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ハドリアヌスのアテナエウム発見:遅報(6)

 本稿は、豊田ゼミ論集『COMMENTARII』第 28号(2017年)からの修正転載で、『上智史學』61(2016年)、p.154、註(3)への補遺を兼ねている。(知的所有権の問題があるので、ここでは部分的にあえて情報を開示していない。全責任は豊田にある)

 以前ゼミ論集『COMMENTARII』第28号、2017年、pp.42-49に掲載した記事を再掲する。なおこれは、『上智史學』61、2016年、p.154、註(3)への補遺でもある。

 SHA, Pertinax伝、11.3:(ペルティナクスは)、その日、詩[の朗読]を聞くために準備していたアテナエウムへの出発を生贄を捧げた際の悪い予兆のために延期したので・・・                   

 Alex.Severus伝、35.2:(アレクサンデル・セウェルスは)、ギリシア語やラテン語による雄弁家の朗読や詩人の歌を聴くために、アテナエウムへしばしば通った。

 Gordiani伝、3.4:(ゴルディアヌス1世は)後に成人してからは、アテナエウムで、自分が仕える皇帝たちが聴講に来ている時も、「論争」型練習演説を弁じたてていた。

Aurelius Victor, Liber de Caesaribus, 14.1-4:(ハドリアヌスは)東方で和平を整えてローマに帰還する。そこでギリシア人たち、ないしヌマ・ポンピリウスのやり方で諸々の儀式、諸法令、諸体育場、教師たちを差配し始めた。それほどにたしかに、有能な人々のための諸学芸のための一つの学校、それを人々はアテナエウムと呼んだのだが、それを彼は創設し、そしてケレスとリベラの秘儀、それらはエレウシナと名付けられているが、それをアテナエ人の方式でローマにおいて執り行うほどだった。

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ハドリアヌス帝の「アテナエウム」

  Roberto Meneghini, Die Kaiser Foren Roms, Darmstadt, 2015, S.97-8. 

 ・・・ さらに大がかりな発掘が、2007年に、新しい地下鉄[C]線の建設のための試掘調査の中で、S.Maria di Loreto教会とPalazzo delle Assicurazioni Generali[in Piazza Venezia:ヴェネツィア広場東側に面したジェネラリ保険会社ビル]の間の巨大な花壇の中心で、始まった。ローマ遺跡管理局によって実施された諸調査は、すでに1902年から1904年に出くわしていた建築物のさらなる部分の発見へと導いた。それはヴォールト天井をもつ巨大な空間で、約13×22mの床面積からなっていて、123年から125年の時代の夥しいレンガ刻印のおかげで日付されることができた。[その空間の]両側には大きな、60cm幅の演壇階段が取りつけられていた。それらは元来大理石平板が張られていて、そしてたぶんsubsellia(低い腰かけ)として役立っていた(図版117)。

図版117

 あらゆる諸要素は、以下を指し示している、それは講堂auditoriumであったと。また、たとえレンガ刻印が10から15年くらい後の日付を明らかに抱かせるとしても、それにもかかわらず、それはAthenaeumとして同定されるだろう、それは、一種のアカデミアで、皇帝ハドリアヌスによって135年のパレスティナでの戦争からの彼の帰還ののちに建設された(Aur.Vic.,Caes.14.2)。その建物の床ーーそれはなお広範囲に保存されているがーーは、灰色の花崗岩からなる長方形の平板で構成されている。それら平板は細長いGiallo Antico[北アフリカ産黄色大理石]の平板によって囲まれている。その外見はそれと同時に、いわゆる[隣接するトラヤヌスの広場の二つの]図書館の中に付設された床と似ている。その建物は、我々が見てきたように、ハドリアヌスによって完成された。諸発掘の続行はより広い建築諸構造を白日のもとに曝した。それらは以下を証明する、3つの同様な広間に関する複合体が重要で、それらは1902年から1904年に発見された曲がった道の回りを放射状にぴったり合っていた(図版118)。

図版118
  付図a 旧来の発掘状況(トラヤヌス神殿外の左側面の空白部分が埋められたわけ)
付図b 一番北の講堂か
付図c  同左を横から見る
付図e ヴェネツィア広場周辺 中央右の不等辺方形部分が発掘現場

ハドリアヌスのアテネウム

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 ハドリアヌスのアテナエオ

                エレナ・パナレッラ(メッサッジェーロ紙)

世紀毎の変遷図:イタリアでは、場所の変遷を描くとき、こういう書き方を時々する

 ローマでは、どんな発掘にも本当の驚きが待っている。こうして、パラティーノのネロの回転宴会場を支えていたと考えられる構造物の発見に次ぐものとして、「国父の祭壇」[「ヴィットーリオ・エマニエーレ二世記念堂」のこと]の正面にあるマドンナ・ディ・ロレート広場における地下鉄C線建設にともなう掘削のさなか、詩人や哲学者、文学者、科学者などを迎え入れるために建設されたハドリアヌスのアテナエオが発見された。

 発見は2007年にさかのぼる。発掘作業の結果、ここ70年で見つかった公共建築の中でも特に重要なものの一つが、中心部の考古学区域に再び姿を見せた。この建物は保存状態がよく、考古学特別局に委ねられることになった。

発掘現場

 だが、この大きく反響を呼ぶ建物の今後の運命はどうなるのだろうか。コロッセオの長を務める考古学者ロゼッラ・レアは、現地説明会で次のように明言している。「もちろん構造物は修復されます。有効利用ならびに一般公開ができるように作業を行なっているところです。作業現場の柵に設けられた開口部から日々顔をのぞかせて、驚嘆しながら通り過ぎていく人の数から考えますと、ローマ市民や観光客の皆さんも公開を大いに待ち望んでいるのではないでしょうか」。さらに加えて、「トラヤヌスの広場周辺でのこの発見は、ヴェネツィア広場一帯の価値をさらに高めてくれるかもしれません。そして将来、地下鉄C線の駅をつくることができたなら、この遺跡は地下鉄出入口と一体化した、他に例を見ない観光コースの一部となることでしょう」。何はともあれ、人や車が行き来するそばで、頑丈な柵の裏側に最新の異例な考古学的な発見が隠れている。そこは、アテネにおけると同様、ローマでも討論や公演が行なわれていた場所である。レアによれば、123年――両執政官の名が刻印された無数のレンガから得られた年代である――以降に、「講堂アウディトリウム(全部で三つある)のそれぞれの部屋の中央で、作者や雄弁家が朗読や朗唱を行なったり、修辞学の講義をしている様子が目に浮かびます。聴衆は演壇階段の上の座席や立ち見席にいたでしょう。演壇階段は当時、壁もそうですが、表面を大理石で覆われていました。この大理石は中世にはぎ取られてしまい、今では下の方にほんのわずかに残っているだけです」。

