投稿者: k.toyota

2018/2/5-11フランス調査旅行

グランで出会った保育園児たち
古代のグランの復元想像図:中央の神殿前に聖なる泉がある
グランの閉鎖中の円形闘技場
グランの浴場跡
地下水路から水をくみ上げる井戸跡
見ることできなかったグランのモザイク博物館
グランの城壁跡(最西端付近:左が城壁内)

グランの小教区教会:手前の石垣の下に水場がある
教会下の水場の痕跡

 留学中の林君のお世話になって、約1週間、交通費・宿泊費は当方持ちということで、行ってきました。以下は、知人に書いたメールから採ってます。
 余裕があれば、年末のアルジェリア旅行も転載するでしょう。

2/5(月)成田1105-1555Paris AF275 Paris泊
6(火)Neufchâteau泊  Hôtel EdenValue Deal 69.30€
7(水)Metz泊 Inter-Hotel Modrne 86€+
8(木)Nimes泊 Aparthotel Adagio access Nîmes   60.80€
9(金)Nimes泊 Aparthotel Adagio access Nîmes   60.80€
10(土)Paris泊 Hôtel Viator Paris  147.00€
11(日)Paris1605- AF272
12(月) -1205羽田

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2/7
浩志@ヌフシャトーです。

 2時に起きだして書きました。林君、書いてることで間違っていたら教えてください。

 昨日、今回の訪仏前半の山場のグランGrandに行ってきました。パリの東駅に隣接した宿泊ホテルは昨晩は全員白人従業員でしたが今朝は全員黒人でした。このあたりが現在のパリの状況なんでしょう。
 そこから8:10発のTGV(新幹線)に1時間40分、一面雪景色とスノウ・ホワイトが続くうち、Nancy着(雪のため30分程度延着でしたが、もともと待ち合わせ時間が40分あったので乗り継ぎはセーフ)。そこからToulまで地方線に乗り換えて、進行方向右側にゆったりとした水量の川をみつつ、15分(なぜか雪が消えてました)、本当はそのまま列車でNeufchateauまで行けるはずだけど途中が工事中とかで、そこで乗り換え時間5分のバスに飛び乗って、延々と平原状の地形での農地景観の中を直線で走る、よって旧ローマ軍道を彷彿させる道を40分、ようやく正午前にヌフシャトー駅前に到着できました。こういう複雑な経路だったので、林君抜きにはとうてい行き着くことはできなかったでしょう。感謝。

 ここのホテルに荷物を置き、フロントでお願いして、でも大分待たされたタクシーで、1時半にGrand目指して出発。タクシー代は往復70+10ユーロ。往復とも林君相手に絶え間なくしゃべり続ける同じ中年女性が運転手でした。ヌフシャトーの町外れには近世と思える城塞跡が残っているようで、水量の多い川を渡り、徐々に高度を上げていく感じでした。そこの自動車道も直線が主体でした。

 グランには20分も走ったでしょうか。まず小学生用と思われる漫画チックな掲示板のある広場で、町のパン屋で買ったパニーニをかじって、ちょうど2時間見学しました。ここの目玉遺跡の円形闘技場とモザイクの家は冬季休業中で、これは事前にわかっていたことなので、しょうがありません(もし開いていたらもう1時間は必要でしょう)。若干ぱらぱら小雨の降る曇り空の中、住民400名の小さな村落で、出会う人も皆無の村の中の道を、表示板にしたがって、厳重に金網で囲まれた円形闘技場(片方が未復元)、1035年に記録が初出の皇帝ユリアヌス下での女性殉教者、Libaireの殉教者記念堂(村の共同墓地付き)を覗き、列柱廊や浴場があった広場、閉館中で旧バシリカの床を飾っていたモザイクを収めた家は素通りして、当時この地域を丸く囲っていた城壁の土台跡、神殿跡に立っているという教会とその下の洗濯場、などを見学して歩きました。この間すれ違った住民は数名のみ。
 帰り道でのこと、モザイクの家の裏側で保育園の子供たちが園庭に遊びに出てきて賑やかな歓声が聞こえ、保母さん一人に10名余り、全員白人の可愛い顔で向かえてくれたので和みました。そのちょっと向こうにあるこぢんまりとした小学校には、場違いな感じで統廃合反対の横断幕が貼られていたのでなおさらでした。

 ここに、コンスタンティヌスが310年頃立ち寄り、ケルト起源のガリアの太陽神Grannusの聖域で、アポロン神の出現を体験し、30年間の統治を予言された、という異教側史料があって、それがキリスト教側にとっては、太陽神と重なり得るキリストやキーローの出現と、後年解釈されえたわけです。私見では、その後の展開を考えると事実は異教側にあって、それを強引に改ざんしたのがキリスト教プロパガンダだったと判断すべきで、私としては真偽を確かめるヒントを得るべくグランを訪問しなければならなくなったわけです。

