遅報(6):ハドリアヌスのアテナエウム発見

 本稿は、豊田ゼミ論集『COMMENTARII』第 28号(2017年)からの修正転載で、『上智史學』61(2016年)、p.154、註(3)への補遺を兼ねている。(知的所有権の問題があるので、ここでは部分的にあえて情報を開示していない。全責任は豊田にある)

 以前ゼミ論集『COMMENTARII』第28号、2017年、pp.42-49に掲載した記事を再掲する。なおこれは、『上智史學』61、2016年、p.154、註(3)への補遺でもある。

 SHA, Pertinax伝、11.3:(ペルティナクスは)、その日、詩[の朗読]を聞くために準備していたアテナエウムへの出発を生贄を捧げた際の悪い予兆のために延期したので・・・                   

 Alex.Severus伝、35.2:(アレクサンデル・セウェルスは)、ギリシア語やラテン語による雄弁家の朗読や詩人の歌を聴くために、アテナエウムへしばしば通った。

 Gordiani伝、3.4:(ゴルディアヌス1世は)後に成人してからは、アテナエウムで、自分が仕える皇帝たちが聴講に来ている時も、「論争」型練習演説を弁じたてていた。

Aurelius Victor, Liber de Caesaribus, 14.1-4:(ハドリアヌスは)東方で和平を整えてローマに帰還する。そこでギリシア人たち、ないしヌマ・ポンピリウスのやり方で諸々の儀式、諸法令、諸体育場、教師たちを差配し始めた。それほどにたしかに、有能な人々のための諸学芸のための一つの学校、それを人々はアテナエウムと呼んだのだが、それを彼は創設し、そしてケレスとリベラの秘儀、それらはエレウシナと名付けられているが、それをアテナエ人の方式でローマにおいて執り行うほどだった。

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ハドリアヌス帝の「アテナエウム」

  Roberto Meneghini, Die Kaiser Foren Roms, Darmstadt, 2015, S.97-8. 

 ・・・ さらに大がかりな発掘が、2007年に、新しい地下鉄[C]線の建設のための試掘調査の中で、S.Maria di Loreto教会とPalazzo delle Assicurazioni Generali[in Piazza Venezia:ヴェネツィア広場東側に面したジェネラリ保険会社ビル]の間の巨大な花壇の中心で、始まった。ローマ遺跡管理局によって実施された諸調査は、すでに1902年から1904年に出くわしていた建築物のさらなる部分の発見へと導いた。それはボールト天井をもつ巨大な空間で、約13×22mの床面積からなっていて、123年から125年の時代の夥しいレンガ刻印のおかげで日付されることができた。[その空間の]両側には大きな、60cm幅の演壇階段が取りつけられていた。それらは元来大理石平板が張られていて、そしてたぶんsubsellia(低い腰かけ)として役立っていた(図版117)。

図版117

 あらゆる諸要素は、以下を指し示している、それは講堂auditoriumであったと。また、たとえレンガ刻印が10から15年くらい後の日付を明らかに抱かせるとしても、それにもかかわらず、それはAthenaeumとして同定されるだろう、それは、一種のアカデミアで、皇帝ハドリアヌスによって135年のパレスティナでの戦争からの彼の帰還ののちに建設された(Aur.Vic.,Caes.14.2)。その建物の床ーーそれはなお広範囲に保存されているがーーは、灰色の花崗岩からなる長方形の平板で構成されている。それら平板は細長いGiallo Antico[北アフリカ産黄色大理石]の平板によって囲まれている。その外見はそれと同時に、いわゆる[隣接するトラヤヌスの広場の二つの]図書館の中に付設された床と似ている。その建物は、我々が見てきたように、ハドリアヌスによって完成された。諸発掘の続行はより広い建築諸構造を白日のもとに曝した。それらは以下を証明する、3つの同様な広間に関する複合体が重要で、それらは1902年から1904年に発見された曲がった道の回りを放射状にぴったり合っていた(図版118)。

図版118
  付図a 旧来の発掘状況(トラヤヌス神殿外の左側面の空白部分が埋められたわけ)
付図b 一番北の講堂か
付図c  同左を横から見る
付図e ヴェネツィア広場周辺 中央右の不等辺方形部分が発掘現場

