投稿者: k.toyota

エルコラーノのトイレの落書き:トイレ噺(25)

 前ブログで思い出したことが。エルコラーノの「宝石の家」Casa della Gemma(Ins.or.I,n.1)には、小さい個人用トイレがあって(下図17:18は台所)、そこの南側壁に有名な落書きが残っている。ここは事前に見学許可をとる必要がある。

Apollinaris medicus Titi im(peratoris) / Hic cacavit bene=「アポッリナリスは、医者は、ティトゥス皇帝の / ここでよき排便をした」(CIL, IV, 10619)

 ウェスビオス火山の後79年の噴火時(8/24;ないし10/24)、ローマ皇帝はティトゥスであったので(79/6/24-81/9/13)、エルコラーノの埋没までの実にきわどい期間に、この家をティトゥス帝の侍医が訪れたことになる。もっとも「imperator」とは当時ではまだ「最高軍司令官」の意味が強く、第一次ユダヤ戦争でエルサレムを陥落させたティトゥスは、71/8/6以来帝位に就くまでに8年間に実に計15回も最高軍司令官の歓呼を受けているので、父帝生前においてそう呼ばれることがあっても一向に不思議ではないのであるが。

 また、この邸宅の北と東側を占めている大規模(約1800㎡)で眺望絶景なうえに豪華絢爛な邸宅「テレフォス・レリーフの家」Casa del Rilievo di Telefo (Ins.or.I,n.2:下図・写真参照)が、もしウェスパシアヌスが勝利して皇帝になった68-9年の内乱で、彼を支持した元老院議員マルクス・ノニウス・バルブスM.Nonius.Balbus 所有のものだとすると、ひょっとするとそこにティトゥスが滞在した折に(ヘルクラネウムにおいて格式的にも皇族の宿舎に最もふさわしかったはず)、同行していた侍医が隣家に逗留(分宿)したのかもしれない。いずれにせよ、この落書きを記したのがはたして侍医自身だったのか、それとも貴人逗留を記念して家人が書き込んだものなのか、謎であるが。常識的に後者の方がありえるだろうが。

この豪邸から郊外浴場に出ることできるそうなので、M.ノニウス・バルブス所有と想定されている。ちなみにバルブスとは「吃音=どもり」の意
往年の絢爛豪華さを偲ばせる最上階展望台のMable Salon(18)

 段々と、M.Nonius Balbusにも言及したくなるが、それはいずれ。郊外の浴場前の広場の彼の立像と、国立ナポリ博物館のたしか中庭列柱廊の出口近くにあった騎馬像が、今回ようやく結びついた(JuniorとSenior両人がいる)。

Filed under: ブログ

プロシュート型?携帯日時計:遅報(71)

 以前見つけていた2017/1/24の記事がたまたま目にとまったので。「古代ローマの「ハム」形携帯時計、3D技術で検証:3Dプリンターを駆使して忠実に再現、使い方や機能が明らかに」(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/012300022/)。

 以下がエルコラーノのパピルス荘から1775年に発見された現物の現況(後1世紀後半:国立ナポリ博物館所蔵)と発掘時のスケッチ。

 が3Dでの復元品に発見当時のスケッチにあった豚の尻尾状の針を設置;は豚肉のプロシュート

 私はこういう数式が必要な理系的思考はやたら苦手なのだが、私も大好きな豚の生ハム・プロシュート型をした携帯日時計Portable Sundialということで、おもしろいなと(別説としては、水筒がわりの革袋型とも;私的にはそのほうが身近な感じする)。古来携帯日時計は旅行者用に色々工夫されていたようだ(機会があれば触れたいものだ)。地中海世界では、中世修道院で修道士が時祷用に所持していたとか。

 このプロシュート型、きちんと計測すれば誤差15〜30分程度らしいが、弱点は風でゆれるので実際にはもっと不正確になるとのこと。ただ、考えてみるとのどかだったあの時代、そんなに正確さは要求されていなかったので、十分実用的だったとは思う。だがまあ私など天空の太陽の角度で推し量かればいいことと考えてしまう。当時の庶民にとっても必需品ではなかっただろうが。

