触れられることはないようだが、マルクス・アウレリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫、初版1956年、改訂版2007年:他にも翻訳はある。導きの書として、荻野弘之『マルクス・アウレリウス『自省録』:精神の城壁』岩波書店、2009年)の著作年代がまさしくこの感染症の時期と重なるので、そういう視点で読み直してみる意味があるのではないかと思う。彼自身の死も疫病だった可能性があるし、私のような門外漢にもその紙背に抜きがたく「死」の影がまとわりついているのを感じざるを得ないからだ。その中には、同時代のキリスト教への言及箇所もある:11.3(最近またまた後世竄入説は後退している。これは後世の善帝評価の忖度によるもので、彼だからあの立派なキリスト教に対してそんなことを言うはずはない、とするのではなく、彼自身の手とみていいのではと私も思う:参照、エピクテトス『語録』4.7.6)。

 いみじくも、その疫病と同時代を北アフリカで生きていたキリスト教徒テルトゥリアヌス(160年頃ー220年頃)が彼一流の皮肉を交えながら喝破したように、天変地異はキリスト教迫害のきっかけとなった。「もしティベリス河が増水して水が堤防を越えたならば、もしナイル河が増水しないで田畑に水を引くことができなかったならば、もし天候がいつまでも変わらなかったならば、もし飢饉が起こったならば、もし疫病が発生したならば、彼らはたちまち、《キリスト教徒たちをライオン(単数)へ:Christianos ad leone》と叫ぶ。いったいどのようにして、これほど多数のキリスト教徒を一頭のライオンに食わせることができるのか」(Tertullianus, Apologeticum, 40:金井寿男訳『護教論』水府出版、1984、p.121)。

 この文脈から考えてみると、不運なことにマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの登位は、まさしく飢饉と洪水で迎えられた。そしてその後も疫病や蛮族の侵入の連続である。これでは悪帝とされても仕方ない仕儀で、民衆の怨嗟の的になってもおかしくなかった。事実、諸々の皇帝伝(但し、いずれも4世紀後半の作:アウレリウス・ウィクトル『皇帝列伝』、エウトロピウス『首都創建以来の略史』、『ローマ皇帝群像』など)での叙述からは、彼の学識や施策を高く評価しつつも、なにかしら奥歯にもののはさまったようなくぐもった表現が読み取れるし、共同統治者ウェルス、妻の小ファウスティナそして息子のコンモドゥスはより直接的な非難の対象とされていて、これはとりもなおさず間接的にではあれ、マルクス・アウレリウスのあるべき上長ないし家長としての威厳のなさが公言されているわけである。このあたり単純に読解力の問題だと思うのだが、それをきちんと指摘している研究者にどうしたことかこれまで私は出会ったことがない。完璧な人間など存在しない。だから、不必要なよいしょなど不用のはずなのに、と私など思ってしまうのだが。マルクス・アウレリウスも言っているではないか、「お前は老人だ。これ以上理性を奴隷の状態におくな」(『自省録』Ⅱ.ii.3)。研究者たるもの率先してそうあるべきであろう。

 ところで、「ピンチはチャンス」とばかり、この感染症を利して勢力を拡大したのが、キリスト教だった。今次感染症騒ぎの真の勝者は誰(何)であろうか。見届けたい気になってきた。

 なお、ウェブで以下の簡便な世界医学史叙述をみつけた。一般的な事情を手軽に得るには有効であるが、こういう叙述を読む場合、書かれているような訓練された医者による医療を享受できた社会層を限定的にとらえるという視点が必要のように思う。また後者の場合、「ギリシア人医師」と標記してギリシアをあがめ奉った叙述が目障りだが、より正確には「ヘレニズム医師」とすべきだろう。もちろんだからといって皆がみな科学的だったはずもない。http://nico-wisdom.com/newfolder1/worldmedical.html;https://anc-rome.info/medicus/