ハドリアヌスのアテネウム

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 ハドリアヌスのアテナエオ

                エレナ・パナレッラ(メッサッジェーロ紙)

世紀毎の変遷図

 ローマでは、どんな発掘にも本当の驚きが待っている。こうして、パラティーノのネロの回転宴会場を支えていたと考えられる構造物の発見に次ぐものとして、「国父の祭壇」[「ヴィットーリオ・エマニエーレ二世記念堂」のこと]の正面にあるマドンナ・ディ・ロレート広場における地下鉄C線建設にともなう掘削のさなか、詩人や哲学者、文学者、科学者などを迎え入れるために建設されたハドリアヌスのアテナエオが発見された。

 発見は2007年にさかのぼる。発掘作業の結果、ここ70年で見つかった公共建築の中でも特に重要なものの一つが、中心部の考古学区域に再び姿を見せた。この建物は保存状態がよく、考古学特別局に委ねられることになった。

発掘現場

 だが、この大きく反響を呼ぶ建物の今後の運命はどうなるのだろうか。コロッセオの長を務める考古学者ロゼッラ・レアは、現地説明会で次のように明言している。「もちろん構造物は修復されます。有効利用ならびに一般公開ができるように作業を行なっているところです。作業現場の柵に設けられた開口部から日々顔をのぞかせて、驚嘆しながら通り過ぎていく人の数から考えますと、ローマ市民や観光客の皆さんも公開を大いに待ち望んでいるのではないでしょうか」。さらに加えて、「トラヤヌスの広場周辺でのこの発見は、ヴェネツィア広場一帯の価値をさらに高めてくれるかもしれません。そして将来、地下鉄C線の駅をつくることができたなら、この遺跡は地下鉄出入口と一体化した、他に例を見ない観光コースの一部となることでしょう」。何はともあれ、人や車が行き来するそばで、頑丈な柵の裏側に最新の異例な考古学的な発見が隠れている。そこは、アテネにおけると同様、ローマでも討論や公演が行なわれていた場所である。レアによれば、123年――両執政官の名が刻印された無数のレンガから得られた年代である――以降に、「講堂アウディトリウム(全部で三つある)のそれぞれの部屋の中央で、作者や雄弁家が朗読や朗唱を行なったり、修辞学の講義をしている様子が目に浮かびます。聴衆は演壇階段の上の座席や立ち見席にいたでしょう。演壇階段は当時、壁もそうですが、表面を大理石で覆われていました。この大理石は中世にはぎ取られてしまい、今では下の方にほんのわずかに残っているだけです」。

 この場所の調査を行なったのは、考古学者ロベルト・エジディである。古代よりも新しい時代の部分は、中世考古学者のミレッラ・セルロレンツィが担当した。セルロレンツィは「年代学研究や特定された金属、発見された鋳塊から考えると、いくつか仮説はあるのですが、銅貨を製造するためのローマにおけるビザンツの造幣局があったのではないかという説があります」と説明している。

歴史的な事実

 ローマの地下鉄C線建設工事では、重要なモニュメントがいくつも発見された。その中でも、ヴェネツィア広場に位置する、おそらくハドリアヌス帝によって133年に建設された講堂アウディトリウムは群を抜く発見である。この講堂は「アテナエオ」として知られているが、アテネのアテナ神殿にあったものをモデルとした、200人まで収容可能な哲学の施設である。

 考古学者ロベルト・エジディは「教養豊かな皇帝であったハドリアヌスは、古典期ギリシアで行なわれていたような聴衆を前にした朗読、講演、詩の競演の伝統を再興しようと望んでいました」と述べている。

 発掘により、対になるように配置され、座席として用いられていた二つの演壇階段――849年に起きた地震により上層階が崩れ、今も一部が埋まっている――、廊下、そして中央部では、50メートル向こうのトラヤヌス帝の記念柱の脇にハドリアヌスが建てた図書館の床とそっくりな、古代黄色大理石の平縁のある花崗岩の床が出てきた。だが、203-211年に制作された古代ローマの地図、セウェルス帝の大理石平面図「フォルマ・ウルビス」には登場しないことから、この発見は予見されていないものだった。

