月: 2019年12月

新刊紹介『ウンコロジー入門』:トイレ噺(11)

 これも他をググっていたら偶然引っかかった:https://news.yahoo.co.jp/byline/iidaichishi/20191227-00156556/。井沢正名著、偕成社、2020/1、¥1650

 私はかねてよりトイレ問題に関心をもっていたので、この広告を見て即発注したところ、年末の繁忙期にもかかわらず、即翌日に届いた。すこぶる快腸、否、快調である。表紙から絵本なのかと思っていたら、前半白黒、中盤カラー図版を含めて、基本的には文字情報からなっていた。かつて納棺師ないし納棺夫という職業があることを映画「おくりびと」(2008年)で知ったが、今回本書で「糞土師」という言葉を学んだ。さりげなく現状に対する憤懣が表現されて、秀逸な命名である。

 私的に特に興味あった第2章「正しくたのしいノグソをしよう」をさっそく拝読。この章は表題とは裏腹の内容を含んで5節と1コラムからなっていて、最初の2節は「トイレに流したウンコのゆくえ」「ウンコの処理に必要なもの」で、要するに、水洗トイレになってどれほどの資源の無駄遣い、というか下水処理場での処理に不必要な電力・薬品類・重油が使われるようになったか、が述べられている。

 そして第4節で展開されている「災害時でもだいじょうぶ! ノグソの底力」は意表をついていてたいへん面白かった。最近多発している災害時に大問題となっているのが避難所でのトイレ問題である。そこで、私には意外な情報が色々あった。たとえば2016年の熊本地震での直接死は50名だったが、避難所住まいでの体調悪化で関連死した人は223名もいたこと、現在もっとも心配されている南海トラフ巨大地震が発生した場合、駿河湾の海岸沿いには全国の製紙工場の4割が集中しているので、紙の供給が大幅に減少する事態が予想されること、などなど。

 そして,著者の体験談:「東日本大震災ではわたしの住む町でも電気が5日間、水道は3週間も止まりました。周囲の人たちはトイレを流すために、側溝や沢から水を汲んで苦労していましたが、毎日葉っぱノグソのわたしは、普段通りにすごすことができたのです。」

 平和ボケのわが同胞は、美食のほうには蘊蓄を傾け大枚をはたいて一向に怪しまないのんきな日々を送っていらっしゃるが、その結果の生産物ウンコ問題にはいつまで目を閉じたままですませる気だろうか。

【追記】冒頭に示したウェブの最後の写真説明、大便の後始末の葉っぱとして「チガヤの穂はミンクのような肌触り」を読んで、思い出したことがある。昔読んだ本にイギリス(スコットランド?)ではそこらに生えている苔がビロード状の肌触りで尻拭きに使っていた、とあった。尻拭きについて、詳しくは同じ著者の『葉っぱのぐそをはじめよう』山と渓谷社、2017年にはカラー写真付きで詳しく紹介されていて、ありがたい。

 ただ、一点のみ気になることが。大便の件は詳しく論じられているが、もうひとつの小便に触れられていないような気が。その利用に関しては古代ローマの方がはるかに進んでいたということか(後から届いた『葉っぱのぐそをはじめよう』、pp.036-039,160、には簡単だがあった:しかも、苔の効用にまで触れてくれていたのには驚いた)。

 話は若干それるが、思い出しついでに。昔、児童学科や幼児教育学科に所属していたときの実験考古学での火起こしで行きついたのは、火きりぎねにウツギ(中空の空木)、火きりうすには桧(ひのき)、火口(ほくち)にはガマの穂が最適の道具だった。最初使っていた、あじさいの枝や杉板は消耗度が激しいのである。以下、参照:https://www.bepal.net/know-how/campfire/11639。但しここの説明で本当に肝腎なポイントがひとつ抜けている(これこそ企業秘密なのだが)。火きりうすに下図のように△の切れ目を入れ(そして、その頂点部分にひきりぎねを安定させるため○の窪みを浅く彫っ)ておくことである。私はこれを原始時代の女性器の性的三角形(駆け出し教師の私のバイブルのひとつ:木村重信『ヴィーナス以前』中公新書、1982、参照)と関連あると授業で説明してきた。天才的着想だと今でも自認してはばからないが、もっと想像力を駆使して言うと、ひょっとして大人の下卑た、ないしませた子供の、凸と凹の遊びの中からこの火起こしの技術が生まれたのではないか、と。

