月: 2026年11月

「ペルペトゥアとフェリキタスの受難記」IV.8-10と、「ソロモンの頌歌」19の関連性をめぐって

 研究者たちが新発見の聖書関係文書をみつけても、従来のキリスト教神学の体系にはどうにもうまく当てはまらないので、無視してきたというテーマの書き込み(https://medium.com/belover/10-new-bible-texts-were-found-that-christianity-hated-ba2b520597e9)を読んでいて知った「ソロモンの頌歌」Odae Salomonis のことをちょっと調べていて、とんでもないことに気付いてしまった。

 この頌歌は1907年ごろに、キリスト教学者から写本ハンターへと転身した人物のJ. Rendel Harrisによってシリア語写本が発見され(オリジナル言語は不明)、後2世紀前半の作品とされ、全体で長短さまざまの42編からなっているが、その第19頌歌の以下の件である。実はこの箇所はいわゆる後世の正統派からすると大問題の一文だった:

  「乳の入った杯が私に差し出された。私はそれを、主の慈しみの甘さの中で飲み干した。御子(子)がその杯であり、父が乳を搾り出された方であり、聖霊が、その方から乳を搾った方である……」

 そこで私がかつて取り扱ったことのある「ペルペトゥアとフェリキタスの受難記Passio Sanctarum Perpetuae et Felicitatis」の一節を思い出したのである(https://www.koji007.tokyo/2018/08/14/翻訳:ペルペトゥアとフェリキタスの殉教者行伝/)。その箇所は、IV.8-10である:

(8) そして私は登っていき、そして見たのです、無限の広さの庭を。そしてその中に白髪の男性が座っていましたが、彼は牧者の衣装を身につけ、大変大柄で、羊たちの乳を搾ってました。そしてまわりに(白い衣装の)志願者たちが何千といました。(9) そして彼は頭を起こし、私に言いました。『よくやってきましたね、子供よ tegnon(gr.τέκνον)』。そして彼は私に大声で呼びかけ、そして彼が搾りたて(のミルク)で作ったチーズから、私に一口ほどくださいました。そして私は両手を重ねて頂戴し、そして食しました、そして回りにいたすべての人々が言いました。『アーメン Amen(gr. Ἀμήν)』。(10) そして私は騒がしい声で目覚めたのです。今まで未知だった甘い味を飲み込みながら。

 この「受難記」の著述年代は3世紀初頭なので、イメージの同一性から、ほぼ確実にペルペトゥアが「頌歌」を読んでいて記憶に頼って述べているといってよいだろう。

 さて、私が知りえた「頌歌」19に関する英訳の注釈つきは、以下である:https://ocoy.org/original-christianity/the-odes-of-solomon-for-awakening/the-odes-of-solomon-19/ それの邦訳を以下転載しておく。

『ソロモンの頌歌』第19歌 祈る乙女:『覚醒のためのソロモンの頌歌』注解の続き

 一杯の乳が私に差し出された。私はそれを、主の喜びの甘美さの中で飲んだ。 御子とはその杯であり、乳を搾り出された方は父なる神であり、聖霊とは、その方から乳を搾った「彼女」である。 父の乳房は満ちていた。その乳が無駄にこぼれ落ちてしまうことは、望ましいことではなかったからだ。 そこで聖霊は自らの胸を開き、父なる神の二つの乳房から出た乳を混ぜ合わせた。 そして彼女は、人々に知られることなく、その混合物を世界に与えた。それを受け取る者たちは、神の右手の豊かさの中にいる。 乙女の胎がそれを受け取り、彼女は身ごもって子を産んだ。 こうして乙女は、大いなる憐れみを抱く​​母となった。 彼女は産みの苦しみを経て御子を産んだが、そこに痛みはなかった。それは無意味な出来事ではなかったからだ。 彼女に産婆は必要なかった。なぜなら、御子自身が彼女に命を与える働きをしたからである。 彼女は自らの意志によって人間として子を産み、顕現の通りに出産し、大いなる力をもって成し遂げた。 彼女は贖いをもって愛し、慈しみをもって守り、壮大さをもって宣言した。アレルヤ。 一杯の乳が私に差し出された。私はそれを、主の喜びの甘美さの中で飲んだ。

