研究者であろうとすると、論文には部分的にせよ新事実発見がないといけない、と私は考えている。だから、若い時まずは自分を殺して史料に埋もれよと教育されて、それが嫌な人はさっさと自分にとってより自己実現容易な世界に去り、残った者はその作業で芽を摘まれてしまったのか、それ以上伸びてく芽がもともとない現実があるのか(資質の問題?)、なかなか思うにまかせれない。
史料の吟味は当該時代の横断面に必須な作業だが、それにどう時代的縦軸を組み合わしていくかが求められているわけなんだろう。これは発表技術の問題ではなくて、どういう全体像を構想しているかに連動する。それを若い人に求めるのは酷かもしれない。だけど、若い方がとかくそれに触れたくなってたりする傾向もあるような気がする。他ならぬ私がそうだった。そしてなぜかこういった初心は今も変わっていないような気がする。そういう意味で進歩がないというか、初志貫徹というか。青年期の刷り込みの深さにはつくづく感心するしかない。
原子力村や地震村とご同様に、史学村の村民にだけ通用する言語でピーチクパーチク喋ってるだけで無用の存在、いな前2者みたいに実際に被害出ないだけましだろうと思わなくもないが、それじゃあまるで無用の長物で、いずれにせよなにやってんだろうかと。
挙げ句、たいしたことでもないけど、好きだからやっている、と居直るしかない自分がいる。

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