 またついでに書いておこう。原始美術史の大家木村先生たちには共通の欠落点がある。p.60の図27の女性裸像:タタール・パザルジックPazardzik(トラキア)出土と、マリア・ギンブタス(鶴岡真弓訳)『古ヨーロッパの神々』言叢社、1989(原著1974)、p.207の写真207-209、とを比較せよ。普通、女性裸像の写真は正面と側面が掲示されるが、裏面も見てみることで、実はこれらの「女性裸像」は、ある場合は男女性器を表現した「両性具有」であることがわかる、と私は確信している。これは本当に逆転の発想でヒョウタンからコマなのであるが。

【追記2】伊沢氏の別の本『くう・ねる・のぐそ:自然に「愛」のお返しを』ヤマケイ文庫、2014は、文庫本だから本文では白黒写真だったが、なんと末尾にカラー写真の綴じ込み付録があった(中古で入手したのだが未開封だった)。「危険度」表示も付してあり、立派な配慮と感じた。恐る恐る開封してみたがこのたびの『ウンコロジー入門』掲載レベルだった。

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イエズス会の助修士ロサドさん

 出身高校の広島学院同窓会事務局から「ロサドさんの木工小屋」という表題で同報メールが届いた。読んでいて不覚にも涙ぐんでしまった。https://news.yahoo.co.jp/byline/otatoshimasa/20191225-00156241/

 書き手のおおたとしまさ氏は広島学院の卒業生ではなく、東京の麻布高校らしい。私は1966年の卒業生なので,1967年に広島に赴任したロサドさんとは入れ違いだったが、彼以前にも一人助修士さんがいたことを覚えている。大柄なアメリカ人だった記憶がある。ちなみに、我々は司祭にならない修道士のことを、助修士と呼んでいた。英語では「ブラザーbrother」。聖職者修道士を助ける修道士、といったくらいの意味だった。司祭は「ファーザーfather」である。

 マスコミで色々物議をかもしているカトリック教会だが、こういう生き様を貫いている人たちもいることを忘れてほしくない。召出しを受けた彼ら、彼女たちの多くは地道に黙々と日々の役目を果たして生きているのである。彼らなりの葛藤がないとは思わないけれど。

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新・旧国立競技場のトイレ話:トイレ噺(10)

 もうオリンピックも目前だが、かつての国立競技場には面白い便器があった。競技者の女性が素早く用をたせるように、立ちションできる便器である。実際に使用されたことはないと書いている書き込みがあるが、ホントだろうか。

この形式:本物はたしかTOTOのトイレ博物館(北九州市)に保管されている

 今回新装なった新国立競技場でもトイレに色々工夫が凝らされているようだ。詳しくは以下をご覧下さい。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191222-00010002-flash-peo&p=1

 しかし問題もあるようだ。男性では大が少ないし、一般のトイレはウォシュレットではないし、男女共用といってもあれはむしろ車いすなど身障者用だし、いつも指摘されている女性用での大行列もたぶん解消されそうもない、らしい。

 本当の男女共用と長蛇の列解消について、ちょっと考えてみたい(こっちの話題は遡ること2011年情報なので遅報となる。知らなんだ〜)。なんと、フランスでは女性の要望で、女性の立ちション用の便器をパリで設置予定だったらしいが、どうなっているのだろう。それとは別に、女性用の立ちション用専用グッズはすでに販売中で、我が国でもネット販売で購入可能とか(もともとは登山なんか用だったらしい)。これが普及すれば、男性専用のほうも女性に開放されて、女子トイレの長蛇の列も解消されるかも。それにトランスジェンダーの人たちも、公共トイレで問題視されなくなるかもという利点もある気がする。アマゾン・コムのカスタマーレビューでの実際の使用感は、多少の改良が必要なようだが、まずまずのようだ(問題はどうやら安い中国製にあるようだが)。https://wotopi.jp/archives/16018;https://www.afpbb.com/articles/-/3144070;https://ameblo.jp/kitanotake4/entry-12279267309.html

実際にアマゾンや楽天に掲載されていた
これはグッズ不用の、女性立ちション用便器改良型だそうで・・・。これこそ本当の男女共用?!

