ケルト・メモ:(5)エポナ女神

 余りの高額に古書が出るまで様子見していたが、『ローマ宗教文化事典』原書房、2019年、をようやく購入した(けど、我慢したほどには大して安くならなかった)。気になる項目をちらちら眺めているうちに「エポナ」に行き当たった。そこに、エポナはもともとケルトの馬の女神であったが、ガリアの神のうちローマで唯一「エポナ祭」Eponaliaという祝祭が12月18日にもたれていた、と書いてあることに目がとまった(ほぼ同様な内容がウィキペディアや、一層詳しく『ケルト神話・伝説事典』東京書籍、2006年、66-68頁にも掲載されていたのは、迂闊だった)。Epona女神像で、一般に流布している上品なローマ的傾向の彫像は以下。

Salonica出土:4世紀;この地にエポナ信仰を持ちこんだのは皇帝ガレリウスという説もあるらしい。

 というのは、昨年の三月に京大で開催された九大の堀教授の科研での国際小シンポジウムで、オクスフォード大学のジャネット・ディレーンJanet DeLaine博士の「オスティアの街角にみる聖なるお守りたち」Seeking Divine Protection in the Streets of Ostiaの中で、これまでオスティア遺跡で帝国西部の神格のイメージは皆無だったはずが、突如エポナ女神を描いた平板reliefが登場したことに、私はおおげさでなく驚愕したことがあったからである。

 しかし、これはEric Taylor編集のHP「Ostia:Harbour City of Ancient Rome」 の「Terracotta objects」の中にすでに「E27317」として登録ずみのものだったことをあとから知ったので(https://www.ostia-antica.org/vmuseum/small_3.htm)、当方の調査不足にすぎなかったのだが。ディレーン女史は、この平板の元来の設置場所を、Caseggiato di Annio (III,XIV,4)の一番右側の空の枠内だったと想定している。下図がそれである。

Relief of Epona between two horses. Guida p. 97. Museo Ostiense. Inv. 3344.

 現地産の女神像は以下のようなものだった。見ての通り、素材・技量ともに劣るので、博物館でも見栄えしないし、見学者の興味をひくことも少ないだろう。なので結果的に見た目のいい「ローマ化」された大理石製のものの展示が幅をきかすことになるが、掛け値なしの現地発のレベルはこちらにあるのだ。

フランスのフレマン出土、ルクセンブルクのDuelem出土、ハンガリーのブタペスト出土

 続きは「オスティア謎めぐり(3)」のほうで。

【補遺】ローマ時代の文獻で「女神エポナ」が出てくるものをメモしておこう。

ユウェナリス『風刺詩集』8.155:執政官のあいだ、「毛持てる者」(ひつじ)と赭い若去勢牛(うし)をヌマ(王)の(定めた)流儀で(供犠として)殺しはしても、ユーピテルの祭壇の前で、(彼が)誓うのは、(馬の守護女神たる)エポナと臭い檻に描かれた(エポナの)像にかけてだけなのだ。

アプレイウス『転身物語』3.27:この厩の梁を支えている大黒柱の、ちょうど真ん中のところに馬頭観音(エポナ)のお像が小さなお宮に据えられてあるのが目につきました。見れば正しく真新しい薔薇の花冠がいくつか、小綺麗にそれには懸けまわしてあります。

テルトゥリアヌス『護教論』16.5:ところであなたがたの間では、あらゆる種類の役畜やすべての駄馬が、その女神エポナとともに崇拝されているのを、あなたがたは否定しないであろう。してみると、恐らくこのこと、つまりさまざまな家畜や野獣の中で、ロバだけしか崇拝しないということが、あなたがたがわれわれを非難する理由なのであろう。

テルトゥリアヌス『異教徒へ』11.6:すべてのロバですら、たしかに汝らにとって崇拝の対象である、彼らの守護者エポナと共に。そしてすべての畜群、そして畜牛、そして野獣を汝らは聖別する、そしてその上それらの厩舎をすら。

ミヌキウス・フェリクス『オクタウィウス』28.7:これが君たちが風聞によって得た話、ロバの頭は我々にとって聖なるものである、の出所である。そのようなものを崇拝する愚か者がどこにあろうか? また、それが崇拝されるなどと考える愚か者がどこにあろうか? もっともそれは、すべてのロバを君たちのエポナに捧げている、まさに君たちの中の者を抜かしての話なのだが、君たちはイシスの集団の儀式においてはロバを貪り食らう。

【閑話休題】私は四谷3丁目の老舗のイタリアン・リストランテで、二の皿としてロバ肉を食したことがある。それまでイタリア人がそんなものを食すことなど知らなかったのだが、ローマ時代にロバやラバは荷駄として多かったので、庶民は当然食しただろう、だったら食してみない手はない、と。食感としては普通の牛肉と変わることはなく、柔らかかった。まあ食用に育てられたものだろうが、往時庶民が食したのはきつい労働の挙げ句使い物にならなくなったなれの果てだったのだろうから、かなり堅かったに違いない。

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