デザインと打刻銘文はまったく同じ(ただ明らかに彫り手は違っている:よく見ると頭髪の襟足部分も異なっているが):表側が右向き月桂冠着装の皇帝ネロ(銀貨のほうは顎髭あり)、銘文は「NERO CAESAR」。裏面は、皇帝が放射冠をかぶって、トーガ姿で全体は正面を向いているが、左足をやや折り曲げ、右手に小枝、左手に円球の上に立つ女神Victoria像を持し、皇帝の顔は女神に向いている。銘文は「AVGVSTVS GERMANICVS」。彼の正式称号はNero Claudius Caesar Augustus Germanicusなので、ちゃんと符合している。
論文検索していて、偶然見つけた。使いこなせればなかなか有用に思える。”ORBIS:The Stanford Geospatial Network Model of the Roman World.” 19 November 2014(http://orbis.stanford.edu/). 人も物も、そして感染症もこれらを通じて移動していく。
もう少し時代が下ると、パーカーはこのように考えを表明している。「疫病はローマ世界を打ちのめした。多くの地方は、ほとんど人が住まないようになってしまった。おそらくは、他のどんな要因にも増して、ローマ帝国の衰退の原因となったことだろう」。ボークはそれよりも20年ほど後の1955年に、重要な著作Manpower Shortage and the Fall of the Roman Empire in the West において、実質的に同じ意見を踏襲している。特に注目すべきなのは、以下の点である。マルクス・アウレリウスはマルコマンニ戦争の末期に、「ローマ軍に兵力を供給する義務を持った土地所有者として、敗れたマルコマンニ族を帝国内に定住させるという手段に訴えなければならなかった。明らかに、マルコマンニ族を配置する誰もいない土地を見つけることは困難ではなかった」。
多少「マルクス・アウレリウスの疫病」を勉強してみると、より最近の疫病研究である意味画期だった2篇が浮かび上がってきた。重要学説としては以下だろう。J.F.Gillian, The Plague under Marcus Arelius, American Journal of Philology, 82-3, 1961, pp.225-251. この、文書文献の記述内容を抑制的だったギリアムの所説に35年後にその後の成果を加え、一定の修正を施したのが、以下である。R.P.Duncan-Jones, The Impact of the Antonine Plague, Journal of Roman Archaeology, 9,1996, pp.108-136.
320年シルミウム造幣所打刻の、コンスタンティヌス大帝(表側:CONSTANTINVS MAX AVG)、クリスプスとコンスタンティヌス2世(裏側:CRISPVS ET CONSTANTINVS CC:SIRM)の三皇帝の肖像画を刻印したAR Miliarenseで、出品者想定価格は$7750。まず私などの手にはおえない。
問題は「テリアカ」theriacaである。それについては、ガレノス『解毒剤について』1.1(14.4K)、『テリアカについて、ピソのために』15-16, 14.270-84Kあたりに書かれているらしいが、ずばり「皇帝のテリアカにはアヘン(「ケシの実の液」)も入っていた」由で(p.230f.)、要するにマルクス・アウレリウスはアヘン常用者だったと。この件は最近の文獻だと、Heinrich Schlange-Schöningen, Die römische Gesellschaft bei Galen:Biographie und Sozialgeschichte, Untersuchungen zur antiken Literatur und Geschichte, 65, 2003, Berlin, p.198-204で触れられている由だが、ガレノス処方のそれは3、4%で、マルクスは毎日「エジプト豆の大きさ」分の量を服用していた(『解毒剤について』1.1., 14.3K)、すなわち、一服ごとに33ミリグラムのアヘンが入っていたことになるらしい(Th.Africa, The Opium Addiction of Marcus Aurelius, Journal of the History of Ideas, 22, 1961, pp.97-102=Schlange-Schöningen, op.cit., p.202あたりの算定による)。これは生アヘンとしては少量ながら十分効果がある量だったらしい(p.231)。
大略は今は昔30年前になるだろうか、全学の1年生対象の西洋古代史概論あたりで言っていた内容の拡大版といった趣である。といってもせいぜい1,2コマでの扱いだったので、その時の受講生たちがどれほどの現実味をもって私の授業を聞いてくれたのかには自信はない。おそらくはるか昔の医学が未開の時代のことで、自分たちの人生にはありえない、無関係、という脳天気なものだったに違いない。しかしこれは研究者においても同様で、疫学的な視点から歴史の転換点を探ろうなどとは、よほどの変わり者として扱われるのがオチで、実際私は変人なのだろうが、さて現況に直面してみなさんどう感じていらっしゃるのだろうか、聞いてみたい気がする。要は、どれほど切迫して該時代の出来事を捉えることが可能か、という再構成能力、想像力の問題だと思うのだが。ただ油断ならないのは、研究者の中にはさすがに変わり者がいて、たとえば、J.Rufus Fears(1945-2012年)などは、ごちゃごちゃ弁解じみたごたくを述べず直球で、166年のローマ帝国を現代のアメリカ合衆国と対比する観点をあっけらかんと主張している(The Plague under Marcus Aurelius and the Decline and Fall of the Roman Empire, in:Infectious Disease Clinics of North America, 18, 2004, pp,65-77)。私としては、彼のローマ帝国に関するギボン的超楽観的論述は脳天気すぎてありえないと思うが、この比較というより、国際化した現代社会における感染症の猛威については、彼はさながら予言者であった、と思う。何しろ彼は、この疫病がキリスト教興隆の決定的要因であったことを指摘するだけでなく、現代のバイオテロの脅威までもそこで見ているからである。彼にはそれがより鮮明な表題の、以下もある:The Lessons of the Roman Empire for America Today, Heritage Lectures, No.917, 2005, Pp.8.