 実践例もアップされてる。https://www.a-kimama.com/outdoor/2016/12/61340/;https://matome.naver.jp/odai/2141266043562281601;https://www.excite.co.jp/news/article/Rocketnews24_827002/

 いやあ、すさまじいまでのトイレの進化でびっくり。しかしまだまだ先の話のような。でも、女性の立ちションは世界中どこでも20世紀初頭までは見慣れた風景だったようだ。日本でも20世紀半ばまでどうやら普通だったらしい。一説によると特に関西とか、田舎で。http://yamatos59.blog17.fc2.com/blog-entry-244.html?sp。さらにこんな方法もあるらしい。https://www.wikihow.jp/女性が立ち小便をする

 そういえば、衆人環視の中での、和服の前をはだけての授乳姿も普通だったなあ。

【追記】2021/1/15で続編を報告しました。やはりトランスジェンダーの人たちは重宝しているようだ。

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アウグスティヌス時代の信者たちの実態

 コミカレで以前アウグスティヌスをしたときに付録として配布したプリントをここに添付する。小論「人間アウグスティヌスを『告白』から探る」上智大学文学部史学科編『歴史家の調弦』上智大学出版、2019、pp.217-235、ではアウグスティヌスの生態を探ったが、このプリントでは、当時のキリスト教信者の実態を、フランシスコ会司祭のアマンが余すところなく暴露している。日本の研究者にはなぜかこういうしごく下世話な視点が欠落していて、きれい事、事実の探求よりも所詮護教なのである。その当否は読者各自のご判断にお委せせざるをえないが。

【付録】A.-G.アマン『アウグスティヌス時代の日常生活』上,リトン, 2001(原著1971)。

   著者:Adalbert-Gautier Hamman(14 Juin 1910〜20 juillet 2000)

   フランシスコ会司祭、Migneのラテン教父集成の補巻を刊行するなど、教父学の権威

結婚・家庭生活関係の実態

p.133- アフリカでは、試し結婚[足入れ婚]こそ知られていなかったが、キリスト教徒の場合でさえ、さまざまな状況を考慮せねばならなかった。ローマ法でいう「結婚の誉」が確立するまで、裕福な家庭は息子に同棲することを容認していた。

p.141- アフリカの教会会議では、司教や聖職者の息子が異教徒や異端者の女を娶ることがないよう求めている。しかし実際の生活においては、法はあってなきがごとしだった。一つ屋根の下で異端者の嫁とカトリック教徒の義理の母が暮らすこともあった、とアウグスティヌスは記している(『詩篇講解』44.11)。

 自由人と女奴隷の結婚は煩瑣に見られたにちがいない。小作人の状態は労働や生活水準などあらゆる面で奴隷の境遇と大差なかったからである。

 実際の法律は、こうした結婚を法律上一種の内縁関係であり貧者同士の結婚である「事実婚」contuberniumと同一視していた。

p.145- 教会は、異教徒の法律家には思いもよらなかった夫婦の平等をまっ先に言明した。しかし、アンブロシウスやアウグスティヌスにおいてさえ、計画と実行には隔たりがあった。夫と妻の関係をキリストと教会の関係になぞらえるほど、婚姻締結証書tabulae nuptiales中で聖化された男性優位の思想は、長い年月の間に人びとの心に定着し、難攻不落の城塞のごとくにたちはだかっていたのである。アウグスティヌスは自らこう語っている。「あなた方の妻はあなた方の下婢であり、あなた方が彼女たちの主人であることは、議論の余地なき事実であります」(『説教』332.4)。

p.148  アウグスティヌスは、ヒッポの教会で夫婦間の貞節を説いて夫たちの不評を買った。しかし彼は、ひるむことなく法律によって裏づけられた男性の特権を攻撃した。彼は、夫婦間の貞節を守らねばならなくなることを恐れて洗礼を受けない市民がいることを指摘した。