【付論】感染症を論じる場合、細菌やウイルスの撲滅はありえない。それはすでにマクニールも指摘していることである。統計的に3割から6割が感染すれば集団的に抗体を保有して収束ないし終熄するとされている。1875年のフィジー諸島でのはしか(麻疹)流行での死者数は示唆的である。人口15万人のうち4万が死亡した。免疫獲得による生存率として、中世ヨーロッパの黒死病の被害もこの割合だったのではなかろうか。https://www.huffingtonpost.jp/entry/shingatakoronauirusu-jinruitonokyoseinimukete_jp_5e6f1770c5b6dda30fcc321d;https://ml.asahi.com/p/000004c215/6398/body/pc.html

 実はこのところ「はしか」が流行していて、2018年に14万人が死亡していたのだが、マスコミは少しも関心を持とうとしなかった。その大多数が5歳未満の(声をあげれない)子供だった。コロナ・ウイルスでは現在死者数6万台で大騒ぎしているが、それも自分たちの頭上に火の粉が降りかかってきているからにすぎない。私を含めつくづく身勝手なことだ。ちなみに2019年にはしか汚染者は25万人以上、その45%を占めるのは、コンゴ、リベリア、マダガスカル、ソマリア、ウクライナ、の由。先進国の我々にはますます他人事だったわけ。https://www.unicef.or.jp/news/2019/0175.html

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統計とはなにか:史資料批判の現実

 私は数字に弱い文系と自認している。そのくせというか、だからなのか、えてして証拠として示される数字には説得されがちである。これは母数が少ない古代史研究やっている場合、墓穴となりかねない。統計学的な有意差検定など無視した結論へと短絡しがちだからだ。だがそれは古代史だけの問題なのであろうか。

 今般のコロナウイルス問題で表面化している数字の問題がある。感染しているかどうかの調査報告での数字である。原発地の中国以外で、一時高かった韓国のそれは沈静化の兆しを見せている一方で、イタリアやイラン、それにフランス・ドイツで感染者数が増えだしている。それに引き替え、クルーズ船感染で名をはせた日本はそれほど延びず、大勢として沈静化の方向にあるのだが、国際的にはこの数字は信用されていない向きがある。

 素人の私でも想像できるのが、問題が、新型コロナであるかどうかの判定基準が国によって異なっているのではないかとか、検査母数の多寡と関わっているからである。日本の場合は、この夏開催予定のイベント、オリンピックがあるので、それでなくとも証拠隠しの現政権の体質もあって、数字への政治的操作が疑われる。なにしろ今現在においても、日本国内での感染者数よりもクルーズ船内の数字の方が多いのである。これはどう考えてもおかしい。数学オンチの私は、山勘で中国の発表数字を10倍してきたが(なぜか専門家もそうみているようだ)、国際比較する上で日本の場合は20倍したほうがいいような気がしている。検査を徹底的に実施しなければ(したらしたで医療崩壊する恐れが生じる)、そして症状の判定を厳格にすれば、数字は自ずと低く抑えられるからくりである。

 現代的な統計がない古代において、状況をどう把握するか。しかし現代でも時の政権にとって有利な数字が、それにおもねるマスコミによって公表されるのであれば、なにをかいわんやである。こうなると庶民は、自分たちのカンに頼って動くしかない。なにしろ、精神安定剤にすぎないマスクも店頭から消えて久しい(私のような花粉症には必需品なのに:行きつけの医院では前からマスク1枚30円で販売していた。今回それを利用したが、いつまで備蓄が続くのかは知らないが有難いことではある)。所詮精緻さを装っても、数字とはその程度、なのかもしれない。そうなると、思考回路がぐるっと一回りして、民衆の風評・噂が記された文書史料のほうがむしろ大勢を押さえることができるような気がしてくる。しかし今度は書き手の思惑をちゃんと史料批判しないといけないわけで、プロとしては先入観を極力排除して、この螺旋思考を幾度かくり返し、事実らしきものに迫っていくしかない。

 研究者たるもの、目前で展開されている数字の乱舞から、いかに事実を読み破っていけるかを試すべきだろう。また、自己の眼力が本来の研究対象で十全に発揮されているのかどうか、検証する勇気を持たなければならない。所詮素人なので、己の直感に頼っての営みにすぎないが。

