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翻訳ソフトの今

  ラテン語一緒に読んでいる若い人から最近、無料の「Google翻訳」なる翻訳ソフトの存在を教えられ、大まかなこと知るためには、こりゃほんとうに便利だとこのところ遊んでいる。デジタル論文が手軽に試訳できて、たしかに超便利。キーボード打たなくても日本語が出てくるので、労力の節約にもなる。ただ、活字本の場合はコピーしてOCRスキャンし、訂正しないといけないので、そう簡単にはいかないだろうし、意味不明の誤訳部分の修正にやはりかなり時間がとられてしまって、これじゃあ最初から訳した方が、などと文句いいながらであるが。

 後輩がこれまでも「ざっと読んでみましたが」などと書いていた理由がやっと分かった気がする。若い人は先刻ご承知で利用しているわけだろう。皆さんおやりなのに、私は相変わらず辞書引き引きタイプ打ってやってたのがバカみたいな気がしないでもない。とはいえ試して見て、さすがにラテン語の邦訳は無理みたい。 それとあれこれやっているうちに、jpgをpdfに変換するソフトなんかもみつけてたが、やっぱりちょっと面倒だ。 

 以下は、ローマ・トイレ関係の本のAmazon.comでの紹介でオランダ語から直接日本語に訳し たもの。ざっと文意をとるためにはほぼ完璧で、びっくり。細かいこと言うと冒頭からちょっと問題かもだが、古代ローマ世界には一定の共通の給水・排水システムがあったわけではなく、状況に合わせて住民がそれぞれ小規模な解決策を色々ためしてみて、それらがだめだったとき初めて大規模で高価な工事を行ったのだ(それが従来、他文明や後世の中世・近世ヨーロッパとの比較で、優れた水道渠や地下排水システムとして喧伝されてきたわけであるが)、という重要な趣旨は十分に伝わるはずだ。ま、第2次世界大戦のドイツ戦車となると映画などでは必ずと言っていいほど「6号戦車」(Tiger:アハトアハト)が出てくるが、確かに最強だったがコスト的に量産できなかったのが現実だったのと似ているのかも知れない。

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Gemma C.M.Jansen, Water in de Romeinse Stad Pompeji-Herculaneum-Ostia,2002(https://www.amazon.co.jp/-/en/Gemma-C-M-Jansen/dp/9042911182

ローマ人は都市の水供給が良いことで知られています。すべての都市で、彼らは優れた給水、衛生設備、排水システムを提供しました。この研究では、イタリアで最も保存状態の良い3つのローマの都市、ポンペイ、ヘルクラネウム、オスティアのこのような施設について説明し、比較します。これは、ロ ーマのシステムがなかったことを示していますが、ローマ人は水問題に対してさまざまな標準ソリューションを持っていて、さまざまな組み合わせで適用していました。都市の住民は、井戸、雨水収集、またはセスプールなどの好ましい小規模施設を調査しました。 これらが効果がなかった場合にのみ、上下水道システムなどの大規模で高価なインフラストラクチャの作業が開始されました。

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 次はイタリア語。Barbara Lepri et Lucia Saguìの論文(Vetri e indicatori di produzione vetraria a Ostia e a Porto,2018)の冒頭、ためしに掲載すると以下のごとし。註番号なんか直さないでそのままにしている。

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 オスティエンセのガラスシーンに関する私たちの知識はまだ非常に不足しています。最新の発掘調査のガラスの発見物が現在ほぼ定期的に公開されているとしても(図1)、それらは体系的な研究ではありません。1唯一の例外は、スイマー浴場の発掘に関する巻に掲載された先駆的な研究によって表されます。 これはそれが作られた年を考えると、特にフラビアン時代から、そして2-3世紀の終わりから、まだオスティアガラスの研究の基礎を表しています。2 アウグスブルク大学のMacellum4ブロックの発掘調査で、ドイツ考古学研究所ロムとローマのアメリカンアカデミーが地域III、IV、Vで実施した37のエッセイで見つかったガラスを、ここ数か月で研究する可能性3(図.2)、ポルトゥスのローマにある英国アカデミーのものでは、皇居のエリア(図3)5、そしてパオラ・ゲルモニ博士の利用可能性のおかげで、オスティアの預金と文書にアクセスするそして彼女の共同研究者6は、まだ多くの調査が残っているとしても、その範囲が次第に広がっている研究に着手するように私たちを刺激しました。