 私にとっては、現在は寒村にすぎないグランが、かつては、ガリア古来の清冽な聖泉が存在し、霊験あらたかな治癒祈願の聖地で、当時巡礼が引きも切らず訪れてきていて賑わっていた保養地でもあったこと(帝国内有数の規模を誇る円形闘技場がその証です。おそらく東部のアスクレピオス神の医療施設エピダウロスなどに比すべき地だったのでしょう、規模はあれほどはありませんが)、212年ごろに時の皇帝カラカッラが訪れた記録もあるようで、それらが確認できたことで十分でした。
 あいにく季節はずれの訪問で、旧バシリカの広大な床モザイクが保存されている施設に置いてあるはずのパンフレットなども、入手できませんでしたが、ともかく、その夜のホテルのレストランでは林君と祝杯をあげたことでした。ちなみに二人で63.76で切りよく70(食前酒+生ビール)。イタリアのあっさりした味に慣れている私には若干重い夕食でした。
 到着時に林君がめざとく観察してましたが、この町ではフランス人以外は見ることありませんでした。我ら二人がまぎれもなく異邦人だったわけです。とはいえ別段奇異のまなざしに会うこともなく、それどころか、タクシー運転手のおばさんの甥は、木工の技術を習得して、日本人女性と結婚して東京に住んでいるのだそうで、最後の挨拶は日本語で「さよなら」でした。

 今日は、メッスに向かいます。そこの博物館にはグランの治癒神と深い関係のあるらしい円柱上に飾られた石灰岩製のAnguipedeの騎馬像が展示されていて、それを拝見するためです。同様のものは反対側に位置するEpinalの博物館にもあるようですが、そこに寄る時間は今回残念ながらありません。

 なお、ホテルに帰ってからの林君のウェブ調査では、ドイツのバイエルンのLauingen近くのFaimingenにはローマ時代のApollo-Grannus神殿があったようです。ここに212年にカラカッラがやってきて病気治癒のため神殿を建てたとのこと。ストラスブールを挟んで東西にガロ・ローマン時代の著名な治癒神神殿があったわけです(ないしは、Grannusという同一地名で両者は混同されていて、本当は片方だけだったのかも)。

 コンスタンティヌスにはなぜ、それを崇拝する意味があったのか。私見ではそれを、彼は当時トリーアを拠点にしていて、彼の麾下の最も信頼していたゲルマン・ガリア出身の兵士たちの支持を獲得する必要があったから、と想定しているわけですが、それ以上のことは、将来後続の研究者が実証してくれることを念じております。

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2/8
各位:豊田@Nimeです。

 アルジェリアから帰って、ずっと頭の中はアウグスティヌスだったのですが、2/5から丸一週間の予定でフランスに来ています。前半は北東の若干僻地にコンスタンティヌスの秘められた足跡を訪ねてましたが、朝の気温氷点下のMetzから半日かけてずっと同じTGVに乗り続け(一部300キロの速度ですが、在来線も走るのでそう速くなくて)、昨晩ニームにつきました。列車から降りて駅の階段を下るとき不覚にも足がもつれあぶなかったです。

 今日一日と明日午前中までここに滞在してパリに帰りますが、ニームでは単純に、昔撮っていたはずのどこかに行ってしまった円形闘技場の立ちション用トイレの写真再撮影するのが主務です。これだけなので大幅に時間余るのですが、ニームの博物館は改装のため閉館中の由で、今日は新たに博物館ができているというポン・デュ・ガールにバスで行く予定です。南仏では昔回った他のローマ遺跡も再訪したかったのですが(実は立派なトイレ遺構が多い)、その余裕がないのが残念です。

 そろそろ頭の中を帰国便がよぎりだしてますが、パリは雪だとかでちゃんと飛行機が飛んでくれるかどうか心配です。昨日フランスを北から南に縦断したのですが、ところどころに薄っすら残雪あっても、ずっと霧の風景でした。南仏のニームも夕食に出た夜の温度は3度と、体感的には北と変わりません。夕食は本格中華にありつけました。同行の林君は麻婆豆腐が食べれたと感激してました。私は「ポタージュ」と頭についていたので疑問でしたが、酸辛スープを頼んでみましたが、イタリアの「アグロ・ピッカンテ」と同じで、増量したその辛さに疲れが癒やされました。4皿と青島ビールを含め二人で50ユーロ。やっぱ中華は貧乏人の味方です。今回のホテルには台所もついているので、今日の夕食は分厚いステーキ焼こうと話してます。