【以下、注釈】

 初期キリスト教会の慣習として、洗礼を受けたばかりの人々に、蜂蜜を混ぜた乳の杯が与えられていた。これは、洗礼によって与えられた「新しく、かつ続いていく命」の象徴であり、その命の道を歩む中で得られる甘美さを表していた。それは「主の霊によって、栄光から栄光へと」進んでいく歩みである(コリントの信徒への手紙二、3章18節)。

 私たちは常に神の中に生き、神の無限の命を汲み取りながら、それを自分自身の有限な命として生きている。このことをより意識的に行うほど、私たちの幸福はより大きなものとなる。 ​​

 御子とはその杯であり、乳を搾り出された方は父なる神であり、聖霊とは、その方から乳を搾った「彼女」である。神はその本質において超越的な存在である。それゆえ、神はご自身を私たちに伝えるために、被造物として、またその被造物の中に宿る導きの知性として、ご自身を拡張し、あるいは流出させた。これらが「聖霊」と「子」である。私たちは霊的な進化という目的のためにこの被造世界に入り、「子」とのつながりを通じて「父」の命(いのち)を糧とし、その命の中に生きている。この「子」は、それゆえに「杯」と呼ばれる。この命にあずかるために、私たちは聖霊という振動する光から形成された、相対的な存在の層、すなわちいくつもの「体」をまとっている。私たちの意識は「子」の中にあり、私たちの体は「聖霊」の中にある。というより、私たちの体は、聖霊という神聖な光から形作られているのだ。「父」の命は聖霊を介して私たちに伝えられるため、この詩の作者は、聖霊が父からその命を「乳として搾り取る」と表現している。

 「父の乳房は満ちており、その乳が無駄にこぼれ落ちてしまうのは望ましくなかった。そこで聖霊は自らの胸を開き、父の二つの乳房から出た乳を混ぜ合わせたのである。」

 「子」と「聖霊」は「父の二つの乳房」であり、そこには、進化の途上にあるすべての有情(生きとし生けるもの)に伝えられ得る形で、「父」の命が満ちている。そして、進化しつつある私たちの体を通じて、その命を私たちに飲ませてくれるのが「聖霊」なのである。

 「そして聖霊は、人々がそれとは知らぬままに、その混合された乳を世界に与えた。それを受け取った者たちは、『右手の豊かさ』の中にいる。」

 すべての生きとし生けるものは神の命を糧とし、その命の中に生きているが、そのことに気づいている者はほとんどいない。しかし、意識的かつ意図的にその命を「受け取る」ことができるほどに進化した者たちは、神の中にある神々であり、神の「右手の豊かさ」の中にいる。それは、超越的な「父の懐(ふところ)」(ヨハネによる福音書1章18節)――すなわち父との完全な再結合の状態――へと向かって上昇していく、進化の流れの中にいるということである。私たちは皆「父」の「子」であり、父から出てきた存在だからである。しかし、「深淵は深淵を呼び」(詩編42編7節)、無限なるものは有限なるものに対して絶えず呼びかけている。「人の子らよ、帰ってきなさい」(詩編90編3節)と。これは普遍的な進化の衝動であり、神の「右手」である。

 ここで私たちは、神聖な「生命」の、極めて異なる二つの顕現について考察する必要がある。『ソロモンの頌歌(Odes of Solomon)』が単なるキリスト教最古の賛歌というだけでなく、明らかにキリスト教におけるグノーシス的、神秘的、そして秘教的な伝統に属していることは明白である。グノーシス的キリスト教の文献には、「光の処女(Virgin of Light)」への言及が見られる。これは聖霊の顕現であり、聖霊そのものでもある、生きて意識を持った創造物である。ただし、この「処女」は聖霊の一側面であって、聖霊の無限の全体性そのものではない。したがって、この点について混同しないよう注意が必要である。また、この頌歌の残りの節は、聖霊なる母の完全な写しである「処女マリア」に当てはめることもできる。ちょうどイエスが、父なる神(イシュワラ)の「子」の完全な写しであったのと同様である。つまり、この頌歌は、宇宙の「生命」と、イエスの母である処女マリアの双方に適用できるものとして考察されることになる。 ​​

 「乙女の胎がそれを受け取り、彼女は身ごもって子を産んだ。」

 父なる神の意志はコスモス(宇宙)に反映される。コスモスはそれを受け入れ、進化の計画に従って自らを形作っていく。コスモスの物語とは、進化が展開していく物語である。

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