前もって確認しておきたいのは、当時の医療水準のことである。細菌はもとよりウイルスに関する知識もなかったかの時代、病気の原因は、インドを淵源とするギリシア的四体液説に基づき、四体液のバランスが崩れたためとされていた。特に感染症は「悪い空気」=瘴気を体内に取り込んでしまったことに求められ(イタリアの風土病マラリアも、イタリア語の「悪い空気」mal ariaに由来している)、したがってその予防策は瘴気から極力隔離すること、そしてもっとも効果的な治療は体内からの毒素の排出によるバランスの回復(基本的には自然治癒能力を信頼)、すなわち瀉血と考えられていた。日常的経験則から導かれたこの医療観は19世紀に至るまで広く支持され続けていくのである(逆にいうと、我々に身近な医療は19ないし20世紀以降のものとなる:実際、森林太郎陸軍省医務局長の誤った脚気説に代表されるような、多くの試行錯誤があったことを忘れてはならない)。古代ローマの医学を論ずる場合、ヒッポクラテス学派、ガレノス学派が主流で、ともっともらしく述べられるのが普通だが、もちろんそのレベルでさえ当時の一般庶民にとっては間遠く、実際には、病因を呪いや悪霊の祟りとする民間療法をはじめ多種雑多な俗説と有象無象の医療従事者が存在し、活動していたことを失念してはならない(もう一つのアスクレピオス医療団は、さてどのあたりに位置していたのやら)。それを実感したければ、図書館でケルソスやガレノスの当時の医学書や、大プリニウス『博物誌』をちょっと繙くだけでいい。たとえばガレノスは、痛風の治療に腐ったチーズと煮て酢漬けにした豚足を膏薬に混ぜ込んで塗る、といった類いのことを大まじめに書いている。今の我々には読むに耐えない稚拙かつ荒唐無稽な内容の羅列であり、しかもそれが効果的だったとしているのだから、なにをか言わんやである(ガレノス『単体薬の混合と諸力について』10.2.9(12.270-271K):これはS.P.マターン(澤井直訳)『ガレノス:西洋医学を支配したローマ帝国の医師』白水社、2017;Susan P.Mattern, The Prince of Medicine : Galen in the Roman Empire, Oxford UP, 2013、の冒頭のエピソードである)。
いみじくも、その疫病と同時代を北アフリカで生きていたキリスト教徒テルトゥリアヌス(160年頃ー220年頃)が彼一流の皮肉を交えながら喝破したように、天変地異はキリスト教迫害のきっかけとなった。「もしティベリス河が増水して水が堤防を越えたならば、もしナイル河が増水しないで田畑に水を引くことができなかったならば、もし天候がいつまでも変わらなかったならば、もし飢饉が起こったならば、もし疫病が発生したならば、彼らはたちまち、《キリスト教徒たちをライオン(単数)へ:Christianos ad leone》と叫ぶ。いったいどのようにして、これほど多数のキリスト教徒を一頭のライオンに食わせることができるのか」(Tertullianus, Apologeticum, 40:金井寿男訳『護教論』水府出版、1984、p.121)。
昨日、美術史の後輩から教えてもらった以下の本が届いた。Idler Garipzanov, Graphic Signs of Authority in Late Antiquity and the Early Middle Ages, 300-900, Oxford UP, 2018. パラパラとめくっていたらその55ページに、なんとコインの表側だけにせよEの予期以上に鮮明な写真をみつけたのである。そのキャプションには、登録番号(inv.no.OH-A-ЛP-15266)まで明記されているではないか。スキャンしようとして、ふと思いついてググってみると、あっさりウェブ画像にもうアップされていた。それが以下の写真の上図右側で、中央はいつでも出てくるMである(博物館のHPに登場しているのであたりまえであるが)。左のWは摩滅で細部が不鮮明であるが、今回のEとの比較から、特に馬のたてがみや兜の羽毛飾りや皇帝の髪、それにぐっと下を見据え、顎を引いた細面の顔全体の表現の仕方から、おそらくEとWが同一金型だった可能性が強くなったように思われる。もちろん更に、裏側の詳細な比較検討が必要なことはいうまでもない。裏面の鮮明な画像の所在をご存知の方からの情報提供を期待している次第である。