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広島平和都市法の寺光忠、それにアルペ神父のこと

 朝起きてテレビをつけたらNHK総合でなぜか広島の平和都市建設法のことをやっていた。途中からだったが、そこでの恩人ともいうべき寺光忠氏(1908-1996年)に興味を持って検索してみたら、旧制広島高校から東大法学部に進み、1949年当時、参議院議事部長だった(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27163)。彼のアイディアで日本国憲法の第95条を根拠に、「広島平和記念都市建設法」制定に向けて動いたのだ。

 それ関連で、中国新聞の原爆資料館情報も眼にとまった。かつて触れたことがある長岡省吾氏もそこに登場してたのはいいが、「ヒロシマの地質学者の執念が詰まった原爆資料館。だが、年間100万人を超す入場者であふれる展示場にもパンフレットにも「長岡省吾」の名前はない」と書かれていて、気になった(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27269)。そう、放っておくと忘れられていくわけだ。

 ペドロ・アルペ神父(1907-1991年)もヒットした(中国新聞:検証ヒロシマの半世紀 検証ヒロシマ 1945〜95<20>宗教:https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27313;せせらぎ:特集13「アルペ神父(2006年)」:https://seseragi-sc.jp/story-cat/特集13%E2%88%92アルペ神父/)。スペイン人の彼については改めて解説する必要はないだろうが、原爆投下時に広島市(当時)北郊外の長束のイエズス会修練院長で、のちにイエズス会第28代目総長(1965〜1983/1991年)も勤めた。

 彼の列福運動もはじまっているようだ(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=134939:http://catholic.hiroshima.jp/pdf/fr_luis_cangas_20210805.pdf)。彼の墓所は一旦はサン・ロレンツォ・フォリ・レ・ムーラ教会裏のカンポ・ヴェラーノ墓地のイエズス会区画だったが、現在、ローマのジェズ教会のフランシスコ・ザビエルの祭壇右の隣接礼拝堂にあって銘板が掲示されている。その移葬についていかにもイタリア的な噂話を聞いた記憶がある。イエズス会側の担当者がお金は一切必要なかった、と言っていたと。

【付記】イエズス会日本管区は関係者からもうひとり総長を出している。2008-2016年の第30代アドルフォ・ニコラス神父(1936年スペイン生れ;2020年帰天)。現総長アルトゥロ・ソサ・アバスカル(2016年〜)は、初の欧州外出身(ベネズエラ人)。なお現教皇フランシスコ(イタリア系アルゼンチン人:在位2013年〜)は史上初のイエズス会出身。この世代はアルペ総長の刷新活動(社会正義の促進・解放の神学)の影響を少なからず受けているはず。

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『ビジュアル世界の偽物大全』を買った;そしてイエズス会士

 日経ナショナルジオグラフィックからの出版で、今年の6月出版とまだ日が浅いせいか古書でも安くないので、しょうがないなという感じで購入した。

 当方のねらい目は、考古学上でのそれとかが書かれているのでは、というあたりだったのだが、トリノの聖骸布も簡単ではあるが掲載されている。時代的に興味をひかれたのは、死海文書に先行する「発掘物」があり、それは偽物とされて消えてしまったことで、そんなこと私は全然知らなかった。

 それにしても、手に技をもっている者が贋作・模作にチャレンジしてしまうのは、人間の性(さが)とでもいうしかない。

 ピルトダウン人のところで、学生時代に傾倒して読んだ『現象としての人間』 (Le Phénomène Humain)の著者、イエズス会士テイヤール・ド・シャルダンが出てきたのには55年振りの久々のことでいささか虚を突かれたが、北京原人といい、発掘には贋物がつきもののようで、しかし真偽の検討などこちらには判断基準がないので、なかなかてごわいことだ。

Pierre Teilhard de Chardin, SJ(1881/5/1-1955/4/10)