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 とはいえ、辞書や文体が一番鍛えられているはずの英語でも、書き手の文体によってぐちゃぐちゃな訳になる場合もあった。たぶん技巧を凝らした文体なのだろう。それ以上に自分的に辞書を鍛えるわけにはいかないようで、これが目下の不満。Senatorが「上院議員」、Emperorが「天皇」と訳されるが、それを私が「元老院議員」「皇帝」と提案してもたぶんダメだろう。その道の人から聞いた所では、翻訳業用の高額な変換ソフトもあるらしいが、とてもリタイア老人には手が出ない。

 ポーランド滞在の林君からは、以下のような指摘が。「Googleのオンライン翻訳は、ポーランドのニュースを知るために私もよく使い ますが、データが蓄積されてないとマイナー言語のオンライン翻訳はきついです。(中略) ポーランド語→日本語は使い物にならないので、ポーランド語 →英語でGoogle翻訳はよく使っていますね。 データが蓄積されているのでネット翻訳でも普通に読めます」。ビッグデータの解析投入で情報を早く正確に取得できるようになってくれることは、残り時間が限られている痴呆直前の私にとってなにはともあれありがたいことに違いない。

【追記】その後、あれこれやっていると、訳されていない脱文が生じている事例に遭遇。それなりに見直しは必定であると認識。

【追記2】イタリアのF女史から、同様の翻訳ソフト「DeepL」を教えてもらった。有料にすると独自の辞書も構築できるという触れ込み。Googleよりはこなれた日本語のように思える。

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古代ローマ男子専用トイレ:Ostia 謎めぐり(6)

 現地調査は休暇の都合で例年真夏となる。私にとってOstia antica遺跡が主要研究対象になって以来、とにかく現場に転がっているオリジナルな宝を求めて歩き回るのを信条に、というのも遺跡に不可欠な考古学や建築・土木の知識も皆無だったので、無手勝流でいくしかなく、「犬も歩けば棒にあたる、豊田が歩けば遺物にあたる」と念じつつ、猛暑の午後も遅くなると半ば朦朧として遺跡内を彷徨するのが常だったが(遺跡内レストランで14時頃の昼食時にいつもビール飲んだりするせいでもあるが (^^ゞ)、さていつごろだったか、たぶん早々と妙な構造物をみつけていた。それが私にとっての、古代ローマ時代の男子専用立ちション・トイレ開眼の瞬間だった。

 場所は、遺跡群の北西端といっていい「ミトラスの浴場」Terme del Mitra(I.xvii.2:その先には旧河口にあった宮殿以外ほとんど未発掘)。ここは1939-40年に発掘され、創建はハドリアヌス時代で、セウェルス朝時代と四世紀第1四半世紀に改造されたことがレンガ積みによって判明している。現況でみると、南北に細長いこの箇所は地上に浴場とキリスト教教会堂の遺跡が相前後して広がり、西外側地下にはミトラエウムがあってミトラス神のもっともらしいレプリカ像が置かれ(本物は遺跡内博物館に展示)、これらすべては通常の見学者でも見ることができる。逆の東側地下は南北の通路となっているが、こっちには許可なしでは入れない。

右写真の中央が東西通路の入り口で、すぐ右にそこから北への通路出入り口が見える
後述のNielsen & Schiøler, Fig.1による現況の地階=一階平面図:中央から左が浴場部分、右が教会部分、それに手前の壁体2列は地下構造と連動して地下では南北の通路となっている;なお、本構造体の西外側の左上のL字型は公共トイレ、その右手地下にミトラエウムが位置する

 しかしなかなか複雑な構造体なので、細かい施設の意味は当時の私には不明だった(後日、その理由が分かった。ここは一階=地階だけを見ている限りダメで、地下と上階を含めて初めて理解できる構造なのだっ)。だがそれだけに私にとって興味深い遺構であることも確かだった。東側の南北の道(ミトラス通り)から南寄りの、西へと建物を横断する通路に入ってすぐ右側に、北に向けての入り口があるが、現在では鉄格子があってそちらに進入はできなくなっている。

 その右壁の床に大理石製とおぼしき奇妙な構造物がある。さてそれが何なのか、排水口でよく見る切れ口の穴があり、屋内での壁際でもあるので、ひょっとしてとの思いは最初からあったが、本当に思い付きのレベルなので口には出せず、これが積年の課題だった。この狭い空間、逆方向も鉄門で閉鎖されていたが、鍵さえ開けてもらえれば進入できる感じだったので、そのころ遅ればせながらようやく見つけたほとんど唯一の先行研究文献(Nielsen,I. & Schiøler,T., The Water System in the Baths of Mithra in Ostia, in:Analecta Romana Instituti Danici, 9, 1980, pp.149-159+plate)を把握した上で、2016年に管理事務所の許可を得て開けてもらった。以下の写真がその時のもの(同時に、堀教授グループのレザー測量も入った)。

