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スペイン・メリダからモザイク舗床出土

 私が一度だけ訪問したことのあるメリダMéridaからの2021/5/13情報。ベニート・トレサノBenito Toresano通りでのガス工事中に、紀元3世紀末から4世紀初めの幾何学モチーフのモザイク群が発見された。専門家は古代ローマのヴィッラのものと考え、民家の下にまで伸びていて、自治体はさらに範囲を拡大して調査する予定。

 メリダでは1978年に同じ通りで「猪と犬のモザイク」が、この3月末には4世紀の金庫が発見された、というようにやはり前25年のアウグストゥス時代にローマ都市として機能し始めていたこの町に話題は尽きない。博物館はとりわけ素晴らしかった。私は訪問時の記念として古物商からコイン一つを購入したことを思い出す。

 上述の「猪と犬のモザイク」って、これだろうか。犬が見えないようだが。

【閑話休題】写真で見るとせいぜい数十センチの深さで出てきているから、これまでの建物や地下工事でも実は見つかっていたはずと思う。これは首都ローマも同様の状況である。東京だって江戸末期の遺物は同様で、有り体に言えば文化財調査員に見つからなければ壊してでも工事の納期を護りたいというのが、施主側の本音であろう。

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オスティアに円形闘技場?:Ostia謎めぐり(9)

 オスティア関係でググっていて以下を偶然見つけた。「Ostia at Tulane」(https://ostiaattulane.wordpress.com)。最初はTulaneの正体がわからず、アメリカかどっかのOstiaという別名の町なんだろうと思ってパスしていたが、検索していくうちに、Pinterestがらみでイタリアの我らのOstiaの画像が引っかかりだして、要するにアメリカのルイジアナ州ニューオーリンズにある私立大学で、そこでの2017年度の秋学期の「Roman Ostia」セミナー(Allison Emmerson Assistant Professor指導)の参加学生が調査研究した内容の一部を2017/9-12にかけてウェブ化したものだったこと、が分かってきた。

A.Emmerson女史(2013年にU.of Cincinnatiで博士号取得);右は2020年にOxford UP出版の主著

 なんと学生2名づつのたった3グループでの成果のように表記されているが、その内容たるや完全に愛すべき我が国の学部レベルのレポート水準を越えていて、驚嘆ものなのはどうしたことか。

 今はその詳細な紹介は省いて、私的にもっともビックリした件にだけここで触れておきたい。そこは第5地区のこれまで私の盲点だった場所である。というのは、そこは東西大通りデクマヌス・マキシムスの東端であるローマ門から西に少し歩いた左手(南)の、Google Earthで見ても未発掘の(あるいは、埋め戻された)単なる野っ原にしか見えず、東西大通りからは樹木でその向こう側(南)を見通せないし、これまで足を踏み入れたことがないからである。次回に訪問の機会があれば実際に現地を訪れてつぶさに確かめてみたいと思う。

               ここの空間にあった?

 彼らのレポートによると、このスペースは元々倉庫だったが、オスティアが衰退していく中でスペースが余ってきたのを利用して、そこに円形闘技場が建設されたと。辛うじて北西に楕円の痕跡が残っている由(cf., https://brewminate.com/store-buildings-of-ancient-ostia/)。縮尺によると長径は80mほどの規模だったようだ。またその存在の傍証に、浴場、特にネプチューンの浴場で発見された舗床モザイクに(下記【付言】の12)、円形闘技場の存在を裏付ける証拠も記されている、と。本当にそう言えるのであろうか。舗床モザイクに多く見受けられるのは、円形闘技場に特化した剣闘士競技ではなく、むしろボクシング、レスリング、それに統合格闘技パンクラティオンといった競技なのだが。ただ、場所的には、真正面の北側には先ほど触れたネプチューンの浴場付設の運動場palaestraや関連モザイクも遺存しているし、さらに西に少し歩けばローマ式劇場も設置されている、という土地柄ではある。