 横道に逸れるが、今回はじめて、当時、カトリック教会内で批判され続けていたテイヤール・ド・シャルダンを、なんと後の教皇ベネディクト16世になるあの厳格なヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿が擁護していたということを知って、いささか驚いた。今となっては時代遅れのテイヤール・ド・シャルダンの業績であるが、当時のカトリック教会主流に臆することなく研究的に一歩踏み出すことを恐れなかった彼の生き様は、いかにも時代を果敢に先取りするイエズス会士の真骨頂を示していて、あらぬ憶測からようやく最近名誉回復された教父学研究者ジャン・ダニエルーJean Daniélou SJ 枢機卿ともども、私は強い親近感を感じてきたのである。

Jean Daniélou SJ 枢機卿(1905/5/14-1974/5/20)

 以下参照:2024/1/3「ジャン・ダニエルー枢機卿の名誉回復」

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今年は手に入りそう! ボンチ・パンブリアコーネ

 昨年は賞味できなかったので諦め果てていたクリスマスの恒例のお菓子、ボンチBonci社のパンブリアコーネPanbriaconeだが、ワインをチェックしていて偶然どうやら発注できそうなことが分かったので、さっそく1kgを一つ頼むことにした。久々に大物なのがうれしい。本当は2つほしいところだが、1kgだと一つ8640円もするのでがまんするしかない(500g、5400円もあるがこっちは別途送料が必要)。11月末到着の予約なので今の時期を逃すと入手できない。これでクリスマスが来る実感がいやましに高まる。

 これは普通のパネットーネに6種類のパッシートワイン(収穫したブドウを陰干しにして糖度を高めてから醸造するワイン)を浸み込ませた、しっとりとした味わいの大人のスイーツ。フランスのケーキ、サヴァランほどびちゃびちゃしていない。一度食したらクセになるはず。騙されたと思って一度注文されたらいかがかと。

【追伸】ぐぐっていたら、こんな情報も。https://italiawine.exblog.jp/29664202/

 あと、こっちでは削除した季節の食べ物関係、もひとつのブログの方には残している。一応メモっておく。

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食糧危機問題を考える

 少し前、昆虫食が話題となった。そもそも人類は農耕牧畜が定着する前にはありとあらゆるものを食の対象にして生きる雑食動物だった。もちろん昆虫も。そうしなければ生きていけなかったのだ。それが現在のようにごく限られた食物に依存するようになったのは、農耕牧畜以降のことで、それが都市生活においてスーパーなどでの流通野菜で一層限定化するなかで、選択肢が狭められて、食生活による人間家畜化すら叫ばれるようになっている。しかし、それにしたところで未だ世界全体では3億人以上が食料不安に直面している状況がある(https://ja.wfp.org/global-hunger-crisis)。

 そのうえここに来て、近未来の食糧難についての新刊がまたまた話題となっているようだ。髙橋五郎『食糧危機の未来年表』朝日新書、2023/10、¥979。曰く、「日本の食料自給率は38%──実際は18%でしかなかった! 有事における穀物支配国の動向やサプライチェーンの分断、先進国の食料争奪戦など、日本の食料安全保障は深刻な危機に直面している。… 先進国の「隠れ飢餓」という実態を暴く。」

 こういう危機を煽る書物はいつの時代にも出てくる。たとえば、1960年代末から80年代にかけて食品添加物がらみで多数の本を書いた郡司 篤孝を私も興味を持ってかなり読んだのだが、添加物のため日本人の平均寿命は数世代後には40歳台になると予想・警告していた記憶がある。私の世代が食品添加物にサラされて生きた1世代目なので、あれからまだ2世代もたっていないが、とにかくその予言ははずれてしまっているというわけで、今だと「闇雲に危険だ危険だとセンセーショナルに騒ぎたてているだけでナンセンスなのでおすすめしません」(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1460759344?query=郡司%20篤孝)と一刀両断に切り捨てられてしまっている。しかし悪徳業者がいるのは常識なので、すべてがウソだとは思わないのだが、まあ大袈裟なのである、というか人体のほうがそれなりに対応してきたようでもある。先日、解剖医のテレビドラマを見ながら妻がぼろっと言っていた。最近の死体は昔よりは腐敗しにくくなっている、どうやら食物で摂取してきた防腐剤のせいらしい、と。