左、鉄格子越しに通路の北方向をみる;右、内側から南端部分をみる:右排水口付近に注目

 床に長年の土砂が堆積していたので、それを取り除いてみると、白色のモザイク舗床が微妙に凹になっていて(上掲写真では巧まずして、鉄格子の影でそれとわかる)、しかも南端のトラバーチン製敷居の下部に排水口とおぼしき穴が開いていることも判明。これは思わぬ収穫だった。要するにこの場所が水を使う場所であることの傍証だからだ。なお、見方によれば穴が2つ見える。ひょっとすると右上のそれは、掃除の際に栓を抜くと水が流れ出る仕組みだったのかもしれない(cf., Nielsen & Schiøler, Fig.10:但し、彼らはその左の排水口については無視しているようだ)。

上が実写、下が構造断面図(cf.,Nielsen & Schiøler, Fig.11)

 さて、件の構造物である。材質は大理石か。縁が若干高くなっていての凹面に都合5つの穴が開いている。両脇2つが花片状切れ込み、内側2つが単純な丸型、中心の大きな穴はどうやら破壊された痕跡が認められるので、花片状だったのかもしれない(そこで左右に割れてもいる)。これらの穴で上からの流水を受け止めて、下のたぶんテラコッタ製の箱に流し込んでいたのだろう。この箱状の中の現状は枯れ葉や土砂が詰まっていて、私にはついに未確認のままなのだが、左隅に、溜まった液体を下に導く土管の穴が開いているらしい(以下参照)。Fig.11の断面図への我々の実測を記しておくと、上蓋部分は縦39cm、横185cm、穴の形式は大3と小2が交互に配置されていて、直径はそれぞれ20cm(中央15cmか)と12ー13cm(排水口自体は直径5cm)。深さはスケールを差し込んでの概算で36cm。小の排水口は単純な丸型だが、大のほうは、遺跡でもその気になればよく目撃される花片状の切れ込みが、この場合は6箇所入っている。Ostiaにはそれとちょっと異なった「丸に逆三つ巴」といった意匠の下水の上蓋なども見られる。

左はDomus del Protiro(V.ii.4-5):たぶん墓石の再利用品;右はよくある菱形三切込型(Terme del Faro:IV.ii.1)

 そうこうしているうちに、トイレ関係の色々な文献を目にすることができるようになってきた。イギリスのリタイア医師Barry Hobson氏(残念ながら氏の生年月日はウェブで見つからなかった。ご存知寄りからの提供を待つ:辛うじて以下から写真は得た:https://www.blogger.com/profile/10361942168808542040)、アメリカのAnn Olga Koloski-Ostro女史(1949- )、オランダ人のGemma C.M.Jansen女史(1963-)たちである。こうして私は自分の直感を信じていいことの裏打ちを得た。このように私の場合、まず現場があって、そこで浮かんだド素人の疑問を解決すべく文献調査に向かう、という段取なのであるが、それが実を結んだ希有な例であろう。

Barry Hobbson、    Ann Olga Koloski-Ostro、   Gemma C.M.Jansen

 ところで以下は参考資料。サルディニア島のCagliariの「全国社会保険公社」INPS改築時発見の洗濯工房fullonicaの床モザイク。銘文は「M(arci) Ploti(i) Silisonis f(ilius) Rufus」(マルクス・プロティウス・シリソネの息子ルフス)。おそらく同工房の所有者名と思われるが、fullonicaの必需品の男性用立ちション・トイレを図案化したものと想像。

 さて本筋に帰って、テラコッタ部分の左底の導管の下部はどうなっているのか。

 上記の図、Nielsen & Schiøler, Fig.12は、Fig.1のA-Aでの東西断面図である。左端がトイレとその部分拡大図、そして浴場湯沸・暖房構造、右端が地下のミトレウムである。部分拡大図を見ると、地下通路に導管が伸びていて、そこにはもとアンフォラが置かれていて、尿が集められたと想定されている。そしてそれは地下通路を北のfullonicaに運ばれて使用された。筆者はその構造を現地でつぶさに確認することができた。