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2/10
豊田@ニームです。

 昨日は、午前中に円形闘技場、昼にPons du Gard、夜はフランス料理でした。

 実は、今回訪仏の最後のミッションには失敗し、元気が出ません。

 舐めるように入れるところは見て回ったのですが、お目当てのものがみつかりません。座席下に位置するアーチ通路の曲線の内側に沿って立ちション用とおぼしき、だけど大理石製の平たい浅い彫りの石材がずらーとはめ込まれたのを、30年前には見た記憶あったのですが、・・・お母さん、あれはどこに行ったのでしょうか・・・。研究書にも写真があるというのに。林説では、立ち入り禁止の工事用具置き場にあるのでは、というのですが。

 負け惜しみですが、でも転んでもただでは起きない! 階段の上下で足をガクガクにしながら歩き回るうち、地階からの登り階段の踊り場部分に妙な遺物を今回見つけました。なぜかどこの通路にでもというわけではないのですが、添付写真のようなものが両方の壁沿いの床に浅く彫られてまして。ご丁寧に下方に小さな穴が開いているのと開いていないのがあって、統一感がなく、用途的によくわからない遺物なんです。
 ご存じの方、教えてください。私は、当然立ちション用便器と考えてますが。

 長くなるので昼は飛ばして、夜です。台所あっても油も調味料ないので、林君が探した地元のレストランに行きました。定食23.5ユーロのコース、二人で2016年産地元赤ワイン1本込みで70弱ユーロで、満腹しました。ワインも渋みが強く肉料理に合ってました。

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2/10
各位:豊田@パリです。

 本日、ニームでは十分すぎる時間を町歩きで消化し(17500歩、昨日は25000歩の由:晴れていて7度くらい、ひなたは暖かったが、風はきつかった)、午後にtgvに乗り、先ほどパリに着きました。車窓からの風景は、最初の1時間は晴れ、次の1時間はだんだん雲が多くなってきて、ところどころに残雪、そしてパリが近づくと、日没したせいでもないでしょうが、一面の残雪となりました。
 今日のホテルは、パリ・リヨン駅から歩いて5分くらい。

 そこでご報告があります。今回の宿泊ホテルすべてで、パスポートの提示を要求されませんでした。これはどうしたことなんでしょうか。あののんきなイタリアでも必ず提示するのに。

 2日続けてのフランス料理は重たいので、これから名代の中華料理屋にメトロに乗って行こうと思います。
 明日、帰国の途につきますが、天気予報だと「晴れ」らしいので、飛行機がちゃんと飛んでくれることを祈ってます。
 林君には本当にお世話になりました。

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先達の足跡:(1) G.Papini:意図的に忘れ去られた名著?

 また悪いクセが出た。
 アウグスティヌスに絡んで、ある邦語の文献を読んでいたら、とんでもない本にゆきあたってしまった。それは、戦前に出たイタリア語からの翻訳書で、上智だとキリシタン文庫に所蔵されていて、戦後も改訳版が出ていて、そっちは中世思想研にあった。
 それらを見ていたら、原本がみたく(ほしく)なり、年金生活者のくせに性懲りもなく海外古書に発注してしまったのだ。届いた紙装本は節約して安物にしたせいか、もうぼろぼろで・・・、ウェブ写真で見たものとは似ても似つかぬ姿だったのだが。
 以下は、原稿を書いたEvernoteからの転写である。いずれ写真を添付して紹介したい。

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 Giovanni PapiniのSaint’Agostino,1929 が出版されて、五十嵐仁は、すぐさまフィレンツェ在住の著者に翻訳許可を求める書簡をしたため、快諾を得た。翻訳の出版は1930(昭和5)年12月21日で、『パピニ 聖オーガスチン』発行所アルス、がそれである。

 なぜか翻訳者名には寺尾純吉という筆名を使っていた(後からそれらしいことがわかったが、外務官僚だったせいかも)。上智大学図書館の「キリシタン文庫」には、その翻訳者が和名の筆名で(だが、ローマ字でIgarashiのサインも添えられ)ヘルマン・ホィヴェルス先生(神父:1890-1977年)に献呈したものが未だ所蔵されている。ちなみに献呈の日付は1930年12月29日。どういう経緯か不明だが、その献本は長らくキリシタン文庫長だったヨハネス・ラウレス神父(1891-1959年)の手に移った、というよりキリシタン文庫に寄贈されたのだろう。
 装丁は小豆色のしっかりしたハードカバーで、背表紙には金字で著者名、書名、譯者名がイタリア語と日本語で表記され、表紙には黒字でイタリア語のみで、上に書名、下に著者名、その間に心臓に2本の矢が上から交差状に刺さり、下まで貫通し、心臓の上に炎が描かれた図案が配置されていて(今は詳しく触れないが,他に、炎の火花状のものが4箇所描かれている)、かなり凝った作りとなっている。