 たくさんの考古学的遺物――中世初期にいたるまで再利用されていたローマ時代のタべルナや16世紀の館の基礎も含め――がヴェネツィア広場で見つかっている。

 考古学調査が必要とされていたのは、階段や通気孔を設ける部分のみである。全長25キロに及ぶ地下鉄は、深さ25-30メートルの場所に通される予定だからである。この深さは、かつて人が住んでいたあらゆる時代の層よりも深い。いずれにせよ、掘削する部分の多くで、またもローマ時代の地層に達することになろう。多くの驚きが待ち受けているかもしれない。

 沿線各地でその他にも建造物が見つかっているが、それらはネロ帝が建てたギリシア体育館の列柱廊、カンポ・マルツィオを貫いてテヴェレ川にまでに達していた運河、サン・ジョヴァンニ門とメトロニア門の間のアウレリアヌスの市壁の遺構と思われる。パンターノ・ボルゲーゼ地区で発見された、銅器時代や青銅器時代(前四-三千年紀)にさかのぼる考古学的証拠もある。

 文化財省次官のフランチェスコ・ジーロ、ローマ考古学局局長アンジェロ・ボッティーニ、アンドレア・カランディーニ教授も参加した『考古学とインフラ:経済発展と文化遺産』という学会において、現状報告が行なわれた。

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ローマでハドリアヌスのアテナエオが地上に姿を現わした

               カルロ・アルベルト・ブッチ(レプブリカ紙)

 地下鉄建設工事の最中に四角い部屋が見つかった。建設工事が中断されることはなく、地下鉄C線の出入口は数メートル移されることになった

 ハドリアヌス帝の記憶が、地下わずか5メートルのところに隠れていた。それは「国父の祭壇」の正面で見つかった。英国貴族院議場のような、対置された二重の演壇階段という、これまで例を見ない形をしていた。おそらくはアテナエオの座席であろう。ハドリアヌス帝は紀元後133年に、詩人、雄弁家、哲学者、文学者、科学者、官吏たちを集め、ギリシア語やラテン語で弁論、詩の競演、白熱した討論で競い合わせるためにアテネオを建設した。

 それは、アウレリウス・ウィクトルが諸術の天才たちの競技の場と呼んだ有名な講堂であった。そして、アテネのアテナ神殿で見たものをモデルに、哲人皇帝が自らの費用で建設したものである。だが、ローマにおけるこの哲学機関の痕跡はこれまで失われていた。その足跡を探る動きはだいぶ昔からあった。

 これまで発掘が行なわれたことがなかったヴェネツィア広場のこの一角には松の木が植えられていたが、これらの松は調査を進めるために昨年切り倒された。まさにその下に、パレスティナ旅行からの帰国後にハドリアヌスが建てることを望んだアテナエオがあったのではないかという仮説については、10月21日にローマの考古学特別局の考古学者たちが説明を行なうことになっている。その日は、地下鉄建設代表委員のロベルト・チェッキが市内全域の建設工事の進捗状況を報告する予定の日である。発見のニュースは二重の意味でよい知らせだった。これまで知られていなかった建物(203-211年の地図である大理石平面図「フォルマ・ウルビス」には載っていない)が博物館化される予定であること、そして地下鉄C線の出入口を数メートル先に移すことが可能であるという意味においてである。

 したがって、ローマでは、パラティーノのネロの回転宴会場を支えていたと考えられる構造物の最近の発見に次ぐ、もう一つの重要な発見ということになる。すべては2008年4月に起こった。ヴェネツィア広場のサンタ・マリア・ディ・ロレート教会脇の最初の調査において、モニュメンタルな階段が出てきた。それは帝政期の公共建築の入口と目された。そしてその直後、考古学局の考古学者アンジェロ・ボッティーニは、この階段が上り下りするためのものというよりも、着席するために設けられたということを明らかにした。それから「双子の階段」の発見があった。それで、アテナエオではないかという仮説が具体化した。これこそ、大広間の段なのではないか。

 まずは発掘を完了させる必要があった。市の清掃局がごみの収集のため、清掃車をそばに駐車することに決めたせいで悪臭が漂う中ではあったが、作業は進められた。「ローマ地下鉄」の作業場の柵の向こうをのぞくと、長方形の部屋の形がもうはっきりと見える。対に置かれた二つの階段は、上層階の崩壊により部分的に埋まっている。演壇階段はそれぞれ六段あるが、二つあるこの階段の一方では、部屋の出口があるために少し短くなっている。部屋の大きさは長さ約20メートル、幅3メートルである。中央部は皇帝や詩人たちが作詩を行なった場所だが、そこには古代黄色大理石の平縁がついた花崗岩の床がある。

