投稿者: k.toyota

コロナ6回目接種

 8/26から3週間ほどイタリアに行くのだが、必要かどうかよくわからないまま第6回の接種をしたのが月曜日。それから2日経つが、次の日は腕が痛かったが、一貫してとても眠たい。それも副反応か。今日の日中は風があって過ごしよかったが、夕方になって湿気が出てきたようだ。

 日本を出るときに問題はないが、帰るとき、出先の空港で航空会社によって自己規制なのだろうか、色々対応が違うようで、お役所が何言ってても信用できない。3月のときは、イタリア・エアラインだったが帰国時に搭乗手続きの時みな引っかかっていてえらく時間がかかる、なんだろうと思っていたら、自分の番になって、要するに横文字で書かれた接種証明書を見せろと。それがなかなか言葉的に通じないわけで。

 なんでイタリア航空側がそれを気にするのか分からないまま、日本についたら、ケータイで黄門様風にVisitJapanWebの登録見せておわり。なにやってんだか。

 イタリア航空といえば、日本出るときすんでのところで詐欺的行為に合いそうだった。搭乗手続きのとき窓側が指定されていたので通路側を要求したら、日本人の女性係員が場所によって値段違うがお金要りますと。安くても30ユーロだったので諦めて機上してみたら、ガラガラ状態。乗客は3分のⅠくらいだった。あの係員のこの対応は、やたら腹立たしいものだったが、どうせ経営者に言われてのことだろうが、機内乗務員も日本人はいないし、本格的食事は1回のみで、経費節減があきらかな感じだったなあ。

 今回はトルコ航空。さてどうだろうか。

Filed under: ブログ

草取り帰省

 なにやってるのだろう、いつまでやってるのだろう、という思いが、今回初めてのことだが、帰京の新幹線の中で頭をかすめた。

 2,3か月に一度帰省するのは、実家の様子をみることと、駐車場横の花壇で雑草(というと、土佐の誰かさんに叱られそうだが)がやたら繁茂して長期の留守がバレバレになるので、草むしりするという重要任務があるからだ。その他についでに墓参りもしているが、それ以外これといった目的もない。

 逆にいうと、新幹線代往復3万円強を投入して、実質草取りしに帰省している感じなのだが、いつも帰京する時に、電源は全部抜いてきたか(冷蔵庫だけは切れないのでブレーカーを落とすわけにはいかない)、戸締まりはちゃんとしたか、築40年なのでよもや漏電はしないだろうな、と、くよくよ気をもむのが常態なのだが、あっさり処分すれば気が楽になるよな、いつまでこんなことやっているのだろう、と今回初めて思ったのである。

 母の死後4年経つ。祖父が建てた昭和6年以来92年存在した実家である(父が1985年に死んで旧宅は一度解体され、母の時代に現況となった)。三代目の自分の代では売却しないと思い定めてこれまでやってきていたのだが、当方76歳になったこともあり若干迷いが出てきているのかも。そう、こっちも先がないわけで。これも酷暑からくる夏バテのせいなのだろうか。

 

Filed under: ブログ

忘れてはならじ、戦争棄民

 夜中の民放でフィリピンに無国籍のまま取り残されている日本人のこと扱っているドキュメンタリーをみた。それでちょっとググってみたら、テレビにも登場していたNPOの猪俣典弘さんの手記を載せた佼成新聞がヒットした。この新聞はいうまでもなく立正佼成会の機関紙である。コロナで財政難に陥ったNPOに会が寄附したのが縁らしい。

 「忘れられた日本人――フィリピン残留日本人二世」と題したシリーズの第一回(https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/contribution/57787/)が、昨年の8/15で、丸1年間12回の連載だった。ちなみに最終回は今年の7/27(https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/headerslide/64296/)。

 父が日本人で母が現地人の間に産まれた4000人ほどいた二世残留日本人たちもすでに生き残っているのは400人ほど。彼らは無国籍のまま放置されてきていたのだが、本人たちが現地日本大使館に何度訴えてもなしのつぶてで、民間のNGOが動いてそれでもかなりの人の日本国籍を取り戻したらしい。