 その図案のあらましは、たぶんアウグスティヌス『告白』9.2に由来し、直接原著の表紙から構想を得たものだろう。調べてみると、13世紀創設の聖アウグスチーノ修道会の会章は心臓を貫いている矢こそ1本であるが、やはり心臓の上には炎が見えている。私のところに北イタリアのAlessandriaの古書店から来た原本古書の表紙は、白地で文字は黒、心臓関係の図案が赤、という違いはあるが、シンボル関係は翻訳本と同じである。

 翻訳書を開くと、口絵に白黒で、なんと私も大好きなアリ・シェフェール筆「聖オーガスチンと聖モニカ」(1854年)の白黒写真(原著にはない)、そのあとに「譯者序」が付されていて、翻訳の機縁などが述べられている。そこに1930年がかの聖人の没後1500年に当たることも明記されているので、原著や翻訳の契機は自ずと明らかであろう。ちなみに著者パピーニは1881年1月9日フィレンツェ生まれだから、当時49歳と気鋭の時期だった【逝去は1956年7月8日、65歳:ウェブ検索すると、若いときの個性的な頭髪の野心満々な姿と一緒に、どういうものか、言語障害をもたらした大病を患って衰えた姿の彼が、自宅の書斎で孫娘に口述筆記させている1955年9月19日付けの写真や、もう一人別の孫娘で役者の写真なんかも出てきた。巻末に付された同出版社の既刊本の列挙の先頭に、パピニ著大木篤夫譯『基督の生涯』も掲載されていて、著者はこの時期日本でもすでに定評ある書き手だったようだ。実は,その翻訳も後日入手してしまった。ところで上記シェフェールの絵は、ヌミディア人的風貌のアウグスティヌスを表現していて私には好ましいのだが、実は吉満義彦(1904-1945年)の『告白碌における聖アウグスチヌスの囘心への道』(Congregatio Mariana 2)上智学院出版部、1945年、の口絵にも使われていて、さすがと思わされる】。

 本書は、戦後の昭和24(1949)年3月に、中央出版社から、ジョヴァンニ・パピーニ(五十嵐仁訳)『聖アウグスチヌス』として訂正再版された。これは中世思想研究所にある。敗戦後という時代を反映して、薄っぺらな紙装本だが、表紙の図案は今回むしろイタリア語原著と同様となっている。ただ、すでに酸性紙特有の劣化が進んでいて、むしろ戦前もののほうが読みやすいくらいだ。この版には口絵も前書きもないが、その代わりに巻末に「譯者の言葉」が添えられていて、そこに版権取得時に著者から送られてきた快諾の書簡が紹介されていたり、翻訳者はその後1938年から「一官吏として」ローマに行き、終戦の暮れに浦賀に帰国したこと、原著者の生まれ育ったフィレンツェにもよく行ったし、ローマで最後に住んでいたジョヴァンニ・セヴェラーノ通りVia Giovanni Severano(ここはローマ・テルミニの北北東、というよりティブルティーナ駅の西側のといったほうが早いだろうか、Bologna広場の北西に延びている通りである)ではすぐ近所に著者のお嬢さんの婚家があって、「眼の不自由な作家が、ちょいちょいやってくることを、門番の口から聞きもした」が、訪れることもなく終わった、などと書かれていて、亡くなるだいぶ前から作家として著者が不自由な体だったこと、たぶんそれもあって訪問を遠慮していたことも窺える文章に出会え、私にとって興趣大いなるものがある。

 そして、問題の箇所は、原著でp.45-47、戦後の翻訳でp.42-44で、読者は見逃しがたい叙述に出くわすことになる。さすがイタリア人!と絶句せざるをえない、はずなのだが・・・。

 アウグスティヌスは、マダウロスから学業半ばで故郷に帰ってきて、無聊を囲う1年を過ごした時に堕落した生活に陥るが・・・

p.43-4「ここにかれは偽らない、しかも明瞭な言葉をもって、友情の堕落、肉慾にまで堕落した友情、肉慾と合體した友情に就いて暗示しているのである。・・・「肉慾によって穢された友情」とは、男の友だちを暗示している。」

