投稿者: k.toyota

9/13 サルノ川景観探査

 最近の私はポンペイ遺跡そのものよりも、周囲、とりわけサルノ川流域の景観に興味がある(Aqua Augustaがらみでの水源地点Serino探査は過去行ったことがある)。今年の3月にはポンペイ遺跡内の円形闘技場近くの大訓練場列柱廊にかねて出土壁画中心に展示がされていたMoregine遺跡の発掘地を訪ねたが、ポンペイ市街地から小一時間、積年の酷使でかねて不調の右足首をかばいつつ進んで到着。そのときこの付近、一面の平坦な土地柄で、市街地を離れると畑と空き地が展開し、ゴミ投棄で埋もれたような用水路は一本だけだったが、さながら2000年前にサルノ川の氾濫流域にラグーンが構成されていたことを予想させるものだった。

 今回は、そのサルノ川本体を目視すべくモルジネ遺跡からさらに300m南を走る河川に沿って西に向かって、可能なかぎり河口近くまで接近しようと考えた。前日にモルジネに行くには周遊鉄道はだめでバス利用しかない感触を得ていたのだが、1時間1本という感じでいつ来るかも、どこに停まるのかもあてにならないバスよりも、時間的にも短縮できて安全を期すなら徒歩2時間足らずと表示しているケータイの地図表示に従って歩いたほうが無難と判断して、宿舎を8時頃出発。東西を流れる小川のこれが2つめと思った小さな流れがどうやらサルノ川本流のようで、こっからはいつものように車両が疾駆する自動車道の、脇にあるかないかの歩道線を頼りに、河沿いを歩くことになる。しかし、古代の復元地図に登場するBottaroの丘らしい高みを判別・確認するには至らなかったが。

 この小川差し渡し20m足らずと思いがけなく幅の狭い川で、しかし水量は豊富とみえた。かつては汚染で悪名高かったようだが(現在も河岸は樹木が繁茂し、道筋に不法投棄は数知れず・・・)、しかしカモの親子が浮かんでいたりしているので、水質はかなり改善されているようだ。狭い自動車道を避けたつもりで、道を大幅に間違え引っ返すなどしてかなり手間取り、どうやら河口に最接近できたのは11時半。左右の土地は私有地らしいので、これ以上は無理に見えたが、実際には激しいゴミ投棄を尻目に右岸のかなり先までいけた。GoogleEarthを見てみると、橋を渡ってずっと北(右)に道がついていてそこから左折して海岸にでることできるようなのだが、そこまで行く勇気はとりあえず私にはなかった。

カモメと思しき鳥たち多数が浮かぶその河口付近の橋の上でしばらくたたずんでいたら、パカパカと蹄の音が高く響いて、一頭立ての馬車が通り抜けてゆく。結局これ一頭だけでなく、真剣な表情をした一人乗りの御者に操られた馬車に街中でも何台もすれ違って、河口に隣接する右岸の私有地と思しき鬱蒼とした草地に姿を消していったので、競走馬の調教馬場が奥にあるのかも知れない。

 それまで比較的楽に歩けたのは緩やかな平地続きだったせいだろう。10時頃から日差しも強烈になり、さすがに帰路は足取りもおぼつかなくなりもしたが、来るあてのないバスを30分待ってみたりしながら、帰路は2回ほど水補強したりして(やたら喉が渇いたのだが、同じようなテ・ペスカが河口付近の場末のバールで1.5だったが、ポンペイ付近では3.5とられたのはいかにもイタリア的であった)、私のiPhoneのヘルスケアで19.4km、28000歩を記録。9/8の17.2kmを凌駕した。足の疲労はそれほどでもなかったが、途中から腰ではなく背中の筋が痛み出したのはなぜ。

 宿舎に帰り着き、シャワーを浴びてハイネッケン2本を飲み干す。19時半頃1度目を覚ますが、なんだか昨日の魚というかポレンタがまだ残っている感じなので、夕食抜きにして二度寝する。ウトウトしながら起き出してこれを書いたのは4時からだった。これで基本今回のポンペイ訪問の活動は終了。最終日には表敬訪問で遺跡に入って、できればヴェスヴィオ門外に出て地形を確認してみたいものだ。

 

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9/12ポンペイ再訪

 一般には9時開園のポンペイ遺跡であるが、サンチュアリオ駅近に宿舎をとっている私は、まあ普通であれば円形闘技場の受付から入るところ、もちょっと西の作業員出入口を試すことにした。これまでの体験で駄目な場合もあったのだが。8時過ぎなのに初老の男性クストーデ(警備員)さんがちゃんといて、日本語でお出迎えされたのでこりゃいい兆候だと、書類を見せるとざっとみて、私の名前を確認、そして「他の人は」と問われたので「別の日です」と答えたらそれでOKだった。

 今回はポンペイの舌状台地の南端景観をチェックするのが主目的なので、極力南城壁寄りにまずは西をめざす。会う作業員ごとに朝の挨拶を交わせばなんのお咎めもない。彼らは朝7時頃から働いているらしい。スタビア門に達するとすでに発掘活動が始まっていて、男女が動いていた。ここには待合場所のエクセドラを兼ねた墳墓が二つあり、だけど規制線があったので、外に出ることは遠慮したのだが、外側にそれなりに巨大な墳墓遺跡があるのを遠目に眺めて写真のみ撮った。城壁内に戻ってすぐなぜか左側の城壁上に出る階段の鉄柵が開いていたので、上がって城門方向を見下ろすとこれがなかなかの光景で、そこから右に道があったのでたどっていくと、円形劇場下の訓練場の裏に出た。ここから訓練場のポルティコの2階をのぞき見することができたのは初体験だったが、なんだかこの付近大便臭かったなあ。ここをもちょっと西に進むと観光客がバスから降りてぞろぞろ入ってくる入口に繫がるわけだが、そこを今度は点在する犬の糞を避けながら南壁構造を見ながら歩き、入口手前でUターンして白人だらけの観光客に紛れて訓練場に舞い戻り、西北隅のトイレと旧交を温めたあと、スタビア通りに出る。それからは今度は遺跡の上から舌状台地南端を眺めつつ三角広場に至る。ここの劇場トイレは規制線あったので外から挨拶するだけにして、ドーリア神殿の南端を探るが、修復中というわけで従来より内側に金網が設置されていて、崖を上から見下ろすことできなくてちょっと心残りだった。

