投稿者: k.toyota

水中考古学のウェブ発見!:遅報(79)

 別件でググっていたら偶然見つけてしまった。山舩(ふね)晃太郎「水中考古学者と7つの海の物語」(https://suichukoukogaku.com/athlit-ram/)。

 ごく最近本も出版されたようだ。さっそく注文しなくては。『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』新潮社、2021/7/15。この分野ではちょっと前に元寇関係が話題となっているが、地中海が主体なようなのでうれしい。

 このウェブ、まだ少し覗いただけであるが、老人にはときに目がちらちらして刺激的な漫画チックな色彩もあるが、なかなか意欲的な内容である。私も現役時代から沈船研究の重要性については学生にそれなりに熱っぽく述べてきていたつもりなのだが、誰も飛び込んでくれなかったので、わが日本にいつの間にかここまでやっている人物がいたとは驚きだった。気になったので著者をググって、二度驚いたことに研究上の知人の教え子だった(https://yab.yomiuri.co.jp/adv/hosei/graduate/vol32.php)。私には感化力がなかったということかぁぁ。

 山舩氏は1984年生まれの、まだ37歳。若いだけにこれからが楽しみである。三Dモデル関係で会社も設立しているようで、抜かりもない。というか目先が利いている。アメリカでの修士論文(2012年)はなんと南蛮屏風、これは三度目のビックリだった。一面識もないけれど、影ながら応援したいと思うが、すでに世界的に実力が認められているらしいので、なにをか言わんやだ。

 とりあえず以下でベネツィアでの沈船調査が読める。https://bunshun.jp/articles/-/46647

【追記】水中考古学に関しては大先達がいらっしゃった。私も持っていた中公新書の著者で、井上たかひこ氏。私より4歳年上で、あれれ、出身大学は山舩くんと同じ法政大学、ただし経済学部だが、なんと留学先も同じだったとは(https://koken-publication.com/archives/653)。ご両人に共通するのは、一念発起したからには体当たりで突き進む馬力のような気がする。

 また書籍をググっていたら、以下も見つけた。そろそろこの分野、旬なのかもしれない。いやそうであってほしい。中西 裕見子・片桐 千亜紀『地中海の水中文化』(世界の考古学)、同成社、2020年。これは大学図書館にもあった。

【関連で】

 古代ローマの商船の3D画像作成。いい時代になったものだ。

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ヴェローナで今度は火災に遭った邸宅出土。

 昨年紹介したかものヴェローナから(郊外のNegrar di Valpolicellaで後3世紀にさかのぼるヴッラからモザイク発見:

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/05/roman-floor-mosaics-brought-to-light-at.html)、今回は、1930年代の映画館で、20年以上放置されていて改装中のAstra cinemaの地下室から紀元後2世紀の大規模な構造物がフレスコ画の残った壁とともに出土した。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/06/ancient-roman-building-with-magnificent.html

 発掘者たちは、屋根が崩壊し焦げた木製家具が出てきたので、火災後放棄されたと見ている。

 以下、動画参照:

 映画館建てたとき、地下室掘ったわけだから、遺跡があるのは当然分かっていたわけであろう。

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イエスのエルサレム巡礼路をさぐる

 昔予約していたBiblical Archaeology Reviewからときどき情報メールが届くが、今回は表記だったのでちょっと興味を引かれた。特権階級は別として、庶民や貧民にとって、年に3回の大祭への参加は一生に一回だったかもしれないが、古代ユダヤ人がガリラヤ地方からどのようなルートを通ってエルサレム巡礼をしていたのかは、ユダヤ教徒にとっては神聖な宗教行事だったはずなのだが、なぜか詳細な記録が残っていないらしい。歴史史料にはこういった奇妙な欠落がよくある。当時あまりに普通だったせいだからで、となるとヨハネ伝の叙述は特例だったことになる(ユダヤ地方からガリラヤへの逆コースだったが)。それは4.4にわざわざ「しかし、サマリアを通らねばならなかった」と特記されていることでも傍証されるだろう。4.1で出てくるファリサイ派の追跡を逃れるためだったのだろう(周知のように、こういう読み方はヨハネを読むときいつも正しいわけではないが、ま、とりあえず)。

 たとえば私が豊島園から四谷にどの経路をとっていたかなんて、ことさら記録していないから他人には不明だし興味もないだろう。傍証で、このブログを読んでいる熱心な読者であれば、新宿経由ではなくて、代々木経由ということはわかるだろうが。

