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古代ローマの感染症:(2)アヘン常用者マルクス・アウレリウス帝

 スーザン・P・マターン女史の著作(p.226ff.)を読んでいたら、私的にとんでもない箇所に出くわした。本音ではしめしめと舌なめずりの体ではあるが。

 ディオン・カッシオスの言として「彼(マルクス・アウレリウス)は非常に小食で、常に夕食のときに取っていた。日中はテリアカという薬以外は決して口にしなかったからである。・・・その[薬の]おかげで、この[病気の]ことも他のことも耐えられたのだと言われている。」『ローマ史』72[71].6.3

 問題は「テリアカ」theriacaである。それについては、ガレノス『解毒剤について』1.1(14.4K)、『テリアカについて、ピソのために』15-16, 14.270-84Kあたりに書かれているらしいが、ずばり「皇帝のテリアカにはアヘン(「ケシの実の液」)も入っていた」由で(p.230f.)、要するにマルクス・アウレリウスはアヘン常用者だったと。この件は最近の文獻だと、Heinrich Schlange-Schöningen, Die römische Gesellschaft bei Galen:Biographie und Sozialgeschichte, Untersuchungen zur antiken Literatur und Geschichte, 65, 2003, Berlin, p.198-204で触れられている由だが、ガレノス処方のそれは3、4%で、マルクスは毎日「エジプト豆の大きさ」分の量を服用していた(『解毒剤について』1.1., 14.3K)、すなわち、一服ごとに33ミリグラムのアヘンが入っていたことになるらしい(Th.Africa, The Opium Addiction of Marcus Aurelius, Journal of the History of Ideas, 22, 1961, pp.97-102=Schlange-Schöningen, op.cit., p.202あたりの算定による)。これは生アヘンとしては少量ながら十分効果がある量だったらしい(p.231)。

ケシの実の樹液(白色)から生アヘン(褐色)の収穫

 というわけで、中毒者までには至らないが、皇帝は常用者だったということにはなりそうだが、これは一日33ミリグラムがどれほどのものかという医学的判定を経なければ結論でないものの、効果の持続のためには徐々に増量していったはずなので、さて実際にはどうだったのか、というところではある。

 となると、ストア派の賢人と誉れ高い人物の言説の背後に薬物依存という現実があったことになって(当時別に禁止されていたわけではないものの)、彼が書いていることのレベルを斟酌する上で、人間マルクス・アウレリウスの実像を追究すべき歴史学的にはとても興味あるテーマで、こういう観点からの『自省録』他の諸史料の読み直しが必要なのでは。誰かやらんかいな。

【追記】アヘンに関する簡便な論文を読んだ。最近はウェブからすぐとれる論文も多くなっていて大変有難い。M.H.ツェンク、田端守「アヘン:その薬物史と功罪」『生薬學雑誌』50-2、1996、pp.86-102。それによると、紀元後214年のローマ宮廷在庫品目録に17トンのアヘンの記録があり、312年には独特のアヘン商業組合も存在していた由(H.-G.Behr, Weltmacht Droge, Wien/Düsseldorf, 1980:古書発注中)。アヘンを精製したヘロインの耽溺者は一日に約0.6g(即ち、600ミリグラム)を必要としているとか(p.99)、17世紀の津軽の秘薬「一粒金丹」はアヘンを三倍量の米飯と搗(つ)いて丸薬としたもの(p.90)だとか(参照せよ、松木明知「麻酔の歴史:ケシの渡来と津軽一粒金丹」『日本臨床麻酔学会誌』10-5、1990、p.27によると一粒金丹は「阿芙蓉(アヘン)、膃肭臍の勢(オットセイのペニス)、龍脳、麝香、辰砂、金箔焼酎、三年酒」などで処方されていた由で、上記と内容に食い違いある。ま、混ぜ物も色々なレベルがあり、それによって価格帯もおのずと高低差があったのであろう)。

 となると、マルクス・アウレリウスは耽溺者の18分の1の摂取量となる計算になる。これがケルソスの調合で挙げられていた数字だった。

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古代ローマの感染症:(1)序論

 この御時世に私は何をすべきかなにができるか、を考えると、お勉強の成果の公表しかないので、遅ればせながらちょっと頑張ってみますか(ほんとは、だれか若手にやってほしいところ)。まとめてからアップするのではなく、執筆速度を挙げるため、原稿を随時書き綴っていこうと思う。なので、ところどころメモめいたものになったり、あとから付加したりとなるかもだが、ご寛容のほどを。

 大略は今は昔30年前になるだろうか、全学の1年生対象の西洋古代史概論あたりで言っていた内容の拡大版といった趣である。といってもせいぜい1,2コマでの扱いだったので、その時の受講生たちがどれほどの現実味をもって私の授業を聞いてくれたのかには自信はない。おそらくはるか昔の医学が未開の時代のことで、自分たちの人生にはありえない、無関係、という脳天気なものだったに違いない。しかしこれは研究者においても同様で、疫学的な視点から歴史の転換点を探ろうなどとは、よほどの変わり者として扱われるのがオチで、実際私は変人なのだろうが、さて現況に直面してみなさんどう感じていらっしゃるのだろうか、聞いてみたい気がする。要は、どれほど切迫して該時代の出来事を捉えることが可能か、という再構成能力、想像力の問題だと思うのだが。ただ油断ならないのは、研究者の中にはさすがに変わり者がいて、たとえば、J.Rufus Fears(1945-2012年)などは、ごちゃごちゃ弁解じみたごたくを述べず直球で、166年のローマ帝国を現代のアメリカ合衆国と対比する観点をあっけらかんと主張している(The Plague under Marcus Aurelius and the Decline and Fall of the Roman Empire, in:Infectious Disease Clinics of North America, 18, 2004, pp,65-77)。私としては、彼のローマ帝国に関するギボン的超楽観的論述は脳天気すぎてありえないと思うが、この比較というより、国際化した現代社会における感染症の猛威については、彼はさながら予言者であった、と思う。何しろ彼は、この疫病がキリスト教興隆の決定的要因であったことを指摘するだけでなく、現代のバイオテロの脅威までもそこで見ているからである。彼にはそれがより鮮明な表題の、以下もある:The Lessons of the Roman Empire for America Today, Heritage Lectures, No.917, 2005, Pp.8.

J.Rufus Fears(1945-2012年)

 地中海世界は他の文明圏同様、幾度となく外来の疫病の脅威にさらされてきた(内在していたそれらや寄生虫とは、宿主と寄生側の長年の付き合いの中で風土病として折り合うようになっていて、だがそれに慣れていない外来者には劇症に発症してしまうわけ:https://digital.asahi.com/articles/ASN3B52ZMN3BUCVL00G.html?iref=pc_rellink_02)。古代において著名な疫病として、紀元前430年頃のペリクレス時代のアテナイを襲った疫病がある。ローマ帝国史に名の残るものとしては、直ちに、紀元後2世紀後半の「マルクス・アウレリウスの疫病」(3世紀中葉の「キュプリアヌスの疫病」もその延長線上か)、6世紀半ばから60年流行した「ユスティニアヌスの疫病」が挙げられるであろう。今回は私の守備範囲で「マルクス・アウレリウスの疫病」について触れてみたい。

