『ローマ教皇列伝』Liber Pontificalis解読

 この基本史料に邦訳あっていいのでは、というのが私の動機なのだが、本日から初期中世ラテンに疎い5名で読みはじめたが、えてしてそういうものだが、初っぱなから大苦難の様相である。どなたか助っ人お願いできればと切望しておりますので、お声を上げていただければ幸甚です。

 隔週火曜日、午後18:30より90分程度。Zoomでやっています。次回は5/31、といった感じ。連絡先:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

使用ラテン語底本:一応MGHを底本とするが、読解には便利なので以下のThe Latin LibraryのDIGITAL版を使用しています。

 https://www.thelatinlibrary.com/liberpontificalis1.html

 Th.Mommsen, Liber Pontificalis ,Pars Prior, MGH, Gesta Pontificvm Romanorvm, vol.1, Berlin, 1898.

 Louis Duchesne, Le Liber pontificalis, tom.1, Paris, 1886(https://books.google.co.jp/books/about/Le_Liber_pontificalis.html?id=_gAXCJUWI0UC&redir_esc=y)

翻訳:

Louise Ropes Loomis, The Book of the Popes, New York, 1916(https://books.google.co.jp/books/about/The_Book_of_the_Popes.html?id=Q3CxAAAAMAAJ&redir_esc=y)

 Raymond Davis, The Book of Pontiffs, Liverpool UP, revised third edition, 2010.

 Nathalie Desgrugillers, Liber Pontificalis 1.Des Origines au pontificat de Sylvestre (30-355), L’Éncyclopédie médiévale, 2012:発注中

参照辞書

 de Daremberg et Saglio, Le Dictionnaire des Antiquités Grecques et Romaines, Paris, Hachette, 1877-1919(http://dagr.univ-tlse2.fr/)

 Mediae Latinitatis lexicon minus, Leiden, 1984.

文法書

 國原吉之助『新版中世ラテン文法』大学書林、2007.

 初回90分で、ろくに読解できなかったが、それにしても格変化とかで問題山積みなのである。

 なお、現在教皇へのカトリック的な一般的敬称表記は「聖下」がよく使われているが、ここでは試しに伝統的な「猊下」としてみた。またbeatusは現在では、「聖人」sanctusと差別化して「福者」と訳されるが、ここではあえて冗長ながら「祝福された」と訳した。

ーーー

献辞 

 至福なるbeatissimo 教皇ダマスス(猊下)に、ヒエロニムスが(献じます)。

 猊下の聖性の栄光に鑑み、我ら謹んで次のごとく哀願いたします。我らが猊下の聖性のおかげで司られることを知ったところの使徒座のapostolicae sedis(権威)に基づき、これに対し深く頭を垂れてhoc curui、我らは祈ります、祝福されたbeati 使徒ペトルスの首位権の(時代)から、猊下の(使徒)座の中で行われた猊下たちの諸時代までずっとusque ad 諸事績を、平和の秩序のために、我らに詳述するのを猊下が決心させられますように、と。我ら謹んで、上述の聖座sanctae sedis の諸司教のうち誰が殉教の冠を得たか、それどころかuel 誰が諸使徒の諸規範に反して逸脱したかさえ知られているのかを、思量することを知る限りにおいて、我らのために祈りたまえ、至福なるbeatissimae 教皇(猊下)よ。

 首都ローマ司教ダマススが、司祭ヒエロニムスに(与う)。

 貴下の(知識の)泉によって満たされた教会は喜び、そしてより多く、諸々の時代の祭司職のsacerdotalis 好奇心は以下を渇望するものである、すなわち、何が価値あるものかが知られ、そして何が無価値であるので退けられるべきかを。さらにtamen 何がなされるのか、我らがみつけえたものが何かを、我らの(聖)座のsedis 研究を、汝の隣人愛において享受することを、我らは(これまでも)導いてきたのである。我らのために(キリストの)聖なる復活のゆえに祈りたまえ、兄弟よ、同僚司祭よ。ご機嫌ようVale、我らの主、神、キリストにおいて。五月二十三日に与う。十月二十六日に受領、ローマからヒエロソリマに送付(書簡)。

 

第一章 ペトルス PETRVS [- 64/67]

 1. 祝福されたbeatus ペトルス、使徒にして使徒たちの筆頭者princeps、アンティオキアの人、ヨアンネスの息子、ガリラヤ属州のベトサイダ村vico(出身)で、アンドレアの兄弟が、最初primum アンティオキア内で司教のカテドラにcathedram 七年の間着座したsedit。このペトルスは帝都ローマに皇帝ネロの時に入って、そこでibique 司教のカテドラにcathedram 二十五年二月三日間着座したsedit。彼はまた[かくして]autem 皇帝ティベリウスの、そしてガイウスの、そしてティベリウス・クラウディウスの、そしてネロの諸時代にいたのである。

