投稿者: k.toyota

皇帝マクシミヌス・ダイア?の「要塞邸宅」で浴場発見

 柄にもなく、この情報には「長生きはするものだ」と思わされてしまった(以前、ティキヌムのコンスタンティヌス・コインでもそう書いたことを思い出すが (^^ゞ)。ごくたまにではあるが、昔ちょっとやっていた研究と関連する新事実が出てくる場合がある。これも長生きしてたからの僥倖にである。

 2026年9月4日発:セルビア東部のヴレロ・シャルカメン Vrelo-Šarkamen で発掘調査を行っていた考古学チームが、宮殿の塔の内部に設けられた豪華なローマ時代の浴場を発見した。この浴場は発掘した現地考古学者たちによって、305年から313年までローマ皇帝の一人だったマクシミヌス・ダイアMaximinus Daiaゆかりの邸宅の一部、と断定された。

             ⇧▲Šarkamen

 この遺跡は、ネゴティン Negotin 近郊のシャルカメン村から西へ6km、ヴレロ Vrelo 川の左岸に位置している。ここは1889年にフェリックス・カニッツ Felix Kanitz によって初めて記録され、1947年には建築家のジュルジェ・ボシュコヴィッチ Đurđe Bošković が地上の遺構(要塞、橋、左岸の神殿、右岸の浴場)のスケッチを残した。シャルカメンにおける最初の考古学調査は、1975年にネゴティンのクライナ博物館によって行われ、その際、皇帝の彫像の一部(斑岩製)が発見された。研究者たちはこの貴重な石像をテトラルキア(四分統治)時代のものと特定し、要塞については6世紀の初期ビザンティン時代に築かれたものと年代を推定した。この古代末期の居住・記念複合施設は、90m×90mの正方形の平面を持ち、石と装飾的な煉瓦の列を組み合わせた「オプス・ミクストゥム opus mixtum(混合工法)」で壁が築かれている。施設には10基の塔が設けられており、その塔は内径9m、外径15mの規模を誇る。

遺跡全体図:右の四角部分(A)が要塞部分、円塔浴場     塔⑩発掘以前の航空写真:発掘済みは①、②、⑧で、
は左下角の円形塔土台(⑩)、南側をVrelo川          遺構はさらに北側に展開しているはずだが、未着手
             
要塞邸宅が小高い丘の南端上にあり、塔⑩が滑落しそうなのがわかる。
発掘中                        発掘後
加熱室「スダトリウム sudatorium」

発掘調査により、3つの浴槽(またはプール)と、蒸し風呂として使用された加熱室「スダトリウム sudatorium」が確認された。このシステムの中心には、「プラエフルニウム praefurnium」と呼ばれる炉が設置され、この炉から送られた熱気は「ピラエ pilae」と呼ばれる小さな円柱で支えられた床下空間(ハイポコースト hypocaust)を通って循環する仕組みになっていた。もうひとつ興味深いのは、湯を沸かすための銅製ボイラーが設置されていた基部が確認されたことである。ボイラー本体は現存していないが、これは驚くべきことではない。銅は原材料として価値が高く、建物が放棄された後には頻繁に再利用されたからである。まさにそうした理由から、ローマ時代の銅製ボイラーが現存している例は極めて稀であり、現存する最も有名なものの一つはポンペイで発見されたものである。[ローマ市郊外のオスティア・アンティカにも「ミトラス浴場」(I,XVII,2)に同様に基部だけ遺存している件は、すでに触れたことがある]

  このようなローマ式浴場システム balneum は、他の遺跡からも確認されてきたが、今回のような円塔の最下層に組込まれた事例は初出である。現状では詳細な図面は未発表である。さて私が生存中に公刊されるであろうか。

 マクシミヌス・ダイアは、第二次テトラルキア体制の主導者だった東部正帝ガレリウスにより、305年に東部副帝(シリア・エジプト属州担当)として登用された。彼は属州ダキアのドナウ川周辺生まれの農民だったが、兵士となり順調に昇進したのだろう。ガレリウスは母方の伯父だった。308年にリキニウスが正帝となるや(イリリクム・バルカン半島を占有)、コンスタンティヌスとともに”filii Augustorum”(正帝たちの息子たち)を名乗り、310年のササン朝ペルシアとの戦い後は公然と正帝として振る舞い、311年のガレリウス死後、リキニウスと帝国東部を分有していたが、313年4月、ツィラルム Tzirallum の戦いに大敗北し、小アシアのニコメディアを経由してタルソスで再起を図っていたが、8月に死亡した。

