かつてこのブログでも発見報告したチヴィタ・ジュリアーナCivita Giuliana出土の馬車が修復されて、2023年5月4日から7月30日までローマ国立博物館(ディオクレティアヌス浴場)で展示されている、らしい。それが展覧会「瞬間と永遠: 私たちと古代人の間に」«L’istante e l’eternità. Tra noi e gli Antichi»でである。以下、2023/4/29掲載のパオロ・コンティPaolo Contiの報告から紹介する。私の渡伊予定は8月末からなので、残念ながら見学できないが、せめてカタログくらいは入手したいと考えている(発注済み)、いまさらだけど。
その郊外ヴィッラ遺跡は、20世紀初頭に一部確認・調査されていたが、その後残念ながら墓荒らしによって「再発見」された。その盗掘が発覚した後、発掘調査は、トッレ・アヌンツィアータ検察庁Procura della Repubblica di Torre Annunziata、文化財保護部隊カラビニエリCarabinieri del Nucleo Tutela Patrimonio Culturale、ポンペイ考古学公園の綿密な連携のもと、2017年に秘密裏に始まった。
この遺物は「新郎新婦の馬車」«Carro degli sposi»と呼ばれ、新郎新婦のエロティックな場面、キューピッド、女性像など、豊かな装飾が施されているので、ピレントゥムpilentum(富裕層が儀式や花嫁の新居に同行するために使用する乗り物)であることが判明した。
現在は博物館総局長Direttore generale dei Museiで、2018年当時はポンペイ遺跡公園長direttore del Parco di Pompeiとしてチヴィタ・ジュリアーナの作業を開始したマッシモ・オザンナMassimo Osannaは、次のように述べている。「発見時には、イタリアで同様の発見と比較できるものがありませんでした。同様の戦車は、数年前にギリシャの古代トラキアの高貴な一族の墓から発見されてましたが、それは放置されたままでした。ピレントゥムpilentumが復元・研究されたのは世界で初めてのことです」。
最後の一文はイエズス会のモットー「神のより大いなる栄光のために」(A.M.D.G=Ad Majorem Dei Gloriam)を私につい思い出させてしまった。池上氏は具体的に、メロヴィング朝の証書の約60%、カロリング朝カール大帝下での約40%が贋作と判明している、等々と数字を挙げている。中世においてこういう事実があったことはそれとなく知ってはいたのだが、ここまで高率だったら、今回つい時代をさかのぼって、我々がこれまでローマ史で「史料」として珍重してきた文書史料、はたして大丈夫なのかと思ってしまったのである。
実はこれには発掘上の先行例があった。それについて、私はゼミ論集『コンメンタリイ』21(2010年)の中で報告を掲載していたことがある。ステファノ・マンミーニ(高久充訳)「それは昼夜を問わず回っていた」p.28-40がそれである。コンスタンティヌスの凱旋門からティトゥスの凱旋門に向かう坂道のウィア・サクラの左側の丘の上、バルベリーニのテラスから2009年に「回転食堂」coenatio rotondaが出土していたのである。その紹介もいつかここにアップしたいものである。この調査は在ローマのエコール・フランセーズの協力で長年実施されてきた挙げ句のものだったのだが、今回の放送で私は初めてその中心が考古学者フランソワーズ・ヴィルデュFrançoise Villedieu女史によるものだと知った。動力源はこれまで水力と奴隷労働が想定されてきたが、番組では前者を採用している。おそらくは「昼も夜もたえまなく」を文字通りとってのことだろう。となると水源の問題等が出てくるのだが、番組ではそれには触れられていなかった(それを含め、とりあえずは、実に興味深い知見を述べている以下参照:Laura David, Marta Fedeli, Françoise Villedieu, La coenatio rotunda della Domus Aurea sulla Vigna Barberini? :Una scoperta sensazionale, sul Palatino la sala girevole di Nerone, ARCHEOLOGIA SOTTERRANEA, 8, 2013, 5-16)。
裏面の刻印MAC AVG SCのMACを、皇帝によって建設された「市場」Macellumととるか、「機械 」Machina仕掛けととるか、なかなか興趣をそそる。これまで専ら主張されてきていた前者の根拠は、(肉)市場はその中央に円形構造の神殿を持っていることが多いからであるが(代表例は,ポンペイやポッツオリ)、このコインでは2階建てとなっているのが他に見られない特徴である。そしてネロは後59年にカエリウスの丘に「大市場」Macellum Magnumを創建している(場所は現在のSanto Stefano al Monte Celio教会の場所の由:この教会は珍しい円形構造なのも、面白い関連想定)。これまで触れられる事がなかったはずの後者とすると(2階建てに注目するとこっちになるはずだから、まんざら空論ではないと思う)、聖道入口近くから左側にそれて階段を上ると神像が安置され(その背後に床回転の円筒型の基礎構造があったのだろう)、その上階が回転食堂、ということになる。このコインは第一義的にはバルベリーニの丘の食堂を示しているとしても、まず回転床が実験的に先行し、ついで「八角形の間」の回転天井が工夫された、という想定も可能に思える。
今さら言うまでもないが、ハドリアヌスの長城は皇帝ハドリアヌス(在位117-138年)の命令によって122年からブリテン島北部に東西を横断して建設が開始され、118kmに及ぶ長城完成まで10年以上を要し、おそらくハドリアヌス帝死亡時にも完成していなかった。とはいえ昨年は工事開始1900年目の節目だったのは確かである。この長城は、当時スコットランド在住の獰猛なピクト人に手を焼いた挙げ句のイングランド防衛のための北辺の軍事的境界線で、ラテン語では「Vallum Aelium」と呼ばれている。Vallum とは防壁のことで、それにハドリアヌス帝の名前 Publius Aelius Hadrianus から氏族名をとって(彼がローマに架けた橋「ポンス・アエリウス」[現在のサンタンジェロ橋]、エルサレムを再建しローマ植民地「アエリア・カピトリーナ」と命名したなど、多くの公共事業の名前にそれが使われた)、「アエリウスの長城」すなわち「ハドリアヌスの長城」と呼び慣わされてきたのも事実である。また、長城の西半分は当初、石作りではなく芝土と材木で構築され、2世紀後半に石作りに作り直されたことに付言しておこう。
Chapter 1 – On the Road: From Gades to Rome on the Itinerary Cups Chapter 2 – At the Games: Charioteers and Gladiators on the Spectacle Cups Chapter 3 – On the Border: Hadrian’s Wall on the Fort Plans Chapter 4 – By the Sea: Baiae and Puteoli on the Bay Bottles
なお、以下の本がどうやらこれらの最近の動向の始原だったようなので、これも古本で発注した。David J.Breeze, The First Souvenirs: Early Souvenirs from Hadrian’s Wall (Extra Series NO. 27), 2012 £26.00.