 これが本当だとすると、典型的ローマ都市の定番公共施設として、こうしてオスティアに欠けているのは(ないし今現在未発掘なのは)競技場くらいになるわけである。

 これまで私はこの地域では、Southampton大学のSimon Keay教授を発掘責任者としてPortusで2007年から3年間で発掘された円形闘技場しか知らなかったので、Ostiaにもそれがあったという想定はまったくの不意打ちであった。ポルトゥスのそれは後2世紀後半から3世紀前半にかけて、皇帝宮殿の東側ファサードと北側の領域に囲まれた、42m×38mの楕円形の空間だった。遺存する土台部分からすると一見半円形で劇場にみえるが、それは後世になって道路が作られて破壊されてしまったせいだとのこと。ポルトゥスのこの闘技場は、皇帝主催で客人を招いて行われる個人的使用のためのもの、とどこかで読んだ記憶がある。

、円形闘技場発掘地点;、3Dモデル

【付言】上記のネプチューンの浴場に私は積年のつのる思いがある。それは下図の2の部屋がらみのことである。その部屋は現地の説明板にも「トイレlatrine」と表記されているのだが、見学に入れない。私も外から覗ける色々の角度で内部観察を試みてきたのだが、かなり床が掘られているようでもあり、倉庫になっているようでもありで、よく分からないのである。なんとも隔靴掻痒状態なのである。ただこの区画にはまったく反対側の角の14に、明々白々な公共トイレが公開されている。同様なことはポンペイでもあって、VII.5の南端にもともとトイレがあったのだが、現在そこは遺跡内レストランと売店となっている。また、II.711、すなわち円形闘技場の西側に隣接した大運動場の南端にひっそりと大型トイレがあるのだが(下記平面図11)、ここも倉庫となっていて公開されていない。どうもトイレはこのように転用の受難を受けやすいようだ。

、Terme di Nettuno (II,IV,2)の平面図;、Pompeii,VII.5現況
、大運動場南端入口と、壁越しに奥まって位置しているトイレの建物
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日経「私の履歴書」:トイレ噺(29)

 言わずとしれた日経文化欄。今月の執筆者はTOTO元会長・木瀬輝雄氏。第一回は「人を思うトイレ 「不自由なく使える」目標に:現場に近い人から多くを学ぶ」。但し、有料記事。ま、偶然だが彼は私と同い年の1947生まれのようだ。

 内容的には現在まだ幼少期だが(私も貧しかった時代を共感できる)、この後の展開に注目したい。

【追記】6/15でいよいよ「ウオシュレット」が話題に。

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ローマ帝国辺境からトランペット?出土

 私はローマのコンスタンティヌスのアーチ(凱旋)門の図像を扱ったときに、若干ながらローマ軍の軍用楽器に触れる機会があった(http://www.koji007.tokyo/wp-content/uploads/2018/11/312年コ帝図版補遺決定稿.pdf)。今回、それと関係ある新発掘情報が眼にとまったので、紹介したい(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/05/french-archaeologists-discover-rare.html)。

                            Bagacum

 今年の4月のこと、なんと発掘場所は現在ベルギーとの国境に接したフランス北部のノール県の主都バヴェBavayで、ここはかつてガリア・ベルギカ属州のBagacumで、もともとこの周辺に住んでいたNervii族の主邑で、交通の要衝であった。アウグストゥス時代にローマ都市になり(前16-前13年ごろ)、フランス随一の広さを誇る広場forum(約2.5ヘクタール)も建設され、都市を守るための頑丈な城壁や要塞も残っている(高さ8m)。

 その広場に見学用の通路を建設工事中に、曰くありげな3つの石灰岩の石板がみつかった。その下から出てきたのは、不思議な奉納物だった。出てきた物は数本の金属棒で、考古学者はそれらを後3-4世紀に作成されたガロ・ローマ時代の解体されたトランペットで、マウスピースからベルまで揃った、組み合わせると全長約2.7mの保存状態も完璧なものと判断した。前例としては19世紀に発見された2つの標本しかないが、ただ、これまでは長さ1.8m程度で、それに比べるとかなり長く(今回のが完品だったせいかも、と)、そしてなぜこんな形でその場所に奉納されているのか、その理由はまだ不明とされている。層位学的にもこの広場が放棄される直前の仕業で、鎖帷子、武器、馬具、兵舎などの軍事的な出土品も次々発見されていて、あるいは軍の駐屯地となっていた可能性もあるらしい。

