月: 2023年11月

被爆神父の回顧録

 遅ればせながら、以下の本を古本で入手した。私が広島にいたとき、小教区司祭だった彼を知っていたこともあり、周知の地名や知人も登場していたせいか、一気に読めた。

 長谷川儀『八月六日の朝、ぼくは十四歳だった』女子パウロ会、2010年。

 彼の名前は「ただし」と読む。上掲の写真の玉野教会時代や呉教会のはまだまだ私の記憶にある師の姿のまんまであるが、後出のYouTubeの晩年の表情はだいぶ違っていて驚いた。彼は、瀕死の重傷でイエズス会長束修練院長アルペ神父の治療を受け、副院長ドイツ人ネーベル(帰化名・岡崎祐次郎)神父から臨終の緊急洗礼を受けるも、奇跡的に一命をとりとめ一家で受洗、紆余曲折あって20年後に広島教区司祭になる。今回初めて、最後に岡山の玉野教会主任司祭をされていたこと、2012年広島日赤の原爆病院で81歳で帰天されていたことを知った。

 今回ぐぐっていて、「電子顕微鏡日記」なるブログに彼の晩年の画像と肉声が残っているのを知った(https://minkara.carview.co.jp/userid/458567/blog/27748643/)。しかしこのブログもすでに昨年12月で書き込みが途絶えていて、先行き不透明なので、このまま情報が消え去るのは惜しいので、承諾連絡しようもないままにあえて無断転載する(方法判明すればご連絡します)。

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2012年09月15日

 長谷川儀(はせがわただし)神父帰天 

父の友人であり、若き日の父や祖母、祖父の様子を教えてくださったカトリック広島司教館付の長谷川儀神父が9月13日に帰天されました。心からお悔やみを申し上げます。

写真は父の没後1週間、2002年5月1日に当時主任司祭をされていたカトリック呉教会におうかがいした際、撮影したものです。

以下、情報サイトの転載です。

投稿者: yamaguchi 投稿日時: 2012-09-15 09:07:43 (75 ヒット)


 訃  報

広島教区司祭 パウロ・フランシスコ・アシジ 長谷川 儀神父が、9月13日(木)午前6:07、
広島日赤・原爆病院にて帰天いたしました。享年81歳でした。どうぞ長谷川神父のためにお祈り
ください。通夜・葬儀ミサは、下記の通り行われます。

通夜 9月14日(金) 午後  6:00
葬儀ミサ 9月15日(土) 午前 11:00

広島教区司教座聖堂 (幟町カトリック教会) 
●故人の遺志によりお花料はお断りいたします   
喪主 広島司教区 司教総代理 斎藤真仁神父

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パウロ・フランシスコ・アシジ 長谷川 儀(はせがわ ただし)

1931年 7月19日  広島生まれ
1945年   摂理的出会いから8月11日より敗戦の玉音放送の15日迄、イエズス会アルペ修道院長より直接原爆による火傷の治療を受ける
11月30日  イエズス会ネーベル副院長より避難先にて緊急洗礼を授けられる
1965年 3月18日  福岡サンスルピス大神学校聖堂にて、マレラ枢機卿より“私は核兵器に殺されるよりも、核兵器に反対して殺されるほうを選ぶ”心で司祭に挙げられる  
 叙階後、幟町教会、呉教会、観音町教会、三篠教会、尾道教会、向原教会、玉野教会、廿日市教会を歴任
2010年 ~  司教館付
2012年 9月13日  摂理のうちに全てをおん父のみ手におゆだねし、永眠

2012年9月13日
広島司教区本部事務局

*略歴以下は長谷川神父が生前、準備されていたもの*

カトリック広島教区情報サイトに気付くのが遅れて、葬儀に参列することはできませんでしたが、明日、カトリック幟町教会でお祈りしたいと思っています。

以下、長谷川神父の被爆証言のYou Tube動画です。

これらのお話の一部は昨年8月5日、カトリック教会の平和行事でうかがうことができました。
第5話後半のお話は、この動画ではじめて聞きました。今年8月5日は第5話前半の続きをお話される予定でしたが、中止になってしまいました。ご冥福をお祈りします。

関連情報URL : http://www.hiroshima-diocese.net/modules/bulletin/article.php?storyid=175

【付記】「カトリック広島教区情報サイト」にも行ってみたら、2023/10/8に、これも懐かしい深掘升治神父がラサール神父がらみで自らの召命について講演をされていたようだ(https://www.hiroshima-diocese.net/2023/09/08/post-2904/)。彼も今年86歳。そこにあった写真に昔の面影はないような。そうだよな、私が20代で広島教区をうろうろしていたのはもう4、50年も昔のことだ。彼が2014年に被爆体験を証言しているのもみつけた(https://www.hiroshima-diocese.net/page-2792/page-1691/)。また2006年の早副穣神父のも(https://www.hiroshima-diocese.net/page-2792/page-1696/)。彼は2013/11に87歳で帰天。