 こんな調子で最近公開されたフォロ手前の「幾何学模様のモザイクの家」まで行き、ここでも崖を上から見たかったが規制線で果たせず、フォロに出ると大変な人出だ。韓国人グループを2つほど見かけたくらいで同胞や中国人は見あたらなかった。それからは人の流れに抗してバシリカ、そしてウェヌスの神域、そしてアンティクワリウムに至り、横から南端を眺め、階段を下まで下るとポンペイ・スカーヴィ入口に至る。

 ここでフォロに引き返し、11時過ぎという早めの昼食を売店でたっぷり摂ったのは人出を避けたかったからだ。このあとエルコラーノ門まであちこちで遺跡との旧交を温め、引き返えす。郊外浴場方向は今回パスして遺跡外に出ると、これがまたえらい人出だった。そこでのモルジネ行きの段取調査の詳細は今は省略し、坂を下って左折、遺跡外の自動車道沿いから、右に展開するかなりの段差ある低地と南壁断崖を目視しながら東に移動して、本日の「調査」活動は終了。

上掲地図の右端中央の赤部分がスタビア門外の遺跡群:そこから西にむけての城壁および構築物については、以下参照:https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/Walls/walls%20p1.htm

 試しにGoogle Earthで高低差をみてみると、上掲地図の一番下を走っている自動車道は西側が海抜13m、東側が14m、緑地帯を挟んでの歩道は14-15m、ドーリア神殿は25m、フォロは33m、ウェヌス神殿は32m、Antiquariumのテラスは27m、スタビア門外が8mで、自動車道の南側はおおむね13m、さらに南に向かうとさらに低くなり、サルノ川に至ると3mとなる。いずれにせよ、舌状台地上のポンペイ遺跡とその下のかつてのサルノ川流域ラグーンとの落差は、火山噴火物を取り除いたスタビア門外の8mを基準にすれば25mはあったことになる。ちなみに都市ポンペイの最高度はウェスウィオ門の43mだった(ただしGoogle Earthではサルノ川河口が-3mとなっているので、海抜的には上記数字に+3mしなければならないはずである)。

 研究ノートを書いている時には忘れていたが、サルノ川のさらに向こうに立ち塞がる霞がかった山塊は実際には意外と迫っている感があったのが印象的だった。ちなみにポンペイ遺跡から南東に8〜10Kmの距離があって、最高山頂は1300m級である。

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9/10行動記:クラウディウス港北突堤調査

 結論を先に書くと、調査予定の3分の1で終わらざるをえなかった。しかしまあそれでもそれなりに充分であったと言うべきかもしれない。以下は3時前に目が覚めたので書いた。

 船舶博物館が初見だったOG君と二人で9時にチェントロのコトラル停留所前で落ち合うが(一人1.3ユーロ)、いっかな空港行きのバスがこない。日曜日のせいだろうが1時間待ってやっときた。それまで変な伯父さんが、空港行きの停留所はここではなくあっちだと、2度にわたって旅行者に親切そうにいうのを聞いていたのだが、あれは全くのガサネタだったわけだ。

 空港の第三ターミナルについて、今度は空港内シャトルバスの停留所を探す。その道すがらタバッキ(切符売り場)を探し帰りのコトラル券も入手するわけだが、第三から第一まで都合1往復して、シャトルバスには駐車場めぐりとヒルトン・ガーデン・イン行きの2種類あること、船舶博物館に行くのは後者でその停留所は第一ターミナルの一番端付近で、その手前の外側のバールがコトラル乗車券を扱っていることを知る。問題はこれだけではなかった。ヒルトン行きが来たので乗ったのはいいが、終点のインについたら降ろされて、「博物館は2本に一本しか行かない、後から来るもう一本に乗り換えろ」といわれ、ヒルトンにしては安っぽいがそれなりに豪華なインの待合室で場違いな感じで居心地は悪かったが待つことしばし、2台やってきて、しかもそれらの運転者が目の前で運転を交代するという我らには不可解な動きの後動きだす。こんどは例の巨大な犠牲者記念柱が見えたところでボタンを押して、博物館に無事到着。

 最初に回りをと、かつての港湾長官官邸に向かう。そのときOG君が「穴が開いてますね」という。たしかに土台部分に一定間隔で開いている。前回は気付かなかったことだ。こっちは当時湾内に向いていたから海岸側で、今回はぐるりと陸側の裏にも回って一巡したが、陸側に穴は見当たらない。そのあと自動車道を渡って、テルメ・貯水槽遺跡に向かうが、こっちは頑丈そうな鉄柵で囲まれていて入れそうもないので(本当は金網がめくれて潜り込める箇所あったのだが、今回は連れがいるので突破は遠慮した)、ちょっと裏側を回り込んだあとあきらめる。

 次は博物館裏の突堤遺構だ。これまで2回は遠慮して最北端だけ見て終わったのだが、今回は容赦せず自動車道で切断された箇所までいくと、自動車道の下が通り抜けれるので、ゴミだらけのそこにも突入してみる。なぜかそこの部分の穴は浅いことにまたOG君は気付いてしまうところが、やっぱり建築出身である。

 通り抜けた場所をまず東側からみて、そのあと自動車道沿いについた歩道をわたり西側をみる。前回私は迂闊にもこっち側にも穴があることに気付かなかったのだが、しかもその時も穴をのぞき込んだOG君はそれが壁を貫いていることに早くも気付く。私は膝を折ってしゃがみ込んでのぞくことができなくて(老人である)、えっホントというわけで、確認のため地面に膝をつけてのぞき込んでみると、たしかに向こう側の光りが見えるではないか! こっち側のほうが深く掘り下げているように見えるので高さの計測もしてみるが、突堤上から110cmで穴に達し、穴の空間は50cmほどもあり、その下の現代の地面までは40cmといったところだった。

 玄武岩の巨石がごろごろ集められているところを過ぎ、その先のクの字になっている場所で突堤上に登る。それぞれが差し渡し4mの厚さがあるが、クの字の中の空間の意味は我々には不明である。その先の自動車道でまたぶち切れている箇所に到達するが、自動車道の向こう側は厳重な金網で囲われていて入ることはかなわないし、目視段階でもたとえ入れても鬱蒼と樹木が繁っているので踏破はおそらく不可能であろう。ということで今回の突堤調査はここまでとなる。