 こういう話を聞くたびに、在〇〇日本大使館っていったい誰のための大使館なのかとここでも腹立たしくも情けなく思うのである。我ら庶民日本人ではないことだけは確かだ。国会議員や特権階級のために決まっている。大使館職員は、裏ではグチってみせながら彼らのためなら嬉々として動く(どっかの首相の長男の場合だって、むしろ率先して公用車を回していたはず)。人間の心の痛みを持った外務省職員なんて期待できないという悲しい現実があるのだ。「いのちのビザ」杉原千畝氏への外務省の冷遇を思い出すべきだ。体質は厳然として変わっていない。おそらく未来永劫。

 それに引き替え、かの新聞掲載シリーズ第2回で登場した上皇上皇后両陛下が、在位中の2016年に海外最後の訪問地としてフィリピンにいかれ、当然のように残留孤児たちにお会いになって、一人一人親しくねぎらわれたことを比較したくなるのである(余談だが、この両陛下の行動は、面会人数を大幅に増してのことでもあったので、出先大使館にとってメンツ丸つぶれの面倒事だったはずだ。私がローマに滞在したとき、皇后美智子妃は一度言い出したら折れないから厄介だと大使館員が言っていた、という風聞を聞いたことがある。なに、ヨハネ・パウロ二世もよく寄られていたバチカン近くの、イエズス会本部前のサント・スピリト・イン・サッシァ教会を訪問したいと言い出したかららしい。大使館側はたぶん警備上の都合を言い立てたのだろう:真偽のほどは神のみぞ知る。ローマではこの類いのまことしやかなこぼれ話をよく聞いた)。

サンピエトロ広場       右角のくの字の白い屋上がイエズス会本部   Santo Spirito in Sassia

 そしてこの問題、実は政府による国民の棄民はフィリピンだけではないわけで。

Filed under: ブログ

家族伝承者制度、人工知能の証言映像

 この夏、広島に帰って見るともなしにつけていたテレビで、盛んに「家族伝承者制度」という言葉によく出会った。被爆者の死滅が目前に迫っている現在、その家族が聞き取って原爆体験を継承し、戦争を知らない世代に伝えるというプロジェクトで、昨年始まったらしい。

 2022/8/4NHK「戦跡:薄れる記憶」(https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_148.html)

 人工知能(AI)を駆使して証言映像が質問に答える、そんな試みも始まっているようだ。たしかにこれはいい。膨大な作業料と資金が必要だろうが。今、NHK総合(広島)で原爆の日特集の第一部でライブ絡みで放映している。

 NHK放映予告より

 今年3/18放送「永遠に語り継ぎたい:未来に残す、あの時の記憶」(https://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibaku75/taiwa/)。梶本淑子さんの事例。あれ、彼女の現住所は庚午北だそうだ。

 彼女は戦後の生活については触れたくない思いで封印してきていた。端的にいえば今日明日の食べ物の調達での惨めさなのだ。被爆したあと、父が死んで、生き残った母と3人の弟を養っていく戦後の10年間の苦しい日々の悲惨さ、惨めさ・・・。

 歴史学徒のいやらしさで、きっとすべては語られていないのだろう、とどうしても思ってしまう。たとえ6割吐露していたとしても、残り4割は口を閉ざして墓場にまで持っていくのだろうな、と。でもしかし、それでもやるべき試みだと思う。あとは人間の想像力の問題だ。