、ケルトのホルン;
、ローマの軍楽器;、トラヤヌス円柱上のtuba

 私の勝手な推測だが、出土地が北辺であり、純粋なローマ式武具としてのトランペット(より正確にはtuba)というよりは、ひょっとすると、ケルトないし土着ガリア的な(その影響を受けた)儀式用の物だったのでは、と密かに想像している。完品ゆえという説明は、私の知っているローマの直管式ラッパの図像からは、人間の身長をはるかに超えていて、納得できないからである。

【参考図版】Trajanusの大浮彫(Cf., Anne-Marie Leander Touati, The Great Trajanic Friese, Stockholm, 1987, Pl.55:Drawings by Mirs Marika Leander)

人物44のラッパは浮彫切り取りで別々になった:いわゆるspoliaで、現コンスタンティヌスのアーチ門の東側屋階に張られているレリーフ:中央から右へtubaが長く延びている。背後にcornuが続く

こんなモザイク画もあったことを、思い出した。

アルジェリア出土の舗床モザイク(Jamahiriya Museum所蔵):一日の見世物の出番を順に描いて、いよいよ真打ちの剣闘士競技開催を告げる楽団:tubaの右は水オルガン
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エルコラーノの遺体兵士は、大プリニウス配下の高級将校だった?

 エルコラーノの遺跡に関して、パッカード財団の資金援助で海岸からパピルス荘まで約2,000メートルの調査が計画されているが、その一環で40年前に発掘された約300体の遺体の再調査から、新たな「事実」が明らかになったと、エルコラーノ遺跡管理事務所が2021/5/12に公表した。

 それは、往年の浜辺で1980年代の発掘で発見されNo.26と番号が付された遺体が、これまで単に兵士とされてきたのだが、今般の再調査で武具の品質や背中にしょっていた袋の中身との関連から、彼は平の兵士ではなく、被災地に救助に向かった近衛兵praetorianないし高級技術将校ではないかと再評価されたからである。もとより近衛兵がエルコラーノに駐留していたはずはないので、ミセーノの海軍基地から救助に向かった艦隊司令長官・大プリニウスと関連付けて、にわかにクローズアップされることになったわけである。

右端の浜辺の顚覆した小型軍船の右そばの死体がNo.26              ↑
が発掘当初の遺体、真ん中はその模式図、は最終的な遺体の姿

 私的にはかなり強引な仮説と思わざるをえないが、現場責任者のFrancesco Siranoによると、大略以下のようになる。第一に、この遺体は40-45歳の健康な男性で、彼の腰には金銀の板で豪華に装飾された革ベルトがあり、それには貴重な象牙の柄がついた長剣グラドゥスが装着され、反対側には同様に高価な短剣があっただけでなく、死体の横から銀貨12枚、金貨2枚が見つかったが、それは当時の近衛兵の給料に相当する額であった、と。しかし、だからといってローマ皇帝直属の近衛兵が海軍に同行していたというのは、かなり無理があるので、ここは海軍高級将校としておいたほうが無難だと私は思うのだが。

は出土した軍装品各種、はベルトとグラドゥスの復元複製品

 第二に、彼が背中に背負っていた肩掛けバッグの中身はこれまで調査されてなかったが(なんという手抜き!Viva Italia!)、今回の調査で小型の大工道具が入っていた由で(私はそれらしきものを見つけえていないが、ひょっとして上左の写真の手前のもの?)、特殊任務をもって派遣されていた技術将校と想定されている。また彼は小型軍船(現在それは、遺跡公園内の沈船博物館に保存されている)の残骸の近くで発見されてもいた。とはいえこの軍船、漕ぎ手は左右各々3名配置の小規模な艦船なのだが・・・。それに彼が高級将校であったなら、そばに従者や奴隷たちもいたはずで、果たして彼自身が荷物を背負ったりしただろうか・・・。