地下構造図(九州大学・堀研究室提供):右端下のΓ字区画の2箇所「Full-1,2」表記が洗濯作業場
左、見つけたぞ!導管開口部;右、それにライトを当ててみた

 地下部分は一般的に奴隷の作業場であり、ここのfullonicaも劣悪な作業環境だった(オスティアには地階=一階部分でのfullonicaは別に数軒確認されているので、何を好んでの地下設置だったのか、私には疑問となっている:https://www.ostia-antica.org/dict/topics/fullones/fullones.htm)。しかも私ですら幾度も頭を天井についぶつけたほど、なぜか低く、大の大人よりも子供奴隷がもっぱら投入されていたのかもしれない、とは実感であったし、道路沿いを除いては自然光源も届かず暗闇の世界なのである。

左、こっから入った;右、内部の天井はこんなに低い
左が上図でのFull-1、右がFull-2:作業場は、ここも天井は低くとても狭苦しい:かなりの臭気を発したはずなので、劣悪な作業環境だったと思われる

 こうして、立ちション・トイレがおのずとfullonica研究につながってくるわけである。となると、ポンペイ出土のフレスコ画に触れておきたくなるのも人情というものだが(但し、もう遺された時間がないので、fullonica研究は後進に譲っておこう:とりあえず以下参照、Miko Flohr, The World of the Fullo:Work, Economy, and Society in Roman Italy, Oxford UP, 2013)、私はこれを所蔵場所とされていた国立ナポリ博物館で探していたのだが、偶然まったく予想外の部屋でみつけることができた。これについてだけ紹介する機会を持ちたいが、そこでも子供の作業員が描かれていて示唆的である。

 閑話休題。ところで、この階段下に構築された小空間がトイレだったことは、階段の3段目に換気のための穴が穿たれていることからも明らかかと思われる。そして2017年に、筆者は意を決してこれをよじ登って階段を上がってみた。そうすると、上階の左右になんと貯水槽を確認できた:もちろんそのための地下貯水槽から上階への揚水装置も2段構えで併設されていたわけであるが、今はそれに触れる余裕はない(cf., https://www.ostia-antica.org/regio1/17/17-2.htm)。そこに登って大規模な仕掛けが工夫されていることを、私はようやく実感をもって理解できた次第である。高所揚水の利点は、いうまでもなく重力を利用しての配水の便にある。

左、高台から撮ってみると階段は踊り場を経て更に上に伸びていた;右、下の階段の3段目の下に空気穴が開いていることが確認できる。これは同時に光源にもなっていたはず。

 それにしてもこの階段は途中から上に伸びていてなんとも奇妙な外階段である。しかし歩道に数段分伸びていたとしたら歩行者の邪魔になるし。最初は関係者以外が登れないようになっていて、たぶん利用時に木製の踏み台が設置されたのであろうと思っていたが、同じ通りに面した北側でこれまた奇妙な構造物を見つけてしまったので、この仮説はあっけなく撤回となった。ま、素人の淺知恵でありんした。

北側の階段構造の遺物:中空構造なのである

 要するに、この壊れた遺物はローマ時代の階段の構築方法のひとつを示してくれているわけである。そういえば南のそれにも歩道にわずかだが一段目の踏み台のトラヴァーチンが残っている。この階段構造の類似物はフォロ・ロマーノのアントニヌス・ピウスと妻ファウスティナの神殿の階段でより大規模に目撃できる。

Tempio di Antonino e Faustina:左、復元想像図;右、遺跡ならではの現況で構造丸見え

 さらに、この件で写真を見ていて色々気付くことあった。私には歩道に見えていたものがどうやらそうではないこととか、その「歩道」はこの浴場の北端まで延びておらず途中で途切れていることとか、その「歩道」の下のところどころに穴が開いていることとか。

南から北を見る:「歩道」の下の穴に注目。たぶん光源や空気穴かと

 下の写真のほぼ中央部に件の階段構造遺物。たまにはいつもと逆の視点で見直してみると思いがけない発見をすることもできる。なにごとによらず正面玄関からばかり見ていると実態を見逃しかねないわけだ。いやあ、なかなか難物だが実に興味深い構造体である。

北から南を見る:「歩道」の路肩が途切れている?;そういえば道の対面にはそれはまったくない

【備忘録】もうひとつ、男子専用立ちション・トイレが確認されている中部イタリアのMinturno遺跡について触れる機会を得たいものだ。ここには写真だけ掲載しておくが、例のJansen女史の論文もある。Gemma Jansen, in: a cura di Giovanna Rita Bellini e Henner von Hesberg, Minturnae.Novi contributi alla conoscenza della forma urbi, Edizioni Quasar, Roma, 2015, pp.129-138.

