巷では、新教皇名がレオだった件で、レオ13世が1891年に社会問題を扱った初めての回勅「Rerum Novarum」(レオ十三世著・岳野慶作訳解『レールム・ノヴァルム:労働者の境遇』中央出版社、1958年)で、資本主義の弊害と社会主義の幻想に触れた故事に注目しているが、教皇名レオはなかなか他の話題にも事欠かないのである。
レオ1世(在位:440−461年):以下の功績から大教皇と称せられる。452年のアッチラに率いられたフン族のイタリア侵攻に際して、直接交渉し、撤退させた。また、455年にVandal族のガイセリック王によるローマ侵攻の際にも使者を送って説得、一端は合意に至ったものの、ローマは掠奪された。3大バシリカはそれを免れたらしいが。
レオ3世(在位:795-816年)は、帝国東部のローマ皇帝位が797年から空位とみなされえたことに乗じて(コンスタンティノス6世を廃位した生母エイレーネーが女帝として即位したが、802年にクーデタで廃位)、800年のクリスマスのミサ中にサン・ピエトロ大聖堂に来ていたフランク王カール1世にローマ皇帝冠を授け、西ヨーロッパに新時代を開幕した。
レオ9世(在位:1049−1054年)は、アルザス貴族出身で、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の推挙を受け、トゥール司教在任中に教皇に就任した。教会改革に邁進して在位大半をドイツ・フランスを過ごしグレゴリウス改革の先駆をなしたが、コンスタンティノポリス総主教ミハイル1世キルラリオスとのいわゆる相互破門により(実際にはレオはすでに死亡しており、使節フンベルト枢機卿の独断だった:参照、ウィキペディア「ミハイル1世(コンスタンディヌーポリ総主教)」)、これが結果的に東西教会分離の分岐点と位置づけられるようになった。
新教皇は聖アウグスティノ修道会所属だが、メディチ家出身のレオ10世(在位:1513-1521年)のとき贖宥状がらみで質問状を掲げたルター(1483-1546年)もその修道会所属だった。この教皇は老朽化したコンスタンティヌス創建のサン・ピエトロ大聖堂の改築(1506年着工)でも著名で、ドイツにおける贖宥状販売の特殊事情については、ウィキペディアの「マルティン・ルター」と「レオ10世による贖宥状」の項目に詳しい。
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