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コンスタンティヌス帝の銀塊、摘発・没収

 久々に、The History Blogを覗いてビックリ。

 本論に入る前に、注目すべき他の情報を。

27th Roman rostrum found off coast of Sicily  

Update: Museum acquires Roman gold bracelet found by 11-year-old boy  

Roman wood wells found at Iron Age settlement site  

Aquatic mosaic found at Wroxeter Roman City  

Roman urn of Attii family seized from farmhouse garden  

Contents of sarcophagus in Tomb of Cerberus revealed  

Silver amulet is Bulgaria’s earliest Christian artifact  

 個人的にはこの最後の事例と銀塊の話題に惹かれた。今回は銀塊について触れる。

http://www.thehistoryblog.com/archives/70905  August 18, 2024

 ウクライナ西部のトランスカルパティアTranscarpathia在住のある男性が、曽祖母が何年も前に庭で見つけたというローマ時代の希少な銀塊1つを違法にインターネットで売ろうとして、博物館職員の目に触れ警察に摘発された。警察の家宅捜査でもう2本見つかった。

  ↑ウクライナの西端のTranscarpathia
3つの銀塊と、コンスタンティヌス帝貨幣肖像の打刻印拡大図

 ウクライナ国立歴史博物館の声明によると、この両頭斧型インゴットは、ほぼ完全な純銀製でそれぞれ12オンス(342グラム)以上あり、両面にコンスタンティヌス帝(在位:西暦306-337年)のコイン(金貨の由)の刻印がある。それは、310年から313年の間に帝の当時の首都アウグスタ・トレヴェロルム(現トリーア)で発行されたソリドゥス金貨の図柄と同一らしい(私はまだそれを確認できていない)。このインゴットは、シリクアsiliqua(e)銀貨(24分の1 Solidus金貨)用に帝国造幣所で鋳造された純度保証品だった思われる。かつてこれらは薄い銀のリボンでまとめられていたが、その後リボンは紛失したという。

 専門家によるとこのインゴットを約8万5千ドルの価値があると見積もっているが、博物館学芸員はそれ以上に歴史的に「特別な文化的価値」を有していると主張している:ローマ時代の銀塊は90個ほどしか知られておらず、そのうち11個にのみ造幣所の刻印がある。今回のものはウクライナで初めて発見され、ローマ帝国の境界外で発見された唯一のものである。また、表裏両方に造幣局の刻印がある唯一の銀塊でもある。

 コンスタンティヌスは310年から313年にかけて内外において多忙であったが(対フランク族戦争、義父マクシミヌス反乱鎮圧、義弟マクセンティウス戦、東部正帝リキニウスと同盟)、その時期に寄贈品、つまり皇帝即位記念・戦勝記念等を口実に上級廷臣あるいは内外の重要人物への贈答品、あるいは収賄・調略目的で活用された類いのものだった可能性がある。この銀塊が南ドイツからウクライナまでどのように流転してきたのか、これはもう一幅の物語であろう。

【追記】2024/9/12におりしもCNGのオークションで、打刻金型と類似のそれらしき金貨と遭遇。ちなみに出品者評価価格は1000ドル、現在入札数4で700ドル。打刻場所と時期(312-313年)はちょうど符合する。

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Pompeii「メナンドロスの邸宅」のテルメ・モザイクの解釈

  さきほど、Quora Digestを見るともなく見ていて、表記の記事に気づいた。以下のモザイクはこの家のテルメの calidarium入り口床に埋め込まれた衆知のものである。私はこれを今まで単純に黒人奴隷が尿瓶を運んでいる図柄と捉えていたが、今回の説明によるとまったく違っているという(https://wondersofthepast.quora.com/THE-ROMANS-AND-THE-ETHIOPIANS-their-faces-burned-Pompeii-House-of-Menander-Mosaic-at-the-entrance-to-the-calidar)。

 第一に、この奴隷は、エチオピア人で、その民族名はギリシア語で語源学的に、「日焼けした顔」:(aithō =’I burn’ と ópsis =’I look’)から来ているそうだ。

 第二に、彼の足下の図柄は(これはこれまで私には不明だった)、垢こすりのstrigilisで囲まれたオイル容器が描かれていて、よって上下の図柄を統合的に捉えるなら、彼が両手に持っている容器は、尿瓶ではなく、垢取り用のオイル入れ (askos, pl.askoi:原意は「ワインの革袋」)、ということになる。もっともオイル入れはもっと小型で洒落たものが多かったが。それは携帯用と業務用の違いなのであろうか。

 第三に、このエチオピア人の巨根の先が剥けていることから、彼は割礼を受けているとされる。割礼は元来がエジプト人の風習で、ギリシア・ローマでは一種の嘲笑の対象であったような。