コンスタンティノポリス防衛地点だった Tzirallum

 この地理的政治状況を考えるなら、発掘者たちが主張しているような、マクシミヌス・ダイアがこの要塞邸宅なり浴場なりを常時使用できたという想定はかなり無理があるだろう。当初の6年間は伯父ガレリウスの統治下だったので利用可能ではあったにしても、この地は一貫して彼の統治領域ではなかったからだ(逆に言うと、この遺跡をマクシミヌス・ダイアに帰すなら、その設立年代の上下限は305ー311年となる)。この要塞邸宅の西方300mに位置する皇帝霊廟(上記平面図でのB:標高差で要塞邸宅より約20m高い)および奉献用墳丘tumulus(C)を含む記念建造物群をこそ重視すべきではないか。しかもである、後述予定のガレリウス構築の要塞邸宅 Gamzigrad-Romulianaとの類似性を重視するなら、マクシミヌス・ダイアの宮殿と言うよりもむしろガレリウスの方が可能性あるだろう。

B=霊廟を南から見る

  それは 1994年から2003年にかけての発掘での豪華な出土品から、名が知られていない彼の母、すなわち皇帝ガレリウスの姉妹皇后のために築かれたものと判断されるに十分な内容だった。1996年に霊廟内から、皇后の火葬遺骨とともに、総重量約250グラムに及ぶ一揃いの金製装身具(ネックレス3点、指輪3点、イヤリング2点、ペンダント1点など)が発見された。遺骨と共に発見されたこの金製装身具に加え、金箔製の奉納板9枚も出土した。これらの板の表面には、テトラルキア(四分統治)時代の金貨(アウレウス)の意匠が浮き彫りにされており、ディオクレティアヌス、コンスタンティウス・クロルス、マクシミヌス・ダイアといった皇帝の名が刻まれていたのである(詳しくは、Edited by Ivana Popovć, ŠARKAMEN:A TETRARCHIC IMPERIAL PALACE THE MEMORIAL COMPLEX, Belgrade 2005)。この場所がおそらくは彼女の出生地付近だったのかもしれない。

要するに、あの要塞邸宅は皇母の霊廟への参拝に際しての皇帝宿舎として建築されたというべきなのではないか。今日においてもきわめて辺鄙な場所にあることだし、水が豊富な土地柄なのにわざわざ導水渠を構築してのテルメなのは、あるいは温泉を引いていたのかもしれない。

 こんな想定がまんざらでもないのは、シャルカメン Šarkamen のこの施設は、実は、ガムジグラード Gamzigrad にある皇帝ガレリウスの宮殿「フェリクス・ロムリアナ Felix Romuliana(ササン朝ペルシアへの勝利後、298年から311年にかけて建設)や、その東約1kmに位置する皇帝とその母ロムラ Romulaに捧げられた聖地マグラMagura の記念・聖域複合施設と呼応するように建設されたとしか私には思えないほど類似しているので、それに関して少しだけ触れておく。両者の高低差はMaguraの方が 60m高い(詳しくは、以下参照:Ed.by Ivana Popović, Felix Romuliana : Gamzigrad, Belgrade, 2011)。マグラには皇帝神格化儀式 apotheosis の基壇があり、ローマ帝国最後の祭礼地だった。