壁に向かって石畳の道路に設置されている。ここでは下部構造は確認されておらず、今となってはなんとも希有な例である(私的には壁の穴も気になっている)

 上階トイレの総まとめや、そうそう、トイレの宝庫、Piazza ArmerinaやVilla Adrianaにも触れなきゃ。さてさて私に残り時間はどれほどあるのやら。学部演習で完訳した以下の内容も紹介したいものだ。B.Hobson, Latrinae et Foricae:Toilets in the Roman World, London, 2009.

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ローマで前6世紀の住居出土:遅報(73)

 2015年に、現在のローマ市の中心部から前6世紀の大きな邸宅が発見された(参照、https://www.digitalaugustanrome.org/:85付近かと)。その場所は、古来Quirinaleの丘と呼ばれている地区で、現在ではテルミニ駅から共和国広場を経て、バルベリーニ広場に弧を描いて至るバルベリーニ通りの北端に位置するPalazzo Canevari(Largo di Santa Susanna, 13)の敷地内で、その改築現場での2010年からの予備発掘によって出土した。この歴史的建造物は、19世紀後半にイタリア王国で3度財務大臣を勤めたQuintino Sellaによって建てられ、地質学研究所の元本部で、現在はCassa Depositi e Prestiti S.p.A.が100%所有するCDP Immobiliare=不動産開発セクターの所有である。2013年に前五世紀の神殿が発見され(幅25m、長さ40mと、当時ローマ最大級:その下から前七世紀の新生児の骨格も出てきた由)、調査は周辺に拡大され、そこで今回の発見に至った。

中央上部の赤印がPalazzo Canevari

 ローマ第6代の王セルウィウス・トゥリウス(紀元前578-535年)による城壁の北西端に位置していたその場所から、なんと、かの王と同時代の前六世紀に属する大きな住居がでてきたのである。保存状態は良好で、家は長方形で(3.5m × 10m)、玄関と柱廊玄関のあるトゥフォ石のブロックで区切られた2つの部屋、壁は粘土で覆われた木で作られ、高さは3m、屋根は瓦で覆われていた可能性がある。ここ10年間でもっとも重要な発見とされているのも無理はない。

左図赤線がセルウィウスの城壁:出土地は上部くびれやや下付近か;右写真、中央に女性が立っている

 この地域は城壁内とはいえ場末であったので、従来ネクロボリス=墓地としての使用が想定され、ローマの住民はフォロ周辺(上記地図ではティヴェレ川蛇行付近以南)に居住しているものとばかり考えられてきたが、今回、居住地が予想以上の広がりを持っていたことが実証されたわけである(考えてみれば、城壁でわざわざ護る必要があったのだから、まあ墓地よりも住民がそれなりにいたはずではある)。その一方で、2013年に発見された前五世紀の神殿との関連でその管理人の住居だったという、時代設定的に若干矛盾したような想定もされているようだ。別の考古学者は、この住居はかの神殿ができるまでの約50〜60年間使用されていた、と考えている。

 イタリアでは、このような発見があると、私有地といえども遺跡保存されなければならない法律があるので、いかなる形になるかは不明だが、遺存されるはず。たとえばナヴォーナ広場北側でドミティアヌスのスタディウムがビルの地下と一階部分の空間を割いて保存されているように(以下の写真参照)。

は時々見学会が開かれている地下遺跡、は現在の通りから見ることできる入場門
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2020年発掘トップ10:遅報(72)

2021/1/1ARCHEOLOGY誌情報:トップ10の中に古代ローマ関係がひとつだけ入っていた。

 このところ、ずっと整備調査中で見ることできないフォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスのアーチ門と元老院会議場の間であるが、そこの地下にローマの礎石といわれている「黒石柱」ラピス・ニゲルLapis Nigerがある。その付近から小さな記念碑が、1899年に考古学者Giacomo Boniによって発見されていたが、その後1世紀以上にわたって忘れられていたものが、今回の調査で「再発見」された。

 カエサルが作った元老院会議場curia Juliaの階段を修復中に、前6世紀の石棺と小さな丸い祭壇を含む地下墓室が出てきた。そこが伝説時代のローマの最初の王ロムルス(前771-717年)の墓ではないかというわけである。私にはその真偽を論ずる資格はない。

左がラピス・ニゲル付近の祭壇復元図;右が再発見の丸祭壇と石棺

 余談になるが、それにしても、上左のラピス・ニゲル隣接の祭壇復元図を見て、かつて1997年夏に訪れたラヴィニウムで見学した「十三祭壇」にそっくりなことに驚かされる(http://www.koji007.tokyo/atelier/bar/)。

現在は第14番目も見つかっている由
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Oplontisの希有なトイレ:トイレ噺(26)