 2. 彼は、二つの書簡を書いた、それらは公同catholicae(書簡)と呼ばれている、そしてマルクス(マルコ)の福音書を(書いた)。なぜならマルクスは彼(ペトルス)の聴聞者auditor であった、そして受洗によって(ペトルスの)息子だったので、その後post (マルクスの福音書は)四福音書すべての源泉で、それらが吟味されたad interrogationemとき、そして彼の証言によってtestimonio、それはペトルスのそれであり、あるものはギリシア語、あるものはヘブライ語、あるものはラテン語で表明されていてもconsonent、さらにtamen それらは彼の証言によってtestimonium 立証されたのであるsunt firmatae。

 3. 彼は、二人の司教、リヌスとクレトゥスを叙階したordinauit。彼らは自らあらゆる祭司的奉仕をministerium sacerdotale 首都ローマで会衆populoや、それどころかuel やって来た人々にさえ示したexhiberent。また[かくして]autem 祝福されたペトルスは祈祷や説教を会衆に対して教育すべく専念した。

 4. 彼が、会衆の前のみならず皇帝ネロの前でも同様に、魔術師シモンと多くの議論を持ったとき、すなわちut 彼らを祝福されたペトルスがキリスト教信仰に集めadgregabat、後者(魔術師シモン)が魔術と欺瞞をもって散らしたのでsegregabat、そして彼らはかなり長くdiutius 討論したが、シモンは神のdiuino ご意向で殺された。

 5. 彼は、祝福された司教クレメンスを聖別したconsecravit。かつまた-que 彼にカテドラをcathedram、それどころかuel 教会をecclesiam さえすべて管理させるべくdisponendam 委ねてcommisit、言う:私に舵を取り、結びかつまた-que解く権能がpotestas 我が主イエス・キリストによって授受されているのでsicut、そして私は汝に委ねるcommitto、種々のことどもの管理人たちをdispositores 叙階するordians ことを、彼らにより教会の活動はactus ecclesiasticus 達成され、そして汝は少しも世俗の諸々の世話にin curis saeculi 気をとられないように、むしろただsed solummodo 祈祷のためだけに、そして会衆に説教するために自由であるべく専念せよ、と。

  6.  この管理のdispositionem 後に、彼は殉教によりパウルスとともに花冠を受けるcoronatur、(それは)主の受難の後三十八年に(あたった)。彼はアウレリア街道にアポロン神殿内に埋葬された、(それは)磔刑にされた場所の近くで、ネロの宮殿の近くで、ウァティカヌス丘の内へと、凱旋(街道)地区の近くで、六月二九日に。彼は、十二月における諸叙階式でordinationes、司教を三名、司祭を一〇名、助祭を七名(の叙階を)執り行ったfecit。

第二章 リヌス LINVS [c.70]

 1. リヌスは、生まれはnationeトゥスキア[エトルリア]地方regionis Tusciaeのイタルス(イタリキ=イタリア)人Italusで、父はヘルクラヌスHerculanoで、(司教座に)十一年三か月十二日間着座した。彼はまた[かくして]autem ネロの諸時代、Saturninus とScipioの執政官職(後五六年)からCapitoとRufusが執政官職(後六七年)に至るまでずっとでusque ad、殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は、祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、女性は聖堂内ではin ecclesia 頭部をヴェールで覆って入るべしと制定したconstituit。彼は、二回の叙階式で、司教十五名、司祭十八名(の叙階)を執り行ったfecit。彼は、祝福されたペトルスの遺骸の傍らにiuxta corpus beati Petri、ウァティカヌス(の丘)の中にin Vaticano、九月二三日に埋葬された。

第三章 クレトゥス CLETVS [Anencletus, c.85]

 1. クレトゥスは、生まれはローマ人で、パトリキウス街 vico Patricii 出身で、父はアエミリアヌスAemiliano、(司教座に)十二年一ヶ月十一日。彼はまた[かくして]autem ウェスパシアヌスとティトゥスの諸時代、ウェスパシアヌス七回目とドミティアヌス五回目の執政官職(七七年)からドミティアヌス九回目とルフスが執政官職(八三年)に至るまでずっとusque ad だった。(彼は)殉教により花冠を受ける。

黄色の矢印間がVicus Patricius:現在のサンタマリア・マッジョーレ聖堂の西南にあたる

 2. 彼は祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、司祭二十五名を首都ローマでurbe Roma 叙階したordinauit。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 四月二六日に埋葬された。そして司教座は二〇日間空座だった。

