私にとってのコンスタンティヌス問題

 義弟がこの11/3に63歳で肝臓ガンが肺に転移してあっけなく急逝した。そのせいもあり、いつお迎えが来てもいいように書き置いておく。

 このところ、私はコンスタンティヌス問題に足を踏み入れている。顧みれば20代で弓削達先生のはるか後塵を拝して研究の道を歩み始め、いずれはと思いながら、なかなか端緒を得ることがかなわず、最近になってようやく自分なりの見解を開陳するに至った、ということかと思う。

 さきほどわがHPを見直していて、あれ、と改めて気付いたこと(すなわち、書いた時点ではそういう認識がなかった、というわけ)が2点ある。それについて書いておきたい。

 第一に、コルヌーティの楯の紋章は、見ようによっては十字架に見えないことはない、ということ。コンスタンティヌスのアーチ門に描かれた紋章はまだそういった印象からは遠いが、5世紀初頭作成に遡る「官職要覧」Notitia Dignitatum が掲載しているAuxilia Palatina所属cornutiの楯紋章には、なにげにキー・ロー的な面影が見てとれるようである。最初はタウ・ロー(τ+ρ)だったが、後世キー・ロー(χ+ρ)のほうが優勢となった、という見解も、こう理解するとき納得できる。

 要するに、ラクタンティウスやエウセビオスが記述している十字の旗頭は、やはりコンスタンティヌス足下の警護部隊のそれ、より限定するなら、コンスタンティヌスの皇帝旗だった、という私論の補強となる。

 これに、ラバルムlabarum軍旗に特徴的な車輪が、ケルト系の天空・雷・太陽神タラニスの持物でもあったことや、異教的見解からコンスタンティヌスが同じくケルト系のグラヌス神の聖地(現グラン)で、同様の属性を帯同するアポロ神と勝利の女神ウィクトリアから啓示を受けた、という史実が重ね合わされるとき、なかなか含蓄ある話となるように思われる。

車輪を帯同するタラニス小像     キリスト教の車輪=花綱型ラバルム(中心にキー・ロー)

 第二に、エウセビオス叙述での父帝コンスタンティウスの位置づけの件である。それは『教会史』ではそう明確ではないが、『コンスタンティヌスの生涯』I.27では、コンスタンティヌスがマクセンティウスに対抗するには強い助け手が必要であると認識し、父が信仰していた同じ神に敬意を払い、父がその神を「帝国の救済者、守護者、すべての繁栄の与え手としていたことなど」に思いを馳せ、逆に多神教に依存した諸帝の不幸な末路を熟考し、「彼の父の神は、彼の権力を認める非常に多数の明白な証拠を父に与えられたことなどを考慮」し、「ご自分の父の神だけに敬意を払うべきだ」と考えるに至った、と述べている。

 要するにエウセビオスは、コンスタンティヌスは父帝コンスタンティウスと同じ神(それがキリスト教の神であるとほのめかしながら)を信仰することにした、としているわけだが、ここで改めて考えてみると、父帝は副帝就任以来ガリア・ゲルマニアを根拠地とし、事実トリーアを自らの首都としていた。すなわち父帝の権力基盤はかの地であり、かの地に依存していたわけで、そこでの彼の守護神とはかの地のそれ(ら)以外ではなかったはずで、それをエウセビオスはキリスト教の神と同一視して叙述しているわけだが、さらに一歩踏み込み、エウセビオスは真実の一片を述べているのではないかという立場からするなら、従来流布してきた「エウセビオスは、コンスタンティヌスのキリスト教信仰を父帝に遡及させていたのでは」という見解を、「父帝の培ってきた軍隊の信仰をコンスタンティヌスも引き継いだ」と逆転して捉え直すことも可能となるだろう。否、それこそが事実の核心だったのではなかろうか。エウセビオスはそれを率直かつ端的に、だが多神教を排して一神教的に表現していたわけである。

 これは、従来コンスタンティヌスの守護神選択は、東方渡りのHelios=Sol Invictus経由でのキリスト教と論じられてきたが、事実はまったく逆で*、もともと西方のケルト・ガリア・ゲルマン的な天空神GrannusないしTaranisであった。まずそれを父の影響で受け入れ(というより、それによって父の培ってきた権力基盤=軍隊や領土を安んじて受け取り)、だが彼の支配領域の拡大に伴って、それをギリシア・ローマ的天空神であるアポロ神、さらに東方由来のHelios=Sol Invictusへとずらし重ねることで、他帝との差別化をはかりつつ、帝国全土掌握で守護神群の一画にキリスト教を受け入れた、と理解するわけである。

 *但し、これはあくまでコンスタンティヌス側の公式見解であり、彼が20代に人質然として滞在していた東部において、実はキリスト教と半ば公然、半ば秘密裏のただならぬ接触があった、というのが拙論における根本仮説である。参照、『キリスト教の興隆とローマ帝国』南窓社、1994年。

 またしても、エウセビオスの叙述から学ぶことができた思いである。

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