 エルコラーノのトイレ話を書いていたら、思い出して。OplontisのVilla di Poppeaには、意表をついた隠しトイレがあるので紹介しておこう。

中央サロン(下図での24)から両翼に広がる邸宅に向かって、右端の坂を下っていく。

 この別荘、皇帝ネロの愛妾ポッパイア所有と言われているだけあって、鮮やかな色彩の剛胆ともいえる壁面絵画が目を奪うが、正面左にみえる列柱廊の裏側に、共同トイレ(下図左での21;右図だと44:平面図は上記写真とは方向が逆になっていることに注意)があって、そこには下図では右方向から入って行けることが見てとれよう。そしてさらによく目を凝らして見てほしい。馬蹄形をした通常の共同トイレを示す番号(21)に重なって手前に狭く細長い空間があることに(右図では44の下)お気づきだろうか。

右はその拡大図で、トイレは(44)

 上記写真が馬蹄形の普通の流水型共同トイレで、往時は木製の便座があったと思われる。室内に外光は直接入らずほとんど真っ暗。手前右端の構造物は水槽の縁。ところでここに至る通路が右手前にあって、それを逆にトイレ側から写した写真が下図である。そこでは左側に出入りする通路が伸びている。手前左下に見える構造物は水槽の縁。

 問題は、侵入禁止の木製扉が壊れてたてかけてある箇所で、そこを覗いて右向きに撮った写真が以下である。ついでにいうと、ここはさらに真っ暗闇である。

ただ左壁に沿って深い溝が区切られているだけ

 溝の上の壁に便座を設置した痕跡はない。すなわち、男子用の立ちション用便所である。要するにここでは、共同トイレの手前に男子専用の立ちション・トイレが立地している希有な例で、私の知っている数少ない男子専用トイレである。それにしても、両トイレとも閉鎖空間なのでいかに流水型とはいえ、往時においてはかなり強烈に異臭がただよったのではないか。華麗を極めた豪邸のすぐ背後の思わぬ秘め場所である。なぜこんなややこしい場所に作ったのだろう。私には賓客用とは到底思えず、従業員の奴隷や被解放奴隷専用だったと断じたいのだが、どうだろう。ひと言申し添えておくと、この邸宅、今のところ他にトイレ構造は残っていない(完全に発掘されているわけではないが)。

 なお、Pompeii in picturesの中では(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/VF/Villa_055%20Oplontis%20Villa%20of%20Poppea%20p12.htm#_Room_47:_Latrine)、この横長トイレを女性用、馬蹄形のほうを男性用と表記しているが、納得できない。

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エルコラーノのトイレの落書き:トイレ噺(25)

 前ブログで思い出したことが。エルコラーノの「宝石の家」Casa della Gemma(Ins.or.I,n.1)には、小さい個人用トイレがあって(下図17:18は台所)、そこの南側壁に有名な落書きが残っている。ここは事前に見学許可をとる必要がある。

Apollinaris medicus Titi im(peratoris) / Hic cacavit bene=「アポッリナリスは、医者は、ティトゥス皇帝の / ここでよき排便をした」(CIL, IV, 10619)

 ウェスビオス火山の後79年の噴火時(8/24;ないし10/24)、ローマ皇帝はティトゥスであったので(79/6/24-81/9/13)、エルコラーノの埋没までの実にきわどい期間に、この家をティトゥス帝の侍医が訪れたことになる。もっとも「imperator」とは当時ではまだ「最高軍司令官」の意味が強く、第一次ユダヤ戦争でエルサレムを陥落させたティトゥスは、71/8/6以来帝位に就くまでに8年間に実に計15回も最高軍司令官の歓呼を受けているので、父帝生前においてそう呼ばれることがあっても一向に不思議ではないのであるが。

 また、この邸宅の北と東側を占めている大規模(約1800㎡)で眺望絶景なうえに豪華絢爛な邸宅「テレフォス・レリーフの家」Casa del Rilievo di Telefo (Ins.or.I,n.2:下図・写真参照)が、もしウェスパシアヌスが勝利して皇帝になった68-9年の内乱で、彼を支持した元老院議員マルクス・ノニウス・バルブスM.Nonius.Balbus 所有のものだとすると、ひょっとするとそこにティトゥスが滞在した折に(ヘルクラネウムにおいて格式的にも皇族の宿舎に最もふさわしかったはず)、同行していた侍医が隣家に逗留(分宿)したのかもしれない。いずれにせよ、この落書きを記したのがはたして侍医自身だったのか、それとも貴人逗留を記念して家人が書き込んだものなのか、謎であるが。常識的に後者の方がありえるだろうが。

