アウグスティヌスも入浴した

 数少ない研究者仲間の新保良明氏から以下の恵送をいただいた。

 「『テルマエ・ロマエ』の主人公が現代日本にタイムスリップするのはなぜか」『地歴最新資料』第23号、2019/5/10、pp.2-6。

 氏の中心論点は表題にあるのだが、それを拝読していて、アウグスティヌスは母モンニカの死亡で悲しみに暮れていたが、気持ちの切り替えを期待して、入浴した(p.5)という件があって、おや、おいおいっ、と。なんと典拠は、私が読書会まで開いて読んだ『告白録』(9.27-32=9.12)だったので、見逃していた事実にがっくり。ここでは宮谷宣史訳(教文館、2012年、p.305)で核心部分のみ引用する。

 入浴するのがわたしにとりいいように思われました。というのは、入浴はパルネウムという名で呼ばれていますが、それはギリシァ人が入浴を「心から悲哀を追い払う」という意味でバラネイオンと言ったことに由来する、と聞いていたからです(11)。visum etiam mihi est, ut irem lavatum, quod audieram inde balneis nomen inditum, quia Graeci balaneion dixerint, quod anxietatem pellat ex animo.  ・・・ わたしは入浴しましたが、入浴する以前と全く変わりませんでした。わたしの心から苦痛は、全く消え去りませんでした。quoniam lavi et talis eram, qualis priusquam lavissem. neque enim exudavit de corde meo maeroris amaritudo.

 宮谷氏はここに以下のような註をつけている。註(11)「ラテン語の浴場を意味するballaneaは、ギリシャ語のβαλανείονから来たとみなされて、これは、ギリシャ語の、βάλλω投げ出す、とἀνίαν嘆き、を意味する言葉から成り立っているとみなされ、このようなことが一般に言われていたのであろう。このような考えと習慣がヨーロッパに伝わっていたことは、たとえば、中世の代表的な神学者、トマス・アクィナスにも見られるので、興味深い(『神学大全』I・II、38・5参照)。」

 ギリシア語が苦手だったアウグスティヌスでもこれくらいの耳学問はあったということだろう。彼が始終入浴していたかどうか、私には、ここでの叙述ではめったにないことだったような雰囲気が感じられてならない。ということは、気晴らしの遊興設備も整った公衆浴場だった可能性が強くなる。であれば、オスティア・アンティカには幾つも候補があった。それについてはいつか触れる機会をもちたい。

 ここでは宿舎に付属していただろう簡易風呂について知るところを簡単に触れておこう。たぶん日常的には冷水で身体を拭うくらいのことをしていたのだろうが、例えば温水を使うとなると、ギリシアのヒップバス式ではなく、いわゆるクレタのクノッソス宮殿で確認されているバスタブ・タイプや、チュニジアのケルクアン遺跡だとあちこちで見ることができる座浴式バスタブであったと思われる。それらはイタリア半島でも見ることができるし、現在でもその型の浴槽はある;前者はイタリアのホテルで今もよく見かけるし[ただし、往々にしてカーテンがないが、その場合、座ってそっとシャワーしないと浴室が水浸しになるのでご注意、というか、以前そういうこと考えない後輩のあと浴室に入ってひどい目にあった。すべるのである]、後者についても、私は南イタリア旅行で、アドリア海沿いのある博物館で見た記憶がある。また、かつてチュニジア旅行したとき宿泊したホテルの浴室がまさしくそれであったので、狂喜して写真も撮ったのだが、さてどこにいってしまったのやら。

クノッソスのテラコッタ製バスタブ:隣室には水洗式トイレもある由
ケルクアンの座浴風呂の一例

 そういった浴槽自体が遺跡に残っているわけではないが(正確には、遺跡管理事務所の倉庫を調査してみないと結論できないが)、設置されたであろう浴室(ラテン語でlavatrina)は、オスティアのIII.v.1のCasa delle Volte Dipinteの2階[https://www.ostia-antica.org/regio3/5/5-1.htm掲載の平面図のXXIV参照]に確認されているようなものだったのでは、と私は推測している。この建物の上階部分(2階と、今は失われてしまっているが3階)はおそらく宿泊施設だった。たぶん現在でいうモーテルに相当する施設で、というのは当時の移動・運搬手段だった馬やロバやラバの駄獣を収容したであろう厩舎がまさしく北側に隣接して建てられているからだ(Ⅲ.iv.1:Caseggiato Trapezoidale)。また、この浴室の通路を隔てた部屋は台所で[XXVI]、そこには小振りながら水槽も設置されていたので、水をあたためるのには便利がよかったはずだ。というかひょっとしたらこの台所、湯沸のための設備だったのかも知れない。もちろん宿泊客のご主人様のため奴隷が食事をつくることもできたであろうが。(なおこの建物は現在立入禁止になっている。写真はそうなる以前に撮影したもの)

日本式に表現すると「2階」平面図
オスティアの浴室入り口部分(水の流れを防ぐ土手の存在に注目)
部屋の奥を見る:床と壁の接続面に防水のため漆喰が厚く重ねられていることに注目
窓際左隅の排水構造:穴の向こう側に二階トイレが設置されているので[平面図のXXVの窓際]、使用済み汚水は糞尿を流すのに再利用されたわけ

 この件でウェブをググっていたら、以下を見つけた。山之内昶「フロロギア(1);(2)」『大手前大学人文科学部論集』1、2000、pp.71-83;2、2001、pp.105-119;山内彰編『風呂の文化誌 山内昶遺稿』 文化科学高等研究院出版局、2011年。ま、ほとんど日本語で読んでのまとめのようだが。ありがたかったことに、論文は自宅で簡単に降ろせて印刷できたし(1が西洋篇で、2が日本篇:実は著者の姓の表示が異なっているが、たぶん「山内」が正しい)、死後出版された著書はなんと上智の図書館に入っていた。これからみてみるつもりである。

Filed under: ブログ

コメント 0 件


コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Comment *
Name *
Email *
Website