 この後、自動車道を横切り元に戻り博物館に向かう。館内に入ると汗がどっと出て、自動販売機で2ユーロでテ・ペスカ(ピーチ味の紅茶)を買って飲むが、押し間違えたかもと一度回収したときになぜか小銭のチェントがじゃらじゃら出てきたので、ありがたく頂戴した。博物館内には男性受付一人(7ユーロ支払いはカードのみ)、クストーデは男性1,女性2と、3月よりは少なくなっているが、見学者はとりあえず我らのみだから、なんとも暇な仕事である。なので、OG君とイタリア人と日本人の働き方の違いについて若干論議することとなった。型通りの見学を終え、例の繋留装置の実測をお願いしてみると案に相違して男性クストーデが鷹揚に許可してくれた。奥行67cm、幅14−15cm、高さ42cm、穴の直径上下13cm,横12cm,といったところだった。穴の内部は削った時のノミ跡も確認できた。また自販機でテを買って博物館を後にする。シャトルバスの停留所横の木陰でまつことしばし、やってきてくれて、順調に空港に帰着することができた。

 今度はコトラルでリド方面の停留所をみつけ、来たバスに乗ったのはイイがこれがまたとんだ見当違いで(本当は乗車するとき必ず行き先をしつこいくらい確かめるべき:この時も韓国人シスターなんか、他の旅行者と運転手のやり取りを聞いて乗るのをやめていた)、飛行場の裏手をグルーと回って、北上し出す。回りは畑ばかりでこうなると終点まで行きつくしかないと諦念して思わぬ事とはいえコトラルの旅を楽しむことにする(途中居眠り付き:OG君が携帯で行き先を調べることができてたので不安はない)。車はなんと結局地下鉄A線の最西端一つ手前のコルネリア駅に到着するが、この駅、3月にはN田先生と別れた因縁の場所で、その時閉鎖されていた地下への階段をやたら深く降りて、1.5ユーロ1枚でテルミニ経由ピラミデ経由でOG君宿舎のステッラ・ポラーレまで直行、例の中華料理屋でOK君とも合流に成功して、ローマ最後の中華を食し,その後はジェラート屋である。それにしても一昨日のコトラルといい、不用意に乗るととんでもない旅をすることになるが、まあ時間的に余裕があり昼間で明るかったこともあり、なんだかコトラル便に習熟した感なきにしもあらずといったところであった。で、結末はいつも測ったように中華の開店直後に行きつくのだから、だれかの陰謀ではないかと冗談言い合う。

 帰宅して、移動の準備をして寝たわけだが、移動日は月曜なので混雑を避けるためちょっと早めに撤収することになりそうだ。

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9/9反省記:パラティヌス丘・コロッセオ

 この日は、コロッセオ予約が16時半となっていたので、午前中は宿舎でゆっくり過ごし、午後OK君が帰ってきたのと入れ違いにローマに向かう。昨日夕食をたっぷり食べていたので昼食抜きだ(朝はカチカチのロゼッタを例のスープと食した)。一縷の望みを持っていた1週間券はやっぱり終わっていたが、サテ現場に出てみると、強い日差しの中、コロッセオにそんなに人は並んでいない。私はちょっぴり旧交を温める気になってコンスタンティヌスのアーチ門をぐるりと回って写真撮ったりした(広角なのでもとよりうまく撮れない:しかし銘文の1箇所に妙な生き物が取りついていて時々尻尾を左右に振っていた、あれはなんだったのだろうか? これまで鳩は見たことあるけど:ケータイで目一杯拡大して撮りました)。

 東側の影でしばし座ってみたりしたあとで、このコロッセオ入場の時間限定はコロッセオのみのことで、パラティヌス丘なんかはそれ以前に入れるのでは、まあこういう件でグレゴリオ通りなんかだったらルーズに対応してくれるかも、と思い立ち、そっちに向かう。この時結婚式恒例の写真撮影をしていた。こんな衆人環視の中でやるなんて大した度胸だというわけで私も撮る気に。期待にたがわずお二人ともりりしかったです。お幸せに。

 グレゴリオ通り入口では行列はなくて、若い女性が紙を受け取って仲間の男性2名とふざけて、ケータイ風な機械で私持参の印刷物を腰をふりふりチェックできないように動かして見たり、誰ひとり読もうともしない。その後は荷物検査の叔父さんで、腰のポーチを示してもいらないよのジェスチャー。簡単に入構できたので、直ぐ横のトイレに行って準備完了。但し手洗いの水は出なかった。

 まず左手に道をとり、緑の散歩道の出口や宮廷内中庭への入口に向かうが、当方予想通り両方とも鍵や規制線で入れなくなっている。それで道なりに右に向かい階段を登って、一気に競馬場の上に出てパラティヌス博物館の方に向かう。途中左手下にドミティアヌス宮殿だっけが見えるがそこは噴水が設置され池が一部復元され水をたたえ、ご丁寧に音楽も流れているのを上から見物するわけだ。

 さて、博物館がどうもおかしい。左入口に女性門番がいて、スーパーカードNo.2の表示が立っていて、たまに中から人が出てくる。逆に回ったり、裏を見たりしたが、どこも入れる場所はないし、その下にある大公衆トイレへの進入口はない。やっぱりこりゃ特別券が必要なようだわ、他はどうなっているのだろうと、フォロ・ロマーノに下る。

 こっちも旧交を温めるべく女神ローマとウェヌス神殿方向に向かうもしっかり鉄柵が閉まっていて入れなくなっている。遠目になんだかイベント会場になっているようなテントが見える。引き返し際にフォロの博物館表示が新しくなっているのでよもやと思い入ると、これが大改造されていて以前のうらぶれた面影を一新している。ひょっとしてと奥に向かうと案の定、神殿西側の大ニッチの広間に入れた。ここは大昔東側から迷い込んで窓越しに出てけと注意された場所なんだけど、地階全体がぐるりと博物館化されてこざっぱりときれいになったものだ。コロッセオを見通す東端には出れなくなっているのが残念。