 こういう問題を考える場合、昆虫食の道を探るとか肉資源への穀物投入を問題視するとか以前に(それも重要であるが)、実は耕地拡大で人類は大規模に自然破壊を促進させた挙げ句、現在は世界的に広大な放棄農地が存在している、といった視点も重要だと思わざるを得ない。むしろそこに現代社会の諸矛盾が集約的に表現されていると考えるからだ(https://dot.asahi.com/articles/-/204659?utm_source=yahoo_rss&utm_medium=referral&utm_campaign=yahoo_relatedLink)。

 ま、先のない私には関係ない話かもしれないが。だからというわけでもないが、明日あたり北海道からふるさと納税対象のホタテが届く。原発排水問題で中国や韓国が海産物を買わなくなり、苦境におちいっていると報道されているが、私の居住している範囲ではスーパーなんかから姿を消してしまっているので、同じ日本人でも商業ルート的には助けようとはしていないようで、ぐぐってみたらふるさと納税品でしかヒットしなかったせいでもある。せいぜい体内蓄積して盛大に火葬場に持っていこうと思っている。嫁さんも賛成してくれているのがありがたい。

 

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今年も季節の食べ物、西条柿が来た

 スーパーに奈良方面の柿がでまわるようになり、二つづつ買っていたが、これには種がなかった。

 西条柿は例年10月末からの賞味で、今年は鳥取の八頭産を5kgお委せで予約していたら、10/25到着、開封は26日と書いてあって(渋抜きでドライアイスが入っているため)、翌日さっそく食したが、そのときは普通の堅さだったのに、28日夜には早くも全体に柔らかくなっていた。その速度の速さにはちょっと驚いた。昨年はそれでちょっと失敗したので、せめてもの抵抗で、大部分を冷凍・冷蔵庫に移動させることにする。最初硬いうちは食べていた妻はじゅくじゅくのほうは嫌いなので、一人で頑張って食すしかない。

 今年の夏は帰省の都合で、小イワシの刺身を食し逃したが、西条柿ともども来年食することできるだろうか、とつい思わざるを得ないのも歳のせいか。そうそう、春先のタロッコ・オレンジもあったな。これは国内産で食せるので安心だが、でも、初秋の名物フンギ・ポルチーニ直径20cm級のカサをソテーで食せたのは20年以上も前のローマで、最近のは小ぶりなので、それっきりの得がたい体験だったなあ。

 

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旅での危険な虫 2023/10/25

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/23/102300544/?P=1

 旅行に限ったことではないが、旅行していると罹患しかねない、害虫のお話。

 トコジラミ、ダニ、蚊あたりがポピュラーか。私は蚊以外これまで実害ないけれど、他の人からは聞いたことある。寝台列車のクシェットでとか、ホテルのベッドでとか。トコジラミは昔の欧州では何年かおきに流行していたようだが、最近はさてどうだろう。しかし旅行客は一見の客なので、まあ防ぎようがないわけで、僥倖を祈るしかないような。下記写真は50倍に拡大したトコジラミの顔。

 蚊については、ポンペイでは贔屓のリストランテの庭でいつも悩まされ、無粋だが食事の場にスプレイ持ちこんだりもしてきた。今年の夏は、地階に住んだせいか若い同伴者が悩まされていたが、年寄りの私にはほとんど寄りつかなかった。

 そういえば、留守の長い実家に帰省したとき、畳の上でうたた寝したあと唇の下がかゆいのでボリボリかいたのだが、体液が滲んできて放っておいたら、後日そこに傷跡が残ってしまっていた。何かに噛まれたせいなのだろう。

【追伸】トコジラミ(本当はシラミではなく、カメムシの一種)は最近は国内でも増えているそうだ。https://mainichi.jp/premier/health/articles/20231031/med/00m/100/009000c?utm_source=article&utm_medium=email&utm_campaign=mailhiru&utm_content=20231106

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聖ペルペトゥアつながり

 Liturgical Arts Journalで他のことをググっていたら、以下が見つかった。

https://www.liturgicalartsjournal.com/2022/08/the-carolingian-frescoes-of-church-of.html