 この番組はNHKオンデマンドで来年の3/15までみることできる。単品で220円。

 これを書いているときに突然猛烈な雨が。世間は晴天なのに、ここ庚午北は夕立だ。10分程度で晴天に戻ったが、これで一挙に湿気が高まってしまった。

【追記】 以下の風聞について耳に入ってきたのでメモっておく。被爆者は原爆手帳をもっているので、医療費が原則タダである。私の母はそれもあってご近所の医院に調子が悪いと気軽に行っていたものだが、たんびにレントゲンと点滴をされて「あ〜楽になった」と嬉しそうに帰ってきていた。水分不足が原因ということらしかったが、だったらレントゲンは不要だけどなと思っていたのだが、なんと広島の医者は原爆手帳のお陰で楽してこれまで儲けてきていたけど、被爆者が少なくなってそうは行かなくなって困っている、と。要するに医者が被爆者に寄生して医療費をかさ上げしていたことが、他ならぬ広島の開業医たちの雑談で表ざたになってきたようで、疑問に思っていたことがようやく私にも理解できた次第。黒い雨降雨範囲拡大だって被爆者増加を目論んでいるその筋の差し金に思えてきてしまう。

Filed under: ブログ

「夏服の少女たち:ヒロシマ・昭和20年8月6日」

 ウンザリするような暑さに疲れ果て、エアコンつけて、テレビをつけたら偶然、NHK特集でやっていた。1988年制作で、今年大当たりの広島女学院の、出身の杉浦圭子アナウンサーが朗読している。昨年もみたような記憶が。この作品は、13歳の県女一年生たちの復元動画、彼女たちが残した日記の朗読と、あとに残された親の現況を組み合わせての映像である。慟哭ではなく、日本人らしく押し殺した嗚咽なのだ。

 「変わらないのは親子の情だけ」と昭和19年に夫を、そして翌年娘を失って残され93歳になった母親は言っていた。ここでの濃厚な親子関係は今も変わっていないのだろうか、とつい思ってしまう。

 60分弱で、いまだとYouTubeで見ることできる。https://www.youtube.com/watch?v=Rvwbo_dl_1k

 ここに行ったら、その下にあったのが次で、これもつい見てしまった。「少女たちの日記帳 ヒロシマ 昭和20年4月6日~8月6日」(https://www.youtube.com/watch?v=v2-O8Lk7zoQ)。ドラマ仕立てで、素材は同じ日記帳なのに、こっちのほうがリアルな女子中学生っぽい描写がいろいろあって・・・(笑)。これは2009年8月6日NHK BSハイビジョンで放送されたもの。

 それだけでない。今回私は初めて、中学一年生が家屋疎開に大量動員されていた理由を知った。知らなかったが、昨年の8/6に放映されていた。「原爆が奪った“未来” :中学生8千人・生と死の記録」(https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/p14MBylDng/)。2004年に新史料(https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/66106)が出てきてその経緯が判明。中学に入ってすぐの生徒の動員はなんと原爆投下一ヶ月前の決定だったのだそうだ。放映ではごり押しをした中国軍管区司令官の陸軍藤井洋治中将の実名も出ていた(https://www.rijo-castle.jp/rijo/wp-content/themes/rijo-castle/assets/pdf/magazine/shirouya58.pdf)。あとからみつけた朝日新聞デジタル(但し有料)にそれ関係が載っていて、そこでは中将は発見史料掲載通りに○○中将とされている。「いらだつ軍人、抵抗する学校 8月6日、動員された8千人の子たちは」(https://digital.asahi.com/articles/ASR7X61YZR7XPTIL003.html?iref=pc_rensai_article_short_1898_article_1)。

 いずれも撮影から35年、14年たってしまい、遺族はみな既に鬼籍に入られていると思うと、万感せまるものがある。

Filed under: ブログ

被爆者は世界中にいる

 昨日、墓参りと実家の様子をみるために久しぶりに帰省した。一週間ほどいる。駐車場横の花壇は思い切り雑草が生えていた。家の中に入ると特に二階はすごい熱気がこもっていた。

 窓を開けて、テレビを付けると、民放で原爆関係をやっている。ああそうだった、この時期広島は民放でも原爆特集をよくやっている。

 でも思う。被爆者は被爆国は、広島・長崎だけではない。このことを忘却の得意な我が国民は忘れていやしないか。試しにググってみた。2019年8月7日発信の「日本だけではない、被爆国」(https://www.jrc.or.jp/international/news/190807_005824.html)、日本赤十字社の記事だ。その冒頭に引用文でこう書いてあった。