第四章 クレメンス CLEMENS [c.95]

 1. クレメンスは生まれはローマ人で、ケリオモンティウム(=Caelimontium、下図の第二) 街区でregione(出身)、父はファウスティヌスで、(司教座に)九年二月一〇日間着座した。

彼はまた[かくして]autem ガルバとウェスパシアヌスの諸時代に、トラカルスとイタリクスの執政官職(六八年)からウェスパシアヌス第九回目とティトゥス[第七回目執政官職](七九年)に至るまでずっとusque adだった。彼はその間dum 多くの書物をキリスト教の信仰の熱意により書き記したが、殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は(帝都ローマに)七つの街区をregiones 作り、教会に忠実な書記たちをnotariis 割り当てた。彼は殉教者たちの諸事績に細心かつ好奇心をもっていたからで、かつまた-que 各々(の書記)が自身の街区についてregionem、入念に問い質すようにそうしたのである。

 3. 彼は二つの書簡を書いた。それらは公同catholicae(書簡)と呼ばれている。彼は祝福されたペトルスの指示に則り、教会の司牧職をpontificatum 舵取りすべく授かった。ちょうどsicut 彼(ペトルス)に主イエス・キリストからカテドラが託されていた、もしくはuel 委ねられていたごとく。さらにtamen ヤコブに対して書かれた書簡の中で、等しくqualiter 彼に祝福されたペトルスによって教会が委ねられたことをあなたはみつけ出すであろう。それゆえにideo そのためにpropterea リヌスとクレトゥスが彼(クレメンス)以前に登録されており、こうしてeo 使徒たちの筆頭者である彼自身から、交付さるべき祭司的な職務へとad ministerium sacerdotale、司教たちは叙階されているのである。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭一〇名、助祭二名、様々な地のために司教一五名(の叙階)を執り行ったfecit。彼は殉教者としてトラヤヌスの(執政官職)三回目に逝去した(後一〇〇年)。そのうえetiam 彼はギリシア人たち(の地)に十一月二四日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。

第五章 アナクレトゥス ANACLETVS [第三章と同一]

 1. アナクレトゥスは、生まれはギリシア人、アテナエ(出身)で、父はアンティオクスで、(司教座に)九年二か月一〇日着座した。それはまた[かくして]autem ドミティアヌスの諸時代に、ドミティアヌス第一〇回目とサビヌスの執政官職(八四年)から、ドミティアヌス第一七回とクレメンスの執政官職(九五年)に至るまでのことだった。

2. 彼は、祝福されたペトルスの記念碑を建設した、そして、彼は祝福されたペトルスによって司祭にされていた間にdum、あるいはseu 司教たちが安置されるべき他の諸々の埋葬場所を配置したconposuit。そこにさらにとはいえubi tamen et、彼自身も埋葬された、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、七月十三日に。

3. 彼は十二月に二回の叙階式で、五名の司祭、三人の助祭、様々な地のために六名の司教(の叙階)を執り行った。そして司教職は十三日間空座だった。

第六章 エウァリストゥス EVARISTVS [c.100]

 1. エバリストゥスは生まれはギリシア人で、父はユダヤ名でユダスで、ベツレヘム市出身でde ciuitate Bethleem、(司教座に)九年十か月二日着座した。それはまた[かくして]autem ドミティアヌスとネルウァ・トラヤヌスの諸時代、ウァレンスとウェトゥスの執政官職(九六年)からガルスとブラドゥアに(一〇八年)至るまでずっとusque ad だった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は、首都ローマ内の諸々の名儀教会をtitulos 司祭たちに割り当て、そして七名の助祭たちを叙階した、彼らが真理の鉄筆のためにpropter stilum ueritatis 説教するpraedicantem 司教に近侍するためだった[司教の説教を速記するためだったのだろうか;それに以下に示される叙階助祭と数が異なっていることにも注目]。

 3. 彼は十二月に三回の叙階式で、十七名の司祭、二人の助祭、様々な地のために十五名の司教たち(の叙階)を執り行ったfecit。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum、一〇月二七日に埋葬された。そして司教職は十九日間空座だった。

第七章 アレクサンデル ALEXANDER [c.110]

 1.アレクサンデルは生まれはローマ人で、父はアレクサンデルで、カプト・タウリ街区の出だったがde regione Caput tauri[教皇レオ八世作成の文書に、「雄牛の頭地区(ティブルティーナ門)」が明記されている]、(司教座に)一〇年七ヶ月二日着座した。彼はトラヤヌスの諸時代からへリアヌスHelianoとウェトゥスVetere(の執政官職の時:一一六年)に至るまでいた。