 場所は、北イタリア・ロンバルディア地方で、スイスとの国境近くのTirano。

 この地の聖ペルペトゥア修道院で、1987年、偶然にも漆喰が壁から剥がれ落ちて9世紀と想定されるカロリング時代のフレスコ画が発見された。そこに描かれていたのは、殉教者聖ペルペトゥアを中心に、聖ペトロ、聖パウロ、聖ユダ、聖マタイ、聖ヨハネ、聖ルカ、大天使聖ガブリエルが描かれた連作であった。

これらのフレスコ画は、形と色彩の両方において、活気に満ちており、その様式は明らかに、最初の千年紀の教会美術伝統の中に起源を持つものである。

 左が奇妙に保存状態のいい大天使ガブリエル、右はマタイとユダ、こっちはやや漫画チック。明らかにタッチが違うような。

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「充分です、主よ、充分です」

 10/23日に月1の読書会が我孫子であった。そしてJR我孫子駅に設置されていたデジタル掲示を見るともなく見ていて、えっ、と驚いた。それは茨城県の観光案内だったのだが、県の表示が平仮名で「いばらき」となっていたのである。それまで私は「いばらぎ」だと思っていたので、あれれと。大阪の方にも「茨木」市があって、こっちのほうは正真正銘の「いばらぎ」だとおもってきたのだが、調べてみたらどうやらこちらも「き」のようで、二度びっくり。

 そんなこんなの翌日の今日の夜、NHK総合で偶然「名品の来歴」をみた。聖フランシスコ・ザビエル画像がテーマだったが、かなり漫画チックな砕けた内容構成で楽しく見ることできたのだが、内容的になかなか見応えがあった。そこで出てきたのが大阪府茨木市、そう、その市内の千提寺(せんだいじ)で、件のザビエル画像の掛け軸がその地の隠れキリシタン東家の開かずの櫃の中に他の遺物と共に保存されていたが(この地の隠れは10軒ほどだった由)、300年後の大正9(1920)年に公開されたこと、それを金持ちでケタはずれのスケールのボンボン池長孟[たけし]が買い上げたエピソードはよく知られている。ちょっと前のNHK朝ドラ「らんまん」のモデル牧野富太郎の借金を肩代わりして(そのとき彼はまだ京都帝国大学学生だった)「池長植物研究所」を創設したのは、弱冠26歳の時だった。南蛮美術に特化した私立「池長美術館」を開館したのは1940年、彼が49歳の時で、その所蔵品は戦後神戸市に寄贈された。

 件の絵図はおそらくイエズス会のセミナリヨで洋画を学んだ日本人絵師が描いたものであろうが、高山右近の旧領だった地に潜伏キリシタンによってどうやら宣教用具一式の中に混じって隠匿されてきて、それらは現在、その千提寺にある茨木市立キリシタン遺物史料館と、神戸市立博物館にそれぞれ保存展示されている由で、なんだか見学にいきたくなってしまった。

 ザビエルの口から出ているラテン語の言葉が「充分です、主よ、充分です」SATIS EST DÑE[Domine] SATIS ESTであることはよく知られているが、今回の番組で掛け軸の下の黄色地に書かれた万葉かな?の意味を初めて知った。「瑳聞落怒青周呼 / 山別論廖 / 瑳可羅綿都 / 漁父環人」(聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント ローマ教皇[認可])

 テレビではそれとは別に長崎の日本二十六聖人記念館所蔵の「雪のサンタ・マリア」の掛け軸も出てきたが(ご覧のようにかなり痛んでいる)、あの題材はローマ市のサンタ・マリア・マッジョーレ教会創建時の故事に拠っていて、並みいる教会堂の中でも私が最高に好きな聖堂の一つがマッジョーレで、それつながりでこれも思い入れ深いものがある。

《付加》

 私が時々覗く「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」によると、教皇は、2023/11/12の慣例の日曜正午のアンジェラスの祈りでハマス人質の解放とパレスチナでの停戦を改めて呼び掛け、「十分! 兄弟たち、もうたくさんだ!」(Genug! Genug, Bruder, genug!)と叫び、「全ての人は平和に生きる権利を持っている」と語った(バチカンニュース11月12日独語訳)。