 前もって確認しておきたいのは、当時の医療水準のことである。細菌はもとよりウイルスに関する知識もなかったかの時代、病気の原因は、インドを淵源とするギリシア的四体液説に基づき、四体液のバランスが崩れたためとされていた。特に感染症は「悪い空気」=瘴気を体内に取り込んでしまったことに求められ(イタリアの風土病マラリアも、イタリア語の「悪い空気」mal ariaに由来している)、したがってその予防策は瘴気から極力隔離すること、そしてもっとも効果的な治療は体内からの毒素の排出によるバランスの回復(基本的には自然治癒能力を信頼)、すなわち瀉血と考えられていた。日常的経験則から導かれたこの医療観は19世紀に至るまで広く支持され続けていくのである(逆にいうと、我々に身近な医療は19ないし20世紀以降のものとなる:実際、森林太郎陸軍省医務局長の誤った脚気説に代表されるような、多くの試行錯誤があったことを忘れてはならない)。古代ローマの医学を論ずる場合、ヒッポクラテス学派、ガレノス学派が主流で、ともっともらしく述べられるのが普通だが、もちろんそのレベルでさえ当時の一般庶民にとっては間遠く、実際には、病因を呪いや悪霊の祟りとする民間療法をはじめ多種雑多な俗説と有象無象の医療従事者が存在し、活動していたことを失念してはならない(もう一つのアスクレピオス医療団は、さてどのあたりに位置していたのやら)。それを実感したければ、図書館でケルソスやガレノスの当時の医学書や、大プリニウス『博物誌』をちょっと繙くだけでいい。たとえばガレノスは、痛風の治療に腐ったチーズと煮て酢漬けにした豚足を膏薬に混ぜ込んで塗る、といった類いのことを大まじめに書いている。今の我々には読むに耐えない稚拙かつ荒唐無稽な内容の羅列であり、しかもそれが効果的だったとしているのだから、なにをか言わんやである(ガレノス『単体薬の混合と諸力について』10.2.9(12.270-271K):これはS.P.マターン(澤井直訳)『ガレノス:西洋医学を支配したローマ帝国の医師』白水社、2017;Susan P.Mattern, The Prince of Medicine : Galen in the Roman Empire, Oxford UP, 2013、の冒頭のエピソードである)。

Susan P.Mattern:1966-

 そんななか、庶民にとって手に届く医療はとりあえず安価な民間療法しかなかったのが現実だった。そもそも現在のような国家資格での医師は存在していなかったし(それなりの訓練は受けていたにしても)、とりわけ古代ローマ時代の医療従事者はどういうものかギリシア系の奴隷身分ないしせいぜい被解放奴隷だった(小林雅夫「古典古代の奴隷医師」『地中海研究所紀要』6、2008、pp.45-54:http://www.waseda.jp/prj-med_inst/bulletin/bull06/06_07kob.pdf)。ペルガモンの裕福な市民ガレノスは、あくまで例外であったとしておこう。

 キリスト教の教祖イエスも,当時の悩める庶民にとっては安価な病気治しの治癒神に他ならなかった。西欧中世庶民において治癒能力をもつ奇蹟実行者こそ教祖イエスの再演・現身であり、キリスト教信仰の核心であった。いうまでもなく、教会側も治癒行為を宣教の有力な武器と捉えていた。聖人認定に奇蹟が求められたのもその証しであろう(山形孝夫『治癒神イエスの誕生』ちくま学芸文庫、2010年:初版、朝日新聞社、1991年)。

山形孝夫(1932ー):当たり前のことだが、お歳を召された。

 そして当然のことながら、いつの時代も庶民が従来の伝統的神(々)を放棄する契機となったのは、彼らが願った平穏な日常生活が、天変地異、特に気候変動や感染症の大流行で破綻して、従来の権威が失墜したとき、入れ替わりに新たな(自称を含めた)治癒神が登場したときである。いつの世も治世者にとり感染症をどう沈静化するのかは大問題であった。絶望にさらされた民意はまたたく間に統治者や聖職者から離反する。それがまさにローマ帝国でのキリスト教受容の大躍進期、すなわち三世紀で目撃された。その前段階に「マルクス・アウレリウスの疫病」があったのだ。その時点ですでにギリシア・ローマを始めとする旧来の神々は民衆から愛想づかしされていたといっていいのかもしれない(この既成宗教の凋落を、国家宗教であって個人救済とは無関係だったから、などともっともらしくこれまで研究者は説明してきたわけであるが、単なる空想的観念論にすぎない)。

 そして同様に、黒死病が宗教改革の影の主導者となったわけだが、近代医療の幕開けが今度はキリスト教信仰の屋台骨を揺るがす一大転機となったのは偶然ではない。カトリック教会はこういった近代科学主義への対抗措置として、聖母マリア崇敬を称揚し(1854年に、無原罪の御宿りが信仰箇条になった、その4年後にフランスのルルドで聖母出現、そして1913年ポルトガルのファティマでの聖母出現、その各々での奇跡的治癒による聖地化などで)、失地回復を試みてきていたともいえる。もちろん結果的に成功しているとは言いがたいが。

 現代においては、ごく一部の最先端の医療関係者を除くと、すでに新薬開発が救世主の地位にあって、ちまたの医者はその単なる販売促進メンバーといって過言でない(現代版富山の薬売り)。その現代の救世主たる製薬会社が実はガンなど収益性の高い治療薬開発にもっぱら資金を投資し、感染症のワクチン研究をおろそかにしてきた現実もあるらしい:http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52269982.html。そもそもワクチンできた時には疫病が終熄していたりする。否、開発以前に終息してしまったりもしている。サースしかり、マースしかり。そのつけが現在の状況をもたらしているとしたら、どうだろう。以上、閑話休題でした。

 165年末ないしその翌年の初めに、皇帝マルクス・アウレリウスMarcus Aurelius(在位161-180年)の共同統治者でノー天気なルキウス・ウェルスLucius Verus(在位161-169年)を総大将とするパルティア遠征軍が持ち帰った疫病がまたたく間に蔓延したらしい(SHA, Verus, 8:南川高志訳『ローマ皇帝群像1』西洋古典叢書、京都大学学術出版会、2004年、p.216;cf., p.166、172、182:もちろん、この類いには当然のこと別説あり)。結果、多くの死者が出た。この感染症の症状については、当代随一の医師を自認するGalenos(129-199年:小アジアのペルガモン出身)らの記述が残っていて、おそらく天然痘だったらしいとされている。

ルキウス・ウェルス貨幣:裏側で共同統治者マルクス・アウレリウスと握手している

 この件と関連して、だがあまり触れられることはないようだが、マルクス・アウレリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫、初版1956年、改訂版2007年:他にも翻訳はある。導きの書として、荻野弘之『マルクス・アウレリウス『自省録』:精神の城壁』岩波書店、2009年)の著作年代がまさしくこの感染症の時期と重なるので、そういう視点で読み直してみる意味があるのではないかと思う。彼自身の死も疫病だった可能性があるし、私のような門外漢にもその紙背に抜きがたく「死」の影がまとわりついているのを感じざるを得ないからだ。その中には、同時代のキリスト教への言及箇所もある:11.3(最近またまた後世竄入説は後退している。これは後世の善帝評価の忖度によるもので、彼だからあの立派なキリスト教に対してそんなことを言うはずはない、とするのではなく、彼自身の手とみていいのではと私も思う:参照、エピクテトス『語録』4.7.6)。

 いみじくも、その疫病と同時代を北アフリカで生きていたキリスト教徒テルトゥリアヌス(160年頃ー220年頃)が彼一流の皮肉を交えながら喝破したように、天変地異はキリスト教迫害のきっかけとなった。「もしティベリス河が増水して水が堤防を越えたならば、もしナイル河が増水しないで田畑に水を引くことができなかったならば、もし天候がいつまでも変わらなかったならば、もし飢饉が起こったならば、もし疫病が発生したならば、彼らはたちまち、《キリスト教徒たちをライオン(単数)へ:Christianos ad leone》と叫ぶ。いったいどのようにして、これほど多数のキリスト教徒を一頭のライオンに食わせることができるのか」(Tertullianus, Apologeticum, 40:金井寿男訳『護教論』水府出版、1984、p.121)。

