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チュニジアから巨大オリーブオイル製造所跡発見

2025/11/17:https://www.labrujulaverde.com/en/2025/11/second-largest-olive-oil-production-complex-in-the-roman-empire-discovered-in-tunisia/

チュニジアで、古代ローマ時代のオリーブオイル製造所跡が見つかった。帝国内で最大級の規模を誇る製造所が発見されたことで、アフリカ辺境地域の経済活動の解明に期待が寄せられる。

アルジェリアとの国境付近の、ヘンシル・エル・べガル Henchir El Begar と呼ばれるこの遺跡は、チュニジアのカスリーヌ地域にあり、古代ローマ帝国の一部だったころは、キッリウムとして知られていた。

この調査は、カスリーヌ地域のジェベル・セママ山脈の草原地帯に位置するふたつのオリーブオイル製造所を対象として行われた。この地域は気温の変動が大きく降雨量も少ないが、オリーブは乾燥に強い作物であるため栽培に適しており、ローマ帝国時代には重要なオリーブオイル供給地として発展した。

確認されたふたつの製造所のうち、ひとつ目はチュニジア最大で、ローマ帝国でも2番目の規模を誇り、梁を使って圧搾するトルクラリウムtorculariumが12基設置されていた。もう一つの施設はやや小規模だが、同様の設備が8基見つかっている。これらの施設は3〜6世紀にかけて稼働していたとされる。今回の発見が示す歴史的意義について、ヴェネチアのカ・フォスカリCa’ Foscari大学で考古学を研究し、調査チームの主要研究者の1人であるLuigi Spertiはこう語る。

「今回の調査によって、ローマ領アフリカの辺境地域における農業と社会経済組織について、新たな事実が明らかになった。オリーブオイルは古代ローマ人の日常生活において、非常に重要な生産物で、料理に使うだけでなく、身体のケア、スポーツ、医療にもオイルは活用されており、質が低いものは照明の燃料として使われていた。」

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最近の考古学情報

◎「Roman tomb with bilingual inscription found in Albania 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74053

◎「2,000-year-old Roman bridge discovered in Switzerland 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74046

◎「Herculaneum’s lavish Suburban Baths open to public 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74094

◎「Roman shipwreck uncovered in Croatia 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74233

◎「Roman mosaic found during in Tivoli 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74221

◎「Charred Byzantine bread loves stamped with Christian imagery found in Turkey 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74352

◎「Colosseum opens Passage of Commodus 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74325

◎「Roman sailor’s grave marker found in New Orleans yard 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74309

◎「Wood writing tablets found in Roman wells 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74289

◎「Update: How the sailor’s grave marker got to New Orleans 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74339

◎「Herculaneum cabinet restored for exhibition 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74551

◎「Three rare 4th c. gold coins found in Aquileia 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74629

◎「Roman pool was healing sanctuary of Asclepius 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74620

◎「Egyptian vase found in Pompeii fast food kitchen 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74603

◎「Mosaic with personified lake wearing crab claw hairclips found in Turkey 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74721

◎「Sealed Roman sarcophagus opened in Budapest 」:http://www.thehistoryblog.com/archives/74707

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ウァレンティニアヌス1世死亡場所確定か:2025/11/8

ローマ皇帝ウァレンティニアヌス1世 Valentinianus I(321 – 375年:在位364年-)は、パンノニア州(現在のハンガリー)のブリゲティオ Brigetio(現Szőny)の軍団要塞で、急死した。そこは後86年以降5世紀半ばまで、Legio I Adiutrix の駐留地だった。そこを2017年ハンガリーの調査隊が航空画像調査中に、プラエテントゥーラpraetenturaの南東部、右門付近に、東西方向に延びる大きな建物の遺構が確認された。複数の部屋から成り、アプスで終わるこの構造物は、2017年から2018年にかけて発掘調査が行われ、注目すべき遺構が発見された。それが新築の迎賓館であり、皇帝死亡場所であろうというわけである。

 皇帝死去の僅か6日後に後継者になった4歳の息子ウァレンティニアヌス2世(371-392年;在位:375年 – )の皇帝宣言の場もブリゲティオかアクィンクムかと長らく論争となってきたが、ブリゲティオのほうだろうと、発掘者たちは想定しているようだが、私はむしろ、なにしろ幼帝だったので、名目上はともかく実際には彼が居住していたカルヌントゥム近郊の可能性が大のように思えてならない。

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知人の著作紹介

 ちょっと前に寄贈されたものを紹介しよう。

 印出忠夫『<永遠のミサ>西洋中世の死と奉仕の会計学』教育評論社、2025/10、¥3850.