 そこからマクセンティウスの新バジリカに向かう。南側の階段が修復中で、コンスタンティヌス像設置場所に立って東を見通ししばし旧交を温める。午後の直射日光のもとこの空間に見物人はほんの数名という贅沢さ。

 聖道に戻るとそこは雑踏の賑わい。ロムルス神殿も封鎖されていたが、あとは議事堂まで行ってみるが手前で規制線あり、まあこのあたりはセプティミウス・セウェルスのアーチを含めコロナ以前からずっと入れなくなっている。ここからアンティクワ教会に向かう。ここにはスーパーカードの表示がないのにやっぱりクストーデが立っていて、たまに来る観光客の携帯チェックしているので、どこでカード購入したらいいのかと聞いたら、公式HPで24ユーロと答えてくれた。あれ、そんな文言あったっけと思ったが、やっぱりねと。これは私としては大失態なのだが、地下大公衆トイレを含めて、いったいどこでどうすれば見学券が購入できるのか、ふつうだと分からないようなそんな表示はやめてもらいたいものだ。それとも耄碌じじいの単純な見落としか? 以前もグレゴリオのチケット売り場でスーパーカードがほしいと連呼したのに全然相手にされず,普通券を売りつけてあしらわれ、それでそばにいた若い警備員に言ったら,ここの窓口でどうぞと指さされ、ようやく追加で入手できた。どうやら受付の人によって対応が違うようなのだ。このときも一般料金表示にそれは書かれてなかった。99%の一般観光客相手だとそれでいいにしろ、チケット売り場の販売員だってプロのはずなのにこの体たらくだ。たぶん無能な縁故採用者なんだろうと毒づくことしか私にはできないのがくやしい。

 さてコロッセオ予約の15分前になったのでティトゥス門から出る。ここの入口もどんづまりは大人数が詰まっていたが聖道に列はない。そしてそれはコロッセオでも同様で用紙を機械で透過して奥に向かえと指示され、そこでも荷物検査されて無事ご入館だ。私は今回は一般券なので舞台にも立てないし地下構造もなしだったが、2階でお鉢回りができたのは新体験だったのでは。ここでは通路での展示に新機軸あるのかだけ興味あったけど、規模が縮小されていた上に、書籍販売も少なくなった印象あって、わずか40分ほどでご退出。

 何かうまいものたべたいなと思いつつ、無策なままなにもないノルドに向かう。ピラミデ駅で西日のきつい中30分電車待ち。土曜や休日は1時間2本だからかしかたがないが。今日はそれまで1万2千歩台しか歩いていないがなぜか疲れた。その疲れもあってちょっと怖いとおもいつつ車内でうとうとするのが最近の私だ。これも老化現象か。宿舎手前で右に折れ、切り売りピザ屋で2切れ8ユーロ、北アフリカ系の小商店で冷えたハイネッケン2本と、テ・ペスカ大瓶を6.20ユーロで買う。財布から硬貨をじゃらと出して20チェン硬貨探していたらここの主人に1ユーロのコインをあらかた取られてしまうが、20チェント割引きされたようで、まあいいか。 

 宿舎に帰ってみると、室内は冷房がギンギンに冷えていた。シャワーを浴びて、ピザ半分を寝ていたOK君を起こして分けて、私一人でビール一本とテを空けてしまう。途中でブザーがなって、どうやら大家さんが陣中見舞いにガラス瓶に入った見慣れない水2本差し入れてくれたが(たぶん飲まずに冷蔵庫において出るだろうが)、当方パンツの下着だったのでろくな対応もできず失礼しました。それから3時間寝て、二度寝して午前5時起き。この日記を書く。

 

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9/8の行動(3):Mausoleo,Portus

 本日9時半にリド・チェントロでOG君と落ち合って、フイミチーノ周辺を探索予定だったが、ノルドでまさかの午前中3時間の運行ストップ騒動。理由は不明ながら、しかしぎりぎり九時台の列車は動いていたので、チェントロで待つことしばし、彼は歩いてやって来た(どうやらリド線をコトラルが買収したのとの関係での工事らしい)。予定通りコトラル1.1ユーロに乗って、上水塔を目印に間違って1駅早く降りてしまったが、まあこれは許容範囲。10時半開園(別情報では8時半説も)の30分前でちょうど監視員も到着した頃合いだったが、まずは周辺の遺跡・教会を案内、そして当時の税関であるstatioの痕跡を試しにあてどもなく求めて北東に道を辿ってみたのだが、その道のどん詰まりで立ち話をしていた3名の人たちに通りすがりで挨拶したところ、まあなにしにどこへというわけで、OG君がカナル(運河:トラヤヌスの)が見たいのだがと話したら、女性がそこへいける鍵をあずかっているとかで意外な展開となる。その彼女はアリタリアの乗務員だったが、日本を含め世界中を旅して、かなり日本人に好感をもっているようだったが、リタイアしてそこを終の棲家に選んで住んでいる由で、ポルトゥスに行く道についても「ずっと歩いていくと小さな橋があってそこを折り返す、向こう側にはローマまでサイクリングの道がある。水持って行かないと」といったことまで話してくれた。やおら鍵をとりだし意外なことに壁の鍵穴に突き刺すと門扉が重々しく開き、庭に入って行くと芝生で被われた土手があってそこを登ると、目の下が運河である。対岸まで目視20mといった距離感だが以前グーグルで調べたら40mはあったはず。対岸の水辺にはかつての護岸のなにかしらの石材が見え隠れしているように思えてシャッターを切る。その写真が以下。

 彼女と別れ、こんな僥倖もあるものよと話ながらネクロポリに引き返し、見学する。係員3名と作業員の姿もあったが、受付はカード支払いで一人7ユーロ。観光客は我らだけといういつもの風景。住み込みの番人さんはお払い箱となったようで犬もいなくなっていた。修復されたのだろう、遺跡のマウソレオもなんだかこざっぱりとした印象になっていたが、入口近くの右端のマウソレオの床モザイク(四季ではないものの農作業風景か)は初めて見た感じ。

 立体自動車道の先の3月に訪れたバールをめざすが、ここは折悪しく夏休みに入っていてお休み、その時に世話になったお爺さんのエディコラもしまっていた。しょうがないので別のバールをめざして自動車道沿いに歩き、とあるレストランにはいる。時間的に昼食時であったが、コーラだけ頼んで座り込み、OG君の携帯でウーバーを試すが確認の信号発信できないとかで、店に頼んでタクシー呼んでもらうと、これがまあ大型の立派なのがやってきた。たかだか立体道路を越えてポルトゥス入口まで数分間で、25ユーロを要求されるが、まあ無駄な歩きの代償と素直にお支払いする。