 いや、ともかくなかなか明快な解釈で、おかげで積年の疑問が解消されて爽快である。

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「愛された貧者の神父」の不都合な事実露見

https://www.jiji.com/jc/article?k=2024071800132&g=int

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB

バチカンニュースは18日、フランスのローマ・カトリック教会の著名な聖職者で社会的慈善活動を通じて‘貧者の神父’として知られたピエール神父(1912~2007年)が生前、複数の女性に対して性的虐待を繰り返していたと告発された、と報道した。このニュースは欧州の代表的なカトリック教国フランスの国民に大きな衝撃を与えている。

こんな感じで死後に(いや生前も)写真なんかがさらされるのって、自分だったらいやだなあ。

ウィキペディアによると、彼はカプチン・フランシスコ修道会で司祭になったが、その後、修道会を出て教区司祭になったらしい。また、以下のような付言もされている。

  • 神父の独立の気概、礼儀作法の軽蔑、反抗の精神が神父の人気のもとだった。またカトリックの人間でありながらローマ教会とは距離を取り、自身の信仰を口にすることも稀だった。またエマウスの非宗教性を主張した。
  • 神父は女性司祭や聖職者の妻帯、同性愛カップルによる養子を認めてカトリック教会からは批判されていた。またその著書で女性との関係が何度かあったことも認めて話題になった。

なので今更、という感じがする。バチカンによるしっぺ返し的な報道か。

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最近のクリスチャン・トゥデイ情報:荒井献死亡,他

荒井献氏死去、新約聖書学者・グノーシス主義研究者:8/16老衰にて死亡。(https://www.christiantoday.co.jp/articles/33947/20240821/sasagu-arai-dies-at-94.htm

他に、以下も:2024/8/27(https://www.christiantoday.co.jp/articles/33965/20240827/uccj-reprimands-former-pastor-of-wakuya-church.htm

「日本基督教団、涌谷教会元牧師を戒告 関連保育園で職員がパワハラ訴え大量退職」

日本基督教団は24日、同教団の正教師(牧師)で、同教団涌谷(わくや)教会(宮城県涌谷町)の主任担任教師を務めていた瀧澤雅洋氏に対し、戒告の戒規を適用したことを機関紙「教団新報」で発表した。戒規の適用は5日付。

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奈良時代と古代ローマの言語事情

2024/8/30  読書会各位:

 世間的には台風で翻弄されてますが、いかがお過ごしでしょうか。

 偶然ウェブ情報(COURRiER)で見つけたので、紹介します。「奈良時代の詩歌を研究するフランス人に聞く」第2回 8/30(https://courrier.jp/news/archives/374337/?utm_source=daily+item+announce&utm_medium=email&utm_content=post-374337&utm_campaign=2024-08-30-13791&courrier_mail_session_id=13791

   私的には冒頭で触れられた質問内容にまず驚かされました:「奈良時代の日本の人口は500万~600万人ほどと推定されています。その頃の日本の言語事情は、どれくらいわかっているのですか。」
 
  人口600万程度というと、現在だとシンガポール、デンマークあたりに相当しますが、こんなに少人数の中での奈良時代だったわけです。私にはこういった日本の当時の数的実態把握の認識が完全に欠落してました(言われてみれば当然なのですが)。

    質問にアルチュール・デフランスArthur Defrance氏は以下のように答えています。

 「これは難しい話です。いまの日本語には関西弁や東北弁などがちょっと残っているけれども、かなりの統一性があります。それに比べると、奈良時代の日本語は全然そうではなかったと考えられます。
    いま私たちのもとにある当時の日本語の痕跡は、あくまでも文学的な言葉で書かれた歌集です。『万葉集』に出てくる日本語が当時、本当にそのまま話されていたかというと、おそらくそうではないんですね。書き言葉と話し言葉のあいだに完全な断絶があったとは考えられませんが、隔たりはかなりあったはずです。
    当時の日本語には統一性がなく、複数のものがあったわけですが、大雑把にいえばふたつに分けられました。ひとつは西の日本語、すなわち奈良の日本語であり、もうひとつは東歌、すなわち東日本の和歌に出てくる東言葉です。
   そのほかにもアイヌ語が話されていた事実の痕跡も残っていますし、九州には隼人(はやと)という民族もいて、その言語も違っていたという証拠が残っています。
    それから当時の日本に住んでいた帰化人の言葉も飛び交っていたと推測できます。奈良に行けば、おそらく朝鮮語の一種を耳にする可能性があり、漢文ではなくて話し言葉としての中国語も当時、話されていました。
   大安寺というお寺では、話し言葉の中国語でお経について講義がなされていたという史料が残っています。だから、奈良時代の言語事情は、かなり多様性があったと強調しておきたいです。

──そういった奈良時代の言語事情と古代ローマの言語事情を比較しておられますよね?

