以下、Dr. Jeffrey P. Garcíaの小論から。ガリラヤ地方からの巡礼路には都合三ルートあって、ヨハネ伝4章を見ると、イエスはあえてサマリア経由を採用した時もあったような記述がなされているが(最短路で徒歩で3日)、普通のユダヤ人はサマリア人との摩擦を避けて別の東西ルートを使っていた、ということらしい。東道は5〜7日、西路は最長期間(日数は書いてない)を要したようだが、著者は通常の巡礼路としてはこの海岸沿いを支持しているらしい。https://www.youtube.com/watch?v=p8_V47huAqE
出品者のコメントによると、素材は鉛。アントニヌス・ピウス死亡時の161年ローマ造幣所打刻のものを真似たもので(RIC III, 1226)、貨幣の裏面のみ。刻印は「神格化CONSECRATIO」、デザインは四層の葬儀用火葬場の上に四頭立て戦車が正面向き、下部刻銘部には「元老院決議」SC(senatus consultum)。ただ、この偽造金型は鉛製なので、それを金型として打刻するには軟らかすぎ、おそらく本物の貨幣を鉛に打ち付けての凹型印影の試作段階のものと思われる。ここまでなら私でもできるだろう。まあその程度。
古代の都市ローマでアウレリアヌスの城壁で囲まれている領域は、ほぼ直径8km程度で、要するに徒歩で二時間程度、東西とか南北を縦断して歩けばフォローすることができる環状、もとえ勘定となる。そんな中で、しかし2000年を経て古代ローマの庶民生活を彷彿させる遺構はすでに現代首都ローマにそう残ってはいないのだが、カンピドリオ丘の西麓に、当時庶民も居住していたはずの賃貸住宅、すなわち「アラ・コエリの集合住宅」Insula dell’ara Coeli がひっそりと保存されている。これは、1929年から1933年にかけてムッソリーニが国威発揚のため大規模な都市再開発で、カンピドリオ丘の西側斜面にあったルネサンス様式の建物を解体した時に、古い教会の下から再発見されたものだ(他には、Casa Cristiana、taberna delle Tre Pile、Caseggiato dei Molini、Balneumなど)。ただ、ヴィットリオ・エマニエル二世記念堂とサンタ・マリア・アラ・コエリ教会へのあの急な階段の設置時に、この集合住宅の一部が破壊されてしまったのは、残念と言うよりほかないだろう。
EUが2014年に開始し1億5千万ユーロを投入してきた「大ポンペイ・プロジェクト」“Grande Progetto Pompei”が完了し(イタリア政府は引き続き五千万ユーロを投入して継続予定とのこと)、それに合わせて、これまで長らく未公開だった3つのフレスコ画で著名な邸宅が公開されていた。「果樹園の家」 Casa del Frutteto(I.9.5-7)、「恋人たちの家」Casa degli Amanti(I.10.11)、そして、「商船エウローパの家」Casa della Nave Europa(I.15.3)である。私的には落書きとトイレに興味がある。
ペリスタイル10に面した部屋13の外壁の落書き:アヒルの上部に”Amantes ut apes vitam melitam exigunt”「恋人たちは、蜜蜂の如く、甘露な人生を過ごす」(CIL,IV.8408a);すぐ下に第二筆bで”Velle”「そうだといいけど」;アヒルの下に、c”Amantes amantes cureges”と第三筆あり。最後の語がよくわからないが、「(ああ)恋人たちよ!恋人たちよ!(あなたは)注意めされよ」といった意味だろうか。