 2.彼は主の受難を、諸ミサが行われる際の祭司たちのsacerdotum 説教praedicationeの中に、組み入れた。彼は殉教により花冠を受け、そして彼と共に司祭エウェンティウスEuentius と助祭テオドルスTheoldolus も(殉教した)。彼は、人々の諸住居内で(祝別する場合は)水を撒き塩で浄められるべきである、と制定したconstituit。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、六名の司祭、二名の助祭、様々な地のために五人の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はヌメンタナ街道uia Numentana に埋葬された。彼はそこで斬首されたdecollatus est、首都ローマからさほど遠くない第七里程標で、五月三日のことだった。そして司教職は三十五日間空座だった。

第八章 シストゥス XYSTVS [c.120]

 1.シストゥスは、生まれはローマ人で、父はパストルで、ラタ通り街区[上図のVII]出身でde regione Via Lata、一〇年二ヶ月一日着座した。彼はまた[かくして]autem ハドリアヌスの諸時代、ウェルスとアンニクルス(の執政官職:一二六年)に至るまでずっといた。彼は殉教により花冠を受ける。

 2.彼は、以下を制定したconstituit。諸々の聖具 ministeria sacrata は奉仕者たちministeris 以外によって触れられてはならない、と。彼は以下を制定したconstituit。使徒座へと召喚された司教たちは誰でも、自らの司教区へとparrociam 帰ることは、フォルマータForumata なる市民宛てのplebi 挨拶のsalutationis 使徒座の書簡を携えずには、受け入れがたいnon susciperetur、と。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十一名、助祭四名、様々な地のために司教四名を執り行った。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum、四月三日に埋葬された。そして司教座は二ヶ月間空座だった。

 4.彼は以下を制定した。(ミサの)司式中にintra actionem、それを始めている祭司はsacerdus、会衆にpolulo (以下の)聖歌を唱和させるように、と。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主」Sanctus,sanctus,sanctus,Dominus Deus Sabalot[序誦中の文言]、そしてなどなど。

第九章 テレスフォルス TELESPHORVS [c.130]

 1.テレスフォルスは、生まれはギリシア人で、隠修士出身でex anachorita [=ἀναχωρητής]、(司教座に)十一年三ヶ月二十一日着座した。彼はまた[かくして]autem アントニヌスとマルクスの諸時代にいた。

 2.彼は、以下を制定した:復活祭前の七週間に断食が挙行され、そして主の御降誕ではnatalem Domini 夜間にnoctu ミサ聖祭missas が挙行されるように、と。というのもnam あらゆる時代において、誰も三時課[午前九時]より前にante horae tertiae cursum ミサ聖祭をmissas 挙行することを企図しなかったのだが、(それは)その時間に我らの主が十字架にお登りになったからだがascendit、そしていけにえの前にante sacrificium 天使の讃歌hymnus angelicus[栄光頌(グロリア)のことか]、すなわちhoc est:「天のいと高きところに神に光栄あれ」Gloria in excelsis Deo が奉献されたdiceretur。彼は殉教により花冠を受けた。

 3.彼は、まさにuero 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 一月二日に埋葬された。彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭八名、様々な地のための司教十三名を(任命した)。そして司教座は七日間空座だった。

第十章 ヒギヌス YGINVS [ac140年]

 1.ヒギヌスは、生まれはギリシア人で、アテナエ出の哲学者の出で、彼の系譜は判明していない。(司教座)に四年三月四日着座した。かれはまた[かくして]autem ウェルスとマルクスの諸時代、マグヌス[執政官表ではCanus Iunius Niger]とカメリヌスの執政官職(一三八年)からオルフィトゥスとプリスクス(一四九年)にいたるまでずっといた[明らかに数字が合わない]。

 2.彼は聖職(階級)をclerum 制定し、諸々の段階をgradus 割り当てたdistribuit。彼は、十二月に三回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十五名、助祭五名、様々な地のための司教六名を(任命した)。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 一月十一日に埋葬された。そして司教座は三日間空座だった。

第十一章 ピウスPIVS [c.145年:写本によってはこの章と次の第十二章が入れ替わっているのもある由]

 1.  ピウスは、生まれはイタルス(イタリア)人で、父はルフィウス、バルトルの兄弟で、アクイレギア(アクイレイア)市の出身でde ciulitate Aquilegia、(司教座に)十九年四月三日、着座した。それはまた[かくして]autem アントニヌス・ピウスの諸時代、クラルスとセウェルスの執政官職からであった。