 普通の日時計はこんな形で固定設置されていた。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/111000126/?SS=imgview&FD=-787263934はエルコラーノ遺跡のCasa della Gemma(Ins.or.I,n.1)の中庭設置のもの
Filed under: ブログ

告解と古代コイン:遅報(70)

「ざんげで盗みを告白:古代の硬貨を200枚返還」(2021年1月22日 12:12 発信地:ローマ/イタリア)https://www.afpbb.com/articles/-/3327768

【1月22日 AFP】伊南部ナポリ近郊のパエストゥム考古学公園(Paestum Archaeological Park)へ21日、告解で窃盗を告白された司祭によって古代の硬貨約200枚が返還された。

 告解を行った人が、司祭に硬貨の返還を依頼したという。返還された硬貨208枚のうち7枚は偽物だったが、残りの大半は紀元前3世紀から紀元後4世紀のものだった。

 イタリアの古代遺跡から盗まれた遺物が、時に何十年もたってから返還された例はこれまでにもある。古代ローマ都市ポンペイ遺跡の関係者によると、中には呪いを恐れて盗んだ遺物を返す人がいるという。(c)AFP

【コメント】この情報だけでは遺跡からの盗掘というより、誰かの収集品を盗んだものの返還というべきか。ただ、写真や動画でみる限りは保存状況はよくないので、本来の収集家のものとは思えない。パエストゥムなら、ギリシアとローマの貨幣は出てくるだろうし。実は伝聞情報だが、どうやらポンペイにも街の中にこういったものを扱っている場所があるようだ。古物商は本物に偽物を混ぜて売ろうとする。私も、シリアやエジプトでは子供が売りつけに寄ってきた経験がある。粗悪品ないし偽造品だったが。イタリア南部のどこだったか、劇場跡の住居の住人の青年が「掘ったらコインなんか出てくるよ」と言ったら、「そんなこといっちゃだめ!」と慌てて母親がたしなめたことがあったので、まあ地下掘ればなんか出てくるイタリアではみなさんおやりになっているとも言える。我々外国人がそれをすると懲役25年だっけに処せられるらしいので、私は現地で購入した場合必ず領収書もらうようにしている。でもそろそろイタリアで官費で老後を過ごすにはいいかも、ね。

Filed under: ブログ

ポンペイ近くで馬車発掘

知人からの連絡で知った。2021年 2月27日発表:ポンペイ遺跡の北にあるCivita Giuliana(Porta Vesuvioから直線で750m)で発見。3年前に3頭の馬が発掘された厩舎の玄関から出てきた由(http://pompeiisites.org/en/press-kit-en/the-excavations-of-civita-giuliana/;https://gigazine.net/news/20181225-pompeii-third-thoroughbred/)。

日本語で読める記事と動画:https://www.afpbb.com/articles/-/3334024

黄色線がポンペイ遺跡、上の黄色〇印が発掘地点のCivita Giuliana
こういう青銅製装飾から、結婚式で使用された馬車と想定されているようだが、さて

【追伸】以下、在イタリアの藤井慈子氏による新聞記事等からの続報。「座席から麦の穂の痕跡が確認されたことから、Cerere(豊穣の神ケレス)信仰とかかわる可能性が浮上し、このCenereがポンペイではVenere(ウェヌス)と共に信仰を集めていたことから、ケレスとウェヌスなどにかかわるsacerdotessa (女祭司)が同別荘にいたのでは、という説のようです。ただ単純に豊穣のシンボルである麦の穂が、祝祭(結婚式?)の前か後に残っただけではという説も出されています。私的には、後者の方が自然のように思われますが(ケレスとウェヌスの 信仰にかかわるものなら、青銅製メダルの浮彫に、それらの図像が施されてもいいような、、、麦の穂だけでここまでいうのかな?という印象を受けました が、先生はいかがでしょうか)。また、同じような移動用の馬車の出土は、Casa del Menandroから1点、Villa Ariannaから2点確認はされているが、とても比較の対象ではなく、唯一類例として挙げられるとしたら、15年前にトラキアの墓から出土したもの(南ギリシア、ブルガリアとの国境付近)があるそうです。」