 この場所の調査を行なったのは、考古学者ロベルト・エジディである。古代よりも新しい時代の部分は、中世考古学者のミレッラ・セルロレンツィが担当した。セルロレンツィは「年代学研究や特定された金属、発見された鋳塊から考えると、いくつか仮説はあるのですが、銅貨を製造するためのローマにおけるビザンツの造幣局があったのではないかという説があります」と説明している。

歴史的な事実

 ローマの地下鉄C線建設工事では、重要なモニュメントがいくつも発見された。その中でも、ヴェネツィア広場に位置する、おそらくハドリアヌス帝によって133年に建設された講堂アウディトリウムは群を抜く発見である。この講堂は「アテナエオ」として知られているが、アテネのアテナ神殿にあったものをモデルとした、200人まで収容可能な哲学の施設である。

 考古学者ロベルト・エジディは「教養豊かな皇帝であったハドリアヌスは、古典期ギリシアで行なわれていたような聴衆を前にした朗読、講演、詩の競演の伝統を再興しようと望んでいました」と述べている。

 発掘により、対になるように配置され、座席として用いられていた二つの演壇階段――849年に起きた地震により上層階が崩れ、今も一部が埋まっている――、廊下、そして中央部では、50メートル向こうのトラヤヌス帝の記念柱の脇にハドリアヌスが建てた図書館の床とそっくりな、古代黄色大理石の平縁のある花崗岩の床が出てきた。だが、203-211年に制作された古代ローマの地図、セウェルス帝の大理石平面図「フォルマ・ウルビス」には登場しないことから、この発見は予見されていないものだった。

 たくさんの考古学的遺物――中世初期にいたるまで再利用されていたローマ時代のタべルナや16世紀の館の基礎も含め――がヴェネツィア広場で見つかっている。

 考古学調査が必要とされていたのは、階段や通気孔を設ける部分のみである。全長25キロに及ぶ地下鉄は、深さ25-30メートルの場所に通される予定だからである。この深さは、かつて人が住んでいたあらゆる時代の層よりも深い。いずれにせよ、掘削する部分の多くで、またもローマ時代の地層に達することになろう。多くの驚きが待ち受けているかもしれない。

 沿線各地でその他にも建造物が見つかっているが、それらはネロ帝が建てたギリシア体育館の列柱廊、カンポ・マルツィオを貫いてテヴェレ川にまでに達していた運河、サン・ジョヴァンニ門とメトロニア門の間のアウレリアヌスの市壁の遺構と思われる。パンターノ・ボルゲーゼ地区で発見された、銅器時代や青銅器時代(前四-三千年紀)にさかのぼる考古学的証拠もある。

 文化財省次官のフランチェスコ・ジーロ、ローマ考古学局局長アンジェロ・ボッティーニ、アンドレア・カランディーニ教授も参加した『考古学とインフラ:経済発展と文化遺産』という学会において、現状報告が行なわれた。

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ローマでハドリアヌスのアテナエオが地上に姿を現わした

               カルロ・アルベルト・ブッチ(レプブリカ紙)

 地下鉄建設工事の最中に四角い部屋が見つかった。建設工事が中断されることはなく、地下鉄C線の出入口は数メートル移されることになった

 ハドリアヌス帝の記憶が、地下わずか5メートルのところに隠れていた。それは「国父の祭壇」の正面で見つかった。英国貴族院議場のような、対置された二重の演壇階段という、これまで例を見ない形をしていた。おそらくはアテナエオの座席であろう。ハドリアヌス帝は紀元後133年に、詩人、雄弁家、哲学者、文学者、科学者、官吏たちを集め、ギリシア語やラテン語で弁論、詩の競演、白熱した討論で競い合わせるためにアテネオを建設した。

 それは、アウレリウス・ウィクトルが諸術の天才たちの競技の場と呼んだ有名な講堂であった。そして、アテネのアテナ神殿で見たものをモデルに、哲人皇帝が自らの費用で建設したものである。だが、ローマにおけるこの哲学機関の痕跡はこれまで失われていた。その足跡を探る動きはだいぶ昔からあった。

 これまで発掘が行なわれたことがなかったヴェネツィア広場のこの一角には松の木が植えられていたが、これらの松は調査を進めるために昨年切り倒された。まさにその下に、パレスティナ旅行からの帰国後にハドリアヌスが建てることを望んだアテナエオがあったのではないかという仮説については、10月21日にローマの考古学特別局の考古学者たちが説明を行なうことになっている。その日は、地下鉄建設代表委員のロベルト・チェッキが市内全域の建設工事の進捗状況を報告する予定の日である。発見のニュースは二重の意味でよい知らせだった。これまで知られていなかった建物(203-211年の地図である大理石平面図「フォルマ・ウルビス」には載っていない)が博物館化される予定であること、そして地下鉄C線の出入口を数メートル先に移すことが可能であるという意味においてである。

 したがって、ローマでは、パラティーノのネロの回転宴会場を支えていたと考えられる構造物の最近の発見に次ぐ、もう一つの重要な発見ということになる。すべては2008年4月に起こった。ヴェネツィア広場のサンタ・マリア・ディ・ロレート教会脇の最初の調査において、モニュメンタルな階段が出てきた。それは帝政期の公共建築の入口と目された。そしてその直後、考古学局の考古学者アンジェロ・ボッティーニは、この階段が上り下りするためのものというよりも、着席するために設けられたということを明らかにした。それから「双子の階段」の発見があった。それで、アテナエオではないかという仮説が具体化した。これこそ、大広間の段なのではないか。