 註もそう付いてないようなので、さらっと読めそう。そのテーマは、ローマ帝国で神殿が果たしていた銀行の役割(だから、昔の日銀や銀行の支店なんか神殿造りで円柱装飾あったでしょ)を中世では教会が果たしていたということのようで、まあ納得できる。

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ローマ・コンクリートの強靱性検証:2025/11/20

左地図:赤印がバイアエの浴場跡

 イタリア・バイアエに残る浴場跡(かつてウェヌス神殿と誤解されてきた)でのサンプル調査により、ローマ・コンクリートの強靱性が改めて検証された。詳しくは、以下参照。

Rispoli, C., Montesano, G., Antonini, R. et al. Innovative Roman Building: Geomaterials, Construction Technology and Architecture of the Roman Temple of Venus (Phlegraean Fields, Italy). Geoheritage 17, 163 (2025). doi.org/10.1007/s12371-025-01208-z

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スコットランド出土のローマ軍砦跡出土の釘遺物について

  古代ローマ人の職人関係の碑文の検討をしていて、釘職人関係で私は初めて以下のようなエピソードを知った。

【エピソード】スコットランド最北のインチトットヒルInchtuthilに、後82/83年にGnaeus Julius Agricola総督(後40−93年:彼の養子タキトゥスは史書『アグリコラ』を残している)がカレドニア諸部族との戦闘に臨む際の軍の前進司令部として建設した。そこはスコットランド高地への主要通路の一つの起点に位置し、第20軍団ウァレリア・ウィクトリクスが駐屯し、総面積は21.5ヘクタールだった。後87年の撤退時に敵蛮族が武器に使用できないように、3.6mの深さの穴に100万本以上の鉄釘を埋め(砦構築にはそれほどの各種鉄釘を使用していたわけだ)、1.8mの踏み固められた土で覆われた状態で1950年代の発掘まで埋もれたままだった。回りは酸化していたが中心部の保存状態は良好だった。

 それについて、2012年に5本の釘に関する分析論文が公にされていた。出典は以下。MATASHA MAZIS, Five iron nails from the Roman hoard at Inchtuthil, ANU SoLLL, Occasional Paper 1 (2012), pp.1-18. ただ、機械翻訳しようとするとなぜか文字化けしたので、手打ち入力せざるを得なかった。特に成分分析に関する部分は未見であるが、概要を掴める部分を取り急ぎ報告する。

2012年5月、Derek Abbott氏は、スコットランド、パースシャー州のインチトットヒル Inchtuthilから出土した鉄釘5本をオーストラリア国立大学古典博物館に寄贈した。インチトットヒル遺跡は、1959年に古代ローマ時代の要塞跡の深い穴に埋められた数十万本の鉄釘が考古学的に発見されたことで知られている。論文著者のMazis女史は寄贈された5本の調査を依頼された(この5本の釘の詳しい流転については省略)。
 発掘隊は、1959年に87万5000本以上、重さ約7トンの鉄釘の埋蔵物を発見したが、その調査を依頼されたスコットランドの某鉄鋼会社は、それらを精査して、小型釘763,840本、中型釘85,128本、大型留め具25,088本、そして「長さ16インチ」の特大釘1,344本を数えあげた。その内の5本が今回の分析対象となった。