 な、なんと、アウグスティヌスが女色だけでなく、男色もやってた、とパピーニが明言しているわけで、・・・もう脱帽するしかない。
 かくして、私の「珍説その3」も、90年近くも昔にすでに喝破されていて、新説とはいえないことに。まあ男色は、ローマ史からすると別段驚くべきことではないのだが。養子皇帝で帝権をつなげたいわゆる「五賢帝」の最初の四人は、まさしく女性に興味なかったから子もなしえず、その故の養子縁組だったことを想起すれば十分だろう。
 しかるに、我が国の自称アウグスティヌス研究者でこれを指摘している人を私は知らない(西洋では、ある女性研究者がそれを指摘している、とどこかで読んだ記憶があるが、それにしてもそれはここ2、30年前のことだったとボンヤリ記憶している)。しかも、パピーニのこの書物を利用して、アウグスティヌスとアンブロシウスの冷たい関係を指摘している、として本書を引用している研究者はいるのだが、男色のほうにはまったく触れないのである。これを偏向といわずしてなんと言うべきか。それにしても、これでは最近の並み居る研究者たちは相も変わらず縮小再生産に嬉々として従事している、と言われてもしょうがないだろう。

 実は、私主宰の読書会で,昨年出版された以下の岩波新書を読んだ社会人女性が、読後感として「男色以外とりようがないじゃないですか」と、それを指摘していた。
    出村和彦『アウグスティヌス 「心」の哲学者』
 おせっかいな私は、筆者にこの点をどう考えるかメールで問い合わせたのだが、返事は「書き手が意図してない読み方をされてビックリです」だった(氏の筆力が意図せずしてそこまで接近しえていたことは、評価すべきであろう)。
 しかしながら、これこそ素人がプロを凌駕する健全な読解力を示した典型例というべきではなかろうか。繰り返す、これでは、専門家とは実はお仲間の中での共通言語で遊んでいる輩にすぎない、といわれても弁解の余地はないだろう。赤面して、研究者の看板を下ろしていさぎよく退場すべきであろう(誤解なきように:これは出村和彦氏に向けての言葉ではない)。

付記:ここでアウグスティヌス関係の「私の珍説」とは以下の事例である。(〇付きが現在オリジナルのつもり、△は先行研究不十分)

彼の『告白』叙述の秘密
彼の出生の秘密:ヌミディア性 △
彼の家族の秘密:母はめかけ? 〇【現在は撤回】
彼の男色疑惑 〇 → △
彼の異性関係の秘密 △
彼の立身出世の秘密:マニ教ネットワーク △
彼の回心の秘密:△
彼の司祭・司教就任の秘密 〇
彼の設立修道院の秘密 〇
彼の使用言語の秘密 △
彼の神学の秘密:南山大学の山田氏にお委せ 〇
彼の死後の図書移動の秘密 △
彼の遺骸移動の秘密 △
彼の神学が西部帝国に伝播した本当の理由 △

Giovanni Papini:1881-1956
戦前のアルス版
表紙裏の署名関係
戦後の中央出版社版
入手した原本
聖アウグスチノ修道会Ordo Sancti Augustiniの会章

【追記】2019/7末に上智大学文学部史学科編で『歴史家の◎◎』の4冊目が上梓された、らしい。まだ現物はみていないが、そこに私は「人間アウグスティヌスを『告白』から探る」を書いたので、興味ある方はご覧下さい。私的にはその1のつもりだが、その2を書く余裕あるのかどうか、先のことはわからない。

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アウレリウス・ウィクトル『ローマ皇帝列伝』翻訳について

 日進月歩といいたいところですが、そうもいかず・・・(一応の訳了は1年後の予定ですが、さて)。いつまでたっても手直しに切りがないので、ばらばらですが、手を加えたところから、恥ずかしながらたたき台としてアップさせていただきます。(といいつつ、次回がいつになるやら)
 秦剛平氏は、エウセビオス『教会史』や『コンスタンティヌスの生涯』において、意訳箇所に逐一訳註をつけて克明に明記されてます。それは一般読者としては相当にわずらわしいのですが、研究者の翻訳倫理としては本来そうあるべきだ、と私も思います(その彼に細かいことですが私なりにイチャモンつけたい箇所もありますが、それは別の場所で)。ここではできるだけ逐語訳で作業し、最終的に読みやすい「超訳」 (^^ゞを試みたいというのが、私の念願ですが、もとより文才なく、その上先のない身なので、期待しないでお待ちください。
 いずれエウトロピウス『首都創建以来の略史』全10巻でも本来この作業をしなければと思ってますが、そのためにはだいぶ先まで惚けずに頑張らないと。しかしたとえ私がついえても、若い世代で継いでやってくださる方が出てくることを信じています。それが研究というものではないでしょうか。