 この文脈から考えてみると、不運なことにマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの登位は、まさしく飢饉と洪水で迎えられた。そしてその後も疫病や蛮族の侵入の連続である。これでは悪帝とされても仕方ない仕儀で、民衆の怨嗟の的になってもおかしくなかった。事実、諸々の皇帝伝(但し、いずれも4世紀後半の作:アウレリウス・ウィクトル『皇帝列伝』、エウトロピウス『首都創建以来の略史』、『ローマ皇帝群像』など)での叙述からは、彼の学識や施策を高く評価しつつも、なにかしら奥歯にもののはさまったようなくぐもった表現が読み取れるし、共同統治者ウェルス、妻の小ファウスティナそして息子のコンモドゥスはより直接的な非難の対象とされていて、これはとりもなおさず間接的にではあれ、マルクス・アウレリウスのあるべき上長ないし家長としての威厳のなさが公言されているわけである。このあたり単純に読解力の問題だと思うのだが、それをきちんと指摘している研究者にどうしたことかこれまで私は出会ったことがない。完璧な人間など存在しない。だから、不必要なよいしょなど不用のはずなのに、と私など思ってしまうのだが。マルクス・アウレリウスも言っているではないか、「お前は老人だ。これ以上理性を奴隷の状態におくな」(『自省録』Ⅱ.ii.3)。研究者たるもの率先してそうあるべきであろう。

 ところで、「ピンチはチャンス」とばかり、この感染症を利して勢力を拡大したのが、キリスト教だった。今次感染症騒ぎの真の勝者は誰(何)であろうか。見届けたい気になってきた。

 なお、ウェブで以下の簡便な世界医学史叙述をみつけた。一般的な事情を手軽に得るには有効であるが、こういう叙述を読む場合、書かれているような訓練された医者による医療を享受できた社会層を限定的にとらえるという視点が必要のように思う。また後者の場合、「ギリシア人医師」と標記してギリシアをあがめ奉った叙述が目障りだが、より正確には「ヘレニズム医師」とすべきだろう。もちろんだからといって皆がみな科学的だったはずもない。http://nico-wisdom.com/newfolder1/worldmedical.html;https://anc-rome.info/medicus/

【付論】感染症を論じる場合、細菌やウイルスの撲滅はありえない。それはすでにマクニールも指摘していることである。統計的に3割から6割が感染すれば集団的に抗体を保有して収束ないし終熄するとされている。1875年のフィジー諸島でのはしか(麻疹)流行での死者数は示唆的である。人口15万人のうち4万が死亡した。免疫獲得による生存率として、中世ヨーロッパの黒死病の被害もこの割合だったのではなかろうか。https://www.huffingtonpost.jp/entry/shingatakoronauirusu-jinruitonokyoseinimukete_jp_5e6f1770c5b6dda30fcc321d;https://ml.asahi.com/p/000004c215/6398/body/pc.html

 実はこのところ「はしか」が流行していて、2018年に14万人が死亡していたのだが、マスコミは少しも関心を持とうとしなかった。その大多数が5歳未満の(声をあげれない)子供だった。コロナ・ウイルスでは現在死者数6万台で大騒ぎしているが、それも自分たちの頭上に火の粉が降りかかってきているからにすぎない。私を含めつくづく身勝手なことだ。ちなみに2019年にはしか汚染者は25万人以上、その45%を占めるのは、コンゴ、リベリア、マダガスカル、ソマリア、ウクライナ、の由。先進国の我々にはますます他人事だったわけ。https://www.unicef.or.jp/news/2019/0175.html

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統計とはなにか:史資料批判の現実

 私は数字に弱い文系と自認している。そのくせというか、だからなのか、えてして証拠として示される数字には説得されがちである。これは母数が少ない古代史研究やっている場合、墓穴となりかねない。統計学的な有意差検定など無視した結論へと短絡しがちだからだ。だがそれは古代史だけの問題なのであろうか。

 今般のコロナウイルス問題で表面化している数字の問題がある。感染しているかどうかの調査報告での数字である。原発地の中国以外で、一時高かった韓国のそれは沈静化の兆しを見せている一方で、イタリアやイラン、それにフランス・ドイツで感染者数が増えだしている。それに引き替え、クルーズ船感染で名をはせた日本はそれほど延びず、大勢として沈静化の方向にあるのだが、国際的にはこの数字は信用されていない向きがある。

 素人の私でも想像できるのが、問題が、新型コロナであるかどうかの判定基準が国によって異なっているのではないかとか、検査母数の多寡と関わっているからである。日本の場合は、この夏開催予定のイベント、オリンピックがあるので、それでなくとも証拠隠しの現政権の体質もあって、数字への政治的操作が疑われる。なにしろ今現在においても、日本国内での感染者数よりもクルーズ船内の数字の方が多いのである。これはどう考えてもおかしい。数学オンチの私は、山勘で中国の発表数字を10倍してきたが(なぜか専門家もそうみているようだ)、国際比較する上で日本の場合は20倍したほうがいいような気がしている。検査を徹底的に実施しなければ(したらしたで医療崩壊する恐れが生じる)、そして症状の判定を厳格にすれば、数字は自ずと低く抑えられるからくりである。

 現代的な統計がない古代において、状況をどう把握するか。しかし現代でも時の政権にとって有利な数字が、それにおもねるマスコミによって公表されるのであれば、なにをかいわんやである。こうなると庶民は、自分たちのカンに頼って動くしかない。なにしろ、精神安定剤にすぎないマスクも店頭から消えて久しい(私のような花粉症には必需品なのに:行きつけの医院では前からマスク1枚30円で販売していた。今回それを利用したが、いつまで備蓄が続くのかは知らないが有難いことではある)。所詮精緻さを装っても、数字とはその程度、なのかもしれない。そうなると、思考回路がぐるっと一回りして、民衆の風評・噂が記された文書史料のほうがむしろ大勢を押さえることができるような気がしてくる。しかし今度は書き手の思惑をちゃんと史料批判しないといけないわけで、プロとしては先入観を極力排除して、この螺旋思考を幾度かくり返し、事実らしきものに迫っていくしかない。

 研究者たるもの、目前で展開されている数字の乱舞から、いかに事実を読み破っていけるかを試すべきだろう。また、自己の眼力が本来の研究対象で十全に発揮されているのかどうか、検証する勇気を持たなければならない。所詮素人なので、己の直感に頼っての営みにすぎないが。

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315年打刻Ticinum銀貨補遺

 あれからもう7年経ったのか。上智大学文学部史学科編『歴史家の窓辺』上智大学出版、2013年で、「歴史研究は刷り込みとの闘い:後315年ティキヌム造幣所打刻「記念」銀貨をめぐって」を書いてから。この歳になるとすでに過去の時間感覚は曖昧で混濁している。

 この銀貨は現存が3例のみで、当時その所蔵博物館に連絡をとって画像の掲載許諾を求めた。ドイツの国立ミュンヘン貨幣博物館(M)とオーストリアのウィーン芸術歴史博物館(W)からは迅速に許可が帰って来たが、ロシアの国立エルミタージュ博物館(E)からは音沙汰なしで、それもあって貨幣の表裏両面掲載写真も1930年代のものしか入手できず、不満が残っていた。