 この遺跡公園の入口にクストーデ風の3名が常駐していて、そのあとしばし歩いて受付にたどり着くと今回は若い男性が一人で受付にいる。ここでは現金で一人7ユーロ。建築のOG君のおかげでオスティアに比べてのトラヤヌスの巨大倉庫の建築に気付かされる。それに比べるとここのいわゆるセウェルスの倉庫はかなりこぢんまりしていることにも。トルローニアの館から宮殿方向を目指したが規制線があって行かれず、しょうがなしに道なりに受付方向に向かうが、最後の最後で妙な遺物に出くわす。まず丸い穴が連続して開いている山塊で、なんとも正体不明。遺跡公園の北西端とおぼしき辺りでは、その穴が連続して開いている壁体を目撃してしまう。あとからこれらは突堤であることが判明したが,あの穴ははたして突堤構築時の丸太跡なのだろうか、繋留装置が抜けた穴なのか。奥が深いので前者の可能性が高いようだ。

 受付そばの自動販売機で冷たくない缶ジュースで喉を潤し、とりあえず前回の中華屋をめざして自動車道を西に歩くが、行きついてみればすでに午後の休憩時間となっており、要するに夜の部の17時半まで待つわけには行かないので、タバッキでコトラルの切符1.3ユーロを手に入れ(ここでも喉がやたら渇くのでジュースを飲む)、空港経由でチェントロに帰り、そこで例の中華で昼兼夜の食事を摂ることに決めたのだが、乗るバスを間違えて延々とエウルまで行っちゃってそこでリド線に乗りかえるはめになり(乗車券1.3ユーロではとてもいけない距離でした)、こうして無事18時すぎに開店した中華に滑り込めたわけ。この日は奮発して北京ダックも食べたので二人で50ユーロかかったが、美味しかった。

 あとジェラート屋が表示でやたら推しているふうのグラニテを試しに食して帰宅。私はイチゴ味だったがなかなか美味だった。本日行きそびれた船舶博物館と北突堤探索は10日に再チャレンジすることにしてOG君と別れる。

 やたら疲れていたので、うたた寝もして、だいぶたってシャワーして寝る。この日ばかりは明け方まで7時間は寝たようだ。

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(2)渡伊12日目,実質あと一週間残すのみ

 今般、不要だろうと思っていつものメディア接続アダプターを持ってこなかったのだが、これが仇となってなぜかカメラで撮った画像をパソコンに取り込めない(新しいアダプタなのに、いやそのせいか)、認識してくれないので、とりあえず文字情報ばかりになりますが、悪しからず。帰国後に画像を付加します。

 今回は、これといって目玉見学や新機軸の調査がなくて、これまでの欠けパズル埋め的な内容ではあるが、そんななか明日のフィミチーノのクラウディウス=ネロのポルトゥス北岸壁探査が一大イベントで、明後日のパラティヌス丘での大規模公衆トイレ見学ができたら御の字というわけである。

 これまではそのための助走といった感じもあって、なりゆきで今日も休養日。これまで続稿論考がらみでテヴェレ川河川敷でのエンポリオン遺構の再確認、ポルティクス・アエミィリアPorticus Aemilia遺構の確認のため、ピラミデ駅近を主軸に動いていた。これは短い2本足でひたすら歩き回って、犬も歩けば式でそれなりに思いがけない成果もあったが、さて時代的に古代ローマ時代まで遡れるものかどうか、これが問題だ。

 半ば予想通りの空振りも多く、トッレ・アルジェンティーナ西側の大規模トイレは不発、テルメ博物館の「休息しているボクサー像」の股間撮影は想定外の地方巡業でご出張中、オスティア・アンティカ博物館所蔵なったはずのトルローニア・レリーフとのご対面は今回もダメ、といった具合である(工事はこの3月末日で終了のはずが・・・)。まあイタリアではよくあることなので、そうかと思うだけだが。

 昨日早朝に宿舎を出て小一時間並んで入場したヴァチカン博物館では、初期キリスト教石棺部門の模様替えで、以前展示してあって私の論文(「紀元後3世紀初頭のM.Aurelius Prosenesの石棺を見、銘文を読む」井内太郎編『歴史家のパレット』渓水社、平成17(2005)年、pp.25-44)にも書いた碑文のレプリカが消えていたのはちょっと衝撃的だった(レプリカなのでしょうがないとは思う:本物はボルゲーゼ公園のフラミニア門近くにin situで置かれているが、コロナ以前はその手前が地下鉄C線工事の物置になっていて近寄れなくなっていた。さて今はどうなっていることやら)。ヒッポリュトス座像の手前に規制線が張ってあって、その奧のカラカッラ浴場の剣闘士たちの床モザイクの俯瞰場所にいけなくなっていたのも、おやおやだ。代わりにこれまで長らく閉鎖されていたギリシア彫刻部門は公開されていたが、こっちにはもとより関心はない。あとは、久々に公開のキアラモンティのBraccio Nuovoでのフィリップス・アラプス像とのご対面で旧交を温めることができた。もちろんプリマ・ポルタのアウグストゥス像もご健在だが、そういえば、ここが閉鎖中にこれまで博物館入り口に飾ってあった極彩色のレプリカ像は消えてしまっていたなあ。以下の写真はケータイで撮ったお昼頃の灼熱の中庭。青い空と白壁が燦然と耀いていて微塵も妥協なし。

 あと今回の注目は、現在校正中の原稿の註(4)で触れた八角形中庭に展示されている「Portus風景のレリーフ」(なのか一般名詞的に「港風景」ととるべきか)。最初石棺にこだわって探していたが不発で、これって順路の入口右側の壁に正面だけ貼り付けられていたのをみつけた。若干上向き遠目だし細かい所でだいぶ欠けているので、手引きとなる修正図があると助かるが、とりあえずはみつけえていない。トルローニア・レリーフはあるのに、である。