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315年打刻Ticinum銀貨補遺

 あれからもう7年経ったのか。上智大学文学部史学科編『歴史家の窓辺』上智大学出版、2013年で、「歴史研究は刷り込みとの闘い:後315年ティキヌム造幣所打刻「記念」銀貨をめぐって」を書いてから。この歳になるとすでに過去の時間感覚は曖昧で混濁している。

 この銀貨は現存が3例のみで、当時その所蔵博物館に連絡をとって画像の掲載許諾を求めた。ドイツの国立ミュンヘン貨幣博物館(M)とオーストリアのウィーン芸術歴史博物館(W)からは迅速に許可が帰って来たが、ロシアの国立エルミタージュ博物館(E)からは音沙汰なしで、それもあって貨幣の表裏両面掲載写真も1930年代のものしか入手できず、不満が残っていた。

 昨日、美術史の後輩から教えてもらった以下の本が届いた。Idler Garipzanov, Graphic Signs of Authority in Late Antiquity and the Early Middle Ages, 300-900, Oxford UP, 2018. パラパラとめくっていたらその55ページに、なんとコインの表側だけにせよEの予期以上に鮮明な写真をみつけたのである。そのキャプションには、登録番号(inv.no.OH-A-ЛP-15266)まで明記されているではないか。スキャンしようとして、ふと思いついてググってみると、あっさりウェブ画像にもうアップされていた。それが以下の写真の上図右側で、中央はいつでも出てくるMである(博物館のHPに登場しているのであたりまえであるが)。左のWは摩滅で細部が不鮮明であるが、今回のEとの比較から、特に馬のたてがみや兜の羽毛飾りや皇帝の髪、それにぐっと下を見据え、顎を引いた細面の顔全体の表現の仕方から、おそらくEとWが同一金型だった可能性が強くなったように思われる。もちろん更に、裏側の詳細な比較検討が必要なことはいうまでもない。裏面の鮮明な画像の所在をご存知の方からの情報提供を期待している次第である。

W                M              E

 この機会に、小論執筆時みつけて言及しておいたフェイク・コインも掲載しておこう。

 ところで、それを探すためにHDiskをチェックしていたら、これらのコインを論じていた2014年3月段階のウェブ書き込みからのスクリーンショットをみつけた(https://www.lamoneta.it/topic/120825-dubbi-sul-medaglione-con-cristogramma/page/2/?tab=comments#comment-1373743)。その中にすでに上のEも入っていた。こんな調子だから、やれやれだ。かくしてこの最新ニュース(のつもりだったが)は、「遅報」であり,同時に私の「痴呆」状況を示す報告となった、という落ちがついてしまった。

 さて、これらのコインのテーマ、改めて論じる機会を持てるだろうか。もうないような気がする。

【コイン市場に第4番目が登場していた!】https://www.numisbids.com/n.php?p=lot&sid=2518&lot=1051

オークション出品なので、以降Aと略記

 他の件でコインをチェックしていたら、とんでもないものにぶつかった。業者はNumisBids、オークション は2018/5/9-10、業者評価額は25万スイスフラン、落札価格もその価格、ということは、言い値で競争相手もおらず落札されたということだろう。日本円に換算すると、2825万円。この時のオークション1626ロット中、断トツの高額だったのもぬべなるかな〜。どこのどなたの手に渡ったことやら。

 簡単にコインの表側をチェックしてみたが、こちら側はMとほぼ同一金型と見た。裏側でも、WとEでは皇帝の左側に小さく描かれた人物が介在するが、Mにはそれがない。しかしこれほど保存状態がよければ、巧妙な贋物でなければいいが。というのは、裏側の皇帝像の腰巻き風な描き方(エジプトのファラオではあるまいに)に私は激しく違和感を感じざるを得ないからである。Mだと明らかに胴鎧だ。さらに、騎兵や皇帝の背後の人物(ないし女神像)などの細かい描写が微妙に異なっており、さらに刻印も「PVBLIC AE」と分かち書きしておらず、それはWとEの特徴である。まあこれらは工房における違いといえば言えるのだが。

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