 昨日、美術史の後輩から教えてもらった以下の本が届いた。Idler Garipzanov, Graphic Signs of Authority in Late Antiquity and the Early Middle Ages, 300-900, Oxford UP, 2018. パラパラとめくっていたらその55ページに、なんとコインの表側だけにせよEの予期以上に鮮明な写真をみつけたのである。そのキャプションには、登録番号(inv.no.OH-A-ЛP-15266)まで明記されているではないか。スキャンしようとして、ふと思いついてググってみると、あっさりウェブ画像にもうアップされていた。それが以下の写真の上図右側で、中央はいつでも出てくるMである(博物館のHPに登場しているのであたりまえであるが)。左のWは摩滅で細部が不鮮明であるが、今回のEとの比較から、特に馬のたてがみや兜の羽毛飾りや皇帝の髪、それにぐっと下を見据え、顎を引いた細面の顔全体の表現の仕方から、おそらくEとWが同一金型だった可能性が強くなったように思われる。もちろん更に、裏側の詳細な比較検討が必要なことはいうまでもない。裏面の鮮明な画像の所在をご存知の方からの情報提供を期待している次第である。

W                M              E

 この機会に、小論執筆時みつけて言及しておいたフェイク・コインも掲載しておこう。

 ところで、それを探すためにHDiskをチェックしていたら、これらのコインを論じていた2014年3月段階のウェブ書き込みからのスクリーンショットをみつけた(https://www.lamoneta.it/topic/120825-dubbi-sul-medaglione-con-cristogramma/page/2/?tab=comments#comment-1373743)。その中にすでに上のEも入っていた。こんな調子だから、やれやれだ。かくしてこの最新ニュース(のつもりだったが)は、「遅報」であり,同時に私の「痴呆」状況を示す報告となった、という落ちがついてしまった。

 さて、これらのコインのテーマ、改めて論じる機会を持てるだろうか。もうないような気がする。

【コイン市場に第4番目が登場していた!】https://www.numisbids.com/n.php?p=lot&sid=2518&lot=1051

オークション出品なので、以降Aと略記

 他の件でコインをチェックしていたら、とんでもないものにぶつかった。業者はNumisBids、オークション は2018/5/9-10、業者評価額は25万スイスフラン、落札価格もその価格、ということは、言い値で競争相手もおらず落札されたということだろう。日本円に換算すると、2825万円。この時のオークション1626ロット中、断トツの高額だったのもぬべなるかな〜。どこのどなたの手に渡ったことやら。

 簡単にコインの表側をチェックしてみたが、こちら側はMとほぼ同一金型と見た。裏側でも、WとEでは皇帝の左側に小さく描かれた人物が介在するが、Mにはそれがない。しかしこれほど保存状態がよければ、巧妙な贋物でなければいいが。というのは、裏側の皇帝像の腰巻き風な描き方(エジプトのファラオではあるまいに)に私は激しく違和感を感じざるを得ないからである。Mだと明らかに胴鎧だ。さらに、騎兵や皇帝の背後の人物(ないし女神像)などの細かい描写が微妙に異なっており、さらに刻印も「PVBLIC AE」と分かち書きしておらず、それはWとEの特徴である。まあこれらは工房における違いといえば言えるのだが。

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勉強会の休会と感染症関係読書

 実は本気で心配しているわけではないが、私も読書会を2週間ほど休会にすることにした。別途4/8に東京港区で、そして5/13に川崎で講演会が入っているが、これらはさてどうなるのだろうか。川崎はテーマが決まっているが、ちょうど一ヶ月後の港区のは「お好きなテーマで」と言われていたので、これまでは従来取り上げてきたもので見繕おうと思っていたが、これほど感染症が話題になっているのだから、そっちにチャレンジしてみようか、などと思い立った。

 そこで、我が図書室にある本で面白そうなものを昨日漁り、とりあえず以下を借り出した(余談だが、この分野で必須の古典は、W.H.マクニール(佐々木昭夫訳)『疫病と世界史』新潮社、1985年[原著:Plagues and Peoples, 1976]で異論はなかろうが、なんと我が図書館には文庫本も所蔵されていなかったのには、びっくり)。ジェニファー・ライト(鈴木涼子訳)『世界史を変えた13の病』原書房、2018年(原著:Get Well Soon:History’s Worst Plagues and the Heroes Who Fought Them, 2017)。原題と邦訳題はだいぶイメージが違う感じ。それとこの女性、語り口がかなりざっくばらんで軽妙なのである(ナウいアメリカの流行語を多用しているので、私などにはそのウイットの大部分が理解不能である。これは読者によって評価が分かれるところだろう:こうなると翻訳ももっと砕けた超訳にしたほうがよかったのでは)。論旨は「はじめに」で以下のごとし。

J. WRIGHT:今年34歳らしい 。若い!  W.H.McNeil(1917-2016)

 「先進資本主義国の人々は、自分は老人ホームで90歳で死亡すると思っているようだ。 それにはもっともな理由がある。状況が変わらなければ、2000年に生まれた子どもたちの50%が100歳まで生きる。状況が変わらなければ。【著者は、変わるんだ、といいたいのでしょう】

 ・・・この幸運が尽きるかどうかはわからない:続くことを願っているが、過去に続いたことはない。この不愉快な事実を忘れてしまいたい。そうすれば心が落ち着くし、おそらくそれが人の性だ。だが過去の疫病を無視し、無知でいると、いつか必ず発生する疫病に対してますます脆弱になる。

 疫病が発生すると、驚くほどうまく対処する人がいる。そういう人々が周囲の死や破滅を最小限に抑えるのだ。彼らは心優しく勇敢で、人間の最良の本質を示してくれる。【著者が本書で一番言いたいのは、このことのようだ】

 その他の人々は迷信深く常軌を逸した行動を取って、死者の数を増やす。

 ・・・ 驚くほど愚かな知識人が何を言おうと、過去の人々やその関心事は、現在のそれと同様、必ずしも高尚なわけでも真面目なわけでもなく、軽薄でばかげている。・・・結核患者はアリゲーター猟師になるべきだと考えた人物を知ったあとで、過去の人がみな深い尊敬に値する真面目な人だと考えるのは不可能だ。」

 そして著者が最初に選んだのが、紀元後2世紀後半にローマ帝国を襲った「アントニヌスの疫病」である(それ以前、アテナイでの感染症とかもあるが)。筆者はそれこそがローマ帝国没落の真の原因だったと言い切るのである。これからこの疫病を少し、勉強してみたいと思う。

 ちなみに他のエピソードは、14世紀の腺ペスト、16世紀のダンシングマニア、16世紀の天然痘、梅毒と列挙したあと、19世紀以降に、結核、コレラ、ハンセン病、腸チフス、スペイン風邪、嗜眠性脳炎、ロボトミー、ポリオ、と目白押しだが、これは医療が進んで病名の特定が明らかになっただけのことで、それ以前も実は存在していたのが多いのではないか、と私は想像する。

 ところでライト女史は、テーマと離れたところで私的に面白い事をあちこちで書き散らしている。たとえばスタンフォード大学のWalter Scheidelの研究(2005年)を元に、160年頃に第七軍団クラウディアから除隊した2年分の除隊兵239名は、規定の25年間の兵役中、実際の戦闘活動に参加せずに終わったが、「その軍団は、25年ものあいだ戦闘に加わらなかったのだ。彼らは笑いものになったに違いない。しかし、いいことだ! 一度も戦わずにすんだのだから!」(p.12)。それをヒントに考えてみると、我が自衛隊は1950年編成の警察予備隊を含めて実に70年間、戦っていないのだ! これも素晴らしいことだ!