 考古学的および文献的証拠は、1世紀後半のブリテン島において、ローマ帝国の征服地と集落が大きく拡大したことを示唆している。推定2万人のローマ軍団兵の存在は、鉄製の武器、防具、道具の生産と維持に対する高い需要を意味していた。この時期、ローマ軍はブリテン島の西部と北部で遠征を行い、征服地に砦を建設することで征服地の強化を図っていた。インチトットヒルのような要塞は、兵舎、将校の宿舎、訓練場、病院、管理棟、工房などを備え、木骨造りの建物や泥壁といった大規模な上部構造を備え、構造上の用途で大量の鉄を必要としていた。釘が大量に製造され、理論上は要塞1つ分の必要量を上回っていたという事実は、領土が確保され、北方国境が開拓されるにつれて、新しい要塞に配備される準備として、インチトットヒルに予備として保管されていた可能性を示唆している。鉄鉱石の製錬で生じたスラング廃棄物(鉄鉱石の廃棄物)に基づくと、西暦43年から100年の間に、Weald、Forest of Dean とJurassic Ridgeといった主要な集落と生産地域をカバーするこの地方で、年間平均360トンの鉄が生産されたと推測される。この基準にすると、埋蔵された鉄7トンは、この州で生産される鉄の年間平均量の約20パーセントに相当する。これは埋蔵された鉄の量としては驚くべき量である。
 インチトットヒルの釘の経済的・社会的価値についてもう少し検討してみよう。釘は鍛冶屋にとって単純で基本的な形状であり、素早く大量に作るのは難しくないと考えられている。インチトットヒルで発見された物的証拠の中には、非対称の釘、偏芯した釘、粗悪に鍛造された釘など、製造に急ぎの作業が必要だったという考えを裏付けるものがある。釘は軍事要塞において城壁、門、その他の構造物をしっかりと固定するために使
われた実用的な物であったことを忘れてはならない。現代の鍛冶屋が手打ちの釘を製造しているのを個人的に観察した結果、熟練した鍛冶屋は、材料が既に赤熱している場合、平均して小~中サイズの釘を1本約45秒で製造できると推定している。これを基準にすると、87万5000本以上の釘を手作業で製造するには約11000時間かかる。すべての釘が現場で製造されたのか、それとも南からインチトットヒルに運ばれたのかは不明である。いずれにせよ、その量は、採掘、鉱石と燃料の準備、炉の建設、材料となる鉄の製錬など、多大な人員と資源の投入を示している。このことから、インチトットヒルの釘の製造に要した労力と、地中に埋蔵された物品の経済的価値を推測することができる。
 軍団の意思決定と問題解決能力についても考察することができる。 7トンもの鉄を埋めるという意図的な行為は、その背後にある意識的な決定に関して無数の可能性があることを示唆している。ローマ軍がスクラップ、損傷した、あるいは修理が必要な資材や装備を隠した例は数多くあるが、インチトットヒルの釘は、埋められた資材の量と、釘が未使用であったという事実で注目に値する。将来、備蓄品を回収するために戻ってくる意図があったのかもしれないし、7トンもの資材を輸送する兵站上の選択肢が限られていたため、急いで埋められたのかもしれない。全く問題のない未使用の鉄を埋めたということは、その資材が一般的に入手可能であったこと、そしてローマ軍が他の物資、施設、システムを迅速かつ効果的に活用する技術と適応力に自信があったことを示唆している。物質文化の研究者は、平釘のような物品を潜在的な「超遺物」として探すべきである。なぜなら、それらは、同時代の他のいかなる物品にも匹敵しない方法で、特定の歴史的時代の人々の知的世界への特別な洞察をもたらすからである。
インチトットヒルの鉄釘の事例を通して、私たちは帝国軍の生産、技術、組織についての洞察を得た。しかし同時に、釘の生産、解体、そして埋設を、自信、経験、問題解決、便宜といった、より具体的ではない概念の観点から論じることで、これらの遺物をより個人的な文脈に位置づけることもできた。
最後に、考古学的発見、解釈、そして保存について一言。過去を解釈できる能力の大きな弱点は、遺物の残存率が低いことである。ローマ軍団が鉄の備蓄を埋めるという幸運な決断、そして堆積条件の好条件、そして土壌の色の変化に気づいた考古学者の洞察力がなければ、私たちは今日、腐食過程、ローマ時代の釘職人の技術、そして帝国軍の組織について議論できる立場にはいなかっただろう。元の持ち主が寄贈された5本のローマ時代の釘を保管し、オーストラリア国立大学古典博物館に寄贈したので、1950年代の著名な考古学的発見への新たな関心を生み出す機会を得ることができた。保存修復と材料研究者は、物質文化の保存と解釈という責任を真剣に受け止め、物品の背後にある人間の知性を尊重し、集合的な過去についてより深く解釈し理解する機会を常に意識している。この釘に関する研究、特に釘の状態の評価と腐食状態の分析は、将来の世代が鑑賞し研究できるように遺物を保存する上で重要なステップだった。

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ローマ時代の北スペインのケルト女神

2025/11/13発信:Enigmatic Roman-era carved stelae found in northern Spain reveal an ancestral cult of Celtic female deities(https://www.labrujulaverde.com/en/2025/11/enigmatic-roman-era-carved-stelae-found-in-northern-spain-reveal-an-ancestral-cult-of-celtic-female-deities/

 私は以前、コンスタンティヌスの太陽神がペルシア起源のSol Invictusというよりも先行して、ケルト神だったのではという提言を、それなりの根拠を示しながらしたことがあるが、いつものように学界は沈黙である。