 2.彼の司教下で、彼はヘルマスの書をHermis librum 書いたscripsit、その中で彼はひとつの命令をmandatum 保持しているが、それは、彼に主の天使(s.)が指図したpraecepit もので、それは天使が彼の所に羊飼いの服装でやってきて、そして彼に過越しの主日に祝われるようにと指図したpraecepitのである。

 3.彼は(以下を)制定したconstituit、ユダヤ人たちの異端からやってきた異端者(s.)が受け入れられ、そして洗礼を授けられるべし、と。そして教会に関する法令constitum (s.)を発布したfecit。†[以下の第四節は写本によって挿入あり]

 †4. 彼は、祝福されたプラクセデスの要請により、ひとつの教会をノウァトゥス浴場に奉納したdedicauit、それはパトリキウス通りにuico(cf., chap.III.1)あり、彼女の姉妹の聖ポテンティアナの名誉のため、そしてそこにubi et 彼(彼女?)は多くの寄進をdona 捧げた。そこにubi より煩瑣にsepius 主に捧げる犠牲をsacrificium[ミサ聖祭のことか]奉仕したministrabat。そしてそれどころかinmo et 洗礼盤をfontem baptismi 組み立てさせてconstrui fecit、彼自身の両手でmanus suas 祝別しbenedixit そして聖別したconsecrauit。そして信仰のためにやって来た多くの人々を、三位一体の名において受洗した。

 5. 彼は十二月に三回の叙階式で、十九名の司祭、二十一名の助祭、様々な地のために数にしてnumero 十二名の司教たち(の叙階を)を執り行った。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 、七月十一日に埋葬された。そして司教職は十四日間空座だった。

第十二章 アニケトゥス ANICETVS[c.160年]

 1.アニキトゥスAnicitus は、生まれはシルス(シリア)人で、父はヨハンネスで、フミサ村uico Humisa[Emesaかもしれない;cf., 第一章第一節]出身で、(司教座に)十一年四月三日、着座した。それはまた[かくして]autem セウェルスとマルクスの諸時代、ガッリカヌスとウェトゥスの執政官職(一五〇年)からプラエセンスとルフィヌスに至るまでずっとであった(一五三年)。

 2.彼は、聖職者はclerus 髪を手入れしてはいけないと制定したconstituit、使徒(s.)の指示に従ってのことだった。彼は十二月に五回の叙階式で、十九名の司祭、四名の助祭、様々な地のために数にしてnumero 九名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam 殉教者として逝去しobiit、そしてカリストゥスのCalisti 墓所にcymiterio 四月二十日に埋葬された。そして司教職は十七日間空席だった。

第十三章 ソテル SOTER [c.170]

 1.ソテルは、生まれはカンパニア人で、父はコンコルディウスで、フンディ市出身でciuitate、(司教座に)九年四ヶ月二十一日、着座した。それはまた[かくして]autem セウェルス[正しくは、ルキウス・ウェルス]の諸時代、ルスティクスとアクイリヌスの執政官職(一六二年)からカテグスとクラルスに至るまで(一七〇年)ずっとであった。

 2.彼は、いかなる修道士もmonachus 聖なる教会内で聖別された布に触れたり、香を焚いたりしてはならない、と制定したconstituit。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、十八名の子細、九名の助祭、様々な地のために数にしてnumero 十一名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam アッピア街道にあるカリストゥスの墓所に、四月二十二日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。

第十四章 エレウテリウス ELEVTHERIVS [c.180]

 1.エレウテルは、生まれはギリシア人で、父はハブンディウス、ニコポリスの町出身でde oppido、(司教座に)十五年三ヶ月二日着座した。彼はまた[かくして]autem アントニヌスとコンモドゥスの諸時代、パテルヌスとブラドゥスの執政官職(一八五年)に至るまでずっとだった。

ニコポリスは幾つもあるが、ギリシアの、となるとここだろう

 2.彼は、ブリタニア人の王Britanio rege ルキウスから書簡を受け取った。(それはルキウスが)彼(エレウテル)の命令によってmandatum キリスト教徒とされるように(という内容だった)。そして彼は以下を再度iterum 確認したfirmauit、いかなる食物もキリスト教徒たちによって、特にmaxime 信心深い者たちによってfidelibus 退けられるべきではない、なぜなら神が創造したものであるから、それはさらにtamen 理にかなっておりrationalis、そして人間のためのものhumana だからである、と。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十二名、助祭八名、様々な地のための数にして十五名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内にin Vaticano、五月二十四日に埋葬された。そして司教座は十五日間空座だった。

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