 まずは発掘を完了させる必要があった。市の清掃局がごみの収集のため、清掃車をそばに駐車することに決めたせいで悪臭が漂う中ではあったが、作業は進められた。「ローマ地下鉄」の作業場の柵の向こうをのぞくと、長方形の部屋の形がもうはっきりと見える。対に置かれた二つの階段は、上層階の崩壊により部分的に埋まっている。演壇階段はそれぞれ六段あるが、二つあるこの階段の一方では、部屋の出口があるために少し短くなっている。部屋の大きさは長さ約20メートル、幅3メートルである。中央部は皇帝や詩人たちが作詩を行なった場所だが、そこには古代黄色大理石の平縁がついた花崗岩の床がある。

 それは、ハドリアヌスが50メートル向こう、トラヤヌスの円柱の脇に建てた図書館の床と同じタイプのものである。床はすべて同じ高さにある。したがって、統一的で、モニュメンタルで、輝かしい都市プランと結び付いたものである。

コメント

 皆がだいたい同じことを言う。おそらくアテナエオが見つかった。思わず「素晴らしい発見だ」と言いたくなるものだ。ローマでどこを掘っても、何らかの芸術作品が見つかるのは誰でも知っている。時折、下水道維持工事等に立会うことになれば、必然的に古代ローマのアンフォラの破片や、あちこちに散らばったアンフォラの取っ手を見ることになる。つるはしで既にひどく傷つけられた後であるか、これからそうなるかであるからだ。

 何日か前のこと、サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会近くで、オプス・レティクラトゥム床を備えた貴族のドムスが開けられたが、すぐさま閉じられた。では、中にあったものは? 闇の中である。

 それでは今聞いてみよう。アテナエオにあったものはありふれたものだったのだろうか。ヘルマス像、碑文、欠けた彫像、そういったものは何もなかったのだろうか。ローマでは、街路樹の根元の土中を探していても古代の遺物が見つかるのだが、地下鉄A線、B線、C線建設工事では石ころさえ出てこない。ローマの地下にはこうしたものがたくさんあるということは分かっているので、遺物が見つかっていることは確かである。でも、そうした遺物がどういう運命をたどったかを見る必要がある。なぜなら、我々のところでは、何年か後に外国の博物館で再発見されるものを除き、遺物が姿を消してしまうのが通例だからである。

 そして、厚かましくもそれらを「盗まれたもの」と呼ぶのである。誰かが彫像を腕の後ろに隠して、まるでブリーフケースみたいに持ち去ってしまったかのように。彫像一体を包んでしまうには、そうした梱包を専門とする会社、高い専門能力、幅広い運搬機械、広い空間、使える時間が必要となる。博物館の扉が開いて彫像がクレーンで引き出されていたとき、監督や他の人たちは何をしていたのだろうか。

 考えられるのは二つである。今までがそうであったように、誰かが地下鉄の下で発見された遺物(それはとても大切な遺産である)をすべて持ち去ってしまうのか、アテナエオの遺物を私たちに見せようと心に決めるのか。後者でない場合、何度も繰り返されているように、我々の考古学遺産、国家財産が消失することになる。これまでずっと起こってきたように。

地下鉄建設工事

 首都の地下鉄C線は2000年に完成するはずであったが、掘削はまだ続いている。一方で建設費用は19億ユーロから33億ユーロ(公のお金だけで)に跳ね上がった。それ以外に通例の多額の贈与(私的なお金)がたくさんある。唯一、大規模工事に対する会計検査院の非常に厳しい報告書(2012年2月1日)が出されているが、それはただ著しい不名誉である。

 22年も待った挙げ句、無制限に公金を浪費し、何百回も厳粛に告知を行い、何百万回も鑑定や検査をし、何十億回も変更や調停を行なった後でも、2012年初めになっても地下鉄新線はまだできていない。工事がいつまでも終わらない作業現場に加え、見通しが不確かなこともあって、どれだけのお金を飲み込んでいく危険があるか誰も分からない底なし井戸である。

 もう、2000年以降、費用の増大から駅建設の中止にいたるまで、ありとあらゆることが起きている。無限に起こる一連の変更(2011年7月までに39回におよぶ)を考慮に入れなくても、である。こうした変更の結果、2001年の事業の費用見通しでは19億ユーロであったのに、2009年にCEPI(経済発展関係閣僚会議)が30億ユーロ以上の資金を交付しても不足することとなった。フランチェスコ・ルテッリからワルテル・ヴェルトローニ、ジャンニ・アレマンノ、マリーノの市長時代にいたるまで、長期間にわたって首都行政が実施する非常にお金のかかる経済的政治的ビジネスを進めていくために、これだけの金額が使われた。アンジェロ・バルドゥッチ、アネモーネ、頓挫しそうな地下鉄C線のために相談役として招聘されたベルトラーゾといった人びとも関わっているのを見てきた。事業を監視し、事業実現の任を引き受けている地下鉄C線株式会社の元に集結した大手ゼネコンを監査するために採用された元国庫会計監督庁のアンドレア・モノルキオに言及するまでもない。地下鉄会社の株主にはメッサッジェーロ紙のオーナーであるフランチェスコ・ガエターノ・カルタジローネが所有するヴィアニーニ社や、アスタルディ、アンサルド、カルピ・レンガ積み工および日雇い労働者組合、建設業協同組合といった他の有力者が名を連ねている。

 20年続いている事業の結果はどうだろうか。その答えが会計検査院から出された。長い審査を経て、会計検査院は爆弾報告書を提出したところである。182ページにのぼる文書で、国家事業の実施を統制するための中央部局が書いたものであるが、濫費や遅延を狙い撃ちし、地下鉄C線の実際の作業状況やコストの問題点を初めて指摘した。大変厳しい一撃だった。多くの箇所で、「事業の全体的な実現可能性に関しては、予測不可能な点がないとはいえない」とある。たとえば、会計検査官は、どのようにして「完成前に資金が尽き」ていくのかに注目しながら報告書を書いている。一方で、もともとの計画は「中心部の区間において二義的補完的とみなされる事業をやめることで、著しく見直しが行なわれ」ているようである。