【続報】その後、発掘がすすんだようだ。以下の画像の次に3D映像も(ここから行けるはず。拡大してみるとすごい迫力!:https://twitter.com/pompeii_sites/status/1365735037262585857?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1365735037262585857%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fimperiumromanum.quora.com%2F%3Fni%3D0nsrc%3D4snid3%3D18406889849tiids%3D22748989:2021/2/28)。

Filed under: ブログ

うんちの行方と緊急事トイレ:トイレ噺(24)

 最近出版されたトイレ本。新コロナのさなか、色々現地調査しての報告が主体で、災害時など現代的な課題に対して具体的な数字をあげ、提案していてくれているのがいい。本書の最大特徴は現場主義で、これまでの机上の空論の諸先生の作文にない臨場感を感じられることができた。私はこれ読んで、下水道の合流式と分流式の問題点も判明して、すっきり。市場的にはTOTOが一人勝ちしている状況の中で、本書ではLIXILの先端的な試みが目立つのは頼もしい。速読可。

 私もこれを読んで、とうとう簡易トイレを購入することにした。各種ググって見ると、凝固剤や臭気の問題があるようなので、若干高めのものにしたが、実際使ってみないとわからんなあ。夫婦二人で一週間を目安に100回分、保存15年とかで、まあ我ら夫婦にはこれで十分かと、あ、保存的にね(直後、トイレに行ってタナを見たら、すでに別のメーカーの50回分を購入済みだった:こりゃもう認知症じゃ〜。ま、多々益々便ず)。

 うちの嫁さんは、地震で壊れた家の中に取りに入れるの?、あぶないじゃないの、とネガティブだが、生き残った場合を想定してあれでも準備しておかないとね。避難所のトイレ待ちなんかすごいらしいし。

 この本には、その他にも緊急事における「マンホール・トイレ」の情報なんかもあって、有用である。下水用マンホールの下は下水道に直結なので、一応(耐震化する必要あり)問題なく使えるわけだ。

個人用にも9万円弱で入手できるが、勝手に設置はできないだろうし

 こんなものもみっけ。実はイタリアでナヴォーナ広場に面した留学生対象の施設に1年間いたとき、同階居住のアメリカ人女性は朝大学に登学する前にシャワーを浴びるので、二人連続して使用された場合(その階には我ら三名に共用バスルームが一つしかなかった:あとで考えれば別の階にいけばいいだけのことだったのかもだが)、我慢できずに、小はペットボトルを切って、大は黒のゴミ袋をゴミ箱に二重に重ねて、対応したことが一度あったので、まあ想定内:もちろん大は例の共同ゴミ箱に生ゴミとして棄てましたが、何か問題が? (^^ゞ。

左がペットボトル利用の簡易小用器;右はイタリアの街頭の各種分別ゴミ箱:ゴミをいつ捨ててもいいので実に合理的、これを収集車が早朝に起重機で持ち上げてゴミを収集していくので、結構な音がする
Filed under: ブログ

聖フィリッポと聖小ヤコブの聖遺物調査:予想通り残念な結果

 【2021/2/1発信】イタリア・ローマのヴェネツィア広場から発して南北に突っ切っている直線道路がコルソ通りだが、その一本東側の大通りを入って右側奥に巨大な列柱廊が特徴の教会がみえる。これが聖十二使徒教会 Basilica dei Santi XII Apostoliで、500年間フランシスコ会厳格派(コンベンツアル)の拠点となっている。

        ↑コルソ通り    ↑聖12使徒教会      

 そこに保管されてきた聖遺物が、後6世紀以来、十二使徒のうちのフィリッポと小ヤコブのものと伝承されてきた。具体的には、小ヤコブの大腿骨破片と、フィリッポのミイラ化した足破片と頸骨破片である。これらがいつ、どこから将来されたのかという聖遺物の移葬事情は不明である。今回、南デンマーク大学教授Kaare Lund Rasmussenを中心にした調査団が聖遺物調査にチャレンジした。その結果は以下のようだった。