本翻訳で使用のラテン語テキスト:
 Recensvit Fr.Pichlmayr et R.Grvendel, Sexti Avrelii Victoris Liber de Caesaribvs, in:Bibliotheca Tevbneriana, Leipzig, 1970 =http://www.thelatinlibrary.com/victor.caes.html
現代語訳註(*原文テキストを含まない):
 *by C.E.V.Nixon, An Historiographical Study of the Caesares of Sextus Aurelius Victor, Diss., Michigan, 1971.
 par Pierre Dufraigne, Aurelius Victor Livre des Césars, in:Les Belles Lettres, Paris, 1975.
 par Michel Festy, Sextus Aurelius Victor, Livre des Cesars, Thèse Doct. de l’Université Paul Valéry-Montpellier III, 1991.
 *by H.W.Bird, Aurelius Victor:De Caesaribus, Liverpool UP, 1994.
von Kirsten Groß-Albenhausen u. Manfred Fuhrmann, Die Römischen Kaiser Liber de Caesaribus, in:Tvscvlvm, Darmstadt, 1997.
索引辞書:
 Conscripsit Luca Cardinali, Aurelii Victoris Liber de Caesaribus Concordantiae et Indices, vol.I, in:ALPHA-OMEGA, Hildesheim/Zürich/ New York, 2012.

訳文中での記号、他:
[ ]:テキスト段階の異読・付加等の場合
( ):文脈上の翻訳者の補い
【 】:翻訳者のコメント
ラテン語表示:訳語の統一を図るために、ここでは便宜上入れていますが、形式はふぞろいかもです。
訳注:とりあえず『上智史學』60ー64号(2015ー18年)掲載を参照願います。なお、そのpdf文書は「上智大学学術情報リポジトリ」(http://digital-archives.sophia.ac. jp/repository/)から「アウレリウス・ウィクトル研究会」と検索にかけると、入手可能です。

 ここでは、本文のみをアップします。意味不明の箇所が散在し、現在進行形で訳語もあれこれ思案し、『上智史學』の試訳はすでにかなり修正しておりますので、翻訳についてはこのブログのほうを参照して下さい。
 このところ、いまひとつ著者の語感がつかめなくてどうしたものかと思案しているのは、死亡に関する単語をどう訳し分けるか、です。「亡くなった」「死んだ」「滅びた」「消えた」「殺された」「殺害された」「殺戮された」・・・。絞殺や斬殺など明確な場合はいいのですが、それも他の並行史料でどうあれ、それで見当つけるのは避けなければなりませんし、辞書的にも多義あって思いのほか面倒です。又、違和感にとらわれた例としてはgensがあります。ローマ人のそれには「氏族」と訳すべきなのでしょうが、ウィクトルは国外の野蛮人の場合もそれを使ってます。その場合は最初「部族」と訳し分けていたのですが、ここはウィクトルがローマ人を彼らと区別していなかったのではと思い直して「部族」で統一してみる試みをしています。
 共訳者の林君に言わせると、それはウィクトルが同じ単語を使わないで別の言葉で言い換えようとしているせいだ、ということになります。そういえばエウトロピウスの場合は同じ単語を使う傾向があって、翻訳も簡単だったことを思い出しました。その翻訳の場合、同一単語で訳せばむしろ簡単なのですが、ここではあえてこだわってみて、全巻で1,2度しか登場しない単語には角度のある訳語を付してみました(これは英独仏の近代語訳ではやっていないようです)。
 よろずご意見・ご指摘は遠慮なくお申し出ください。
 その際、本翻訳では、「直訳」「逐語訳」でやっている点だけはあらかじめご了解ください。具体的に言うと、「可能なかぎり単語の順番通りに訳す:勝手に入れ替えない」「複数形はそれがわかるように訳す:単数と明確に区別する」「時制も動詞の形どおりに訳す:歴史的現在は現在形で表記する」「極力同一訳語をつけるようにする:翻訳者の意訳によるニュアンスの変化をできるだけ排する」、といった、まあ当然のことなんですが。
 ただ、これまでこの翻訳作業に対して、共訳者間ではかなり辛辣にやり合っていて(だから先になかなか進みません:欧米現代語訳註も肝腎の箇所で参考にならない場合が多く)、ある場合はそれを押さえ込んで豊田個人訳として公表してきたのが実情ですが、であれば世の専門家の方々はもっと言いたいことがありそうなものですが、これまでわずかお一人のみしかご指摘頂戴してません。批判にも値しないしろものだからなのか、それとも、これが内弁慶な日本の学界の現状なのか、いずれにせよ、いずれまとめて公刊を予定している身からしますと、はなはだ残念なことです。  