 意味は真逆であるにしても、やっぱりフランシスコ教皇はイエズス会員なんだなと、再認識。

【付記】2024/1/24 23:00- BS朝日1 レジェンドキュメント「花在ればこそ吾も在リ:世界的植物学者を支えた神戸人」を見た。これは2012/12/23にサンテレビで放映されたもの。詳しくは以下参照。https://www.bs-asahi.co.jp/legendocument/lineup/prg_072/

「日本植物学の父」と呼ばれる植物学者・牧野富太郎を支えた神戸ゆかりの2人にスポットを当てたドキュメンタリー番組。近代植物分類学を築いた牧野を、資金で支えた神戸の資産家・池長孟(はじめ)。そして「アメリカの発明王」エジソンの助手を務めたこともある撮影技師・岡部芳郎。2人と牧野の接点はどこにあったのか。なぜ彼らは牧野を支援したのか……。
それぞれの関係を紐解きながら、世界的植物学者を支えた2人の神戸人に迫る。

 さすがの池長猛も牧野の膨大な植物標本を持てあまして、整理することなく東京に送り返したらしい。

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最近の古代史関係情報

 帰国以来、10月に入ってカルチャがらみで多忙だったが、昨日でようやく一段落ついた。とはいえ、来週月曜の準備をこれからしなけりゃならないが。そうそう、ローマでの盗難騒ぎの後始末も、一昨日のシルバーパス再発行、昨日の銀行訪問で新しいカードが送付されることになり、こっちも一段落だ(旅行傷害保険への申請は大した物損でないのでやってない)。それにしても以来軌を一にして詐欺メールがおびただしく送られて来ていて(銀行や信販のカード情報の漏洩可能性大のうえに、3億円とか10万円あげますなどという荒唐無稽なメールまでやたら送られてきて:昨日の報道だと私も購入している山田養蜂場関係40万件の個人情報漏洩があったとか)迷惑この上もないが、こっちも早く沈静化してほしいものだ。

 ということでこうしているうちに新情報が旧情報となってしまうわけではあるが、最近気になっている考古ニュースを点描しておく。

●海賊船のトイレ Toilets on a Piratw Ship and the Sorry Guy Who Cleaned them…  UPDATED 14 OCTOBER, 2023   ROBBIE MITCHELL

https://www.ancient-origins.net/sites/default/files/field/image/Pirate-Hygiene-Toilets.jpg

 これは文字情報よりもビデオの方が情報が多い。トイレはなぜか船首にあって、どうやら綱で尻を拭いていたらしい。これは近世の事例であるが、古代においても状況はたぶん大差なかっただろう。
https://www.youtube.com/watch?v=RXda4b_Mjws&t=699s

●エルコラーノの「パピルス荘」出土の巻物の非破壊解読

Herculaneum Scrolls Reveal New SecretsCollege student becomes first to unlock the Herculaneum scrolls     Nathan Steinmeyer  October 16, 2023

http://reply.biblicalarchaeology.org/dm?id=3798E468A211602F65DBD90F51686711D06065C183EB779C

 ネブラスカ大学の21歳のコンピューターサイエンス専攻の学部生 Luke Farritorはこれまで破壊することなくほとんど読むことのできなかった炭化した巻物を読む突破口を切り拓いたのかもしれない。

 彼は、人工知能(AI)プログラムに、ヘルクラネウムの巻物の3Dスキャンに含まれるかすかな「ひび割れ」を識別させるトレーニングを行ったところ、ファリターは巻物の0.6インチ四方の領域から10文字を検出することに成功した。この偉業により、ファリターは40,000ドル相当のファースト・レターズ賞を受賞した。ファリターの10文字には、いくつかの単独の文字と、”紫 “を意味するporphyrasという1つの単語が含まれていた。

