統計とはなにか:史資料批判の現実

 私は数字に弱い文系と自認している。そのくせというか、だからなのか、えてして証拠として示される数字には説得されがちである。これは母数が少ない古代史研究やっている場合、墓穴となりかねない。統計学的な有意差検定など無視した結論へと短絡しがちだからだ。だがそれは古代史だけの問題なのであろうか。

 今般のコロナウイルス問題で表面化している数字の問題がある。感染しているかどうかの調査報告での数字である。原発地の中国以外で、一時高かった韓国のそれは沈静化の兆しを見せている一方で、イタリアやイラン、それにフランス・ドイツで感染者数が増えだしている。それに引き替え、クルーズ船感染で名をはせた日本はそれほど延びず、大勢として沈静化の方向にあるのだが、国際的にはこの数字は信用されていない向きがある。

 素人の私でも想像できるのが、問題が、新型コロナであるかどうかの判定基準が国によって異なっているのではないかとか、検査母数の多寡と関わっているからである。日本の場合は、この夏開催予定のイベント、オリンピックがあるので、それでなくとも証拠隠しの現政権の体質もあって、数字への政治的操作が疑われる。なにしろ今現在においても、日本国内での感染者数よりもクルーズ船内の数字の方が多いのである。これはどう考えてもおかしい。数学オンチの私は、山勘で中国の発表数字を10倍してきたが(なぜか専門家もそうみているようだ)、国際比較する上で日本の場合は20倍したほうがいいような気がしている。検査を徹底的に実施しなければ(したらしたで医療崩壊する恐れが生じる)、そして症状の判定を厳格にすれば、数字は自ずと低く抑えられるからくりである。

 現代的な統計がない古代において、状況をどう把握するか。しかし現代でも時の政権にとって有利な数字が、それにおもねるマスコミによって公表されるのであれば、なにをかいわんやである。こうなると庶民は、自分たちのカンに頼って動くしかない。なにしろ、精神安定剤にすぎないマスクも店頭から消えて久しい(私のような花粉症には必需品なのに:行きつけの医院では前からマスク1枚30円で販売していた。今回それを利用したが、いつまで備蓄が続くのかは知らないが有難いことではある)。所詮精緻さを装っても、数字とはその程度、なのかもしれない。そうなると、思考回路がぐるっと一回りして、民衆の風評・噂が記された文書史料のほうがむしろ大勢を押さえることができるような気がしてくる。しかし今度は書き手の思惑をちゃんと史料批判しないといけないわけで、プロとしては先入観を極力排除して、この螺旋思考を幾度かくり返し、事実らしきものに迫っていくしかない。

 研究者たるもの、目前で展開されている数字の乱舞から、いかに事実を読み破っていけるかを試すべきだろう。また、自己の眼力が本来の研究対象で十全に発揮されているのかどうか、検証する勇気を持たなければならない。所詮素人なので、己の直感に頼っての営みにすぎないが。

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