 では、アテナエオについては? ハドリアヌスが126-128年頃、つまり長い旅を終えてローマに戻ったときに、カンピドーリオの上に哲学や修辞学、法学を教えるアテナエオの建設を命じていたことは分かっている。ハドリアヌスはギリシア哲学に熱を上げており、ひげを伸ばしていたのもまさに皇帝が心酔していたギリシアの風習によるものである。

ハドリアヌスのアテナエオ

 ハドリアヌス帝のアテナエオは、史料によってその存在が知られるが、これまで発見されていなかった。地下鉄C線掘削中にヴェネツィア広場で姿を現わした帝政期の階段にはどのような意味があったのか、あるいはむしろ、この階段はどういった施設の一部だったのだろうか。ヴィットリアーノ[「国父の祭壇」のこと]のまさに正面、5メートルの深さの場所で、ローマの考古学的発見の中でも最も新しい異例の発見がなされた。アテネ同様に、ローマでも討論や公演が行なわれていた場所である。

 二年前に特定された階段のまさにその正面に、同種の階段が見つかった。階段は発見されたばかりだが、残念ながら保険会社の建物の下に隠れており、そこで地中に潜り込んでいる。階段には多色の大理石床があって、観客席の役割を果たしていた。皇帝ハドリアヌスはアテネにおいて、132年建設の大図書館の脇にアテナエオを建てていたが、これはその正確な復元である。上演や討論、演説や詩の朗読を行なう講堂である。

 すべては、表面を大理石で覆ったローマン・コンクリートの最初の大階段の発見に始まった。15メートルの幅の堂々とした五段の演壇階段が、ヴェネツィア広場において地下鉄C線の出入口をつくるために掘削を行なっていたさなかに姿を現わした。

 演壇階段はジェネラリ保険会社ビルに向かって下っており、花崗岩と黄色大理石の床の前で地表に達していた。設備はどちらの側でもレンガの柱で閉じられている。この柱は崩れているのだが、おそらく地震によるものだろう。用いられているレンガはローマの「二フィートレンガ」、すなわち一辺59センチの黄色がかった正方形の厚くて大きなレンガである。柱には大規模な火災の跡が見られるが、おそらくは390年の火事によるものだろう。

 ハドリアヌスに関しては、「アクロポリスの南にはテセウスのアテネ、アクロポリスの北にはハドリアヌスのアテネがある」と言われることがよくあった。アテネでは、ハドリアヌスの図書館がフォーロ・ロマーノのきわ、北側にあった。この図書館は同皇帝により132年に建てられたもので、アテネで最も大きい建物であった。アテナエオはこの図書館のそばにあり、皇帝のお気に入りの場所であった。アテナエオについては史料の叙述から分かっている。その双子であるローマのアテナエオは、帝政期の考古学知見にとり思いもかけない援軍となった。

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黄金宮殿の皇帝ネロの秘密部屋?発見

 ローマから帰ったばっかりなのに、5/8付け情報によると、皇帝ネロの黄金宮殿Domus Aureaの修復中の2018年秋に偶然、華やかなフレスコ画で装飾された部屋に通じる穴を発見したという。そこは、責任者Alfonsina Russo女史らによって「スフィンクスの広間」Sala della Sfingeと名付けられた。AD65-68年建築とのこと。これだから、ローマは、イタリアは・・・油断できない。http://www.neldeliriononeromaisola.it/2019/05/271475/

https://www.afpbb.com/articles/-/3224521

https://www.afpbb.com/articles/-/3224521h

 気が向いたら、ネロ関係でのかつての新発見「円形回転宴会場」の記事を掲載するでしょう。

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おもしろトイレ・モザイク新発見:トイレ噺(3)

 ほんとは遊んでいる場合じゃないんですが (^^ゞ  これも遅ればせながらですが、面白いウェブを見つけてしまって。しかしこういう話題は図版や写真がないと説得力ありませんので、典拠を明記してあえてアップします。ご寛容のほどを。

 場所は小アジア半島南部の、Antiochia ad Cragumのローマ遺跡の紀元2世紀の公衆浴場内のトイレから面白い床モザイクが発見された(2018/11/2)。 

https://www.livescience.com/64000-dirty-jokes-mosaics-discovered.html;https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/search/label/Archaeology?updated-max=2018-11-14T08:00:00-08:00&max-results=10&start=839&by-date=false#yxIPrbQjzYfkfUHG.99



出土状況を俯瞰する
モザイク中心部

 左の区割りはギリシア語でナルキッソス。ギリシア神話で、水面に映った自分の美しい顔にみとれ、自分に恋い焦がれて死んだ。そのあとに水仙が咲いたので、欧米では水仙をナルシスと呼ぶ。この故事に倣いつつ、このモザイクは男根をしごいている次第。なお鼻が長いのは、当時の美術表現では醜男を表現している由。だから、水に映してうっとり見ているのは顔ではなく、自慢の男根ということになる。彼のかぶっている帽子は、腸卜師ないし占い師のアトリビュートに類似しているように見えるが、さて。

辻占い師:国立ナポリ博物館所蔵

 右区割りのテーマはギリシア語からガニュメーデース。美貌の彼に一目惚れしたゼウスは鷲に変身して、彼をさらってオリュンポスの神々に酒を注ぐ給仕にした。このモザイクで彼は酒瓶の代わりに右手にトイレ掃除用具のスポンジを持っていて、トイレにふさわしい絵柄となっている。ただそれだけではなくて、こっちの構図はなかなか複雑。たとえば彼は左手で鷲ではなくサギのような首とくちばしが長い鳥の頭をなでている。お尻の後に出ているもの(は私には最初男根に見えたのだが:こういう構図はナイル河畔風景図によく登場するピグミーでおなじみ、といいたいが、前の方に睾丸らしき袋が見えるので、ちょっと無理か)を、鳥が長いくちばしで突いているようだ(発掘者は、鳥がスポンジをガニュメーデースのお尻(より露骨に言えば、肛門)に当てている、と想定している)。