、沈船博物館内に展示の小型軍船;、その平面図

 いずれにせよ、彼も他の300人の避難民と同様にサージで瞬殺されたのであろう(駄弁を弄しておくが、遺跡南端崖下の船舶繋留倉庫で現在一般公開されている遺骸の山は,実はレプリカである)。そして、私には初見の情報で詳しくは未確認だが、1900年にポンペイのポッターロBottaro地区でたいへんよく似た豪華な装備が発掘されている由で、ひょっとしてそれは大プリニウスのそれだったかも、などと私などとうてい納得しがたい大胆な仮説さえ提示なさっているのである。あれれ、彼の死没地はスタビア付近のはずだし、彼の遺骸はそのまま収容されてミセーノへ運ばれたはずなのだが(小プリニウス『書簡集』V.16:死没時56歳)。このあたり、話を盛り上げてしまういかにもイタリア的な大風呂敷に思えるのだが、どうだろう。

 それから、大プリニウスは大著『博物誌』で高校世界史の教科書にも登場する著名人であり、その甥で養子となった小プリニウスが元老院議員だったこともあって、叔父(養父)も元老院身分と誤解されやすいが、大プリニウスは艦隊司令長官という職名(騎士身分担当職)が明確に示しているように、生涯、騎士身分での国家奉職であったことを付け加えておこう。

ミセーノ海軍司令長官・大プリニウスの救援航海の経路:4槽櫂の快速艇でオプロンティス方面を目指したが、風向きのせいで対岸のスタビアに上陸した。
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新公開?:マンション地下は古代ローマのドムス(邸宅)

 以下、偶然見つけた2021/5/23の情報(https://news.infoseek.co.jp/article/afpbb_3345871/:https://www.youtube.com/watch?v=4wSJtZOAmuM)

 ローマのアヴェンティーノ丘の麓の、1950年代の建物を2014年にマンションに改築したときに(たぶん再)発見された。紀元前1世紀から後2世紀の舗床モザイクを見ることができる(写真で、波打っているのがわかるが、長年の堆積物の重力のせいで実際こんな感じで出土する)。2018年に修復・保存作業が完了し、毎月第一・第三金曜日に見学できるようになった由。たぶん事前予約が必要なはず。

 そして、ここは遺跡だけでなく、マルチメディアを駆使しての往年の再現をしているとのことであるが、それが見たければ、イタリアではよくあることだが、こういった試みはすぐに立ち消えになることが多いので(機器が壊れる、担当者がいなくなる、資金が続かない・・・)、早めに見に行くに限る。コロナ禍で我々はさて間に合うであろうか。

以下、日本語でも読める。https://www.cnn.co.jp/style/arts/35160688.html

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久々にMilvius橋コインの出品

 CNGのEオークション第493に、久々に出品があったので、紹介しておく。

 都市コンスタンティノポリス奉献記念貨幣の一つで、もちろんコンスタンティノポリス造幣所打刻(14mm, 0.92g, 12h)。裏面に「CONS/I」の銘文があるので、第10工房作。以前私のHP「実験工房」(http://www.koji007.tokyo/pdf/atelier/constantinus_1700.pdf)のほうに掲載のリストの中では02にきわめて類似しているように思う。02のオークションは2013/5という時期が時期だったので、なんと$900という高値で落札されたが、今回、業者提示価格は$200で、現在入札数1での$120。裏面に多少不明瞭な問題あるが、この落差には畏れ入る。

02掲載のもの:ちなみに14mm, 1.06g, 1h
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Ostia近郊出土のテラコッタ製埋葬棺情報公開(2021/5/15)

https://www.ostiaantica.beniculturali.it/it/ostia-racconta/ostia-racconta-l-uomo-del-sarcofago-di-terracotta/

 2019年夏に発掘されたお棺の調査が終わって公開され、棺はオスティエンセ通りに沿って、ポルタ・ロマーナのネクロポリスがあった場所(考古学エリアの入り口)に置かれている。この棺はVia di Castel Fusanoで発見された。この地域は、60年代にいくつかの墓が発見され、すでにネクロポリスのエリアとして知られている由。

 棺はシンプルなテラコッタ製で、長さは188cm。直線的な長方形という非常にシンプルな形で、素材も良くないため、故人は中流階級と想定。発見時にはタイルのカバーで閉じられていたが、破損して一部が内側に落ちてしまった。タイルの一つにはスタンプが押されており、これにより埋葬された時期を紀元2世紀とすることができた。棺の底面、頭の側には、まるでクッションのような盛り上がりが見られる【私の経験だと、石棺ではこれは決して例外的でないのだが、テラコッタの場合はどうだろう】。

