使徒ペトロの痕跡?:Ostia謎めぐり(5)

 オスティア遺跡には、色々の宗教施設の痕跡も発掘されていて、各種東方密儀宗教のほかにも、キリスト教教会堂跡とユダヤ教シナゴーグすらあるし、墓地においても古来の火葬墓と3世紀以降の土葬墓の両系を見ることもできる。ここでは、そういう公然とした施設ではなく、私邸においてキリスト教の痕跡とされているものを紹介したい。問題の場所は、III.ix.1の「ディオスクリ(ディオスクロイ)の邸宅」Domus dei Dioscuri である。Russell Meiggsはこの邸宅の持ち主に、355年の道長官で、365/6のローマ都市長官だったC.Caeionius Rufus Volusianus Lampadiusを想定している(Roman Ostia, second Ed., Oxford, 1973, p.212)。そして、彼の一族は北アフリカに所領をもっていたこともあり、本邸宅のモザイクも若干平面的な北アフリカ風であるとしている。

 ここには我々の2009年夏の現地調査時に堀賀貴・九州大学教授のグループの3Dレーザー測量が入り、下図の「I」(大広間)が実測された。そこはいつ訪れてもほぼ完璧に床は保護シートと土砂によって隠されていたが(ところがいかにもイタリア的現象なのだが、一応隠しているが見たいと思うところは見ることできたりするのだ。中央部分だけいつしか破れていて、おやおやまあそこがこの部屋のモザイクのもっとも肝心なVenus Anadiomeneの顔の部分で、まさしくそこだけ覗けるようになっていたのであ〜る。勝手知ったる誰の仕業か、観光客にとってありがたいことだが、笑うしかない)、この調査のため土砂があらかじめすっかり取り除かれ、私が訪れたとき,縦横10m超の鮮明な多色モザイク舗床全体が夏の強烈な太陽のもとに晒されていて、若干立体感には乏しかったがそれなりに壮観であった。その全景は堀教授のウェブで見ることができる(現在は一時的に見れなくなっている:是非以下の報告も参照してほしい。モザイクの製作工程解明にも触れていて、なにより分析視角が斬新なのだ。堀賀貴「オスティア・ディオスクロイの家におけるヴィーナスを描いたモザイクの制作過程に関する復元的考察:オスティア・ローマ都市研究1」『日本建築学会計画系論文集』第77巻第671号、2012、pp.173-181:https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/77/671/77_671_173/_article/-char/ja/)。

上が北:この大広間は南北10.6m×東西10.3mのほぼ正方形の広さ
西南から撮影(2009/9/7):奥の中央右が「L」の出入口
上が西(堀研究室提供の平面加工図):銘文はシュロと月桂冠の間に「PLVRA FACIATIS[・・・]MELIORA DEDICETIS」(汝らより多く[・・・]をなせば、汝らより良きもの[財産]を申告できよう)

 ところで「紹介したい」と書いたが、実は私はそれをこの目で現認することができたわけではない。その存在が報告されていて、その実見を希望したのだが、遺跡管理事務所から何の返答もなかったので、なにか不都合あるのだろうと忖度して引き下がるしかなかったのだ。

 この邸宅のモザイクに興味を持つようになったのは、私の当時のもうひとつの研究対象、ウァチカン・サンピエトロ大聖堂の地下マウソレオのCampo Pの「壁面G」上の落書きがらみで、あの押しの強い碑文研究者Margherita Guarducci女史編纂の史料集掲載の写真に出会ったのがきっかけである(I Graffiti sotto la Confessione di San Pietro in Vaticano, Vatican City, 1958, p.411:この本、現在山積みの梱包発掘調査中 (^^ゞ )。そこには、イエスの筆頭使徒ペトロ(彼はイエスから天国の鍵を授けると言われていた:マタイ福音16.13)の名前(PetrosのPとE)で鍵を暗示した組み合わせのキリスト教的モノグラムが読みとれる、とされる写真が掲載されていた。かく、グアルドゥッチ大先生はローマ首位権論者なのであ〜る。

典拠:Margherita Guarducci, La Tomba di Pietro, Roma, 1959
Giovanni Becatti, Mosaici e pavimenti marmorei, Scavi di Ostia, IV(Text), Roma, 1953, p.115-6, n.214;cf., SO, IV(Tavole), Tav.XLVII, n.214:DOMUS DEI DIOSCURI.

 このキリスト教シンボルとおぼしきモザイクは部屋「I」にではなくcubiculum「L」の西壁際の一角に黒地に白のモザイクで穿たれていて、そばにシュロの葉が添えられている(Angelo Pellegrino, Ostia Antica:Guide to the Excavations, Roma, 2000, p.57:ここも保護用シートと土砂で覆われ床モザイクは見ることできない:管理事務所としてそこまで保護土砂を掘る用意がなかったのかもしれない)。この邸宅の名称のもとになったのは部屋「H」の床モザイクに航海の守り神であるディオスクロイが描かれているからであるが(「使徒行伝」28.11:「(パウロが乗船した)この船はディオスクロイの印をつけていた」)、よって家主はもともと貿易商か船主ではないかとも想定され、研究者によっては、モザイクはその家、その部屋にペトロが滞在した記念にはめ込まれた、とまで想像をたくましくしてゆくわけ。