「1945年、アメリカのニューメキシコ州で世界で初めての核実験が行われてから、これまで2,050回を超える核実験が行われきました。アメリカはネバダ砂漠や太平洋で、ロシアはカザフスタンや北極海で、イギリスはオーストラリアや太平洋の島国で、フランスはアルジェリアや南太平洋の仏領ポリネシア・タヒチで、中国は新疆ウイグル自治区で実施しました。ワシントンやモスクワなどの大都市から遠く離れ、多くの場合は植民地や先住民族の暮らしている土地でした。核実験により被爆した人たちは、世界各地に存在しています」(川崎 哲『核兵器はなくせる』、岩波ジュニア新書、2018、p.60)。

 そう、アメリカは最初の実験のあと爆心地にご丁寧にも州兵を入れてさえいた。残留放射能の知識がなかったといえばそれまでだが、だからアメリカが最初の被爆者の国であることにほとんどの人が気づいていないようなのはおかしい(当然、識者はご存知でしょうが)。

 私はもちろん第五福竜丸関係で、かなり昔、南太平洋での現地人の被爆者の話は聞いていた。改めてそうなんだと思ったのは、アルジェリアに行く前の事前勉強の中でのことだった。幼い頃、いやもう中学生ごろの記憶をたどってみたら、そう確かにそんなことが新聞記事にあった。フランスは植民地のサハラ砂漠で盛んに実験をやっていたのだ。そこにはもちろん何も知らされずに先住遊牧民がいたし、アメリカ同様仏軍兵士も爆心地に行進さえさせられていた。2014/8/5中国新聞発信「アルジェリア核実験被害の現実 仏公共放送記者 ラルビ・ベンシーハ氏に聞く」(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=34377)。人体実験でもあったのだろうから、この兵士たちはやっぱり現地出身者だったのだろうか、とふと思う。

 ところで、川崎さんの本を我が図書館で検索したがヒットしない。え、どうして?

Filed under: ブログ

警視庁池袋署への出頭

 数日前に、なんと標記の警察署から紙の郵便が届いた。以前盗まれた自転車の場合は練馬署だったので、どうして池袋署なのかまるで思い当たる節もなく、私の保険証(ただし期限切れ)が落とし物で届いたので、取りに来いということなのだが、手元に現行のものはあるのでわざわざ期限切れのものをこの猛暑のなか受領に行くのも億劫この上もないのだが、なにせ警視庁というものものしい文言に刺激されて(うちの嫁さんに引きずられてテレビでそんなドラマばっかり見ている影響も否定できない:所詮本庁じゃなくて所轄だけどさ(^^ゞ)、昨日の午後,病院経由大学に行く前に寄り道して、とことこ歩きなれない池袋西に行ってきた。到着時すでに午後4時30分で受付辛うじて滑り込み。

 受領時に西武百貨店で拾われたとの説明あったが(だから池袋署か)、さて普段持ち歩かないものがそんなところでどうしてとこれも合点がいかなかったのだが、家に持ち帰ってよくよく見たら、これは保険証本体ではなく、身分証代わりに使えるかもと思って私がカラーコピーして作って常時サイド・ポーチにカードといっしょに入れていたものじゃないか!、あ、分かった、やっと思いだしたぞ、我孫子の帰りに百貨店に寄って買い物したけど、500円以上だっけを買ったら登録抽選できますといわれ、その受付に行って西武のカードを出したことあったけど、その時に一緒に出て落ちたのだな、どうりで受領したときの手触りも厚めだったわけだ、と。

 しかしこのコピー、区役所なんかだと通用した試しがこれまでなかったしろもので、一目で見破られてしまうのだが(当たり前だが本物でないと身分証として通用しない)、警察ではご丁寧に保管していただけたわけである(所轄、たるんどるぞ!)。でも嫁さん曰く、ケーサツは落とし物が届いたからそう処理しただけなのよ、と。部署が違うとおのずと目が利いたり利かなかったり、まあそんなものだろう、当たり前だがなるほどな、と。