 以下、Dr. Jeffrey P. Garcíaの小論から。ガリラヤ地方からの巡礼路には都合三ルートあって、ヨハネ伝4章を見ると、イエスはあえてサマリア経由を採用した時もあったような記述がなされているが(最短路で徒歩で3日)、普通のユダヤ人はサマリア人との摩擦を避けて別の東西ルートを使っていた、ということらしい。東道は5〜7日、西路は最長期間(日数は書いてない)を要したようだが、著者は通常の巡礼路としてはこの海岸沿いを支持しているらしい。https://www.youtube.com/watch?v=p8_V47huAqE

https://i0.wp.com/www.biblicalarchaeology.org/wp-content/uploads/2021/07/Pilgrimage-Map.jpg?ssl=1

【追記】以下は、2019/9/24にニューヨーク市にあるNyack Collegeでの講演:https://www.youtube.com/watch?v=p8_V47huAqE

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象とラクダ:オスティア謎めぐり(10)

 オスティアがらみのお役人関係を探っていて、面白いテーマを見つけた(いまさらだけど (^^ゞ)。

 オスティアのネクロポリス(って、イゾラ・サクラ? それともローマ門?)からフラウィウス朝時代の宮廷解放奴隷 T.Flavius Stephanusの葬祭碑文が出土して、銘文には彼の官職名「PRAEPOSITO / CAMELLORVM」が、そしてその下部に鼻でX形状の二本の棒を操っているらしい象一頭と、その両側にラクダが対で描かれている(https://www.ostia-antica.org/severiana/severiana-10.htm)。彼は、オスティア近隣のLaurentum(昔のラウィニウムに近いラティウムの森:ユウェナリス『諷刺詩』XII.100:arboribus Rutulis et Turni pascitur agro)にあったと想定されている野獣収容施設で、ラクダの飼育管理に従事していたのだろう。フラウィウス朝となると帝都ローマの円形闘技場の落成公演やドミティアヌスの競技好きとかで、野獣の需要は半端でなかったはずなので、この施設、さぞや大規模だったのだろうと想像してしまう。

銘文下部に描かれた動物たち

 もちろん、オスティア遺跡内の協同組合広場のStatio 14と28にはモザイクで象が描かれているし、この広場からやっぱり象が登場する落書きも3例発見されている(https://www.ostia-antica.org/piazzale/p-contents-inscriptions-frames.htm)。

 さらに1935年には、いわゆる「小プリニウスの別荘」の北1500mから、一頭の象の骨格(化石ではない)が発掘されたほか、オスティアの北西部の小川の近くから一頭のラクダの骨も出土した由(こっちは写真等未確認)。ひょっとして、このラクダ、見世物だけではなく運搬にも利用されていたのかもしれない。

これは象さんのほうの骨

 そういえばコンスタンティヌスのアーチ門西側レリーフにもラクダが描かれているが、これはトリーアからのローマ遠征軍での使役獣だった。また、エルコラーノの遺跡からも(V.1:Casa Sannitica)コブなしだがラクダらしき落書きが出てきている。これはラクダが珍しくないからなのか、珍しかったからなのか。

、コンスタンティヌスのアーチ門;、ヘルクラネウム、V.1

 またポルトゥスからは、ライオンの入っている檻を運んでいる船がオスティア灯台を通過しているレリーフも発掘されている。

 こうして、帝都ローマでの野獣狩りが、考古学遺物からも立証されたわけである。なにより、地中海対岸から運び込まれた野獣たちの収容施設がオスティア近郊にあって、それなりに厳重に管理されていたことを知ったのはいい勉強だった。

【追記】別件で探索していて偶然見つけた。「Ivan Bogdanovi, A Camel Skeleton from the Viminacium Amphitheatre」(file:///Users/kojitoyota/Downloads/VukovicS.andBogdanovicI.-AcamelskeletonfromtheViminaciumamphitheatre.pdf