     ⇧Felix Romuliana                        聖地 Maguraの霊廟他 ⇧

  ガムジグラードは、セルビアのザイェチャル Zajiećar 市、ドナウ川の南に位置する遺跡であり、温泉保養地、そしてユネスコ世界遺産でもあった。この地には、ダキア・リペンシス Dacia Ripensis 属州において皇帝ガレリウスによって建設された、古代ローマの宮殿と神殿からなる複合施設「フェリクス・ロムリアナ」Felix Romulianaが存在する。主要エリアの広さは10エーカー(40,000平方メートル)に及ぶ。初期の探検家たちは、この古代遺跡をローマの軍事キャンプだと考えていたが、1953年以降に行われた体系的な考古学調査により、この場所が実際には皇帝の宮殿であったことが明らかになった。この施設は、四分統治(テトラルキア)体制の一角を担った皇帝ガレリウスによって構想・建設された。ガレリウスはダキア系の出自で、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの養子かつ義理の息子でもあった。彼は、ササン朝ペルシアへの勝利によって名声と栄光を手にした後の298年、自身の生誕地を記念するために建設を開始した。その名「フェリクス・ロムリアナ」は、ダキアの異教信仰の巫女でもあった母ロムラを偲んで名付けられた。この神殿と宮殿の複合施設は、主に3つの目的を果たしていた。すなわち、神格化された母を崇拝する場所、皇帝としての自身の功績を称える記念碑、そしてガレリウスのための豪華な別荘。ロムリアナは5世紀半ばにフン族によって略奪され、その歴史を閉じるまで存続した。

 このロムリアナRomulianaの遺跡群を東側から見下ろしているマグラ Magura の丘がある。その頂上には、それぞれ2基の霊廟 mausoleum と「トゥムルスtumulus」と呼ばれる墳丘があり、皇帝を神々の列に加える「アポテオシスapotheosis」という神秘的な儀式が行われる場所だった。西暦305年頃、ガレリウス帝の母ロムラがこの霊廟に埋葬されたと推定されている(息子は311年に死亡し隣りに埋葬された)。この構造物は高さ約12メートルあった。現在それらは廃墟となっているが、その部材は後期ローマ時代のロムリアナ建設に流用されたと考えられている。

  皇太后ロムラの霊廟に付属しているトゥムルスは、直径30メートル、高さ最大2メートルの石の環で囲まれた区域で、その内部からは木製の火葬用壇(薪の山)が発見された。このトゥムルスは当時の皇帝や皇族が神々の列に加えられる「神格化apotheosis」の儀式が行われた場所だった。しかしこの場所で焼かれたのは蝋(ろう)で作られた像であり、実際の遺体が焼かれたわけではない。

 2つ目のトゥムルスは、皇帝ガレリウスの霊廟からほど近い場所にあり、石の基部の上に高さ8.5メートルの盛土が施されていた。高さ約10.5メートルの円錐形をなすこのトゥムルスの上には、3段構造の火葬用壇が設置されていた。伝承によれば、ロムリアナの構想者である皇帝ガレリウスが神格化され、神となったのもこの場所だった。

  なお、この両地点の相関関係を見ておこう。両者は直線距離で約44km離れている。

 この両構造物がいずれもGalerius領に存在するということを根拠に彼の主導説を採用するなら、東部正帝という権威の下で彼が母と姉妹の埋葬と神格化をおこなったということになる。もちろんそこにマクシミヌス・ダイアも参列しただろうが。

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国内初、新潟県糸魚川でラピスラズリ発見

https://mainichi.jp/articles/20260303/k00/00m/040/231000c

2026/3/3 毎日新聞

 アフガニスタン東北部がほぼ唯一の産地で、交易によって古代ギリシアやローマ、中国、日本の正倉院などにも伝わり、古来珍重されてきた瑠璃色のラピスラズリが、予想外の地糸魚川で発見された。ここはこれまで翡翠(ひすい)の産出地として著名だったが、これまでの収集品に青い石が含まれていて、国立科学博物館(茨城県)が昨年6月にそれを解析したところ、ラピスラズリと判明した。アフガニスタン産とは鉱物の組み合わせが少し異なっており、糸魚川産と特定された。

 古代・中世の地中海世界で靑色顔料として珍重されてきたので、私も教材としてそれらしき石片を1つ購入している。さて、どこで購入したのかは忘れてしまったが。

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コロッセオ近くの高校体育館地下からローマ時代の邸宅出土

 ローマのコロッセオの北300mに位置しAnnibaldi通りに面した「カヴール理数系高校」 Liceo Scientifico Cavourの体育館の床下から1800年前の邸宅 domus の遺跡が再確認された。

