私は常々、観光客のみならず研究者においてさえ、考古学遺跡を訪問したとき陥りやすい誤解として、建築構造遺物の残存状況では土台部分しか残っていないので、平屋建築と誤認しやすいのだが、上階部分のみならず地下構造も併存していた可能性を排除してはならないと授業などで言ってきた。その私にしても、後代に6階建てのインスラ建築すら存在した帝都ローマと異なり、後79年に埋没したポンペイやエルコラーノは、それ以前の地方都市の姿を保存していて、2階建てまでが普通で、それ以上は例外的だったと認識してきたのだが、それは通常の住宅でのことであった。
というのは、ポンペイでは城壁沿いに12箇所の塔が指摘され一部復元されている。以下はIX.8.3「Casa del Centenario」から出土した多色テッセラによるメドゥーサ頭部を描いた床モザイク(現在はナポリ考古学博物館所蔵)の上下に描かれた四角枠の片方が、その城壁塔を彷彿させていて、私の興趣を否応なく刺激するのは、もう一方が港風景で、往事のポンペイ都市の特徴を彷彿させているからでもある。それをネタにいずれ小論を書きたいテーマであった。

ここであえて遺言として気付きを付言しておこう。上記地図では南壁と西壁の間(即ち、左図でのT12とT1の間)では城壁塔が確認されていない。それは古代ローマ時代、両壁部分がサルノ川が形成したラグーンないし海水に曝されていた海岸だったことと無関係ではないと思われる(拙稿「ポンペイ遺跡の謎を探る:(1)」『西洋史学報』50,2023参照)。上記モザイク画で言うなら、両壁部分がさしずめ右側という位置関係になるはずである。但し、モザイク画での高低差表記に注目するなら、城壁塔の位置関係が逆転していることにならざるをえないのだが。
さて本論である。この城壁塔とは異なり、今回2025/10/20にポンペイ考古学管理事務所よりE-Journalで発表されたのは、さながら中世都市ボローニャやサン・ジミニャーノのように、超富裕層の邸宅に高塔があったのでは、という仮説の提示である。この情報に日本語で簡単に接することできるのは、「ARTnews Japan」である(https://artnewsjapan.com/article/50447)。件の邸宅は北側がVia Nolaに面し、番地としてはIX.10.3が振られ、とはいえ本格的な発掘は2023年に開始されたばかりで、そこからごく最近ディオニュソス秘儀のフレスコ画が出土した(https://artnewsjapan.com/article/25168;https://www.youtube.com/watch?v=WMK1ns5oiW8)との報道が本年3月になされ、それにちなんで「Casa del Tiaso、Domus of Thiasus」(ティアソスの邸宅)と命名された。もちろん一般観光客はまだ見学不可である。なにしろ発掘途中なので、不明点も多いが速報レベルで告知しておく。


詳しくは、ポンペイ考古管理事務所編の以下が現段階でもっとも詳しい。https://pompeiisites.org/wp-content/uploads/09_E-Journal-La-torre-della-casa-del-Tiaso.-Un-nuovo-progetto-di-ricerca-per-la-documentazione-e-la-ricostruzione-digitale-della-Pompei-perduta.pdf
塔の地階(我が国で言う一階)部分はおそらく倉庫として使用され、おそらくローマ・コンクリートと石材からなる他に類をみない長大で特徴的な外階段から、塔内の木造階段を登っての上階部分は、現代のタワー・マンションよろしく、おそらく風景を楽しみながらの食堂・宴会場だったと想定されている。そもそも最近発掘が進んだIX.10.1, 2区画(製粉・製パン工房と洗濯工房)に次いでの今回の3であるが、この区画はポンペイの有力者で市長に相当する「二人役」duumvir 経験者でもあった、Aulus Rustius Verus ないし彼の被解放自由人などの縁故者の所有地とみなされ、現段階で少なくとも1500平方メートルの面積に及ぶ50以上の部屋が発見され、未発掘部分もまだ残っていて、今後の調査進展が大いに期待されていて楽しみである。付言しておくと、他の邸宅ではこのような長大な外階段は未確認なので、邸宅付属の本高塔は現在のところポンペイ遺跡で唯一のものである(仮説の実証のため既出土の階段を検証し直す作業が必要だろう)。
またあえて屋上屋の想定を述べさせてもらうと、本年8/27に掲載した、最近注目されている噴火埋没後の居住者の存在(「火山噴火で灰に埋もれたポンペイに住民が帰還していた その暮らしぶりも明らかに」https://www.cnn.co.jp/fringe/35236786.html)との関連で、想定通り12mの高さがあれば、噴火物による堆積と火砕流によってかなりの損傷を受けたにせよ、埋没地面より抜きん出て残存し得た構造物と考えられないであろうか。

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