 それによるとラクダの遺骸は、イタリア、イベリア半島、フランス、ベルギー、 スイス、ドイツ、イングランド、オーストリア、スロベニア、ハンガリー、セルビア、ウクライナおよびブルガリアのローマ時代の遺跡、要するにローマ帝国全域で発見されていて、Viminacium地域では実に14、そのうち13は円形闘技場で、そしてすべてはフタコブ・ラクダとその雑種であり、ヒトコブ・ラクダは発見されていない由である。生息地からすると若干意外で奇妙な出土結果としか思えないが、ご当地ではフタコブ・ラクダのほうがより珍しかったからこそなのかもしれない。それにしても、小アシア半島なんかがフタコブ・ラクダ生息地だったとは知らなかった(これって、ひょっとして現代の?)。

生息地:、ヒトコブ・ラクダ;、フタコブ・ラクダ

 別件でたまたま目についた以下は、イスラエルのガリラヤ湖西岸に位置するフコークHuquqのシナゴーグの、ノアの方舟に動物たちが雄雌一対づつ乗船する場面を描いた舗床モザイクであるが、まあ地域的にも当然のことながら、ヒトコブ・ラクダが描かれている。右の大きなネズミ・ミッキーマウスと見まごうのは象なんだよな。耳が立っているのが変。

2012年発掘、5世紀の作
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先達の足跡:(6) 合阪學

 まだご存命であれば80代半ばと推察するが、彼が書かれた以下が単著として出版されることを願っている。

 「エウギッピウス『聖セウェリーヌス伝』の研究」『大阪大学文学部紀要』30,1990−2,335PP.

 合阪先生の研究分野は古代ギリシアから共和政ローマと思っていたので、私的には前触れもなく、紀元後6世紀のエウギッピウスが書いた師セウェリヌスの伝記の出現には大いに戸惑った記憶がある。最初は見て見ぬ振りしていたが、学部用の授業でテキストに選んで通読して、見直した。古典学の手法を使って、キリスト教の知識もきちんと押さえた内容であることが分かったからだ。

 あわてて古書検索をかけたが当時すでにかなり高額となっていたので、購入は諦め、阪大のリポジトリでpdfを落として、授業でもそれを利用した(KJ00004305051)。今となっては古書にも出ていないが、無理してでも押さえておけばよかったと思う。掲載が紀要なので、図書館にこのまま埋もれさせておくにはもったいない、多くの人々の目に触れるために出版されることを、心から祈っている。

 ぐぐっても、1937年生まれである以外には、なぜか写真はおろか、業績一覧といったデータもまとまった形で出てこなかった。退職時に普通はまとめて掲載するのが通例なのだが、さてどうしたことか。ご存じ寄りの方からのご教示をお待ちしている。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

【追記】2023/12/31:国立国会図書館のデータ表示で、「1937〜2009年」を見つけた。上記を書いた時点ですでにみまかられていたわけである。

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ミルウィウス橋コイン続報

 Agora Auctionsに、例のミルウィウス橋貨幣が既報の5/28に続いて登場した。といってもそんなに積極的に探査しているわけではない私からすれば、の話であるが。現在入札3回目で表記的には$65。データは以下。

Lot 621. Constantine I. A.D. 307/10-337. AE 4. Constantinople mint, struck A.D. 330. Rare. Ex Imperial Coins. Estimate: $ 100.00
Current Bid: $ 65.00 (3 bid(s))
Bidding Ends: Tuesday, 20 Jul 2021, 17:09:30

 掲載写真がふるっていて、裏面が天地逆となってる。右端はそれを試しに逆転させたもの。全体に不明確なのが安価な理由なのであろう。

 造幣所ナンバーはこれも不明確ながら「S」、すなわち「第6工房」。「Z」なら「第7工房」となる。

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オークションに偽造貨幣の金型?出品

 CNG(Classical Numismatic Group)のウェブ・オークションに、偽造貨幣とおぼしき「金型」一歩手前のものが出品された(https://auctions.cngcoins.com/lots/view/4-2WB2WA/antoninus-pius-ad-138-161-forgers-pb-impression-or-die-for-a-sestertius-35mm-5360-g-12h-copying-a-rome-mint-issue-of-ad-161)。以前、2019/8/26にも別件での既報があったので、今回はまあよりちゃちではあるが、約二年ぶりである。ちなみにオークションは現地時間で7/7の正午、手数料が落札価の18%かかる。

 本当は個人的に所有したいところだが現段階でも実質200ドルを超えているので、最終的には300ドルが予想される。よって私のようなビンボーな年金生活者は写真だけで満足せざるをえない。