 

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空気の軽さ、重さについて

 在伊50年になるN氏と話す機会があった。

 その時、この夏はポンペイからサルノ川の河口目指して歩きましたと話したら「よくそんなに自動車道を歩かれますね」といわれたので、私が「どういうものか、イタリアだと息切れなんかしなくて不思議とすたすた歩けるんですよね。日本だとちょっと近所のセブンイレブンに行くだけでも心臓がパクパクしちゃうんですが」と話したら、「同じようなことを言われる人がかなりいらっしゃいますよ」と。

 どうやら日本の空気は重たいらしい。素人考えだが、たぶん空気中の湿気がその原因なのであろう。こんなことに気づくことができたのも老齢で渡伊経験をしているからで、若さに任せて活動している年代には察知しがたい、ありがたい新知見である。

 うろ覚えだが、ゲーテの『イタリア紀行』を読んだときに、アルプスを越えてイタリアに入った時の高揚感が書かれていたのが印象的だったが、これまで私は闇の国から光の国へと太陽光の変化ばかりに気をとられてきたのだが、案外に空気の軽さによって加算されたものだったのかもしれない。

 年取ったら(私はもう十分後期高齢者だが)、なるほどイタリアで暮らした方が楽かもしれないと思いつつ、年配になって多くの滞在者が帰国せざるをえないのは医療の都合である。なかなかうまくいかないわけだ。

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最近の古代トイレ情報,他

 久々にチェックしてみたら、やはりあれこれ新情報が。

● The Roman Toilets of Ancient Athens – 3D reconstruction:https://www.youtube.com/watch?v=mZN77PdUt1E

● A. Kate Trusler, Where’s the loo? An analysis of the spatial distribution of private latrines in Pompeii, Water History, 9, (2017) , pp.363–387.

● A.Kate Trusler / Barry Hobson, Downpipes and upper story latrines in Pompeii

Journal of Archaeological Science: Reports, 13 (2017) , pp.652–665.

● Hoss, Stefanie, Latrinae: Roman Toilets in the Northwestern Provinces of the Roman Empire (Archaeopress Roman Archaeology), Prime Deals, 2018, PP.154.

● これってオスティアの「七賢人の浴場」の逆現代版? さて、どこの国のトイレ? Quoraで見つけました。

【追伸】同様のものを岡田茂氏のブログ(https://jp.quora.com/profile/%E5%B2%A1%E7%94%B0-%E8%8C%82-Shigeru-OKADA)でみつけたのですが、そこでの説明文だと「2015年にチェコ共和国プラハのショッピングセンターの男性用トイレ」だったそうで、上掲とよく似た意匠ですね。続いて「同じフロアにある女性用トイレにどのような意匠が凝らされていたのか」と。ほんと覗いてみたい。

● 2023/11/6 サルディニア島沖から後4世紀の数千のコイン発見:http://www.thehistoryblog.com/archives/68711

● 2023/10/24 Santa Maria Capua Vetereのミトラエウム再公開:http://www.thehistoryblog.com/archives/68585

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6,5,6,11の循環年と学会発表

 2018年10月28日(日)に広島史學研究会西洋史部会で口頭発表したときに、この部会はいつも10月末の日曜に開催されるので、10/28で次回日曜はいつになるかを調べてみたら、なんと11年後の2029年と出た。それだと私は生きておれば82歳になっている。う〜ん、11年後か次回は無理だな、とそのときは正直思ったものだ。あれから早いものでもう5年経った。現金なもので6年後だとまんざらできないことでもないかも、と思う今日この頃である。

 2029年の次は6年後の2035年、その次は5年後の2040年。どう考えたってその先を考える必要はないので、今度は試しに昔をたどってみた。私が生まれる前だと1945年が該当年で、その6年後の1951年、その5年後の1956年、そして6年後の1962年、そして11年後の1973年、6年後の1979年、5年後の1984年、6年後の1990年、またまた11年後の2001年、6年後の2007年、5年後の2012年、そして6年後の2018年。

 単純なことだが 6,5,6,11の循環が認められることに気づき、なんだかこのリズムに合わして6年後になにかしたくなったのである。そもそも10月28日とは西暦312年にコンスタンティヌス帝がマクセンティウスに勝利した日であった。この日はどうやら火曜だったようだが(その計算をしたサイトは、「ke!san」:https://keisan.casio.jp/exec/system/1177638326)、私にとって口頭発表が日曜だったので、それにこだわってみたわけである。6年後に研究仕舞いを兼ねた口頭発表ができたらいいな、と思っている。ま、生きていればの話ではあるが。

 話がそれるが、私の誕生日1947年8月9日は土曜日と出た。なんと今年は数えで77歳だから喜寿だったんだ。ついでにこの誕生日の出来事としては「水泳の古橋廣之進選手が水泳日本選手権の水泳400メートル自由形で世界新記録。“フジヤマのトビウオ”と呼ばれることとなる」とあった(https://ja.wikipedia.org/wiki/1947年の日本)。