 それは、ハドリアヌスが50メートル向こう、トラヤヌスの円柱の脇に建てた図書館の床と同じタイプのものである。床はすべて同じ高さにある。したがって、統一的で、モニュメンタルで、輝かしい都市プランと結び付いたものである。

コメント

 皆がだいたい同じことを言う。おそらくアテナエオが見つかった。思わず「素晴らしい発見だ」と言いたくなるものだ。ローマでどこを掘っても、何らかの芸術作品が見つかるのは誰でも知っている。時折、下水道維持工事等に立会うことになれば、必然的に古代ローマのアンフォラの破片や、あちこちに散らばったアンフォラの取っ手を見ることになる。つるはしで既にひどく傷つけられた後であるか、これからそうなるかであるからだ。

 何日か前のこと、サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会近くで、オプス・レティクラトゥム床を備えた貴族のドムスが開けられたが、すぐさま閉じられた。では、中にあったものは? 闇の中である。

 それでは今聞いてみよう。アテナエオにあったものはありふれたものだったのだろうか。ヘルマス像、碑文、欠けた彫像、そういったものは何もなかったのだろうか。ローマでは、街路樹の根元の土中を探していても古代の遺物が見つかるのだが、地下鉄A線、B線、C線建設工事では石ころさえ出てこない。ローマの地下にはこうしたものがたくさんあるということは分かっているので、遺物が見つかっていることは確かである。でも、そうした遺物がどういう運命をたどったかを見る必要がある。なぜなら、我々のところでは、何年か後に外国の博物館で再発見されるものを除き、遺物が姿を消してしまうのが通例だからである。

 そして、厚かましくもそれらを「盗まれたもの」と呼ぶのである。誰かが彫像を腕の後ろに隠して、まるでブリーフケースみたいに持ち去ってしまったかのように。彫像一体を包んでしまうには、そうした梱包を専門とする会社、高い専門能力、幅広い運搬機械、広い空間、使える時間が必要となる。博物館の扉が開いて彫像がクレーンで引き出されていたとき、監督や他の人たちは何をしていたのだろうか。

 考えられるのは二つである。今までがそうであったように、誰かが地下鉄の下で発見された遺物(それはとても大切な遺産である)をすべて持ち去ってしまうのか、アテナエオの遺物を私たちに見せようと心に決めるのか。後者でない場合、何度も繰り返されているように、我々の考古学遺産、国家財産が消失することになる。これまでずっと起こってきたように。

地下鉄建設工事

 首都の地下鉄C線は2000年に完成するはずであったが、掘削はまだ続いている。一方で建設費用は19億ユーロから33億ユーロ(公のお金だけで)に跳ね上がった。それ以外に通例の多額の贈与(私的なお金)がたくさんある。唯一、大規模工事に対する会計検査院の非常に厳しい報告書(2012年2月1日)が出されているが、それはただ著しい不名誉である。

 22年も待った挙げ句、無制限に公金を浪費し、何百回も厳粛に告知を行い、何百万回も鑑定や検査をし、何十億回も変更や調停を行なった後でも、2012年初めになっても地下鉄新線はまだできていない。工事がいつまでも終わらない作業現場に加え、見通しが不確かなこともあって、どれだけのお金を飲み込んでいく危険があるか誰も分からない底なし井戸である。

 もう、2000年以降、費用の増大から駅建設の中止にいたるまで、ありとあらゆることが起きている。無限に起こる一連の変更(2011年7月までに39回におよぶ)を考慮に入れなくても、である。こうした変更の結果、2001年の事業の費用見通しでは19億ユーロであったのに、2009年にCEPI(経済発展関係閣僚会議)が30億ユーロ以上の資金を交付しても不足することとなった。フランチェスコ・ルテッリからワルテル・ヴェルトローニ、ジャンニ・アレマンノ、マリーノの市長時代にいたるまで、長期間にわたって首都行政が実施する非常にお金のかかる経済的政治的ビジネスを進めていくために、これだけの金額が使われた。アンジェロ・バルドゥッチ、アネモーネ、頓挫しそうな地下鉄C線のために相談役として招聘されたベルトラーゾといった人びとも関わっているのを見てきた。事業を監視し、事業実現の任を引き受けている地下鉄C線株式会社の元に集結した大手ゼネコンを監査するために採用された元国庫会計監督庁のアンドレア・モノルキオに言及するまでもない。地下鉄会社の株主にはメッサッジェーロ紙のオーナーであるフランチェスコ・ガエターノ・カルタジローネが所有するヴィアニーニ社や、アスタルディ、アンサルド、カルピ・レンガ積み工および日雇い労働者組合、建設業協同組合といった他の有力者が名を連ねている。

