これを読んで、「えっ、オスティアで剣闘士の骨? これはしたり」ということで慌ててググって見たが、2014年10月既報の記事で、 Medical University of Vienna、すなわちウィーン発情報で、出土場所は小アジアのエフェソスのものはずらずら出てきたが、オスティアは出てこなかった。ちょっとホッと。たぶん場所は坂本先生の記憶間違いかと。1933年発見のかの剣闘士たちの集合墓地出土の遺体を(後2,3世紀[前2,3世紀とする記事もあるが間違い]の全部で53遺体出土、うち剣闘士は22)で1993年に改めて調査したときに、残りの通常人との遺骨の成分比較をしたらしい。この墓やグラディエータの骨分析について我が国では踏み込んだ報告が未だなされていないが、私は20年来卒論で誰かやらないかとずっと言ってきたのだが、誰もしようとしないのは、やっぱりドイツ語になっちゃうからなのだろうか。現地のMuseum Ephesosで開催の展示会パンフも出ていて手軽にまとめることできる穴場なのだが。あのパンフさしあげますよ、やる人いたら。Hrsg. von Österreichisches Archäologisches Institut et als., Gladiatoren in Ephesos:Tod am Nachmittag, Selçuk, 2002, 105S.
今日、イギリスから書籍が届いた。A.J.Parker, Ancient Shipwrecks of the Mediterranean and the Roman Provinces, BAR International Series 580, Oxford, 1992, pp.547+図版・地図、の大判で、古代ローマ時代の地中海における沈没船研究であるが、本を開いて驚いたことに、その大部分が沈船データのカタログ・リストで、本文といえるのは、最初の30ページを占めている程度。いかにも英国的研究で、価格は古書で¥12,947。本当は所蔵する国内大学図書館が複数あるのだが、図書館が閉鎖中でやむを得ず自腹を切った。相互貸借だとまあ郵送費往復2000円台ですんだのだが。
これの入手動機は、この秋の某学会大会で発表しませんか、という話があり、じゃあ時節柄マルクス・アウレリウスの疫病についてやろうと思い立ち、関連論文を集めていたら、その中で、疫病蔓延影響のせいで、明らかにマルクス・アウレリウス時代の沈船が少なくなっているとの以下の記述を確認するためであった。R.P.Duncan-Jones, The Impact of the Antonine Plague, Journal of Roman Archaeology, 9, 1996, p.139, n.182. 以下がそこで引用されていたfig.5である。私的にはむしろfig.3のほうが全体を見通せていいと思うので、並載しておく。
Fig.3 Ancient shipwrecks:Mediterranean wrecks by date, grouped in centuries
その発見場所は、実はとりわけ特殊な場所だった。その女子修道院は広大な「Santi Pietro e Marcellinoのカタコンベ」群の上に建っていたからである。その墓地群は3層の回廊をもち最深部は地表から11mと、ローマ所在の最大級規模カタコンベの1つで、3世紀後半から4世紀にかけて拡張され総延長4.5キロにわたり、実に、2万から2万5千人の死者が埋葬されていただけでなく、ローマ市周辺の60のキリスト教墓地の中にあって、このカタコンベは壁面を飾る全壁画の三分の一を占めていた。なので当然のこと、最初は新たなカタコンベの部屋と考えられた。しかし実際は異教徒の墓だった。
聖ピエトロと聖マルチェリーノのカタコンベ:右端円形が聖ヘレナ墓廟
その地所にはカタコンベ以前にも著名な前史があった。すなわちそこは元来、皇帝警護特別騎兵連隊 Equites singulares Augusti の墓地だった。この騎兵連隊は、1世紀末に皇帝トラヤヌスによって創設されたらしい。それが200年以上を経ての312年、コンスタンティヌスとマクセンティウスの内戦で、かの騎兵連隊はローマを守護するマクセンティウス側として戦闘に動員され、ミルウィウス橋の闘いの敗北後に勝者コンスタンティヌス大帝によって解隊の憂き目にあった。彼らの新旧兵舎は、現在のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂付近にあった。衆知のように、コンスタンティヌスが帝都ローマを掌握した後、その兵舎は没収された(一時皇后ファウスタが居所としたのは、新兵舎というよりも近所のラテラヌス家邸宅だったとすべきだろう)。旧兵舎のほうは皇母ヘレナに譲られ、現在はサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会及び周辺遺跡となって残っている。他方、新兵舎はキリスト教共同体に寄進され、現在のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂・宮殿となっていく。騎兵連隊の練兵場が、そこからラビカナ街道を3km東にいった「in comitatu」であり、そのそばの「Ad duas Lauros」に彼らの専用墓地もあった。そこが後にSanti Pietro e Marcellinoのカタコンベになった。
この件に最初出会った当時集めていた情報には、出土品の中にネロ時代や3世紀初頭のコインが含まれていて、といったのもあったはずだが、今回それはヒットしなかった。ま、コインが出土したからといってそれはその同時代性を意味しておらず、いわゆる「terminus post quem」(年代想定の)上限年代を示しているだけのことで、その後であればたとえ200年後の作業員が落とした可能性もあるわけだ。それにまた、当方入手の情報に時間的揺れもあって数字が必ずしも一致しないが、その埋葬状況から、時代がいつにしろ、それが疫病などの犠牲者で、短期間の間に大量の死亡者が出て埋葬されたというあたりの想定に間違いはないだろう。
余談だが、教皇フランシスコが2015年12月から翌年11月にかけて実施した「慈悲の聖年」Anno Santo della Misericordiaの折のこと、世界各国からの巡礼団向けに特別公開されていたこのカタコンベを見学する僥倖に恵まれた(掲示だといつでも予約で見学可能となっていても、連絡しても私のような個人レベルに対しては音沙汰がないのが普通なので)。いつか見たいものと思ってきたが、それを知らせ予約してくれた藤井慈子さんに深く感謝しなければならない(あろう事かその見学予定を失念していて、藤井さんからの電話でテルミニからタクシーで駆けつけたというおまけもあった(^^ゞ)。もちろんガイド引率のもと、内部撮影は許可されなかったものの、おおこのフレスコ画もここだったっけ、とか、写真での印象より思ったより小さいな、といった驚きと実体験にみちた見学であった。それほどに著名で保存のいい鮮やかなフレスコ画にあふれていたことを思い出す。その時我々は8年前まで行われていた発掘調査を知るよしもなく、担当した女性ガイドに確かめることもなく素通りしてしまったわけで、言ったところで、基本ボランティアのガイドが見せてくれるはずもないが、それでも万一の僥倖なきにしもあらずがイタリアなので、その点はかえすがえすも残念であった。
デザインと打刻銘文はまったく同じ(ただ明らかに彫り手は違っている:よく見ると頭髪の襟足部分も異なっているが):表側が右向き月桂冠着装の皇帝ネロ(銀貨のほうは顎髭あり)、銘文は「NERO CAESAR」。裏面は、皇帝が放射冠をかぶって、トーガ姿で全体は正面を向いているが、左足をやや折り曲げ、右手に小枝、左手に円球の上に立つ女神Victoria像を持し、皇帝の顔は女神に向いている。銘文は「AVGVSTVS GERMANICVS」。彼の正式称号はNero Claudius Caesar Augustus Germanicusなので、ちゃんと符合している。