古橋廣之進(1928-2009年)

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広島平和都市法の寺光忠、それにアルペ神父のこと

 朝起きてテレビをつけたらNHK総合でなぜか広島の平和都市建設法のことをやっていた。途中からだったが、そこでの恩人ともいうべき寺光忠氏(1908-1996年)に興味を持って検索してみたら、旧制広島高校から東大法学部に進み、1949年当時、参議院議事部長だった(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27163)。彼のアイディアで日本国憲法の第95条を根拠に、「広島平和記念都市建設法」制定に向けて動いたのだ。

 それ関連で、中国新聞の原爆資料館情報も眼にとまった。かつて触れたことがある長岡省吾氏もそこに登場してたのはいいが、「ヒロシマの地質学者の執念が詰まった原爆資料館。だが、年間100万人を超す入場者であふれる展示場にもパンフレットにも「長岡省吾」の名前はない」と書かれていて、気になった(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27269)。そう、放っておくと忘れられていくわけだ。

 ペドロ・アルペ神父(1907-1991年)もヒットした(中国新聞:検証ヒロシマの半世紀 検証ヒロシマ 1945〜95<20>宗教:https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27313;せせらぎ:特集13「アルペ神父(2006年)」:https://seseragi-sc.jp/story-cat/特集13%E2%88%92アルペ神父/)。スペイン人の彼については改めて解説する必要はないだろうが、原爆投下時に広島市(当時)北郊外の長束のイエズス会修練院長で、のちにイエズス会第28代目総長(1965〜1983/1991年)も勤めた。

 彼の列福運動もはじまっているようだ(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=134939:http://catholic.hiroshima.jp/pdf/fr_luis_cangas_20210805.pdf)。彼の墓所は一旦はサン・ロレンツォ・フォリ・レ・ムーラ教会裏のカンポ・ヴェラーノ墓地のイエズス会区画だったが、現在、ローマのジェズ教会のフランシスコ・ザビエルの祭壇右の隣接礼拝堂にあって銘板が掲示されている。その移葬についていかにもイタリア的な噂話を聞いた記憶がある。イエズス会側の担当者がお金は一切必要なかった、と言っていたと。

【付記】イエズス会日本管区は関係者からもうひとり総長を出している。2008-2016年の第30代アドルフォ・ニコラス神父(1936年スペイン生れ;2020年帰天)。現総長アルトゥロ・ソサ・アバスカル(2016年〜)は、初の欧州外出身(ベネズエラ人)。なお現教皇フランシスコ(イタリア系アルゼンチン人:在位2013年〜)は史上初のイエズス会出身。この世代はアルペ総長の刷新活動(社会正義の促進・解放の神学)の影響を少なからず受けているはず。

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『ビジュアル世界の偽物大全』を買った;そしてイエズス会士

 日経ナショナルジオグラフィックからの出版で、今年の6月出版とまだ日が浅いせいか古書でも安くないので、しょうがないなという感じで購入した。

 当方のねらい目は、考古学上でのそれとかが書かれているのでは、というあたりだったのだが、トリノの聖骸布も簡単ではあるが掲載されている。時代的に興味をひかれたのは、死海文書に先行する「発掘物」があり、それは偽物とされて消えてしまったことで、そんなこと私は全然知らなかった。

 それにしても、手に技をもっている者が贋作・模作にチャレンジしてしまうのは、人間の性(さが)とでもいうしかない。

 ピルトダウン人のところで、学生時代に傾倒して読んだ『現象としての人間』 (Le Phénomène Humain)の著者、イエズス会士テイヤール・ド・シャルダンが出てきたのには55年振りの久々のことでいささか虚を突かれたが、北京原人といい、発掘には贋物がつきもののようで、しかし真偽の検討などこちらには判断基準がないので、なかなかてごわいことだ。

Pierre Teilhard de Chardin, SJ(1881/5/1-1955/4/10)

 横道に逸れるが、今回はじめて、当時、カトリック教会内で批判され続けていたテイヤール・ド・シャルダンを、なんと後の教皇ベネディクト16世になるあの厳格なヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿が擁護していたということを知って、いささか驚いた。今となっては時代遅れのテイヤール・ド・シャルダンの業績であるが、当時のカトリック教会主流に臆することなく研究的に一歩踏み出すことを恐れなかった彼の生き様は、いかにも時代を果敢に先取りするイエズス会士の真骨頂を示していて、あらぬ憶測からようやく最近名誉回復された教父学研究者ジャン・ダニエルーJean Daniélou SJ 枢機卿ともども、私は強い親近感を感じてきたのである。

Jean Daniélou SJ 枢機卿(1905/5/14-1974/5/20)

 以下参照:2024/1/3「ジャン・ダニエルー枢機卿の名誉回復」

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