 これまでは巻物を破壊して読んできていて、解読されたテキストの多くは、それまで知られていなかったフィロデモスPhilodemosという前1世紀のエピクロス派の者の書籍だったことが判明した。今後の研究の進展が期待される。それにしても、研究に賞金が出ているなんてことは知らなかった。

●ポンペイで、邸宅内で選挙広告がみつかる  2023/10/3

 http://www.thehistoryblog.com/archives/68418

 ポンペイの通りや外壁には1500以上の選挙広告やスローガンが書かれている。今般、IX.10.1の製粉兼製パン業者の遺跡発掘から興味深い出土があった(隣りの2は縮絨工房の由)。

そこはポンペイの一番北を東西に走るノラ大通りに面していて、今年のつい数ヶ月前に発掘されたのだが、なんと邸宅内の家の守り神を祀った祭壇 lararium付近から選挙広告の文字断片がでてきたのである。この普通ではない状況を勘案して、おそらくその家が候補者の親戚か、庇護民か友人の邸宅で、選挙運動がらみの宴会がそこで行われたその残り香がその選挙広告だったのだろうと、研究者によって想像されている。ただその文字全体の確定はいまだきちんとなされていないようなので(一説には「「Aulus Rustiusを国家にふさわしい真のaedileにしてくださるようお願いします」と読めるらしい)、今は造営官aedilisに立候補していた人物名が他からもその存在が確認されるAulus Rustius Verusだったこと以上にここで触れないでおく(彼は、のち二人官duovir候補者として後73年に、それもネロがらみで前回触れたIX.13.1-3のあのC.Iulius Polibiusとペアで登場していた。よって造営官候補だったのは後73年以前ということになるし、おそらく二人官に立候補していることから、このとき造営官に選出されたのだろう)。下記写真にしても、どの場所に文字が書かれているのか、部分拡大写真はあるものの、そもそも私には未確認であることを付言しておく(下の右写真の左端中央隅のアーチがもしオーブンであるとすると、オーブンは平面図の7a、となると祭壇は4の西壁にあって、よって写真は左右を合成したものなのか)。

 左平面図:左1番地が製粉・製パン所、右2番地が縮絨工房  右写真:ララリウムの周辺壁面? あるいは合成写真?

 その他に2つの注目すべき出土が確認された。そのひとつは「ARV」と刻まれた石臼が出土したことで、こうなるとこの製粉・パン製造所は「Aulus Rustius Verus」の援助を得ていたということになって、当時の選挙活動の実態があからさまに見てとれると発掘者たちは指摘している(しかしたとえば、彼の投資設備を使って営業していた解放自由人だったとか、Verusは石臼製造業者だった、といった別の至極穏当な解釈もありそうだが、こういうマスコミ受けしそうな穿った解釈はポンペイ関係でよく見受けられる)。普通の写真では刻印部分が不分明なので文字部分をなぞったものを掲載しておく。

 もう一つは、ララリウムの祭壇からかつての献げ物の遺物が収集できたことで、分析によると、噴火前の最後の献げ物はナツメヤシとイチジクで、オリーブの実と松ぼっくりを燃料として祭壇で燃やしていたことが判明した。ある報告者が乾燥オリーブの実を暖炉で燃やしたことがあるのだそうだが、素晴らしい香りがしたらしい。そして、燃やした供え物の上にはひとつの卵を丸ごとのせ、祭壇を一枚のタイルで上から覆って儀式を終えていたらしい。なお祭壇の周りからは以前の献げ物の残骸も出てきて、ブドウの果実、魚、哺乳類の肉などが確認されたという。こうして文献史料からつい想像され勝ちなのだが、いつも高価な動物犠牲を奉献していたわけではない庶民層の日常的宗教慣習の具体例をおそらく初めて垣間見ることもできたわけである。

上の写真左が発掘途中で祭壇上部が露出したとき、右が発掘完了時の姿を示している

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皇帝ネロ暴君像の再検討

 ここでは、以前紹介した皇帝ネロの私設劇場発掘報告との関連で、2年前の2021年に大英博物館が特集展示をした悪帝ネロ像の再検討がらみの情報を掲載しておこう。Thorsten Opper, ”Nero: the man behind the myth”, the British Museum, 2021, Pp.304.