ピグミー像:国立ナポリ考古学博物館の旧秘儀の部屋前設置のナイル河畔風景モザイク(筆者撮影)

 ギリシア・ローマ時代では白鳥などの首の長い鳥は男根をあらわしているわけで、ガニュメーデースのかぶっているのはフリュギア帽となると、これはもう小アジアという場所柄もあり、自ずとキュベレの若いツバメのアッティスも連想させる。こうなると二重に男色を暗示しているように思えてしまう。なんともはや、ということで観る者の知識レベルに応じて幾重にも謎解きの読み込みが可能となる仕組みなのかしらん。

これは2018/11に公表されたポンペイ出土のレダと白鳥のフレスコ画
http://labaq.com/archives/51903082.html

 ギリシア神話をパロって、浴場やトイレの使用法には色々ありまっせと、用を足しに寄っている人たちの笑いを誘い、同時に知恵比べを挑んでもいるといえる。この手の内容は、 以前論文で扱ったオスティア・アンティカ遺跡の「七賢人の部屋」のフレスコ画と通底しているといっていいだろう。実はオスティア・アンティカ遺跡にはもう一つ、興味深い趣向を示す事例がありまして。機会があればまた紹介します。

【追伸】このブログを読んだ某君から、さっそく、ガニュメーデースの男根の描き方で亀頭が露出ているのは意味ある、とご指摘が。たしかにギリシア・ローマでの男性(神)像はおしなべて慎ましく上皮で包まれて(え〜、直接的に表現するなら、包茎で)描かれているのが常でして、これは性欲という獣(自然)的な欲望を理性で抑制できている神や人間の理想像を表現しているんだそうです。私など地中海人には包茎が多いのかしらん、とあて推量してましたが (^^ゞ、やっぱ観念論ではあきません。けど、その実証に励むのは・・・ちょっとねぇ・・・パスです。

 逆に旺盛な欲望の持ち主の場合は亀頭露出で表現されるわけです。ギリシア壺絵だとサテュロスなんかそうですよね(包茎もいるけど:下の図版は露頭型です」)。その下の、国立ナポリ考古学博物館の旧「秘技の部屋」所蔵(現在は、同一場所を整備して、年齢制限付きで公開[その実、いかにもイタリア的でして、チェックなし])のポンペイ出土フレスコ画(ヘルメスの姿を取ったプリアポス像)なんかもそうです。

紀元前6世紀半ばの壺絵:国立マドリッド博物館所蔵
(著者撮影)

【追記1】レダと白鳥のフレスコ画発見場所だが、ひょっとすると2018年夏に、第5地区で同じフレスコ画でPriapusの絵が発見されていたが、そこと同一邸宅かもしれない。 https://www.ancient-origins.net/news-history-archaeology/priapus-fresco-pompeii-0010592

【追記2】ピグミー関係ググっていたら、偶然こんなのを見つけてしまった。今回発見のと画題が似かよっている、といえなくもないような。

スペインのイタリカ、Casa del Planetarioモザイク部分

 またこんなのも見つけた。これは2017年のオークションに出たモザイクらしく、出土地等の由来は不明であるが、ホメロスの『イリアス』III.1-9を最古とするピグミーとサギcranesの闘いを描いたものとされているが(cf., Augustinus, De Civ.Dei, XVI.viii.1)、闘っているようには見えない。http://benedante.blogspot.com/2017/06/pygmies-and-cranes.html

KRA以外のギリシア語が読み取れない。有識者からのご指摘を期待したい。ΚΟΠΡΟΣなら「糞」なんだけど。下の一文もさっぱり。一種の早口言葉か

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小学生が読む古代ローマ・トイレ話:トイレ噺(2)

 2017年の2月に、見知らぬ女性からメールが送られてきた。彼女は小学生対象の雑誌を編集している由で、私のHPで古代ローマのトイレ話を知ったので、使わせてほしい、という内容だった。少しでも納税者の子弟に恩返しできればと、もちろん私はよろこんで快諾。こんなことは初体験だし。くだんの女性は後日イラストレーターの女性と一緒に大学の研究室に姿をみせ、諸々の相談となった。こうして、九大の堀先生との共同監修で、2017年4月号に総天然色(我ながら表現が古い!)の見開き2ページで掲載された。そして翌年「好評につき再掲載したいので、修正ありますか」と。そして今年もその連絡があった。主役は張れないが息抜きのコラムとしてはいい話題なのだろう。

『チャレンジ4年生わくわく発見Book』ベネッセ、で不動の12-13ページ!

奇しくも同時期に、一連の「うんこ漢字ドリル」が出現し、これはもう大反響で(私ももちろん孫向けに購入)、なんと半年後には二匹目のドジョウをねらって別出版社から「おなら」も出版された(こっちもしょうがなしに購入)。さすが「おしっこ」はまだ(というか、もう出ない)みたい。絵本「おしりたんてい」シリーズは2016年から出版されている。子供がよろこぶお下劣な身振りのドリフはかつて教育ママさんたちにさんざん叩かれたが、これも時代なのだろうか・・・。

 そんなことを思い出して久々に「古代ローマのトイレ」でググってみたら、私の2015年5月月報掲載の「古代ローマ・トイレの落とし穴」の(1)が、5番目に出てきたが((2)は15番目)、なんとなんとそれらを参考サイトに引用しているHP(https://anc-rome.info/toilet/)に8番目で遭遇できた。有難いことだ。ちなみに、1番目は「高い技術で知られる古代ローマのトイレは、それほど衛生的じゃなかったみたい」だった(その元になった英語論文は2016年1月)。こうして徐々にではあれ、より正確な情報がじわじわと拡散していくのを観るのは、嬉しいし楽しみでもある。