左、小ヤコブの大腿骨断片関係、右がフィリッポのミイラ化した足

 フィリッポのものは、除染がむつかしく、放射性炭素年代測定できなかった。

 小ヤコブの大腿骨の年代測定には成功し、後214-340年と数字が出た。よってこの骨は小ヤコブのものではなかったわけである。ラスムッセン教授は、誰の骨であったのかは不明であるが、小ヤコブの骨と信じていずれにせよキリスト教徒の墓地から採取されたに違いない、と話している。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/02/scientific-investigations-of-believed.html

【付記】この教会の祭壇前に巡礼者用の地下クリプトへの階段がある。そこにはカタコンベを再現した碑文やフレスコ画がもっともらしく飾られていて、アッピウス街道まで足を伸ばせない観光客にはそれなりに雰囲気を楽しむことができるので、ぜひ見学してほしい。

上からクリプトを見下ろす
あたかも、カタコンベのごとし

Filed under: ブログ

宇宙トイレ:トイレ噺(23)

 最新のNational Geographic日本語版で宇宙トイレの話がコラム的に載っていた(2021年2月号「無重力でも快適な宇宙トイレ」)。それによると、水分は回収されて再利用される(なんと98%もだそうだ)。ゆえにキャッチフレーズは「今日のコーヒーは明日のコーヒー」。

 それで気になってぐぐってみると色々みつかった。ここでは以下のみ引用しよう。「新しい宇宙トイレ、国際宇宙ステーションに向けて出発:開発費は約24億円、女性宇宙飛行士の利用にも対応」(https://www.timeout.jp/tokyo/ja/ニュース/新しい宇宙トイレ-国際宇宙ステーションに向けて出発-100520)。写真もそこから。

Filed under: ブログ

使徒ペトロの痕跡?:Ostia謎めぐり(5)

 オスティア遺跡には、色々の宗教施設の痕跡も発掘されていて、各種東方密儀宗教のほかにも、キリスト教教会堂跡とユダヤ教シナゴーグすらあるし、墓地においても古来の火葬墓と3世紀以降の土葬墓の両系を見ることもできる。ここでは、そういう公然とした施設ではなく、私邸においてキリスト教の痕跡とされているものを紹介したい。問題の場所は、III.ix.1の「ディオスクリ(ディオスクロイ)の邸宅」Domus dei Dioscuri である。Russell Meiggsはこの邸宅の持ち主に、355年の道長官で、365/6のローマ都市長官だったC.Caeionius Rufus Volusianus Lampadiusを想定している(Roman Ostia, second Ed., Oxford, 1973, p.212)。そして、彼の一族は北アフリカに所領をもっていたこともあり、本邸宅のモザイクも若干平面的な北アフリカ風であるとしている。

 ここには我々の2009年夏の現地調査時に堀賀貴・九州大学教授のグループの3Dレーザー測量が入り、下図の「I」(大広間)が実測された。そこはいつ訪れてもほぼ完璧に床は保護シートと土砂によって隠されていたが(ところがいかにもイタリア的現象なのだが、一応隠しているが見たいと思うところは見ることできたりするのだ。中央部分だけいつしか破れていて、おやおやまあそこがこの部屋のモザイクのもっとも肝心なVenus Anadiomeneの顔の部分で、まさしくそこだけ覗けるようになっていたのであ〜る。勝手知ったる誰の仕業か、観光客にとってありがたいことだが、笑うしかない)、この調査のため土砂があらかじめすっかり取り除かれ、私が訪れたとき,縦横10m超の鮮明な多色モザイク舗床全体が夏の強烈な太陽のもとに晒されていて、若干立体感には乏しかったがそれなりに壮観であった。その全景は堀教授のウェブで見ることができる(現在は一時的に見れなくなっている:是非以下の報告も参照してほしい。モザイクの製作工程解明にも触れていて、なにより分析視角が斬新なのだ。堀賀貴「オスティア・ディオスクロイの家におけるヴィーナスを描いたモザイクの制作過程に関する復元的考察:オスティア・ローマ都市研究1」『日本建築学会計画系論文集』第77巻第671号、2012、pp.173-181:https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/77/671/77_671_173/_article/-char/ja/)。