 それにしてもこれからこんなことが増えていくのだろうか。やだなあ。

Filed under: ブログ

後期高齢者の断捨離

 思い立ってこのところ粗大ゴミの断捨離が続いている。これまでは、使用不可となっていたプリンタや大学から持ち帰っていた大型スキャナの断捨離だったが、ずっと和机でやって来た老妻が、足がしびれ立ちあがるのも億劫になってきたので(机に両手をついてよいしょとかけ声かけないと立ちあがれない)、椅子にすわる洋机にしたいと言いだし、津山で家を新築して以来40年近く使ってきたそれなりに重厚なヤマハ家具製の座机を捨てることにし、組立ても簡便な安価な勉強机を購入した。しっかりした勉強机用の椅子は何本も出ている足がじゃまといって、部屋の隅に転がっていた補助的丸椅子でいいのだという。つくづくお金のかからない人だ。

 昨夜その入れ替えをおこなったのだが、その後に机横に置いてあるゴミ箱を空にしようと持ち上げたらやたら重い。断捨離趣味の妻らしく、この機会にあれこれたまっていた雑品を一掃しただけでなく、なんと本を数冊ゴミ箱にぶち込んでいたせいだ(医学関係もあった)。これが私にはできない技なのである。

 そして、その入れ替え作業で痛感したのが、老人の断捨離って意外と難儀だなということだった。当たり前のことだがもう若くはないわけで、和机の足を分解し、やたら重たい上板を玄関外に運び出すだけの作業で若いときはなんてことないはずなのに、腰に負担がかかっている感覚のせいで、否、そういった肉体的以上に精神的にそれに触発されて動きが緩慢になりタイギイのである。

 私にとってより喫緊の課題は書籍の整理で、実はこの一週間、イタリアから届いたばかりの薄いパンフ形式の本が行方不明となっていて、積みあげている書籍の山の中をあれこれ探したけど未だ発見できていない(上のほうにあるはずなのにない、だから引っかき回す、だけどない,否、目にとまらない)。時間はあっという間に過ぎていってバカにならないし、そのプロセスで不要な書籍がまたえらくたまっているな感に捕らわれたのだが、家具の時もそうだったが、それなりに思い入れもあるモノを捨てるという営みは、私のように昔から脳外記憶保存型の(要するに生来記憶力が弱いからそうなる)、周辺にそれに代わるモノを置いておかないと安心できないわけで(記憶力がよければこんなこと不用だろうが)、はなはだ苦手な作業なのだ。だがしかしどうにかしなきゃと重い腰をあげる気になっているのも、死後に迷惑かけたくないということよりも、空間的にもう限界こえている思いが最近とみに出てきているからだろう。だけど妻のようにゴミにして出す思い切りのよさは私にはないので、そのためかかるであろう時間・手間が意識に先走るから厄介なのだ。

 実際には再び広げて参考にすることもないだろうコピーの山も厄介だ。いつかまた見るかもとか、必要出てくるだろうからと、ファイルボックスの中にそれなりに項目別にいれている書類の山が場所を塞いで増殖していて、これまた老妻の怨嗟の的となっているのだが、あと○年で終わりの私の研究人生を死亡時から見返してみるなら、もうすでに不用品のはずといっていいのだが。

 そう、この発想がようやく芽生え出したというべきか。

 ああ、ベランダ隅のゴミと化した藤製戸棚の分解もしなきゃならんが(ハリーポッターが始まって豊島園にカラスがもどってきて、てきめん姿を消していたハトがまたなぜか出没し出し、そこでくうくう鳴いているし)、この暑さである。一日延ばしにしてきたが、夕方になって陽が落ちたらやるかのう。

Filed under: ブログ

ヒッポクラテスのお言葉

 古代ローマ史のイタリア語論稿を読んでいて、幾分唐突に出会った箴言である。ヒッポクラテスも言っている、la nostra vita è breve ma le ricerche continuano, la conoscenza acquisita è ingannevole, il giudizio è difficile. だから私はもう述べますまい、という箇所での引用だった。