 それでふと思い出したことがある、某有名出版社から某著名教授(とその教え子)の名前で某翻訳書が出版され、さっそくウェブに幾つか高く評価する高名な肩書きをお持ちの人たちの書評が書き込まれた。もちろんアマゾン・コムのレビューも異口同音に称賛の嵐。だが某学術誌で書評を求められてその翻訳書を精読していた私が見るところ、出版社の宣伝文に依拠しての、まあ誤読もいいところのよいしょの内容だったので、私は、世の高名なる識者の読解力がおかしい、と辛口の苦情をレビューに書いた(もちろん書評本文にも)。これも気になっていたので昨日確認のためググって見たら、いつの間にかよいしょ書き込みは(もとより、レビューも)跡形もなく消え去ってしまっていて、驚いた。

 読んでいる人は読んでいるということか。恥を知る人がいたというわけか。しかし、素人の市井の人はともかくとして、自分の見解を修正したらそれを明記するのが、研究者たるものの矜持のはずなのだが、ささっと消して、なかったことにしてしまったのですね、と反問せざるをえない私だった。業界情報に詳しくはないが、きっとインターネット時代に対応して、ウェブへの書き込みが売らんかなの新手の宣伝方法になっているに違いない、と睨んでいる。ま、私でもそうするだろうから。

 と、まあ、他人のことは気軽に言えちゃうのだが。私自身も最近昔の発表レジメ見ていて、あれれどうして、という類いの誤記を見つけてしまった。これなど今さら訂正する機会もないわけで。気付いた人は教えてくれよな〜、と言いたくもなるのだが、層の薄さのせいか気付く人もいないわけで・・・。ひたすら恥じ入るのみ。

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先達の足跡:(3) 堤安紀

 「つつみ やすのり」と読む。私的には、ペルペトゥア関係で初めてその存在を知ったが、最近になってオリゲネスがらみの論考をお持ちになっていることにようやく気付いた。私が関連の論考を書いたときにフォローしてなくて、申し訳ないことです。以下、とりあえず知りえた論考を列挙しておくが、それ以外にフランス語からの神学関係の翻訳を5点はお持ちである。彼は、東京教育大学農学部をご卒業後、リヨン・カトリック大学で修士課程を修了されている。私より7歳年長のようである。論文は20世紀で打ち止めで、これまで2014年版のクセジュの共訳『イエス』が最後のお仕事のようだ。

  • エウセビオス『教会史』にみるオリゲネスの教育活動の枠組とその視点. 上武大学論集. 1976. 8
  • オリゲネスの『ケルソス駿論』(]G0004[).65から:歴史と自由の概念について. 上武大学論集. 1981. 12
  • オリゲネス著『ケルソス駿論』(]G0008[).68とその背影について. 上武大学論集. 1982. 13
  • アンティオキアのイグナチオ・その生涯と神学. 上武大学論集. 1983. 14
  • ヒッポリュトスの『使徒的伝承』、その共同体構造と教育. 上武大学論集. 1984. 15
  • エルサレムのキュリロスとその教育思想. 上武大学論集. 1985. 16
  • エイレナイオスの「時」の概念. 上武大学論集. 1985. 17
  • ヨハネス・クリュソストモスの教育思想. 上武大学論集. 1986. 19
  • バシレイオスの「時」の概念. 上武大学経営情報学部論集. 1987. 3
  • リョンの殉教者について. 上武大学論集. 1988. 23
  • 婦人の身嗜み:服飾と美容について:テルトゥリアヌスの神学的人間学の一端. 上武大学商学部紀要. 1992. 4. 1. 21
  • 二世紀初頭のキリスト教徒とプリニウス書簡. 上武大学商学部紀要. 1997. 8. 2. 85-118
  • ペルペトゥアとフェリキタス:三世紀初頭,北アフリカの殉教者たち,上武大学商学部紀要, 1998. 10-1. 41-62.

【補記】私が大学に入った頃の「史学概論」では、先行研究の調査がたいへん重視されていて、そこで論及されていない論点を展開してこそ真の論文である、とされていた(と、私は認識していた)。しかしそれをやっていると実際には切りがないし(対象が欧米だと、数カ国語で毎年幾つか論文・著書が際限なく公表・出版され続けるし、19世紀以来の蓄積も半端ではない)、先行研究の細道を辿って迷路に行き詰まる閉塞感に捕らわれもする。今になって思い返すと、それだけ欧文の先行研究を熟読味読せよ、という意味だったのではないかと推察するが、その袋小路で戸惑ううちに、こりゃだめだと方向転換したのが、私の場合は史料精読主義だった。原典史料が何を中心に述べているのか、それが文書研究の基本のはずが、いつの間にか先行研究者が自分の関心で書き綴っている研究論文や著書の精読で精力を消耗してしまっている、これでいいはずはない、と考えての思い切りだった(実際には、もうひとつ、原典精読主義が言われていて、こっちの壁はギリシア語とラテン語だったし、これだと今度はいつになったら論文書けるのかが不安になるというわけ)。平たくいうと、原典を読んでそこでぶつかった課題に関して論じている先行研究をフォローしちゃえばいいのでは、というわけである。

 さて、我が国で初期キリスト教を専門としている研究者はそう多くはない。であれば邦語文献は相互に味読されてしかるべきはずなのに、上記の堤氏のものにしても、少ない研究者間で相互検討されているようには思えない現実がある(具体的には註記で引用されることがあまりに少ない:これは既述の水川氏も同様である)。いわんや相互批判においては皆無に近い。これでいいのか。これは私にとって積年の疑問なんですよね。

【追記】彼が共訳したシャルル・ペロ『イエス』が届いたので、さっそくもう一人の共訳者支倉崇晴氏の「訳者あとがき」を読んだ。彼は私より10歳年上で、堤氏とは東京カトリック学生連盟(カト学連)で旧知だった由。堤氏は東京教育大のカトリック研究会でネラン神父が指導司祭だったらしい。こんなところで学連の先輩に出会うとは思わなかった。今年2月の日経新聞の「私の履歴書」で五百籏頭眞氏(私より4歳年上)が一言もそれに触れていなかったあとだったから、なおさらである。書く書かないは、そこでの経験の軽重認識の表れなのだろうか。