 また、疫病で兵士不足になったので、マルクス・アウレリウス帝は誰でも軍隊に入れた。その中にはもちろん戦い方を知っていた剣闘士もいたが、それが民衆から娯楽を奪い不評だったので、皇帝は代わりに死刑囚を提供したが、この中にキリスト教徒がいた[この連結は秀逸]、また、盗賊や解放奴隷、ゲルマン人も採用した。つまり、皇帝は「かつては強力だったローマ軍を、テレビドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』(2011年から現在)の冥夜の守人[ナイツウォッチ]に変えてしまったのだ」が、「死んだ仲間の代わりに80代の元奴隷や馬泥棒が入ってきたら、それまで世界一栄えある軍隊で20年戦ってきた兵士は、ローマにおける軍隊の地位は劇的に変化したと感じたのかもしれない」(p.25)。こういう当事者的視点は少なくとも私にとってとても斬新で、教えられた。

 本書にはアマゾン・ジャパンのカスタマーレビューで翻訳ミスが指摘されている(すばらしい読者だ!)。私的にはp.101の梅毒発生年が読んでて一見しておかしいなと思っていたので、これはやっぱり誤植だったが、あとは勉強になった。

【追記】3/11発の田中宇氏情報によると、ドイツのメルケル首相は3月10日に独議会の非公開の委員会で「ドイツ国民の60-70%が新型コロナウイルスに感染するだろう」との予測を述べた由(http://tanakanews.com/200311virus.htm)。

 危機管理の基本的立場は、かくのごとく最初に最悪の事態を想定して行動を開始するのが常道なのだそうだが(具体的には、その後、「これは大丈夫」「それも大丈夫」と消去していき、しかるべく事態収拾していくわけ:たとえば、WHOは3/6に「夏になれば流行が終わる根拠はない」と発表して、従来型と誤認しないように注意を喚起している:https://mainichi.jp/premier/health/articles/20200310/med/00m/100/008000c?cx_fm=mailhealth&cx_ml=article)、島国根性が抜けない我が政府(それはすなわち日本国民のことでもある)には残念ながらその意味で危機管理思考そのものがない、といわざるを得ない。大丈夫大丈夫と希望的観測で出発するから、結果的に後手後手になって、「想定外でした」という言い訳に終始することになる。そしてそれを容認してしまう国民性。震災しかり、原発しかり、そして今回の感染症しかり・・・。こうしてオリンピックも中止になってしまうのだろうか。もうやめたほうがいいと個人的には思う。

 この点で、例の神戸大学の岩田教授が重要な指摘をしていた。感染症対策を官僚が指揮することの危うさ、それに反省検討会で「終わったことを蒸し返すな」という体質:https://toyokeizai.net/articles/-/335971?page=3

 ところで、なにしろ母数が少ないので正確なことは言えないが、我が国はさいわい現象的に感染者数を押さておりながら、マスメディアで首相の責任問題が声高に云々されるようになってきた。政局がうごめきだしたようだ(http://nml.mainichi.jp/p/0000066d75/2378/body/pc.html)。これはどうしたことか。実際には押さえていないという情報を掴んだ上でのことか。現段階で政局的に責任が問われることには、なにか奇妙な違和感を感じざるをえないが、これも彼のこれまでの懲りない言動と愚策のつけがまわってきたということだろうか。庶民、というよりもマスメディアの煽る責任追及は往々にして理不尽である。表には秘められている何かが裏にうごめいている作為が感じられてならない。と思っていたら、3/15になってオリンピック中止決定・5月公表説が浮上した(https://www.mag2.com/p/money/900767/2)。

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ペルペトゥア・メモ:(9)埋葬場所について

 480年代著作の、Victor Vitensis, Persecutionis Africanae Provinciae, I.3 (9), in:MGH, AA, Tom.III, Pars 1, 1879 (rep.1961), p.3に、以下の文言が残っている。「そして必須の事どもを述べるなら、彼ら(ヴァンダル人たち)は、聖殉教者たちペルペトゥア、かつそしてフェリキタスの遺体が埋葬されたMaior(先人たち)の教会、Celerinaの(教会)、またScillitaniの(教会)、そして彼らが破壊しなかった他(の諸教会)を、彼ら(アレイオス派)の宗教へ暴君的な許可により引き渡したのだ」Et ut de necessaires loquar, basilicam maiorem, ubi corpora sanctum martyrum Perpetuae atque Felicitatis sepulta sunt, Celerinae vel Scillitanorum et alias, quas non destruxerant, suae religioni licentia tyrannia mancipaverunt.

 要するに、二世紀後の情報としてペルペトゥアたちの埋葬地が「Basilica Majorum」だ、と断言されている。実際には彼女らが葬られた墓所の上に後にキリスト教会の殉教者巡礼教会が建てられ、それが段々と拡張されていった、ということだったのだろう。それが50年前にアレイオス派のヴァンダル人に占拠され果たして無事に保存されていたのかどうか、Victorは何も述べていない。だがその後、7世紀後半にイスラームによりこの地が征服されていることを考慮にいれると、たとえ聖遺物が公然・非公然にキリスト教徒たちによって持ち出されたとしても、それは長い年月の間に霧散して、やっぱり消滅してしまう運命に遭ったのでは。まあ偽物はもちろん出回るだろうが(後述、およびペルペトゥア・メモ(8)参照)。

図の最上部(北端)中央がBasilica Majorum
Basilica Majorumの空撮写真:高台の遺跡平地中央の建物は1929年に聖遺物室confessio跡に建てられたが、現在は土台のみ古代ローマさながらの廃墟と化している

 いわずもがな、7世紀以来ムスリム化されていたこの地に、キリスト教が再進出する契機となったのは、19世紀半ば以降、1881年から1956年までのフランス保護領下のことであった。

今は昔、90年間の時は流れて:左写真の左端の立像はアウグスティヌス像、往事ここでカトリックの大集会が催されていた

 最初にこの地を発掘してBasilica Majorumと断定したのは、アフリカにおけるキリスト教宣教を目的に、1868年にアルジェ大司教によって創設された「白衣宣教師会」Pères Blancs(ドミニコ会系らしい:Ch.-R.アージュロン[私市正年・中島節子訳]『アルジェリア近現代史』クセジュ文庫、白水社、2002年[初版1964, 11e édition, 1999]、 p.87)に所属していたAlfred-Louis Delattre師(1850-1932年)で、早くも1907年4月にペルペトゥアらの墓碑発見を報告している(A.-L.Delattre, Lettre à M.Héron de Villefosse, sur l’inscription des martyrs de Carthage, sainte Perpétue, sainte Félicité et leurs compagnons, in:Comptes rendus des séances de l’académie des Inscriptions et Belles-Lettres, 51e année, N.4, 1907, pp.193-5)。この書簡の宛先の人物は、Antoine Héron de Villefosse(1845-1919年)で、当時フランスで著名な考古学者、とりわけラテン碑文学の権威で、言うまでもなく投稿先の l’Académie des inscriptions et belles-lettresの会員であった。

Alfred-Louis Delattre師        Antoine Héron de Villefosse
Delattre師によるBasilica Majorum平面図:教会堂中央が聖遺物室