 出品者のコメントによると、素材は鉛。アントニヌス・ピウス死亡時の161年ローマ造幣所打刻のものを真似たもので(RIC III, 1226)、貨幣の裏面のみ。刻印は「神格化CONSECRATIO」、デザインは四層の葬儀用火葬場の上に四頭立て戦車が正面向き、下部刻銘部には「元老院決議」SC(senatus consultum)。ただ、この偽造金型は鉛製なので、それを金型として打刻するには軟らかすぎ、おそらく本物の貨幣を鉛に打ち付けての凹型印影の試作段階のものと思われる。ここまでなら私でもできるだろう。まあその程度。

 参考事例として以下、本物を示す。表面には故人皇帝アントニヌス・ピウスの右向き肖像、刻印は「神帝Antoninus」DIVVS ANTONINVS。大きさ33.1×34.9mm、重さ28.47g。

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首都ローマの集合住宅跡:遅報(78)

 古代の都市ローマでアウレリアヌスの城壁で囲まれている領域は、ほぼ直径8km程度で、要するに徒歩で二時間程度、東西とか南北を縦断して歩けばフォローすることができる環状、もとえ勘定となる。そんな中で、しかし2000年を経て古代ローマの庶民生活を彷彿させる遺構はすでに現代首都ローマにそう残ってはいないのだが、カンピドリオ丘の西麓に、当時庶民も居住していたはずの賃貸住宅、すなわち「アラ・コエリの集合住宅」Insula dell’ara Coeli がひっそりと保存されている。これは、1929年から1933年にかけてムッソリーニが国威発揚のため大規模な都市再開発で、カンピドリオ丘の西側斜面にあったルネサンス様式の建物を解体した時に、古い教会の下から再発見されたものだ(他には、Casa Cristiana、taberna delle Tre Pile、Caseggiato dei Molini、Balneumなど)。ただ、ヴィットリオ・エマニエル二世記念堂とサンタ・マリア・アラ・コエリ教会へのあの急な階段の設置時に、この集合住宅の一部が破壊されてしまったのは、残念と言うよりほかないだろう。

 現在の地面の9m下から、4階までが残っているが、元来は少なくとも5階はあって、約300〜380名の住民を収容していたとされている。ほぼ垂直な斜面を利用して建てられているので、3階まではそんなに奥行のない構造だったようだ。4階は若干平地が広がり、そこにあたかも奴隷部屋を彷彿させる11の独房風の部屋が確認され、カンピドリオという場所柄興味深い、というか、以前書き込んだ「ダウントン・アビー」との類似が見てとれる。

、横断面図;写真は、北から写したもの

 まあカンピドリオという特等の立地を考えれば、高級マンション(コンドミニウム)というべき存在だったからこそ残り得たともいえる。その意味で、典型的庶民のインスラはやはりむしろオスティアで確認されるべきかと思われるかもしれないが、しかし、オスティアは帝都ローマの外港という特殊事情もあって、いわば皇帝直轄領的扱いを受けていたと考えると、本当の庶民のうらぶれた集合住宅はもはや跡形もなく消え去ってしまったとするのが至当であると思わざるを得ない。

、エウルのローマ文明博物館の模型;、地階と中二階までが現在の地面の下になる

 この建物は紀元2世紀建設とされていて(上から下までレンガ構造)、現在許可なく内部の見学をすることはできないが、幸いにも、2014年6月にレザー・スキャンが完了していて、それがウェブにアップされたのは2015年2月だった。それが以下で、上手に編集されているので、臨場感をもって一見の価値がある。https://vimeo.com/109825918;他にも、この箇所の時代の経過を分かりやすくアニメ化したものや、見学用の説明などもある。https://www.youtube.com/watch?v=qRt5Swtih_E;https://www.latinacittaaperta.info/2021/05/14/archeotour-linsula-dellaracoeli-mini-video-conferenza-2/

うらぶれた集合住宅想像図:上階の実際はもっとひどかっただろう

 かつて入手していたものを発掘した。帝都ローマのSubura地区の街角の安普請のインスラ想像再現図。こんな建物は2000年後に残りようもないわけで。我々は遺物として残っているものを当時の現実だと思ってしまうが、まちがっている。

https://www.youtube.com/watch?v=C51bStZQpP4
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Pompeiiの3邸宅新公開:遅報(77)