上が北:この大広間は南北10.6m×東西10.3mのほぼ正方形の広さ
西南から撮影(2009/9/7):奥の中央右が「L」の出入口
上が西(堀研究室提供の平面加工図):銘文はシュロと月桂冠の間に「PLVRA FACIATIS[・・・]MELIORA DEDICETIS」(汝らより多く[・・・]をなせば、汝らより良きもの[財産]を申告できよう)

 ところで「紹介したい」と書いたが、実は私はそれをこの目で現認することができたわけではない。その存在が報告されていて、その実見を希望したのだが、遺跡管理事務所から何の返答もなかったので、なにか不都合あるのだろうと忖度して引き下がるしかなかったのだ。

 この邸宅のモザイクに興味を持つようになったのは、私の当時のもうひとつの研究対象、ウァチカン・サンピエトロ大聖堂の地下マウソレオのCampo Pの「壁面G」上の落書きがらみで、あの押しの強い碑文研究者Margherita Guarducci女史編纂の史料集掲載の写真に出会ったのがきっかけである(I Graffiti sotto la Confessione di San Pietro in Vaticano, Vatican City, 1958, p.411:この本、現在山積みの梱包発掘調査中 (^^ゞ )。そこには、イエスの筆頭使徒ペトロ(彼はイエスから天国の鍵を授けると言われていた:マタイ福音16.13)の名前(PetrosのPとE)で鍵を暗示した組み合わせのキリスト教的モノグラムが読みとれる、とされる写真が掲載されていた。かく、グアルドゥッチ大先生はローマ首位権論者なのであ〜る。

典拠:Margherita Guarducci, La Tomba di Pietro, Roma, 1959
Giovanni Becatti, Mosaici e pavimenti marmorei, Scavi di Ostia, IV(Text), Roma, 1953, p.115-6, n.214;cf., SO, IV(Tavole), Tav.XLVII, n.214:DOMUS DEI DIOSCURI.

 このキリスト教シンボルとおぼしきモザイクは部屋「I」にではなくcubiculum「L」の西壁際の一角に黒地に白のモザイクで穿たれていて、そばにシュロの葉が添えられている(Angelo Pellegrino, Ostia Antica:Guide to the Excavations, Roma, 2000, p.57:ここも保護用シートと土砂で覆われ床モザイクは見ることできない:管理事務所としてそこまで保護土砂を掘る用意がなかったのかもしれない)。この邸宅の名称のもとになったのは部屋「H」の床モザイクに航海の守り神であるディオスクロイが描かれているからであるが(「使徒行伝」28.11:「(パウロが乗船した)この船はディオスクロイの印をつけていた」)、よって家主はもともと貿易商か船主ではないかとも想定され、研究者によっては、モザイクはその家、その部屋にペトロが滞在した記念にはめ込まれた、とまで想像をたくましくしてゆくわけ。

ディオスクロイとは「ゼウス神の双子の息子たち」の意。

 ちなみに、この邸宅の現状は壁体から2世紀以降の建設と考えられているので(ちなみに、ウィーナス・モザイクは4世紀後半の作)、紀元後64ないし67年頃処刑死したペトロの事績が、どうしてこの部屋と結びつけ可能なのか、私には納得できない。むしろ、キリスト教徒のモザイク師(だいたいが奴隷だったはず)が隣室の華美な異教的造形に対し、密かにそして控え目に対抗して埋め込んだとする説(Becatti, op.cit. (Text), pp. 115-6;Carlo Pavolini, Ostia, Bari, 1983, p.160)のほうが妥当な気がする。こういうところ、多分にイタリア人好みのストーリー性がかった感じもしないでもないが。グアルドゥッチ女史と異なる全くの別説としては、PEを、pe(rpetuo)=「永遠に」、p(raemia) e(merita)=「恩賞に値する」、p(alma) e(t) l(aurus)=「シュロと月桂樹」等といった非キリスト教的な読み取りもあって、まだ決定打に至っていないように思う、というよりこっちのほうが一層中庸的解釈とも思えるんですけどねえ、グアルドゥッチ先生。