この豪邸から郊外浴場に出ることできるそうなので、M.ノニウス・バルブス所有と想定されている。ちなみにバルブスとは「吃音=どもり」の意
往年の絢爛豪華さを偲ばせる最上階展望台のMable Salon(18)

 段々と、M.Nonius Balbusにも言及したくなるが、それはいずれ。郊外の浴場前の広場の彼の立像と、国立ナポリ博物館のたしか中庭列柱廊の出口近くにあった騎馬像が、今回ようやく結びついた(JuniorとSenior両人がいる)。

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プロシュート型?携帯日時計:遅報(71)

 以前見つけていた2017/1/24の記事がたまたま目にとまったので。「古代ローマの「ハム」形携帯時計、3D技術で検証:3Dプリンターを駆使して忠実に再現、使い方や機能が明らかに」(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/012300022/)。

 以下がエルコラーノのパピルス荘から1775年に発見された現物の現況(後1世紀後半:国立ナポリ博物館所蔵)と発掘時のスケッチ。

 が3Dでの復元品に発見当時のスケッチにあった豚の尻尾状の針を設置;は豚肉のプロシュート

 私はこういう数式が必要な理系的思考はやたら苦手なのだが、私も大好きな豚の生ハム・プロシュート型をした携帯日時計Portable Sundialということで、おもしろいなと(別説としては、水筒がわりの革袋型とも;私的にはそのほうが身近な感じする)。古来携帯日時計は旅行者用に色々工夫されていたようだ(機会があれば触れたいものだ)。地中海世界では、中世修道院で修道士が時祷用に所持していたとか。

 このプロシュート型、きちんと計測すれば誤差15〜30分程度らしいが、弱点は風でゆれるので実際にはもっと不正確になるとのこと。ただ、考えてみるとのどかだったあの時代、そんなに正確さは要求されていなかったので、十分実用的だったとは思う。だがまあ私など天空の太陽の角度で推し量かればいいことと考えてしまう。当時の庶民にとっても必需品ではなかっただろうが。

 普通の日時計はこんな形で固定設置されていた。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/111000126/?SS=imgview&FD=-787263934はエルコラーノ遺跡のCasa della Gemma(Ins.or.I,n.1)の中庭設置のもの
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告解と古代コイン:遅報(70)

「ざんげで盗みを告白:古代の硬貨を200枚返還」(2021年1月22日 12:12 発信地:ローマ/イタリア)https://www.afpbb.com/articles/-/3327768

【1月22日 AFP】伊南部ナポリ近郊のパエストゥム考古学公園(Paestum Archaeological Park)へ21日、告解で窃盗を告白された司祭によって古代の硬貨約200枚が返還された。

 告解を行った人が、司祭に硬貨の返還を依頼したという。返還された硬貨208枚のうち7枚は偽物だったが、残りの大半は紀元前3世紀から紀元後4世紀のものだった。

 イタリアの古代遺跡から盗まれた遺物が、時に何十年もたってから返還された例はこれまでにもある。古代ローマ都市ポンペイ遺跡の関係者によると、中には呪いを恐れて盗んだ遺物を返す人がいるという。(c)AFP

【コメント】この情報だけでは遺跡からの盗掘というより、誰かの収集品を盗んだものの返還というべきか。ただ、写真や動画でみる限りは保存状況はよくないので、本来の収集家のものとは思えない。パエストゥムなら、ギリシアとローマの貨幣は出てくるだろうし。実は伝聞情報だが、どうやらポンペイにも街の中にこういったものを扱っている場所があるようだ。古物商は本物に偽物を混ぜて売ろうとする。私も、シリアやエジプトでは子供が売りつけに寄ってきた経験がある。粗悪品ないし偽造品だったが。イタリア南部のどこだったか、劇場跡の住居の住人の青年が「掘ったらコインなんか出てくるよ」と言ったら、「そんなこといっちゃだめ!」と慌てて母親がたしなめたことがあったので、まあ地下掘ればなんか出てくるイタリアではみなさんおやりになっているとも言える。我々外国人がそれをすると懲役25年だっけに処せられるらしいので、私は現地で購入した場合必ず領収書もらうようにしている。でもそろそろイタリアで官費で老後を過ごすにはいいかも、ね。