 新コロナ騒ぎを一段落させて、観光解禁を目前に、客寄せのためどこも精を出している。

 2020/2/19公表:https://news.artnet.com/art-world/pompeii-recycled-1848195

 EUが2014年に開始し1億5千万ユーロを投入してきた「大ポンペイ・プロジェクト」“Grande Progetto Pompei”が完了し(イタリア政府は引き続き五千万ユーロを投入して継続予定とのこと)、それに合わせて、これまで長らく未公開だった3つのフレスコ画で著名な邸宅が公開されていた。「果樹園の家」 Casa del Frutteto(I.9.5-7)、「恋人たちの家」Casa degli Amanti(I.10.11)、そして、「商船エウローパの家」Casa della Nave Europa(I.15.3)である。私的には落書きとトイレに興味がある。

 「恋人たちの家」(I.10.11)は1933年に発掘されたが、1980年の地震で危なくて立ち入れなくなっていた。実に40年振りの公開である(https://www.youtube.com/watch?v=0C5zKGm3NOA;https://www.youtube.com/watch?v=EuiimfV22B0&list=TLPQMjIwNjIwMjE5U9KCHBpljA&index=2)。

、「恋人たちの家」のPeristyle:私はこの上階をみてみたいのだが、無理だろうな;、地階平面図(14の奥にトイレ)

 ペリスタイル10に面した部屋13の外壁の落書き:アヒルの上部に”Amantes ut apes vitam melitam exigunt”「恋人たちは、蜜蜂の如く、甘露な人生を過ごす」(CIL,IV.8408a);すぐ下に第二筆bで”Velle”「そうだといいけど」;アヒルの下に、c”Amantes amantes cureges”と第三筆あり。最後の語がよくわからないが、「(ああ)恋人たちよ!恋人たちよ!(あなたは)注意めされよ」といった意味だろうか。

 「商船エウローパの家」(I.15.3)は、1951年に発掘され、平面図でペリスタイルに面した2の外壁に件の落書きが現状保存されている。トイレは9の兼台所にある。

 件の落書きは大きい上に不鮮明なのでここでは描画を示しておく。船名は、右の描画の大きな船の船首側の底の小さな柄付碑銘板tabulae ansataeの中に「EVROPA」と書かれている。中央の柄付碑銘板の中は空白。

 裏庭は菜園や果樹園として多目的で使用されていた。

 「果樹園の家」(I.9.5-7)は1913年と1951年に部分的に発掘され、とりわけ部屋番号11の華麗豪華なフレスコ画で著名である。落書きは、12のペリスタイルに面した10と11の出入口の間の柱に方形の黒曜石が鏡代わりにはめ込まれた周囲の石膏に書かれていて、4つが解読されている(CIL,IV.10004-7)。下にそのうちの10005を若干猥褻な挿絵ともども掲載する。トイレは15に設置されている。

平面図は上部が東
”FORTVNATA”:挿絵は頭髪で女性に見えないけど、かなあ
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ポンペイ構内博物館新装開店:遅報(76)

 2021/1/27発信(https://www.afpbb.com/articles/-/3328580?pno=0&pid=23014190)によると、「古事物収蔵館」Antiquarium の内容を一新しての再開となったようだ。場所は、ポンペイ・スカーヴィ駅からの遺跡入り口のマリーナ門の右上テラス。たしかトンネルの途中に入口があったので、見落とさないで見学すべし。ま、遺跡に入る前に見るか、歩き回って疲労困憊の挙げ句に見るか、それぞれの体力と許容時間との相談になるだろうが。

上記写真の右上の建物がその地上階で、地下もある

 A.Maiuriによるとそれは1861年に創設されていたが、20世紀末に私が訪れだしたころはずっと閉鎖されていて(世界大戦の爆撃とか、地震とかでの破壊なんかもあったらしい)、研究者見学さえ許されなかったようで、「まだ見せてもらってないが、なんとか見学したいものだ、いずれコネ作って見せてもらうつもりだ」と当時古代学協会で発掘日誌解読に従事していた故・岩井経男氏(当時、弘前大学教授)が話していたのを聞いた覚えがある。それが21世紀の10年代のある夏の訪問時にトンネルを登っていて、あれっ、この入口はなんなんだと。2016年のことだったのだろうか(http://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R8/8%2001%2004.htm)。その時はなんだかミュージアム・グッズ売り場に毛の生えたような狭苦しい展示で、あまり感激しなかった記憶がある。それが充実して一新されたらしい。ならば行かねばなるまいて。

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