 以下の写真からもかろうじて確認できるように、これまで1940年代や1950年代の落書きも色々書かれていて、生徒には以前から知られていて地下探険の肝試しの対象だったようで、今年の1月に生徒から打ち明けられた女性教師が考古学管理当局に報告して明るみに出て、それが公表されたのは5月末だった(別説では、コロナ禍の2021年)。本格的な発掘はこれからのようである。

 厳密に言えば、この遺跡はかつて19世紀後半に宣教団の本部が建設された際に知られていたし、この複合建築の一部は、1895年に行われたアンニバルディ通り(Via degli Annibaldi)の建設工事の際に姿を現していたが、すっかり忘れ去られていたらしい。

 この邸宅は、西暦2世紀半ば(約1800年前)のものとされ、サムニウム地方出身の裕福なウンブリウス(Umbrius)家の人物が所有していた可能性が高いと見られている。土に埋もれていたせいで保存状態もよく、ヴォールト(アーチ状の天井)を持つ部屋、保存状態の良い淡い色の漆喰、人物や植物が描かれた壁のフレスコ画、装飾的な漆喰細工、そして上流階級の邸宅に見られるモザイク床などが残っている由。

 ことほど左様に、帝都ローマにおいてはとにかく地下を掘ればかならず何か出てくるわけで(地下鉄C線工事のベタ遅れを思い出すだけでいいはずだ)、その意味でワクワク感も満載であるが、文化財当局は、この広大な地下遺跡を一般公開する計画を立てており、生徒たちがツアーガイドを務める可能性もある由。なによりの実物教育である。

 この遺跡はすでに「カヴール高校の邸宅」Domus Liceo Cavour と呼ばれているらしい。

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エディンバラ大学、牧師養成向けの神学学士・修士課程廃止へ

https://b.bme.jp/17/846/7839/4844

2026/9/30 スコットランド国教会における重要な聖職者養成学部大学院だったエディンバラ大学であるが、このたびグラスゴー大学にその学部大学院が統合移管されることになり、廃止されることになった。全体的な組織改革の一環である。

 なお、この記事の末尾に、「この記事は、英国クリスチャントゥデイの記事を日本向けに翻訳・編集したものです。一部、加筆・省略など、変更している部分があります。」との注意書きが附されていて、内容がかなり微妙との印象を私は受けざるを得なかった。

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シチズン・サイエンス?:出でよ素人研究者

 2026/9/29:NHK総合「クローズアップ現代」「あなたも歴史的発見?市民と科学の新時代」

 AIの発達とオープン・データの公表により、専門知識がない一般人も歴史的発見が出来る可能性が開けてきた。詳しくは以下参照:https://datazoo.jp/n/あなたも“歴史的発見”?+市民と科学の新時代/25442934

 なんとも皮肉なのは、専門家はいわば〇〇村の共通語に縛られて、それが枷になって先に進めないのだが、一般人はそういう思い込みから解き放たれているのが幸いして、そのうえ、趣味的に多数の一般人が参加することで、個人営業的な研究者にはとうてい不可能な網羅的検証も可能となったわけである。

 AIを駆使した新発見の可能性の追求は、我々には、ナスカの地上絵での山形大学の坂井正人教授の手法としてすでに知られているわけであるが、それがずぶの素人さんにも道を開くという今回の報道はなかなかのド迫力で、研究進展の新傾向として注目すべき動向であった。

 となれば、研究者ってなんなのさ、という問いかけも再燃してこざるをえないよね。

 

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私のパソコンが危ない・・・

 昨晩から私のメインのパソコン iMac(2020, 27-inch)の調子が悪い。すぐに起動しないし、何度か試して起動すると「問題が発生したためコンピュータを再起動しました」との表示が。そして、しばらく作業しないで置いておくとまたもや自動的にシャットダウンしちゃっている感じ。

 このパソコン、作られてから6年目なのでそろそろ寿命なのだろうか。読書会の準備でレジメ作成してる途中でプッツンして死んでしまったら困ったことになる。それでなくともなぜかワードが瞬時記憶できなくなっているので、途中でプッツンしたら再作業しないといけないし(昔は出来た記憶あるのだけど)。

 とりあえず、今は使っていない古いiMac(Late2014, 27-inch)をクラウドで繋いでおいて、万一にそなえることにしようと思う。それに 退職時に購入したノートパソコンMacBook(2017, 12-inchi)も健在でクラウドで同期しているから用意万端なのだが、さて。