 遺体は背臥位で安置されており、人類学的分析により、骨盤と頭蓋骨の形態的特徴から成人男性であることが判明し、歯の摩耗や恥骨結合の形態から、死亡時の年齢は約40歳と推定された。また、死亡するかなり以前に19本の歯が失われていることもわかった【ヘルクラネウムの集団遺骸を見ていると、私にはこれが当時の平均的な状況とは思えないのだが、さて】。

 棺の中からは、4つのガラス製のウンゲンタリウムが墓用品として発見され、また、雄の豚の歯の断片が発見され、装飾品だった可能性がある由。

(以上、翻訳ソフト「DeepL」での試訳を利用してみた。なかなかこなれた日本語である)

【追記】2015/11/24の情報によると(

https://jp.dental-tribune.com/news/優れた歯をしていたポンペイ犠牲者/),ポンペイ出土の人骨も虫歯がなくて歯の健康状態は良好、ただ「彼らは物を切るのに歯を使っていたため摩耗していた」とのこと。

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大文字の歴史・小文字の歴史

 2021/5/22の毎日新聞の有料記事で五輪関係にアクセスしたら、別の記事が目にとまった。それが「文春砲にあって新聞にないもの:文春編集局長×スクープ/上」(https://mainichi.jp/articles/20210520/k00/00m/040/195000c?cx_fm=mailhiru&cx_ml=article&cx_mdate=20210522)。そのインタビュー記事の中に週刊文春編集長の以下の言葉があった。「私たちの仕事って、人間の営みを、過ちも含めて記録していくことではないでしょうか。・・・ ゴシップを楽しむのも一つの文化だと思います。大文字の歴史があれば小文字の歴史もあるわけです」「大事なのは片方に片寄らないこと」「共通するのは人間へのあくなき興味です」。

 我が意を得たり、の感あり。

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【閲覧注意(^^)】そうだ「娼年倶楽部」でどうだっ!:Ostia謎めぐり(8)

 以前チャンネル回していて、後半だけみた「娼年」(2018年)ではそうも考えなかったが、今朝深夜に番組表の503チャンネルで「ザ・娼年倶楽部」が眼にとまった。このチャンネルは契約していないので映像を見たわけでないが、題名でひらめいた。

 Ostiaの「トリナクリアの浴場」Terme della Trinacria(III.xvi.7)も、聖所あり、地下水くみ上げ構造あり、一見パン窯風構造ありと、なかなか興味深い浴場なのであるが、とりあえず私が関心を持っているモザイクが二つある。ちなみにトリナクリアとは三角形のことで、その形状から三つの岬を持つシケリア(シチリア)の別称となっている。

、「トリナクリアの浴場」平面図;、シチリア州旗中心部分。蛇のメドゥーサでなく麦の穂になっているのがミソ

 その一つが、上記平面図での番号7の南壁際のベンチ前に埋め込まれたラテン語の白黒モザイクである。最後の一字の空間が手狭で「M」が無理矢理小さく書かれているのもご愛敬だが、頭の「S」の前に空間があるのだから、最初にちゃんと按配すればいいものを、と思わずにはおれない。手抜きの奴隷仕事だからか、今のイタリアにも連綿と通じるやっ付け仕事の民族性なのか、こんな仕事ぶりは他にも墓石碑文や顕彰碑文でもよく見かけるので、決して例外ではない(よもや、図案的なアクセント、ってことはないよね)。