 左端のアプシスと右端のAreaを除き、61m×45mの広さの長方形の教会堂の中央身廊の真ん中に3.7m×3.6mの、床モザイクが敷かれたアプシス付き礼拝堂が建てられており、その地下クリプトは聖遺物室となっていて、巡礼が両脇の階段で昇り降りできるようになっていたらしい。礼拝堂のアプシスが教会堂のそれと逆向きになっているので、おそらくAreaがもともと1,2世紀起源の異教墓地で、そこに最初殉教者たちが葬られていたのであろう。但し、Noël Duval, Études d’architecture chrétienne nord-africaine, in:Mélanges de l’École française de Rome, Antiquité, 84-2, 1972, p.1117のFig.19では、教会堂からAreaへの入り口を囲むように小アプシスが、そしてArea内の南側、即ち、聖遺物室のアプシスと同方向に大きなアプシスがそれぞれ描かれており、後者の方は「Abside trouvée en 1929」と表記されている(この二重アプシス構造は、とりわけ北アフリカの特徴のようだ:cf., N.Duval, Les Églises africaines à deux absides : recherches archéologiques sur la liturgie chrétienne en Afrique du Nord, 2vols., Roma, 1971,1973)。ローマ世界では2世紀末から3世紀初頭にかけて火葬(遺灰壺埋葬)から土葬(木・石棺埋葬)への移行期だったので、異教墓地のほうの主流は火葬墳墓だったはず。教会堂とAreaの東側にキリスト教徒の土葬墓が集中的に確認されている他、例外的に教会堂北東の壁沿いに5基が描かれている(以下の写真Fig.3 参照)。

発掘開始時の遺跡の状況
中央の構造物は、聖遺物室から見て北側の列柱付近から出たモザイク付き墳墓か
発掘された聖遺物室のニッチを北側から見る:Rivista di Archeologia Cristiana,7,1930,p.303
聖遺物室の直下に葬られた2つの土葬墓を南側から見る
若干分かりづらいが聖遺物室(手前がそれ)周辺の模式図:西から東方向を見る:上図2121が中央奥
教会敷地北東角の土葬墓写真:ここから最初に殉教者名を記した墓碑断片が出土した由

 そこからDelattre師が1906-8年に発掘した碑文断片は総数4000で、うち最も注目された大理石板の墓碑諸断片は全部で34で、以下上図が師によるその組み合わせ、下図の左が師によるその復元の読み,右がL.Ennabliの読みである。

左はDelattre師の、右はL.Ennabli, ICKart. II, 1982, p.35, n.1の読み

 Delattre師に依拠するなら以下のように読める。「ここに、殉教者たち、サトゥルス、サトゥルニヌス、レウォカトゥス、セクンドゥルス、フェリキタス、ペルペトゥアが、3月7日に受難し(て埋葬され)た。マイウルスは・・・」。興味深いのは殉教者の記載順で、サトゥルス以下四名の男性が列挙されたあとに、フェリキタス、そして最後がペルペトゥアとなっている。この点を突いてくるのが、J.Divjak-W.Wischmeyer, Perpetua felicitate oder Perpetua und Felicitas? Zu ICKarth 2,1, in:Wiener Studien, N.F., 114, 2001, pp.613-627、である。彼らは、この碑銘を男性殉教者のみを書いたものと考え、女性殉教者の名前を「豊穣が永遠(に続きますように)」と誓願定文として捕らえ直すのである。従って女性殉教者二名の記念碑は別の場所(そこが文書史料が触れているBasilica Maiorumということになる)というわけで、面白い指摘である。

 また碑銘の行の頭に✚印がついていて、これと字体をもって現在ではこの墓碑は、師が想定したような殉教直後のものではなく、ヴァンダル支配末期の6世紀初めの製作と考えられている(となると、ヴァンダル時代この聖所は保全されていたことになる、のかも)。

 ちなみに最後のマイウルスなる人物は、テルトゥリアヌス『スカプラへ』iiii.5に「Hadrumetum(現在のスース付近)のMaiulus」として登場しているほか、幾つかの殉教暦では殉教日が3月7日とされているが、 Kalendarium CarthaginensisMartyrologium Hieronymianumでは5月11日になっている。

 以下の石灰岩製の石板も出土している。場所は聖遺物室から南西に数歩のところの、数百の遺骨が埋まっていた深い井戸の中に混じっていたらしい。3世紀の字体で「Perpetuaに、最も甘美な娘に filie dulcissimae」と彫られているが、それが聖ペルペトゥア自身を示しているとしたら、この埋葬場所は彼女が出生したVibii家の所有する墓所だったのか(その場合、カルタゴ出身家系説が有力となる)、それとも処刑された娘のために新たに購入したのか(生地としてカルタゴの西53KmのThuburbo Minus説あり)、はたまた聖女の名前を霊名として頂戴した後世の、またはまったくの別人なのだろうか。私見では上記の新見解も踏まえ、最後の可能性が大と思われる。同様にこの井戸から、彼女と同家名、同名の銘文が他に3例出土しているが、これとて件のVibii家のものと速断するのは慎むべきであろう(cf., Delattre, Comptes rendus, 52-1, 1908, p.61ff.;E, F, G, H)。

 この発掘場所は、現在Mcidfaと呼ばれている場所で、奇しくも第2次世界大戦で戦死したアメリカ兵の広大な墓地が隣接し、また歩いていける距離で、音楽堂Odeon遺跡のそばには2004年に時の大統領Zine el-Abidine Ben Aliの名前の、堂々たるモスクも建設されている。しかし、2011年1月の「アラブの春」「ジャスミン革命」勃発で彼はサウジアラビアに亡命し、その地で2019年9月に死亡しているので、その後モスクはどうなったのだろうか。

手前は米兵墓地、立木の奥に見えるのがZine el-Abidineモスクのミナレット

 墓碑発見後すでに1世紀経過しているが、この墓碑を巡っての論義は活発とは言いがたいらしいが続いている。上記で触れたように、そもそもDelattre師の発掘地点が本当にVictorが述べているBasilica Majorumなのか、ということ自体に疑問があるし、Delattre師たちの発掘方法が問題視されたり(正直、次段落のモザイクの発掘地点がどこなのか、私にはよくわかっていない)、銘文の復元を巡っても異論が提出されている(cf., B.D.Shaw, The Passion of Perpetua, Past & Present, 139, 1993, p.42, n.88, 89)。おそらく聖書考古学での発掘にありがちな最初に結論ありきの決め打ち発掘や、強引な論証、さらには調査方法の杜撰さが指摘されているわけであるが、だがH・シュリーマンのトロイア発掘(1870年代)やH・カーターのツタンカーメン発見(1922年)でもそうだったように、調査方法がまだ手探りだった考古学黎明期では多かれ少なかれそれが普通のことだったというべきか。この件は、このブログでもポンペイでの最近の再調査でこれまでのロマンあふれる解釈がもろくも崩壊していることを考え合わせると納得していただけるかもしれない(2019/4/14)。それにしても、この問題をからめて集中的に掘り起こすと色々面白そうなテーマなので、誰かきちんとやってくれないかな、と思う。

 この遺跡からはキリスト教的モザイクも出土している。時間があればいずれ多少詳しく検討するに値すると思っているが、とりあえず白黒画像をアップしておこう。メダイオン内部の文字列とそとに描かれている鳥(鳩?)などの向きが逆なのが、ちょっと解せないが。ところでカラー版が見当たらない。ご存知寄りの方からの提供を期待している。

右が逆転写真:中段の鳥はブドウの房、下段左の鳥はオリーブの枝をくわえ、右は薔薇の中にいる

 関連で、さらに浴場近くのDermech地区の遺跡(le monastère de Saint-Étienne)からは、モザイクで描かれたメダイオンの中に、5+2名の聖人名が記されていたものが出土している。右端からSaturninusとSaturusの銘文が埋め込まれ、次いでSirica、Istefanus、Speratus、そしてかろうじてフェリキタスを予想させる「・・・TAS」が続き、となるとほとんど失われてしまった左端のメダイオンにはペルペトゥアが想定される一連の殉教者モザイクなのである。これは現在バルドー博物館に展示されている。これもカラー写真が見当たらない(中央部分の2つのは見つけた)。ご存知寄りの方からの提供を期待している。