 このたび、北スペインから出土(サンチャゴ巡礼路より約30km南)の3対神像が女神でケルト神の低層流がずっと息づいていていたとする見解が提示された。「ローマ化されながらも文化的にまとまりのある地域において、先住民の信仰が根強く残っていた」というわけである。ま、当たり前といえばそれまでであるが。

左: Villosladの石板  中・右:Ortigosaの石板現況と復元描画

【追記】以前スペインの考古学博物館を訪問したとき、地元の粗い石材が使われていて、大理石が少なかったのが印象的だった。白亜のものがあってもそれらは皇帝など支配者に限られていたので、大理石を持ちこんでのことだったのだろうとか、スペインは大理石の鉱脈が薄い土地柄だったのだろうと思ったことだ。

 今回ググってみたら、スペイン大理石としては、白い筋が特徴の黒大理石「ネロ・マルキーナ」や、温かみのあるベージュ色の「クレマ・マルフィル」が産出されていたようだ。

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クリスチャン・トゥデイ情報:書店の閉店続々と

◎2025年11月10日:日本キリスト教団出版局、事業を整理・縮小へ 5月に債務超過

 関連記事として以下も:

「友愛書房」は昔、よくお世話になった。書店そのものの未来が不安視されているのだから、仕方ないが。

昔の情報も:

米キリスト教書店大手、全米170店舗閉鎖 ネット販売に一本化

キリスト教出版のミライは!? 若手書店ボーイと牧師がトークライブ

CLC、文書伝道70年の歴史に幕 コロナ影響

◎私は個人的興味で以下に関心をもった。

2025年10月31日「カンタベリー大聖堂の「落書き」プロジェクトに批判の声」(https://www.christiantoday.co.jp/articles/35292/20251031/canterbury-cathedral-graffiti-project.htm

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久しぶりのGrand、そこ出土の「いわゆるメディトリナの石碑」

 文献検索していたら、偶然以下に行き当たった。M. Michel Bouvier, Une nouvelle interprétation des stèles de Grand (Vosges), Bulletin de la Société nationale des Antiquaires de France,  Année 2012,  2006  pp. 267-282.

 その冒頭を読んで気付いた。おお、あのグランではないか。「グランは、ヴォージュVosges県にある人口500人の小さな村である。しかし、ローマ時代には大都市であり、部分的に修復された1万7000席の円形闘技場、城壁、350㎡の巨大なモザイク画を収めたバシリカ、そして無数の地下水道など、かつての壮麗さを物語る重要な証拠を誇っていた」。かの論文は、その村の円形闘技場へ続く道沿いで1841年に発見された「いわゆるメディトリナの石碑」Stèle dite de Meditrinaについて、フェリックス・ヴーロ Félix Voulotによってアスクレピオスの娘であるメディトリナ神la divinité Meditrinaを表わすものと同定されたものを再検討するものである。

 このグランはかつて温泉治療場として名を馳せていて、コンスタンティヌス大帝もここで神託を得たと伝えられているので、アスクレピオス関連のものが出てきても一向に不思議ではないのである。

 だがその後、この女性を、石鹸、菓子、チーズ、あるいはより有力な説としてビールの製造を司る女神という説も提唱されてきたが、著者の言に依ると、いずれも根拠薄弱なのだそうで、さてそんな中でどんな新説を提出しているのか、読むのが楽しみである。

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アフリカ大地溝帯の人類史における意義

  私は、かつて「文書史料の落とし穴:聖書と考古学」上智大学文学部史学科編『歴史家の工房』上智大学出版、2003年、p.196f. で、この大地溝帯とその北に小アジア半島まで伸びている死海地溝について触れたことがある。そこでの主眼は人類の「出アフリカ」だったが、最近になって、古代エジプト文明におけるこの地溝帯の有していた現実的有効性、具体的には他に比べて鉱物資源が容易に入手できたというテレビ番組に触発され、紹介したことがあったが(2025/3/17)、このたび2025/11/5発信の「ナイル川が黄金の道だった」という記事を見つけることができて、我が意を強くした。https://www.labrujulaverde.com/en/2025/11/how-gold-flowed-through-the-nile-gold-mining-in-ancient-egypt-was-surprisingly-profitable-and-the-river-its-main-source/

 要するに、古代文明は他と比べて容易に資源を利用可能な地で発生した、というごく当たり前の指摘に過ぎないのであるが。

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