遅報(7):一万年後に思いをはせてみる

 昨日、ウェブ検索していて偶然見つけ記事に興味をもち、今日四谷に行ったときに大学図書館で以下を借りた。

 柳沼重剛『語学者の散歩道』研究社出版、1991年。

 今から30年も前に上梓されたものである。これには2008年に再版された文庫版(今話題の岩波書店)もあるが、原典から削除されたものと付加されたものがあって、両方読み比べたほうがいいらしい。著者は改めて紹介する必要もない古典ギリシア・ラテン文学の碩学。

 借り出してみたら、読まれていないこと歴然の新品同様の様態で、これならアマゾンの中古品としても十分売れそうである。ま、これがかつて在職していた大学での西洋古典の偽らざる現状をあらわしているのだろう。

 さっそく帰りの電車の中で繙いて読み出した。語学能力に著しく劣る私には、ただただ敬して拝読するしかない内容で(なにせ、p.2には、留学先のイギリスで教授から「ラテン語やっていてイタリア語をやらんとはなんたることだ:What a shame!」といわれ、二週間の速成で身につけて一冊を読み報告したとか、p.3には、アメリカ進駐軍の中佐と語学交換教授したが、彼は九つめの語学として日本語を覚えたいと希望、それまでに英・独・仏・伊・露・西・希・トルコ語を読み書き話すことができた人で、などという話が平気で出てきて「語学者」の面目躍如なのだ)、しかし新版で削除された「一万年後の東京大学あるいはポケット・ティッシュについて」が、私の関心の射程にも触れていたせいか特に興味深かった。

 一万年後になって東大があった場所を発掘した考古学者の書いた報告書が「およそ大学などというものではないものを想定する結論を出す。何が想定されていたかが思い出せないのだが、とにかくその推論の一つ一つが、非常にもっともらしいどころか、論理的ですきがない、にもかかわらず出てくる結論は東京大学を知っているわれわれには奇妙なことこのうえなく、しかも何ともおかしいのだ。・・・その時思ったことは覚えている。考古学というのは発掘品があるだけに危ないなということだ。発掘品、つまり証拠があるから強いのであると同時に、発掘品という、そのまま証拠だと信じられがちなものを手にするから危ないのだ。発掘品はたしかに証拠になり得る。しかし一つの発掘品は一つの事実だけの証拠になるのではなく、というよりは、一つの発掘品は、他と関連づけて(つまり、文章ならば前後関係を参照して)読み取って、それではじめて証拠としての力をもつ。だから一つの発掘品は、その読み取りかた次第で、いくつかの事実の証拠として利用できる。考えてみればあたりまえのことだが、われわれはつい忘れがちがだ」(p.260-1)として、身近な例として街頭で無料配布されているサラ金業者なんかのポケット・ティッシュが自宅のメール・ボックスにあって溜まっていたが、風邪気味だったので八つも持っていて交通事故に遭って意識不明になった場合、警察はこの身元不明人をどう断定するだろうか。「私の所持品の中に八つものサラ金業者のポケット・ティッシュがあった、これは事実である。しかしこの事実は、それだけではまだ何の証拠でもないということだ。ここまで思った時、ふだん私が学問だといってやっている仕事の中でも、これと似たようなことを、気がつかずにやっているのではないかと恐ろしくなった。危ないのは考古学だけではないということである」(p.263-4)。

 それで思い出したことがある。史学科全体のゼミ代表者の卒論発表会が毎年年度末に開催されていたが、さていつごろのことだったか、日本現代史で70年安保の大学「紛争」を扱った男子学生がいた。それを聞いていて私は異常な違和感にとらわれたのだ。「全然違う、わかっていない、ずれている」と。同年齢の東洋史のO教授も同じだったとみえて、期せずして二人で突っ込んで彼をいじめる結果となってしまったのだが、ことほど左様に、その現場に身を置いた人間の感覚・記憶と、それをまったく知らない者の文字をたどっての把握の間には、埋めようもない溝が存在することを実感した瞬間だった。こういう体験はおそらく初めてのことだった。たった3, 40年前のことなのにそうなのである。

 で、思ったことは、オレも歳を食ったものだという感慨と、50年経たないと歴史として扱えないとよく聞かされてきたが、それは隠された史料がその頃にならないと出つくさない、という意味では正しいのだろうが、それにしても体験者の消えた後の歴史叙述とはいったいどれほど事実に切迫したものでありえるのだろうか、そして、それが2000年前の古代ローマとなるとほとんど不可能では、という思いであった。この疑念は柳沼先生の慨嘆に通底していると思う。

 ちなみに私は1968年当時学部3年生で、1969年1月の東大安田講堂攻防戦のときイチョウ並木を切り倒したことで惡名を轟かした革共同中核派の拠点校に身を置いていたこともあり、いっぱしの全(文)共闘シンパだった。O先生は民青同シンパだったようだが(なにせ奥さんとは歌声喫茶で知り合った、と聞き及んでいたのだが、あるときそれを言ったら逆鱗に触れたので違うのかも知れない。ま、二人で互いに、この暴力集団が、とか、なに民コロが、とじゃれ合っていたわけだが、おかげであの二人は仲が悪いと学生が噂し、どうやら学生間で代々伝承されるというおまけもついて、学生の理解能力のなさにあきれ、また心外だったが)、こんなところで共闘するとは予想外のことだった。そして、まあ二人とも大学を卒業式もなく卒業したわけで、決してそのトラウマのせいではないのだが(問題が何も解決されていない幕引きとなり、正直卒業式なんかどうでもよかった)、言い合わしたわけでもないのに、二人とも卒業生が主催する謝恩会参加を「謝恩されるいわれはない」と拒否する問題教員でもあった。ま、このあたり、橋口先生が学生のコンパで軍歌が唱われるのを嫌って一切出席されなくなったという故事と一脈通じるのではと思う(今日日の学生さんは不思議に思うのだろうが、私の学生時代の1960年代後半には軍歌とかよく歌われていた。まだ戦後を引きずっていたわけだ)。

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