 ところで、このところのまったくの生活実感の体験談であるが、今回同行者が老体の私を慮って地階(日本でいう一階)のコンドミニオを押さえてくれた。生活してみての実感だが、これまで上階ばかりだったので気付かなかったことだが、すばしっこい藪蚊に悩まされるのである。特に若いOK君にはつきまとっているようだ。こんなこともあって日本で言う2階、こっちでの一階で住むほうが蚊対策的にも煩わしくないのではと思うことしきりである(但し、蚊の自力行動空間は2階までなら十分可能、場合によってはそれ以上の上階にも人間につきまとってエレベータで上ってくる、という情報もあるが)。そういえば大昔泊まったポンペイのホテルの地階でもそんなことあって、たまたま日本から持参していた蚊取り線香で部屋中たぶん異臭に染まらせて、そのせいもあって逃げるように退散したこともあったっけ。ちなみにこちらでも蚊取り線香は売っているが、これまで買ったことはない。今回も出発前にコンビニで買った虫除けミストのスキン用バルサンで凌いでいる。

 あと、リド線に乗っていて気付いたのだが、新しい車両だと、AciliaとOstia Anticaの間に「●」が付いている駅表示があって、あらかじめ新駅設定が表示されている(駅名はまだない)。駅舎もすでに一部構築されていて(素早いことで、すでに落書きも書かれていた)、確かにこれまでAciliaとOstia Antica間はやたら長いなあと思っていたのだが。以下はケータイでとった写真で、左が旧来、右が新車両のもの。

 ところで、ピラミデから宿舎まで30分かかるのだが、どういうものか帰宅時に眠たくなってまどろんでしまう。これも老化現象か。あぶないと思いつつ、まあ地元民が多いせいか今のところ無事である。また腰痛をはじめ今回老いを感じること多し。

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コロナ後の渡伊(1)

 8/26に羽田を発って、トルコ航空で翌日ローマ入りしました(食事2回あったし、美味でした:イスタンブルで予定外の2時間出発遅延はありましたが:水は2ユーロで購入できた)。このブログで私の動向をご覧になっている方がなきにしもアラズのようなので、時々ご報告します。

 私的には、8/27到着直後昼食を摂るため寄ったテルミニで地下鉄に降りるエスカレータで背負っていたリュックを上から開けられて、その一番上に詰め込んでいたウェストポーチを抜き取られ、翌日警察に盗難届を出すという20何年ぶりの体験ありましたが(被害の中心は若干の日本円とカード類を入れた日本用財布、それに時差があったので入れていた腕時計などなど)、パスポートと大枚の現金は体につけて無事だったので、その後も問題なく行動できてます。もちろん、カード類は直後に取引停止にしましたが。ちなみに28年前だったかパリ大学に留学中の女子学生が遊びに来て、当時の64番のバス内で集団スリにパスポートなんか盗まれた時は、ローマ中央警察に行ったのだけど、現在はサンタ・マリア・マッジョーレ教会近くにクエストゥーラが移っていて、これ偶然今年三月に今度はドイツ留学中の男子学生が地下鉄でやられた時の経験で迷うことなく、そっちに出頭したのでありました。

 あと、老人ボケのせいか、荷物に早々と入れていたはずの下着類が入っていなくて、サンタ・マリア・マッジョーレ教会前のUpimでこのとき買うという予定外の買い物も (^^ゞ。

 今回は連れの都合でオスティア・アンティカ遺跡中心のスケジュールなので(宿舎はLido di Ostia Nord駅から徒歩10分のコンドミニオ、なにがいいって宿舎の持ち主がロシア系だったせいか、居間の照明が明るいことです)、今回さしたる調査目的がない私は比較的ゆっくり当初オスティア遺跡を楽しんでいましたが(最近の発掘場所中心で回りましたが、規制線が張られ近寄れないし、カバー掛けられているしで今イチ)、到着直後はにわか雨にしても雨勝ちで、例年より1か月は早い感じですでに雨期に入ったのかと思ったのですが、31日は昼間はカンカン照りでした(こちらでは夜に雨が降っていて午前中は過ごしよかったりします)。その後、カンカン照りがやっぱり多くなりました。

 31日は、遺跡を離れてローマに行き、まずはテルミニ駅地下のタバッキで2回目の購入でビリエッティ20枚(30ユーロ)入手し、テルミニ付近の2つの国立博物館(3館共通13ユーロ/一週間通用)を覗いたあと、64番のバスに乗り、サント・スピリトで下車してイエズス会本部前に寄って(そこは既報のネロ帝の劇場発掘現場前)、サンピエトロ広場の書籍売り場、その後、開放されたトッレ・アルジェンティナの共和政代の神域遺跡(見学料5ユーロ:但し入りませんでした)を回りました。人出はそう驚くほどのものではありませんでしたが、途中で切り売りピザと飲み物で昼食摂ったのですが15ユーロかかりました。今のレートだと高めの昼食代ですよね。

 ディオクレティアヌスのテルメ博物館のほうは、規制がえらくゆるくなっていて、ショルダーチェックもなく入構機器も作動されていませんでした(あと、共通券購入のとき15ユーロ出したのに受付男性が忘れたふりして2ユーロネコババしようという古典的動作があったと思ったのは私の思い過ごしでしょうか)。パラッツオ・マキシモでは「休息するボクサー」の股間を撮るという今回最大級の (^^) 重大任務があったのですが(うかつにもこれまで見逃してまして:だけど誰が覗くのだそんなとこ、普通)、なんとブレスキア博物館に出稼ぎ出張中だとかで、あえなく空振りにおわりました。昔懐かしの出土品を展示してある地下も閉鎖されていて、旧交を温めることもできませんでした。トッレ・アルジェンティナの共和政代神域は予想通り4神殿の前面のみの見学通路しかなかったので、背後のトイレ遺構が目的の私は入構せず上からの写真の撮り直しという結果となりました。

 フォロ・ロマーノとカピトリーニ博物館はゆっくり後日を期し、残るはフィミチーノ港湾遺跡とトラヤヌス港の再訪問といったところですが、後者は普段運動不足の76歳の脚力がもつかどうか不安があります。

 ところでこれは書いていいのかちょっと気になりますが、実は一昨日オスティア・アンティカ遺跡のネプチューン浴場の3D撮影していたOG君が、邪魔になる草刈りしていて、とんでもないものを見つけました。もちろん遺跡管理事務所は知っているでしょうが、一般には触れられてない件です。これについてはまた後日、ということで。