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ノートルダム大聖堂火災:ケルトとイスラームとゴシックと:飛耳長目(8)

 ノートルダム大聖堂火災に関連して、興味深い記事が飛び込んできた。 http://miu.ismedia.jp/r/c.do?134G_kmC_1RO_sds  
 
 とりあえず、無料読者登録をすると読めるはずです。  
 私にとってのキモは、「ゴシック」という西欧美術史的な命名は、その実「イスラーム」というのが事実であって、今回消失した大聖堂はイスラーム的建築技術を取り入れた西欧での最初の建築物だった、という点にある。  
 換言するなら、美術史においていかにもヨーロッパ建築史的見地で表現されてきたその内実は、実は先進文明圏イスラームの建築技術のパクリだったというわけ。
 これは専門家には周知の事なのでしょうが、私のような素人には新情報で、だがさもありなんとたいへん斬新な指摘でした。
 ところが、イスラム無視は自称専門家の通弊でもあるようで、たとえば、酒井健『ゴシックとは何か:大聖堂の精神史』講談社現代新書、2001(ちくま学芸文庫、2006)は、そのケルト的源泉に触れているのはいいとして、アマゾンのレビューで「建築技術の発展はイスラーム文明の流入(12世紀ルネサンス)に負うこと等もほとんど記述が無い(12世紀ルネサンスについてはスコラ学のところで触れているにもかかわらず)。完全に精神史に焦点を当てたはいいがそれで全て説明しようとしているところは,危うい」と書かれてしまっているところを見ると、無知は専門家にも蔓延しているようだ。
 一言でばっさり言ってしまうと、自分の立ち位置への見直しなしに、西欧のプロパガンダの口車に乗っかって、訳知り顔に精神史やってたら駄目でっせ、というあたりかと。自戒せねば、とつくづく思う。
  
 また、これには続きがあって、この建物から始まったもののもうひとつに「ドレミ」の和音があるそうで、それは続稿の課題だそうです。こっちも読むのが楽しみです。

【補遺】音楽の件の記事は、以下です。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56155?pd=all

【追記】私はこの火事を知った時、反射的に新手のテロではと疑ったが、その立場のウェブ記事がようやく出てきた。ま、眞相はまだ藪の中ではあるが、私が反キリスト教の過激派ムスリムだったらやっちゃうだろうな、と思う。
 https://i.mag2.jp/r?aid=a5cd4f08dd2068

【追伸2】2019/7/15発の世界キリスト教情報 第1486信に以下が。「ヘルメット姿で行われたミサを伝えるAFP通信ペレ記者」

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ケルト・メモ:(4)4000年前の沼地殺人事件

 またも 4/12に、偶然関連あるテレビ番組の後半を見てしまいました。
 BS朝日 地球大紀行 *44「4000年前から来た男、遺体の謎を追え」   https://www.bs-asahi.co.jp/wild-nature-chikyu/lineup/prg_044/ 

  2011年にアイルランドのキャシェルCashelで、土を掘っていた重機のオペレーターが、埋もれていた死体を見つけた。当初、これは殺人事件の被害者かと思われたが、それはあまりに保存状態が良いために起こった誤解だった 。  
 科学鑑定で遺体の男性は、4000年前に死んだという驚くべき結果が得られた。ではなぜ、彼は死んだのか? CTスキャンや胃の内容物の調査、そして犯罪捜査の手法を用いて謎の死因に迫る。そして見つかった証拠の数々…。  
 彼は若き王だったのか? だとすれば、なぜ彼は殺されなければならなかったのか? カメラが彼の正体に迫る。  
 (実は、昨年の9/14には、*36「沼に沈んだ遺体 2000年前の殺人事件の謎を解く」もあったようです。https://www.bs-asahi.co.jp/wild-nature-chiky u/lineup/prg_036/)  

 この番組の主眼は、沼地で殺害された男たちは王で、しかし穀物の実りが不作だったので、女神の怒りを解くべく殺された(それは、遺体に傷つけられた様子でわかるのだそうです)、その時期は、沼の有殻アメーバーの研究から、青銅器時代から鉄器時代の変わり目(前750年頃)に気候の大変動が実証された、という仮説の提出にあるようです。  
 でもそれだと、遺体の年代と1000年もずれている気がするのですが、前半を見ていないので、はっきりしません。しかし、不作の責任をとっての王の処刑というのはケルト神話的にもありえる話だなと思いました。 
 そして関連で、デンマークのを調べている内に、有名な「ヴィンデビーの少女」が骨格やDNA鑑定によって、最近では若い男性だった可能性が出てきていることも知りました(しかも、姦通の相方とされていた男性は300年も前の人物だった由)。最近のポンペイでの寄り添って死んでいる石膏像の「乙女たちの像」の少なくとも一方が男性だったことが判明したのとよく似た現象で、面白かったです。でもなんだかなあ、ロマンが・・・。
出土状況
あとから見つかった部位を含め、広げるとこうなるらしい

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ポンペイの石膏像修復で分かった新事実:遅報(4)

 遅ればせながらのご報告です。  
 2019/4/6放映のNHK 地球ドラマチック「ポンペイ 石こう像の新事実」44分を、現在オンデマンドで見ることできます。東京では15日00:00からEテレで再放送されるようです。これは2018年イタリア製作のもののようです。  
 これは石こう像の修復にともなって、DNA分析を含む、先端光学機器で分析する様子が紹介されていて、我々の研究にも大いに参考になりそうです。  
 私的にもっとも衝撃的だったのは、最後に、DNA分析から、「黄金の腕輪の家」(VII.16.22:Casa di M.Fabio Rufo e Bracciale d'Oro)出土の「家族の像」の4人の間に遺伝的関係がないこと、しかも母親と思われていた像は男性だったことが判明したことでした。また、「乙女たちの像」(I.6.2:Casa del Criptoportico)の一人は男性で、もう一人は特定できなかった、という事実が証明されたことも。彼ら二人が男性だったら同性愛者たちの可能性を発掘者たちは指摘しているようです。こういう発想はさすが同性愛天国のイタリア人の着想ですが、私にはちょっと先走りすぎているように思えて、疑問です(いかにも新聞記者が飛びつきそうな話題にしているとしか思えませんよね)。
 ともかく、ロマンティックなストーリー性が失われて、若干がっかりもしますが、話題になりそうにマスコミを意識し、見た目で判断してきた従来の研究の問題点があますことなく明確に指摘されたわけです。

http://www.thehistoryblog.com/archives/46830
これまで家族と思われていた4体の石膏像:VII.16.22
いわゆる「乙女たちの像」:I.6.2