【補遺】次の写真は2003年夏撮影のもの。いつ行ってもこんな調子だから写真もほとんど撮っていない。

奥の左側出入口が「L」で、右が「M」
実測直前の大広間「I」を北西から見る(2009/9/1):中央がめくれている;奥の出入口は左が「M」で、右が「N」

【付論】もうすぐしたら堀教授編著の論文集が出る。彼とはここ10年、Pompeii, Ercolano, Ostiaの調査でご一緒させていただいたが(何を隠そう、彼の遺跡実測能力が我々の調査を可能にしてくれてたわけ)、彼はそれ以前からPompeiiでの調査をしていて、私のような建築学に疎い文獻学徒にとっては有難い現場教師だった。私は同行中の彼のさり気ないつぶやきから学んだことが多い。たとえば、以下の写真のような階段遺構が意味すること、それは邸宅内の「内階段」と街路に面した「外階段」の違いから住居人を区別するという、考古学や建築学では初歩中の初歩の知識であろうが、私にとっては不意を突かれ、とても新鮮な指摘だった。

左は外階段(エルコラーノにて2016夏):踏み台が高すぎてベンチと化している。駄馬荷下ろし専用かと思ってしまう;右はポンペイ(I.vi.15)の内階段

 これまでの自称研究者たちの論述(その多くは横文字からの剽窃)と比べての彼の最大特徴は、継続的現場主義ということだろう。二〇年近く毎年現場を訪れて、3Dレーザー測量を武器に実測を実施してきた。継続的に現場に立つということは、行きずりの研究者には不可能な、あれはどうしてなのかという疑問の持続と、実測データの検証をもとにした、ああでもないこうでもないという無数の仮設の挙げ句の、あるときひらめくオリジナリティーに富む解答にはじめて到達可能、ということなのだ。定点観測的な年期というものが研究の深みに絶対必要、との私の確信もそういった体験から生じている。

 だからそれは借り物の知識ではない。こんな体験もある。Ostiaでかろうじて一階部分の壁体が残っている場所で、彼は「この壁は45センチですので、おそらく二階ないし三階建てだったったのでしょう」と言った。そこで私は一階建てだと壁は30センチあれば十分だが、上階があると45センチ必要で、60センチなら三階以上あったと見ればいい、といった豆知識を獲得することができたわけである(結果的に、これはローマ尺単位と連動しているというおまけ付きでもあった)。で、数年後、今度は私が彼の前で「ここ45センチなので」と訳知り顔で紋切り型知識を披露したら、「そう言われているけど、本当でしょうか」ときた。常識を押さえつつも、彼はなにごとによらず鵜吞みせずに反芻していることが、それでわかった。

 こんなことがたび重なるうちに、オスティア遺跡全体の実測調査が一応完了した数年前から彼はとんでもないことを言い出した。オスティアは水没を前提に立てられた古代都市である、と (2014年1月31日の冠水写真参照:https://www.ostia-antica.org/archnews.htm。実は彼もこれを現地で目の当たりにしているのを、私は彼からの報告で知っているが、当時の責任者との約束を堅く守って未だ彼は口外しないので、私がしゃしゃり出ておこう)。

このときは20センチの冠水でこの有様だった(左は東西大通り、右は劇場内)

それをポイント箇所を回りながら滔々と開陳される。無知な私は気のきいたこともいえず、ただ黙って聞くだけだったのだが、そんな私でもそういえばと気付いたことがある。「ユピテルとガニメデスの邸宅」(Domus di Giove e Ganimede:I.iv.2)出入口の敷居の高さなど、どう考えても普通ではないのだ。南北のその角地付近と東西のダイアナ通り北側の高さは、とてもでないが踏み台がないと入れはしない。すなわち人間工学的に作られたのではないことが明白である。もひとつ、私もずっと「?」だった構造物が「七賢人浴場」のそばにあるが、その謎解きは堀先生の著書のおたのしみにとっておこう。こうしてみると水没を前提にしているという説はなるほど説得力がある。しかも世界レベル的に新見解なのである。それを可能にしたのは遺跡全体のレーザー測量データである。