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ポンペイ近くで馬車発掘

知人からの連絡で知った。2021年 2月27日発表:ポンペイ遺跡の北にあるCivita Giuliana(Porta Vesuvioから直線で750m)で発見。3年前に3頭の馬が発掘された厩舎の玄関から出てきた由(http://pompeiisites.org/en/press-kit-en/the-excavations-of-civita-giuliana/;https://gigazine.net/news/20181225-pompeii-third-thoroughbred/)。

日本語で読める記事と動画:https://www.afpbb.com/articles/-/3334024

黄色線がポンペイ遺跡、上の黄色〇印が発掘地点のCivita Giuliana
こういう青銅製装飾から、結婚式で使用された馬車と想定されているようだが、さて

【追伸】以下、在イタリアの藤井慈子氏による新聞記事等からの続報。「座席から麦の穂の痕跡が確認されたことから、Cerere(豊穣の神ケレス)信仰とかかわる可能性が浮上し、このCenereがポンペイではVenere(ウェヌス)と共に信仰を集めていたことから、ケレスとウェヌスなどにかかわるsacerdotessa (女祭司)が同別荘にいたのでは、という説のようです。ただ単純に豊穣のシンボルである麦の穂が、祝祭(結婚式?)の前か後に残っただけではという説も出されています。私的には、後者の方が自然のように思われますが(ケレスとウェヌスの 信仰にかかわるものなら、青銅製メダルの浮彫に、それらの図像が施されてもいいような、、、麦の穂だけでここまでいうのかな?という印象を受けました が、先生はいかがでしょうか)。また、同じような移動用の馬車の出土は、Casa del Menandroから1点、Villa Ariannaから2点確認はされているが、とても比較の対象ではなく、唯一類例として挙げられるとしたら、15年前にトラキアの墓から出土したもの(南ギリシア、ブルガリアとの国境付近)があるそうです。」

【続報】その後、発掘がすすんだようだ。以下の画像の次に3D映像も(ここから行けるはず。拡大してみるとすごい迫力!:https://twitter.com/pompeii_sites/status/1365735037262585857?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1365735037262585857%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fimperiumromanum.quora.com%2F%3Fni%3D0nsrc%3D4snid3%3D18406889849tiids%3D22748989:2021/2/28)。

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うんちの行方と緊急事トイレ:トイレ噺(24)

 最近出版されたトイレ本。新コロナのさなか、色々現地調査しての報告が主体で、災害時など現代的な課題に対して具体的な数字をあげ、提案していてくれているのがいい。本書の最大特徴は現場主義で、これまでの机上の空論の諸先生の作文にない臨場感を感じられることができた。私はこれ読んで、下水道の合流式と分流式の問題点も判明して、すっきり。市場的にはTOTOが一人勝ちしている状況の中で、本書ではLIXILの先端的な試みが目立つのは頼もしい。速読可。

 私もこれを読んで、とうとう簡易トイレを購入することにした。各種ググって見ると、凝固剤や臭気の問題があるようなので、若干高めのものにしたが、実際使ってみないとわからんなあ。夫婦二人で一週間を目安に100回分、保存15年とかで、まあ我ら夫婦にはこれで十分かと、あ、保存的にね(直後、トイレに行ってタナを見たら、すでに別のメーカーの50回分を購入済みだった:こりゃもう認知症じゃ〜。ま、多々益々便ず)。

 うちの嫁さんは、地震で壊れた家の中に取りに入れるの?、あぶないじゃないの、とネガティブだが、生き残った場合を想定してあれでも準備しておかないとね。避難所のトイレ待ちなんかすごいらしいし。

 この本には、その他にも緊急事における「マンホール・トイレ」の情報なんかもあって、有用である。下水用マンホールの下は下水道に直結なので、一応(耐震化する必要あり)問題なく使えるわけだ。

個人用にも9万円弱で入手できるが、勝手に設置はできないだろうし

 こんなものもみっけ。実はイタリアでナヴォーナ広場に面した留学生対象の施設に1年間いたとき、同階居住のアメリカ人女性は朝大学に登学する前にシャワーを浴びるので、二人連続して使用された場合(その階には我ら三名に共用バスルームが一つしかなかった:あとで考えれば別の階にいけばいいだけのことだったのかもだが)、我慢できずに、小はペットボトルを切って、大は黒のゴミ袋をゴミ箱に二重に重ねて、対応したことが一度あったので、まあ想定内:もちろん大は例の共同ゴミ箱に生ゴミとして棄てましたが、何か問題が? (^^ゞ。

左がペットボトル利用の簡易小用器;右はイタリアの街頭の各種分別ゴミ箱:ゴミをいつ捨ててもいいので実に合理的、これを収集車が早朝に起重機で持ち上げてゴミを収集していくので、結構な音がする
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