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伝説の「ネロの劇場」発見か

 ちょっと前に戦争棄民の話の中でバチカン近くのイエズス会本部とかその東側のSanto Spirito in Sassia教会に触れたが、今回はその教会の北側真ん前のPalazzo della Rovere(=Palazzo dei Penitenzieri)に関わる話である。

手前左の白い屋上がイエズス会本部

 上記写真では中庭が工事中に見えるが、ここはかねてバチカン高官御用達の高級庭園・ホテル・リストランテで、北側の正面玄関はサンタンジェロからサンピエトロまで貫通しているVia della Conciliazioneに面している。20年前になるだろうか、某君が枢機卿になったらここで祝賀会を開いてあげると約束した場所である(幸いなことに彼は僧職に入らなかった)。そこでいつの間にか(2020年かららしい)南半分で発掘調査がおこなわれていて、今回皇帝ネロの私設劇場と思しき遺構が出土したと公表された。すでにグーグルなどの地図には「ネロの劇場」と明記されている。サンピエトロ広場はかつてカリグラとネロの私的競技場であった。現在その広場中央に設置されているオベリスクから今回の発掘現場は直線でたった320m東の場所である。

 この付近はもともとアウグストゥスの孫娘で、カリグラ帝の母、ネロの祖母にあたる大アグリッピナの別荘庭園(ホルティ・アグリッピナエ)だった。時代は飛んで、1480年代にこの地にルネサンス様式のパラッツォ・デッラ・ローヴェレが建てられていたが、1940年教皇ピウス12世はその建物をエルサレム聖墳墓騎士団の本部として与えていた。騎士団は、今回この宮殿を新たにフォーシーズンズ・ホテル&リゾート・グループに賃貸し、大聖年の2025年にグランド・オープンする予定で改装を決め、だが明らかに考古学的に重要な場所であるため、建設に先立って発掘調査がおこなわれていた。そしてこの7/27に出土状況からそこがこれまで所在不明だった「皇帝ネロの私設劇場」跡と断定され公表されたのである。 

 これまで、半円形のカベアcavea(客席部分)の左側と、ローマ時代の舞台裏であるスカエナ・フロンスscaenae fronsの遺構が確認されているほか、貴重な白大理石や多色大理石で作られた精巧なイオニア式円柱や、ネロのドムス・アウレアにも見られる金箔で装飾された優雅な漆喰も出てきている。そして演劇の衣装や舞台装置を保管するために使用されていたと考えられる部屋の一部も発掘されている。

 出土遺物の豪華さ、卓越した職人技、レンガ刻印から、この建物がユリウス・クラウディウス朝の建築であったこと、しかし2世紀の最初の数十年で解体され貴重な資材は他に転用された様子がみてとれることから、スエトニウス、タキトゥスなどの文献史料が言及していながら、これまで場所が不明だった芸術家ぶった皇帝ネロが詩の朗読や七弦琴をローマで奏でていた私設劇場がここだったと、発掘した考古学者たちによって結論されたわけである。

上記画像は、1951年米映画「クォ・ヴァディス」でPeter Ustinovが怪演した鬼気迫る皇帝ネロ(https://www.youtube.com/watch?v=XXKmT0Ltb-Y)。私は彼が芸術家ネロの繊細さを余すところなく演じていて一番好きである。

 しかも、紀元後1世紀のヤヌスの頭部像の他にも、出土資料にはこれまでよく知られていない10〜15世紀の遺物も含まれていて、特に十字架やロザリオのビーズを作る材料など中世の巡礼者に関連した品物も発見され、聖ペトロ殉教地をめざしてヨーロッパ各地から巡礼が訪れていた様子を彷彿させている。また、ガラス製のゴブレットや陶器の破片が含まれ、発掘責任者Marzia Di Mentoは、以前この時代のガラスの聖杯は7つしか知られていなかったが、今回の発掘で新たに7つが見つかったと指摘している。

 遺跡は最終的には埋め戻される予定らしいが(強化ガラスの床とか、地下一階として保存してほしいものだ)、出土品はこの宮殿に保存展示されることになっているので、数年後か10数年後には見学可能となるだろう。残念ながら私にはその見学は許されないだろうが。

http://www.thehistoryblog.com/archives/date/2023/07/30

https://www.youtube.com/watch?v=keWgXI1VFto

https://www.businessinsider.jp/post-273296

https://www.youtube.com/watch?v=mNetJ7ro9f4&t=321s

位置関係:

旧カリグラとネロ私設競技場            発掘地点   旧ネロ橋

                   南側で接していたのは旧ネロ橋に通じる「凱旋街道」 Via Triumphalis

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水中考古学の勧め

 良い番組はないかと探していたら、BS TBSで、8/13に放映された2時間番組「幻の海底遺産を探せ!:水中ドローンで大捜索」(https://bs.tbs.co.jp/culture/underseaheritage/)が,見逃しでまだ見ることができることが分かったので、さっそく見てみた。この見逃しは一週間程度配信されるらしい。

 あの話題をさらった元寇船の紹介はまったくなかった。このドキュメントの中心は、以前紹介したことがある我が国の水中考古学の開拓者のひとり佐々木ランディ博士(帝京大学准教授)のプロジェクトの紹介で、沖の島に至る宗像の海で漁師の情報や水中3D測量の成果を勘案してX1,X2, Yの三地点に小型の水中ドローンで調査をおこなった。調査期間はなんと2日間とまあ普通では成果の出ない短かさだったが、水深65mあたりなので、潜水しての作業はもとよりかなり困難。小型の水中ドローンで、日露戦争のとき水雷で沈没した常陸丸(これは明治期に日本が自力で建設した最初の船だったそうだ)、また明治初期から昭和初期の小型木造船を確認できたのは上出来と思われる。おそらく事前調査が十分になされていてのことだったのだろう。その意味でちょっとやらせ臭さを感じたが、まあいいだろう。

 またエピソード的に、幕末のオランダ製の開陽丸の復元状況の紹介や、これも佐々木准教授が関わった、京都府の女子高校生がクラウドファンディングで必要資金300万円を集め、2022年に丹後の海中遺跡プロジェクトを実施した様子の紹介もあって、未だほとんど手つかずの日本近海の水中考古学への招きになっていた。この調子で北前船の航路沿いに、こっちは未開発のまま遺跡が遺存している可能性が高いだけに、調査すれば面白いだろうなと。