左写真の左奥が「ユピテルとガニメデスの邸宅」出入口で木造の、右写真がダイアナ通り北側で、展望台への階段場所のみに石の踏み台が現在設えられている:昔はすべての出入口にあったはず

 そうそう、「ユピテルとガニメデスの邸宅」についても触れなきゃ。この作業で思い出してしまったが、書き残しておきたい話はまだまだ一杯残っている。でも写真の整理だけでもたいへんという現実もある。

Filed under: ブログ

うんちビジネスの今:トイレ噺(21)

 これも偶然だがようやく知った。2018年あたりから話題になっているようだ。「「便はダイヤモンドより価値がある」:起業したサッカー元日本代表の挑戦」(https://mainichi.jp/articles/20210122/k00/00m/050/229000c?cx_fm=mailhiru&cx_ml=article&cx_mdate=20210125)。

 ググって見たらウンチビジネス関係がかなりアップされている。腸内細菌がらみで、「茶色いダイヤ」とかアプリ「ウンログ」の開発とか・・・(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/04/ni150.php)。2013年には「日本うんこ学会」も結成されていたようだ(https://unkogakkai.jp/about-us)。ま、トイレ止まりの私はそこまで遡及追跡する予定はないが。

 以前、『うんこ漢字ドリル』が大ヒットし、類似商品が色々出た。これも立派なウンチビジネスかも?。今回ちょっと調べてみたら面白い動きがあった。一つは絵本、も一つはトイレ専用カレンダー。

 リビー・ドイチュ作、バルプリ・ケルトゥラ絵『旅でみる世の中のしくみ大図解』ポプラ社、2020年;(株)イオンファンタジー編集『Whose poo? だれのうんち:2021 CALENDAR』。後者はどうやらアンケートに回答したらもらえた非売品らしい。私はヤフオクで手に入れた(まだあるようですよ)。我が家でもトイレにぶら下げようかな。でも具象的でないので、便通に悪いかもね。

【付論】失せ物探しで梱包を探っていて出てきた。↓ 観光大国イタリアでは「Pisello(ちんこ)ビジネス」もありなのだ。一年間住んだのがナヴォーナ広場だったからいやでも目に入る。なかでも、ミケランジェロ作ダビデ像の前掛けなど、さすがの私も恥ずかしくて買えなかったものもあったが。

 ここで紹介するカレンダーは縦12cmの小さな1994年版だが、表紙は件のダビデ像のもの。月別であれこれ写真が変わる。カレンダーだけ代えて今も販売されているはず。右はトレビの泉の土産物屋で同行の女子学生がみつけたちんこパスタ(正直、私の眼にはとまらなかった、信じないかもだが本当である)。私は教材用に買って保存していたが、彼女は日本に帰るなり食したそうだ。文字通り肉食女子! 

 

Filed under: ブログ

40年振りに公開:パラティヌス丘Domus Tiberiana

 久し振りに恒例の考古学ニュースのチェックをしたら、今年の後半に、 パラティヌス丘の中のDomus Tiberianaが40年振りに公開されるそうだ。ここは現在ファルネーゼ庭園となっている場所であるが、新発掘の部屋やプールも含まれているらしい(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/01/romes-domus-tiberiana-to-reopen-after.html)。私的にはDomus Augustianaのほうを公開してほしいのだが。

上が北。数字的には上図の左側中央の「17」の場所
逆に、北方向から南を見る

 秋までにコロナが沈静化していることを期待したい。

 世の中コロナ騒ぎで停滞が多いが、他にも、ポンペイ出土で国立ナポリ考古学博物館所蔵のアレクサンデル大王のモザイクが修復に入った(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/01/pompeiis-alexander-great-mosaic-set-to.html)といった情報もある。

Filed under: ブログ