 私なりの結論を先取りすると、悪帝の汚名がネロに付随するようになった決定的原因は、後64年のローマ大火でその責任をキリスト教徒に押しつけたという元老院身分タキトゥスの叙述が大いに影響していたらしいということ。再検討の史資料として、反皇帝の元老院勢力側とは一線を画するものとして、落書きとパピルス文書が挙げられていて、一般民衆にはネロおよび2番目の皇妃ポッパイア・サビーナに対して根強い人気があった証拠とされているが、落書きは彼女の故郷のポンペイからだし、パピルスの原作者は皇室御用達の占星術師にして叙事詩人だったので、さてどんなものかと思わざるをえない。しかしネロの死後、彼を僭称するニセモノの出現が相次いだという事実は、義経ジンギスカン説と同様に、彼の人気を裏づけているといっていいかもしれない。しかし同時にキリスト教徒にとって彼の復活出現は「反キリスト」の到来とみなされることにもなったわけである。

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【事例研究】悪帝ネロ再評価をめぐって:文書史料、落書き、そしてパピルス文書

(1)タキトゥスによる「ローマ大火」(後64年)叙述とその反ネロ的傾向性

 ・タキトゥス『年代記』15.38-44: 38 この後ですぐ[大火という]災難が起こった。偶然だったのか、元首の策略によるのか、不明である(両説あってそれぞれが信用のおける典拠をもっているので)。… 39 ちょうどこのとき、ネロはアンティウムに滞在していた。都に帰ってきたころには、パラティウム丘とマエケナス庭園を結ぶ「ネロの館」に今にも火が燃え移ろうとしていた。…ネロは呆然自失の態でいる罹災者を元気づけるため、マルス公園やアグリッパ記念建築物を、さらには自分の庭園までも開放した。そして応急の掛け小屋を設け、そこに無一物となった群衆を収容する。オスティアや近郊の自治市から食料を運ばせ、穀物の市価を三セルセスティウスまで下げさせた。このような処置は民衆のためにとられたはずなのだが、何の足しにもならなかった。というのも、次のような噂が拡がっていたからである。「ネロは都が燃えさかっている最中に、館内の舞台に立ち、目の前の火災を見ながら、これを太古の不幸になぞらえて『トロイアの陥落』を歌っていたcecinisse Troianum excidium」と。… 42 それはさておき、ネロは祖国の壊滅をこれ幸いと利用して、「黄金の館」を建てた。… 44 ついで神々の忿恚[ふんい:いきどおりの意]を和らげる手段が講じられる。…しかし元首の慈悲深い援助も惜しみない施与も、神々に捧げた贖罪の儀式も、不名誉な噂を枯らせることができなかった。民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為[嬰児殺害・人肉嗜食・乱交]で世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。…  [國原訳]

左画像は、1951年米映画「クォ・ヴァディス」でPeter Ustinov(当時奇しくもネロと同年代の30歳)が怪演した鬼気迫る「芸術家」ネロ;右図は延焼範囲、黒の実線が当時の城壁、火元は大競技場北付近

(2)文書史料の傾向性の指摘:反ネロ的支配身分層

・ネロの自死後、彼は元老院により「記憶の抹殺」damnatio memoriae 処分を受け、彼が布告した法律や彼の彫像などは公的に廃棄された(ただし、69年に皇帝オトとウィテッリウスによって早くも復権している。むしろネロの後継者として自らを位置づけるのが得策と判断したからだろう。これは「一時的に」と表現されるのが通例であるにしても、ポピュリスト・ネロへの評判がいまだ根強かったことの反映と考えるべきだろう)。タキトゥスらの著述者たちはいずれも当時の支配者階級(元老院身分・騎士身分)に属していたので、共和政への復帰を目論む彼らの叙述が反皇帝・反ネロ的な傾向に捕らわれていたとしても不思議ではない。

・とりわけ、ネロが大火を眺めながら自作の『トロイアの陥落』を歌っていたという件は、トロイアの末裔を標榜していたユリウス・クラウディウス朝が第五代皇帝ネロで断絶したという事実を踏まえると、明らかに意図的事後予言の創作箇所といっていい。

