ペルペトゥア・メモ:(5)サトゥルス問題

 一歩踏み込み出すと謎満載の『ペルペトゥア殉教伝』であるが、ここでは、第11章から第14章にかけての、サトゥルスについて若干の気付きに触れてみたい。

 XI.1は、編纂者の編集句である。「祝福されたサトゥルスは彼自身の以下の幻を述べた。それを彼自身が記したのだった」。編纂者はそう述べることで、サトゥルス自身が話し記した、と強調しているわけである。実は、サトゥルスがらみの編集枠の最後、XIV.1でも、ここではペルペトゥアを道連れにして同様の文言を再言している。このくどさ、ないし編集句によって読者をある方向に導こうという強烈な意志をもっていた編纂者にとって、彼ら両名が自ら話し書き記したという「事実」は決定的に重要だったからだ。ただ彼は、ペルペトゥアとサティルスが述べ書き記した内容そのものの改変は手控えていた、と考えるべきだろう。筆(速)記者にしても編纂者にとっても彼らの言葉は神の啓示に他ならなかったはずだからである。

 ところで、私が今回改めてM版をもとにワード数(全語数 3618ワード)を検索比較し直してみたところ、以下の結果となっているので、本来は「ペルペトゥアとサトゥルス、そして彼らの仲間たちの殉教伝」とつけられて然るべきものだったことが明確になるだろう。

編纂者・筆(速)記者部分:462語 13%

ペルペトゥア:1625語 45%

サトゥルス:478語 13%

殉教記録:1051語 29%  

 ここで注目すべきは、フェリキタス関連はわずかにXVとXVIII.2のみ(173語 5%)という事実である。

 私はこれまでこのサトゥルスに関して、ギリシア語Σάτυροςから、ギリシア神話に登場する半人半獣(通例、上半身が人間で下半身は山羊)のラテン語表記、したがっていささかマイナス・イメージを持っていて、だから本殉教伝も当時の読者にいらぬ憶測をさせないためにも「ペルペトゥアとフェリキタスの」すなわち「永遠の繁栄・豊かさ」と呼び習わされてきたと考えて来た。だがThomas J.Heffernan, The Passion of Perpetua and Felicity, Oxford UP,  2012, p.275によると、ラテン語形容詞のsatur,-ura,-urum「満ち足りた、豊富な、肥沃な」を語源にしている由である。こうして、キリスト教的な意味でサトゥルスとは、「聖霊に満たされし者」というプラス・イメージの名前となり、紀元後3世紀半ばのカルタゴ司教キュプリアヌスは書簡(21,28)で彼とは別人のサトゥルス2名に言及しているので、北アフリカでは決して珍しい名前ではなかった由である。

 さて、本殉教伝には個人名が特定可能な、ないしは無名表記だがそれに近い登場人物(例えば、「父」とか「母」)が、管見では合計31名いる(男性25、女性6:但し、夢の中に出てくる牧者、エジプト人拳闘士、巨大な人物=剣術師範、白髪の老人の4名、天使4名3組、それに副帝Getaの、計17名等は含めない)。それをHeffernanは総数27名(男性23名、女性4名)と算定している(p.18)。

 冒頭で3名の男性と2名の女性が登場するが、最初の4名がcognomenのみなので、一応当時の命名法の原則に従うなら、非ローマ市民、奴隷ないし解放奴隷の下層身分humilioresだったことになり、さらに冒頭2名RevocatusとFelicitasは「conserva」との文言があるのでまず奴隷だったことが明白だが、他の2名SaturninusとSecundulusの所属身分は厳密には不明とすべきかもしれない(私見では限りなく奴隷身分)。ただ同じ基準にしたがうと、単独名で登場している人々(洗礼志願者教育指導者=伝道師Saturus、助祭TertiusとPomponius、総督代理Hilarianus(今の場合彼は例外で、たぶん解放奴隷あがりだが、しかし身分的には騎士身分)、牢獄長Pudens、ちょっと以前の殉教者のIocundus、Saturninus、Artaxius、Quintus、フェリキタスが産んだ新生女児)はいうまでもなく、司教Optatus、司祭Aspasius、洗礼志願者Rusticusたちも下層身分になってしまうのだが、はたしてそういった理解でいいものかどうか。