    どうしてそのような比較を試みたのか、簡単に申し上げます。
    共和政時代のローマ人は、ラテン語以外の言語にあまり興味を持っていなかった。ほかの言語があるとはわかっていたのですが、そういった言語を記録しようとはしていません。だからラテン語以外で、当時の地中海沿岸地域の言語の痕跡というと、土器に書かれた文字など考古学的に見つけられるものしかありません。
    いまのフランスに当たる地域に住んでいたゴール[ガリア]人の言葉についても、ローマ人はまったく記録していません。むしろ、ローマ人はゴール人など征服した国の人たちに、ラテン語をちゃんと学んでもらおうという考え方だったのです。
    例外がひとつだけあります。ギリシャ語です。古典ギリシャ語は、当時のローマ人にとっても長い歴史を持つ文化的な言葉でしたから、尊重されていました。
    ローマの貴族は、必ずと言っていいほど、子供のときからギリシャ語を話すことを学びました。成人するとギリシャのさまざまな都市を遍歴し、それぞれの都市の弁論術の先生から授業を受けて、最も純粋なギリシャ語を身につけるといった習慣もローマの貴族にはありました。キケロもそうしたという記録が残っています。
    ですから、その意味で、共和政ローマにおける古典ギリシャ語と奈良時代における漢文の位置づけがちょっと似ているんじゃないかなという主張がしたくて比較をしてみました。
    奈良時代の日本人は、アイヌ語や隼人語に必ずしも興味を持ってはいなかったのですが、漢文はちょっと別格でした。漢文はやはり身につけねばならない言語だという意識が当時はあったわけです。」

   昨晩、NHKBSで再放送されていた「フロンティア」「日本人とは何者なのか」(初回2023/12/6」は、大変面白かったので再視聴しました。 日本列島への最初の到達人類は陸続きの氷河期に1000名程度にすぎず、彼らの子孫が温暖化によって大陸と切り離されて長らく独自の文化を育んでいたが、その後弥生人が到来したのだが、最近成功した古日本人のDNA解析によると、これまで定説だった縄文人・弥生人の二重構造ではなく、古墳時代に大量の大陸からの移住者が来た三重構造であることが判明した由で、これが現代日本人のルーツだと。

   その時代は日本の歴史にはめずらしく多民族・多言語状況だったというわけです。漢文なんかの渡来支配者言語はおそらく一握りの教養人がそれに対応できていて、庶民層はてんでに出身言語を話していたのでしょう。その中から奈良・平安時代が生まれてくるわけです。

【追記】しかしこれも仮説の一つにすぎないかもである。以下のような説もある。まあ従来説というべきか。

https://www.brh.co.jp/publication/journal/087/research/1

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英国のキリスト教徒の半数以上、信仰に対する「敵意と嘲笑」を経験

https://www.christiantoday.co.jp/articles/33924/20240816/over-half-of-uk-christians-experience-hostility-ridicule.htm

 2024/8/16発信:キリスト教国のイギリスで、そんな体験がとちょっと意外であった。この記事の最期に以下の文章があった。「6700万人余りいる人口のうち、キリスト教徒だと回答した人は46・2%の2750万人にとどまった。11年の国勢調査では、59・3%(3330万人)がキリスト教徒だと回答しており、人口に占めるキリスト教徒の割合はこの10年間に13ポイント以上も下がった。」

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そしてトンキーもしんだ

 今年の夏も戦争関係の色々な番組があった。私もそれらを見たのだが、さっきNHK BSで「そしてトンキーも死んだ」を見た。大昔、教材として土家由岐雄・武部本一郎(画)『かわいそうなぞう』(金の星社、1970年)を使ったことがあったので、大筋は知っていたつもりだったが、まあ絵本だからかなり端折って書いているとは思っていたが、細部では実際とはかなりずれた創作だったことを知った。一番のそれは、東京が空襲にさらされそうだったので、とされていたが、そうなったのは象たちの殺戮の1年以上あとのことだったことだ。

 番組では、1982年に詳しい研究成果を歌手のさとう宗幸さんが自分の子供たちに語る形で進行していく。今でもNHKアーカイブでみることできるようだ。それをもとにした絵本も新たに出版されたようだ(たなべまもる『そして、トンキーもしんだ』国土社、1982年)。

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ガザ問題に触れて

以下の新聞ブログ記事(一部有料)でこんな文言に出会った。アメリカ国内のことである。

https://digital.asahi.com/articles/ASS863DG5S86ULLI00DM.html?pn=27&unlock=1#continuehere