 20年続いている事業の結果はどうだろうか。その答えが会計検査院から出された。長い審査を経て、会計検査院は爆弾報告書を提出したところである。182ページにのぼる文書で、国家事業の実施を統制するための中央部局が書いたものであるが、濫費や遅延を狙い撃ちし、地下鉄C線の実際の作業状況やコストの問題点を初めて指摘した。大変厳しい一撃だった。多くの箇所で、「事業の全体的な実現可能性に関しては、予測不可能な点がないとはいえない」とある。たとえば、会計検査官は、どのようにして「完成前に資金が尽き」ていくのかに注目しながら報告書を書いている。一方で、もともとの計画は「中心部の区間において二義的補完的とみなされる事業をやめることで、著しく見直しが行なわれ」ているようである。

 では、アテナエオについては? ハドリアヌスが126-128年頃、つまり長い旅を終えてローマに戻ったときに、カンピドーリオの上に哲学や修辞学、法学を教えるアテナエオの建設を命じていたことは分かっている。ハドリアヌスはギリシア哲学に熱を上げており、ひげを伸ばしていたのもまさに皇帝が心酔していたギリシアの風習によるものである。

ハドリアヌスのアテナエオ

 ハドリアヌス帝のアテナエオは、史料によってその存在が知られるが、これまで発見されていなかった。地下鉄C線掘削中にヴェネツィア広場で姿を現わした帝政期の階段にはどのような意味があったのか、あるいはむしろ、この階段はどういった施設の一部だったのだろうか。ヴィットリアーノ[「国父の祭壇」のこと]のまさに正面、5メートルの深さの場所で、ローマの考古学的発見の中でも最も新しい異例の発見がなされた。アテネ同様に、ローマでも討論や公演が行なわれていた場所である。

 二年前に特定された階段のまさにその正面に、同種の階段が見つかった。階段は発見されたばかりだが、残念ながら保険会社の建物の下に隠れており、そこで地中に潜り込んでいる。階段には多色の大理石床があって、観客席の役割を果たしていた。皇帝ハドリアヌスはアテネにおいて、132年建設の大図書館の脇にアテナエオを建てていたが、これはその正確な復元である。上演や討論、演説や詩の朗読を行なう講堂である。

 すべては、表面を大理石で覆ったローマン・コンクリートの最初の大階段の発見に始まった。15メートルの幅の堂々とした五段の演壇階段が、ヴェネツィア広場において地下鉄C線の出入口をつくるために掘削を行なっていたさなかに姿を現わした。

 演壇階段はジェネラリ保険会社ビルに向かって下っており、花崗岩と黄色大理石の床の前で地表に達していた。設備はどちらの側でもレンガの柱で閉じられている。この柱は崩れているのだが、おそらく地震によるものだろう。用いられているレンガはローマの「二フィートレンガ」、すなわち一辺59センチの黄色がかった正方形の厚くて大きなレンガである。柱には大規模な火災の跡が見られるが、おそらくは390年の火事によるものだろう。

 ハドリアヌスに関しては、「アクリロポリスの南にはテセウスのアテネ、アクロポリスの北にはハドリアヌスのアテネがある」と言われることがよくあった。アテネでは、ハドリアヌスの図書館がフォーロ・ロマーノのきわ、北側にあった。この図書館は同皇帝により132年に建てられたもので、アテネで最も大きい建物であった。アテナエオはこの図書館のそばにあり、皇帝のお気に入りの場所であった。アテナエオについては史料の叙述から分かっている。その双子であるローマのアテナエオは、帝政期の考古学知見にとり思いもかけない援軍となった。

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