 前半はどこかで聞いたことある、なかなかしゃれた文言だなというわけで、典拠を知りたくてググってみたら、ヒッポクラテス『全集』の冒頭に書かれているらしいことがわかった。「人生は短く、術のみちは長い」。これはどこかで聞いたことある。しかしその次に以下が続いていることは知らなかった。イタリア語訳だと「得られた知識は欺瞞的で、判断はむつかしい」となる。私が惹かれたのは「得られた知識は欺瞞的で」という箇所で、これを私は「現段階の研究は将来乗り越えられるそんな存在に過ぎないのだ」と読解し、こりゃ研究者たる者常に頭に刻み込むべきだと感じたのである。しかし原文だと「機会は逸しやすく、診断はむつかしい」、すなわち、彼は医者だから、この箴言の本来の意味は「短い人生の間に、医術の道を究めるには時間がかかる。しかも患者に適切な処置を施す機会は逃しやすく(失敗することも多く)、実に診断はむつかしい」といった意味になるはずだ。翻訳が重なっていくうちに、原意が微妙に曲げられていくわけである。

 世に流布している前半についても、ゲーテによって順序を逆転させて「芸術は長く、人生は短い」などと言われる場合が多く、芸術至上主義の表明と明らかに意味が変化してしまっている。問題は、ヒッポクラテスは芸術なんて意図していなかったにもかかわらず、なのだ。これはそもそもギリシア語原文でのtechneが、セネカによってラテン語でarsと訳され、それが英語のartを経て、日本語では「芸術」に変じたからである。これについては泌尿器を専門とする医学部教授による論稿をみつけた。斉藤博「ヒポクラテスの箴言「人生は短く,術のみちは長い」について」『埼玉医科大学医学基礎部門紀要』10、2004,61-75ページ。

 換骨奪胎、誤訳文化ニッポンの面目躍如である。もちろん立派なグリーク・ラテンの諸先生たちはさすがに読み誤ってはいないようだが、なにせ大多数の常民にとっては世に膾炙している俗論(俗事)のほうが耳に快いわけで(だからこそ流布する)、いくら「本当はこうなんですが」と指摘したとしても蟷螂の斧なのである。げに刷り込みは恐ろしい。いや、知名度の差というべきか。

 余談だが、上記論文には孔子『論語』の例の有名な文言も出てきている。だけど十五歳から六十歳までの格言、私にはこれまで少しも納得いかなかったのだが(私の場合、そんなに思い切りよく、どれも断念できなかったので)、今回「七十にして心の欲する所に従って、矩をこえず」にいささか思うところあった。76歳目前の私の場合、矩をこえるエネルギーが既に失われちゃっていて、もはやこえようにもこえることができないというわけなのである。

Filed under: ブログ

帝国主義はいつも同じ

 テレビで映画「クーデター」(2015年米国)をみた。その中でピアース・ブロスナン演ずる正体不明の男がこんなことを言っていた。「欧米企業はこの国を食い物にしている。まず俺が友好的に現れる。インフラ構築のための貸し付けを申し出る。彼らには払えない額だ。次に発電所、水道、道路を造る。何だってかまわない。借金が払えなくなったら、乗っ取りだ」。

 かつてタキトゥスは『アグリコラ』21で、ローマ帝国が野蛮人を手なずける手立てを大略以下のように述べている。まず軍事力で十分に恐怖の念を植え付け、その一方で寛容政策で平和の魅力を教示する。そうするとそれまでローマに対等な意識をもって振る舞っていた多くの部族も、人質を送ってよこすようになる。この連中にさらに快適な生活を味あわせ、公的な援助をして、インフラを整備させ、酋長の子弟に教養学課を学ばせ、他の部族より優秀だとおだてると、これまでラテン語を拒否していた者まで熱心に学びはじめる。こうしてローマの服装さえも尊重されるようになる。それから人々を悪徳へと誘うもの、例えば逍遙柱廊、浴場、優雅な饗宴にふけさせる。何も知らない原住民は、これを文明開化と呼んでいたが、実は奴隷化を示すひとつの特色でしかなかった、と。

Filed under: ブログ