 年金生活者としては新規購入は3、40万円かかるので避けたい事態である。

 就職した孫娘が置いていったiMac(Late2012, 27-inch)も使ってみるか。

【その後】あれから1週間、昨日あたりからどういうものか、勝手にシャットダウンしなくなった。当方がなにをしたわけでもないのに、だ。さてこの調子でいつまで使えるのやら。

【追記その2】広島に帰省し、そこのiMacが悲惨な状況に。インターネット見るためのブラウス・ソフト(Safari, Firefox)が「ヴァージョンアップやめました」と表示され、それでもアクセスしたら見たこともない画面が出てきたり・・・。しょうがないからGoogle Chromeをインストールしたら、私のHPでは画像が消えてしまって・・・。最悪!

 東京に帰ってみると何ごともなくこれまでのブラウザ使えているのに。あれはなんだったのか。

 と思っていたら、なんとワードがこれまで通りに機能しなくなった。途中で固まるのだ。それで試しに保存して再度開いてみると、以前修正したものが元の木阿弥。またフリーズして、再度開く、なんどやり直しても元の木阿弥。・・・・ 我が家のマック、私より先に認知症になってしまったのか・・・。

 【追記その3】2026/9/29:またまた勝手にシャットダウンする場合も生じだした。これはiMacの問題か(となると、もう寿命ということになる)、それともソフトのヴァージョンの問題か、いずれにせよ、もはや信頼できない感じ。

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面白い指摘かも:なぜ幕末に日本だけが独立を保ち得たのか

 2026/09/07 「坂本龍馬でも西郷隆盛でもない…明治維新を成功させ植民地化から日本を救った”ラッキーな2つの出来事”」(https://president.jp/articles/-/118466)

 書かれている内容は、西洋史と日本史を年表で重ねれば自明のことであるが。

 案外この件を書いた予備校教師はこういった単純作業をしていて気付いたのでは。

 自称専門家たちが陥りやすい専門性の間隙(盲点)を縫っての着眼点と、私には思える。

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ナポリでの聖ジェンナーロ祭での奇跡

 かつて私は地球規模で「災害同時多発状況」に入ったのでは、という観測を述べたことがある。昨今なぜか前代未聞の災害が頻繁に起こっているように思えたからだ。

 ところでイタリアは火山国で、その象徴は言うまでもなくシシリアのエトナ山とカンパニアのウェスビオ山だろう。特に後者の影響をこれまでしばしば受けてきたのがナポリで、この街の守護聖人が聖ジェンナーロである。私は、彼がディオクレティアヌスの大迫害時代の殉教者とされているのを知ってから、サバティカルその他でのローマ居住中に聖ジェンナーロがらみの故地ナポリ(大聖堂に聖遺物保存)やポッツオリ(斬首地)を幾度となく尋ね、とうとう彼の遺体埋葬地ベネベント(実態は石棺の存在)再訪までしたのを思い出す。

 特に印象深かったのは、聖人の祝日の9月19日のドゥオーモでの大祭で(他に年に2回ほど大祭があった)、日本と同様にこの祝日に門前市が立って盛況だったことと、そこでの定番のヌガー、トッローネを囓ったことを懐かしく思い出す。テレビ中継も入っていて、もちろん大聖堂は満員で、そこで枢機卿による聖ジェンナーロの血の溶解の奇跡が実演された。

 この祭の大略については、以下参照。これ読んで思い出してしまった:https://wien2006.livedoor.blog/archives/52432894.html

 当時、イタリアでは18歳の国民皆兵の徴兵義務があって(2005年に志願制度になったらしい)、その召集日が9月のこの大祭ごろだったせいで、このころ南を鉄道旅行すると、さながら年中行事風に、駅毎に親族と別離する若者の涙涙の別れの場面に遭遇し、いかにもイタリア南部の光景だなあと我らはそれを窓からのぞき見していた。

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世界の常識、日本の非常識:皇室の歴史

 今日も今日とて、2000年前のローマ帝国の素晴らしさをテレビでやっている:2026/9/5 BS朝日「天海祐希と古代ローマの謎を解く」(ただし、昨年の再放送)。水道といい、トイレといい、公衆風呂といい、日本がまだ弥生時代だったとき、古代ローマはすでに社会インフラがそこまで発展していた!