 その上、ネロとポッパイアがポンペイを訪れた際に(後64年?:おそらく後62年の地震災害復興の視察か)、女神ウェヌス(=ヴィーナス=アフロディーテ)に捧げたものを賞賛する詩の落書きが残っている。なお、ポッパイアはポンペイ出身で、遺跡から西北西に直線で2.7kmに位置する豪華絢爛なOplontis遺跡はポッパイアの別荘と想定されている。

(3)Pompeii, Casa di C.Iulius Polibius(IX.13.1-3)の台所の壁に刻まれた落書き:後42-45年頃

Munera Poppaea misit Veniri sanctissimae berullum helenumque / unio mixtus erat / Caesar ut ad Venerem venet sanctissima ut tui te vexere pedes / caelestes Auguste millia milliorum ponderis auri fuit

「ポッパイアは最も神聖な(女神)ウェヌスに、緑柱石(エメラルド)beryllus、そしてイヤリング真珠、大きな一粒真珠を贈った / カエサル(ネロ)が最も聖なるウェヌス(神殿)を訪れたとき、そしてアウグストゥス(ネロ)よ、あなたの天の両足がそこにあなたを連れてきたとき、そこには夥しい重さの金があったのだ」。

  この落書きがネロ没落の10年後の後79年のポンペイ埋没まで残存し得ていたことは、少なくともポンペイにおいてネロやポッパイアへの根強い親近感が庶民・中産層に存在していたことの証しだった、と考えられているが、さて。

(4) ネロの皇妃ポッパイアを愛でたパピルス文書P.Oxy.77,5105:帝国東部での好意的評価?

 ネロ帝、ウェスパシアヌス帝(在位後69-79年)と密接な関係があった占星術師・叙事詩人アレクサンドリアのレオニダス作のHexameter(六歩格)詩「ポッパイアの神化」の、後3世紀の写しがパピルスの両面に各42行残っているのも、親ネロ的感情からだとしているが、さて。

表側                    裏側  

     第15-25節の訳

*インタビュー記事:https://globe.asahi.com/article/14439296

ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説『クォ・ヴァディス』(1895年、受賞はその10年後)がネロの悪行やキリスト教徒迫害の様子を描き、さらにこれが映画化され、悪役ネロのイメージが定着した。

だが、「エリートによってつづられた公式記録がネロを悪者扱いしているのに対し、落書きは彼の大衆人気の高さを物語っている」と、研究者は語る。

コロッセオ考古学公園のアルフォンシーナ・ルッソ所長談:2021年6月21日

――ネロはどんな皇帝だったのですか。

「考古学的視点から探る限り、極めて有能な君主だったと考えられます。彼は、セウェルスやケレルといった有能な建築家を登用して宮殿を建設するとともに、大火後のローマの街の復興にも努めました。災害に備えて道路を広く取り、柱付きの回廊を設けて家同士の間隔を保つという、合理的な都市計画でした」

――なのに、なぜ「暴君」と呼ばれるようになったのでしょうか。

「彼は、庶民すなわち下層中産階級を優遇する政策を展開し、改革を実施して、民衆に広く愛されました。彼らからの支持に依拠した政治を進めたのですが、一方で貴族階級や元老院とは対立したのです。だから、死後否定的に扱われたのです」

――ただ、母を殺害したり妻を死なせたりと、粗暴な印象は拭えません。

「この時代は、殺人も、近親相姦(そうかん)も、権力闘争の一環でした。同じようなことは中世にもその後の世界でも起きたのです」

【蛇足】上記ウェブ記事であるが、せっかく展覧会場で落書きが書かれた漆喰壁の写真をとっているのだが、ラテン語、いなむしろ筆記体を読めないせいで、とんちんかんな箇所を写してしまっていて、私的には使い物にならなかったことを付記しておく。

左が記者の撮った写真。右が本来の4行にわたる引用箇所を上部に示したもの。もっと左寄りで上のほうを写すべきだったのだ。

 

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