「ウクライナ侵攻の時にロシアに対しては批判的な声明文を出していた大学が、イスラエルによるパレスチナ攻撃では「パ」の字も言わないとか、実際に起きているムスリム系の学生への差別や暴力には触れないとか。まるで抗議運動がないかのように隠そうとしたり、迷惑や問題行為として扱われたりしてしまうんです。保守的な地域にあるわけでもない、リベラルだと思われている大学でも、意外とそういう雰囲気がある。普段は環境問題やその他の人権問題に関しては「どんどんプロテスト(抗議)してくれ、それが大学の誇りだ」くらいのスタンスを取るのに、パレスチナに関しては全く態度が違います。」

 民族抹殺のポグロム、ホロコーストに遭遇したから断固生き抜く道をとるという決意が現在のイスラエルの表向きの国是だが(本音はネタニヤフ政権の維持という些末で身勝手な現実があるが)、そのあげくの現実政治がパレスチナ人の国内抹殺という現状は、どう考えても論理矛盾であるし不条理である。

「物事の本質は、イスラエルによる植民地主義の問題で、そこをうまく描き出せていない。パレスチナ側の要求は一貫して「植民地主義をやめて」という願いだったわけですよね。シオニズムは多くの場合、植民地主義を伴って現地の人々の声を奪った状態で入植を進めてきたわけです。で、パレスチナ人は、支配者は変われど、住んでいる自治権をずっと奪われてきた状態。そこはずっと変わらなくて現在まで続いている問題なんです。」

 要するに自己生存のみが目的で、そこに普遍的視野はもとからない、そもそも旧約聖書(トーラ)自体がそういう世界観なのだから、というのであれば、ポグロム、ホロコーストへの同情や憐憫でごまかされてはならない、と強く思うのだ。そんな自己都合のごり押し集団は社会的に抹殺されても仕方なかろう、と。

 そしてこうとも述べられている。

「アメリカやヨーロッパだと運動が「反イスラエル」とか「反ユダヤ主義」のレッテルをすぐに貼られるわけです。元々の主張はそうではなかったはずなのに「差別者」としてのレッテルを貼られる事態が起きている、というのは言論の空間としては異常な状況。」

 こういう正邪のレッテル貼りで、素朴な違和感を封殺していく動きには気をつけたい。それは、物事には表ヅラもあれば裏もあることはきちんと認識したうえでのことだ。私の身近でも、秦剛平氏のエウセビオス批判に、なんだかなと違和感感じてきたその正体に今回ようやく思い至った気がする。

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再放送:NHK Eテレ:地球ドラマチック「ポンペイの起源」

 2024/8/12:現在放送中。フランスで製作された2年前の再放送で45分。専門家から見ると「ツッコミどころ満載」であるが、ウェスウィオ火山誕生の40万年前からの概略を知ることができるレベルでは通説から一歩踏み込んでいて、再現画像にも工夫が見られ、見応えがある。

 今だとどうやら下記でみることできるようだ。NHK+で、8/19までの限定であるが。

https://www.nhk.jp/p/dramatic/ts/QJ6V6KJ3VZ/episode/te/68PQ5RQ854/

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オリンピックの裏側で:フランスの不都合な蛮行

https://ml.asahi.com/h/aznKaiex6oqGyOab

  現在テレビはパリ・オリンピック満載で、いつものようにお祭り騒ぎをカモしているが、その裏側でかつての宗主国フランスの蛮行を忘れないアルジェリア選手団の行動が目をひいているようだ。私はそんなことがなんと1961年にあったことなど覚えていなかった、というか、そもそも知らなかった。だがかの宗主国の歴史を顧みるに、あって一向に不思議ではないと腑に落ち、自由・平等・博愛を外に向かって高らかに高唱してきた(今もそうしている)現代フランス植民地主義の黒歴史が、セーヌ川の川底から浮き上がってきたわけである。

   時はアルジェリア戦争末期の出来事で、差別に対する2万の抗議デモに対して、治安部隊が投入され、1万人以上が逮捕され、射殺や撲殺された犠牲者の遺体はセーヌ川に投げ込まれた(一説では200名)。それをパリ警視庁は翌日、「アルジェリア人同士の衝突で3人が死亡した」と発表した。この虐殺は長く伏せられ、ようやく90年代に歴史家が検証し始め、裁判所に認定されたのは99年、2012年になって大統領が初めて事件の存在を認めたらしい。「21年にはマクロン大統領が初めて追悼行事に参加した。謝罪はせず、国の責任についても言及しなかった」。

  まさに日本の関東大震災時の朝鮮人虐殺に似た事件だった。

オリンピック開幕に向け進む「浄化」 パリで「排除」されるのは誰:https://digital.asahi.com/articles/ASS7Q5V59S7QUHBI01WM.html?linkType=article&id=ASS7Q5V59S7QUHBI01WM&ref=yoru_mail_20240731_bunmatsu
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