 一方で、「自民党の小林鷹之政調会長が7月、衆院議院運営委員会で述べた。「皇位の男系継承は、2600年以上にわたって先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統です」(毎日新聞 2026/9/5)。これに対し「歴史学者が抗議の声」をあげたそうな。もっともである。彼はどういう歴史教育を受けてきたのか。さすがの山川教科書でもそんなこと書いていないよね。

 他方でアメリカで、なんとかいう大統領の岩盤支持層とされる福音派にとって未だ「聖書における人類創成は6000年前」なのだ。旧約聖書の記述を史実として信奉する彼らにとっては進化論なのありえないわけだ。聖書学者も聖職者もまともな人たちはもはやそんなことを言ってはいない。あれは古代人が編み出した神話なのだから。

 しかし、今を去る60年以上も昔、私が高校生時代、イエズス会経営の学校法人にはたしか「宗研」と呼ばれた部屋があって、そこの書棚に「進化論は誤りである。神が人類を一瞬で創成した。精緻な人間の肉体構造ひとつとってもその完璧性からして、一瞬での創造としてしか理解不能である」といった類いの西欧の神学者が書いた本の翻訳があって、私などおいおい何書いているのよー状態で読んだのを覚えている。カトリック的高校においても授業の場では進化論は常識だった。これは第二バチカン公会議以前の19世紀的反科学主義見地からの著作だったのだが、さて今その本はどうなっているのだろうか。おそらく廃棄処分になって図書室にも保存されていないだろうな(あったら再読してみたいと本心で思っている)。

 今上天皇が皇太子浩宮だったとき「我が祖先は朝鮮半島からの渡来人だった」と明言された記憶があって、さすが歴史のお勉強した人だ、と私は感心したのだけど、それをググって調べようとしたが、全くの空振りで記事がひっとしない、ただお父上の現上皇(平成天皇)が2001年12月23日の誕生日会見で「韓国とのゆかりを感じています」と述べたことだけは見つけた(https://www.asahi.com/international/aan/hatsu/hatsu020110.html;詳しくは以下、https://hiyoshidai-yokohama.jimdofree.com/2021/08/16/%E6%97%A5%E5%90%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%AE%E3%81%8A%E8%A9%B1-%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%B6%9A%E3%81%8D-%E7%95%AA%E5%A4%96%E7%B7%A8-%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%85%88%E7%A5%96%E3%81%AF%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F/)。重要なのになぜか簡単に見ることがそうないので、転載します。

《日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、いまも折々に雅楽を演奏している人があります。
 こうした文化や技術が日本の人々の熱意と、韓国の人々の友好的態度によって、日本にもたらされたことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています。
 私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王(せいめいおう)は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは、忘れてはならないと思います。
 ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々がそれぞれの国が歩んできた道を個々の出来事において、正確に知ることに努め、個人個人として互いの立場を理解していくことが大切と考えます。
 ワールドカップが両国民の協力により、滞りなく行われ、このことを通して両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております》

 最後にワールドカップが出てくるのは、この発言が2002年の日韓ワールドカップを前にしていたからである。

 国会議員もキリスト教信者さんもお勉強は必要なくて、信じるというレベルで発言されておられるようだけど、それじゃあ困るんですよね。

【追記】

2026/9/6「社会学的皇室ウォッチング! リヒテンシュタイン女系容認 「議会審議」なしの理由」(https://www.koji007.tokyo/wp-admin/edit.php)

2026/9/9 NHK総合「歴史探偵」によると古代ヤマト王権の中で6人の女帝がいた、と一覧表に出ていた(後述の江戸時代の2名を除外したのだろう)。ウィキペディア「女性天皇」によると「飛鳥時代と奈良時代に集中しており、10代8名」いたことになっている。

 その注釈にいわく:飛鳥時代に3名4代(1度の重祚)、奈良時代に3名4代(1度の重祚)、江戸時代に2名。奈良時代最後の女性天皇は称徳天皇(孝謙天皇の重祚)。769年に道鏡事件を起こした影響で以降に江戸時代初期の第109代明正天皇(在位:1629年 – 1643年)に至るまで850余年も女性天皇が立てられることはなかった、と。