出土状態:ペルペトゥアとフェリキタスが書かれている肝心の左2つの破損がひどい
左はバルドー博物館での修復後の展示状況,右はSperatusとIstefanusの部分

 ところで、ウェブ情報(https://www.wikiwand.com/fr/Perpétue_et_Félicité)で以下を知った。彼女の聖遺物は439年(ヴァンダル族のカルタゴ占領時)にローマに移動され、それから843年にBourges大司教Raoulにより、フランス中部のSaint-Georges-sur-la-PréeにあったDèvres (ないしDeuvre)大修道院に移され、そこが903年のノルマン人に掠奪された後に、926年に近隣のVierzonに移され、そこの現在の市庁舎に置かれていたが、1807年にNotre-Dame de Vierzon教会内に移葬され今に至っている由。以下の写真は、その教会内のもの。以上の聖遺物の移葬情報はベリー地方の伝承によるものなので、その真偽を問うのは野暮というものだろう。

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ペルペトゥア・メモ(8):聖遺物

 (9)の原稿を書いていて、待てよと思い付き、ググってみたら、なんと幾つかペルペトゥアとフェリキタスの聖遺物に行き当たった。最初の2つは、ドミニコ会O.P.所属のLawrence Lew修道士のウェブ写真の中にあった。残念ながら所蔵場所は不明である。

https://www.flickr.com/photos/paullew/6961176479
https://www.flickr.com/photos/paullew/6815062432/in/photostream/

 もう一つはフェリキタスで、University of Dayton所蔵の160を数える聖遺物の中にあった。大学だからもちろんちゃんとした鑑定書付きである。以下いずれもアメリカ合衆国の事例。

https://ecommons.udayton.edu/uscc_relics/37/

 他に大学関係では、University of Notre Dameにもペルペトゥアとフェリキタスの聖遺物がある由(http://faith.nd.edu/s/1210/faith/interior.aspx?sid=1210&gid=609&pgid=13647&cid=28385&ecid=28385&crid=0)。

 カトリック教会関係では、ミシガン州のKalamazooにあるSt Mary’s Catholic Church所蔵10数個の中にペルペトゥアもある。

 以前、フランシスコ・ザビエルがらみでイエズス会関係の聖遺物が出品されていたことを思い出したので、ebayのオークションも覗いてみた。あっけなくペルペトゥアとフェリキタスがらみで1件出ていた。しかしこっちは「Saints Perpetua and Felicity Kissing Reliquary」と表記されているように、聖遺物というよりは礼拝用の聖具のようで、価格は$1,125。他の多くが$300ー400なので、かなり高価で骨董的な価値があるのだろう。

 以下では、「ローマのフェリキタス」という165年頃の別の女性殉教者の聖遺物との触れ込みで$425で販売されていた(https://www.russianstore.com/en/online-store/catholic-reliquaries/item/1092-theca-housing-relics-of-saint-felicity-of-rome-martyr)他、フランシスコ・ザビエルなどのものも10以上販売中。他にも格安な聖遺物が以下で山ほど販売中。https://picclick.com/Antique-Reliquary-S-Felic-Can-Religious-283794401627.html

 ところでこの聖遺物調査をしていて気付いたのは、聖ペルペトゥアと聖フェリキタスの聖遺物は伝えられているのに、彼女たちと一緒に殉教したサトゥルスたち男性の聖遺物は見当たらなかった、という事実である。また、一見奇妙な事実にも気付かざるを得ないのは、彼女たちの故郷北アフリカで名のある教会で彼女たちにちなんで命名された教会が皆無であるという現象であろう(しかも、Basilica Majorumで発見された銘板だと、男性のほうが明らかに優位にある。参照、ペルペトゥア・メモ(9))。この逆転現象は興味深い。

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ペルペトゥア・メモ:(7)天への梯子

 ペルペトゥアの夢の中に出てくる「天に向かう(ヤコブの)梯子」La scala del cielo(di Giacobbe)に関して、以下の文獻から首尾よくフレスコ画の出版当時の残存状況のカラー画が入手できたので衆知します。

Joseph Wilpert, Roma Sotterranea : Le pitture delle Catacombe romane, Roma, 1903, tavole, Tav.153 ; testo, p.445, Fig.43.
 
 残存フレスコ画(カラー)はTav.153、復元線描画はFig.43、です。後者で、左右の図柄が同じなのはなぜ、と思っていたが、この原画をみたらWilpertの想像ということが今回判明。中央のイエス像も光輪はなかったのでは。出土場所は、Henri Leclercqによると( par Le R.P.dom Fernand  Cabrol, Dictionnaire d’Archéologie Chrétienne et de Liturgie, Paris, II/1, 1910, col.151-2)、cimetière de Balbineとなっているが、Wilpertでは、arcosolio dei Santi Marco e Marcelliano。製作年代は四世紀末となっているよう。

 この本は、国内では京都大学のみが所蔵していたので、コピーを取り寄せましたが、さすが京大図書館職員で、註記にTav.153, 164が出ているが、と問い合わせがあり、そっちも送ってくださいとお願い。半分当たりで首尾よく上記のカラー版が得られました。古書検索したところ、約90万円で購入可能です。どなたか私、というよりも上智大学図書館に寄附していただけると有難いのですが(^^)。

 実は上智大学には、なぜか以下が所蔵されてます。20年ほど前にそれを見つけたとき狂喜しました。でも・・・ドイツ語とはいえ、出版年など書籍データがイタリア語版とかなり重複しているので、ひょっとして同内容? 明日調べてみましょう。
 Joseph Wilpert, Die Malereien der Katakomben Roms ; Textband, Tafelband, Freiburg, 1903.

 調べたら、構成的に同じでした。かなり痛んでいるので、貴重図書にでもしてほしいと思う。さて、どちらが原文なのでしょうか。ドイツ語版は他に、立教大学、早稲田大学、東芸大が所蔵してます。

 なお、Via Latinaのカタコンベには、320-350年頃の次のフレスコ画がある。

 また、スペインのブルゴスには、四世紀中頃の日付の、以下のような石棺がある。その中央に梯子が。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、一生の思い出である。こんな石棺のことなど知りもしなかった。も一度行きたいと思うが、歩きではもう無理なのが悔しい。

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40年振りに再公開:ポンペイ「恋人たちの家」(I.x.11)

 時々覗いている「Archaeology News Network」(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/02/pompeii-house-of-lovers-reopens-to.html)に情報が。今度、渡伊したら必ず突入しなければ。

 場所はI.x.11の、Casa degli Amanti。1980年の地震による修復がようやく終わって、この火曜日(2/18)からの公開らしい。確かに以下の写真ではぼろぼろであった。https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R1/1%2010%2011.htm

 この家の名称は、以下の落書きに依っている(上図の部屋13の入り口南側に面した、列柱廊10東側の壁):“Amantes ut apes vitam mellita exigent.” :「恋人たちは、蜜蜂のように、蜜の(甘い)生活を営む」[CIL IV 8408a];この落書きの下に以下も見える。”Velle”:「そうあれかし」[CIL IV 8408b]

アヒルの下にも落書きがある。”・・・ Amantes cureges” [CIL IV 8408cでは、”Amantes Amantes cureges”と読んでいて、最後の単語は‘scil.curae egentes, vel egeni sunt’と注釈つき].「恋人たちは恋人たちの世話を焼きたがるものだ」といった類いの意味か。

 このフレスコ画の近くに、以下もあるらしい。”C(aius) Ann(a)eus / Capito / eq(ues) coh(ortis) X pr(aetoriae) / c(enturia) Grati”  [CIL IV 8405]:ガイウス・アンナエウス・カピト、第10近衛歩兵連隊騎士、グラトゥス中隊出身