【後記】 2019年1月に一応完訳して、現在見直しに入っている(手間取っているのは訳語の統一作業である)。先日いつものことながら偶然、1年前放映の「風雲児たち:蘭学革命篇」の再放送を見て、なんだか我々に似ているなと思わされた。「誠に艪舵なき船の大海に乗り出せしか如く茫洋として」(杉田玄白(翼)著『蘭学事始』明治23年4月)という彼らと違って、我々には辞書も近代語訳もそしてコンコルダンスさえあるのだが、やっていることはエピソード「フルヘッヘンド」並の試行錯誤の連続である。『解体新書』は語学の完璧主義者前野良沢と、実は蘭語が苦手な、しかし世事に長けた杉田玄白の両様あって陽の目を見たわけだが、両方とも寸足らずの我らにどこまでできるのかごろうじろ、といったところか。いずれにせよ、52年後といわずどなたか全面改訂版をお出しいただけるまでの捨て石になればと、と思う。

【追記】一応の完訳版は2019年7月にアップしております。

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アウレリウス・ウィクトル『ローマ皇帝列伝』解読作業

 意味不明の箇所が散在し難儀してます。まだ満足いきませんが、一応アップします。
 このところ、いまひとつ著者の語感がつかめなくてどうしたものかと思案しているのは、死亡に関する単語をどう訳し分けるか、です。「亡くなった」「死んだ」「滅びた」「消えた」「殺された」「殺害された」「殺戮された」・・・。絞殺や斬殺など明確な場合はいいのですが、それも他の並行史料でどうあれ、それで見当つけるのは避けなければなりませんし、辞書的にも多義あって思いのほか面倒です。
 共訳者の林君に言わせると、それはウィクトルが同じ単語を使わないで別の言葉で言い換えようとしているせいだ、ということになります。そういえばエウトロピウスの場合は同じ単語を使う傾向があって、翻訳も簡単だったことを思い出しました。その翻訳の場合、類似の同一単語で訳せばむしろ簡単なのですが、ここではあえてこだわってみて、全巻で1,2度しか登場しない単語には角度のある訳語を付してみてます。
 よろずご意見・ご指摘は遠慮なくお申し出ください:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

【後記】 2019年1月に一応完訳して、現在見直しに入っている。先日いつものことながら偶然、1年前放映の「風雲児たち:蘭学革命篇」の再放送を見て、なんだか我々に似ているなと思わされた。「誠に艪舵なき船の大海に乗り出せしか如く茫洋として」(杉田玄白(翼)著『蘭学事始』明治23年4月)という彼らと違って、我々には辞書も近代語訳もそしてコンコルダンスさえあるのだが、やっていることはエピソード「フルヘッヘンド」並の試行錯誤の連続であった。『解体新書』は語学の完璧主義者前野良沢と、実は蘭語が苦手なしかし世事に長けた杉田玄白あって陽の目を見たわけだが(それにしても『蘭学事始』が明治中盤の出版だとはしらなかった)、両方とも寸足らずの我らにどこまでできるのかごろうじろ、といったところか。いずれにせよ、初訳出版後52年後といわずどなたか全面改訂版をお出しいただけるまでの捨て石になれば、と思っている。

【後記2】2019年7月末に、ようやく読書会での見直しが終わった。とはいえ,その後も個人的にコンコルダンスを開いて副詞や名詞の統一を見直しているが、やたら見落とし(というか、不統一)をみつけて、やはり私など翻訳業には向いていない、とつくづく思う。折も折、栗田伸子氏から、サルスティウス『ユグルタ戦争・カティリーナの陰謀』岩波文庫、の恵贈の栄誉を頂いた。ルビを打たれた単語をちらほら見ていると、共和政末期と帝政末期の、ま、大ざっぱにいって400年の差があるにもかかわらず同一単語が使われていて、しかし日本でこの現象を考えてみると、この間隔は夏目漱石や森鴎外どころではなく、現在から徳川幕府の開始ほどの時間差で、正直いってそのころ書かれたものを読める学生が現在どれほどいることやらと、この格差をどうかんがえればいいのか、しばし呆然としてしまう自分がいる。

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Aurelius Victor 試訳掲載について(前口上)