ディオスクロイとは「ゼウス神の双子の息子たち」の意。

 ちなみに、この邸宅の現状は壁体から2世紀以降の建設と考えられているので(ちなみに、ウィーナス・モザイクは4世紀後半の作)、紀元後64ないし67年頃処刑死したペトロの事績が、どうしてこの部屋と結びつけ可能なのか、私には納得できない。むしろ、キリスト教徒のモザイク師(だいたいが奴隷だったはず)が隣室の華美な異教的造形に対し、密かにそして控え目に対抗して埋め込んだとする説(Becatti, op.cit. (Text), pp. 115-6;Carlo Pavolini, Ostia, Bari, 1983, p.160)のほうが妥当な気がする。こういうところ、多分にイタリア人好みのストーリー性がかった感じもしないでもないが。グアルドゥッチ女史と異なる全くの別説としては、PEを、pe(rpetuo)=「永遠に」、p(raemia) e(merita)=「恩賞に値する」、p(alma) e(t) l(aurus)=「シュロと月桂樹」等といった非キリスト教的な読み取りもあって、まだ決定打に至っていないように思う、というよりこっちのほうが一層中庸的解釈とも思えるんですけどねえ、グアルドゥッチ先生。

【補遺】次の写真は2003年夏撮影のもの。いつ行ってもこんな調子だから写真もほとんど撮っていない。

奥の左側出入口が「L」で、右が「M」
実測直前の大広間「I」を北西から見る(2009/9/1):中央がめくれている;奥の出入口は左が「M」で、右が「N」

【付論】もうすぐしたら堀教授編著の論文集が出る。彼とはここ10年、Pompeii, Ercolano, Ostiaの調査でご一緒させていただいたが(何を隠そう、彼の遺跡実測能力が我々の調査を可能にしてくれてたわけ)、彼はそれ以前からPompeiiでの調査をしていて、私のような建築学に疎い文獻学徒にとっては有難い現場教師だった。私は同行中の彼のさり気ないつぶやきから学んだことが多い。たとえば、以下の写真のような階段遺構が意味すること、それは邸宅内の「内階段」と街路に面した「外階段」の違いから住居人を区別するという、考古学や建築学では初歩中の初歩の知識であろうが、私にとっては不意を突かれ、とても新鮮な指摘だった。

左は外階段(エルコラーノにて2016夏):踏み台が高すぎてベンチと化している。駄馬荷下ろし専用かと思ってしまう;右はポンペイ(I.vi.15)の内階段

 これまでの自称研究者たちの論述(その多くは横文字からの剽窃)と比べての彼の最大特徴は、継続的現場主義ということだろう。二〇年近く毎年現場を訪れて、3Dレーザー測量を武器に実測を実施してきた。継続的に現場に立つということは、行きずりの研究者には不可能な、あれはどうしてなのかという疑問の持続と、実測データの検証をもとにした、ああでもないこうでもないという無数の仮設の挙げ句の、あるときひらめくオリジナリティーに富む解答にはじめて到達可能、ということなのだ。定点観測的な年期というものが研究の深みに絶対必要、との私の確信もそういった体験から生じている。

 だからそれは借り物の知識ではない。こんな体験もある。Ostiaでかろうじて一階部分の壁体が残っている場所で、彼は「この壁は45センチですので、おそらく二階ないし三階建てだったったのでしょう」と言った。そこで私は一階建てだと壁は30センチあれば十分だが、上階があると45センチ必要で、60センチなら三階以上あったと見ればいい、といった豆知識を獲得することができたわけである(結果的に、これはローマ尺単位と連動しているというおまけ付きでもあった)。で、数年後、今度は私が彼の前で「ここ45センチなので」と訳知り顔で紋切り型知識を披露したら、「そう言われているけど、本当でしょうか」ときた。常識を押さえつつも、彼はなにごとによらず鵜吞みせずに反芻していることが、それでわかった。

 こんなことがたび重なるうちに、オスティア遺跡全体の実測調査が一応完了した数年前から彼はとんでもないことを言い出した。オスティアは水没を前提に立てられた古代都市である、と (2014年1月31日の冠水写真参照:https://www.ostia-antica.org/archnews.htm。実は彼もこれを現地で目の当たりにしているのを、私は彼からの報告で知っているが、当時の責任者との約束を堅く守って未だ彼は口外しないので、私がしゃしゃり出ておこう)。

このときは20センチの冠水でこの有様だった(左は東西大通り、右は劇場内)

それをポイント箇所を回りながら滔々と開陳される。無知な私は気のきいたこともいえず、ただ黙って聞くだけだったのだが、そんな私でもそういえばと気付いたことがある。「ユピテルとガニメデスの邸宅」(Domus di Giove e Ganimede:I.iv.2)出入口の敷居の高さなど、どう考えても普通ではないのだ。南北のその角地付近と東西のダイアナ通り北側の高さは、とてもでないが踏み台がないと入れはしない。すなわち人間工学的に作られたのではないことが明白である。もひとつ、私もずっと「?」だった構造物が「七賢人浴場」のそばにあるが、その謎解きは堀先生の著書のおたのしみにとっておこう。こうしてみると水没を前提にしているという説はなるほど説得力がある。しかも世界レベル的に新見解なのである。それを可能にしたのは遺跡全体のレーザー測量データである。

左写真の左奥が「ユピテルとガニメデスの邸宅」出入口で木造の、右写真がダイアナ通り北側で、展望台への階段場所のみに石の踏み台が現在設えられている:昔はすべての出入口にあったはず

 そうそう、「ユピテルとガニメデスの邸宅」についても触れなきゃ。この作業で思い出してしまったが、書き残しておきたい話はまだまだ一杯残っている。でも写真の整理だけでもたいへんという現実もある。

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