【ついでに一言】ポンペイ関係でググっていたら、たぶん新顔で「Visitare Pompei」(http://www.visitarepompei.org/buy_now.php?order=23 )という画像解説に行き当たった。24時間使用で6ユーロ。かなり期待して試しに購入して見たが、まったくの期待外れだった。誰にもお勧めしません。金返せ〜。

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ペルペトゥア・メモ:(7)総督代理Hilarianusについて

 『受難記』VI.1以降で、とある都市の公共広場でペルペトゥアたちの裁判が開催されたことがわかる。その場所を研究者たちは例外なくカルタゴと考えてきているが、当時、属州総督=裁判官は管轄属州の主要都市を巡回していたので、なにも州都(今の場合はカルタゴ)である必要はないが、まあ州都での出来事としたいわけだ。彼女たちが収監されていた場所から歩いていける範囲に円形闘技場があったので、カルタゴがその条件を満たしているという事情もある。

 彼女たちの裁判官は「財務管理官procurator ヒラリアヌスHilarianus」だった。元老院管轄属州で最高の格式を誇っていたアフリカ州には当然執政官格の元老院身分が派遣されるのが常だった。ヒラリアヌスは「そのとき属州総督proconsulで死去したミヌキウス・ティミニアヌスMinucius Timinianusの座にいて死刑執行権ius gladiiを拝命していた」、要するに現職の総督が在任中に死亡したので、後任総督が派遣されるまで(ないし、次年時になるまで)、臨時に勅命によりおそらくカルタゴないしその近辺で皇帝直轄領の財務管理官だったヒラリアヌスが任命されたのであろう。Rives, 1996, p.5は、その線で年給金が10万セステルス級のprocurator provinciae Africae tractus Karthaginiensisと、20万級のProcurator IV publicorum Africaeの二つの候補を挙げ,後者と想定している。それが騎士身分の最高位であり、アフリカ属州のproconsulの代理にふさわしいとの判断からである。

 さて、その元来の職掌からヒラリアヌスは宮廷奴隷ないし解放奴隷出身者だった可能性が高い。そもそも命名法的にも本『受難記』で故意にcognomenのHilarianusのみで記され、他方proconsulという職名から元老院身分が確実な前任総督が姓名二単語Minucius Timinianusで表示されていることからも、それは傍証されるだろう。編纂者は冷厳に彼らの身分的違いを見極めていたのだ。

 奇しくもこのヒラリアヌスについて、同時代人テルトゥリアヌスが212/3年頃書いた『スカプラへ』ad Scapulam,3.1で以下のように述べている。「私たちは嘆かざるを得ません。いかなる都市も私たちの血を流して罰されずにはいられないだろうからです。属州長官ヒラリアヌス下でsub Hilariano praesideのようにです。人々は私たちの墓所の土地についてde areis sepulturarum nostrarum叫んだのです。’(キリスト教徒のための)土地などないareae non sint!’。(ところが)なくなったのは、彼ら自身の脱穀場areaeのほうでした。というのは、彼らは彼らの収穫物に事欠いたのです」。すなわち天罰として天変地異が異教徒を襲った,という意を同音異義語のだじゃれ含みで述べている(参照、大谷哲訳『歴史と地理』No.664, 2013-5, p.30;但し要修正)。ここで注目すべきは二点で、まずpraesesと当時もっぱら騎士身分担当属州の総督に付与された名称を使っていること。即ちここでも書き手のテルトゥリアヌスはヒラリアヌスの所属身分を明確に意識して殊更明記している。またそこでの叙述内容からは『受難記』とは別のキリスト教徒迫害理由が浮かび上がるはずである。

 1968年に公表された2つの碑文史料(A.Garcia y Bellido, Lapidas votivas a deidades exoticas halladas recientemente en Astorga y Leon, in : Boletín de la Real Academia de la Historia, 163, 1968, pp.203-204, figs.4 & 5 ≒ AE, 1968, 227, 228)を投入して、新たな知見が展開されるようになった。出土場所はスペインのレオン県のアストルガ。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、こんな碑文のことなど知りもしなかった。

 T.D.Barnes, Tertullian, Oxford, 1971, p.163 ; W.Eck, Miscellanea prosopographica, ZPE 42, 1981, p.235f. ;J.B.Rives, The Piety of a Persecutor, in: Journal of Early Christian Studies, 4-1, 1996, pp.1-25(idem, Religion and Authority in Roman Carthage from Augustus to Constantine, Oxford, 1995, p.244);Barnes, Early Christian Hagiography and Roman History, Tübingen, 2010, pp.304-7.

p.203 fig.4:男神たちと女神たちーー万神殿内で嘆願されるが正当かつ当然であるーーに、P.Aelius Hilarianus、Publiusの息子、皇帝財務管理官は、子供たちと共に、正帝・・・の安寧のため・・・

p.204 fig.5:Jupiter Optimus Maximus,、Juno Regina、Minerva Victrixに、P.Aelius Hilarianus、Publiusの息子、皇帝財務管理官は、子供たちと共に、敬虔かつ豊穣の正帝・・・の安寧のため・・・

 名前が削り取られた皇帝(たぶんコンモドゥス帝:在位180-192年)の治世下にスペインのアストルガで、Publius Aelius Hilarianusが財務管理官として奉職中に、子供たちと共に皇帝の安寧を願って2つの奉献を行った。ここでのヒラリアヌスが、203年ごろに北アフリカ属州カルタゴ付近に派遣されていた者と同一人物、と考えるわけである。それを、H.-G.Pflaum, Les Carrières procuratoriennes équestres sous le Haut-empire romain, Suppl., Paris, 1982, p.117 や、W.Eck, RE Suppl., XV, 1978, p.3, 69a)は、彼の職名を同じく20万級のprocurator Hispaniae Citerioris per Asturiam et Gallaeciam、ないしprocurator Hispaniae Taraconensisであると結論している。そして彼の父の名前もPubliusだったことが分かる。

 献辞文の一つはよろずの男女の神々に捧げられ、もう一つは帝都ローマのカピトリウムの三対神(ユピテル、ユーノー、ミネルウァ)に若干古風な用語で献辞している。これは、彼がローマ伝統の諸神格を崇敬していたことを示しているはずで、これを根拠にRivesらは、かく伝統的宗教に敬虔だった人物が、キリスト教徒たちのごとき蛮族的諸迷信に好意を示すことなどありえない、他方、他の属州総督たちは多くの場合、彼ほど宗教や迷信の諸問題にたいして興味を持たず、ただ単に彼らが理解した限りでの、一般的な諸先例に準拠して法律や命令を実施していたにすぎない、要するに、ヒラリアヌスをかなり熱心な異教信仰者として描いているわけである。しかし、そもそも公人としての宗教儀礼を個人的宗教心の表れと直結するのは先に結論ありきの安直すぎる理解だし、『受難記』を読む限り、私は、彼自身もレベル的に他の総督たち以上に熱心にキリスト教迫害していたとは思えない。たまたま副帝ゲタの誕生日祝賀の下達があり、それに必要な死刑囚を得ようとしただけのこととみたいのだが、上記テルトゥリアヌスの表現からは、キリスト教徒の墓地所有が問題になっていた可能性がある。真実は奈辺にあったのだろうか。

 さて若干余談ながら、同様に碑文研究から、このカルタゴのヒラリアヌスの子孫も孫の世代まで想定されている。息子P.Aelius Apollonianusとその息子でPrimipilaris職にあったP.Aelies Hilarianusである。

 続きとしていずれ、先任総督ミヌキウス・ティミニアヌスについて言及するつもりである。

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