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オーパーツ(時代錯誤遺物)がらみの骸骨5点

 私は、昔からよくケーブルテレビの番組を物色しているが、ナショジオの他に、たまにヒストリー・チャンネルの番組表を眺めて奇妙な感覚にとらわれるのは、堂々と「古代の宇宙人」「地球外生命体」がらみで古代文化を論じている番組が存在するということだった。これが歴史番組なのか?というわけだ。宇宙人が地球に到来して文明を伝授した、で話が終わるのであれば、我々がしている研究なんて無意味だろ、と。だから偶然に、”5 Skeletons Found Holding Things That Don’t Fit the Era”(https://medium.com/predict/5-skeletons-found-holding-things-that-dont-fit-the-era-65c4085f018c)を見つけ、末尾で「そのどれにも、宇宙人の関与など必要ありませんでした。 必要だったのは、私たちより前に生きた人々をもっと高く評価することだけだったのです」との文言に出会ったのは収穫だった。

 さて今回の「オーパーツがらみの五つの骸骨」のうち、古代ローマ関係は、2,3,4の三つであるが、3はエルコラーノの脳のガラス化説でこれはすでに検証・掲載済みなので除外し、4もローマ時代に、新石器時代の遺骨を掘り出してローマ時代のものとなぜか組み合わせて再埋葬したという話なので除外して(いずれもオーパーツにしてはそれほど意外でないのがミソであるが)、ここでは2を紹介しよう。

ニームで発見された、本来なら残るはずのないものを抱きしめた子供 :2024/4/21(The History Blogでは、2024/4/11に既報 https://www.thehistoryblog.com/archives/69946)

 フランスのニーム Nîmes(古代ローマ時代は「Nemausus」と呼ばれていた)のボーケール通り(Rue de Beaucaire)で古代の街道「ドミティウス街道」Via Domitiaの発掘調査が行われた際、考古学者たちは前2世紀と前1世紀から後1世紀の間のものと推定される15基のローマ時代の墓を発見した。 大部分は火葬による埋葬だが、土器の水差しやランプと共に埋葬された幼児を含む、少数の土葬も確認されている。

 ここで不可解なのは壺そのものではなく、遺跡全体から出土したガラス製品の状態である。それらはあまりにも保存状態が良く、一見すると、その時代の文脈にはそぐわないほど新しい時代のもののように見えた。

 出土したローマ時代のガラス容器の中には、考古学の常識では考えられないほど細部まで鮮明で、完全な形を保っているものがいくつかあった。通常であれば、後世の混入や、墓への後からの侵入を疑うような状態なのだ。

 しかし、その理由は時代錯誤(アナクロニズム)ではなく、化学的な要因にあった。 ローマ時代のガラスには不純物として鉄が含まれており、それが緑がかった色合いを生み出していた。さらに、埋葬されていた特定の環境(何世紀にもわたる、安定したミネラル豊富な土壌)が、ガラス表面に虹色の輝き(イリデッセンス)を生じさせるような劣化を招くのではなく、むしろ容器の美しさを際立たせるような変化をもたらした場合である。 当時のローマのガラス職人の技術は驚くほど高度なものだった。私たちは古代の工芸技術を過小評価しがちだが、それは歴史教育において、その時代が「原始的」なものとして語られる傾向があるからにすぎない。

 壺を抱きしめた子供の姿は、今も私の心に残っている。ローマ文化では、幼くして亡くなった子供を悼むことは公式には推奨されていなかったが、ここには明らかに深い愛情や配慮が込められた埋葬の跡がある。 その小さな手に握られた品は、子供の死に対する当時の一般的な認識とは相容れないものである。そして、ガラスそのものに関する事実以上に、この「認識との乖離」こそが、この事例における最も重要な点だと言えるだろう。

【幼児がもっていた壺の話題のはずが、それとは別のガラス器の話に移っているのがいささか唐突であるが、ちょうど乳幼児埋葬に関心を持っているので、ま、よしとするか。掲載写真は、以下:https://www.mensjournal.com/news/archaeologists-skeletons-glassware-roman-settlement-france】

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