部屋(7)の南から(5)方向を見る:右下の影部分に銘文モザイクの一部が見える
「STATIO CVNNVLINGIORVM」と読み取れる

 さて「statio」とは普通には宿駅のことだが、ここでは同じオスティア遺跡内にある「協同組合広場」Piazzale delle Corporazioni (II.VII.4)のそれとの連想で「事務所」とでもするしかない、そして「cunnulingiorum」はなんとも難物で、このラテン語、男性属格複数形なので、ご存知のように女性器をなめ回す男どものこととなるが、どう邦訳すれば品格あふれる私の論考にふさわしいかとなると、これまで思案投げ首だったのだ。ご多分に漏れず表看板だけにせよ、ここにはご婦人方に奉仕する若くてハンサムな男性奴隷たちがいて、お客様のお好みのままですよ、というわけ。世に「ボーイズ・クラブ」なるものが存在していることも今回初めて知ったほどの世情に疎い私であるが、続編「逝年」(せいねん,と読ませるので「少年」から「青年」への語呂合わせか)では文字的イメージでなんだか夢がないし(青年を通り過ぎて私世代みたいな)、このブログを読んだ後輩が「娼年」ではなく「娼夫」ではないかという意見も寄せてくれたが、看板的にはやはり若いほうがいいはずなので、やっぱり「娼年」でいこう!、というわけ。読者の皆さんでもっといいネーミングありましたら、教えて下さい。

 なおもうひとつは、部屋番号「8:tepidarium」に辛うじて残っているアスリート・モザイクであるが、それについてはいずれまた。

上記は一昔前の写真のもので、現在の保存状況はもっと悪い

 以下は参考事例としてのPompeiiの「郊外浴場」Terme Suburbane(VII.16.a)平面図(だいたいが地階[=日本での一階]だが、Dから階段登って上階となる)、とその脱衣所apodyterium (7)、そしてそのフレスコ画部分図。ここは最近は通常見学ができたりできなかったりの感じだが(私は最初見学許可を得て入った:その後、修学旅行風のイタリア人男女高校生一団がどやどや入って来てギャアギャア騒いでいた場面に遭遇したことがあって、さすがイタリア、18禁はないのだと)、その一階(日本での二階)には、娼館が付属していて専用トイレ(14:女神Fortunaの絵もある)もあって、こっちは許可を得ないと見学できない。私はトイレだけ一度見学したことがあるのだが、監視員が融通効かない中年女性だったせいか(すみません)、娼館のほうは見せてくれなかった(いや申請書には見学先を「トイレ」としか書いてなかったので、当たり前なんだけど。現場に行ったらそっちもちょっと見えて、しまったと・・・(^^ゞ)。

、平面図;、(7) 脱衣所全景:正面と右側に件のフレスコ画。件の画材はもっぱら右壁に残っている。当時は木製の棚があり、壁には釘跡も発見されている由
、主が女・奉仕者が男(III);、主が男・奉仕者が女(II)
これは、髪の形から一説では女性同士と考えられている(IIII)

 古代の著述家たちががどう書き残しておろうが、現代の研究者が上品ぶってなんと言い繕おうが、古代ローマ時代において、たぶん能動者も受動者も、娼館といわず自宅においても、相手が奴隷であろうが妻であろうが夫であろうが、何憚ることなくこの快楽と痴態に身を委ねていた、と私は想像する。ちなみに、オスティア銘文では奉仕者が男性形なので、享受側を女性と一応みなしたが、実際にはもちろん享受者が男性の場合もあるだろうし、奉仕者が女性の場合だってあったはず、と私はにらんでいる。

【閑話休題】参加者の大部分が私より年上で、女性のほうが多いある読書会で、なんかのついでに「私はホスト・クラブなんかに行ったことないので、行かれたことのある女性のご意見など承れれば」とつい口走ったことある。すぐさま女性陣から「ホスト通いするのは、男相手の水商売している女性がその屈辱感を逆に晴らすため鬱憤晴らしで行くところです!」と、きつく反論されたことがあった。ま、70歳過ぎてもこんなことも私は知らない野暮天でして、すみません。またまた普通の社会人に教えられました。

【追記】我が家に孫娘が来たら滞在する彼女専用の部屋に置いてあったトイレ関係を入れていた段ボールがあふれかえって壊れたので別のに入れ替えをしたら、下の方から2冊欧文著作が発掘された。Luciana Jacobelli, Le pitture erotiche delle Terme Suburbane di Pompei, L’Erma, 1995;Garrett G.Fagan, Bathing in Public in the Roman World, The University of Michigan Press, 1999, paperback 2002. こんな感じで研究書がどこかにかなり埋もれているはずなので、時々掃除するのはいいことだ。実はもとの所属大学に寄贈した雑誌のJRA,15が未だ行方不明。さて生きてる内に探し出せることやら。

【関連ブログ:2022/10/8をご参照下さい】

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