在職時に大学院演習で訳し始めたものの、あまりの難解さにてこずってなかなか先に進めません(その箇所は、主としてアウレリウス・ウィクトルが、権力や世間の自堕落さに対し「ごたく」を開陳している場所です)。ま、このあたりが私の能力不足なんですが、幸い同好の士を得て、継続してじわじわやってます。しかし、いっかな完成はおぼつきません(一応の訳了は1年後を想定してますが)。
私事ですが、体調も万全とは言えず(しかし、そもそも人生に万全なんてことはないわけですが)、それでもこれまで経験したことのない異変に直面して(老化現象:たとえば、左膝関節の痛み[こっちはまあ理解できる]とか、右肩から首筋・顎あたりをしびれが襲う[妻によると頸部に何か起こっているのだろうと]ことなんかそうです)、こりゃ先がないかもと自覚せざるをえない今日この頃ですが、まああと5年なんとかもってほしい。
最近になって、田川健三氏の『ヨハネの黙示録:訳・註』が出版されたことを知り、とりあえず「読書案内」読んだのですが、彼って82歳なんだけど相変わらずの毒蝮三太夫で、ちっとも丸くなっていない・・・のがすごい、としかいいようがない (^^ゞ (いや、表現がちょっぴりだけやさしくなってる気がしないでもありませんが)。
『原始キリスト教史の一断面』で学ばせて頂いた編集史的分析という点で、私の研究手法と通じるものがあって(他人にイチャモンつけるクセもでしょ、と影の声が・・・)、まあ心底同感しながら楽しく読ませていただけるのが嬉しいです。彼ほどの語学的才能も知識もない身でとてもマネはできませんが、せいぜい気張って逐語訳を通じて原著者の本意を探っていきたいと思ってます。
試訳はこれまで『上智史學』第60号(2015/11)から第62号(2018/11)に、第1章〜第39章23節までを掲載してきましたが(旧訳は、上智大学図書館のリポジトリで、「上智史學」「アウレリウス ウィクトル ケンキュウカイ」をクリックすれば、pdf版を入手可能ですが、すでに誤訳や訳語選択上の試行錯誤で右往左往の変更箇所がありますので、むしろこのブログをご覧になるほうがいいでしょう)、さりながら完成時の全面修正など先の保証がない身としては、明々白々の空手形としかいいようもなく、よってあくまで「現段階での」試訳ではありますが(そう言いつつ、これが最後になるかも)、このブログを通じて公表していこうかと思い立ちました。
前もって言い添えておきます。最近アウレリウス・ウィクトルの『索引辞書』(Concordantae, 2012)を大枚はたいて入手したのはいいのですが、これを活用して定訳を決め打ちすればより厳密な訳ができるのではと、まあ掲げた狙いはよしとして、実際にいちいち参照してやってみると、これがかなりの難物で、とにかく先に進まない、そのうち集中力が保てず疲れ果て・・・、私の場合寝るしかない。「明日なろ」なんだけど、朝になったら大方前夜の問題は忘れて果てていて・・・。申し訳ないのですが、作業としては中途半端となってることをお詫びしておきます。
第二に、より正確な訳を目指しているといっても、所詮私の恣意的な読解の羅列でしかありません。独英仏の現代語訳・註解も出ており、これまでの諸先輩の採用された翻訳手法は、それらに準拠し、とにかく欧米に依拠して中庸のとれた標準的な訳業を世に問うのが良しとされてきていて、それに一理あることは分かるのですが、本訳において私は、いちいち指摘しないであえて欧米と異なる独自のチャレンジ訳を試みた場合があります(逐一指摘してたら田川氏みたいに膨大になっちゃうわけで、私には彼みたいな尽きせぬエネルギーも、能力も、時間的余裕もありませんのでお許しください)。まあ立場が違えば当然それは「誤訳」と言われかねませんが、私は内在的にそのほうがよりよく理解できると判断して、そうしておりますので、ご理解いただければと存じます。
もちろんだからといって、単純な誤訳や誤読が皆無ということなどありえません。「過ちては改むるに憚ること勿れ」を誠実に実践したいと思ってますので(実は、これも私にはやたらエネルギーと時間かかりますが)、遠慮なくご指摘いただければと存じます。こういう相互討論がともかく表舞台でなされることが我が国で希薄なのは、やっぱり問題ではないでしょうか。

前口上(と言い訳)で思わず長くなりました。これも田川大先生の影響かもしれません。とりあえずこれくらいにしておきましょう。

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現在は、毎週火曜日午後6時から2時間程度、渋谷の貸事務室(ワンルーム・マンション)を借りてやってます。参加者は社会人3名、それに私です。場所代とお互いの交通費をプールし、その後基本アルコール抜きの軽い夕食を摂って解散してます。「これって、1人ではぜったい読めないよね、みんなで読むからやれるんだよね」といいながら。

【追記】2020年初頭現在は、エウトロピウス『首都創建以来の略史』全十巻、の訳直しをしてます。このブログの2019年10月に掲載中です。

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