 その点、ペルペトゥアはcognomen(Perpetua)のみならずnomen(Vibia)も書かれていて、生来の自由人であることが暗黙の内に主張されている。よって当然のこといずれも実名が出てこない彼女の父、母、二人の兄弟、叔母、結果的にペルペトゥアの乳児、それに死亡した兄弟Dinoclatesもそうなるだろう。また、死亡した総督Minucius Timinianus(Opimianus)は役職上元老院身分が確実で、無名ではあるが軍団将校は騎士身分なので、彼らは問題なくいわゆる上層身分honestioresとなる。計10名(うち女性3名)。

 いずれも無名の牢番、フェリキタスの子供を引き取った姉妹、新米の剣闘士、の計3名はとりあえず下層身分としておこう。

 ところで、考えてみるに、203年3月7日に今般の処刑(=殉教)が行われ(Heffernan,p.65)、通説によると早くて4、5年後の207年ないし208年に本殉教伝が公表されたのであるなら(ibid.,p.66-67)、迫害時の関係者の多くがまだ生存していたはずではないか。その場合、Vibius家関係でも当時洗礼志願者だったと兄弟1名が無名とはいえ明言されているし、Rusticus、洗礼を受けてしまった牢獄長Pudensはもとより、フェリキタスの赤子を引き取ったという「姉妹」などにも累が及ぶことが当然予想されるのだが、それへの対処が編纂者によって考えられているようには思えないことをどう考えればいいのか、頭を捻らざるをえないのである。ただ、時代はまだ迫害勅令を発したとされているセプティミウス・セウェルス帝(193—211年)統治下であったにしても、すでに迫害は当面の成果を得て沈静化し、教会にとって危機的状況が過ぎ去っていた可能性はあるが、今のところ確証はない。

 今般サトゥルスの幻視を読み返して改めて思ったのは、まず、ペルペトゥアのそれと比べると男性の見た夢なんだな、ということだった。一言でいうとペルペトゥアは女性的な特徴、すなわち忙中閑有りとでもいうべきか、衣服の装飾などに目がいっているのだが、彼はいかにも男性性的な、むしろ社会構造的な視角、ずばり言うと、教会内での権力関係で彼が置かれていたのであろう屈辱的位置の反動によると想定される下克上的意識が前面に出てきている件である。そしてまた、彼にとって来世での同伴者はペルペトゥアだけであったという点は、これまでも私が指摘してきたことだが、今回はさらに、サトゥルスの幻視に出てくる音声言語に関して面白いことに気付いた。

 すなわち、殉教伝は J.Armitrage Robinson, 1891以来、一応原典はラテン語で書かれているとされてきたわけであるが、サトゥルスの文章では、どうも教会典礼での常套句、特にミサ聖祭における祈祷文がかなりの割合で繰り返されている気配があって、しかもそれはミサ聖祭の実際の場ではラテン語ではなくギリシア語で唱えられていたのではないか、という点だった。これは、特に天上で天使たちが喋っている言葉において顕著だったのではと思えた。そこで殉教伝の翻訳見直しでもラテン語のウラに潜んでいたであろうギリシア語を並記してみる気になったわけであるが、これは同時にラテン語原典から訳されたギリシア語訳版への見直し、という側面も併せもつことになって、これまでは問題をあまり複雑にしたくなかったので(すっきり原典とされるラテン語版叙述で事態を捉えたいと)、これまで避けていたギリシア語訳版をも射程に入れざるを得なくなってしまうことになるのだが、逆に考えると、もしそうだとして、なぜそれらがラテン語に訳されなければならなかったのか、が今度は気になりだしてしまうのである。よく言われていることであるが、キリスト教においては、3世紀初頭は北アフリカのみならず帝都ローマにおいてさえも、まだギリシア語が典礼使用語であり、聖職者もギリシア系が圧倒的に多かったわけで(それは、北アフリカで2世紀後においても相変わらずアウグスティヌスを取り巻いていた状況でもあった)、そうであればなにゆえここでもラテン語なのだろう、という疑問である。そこでうろうろしていたら、なんと最新研究書のEliezer Gonzalez, The Fate of the Dead in Early Third Century North African Christianity, Tübingen, 2014, p.6-8は、通説をひっくり返して、ペルペトゥアはギリシア語で書き、編纂者はラテン語で書いた(よって、論の赴くところ、編纂者がペルペトゥアの部分をラテン語訳したことになるのであろう)、という仮説を提出していることに気付いてしまったりもする。

 この言語問題は、このちゃぶ台返しもあってなかなかの難物になりそうな気配がする。

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