 私的には、丹後プロジェクトで「はな(鼻)ぐり岩」という穴が開けられた岩盤が登場したのが興味深かった。おそらく「鼻ぐり」とは牛の鼻に輪っかをかけるため開けられた穴との類似なのだろう。それが私が最近興味を持っている船舶の係留装置だったからだ。あとから佐々木准教授の「丹後の海で遺跡を探すー高校生の挑戦」(https://www.isan-no-sekai.jp/report/9118)を読んで、より詳しく状況を知ることができた。感激のあまりここでは勝手に係留装置関連の図3を紹介しておく。これはなかなか貴重な成果だと私は思う。もっと早く読んでいたら、私の論文に専門的用語として利用できたのに、という思いが強い。

 こういった遺物は石見銀山の港だった温泉津でも遺存しているそうで(以下の写真:https://www.pref.shimane.lg.jp/industry/suisan/gyokou/shiryo/06hanaguri.html)、まあどこでも考えることは同じという感想をもったが、日本の場合まだまだ未調査状態だそうだ。それを高校生がやったわけである。

【参考ウェブ】

https://scienceportal.jst.go.jp/gateway/clip/20161219_01/

https://studyu.jp/feature/theme/underwater-archeology/

https://www.ginzan-wm.jp/purpose_post/%E9%BC%BB%E3%81%90%E3%82%8A%E5%B2%A9/
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プーチンのご乱心を憶測する

 昨夕、娘から電話があった。夕方に私の妻と会う約束があって、妻の出先に行ったのだが、おかしい、記憶がない、今日は何日かとなんども聞く、アルツハイマーになったのでは、と。

 妻が家に帰り着くまでに、「突然記憶がなくなる症状」をぐぐってみたら、お医者さんの診断が掲載されていた。どうやら「一過性全健忘」という症状らしい。突然、ごく最近の記憶能力が失われる症状で、だが最長24時間すれば自然に回復し、再発は1割程度、原因は不明だが、記憶を操る海馬への血流が何かの拍子に滞ってしまうからでは、と。逆行性だと過去の記憶すべてが失われるのだが、これはそれではなく先行性だそうで、ごく最近の記憶の蓄積ができないのだそうだ。ウェブ情報では、この症状、男性の4,50代に多いとする情報と、まったく逆に、女性で60代に多いとする情報があり、また過度の飲酒や薬物投与,ストレスなどなどが引き金になっている由。

 帰宅した妻は、家を出てからの記憶がなく、ケータイを見てばかりいる。そして今日は何日と同じことをそれこそ2、3分毎に聞き続ける。さっきも17日と言ったよ、といってもすぐに忘れて同じことを聞くのだ。ただ逆行性でない証拠に、私が夫であることとか、名前とかは覚えている。だから迎えに来た娘一家をちゃんと認識できていたわけだ。昼前に家を出てからの記憶がすべて飛んでいて、娘たちに会った時までなにをしていたのか記憶にないのだそうで、それを聞いて、もし出先を出るときに娘たちに会わなかったら、迷い子になっていたかもしれない危うい状況だったのだ、と気づいた次第。

 一夜が過ぎて朝目覚めた時に、わざと「今日はなんにち」と聞いてみたら、ちゃんと「18日」と答えるではないか。そして職場に時間どおりにご出発だ。ウェブ情報通りで一安心だが、ただ、孫娘が心配して居残ってくれたのだが、彼女が泊まっていることは覚えていなかった。だから家を出て電車とバスに乗って以降の丸々6〜12時間くらいの記憶が欠落していたことになる。

 実は今から40年前に妻の妹の夫がそのような状況に遭遇して迷い子になって、帰ってこれなくなったことがあった。しかし翌日だっけに妻の実家の方に電話がかかり、だけど無言なので(手帳に電話番号が書かれていたので試しにかけてみたらしい)、これはおかしいひょっとしてと義母が気づいてその場所を動かないでと言って、迎えにいって連れ戻ったのだが、私はそんなことがあるのか、とその時は納得できる状況ではなかったが、今だと十分理解できる。

 それで思うことがあった。先般のロシアでのワグネル反乱時における不可解な成り行きのなかで、どうやらプーチン政権の判断停止状況があったわけだが(「プーチン氏「まひ状態」ワグネル反乱、対応できず」:https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/337609)、ひょっとしてその時プーチンをそのような症状が偶然襲っていたとしたら、どうだろう。一過性だから最大24時間で回復するので、何ごともなかったようにその後も執務できるわけだが、先行性記憶喪失による空白の12時間とか24時間に、それが淡々とした日常であれば「今日の彼はちょっとおかしかったなあ」で済むところ、偶然その時に一大変事が生じたら対応不能となるわけである。

 歴史事象にそのような偶然を持ちこむのは、プロにあるまじき安直な態度とされるわけであるが(よく引き合いに出されるのは、ナポレオンが戦いに際して水虫を患っていたので負けた、といった例である)、事実は小説よりも奇なりで、そういう偶然がたまたま生じる可能性を排除すると、かえって真の原因を見失って迷路に入り込んでしまう場合もある、と私は思わざるをえないのである。

 今、某読書会でマキアヴェッリ『君主論』を読んでいるが、その中で、成功する君主にはそれなりの力量と時機を得た幸運がついていると論じており、父アレクサンデル6世の後ろ盾を得て、一代の傑物だったチェーザレ・ボルジアは破竹の勢いであったが、父ともども熱病で倒れ,父の没後、彼がまだ病床にあったとき、不運にも教皇ユリウス2世に捕らえられ、没落ヘと追いやられてしまった。こうして彼から運命の女神は残酷にも飛び去ったわけであるが、彼が病床になければその後の歴史展開はまったく違ったものになったかもしれないのである。

【後日談】翌日、出先で妻がどうだったか電話で問い聞きしたら、ごく平常でちゃんと発言して役目を果たしていた、その場には別の医師や看護師たちもいたのだが、誰ひとり異常を感じた者はいなかった由である。妻には未だその時の記憶がまったくない。妙なものである。

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