【追伸】これまでは、もっともらしく以下のように想像されていました。http://karapaia.com/archives/52192827.html

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【追記】ぐぐっていたら、ウェスビオ山の「噴火は秋だった」というブログがあって。で、お節介ですが、それには異論もあってまだ論争中です、ということで。以下参照。坂井聰「ポンペイはいつ埋没したのか:噴火の日付をめぐる論争」『モノとヒトの新史料学』勉誠出版、2016年、pp.160-186. また、一昨年発見の落書きについて、同じ坂井先生の紹介がこのHPの「実験工房」のほうに速報を寄せられています。それまでのつなぎとして、私もこのブログの2019/7/2に書いていますので、興味ある方はどうぞ。

【余談】こんな情報もみつけました:「古代ローマの「恋人たち」 実は男性同士手をつなぎ埋葬」(https://www.afpbb.com/articles/-/3244454?pid=21624720)。こっちの研究者はいたって冷静。

イタリア半島根っこ中央のモデナ出土

原情報はこちら:https://www.nature.com/articles/s41598-019-49562-7

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万里の長城余滴:飛耳長目(7)

 これまた偶然に途中から見たのですが(こんなのばっか)、NHK BSプレミアム「空旅中国 万里の長城」)、4/6に見たテレビが刺激的でした(現在、オンデマンドで視聴可能なようです)。万里の長城を主として空撮してました。土の壁の長城が西へ西へと延びていくわけですが、その影響について、私には興味深い2つのことを、ナレーション(近藤正臣)が言っていました。

 ひとつは、長城の向こう側にいた人々は中国本土を離れると言うまでもなく、遊牧民族でした。彼らにとって、重要な財産は羊で、それは同時に食料だったわけです。羊を伴って彼らは移動してた、というのはこれまでも、まあ常識として知っていたのですが、羊が乗り越えれない壁を築けば、遊牧民は東進南進できなくなる、という理屈には初見参でした。

 もちろん、壁を壊して侵入することは可能ですが、それは部分的な侵入に限定されちゃうわけなんでしょうねえ。

 これを古代ローマ時代に適応すれば、大陸のリメスにせよ、ブリタンニアの長城にせよ、さほど立派な壁でなくとも、十分効果を持っていた、という理屈になります。これまでは、あの程度の壁では侵入は防げなかったけど、その線が文明圏と野蛮の地の一応の境界線を意味していたのだ、などと若干文明論的・精神論的に無理矢理説明されてきたわけですが、今回のテレビをヒントとしてより説得的な説明に私には思えるのでした。しかしまあ、蒙古なんかのステップ地帯と西欧の自然環境を同一視するのはちょっと引っかかりますが。それにしても考えてみると、ブリタニアの中世から近世の画期とされるエンクロージャー(囲い込み)だって、まあ石垣程度でよかったわけですよね。ともかく、この羊の動物行動学的な見方は、これまで私には欠落していた視点でした。

 第二の点は、やはり遊牧民がらみなのですが、草を求めて移動していた彼らが例年の習いで移動してきてみると、そこに長城ができていて、内側に入れなくなっている、そして内側では漢民族が農耕を始めている、という図式です。漢民族と農耕地の拡大は、中国史やっている院生がそんな発表をしていた記憶あるのですが、それと長城が関連していたというのは初耳で(しかし考えてみれば当然ではある)、刺激的でした。しかしこれはどの程度言えるのか、私には確信はありませんが、図式としては面白いなあと。

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Trierでマルクス生誕200年祭の0ユーロ札発行:遅報(3)

 ちょうど1年前のことで、遅ればせですが、以前トリーアがらみでコンスタンティヌス〇〇の1700年祭で、コインを論じたとき、きっと2018年のマルクス(1818-1883年)生誕年でもお祭りするだろうと書いたことがありましたが(http://pweb.sophia.ac.jp/k-toyota/atelier/constantinus_1700.pdf)、やっぱり同様に、今回はお札を発行しているようです。

 あわててちょっと調べてみたら(https://eurocommemorative.com/en/95-edition-2018?page=6)、この0ユーロ札ですが、この類いのお札はお土産用にやたら発行されているようで(ユーロ世界と無関係の中国のものなんかもある)、しかも他のは 3.50€くらいで手に入るのに、マルクスさんのは13.90€の値段がついています。もともとは3ユーロで発売されているのにぃ。なんてこった!

【お詫び】最初、不用意にEvernoteに記憶させていたウェブ記事をそのまま転載してしまいましたが、削除しました。そのウェブ記事は以下でした。https://www.businessinsider.jp/post-166114

【追記】注文した紙幣もどきが、フランスから送られてきた。大きさはほぼ20ユーロ札大だが、心持ち大きめ。図柄は、本物は裏表とも建物だけだが、表中央をマルクスの顔が占め、裏の右端にモナリザの顔の向かって左半分が描かれ、中央から右にかけてコロッセオやエッフェル塔、サグラダファミリアなど5つの建物としょんべん小僧像が描かれている。透かしは、表の右上に変形星形が、そして裏の中央に上下に細く入っている。紙幣の質感は本物と見まごうばかりで、Souvenirとは思えない立派なできばえ。我が国でいうと、造幣局が副業でこういうお土産モノを販売して、手間賃を稼いでいる、という図だろうか。

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