   私のことを憎んで「この男は妻が自分を見に教会に出かけることを知っているのだ」などと言っている人々がいることを私は承知しています(『説教』82.11)。

 アウグスティヌスは、春を売る男や女に対して寛大さを示したが、それは売春婦が人々のストレスを取り除く社会的役割を担い、一般女性が売春に陥るのを防いでいると考えたからだ(『秩序論』Ⅱ.4.12)。

p.150 金持ちは大勢の女を自分の思うままに操っていた。彼女たちは非常に便利な存在で、家庭での楽しみも享受した。しかし、アウグスティヌスはこうした下女の愛をののしり、妾は売春婦であると考えた。

p.151 世論は、夫が姦淫を犯すことを非としなかった。妻に禁じられた罪が夫には許されていた。既婚婦人が奴隷と寝台をともにしているところを現行犯で捕らえられると、彼女は公共広場に引きずり出された。しかし、男の方はそういう処罰を受けることはない、とアウグスティヌスは指摘している(『説教』161.9)。

p.159 監視の目を盗んで密会は行われた。厳しすぎる体制には落伍者がつきものである。神に身を捧げているはずの修道女が夜ごと助祭の家に通ったことに、キプリアヌスは気付かなかったのだろうか。他の聖職者は彼らの言によれば「名誉にかけて」修道女と寝ることを習慣にしていた。疑い深くなった司教は、娘たちが処女であるか否かを産婆に調べさせている(Cyprianus,Epistula,61)。

 残念ながら、その結果は知られていない。

 親は息子のいたずらを気にかけなかった。少年時代は過ぎ去ってゆくものである。彼らの犯す過ちは許してやる必要があった。父親は息子たちの力と男らしさの発露を誇りにさえ感じた。キリスト教詩人ペラのパウリヌス[5世紀の詩人。アウソニウスの孫]は、女中たちにすがった若き日の思い出を詩に書いている。彼は彼女たちが気楽に、ただで遊びにのってくれたと記している(Paulinus de Pella, Eucharisticos, 165-166)。 

 アフリカの多くの家庭でも同じようなことがおこなわれていたのだろう。母親さえも息子の行為を自慢することがあった。

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新刊紹介:『絵で旅するローマ帝国時代のガリア』マール社

 翻訳者が知り合いの、瀧本みわさんと長谷川敬氏のお二人から献本が届いた。著者はジェラール・クーロンで、イラストはあのジャン=クロード・ゴルヴァン。原著初版は2002年,第2版は2006年だが、この翻訳は3版の2011年に依拠している。考古学的知見に基づく再現イラストの威力ははかりしれない。絵本を見るような気楽さで、当時の風景をイメージすることができるわけだからだ。もちろん解説文の内容も専門家が書いているので高度で安心して読める。

 ただ、BookFinder.comによると、現在は2016年4月版(ハードカバー)ないし10月版(紙装版:ハードもあるような)が新刊として出回っているようだ。これが第3版の増刷なのか、第4版なのか、私には気になるところである。まあ初版から5年ごとに出し直しているので、第4版の可能性大であるが。

左が2002年初版、右は2016年版の表紙、か?

 というのは、私が最近興味を持っているGrandの遺跡について、翻訳冒頭の「第3版に向けて」で、「とりわけグランの復元図は、修正する必要があ」り、新たな復元図を発表予定、と書いてあるからだ。これは不意打ちだったので、いささか慌てて、翻訳者に問い合わせたところ、長谷川氏のほうから、復元図そのものは第2版とまったく同じだが、図の解説では聖域の泉の左の大神殿を「アポロ・グランヌスの神殿」 としていたものが、第3版では紹介文は消え、また第2版では単に「バシリカ」とのみ紹介されていたものが、 第3版ではモザイクについての記述が追加されている、と丁寧な回答があった(ご多忙中にもかかわらず、深く感謝します)。

 だが、あの「第3版に向けて」での言及がその程度の修正にすぎないものとは思えないので、現在、崩壊寸前の小教区教会付近の場所が神殿に該当しているので、そこらあたりの発掘調査から何も出なかった、とでもいうのだろうか。

 当方がとりあえず梗概で得ている最新情報(Pacal Vipardの2015年の論考)では、その件よりも、カラカッラ帝の訪問について「証拠は現在の仮説を覆すには至っていないが、きわめて脆弱である」と述べている程度なのである。こうなると空振りを覚悟で2016年版の遅いほうを入手するしかないが、さてアマゾン・コムでの発注なのでこちらの注文通り10月のほうが届くかどうか。ともかくやってみないと始まらない。物入りなことである。

【追記】注文していたものが届いた。当方の狙い通りの10月出版のいわゆる第4版だったが、内容的には第3版の増刷版のようで、とりあえず修正箇所はみあたらなかった。残念である。

【蛇足】ところで、こういう楽しい本を眺めているとつい忘れがちなのだが、古代ローマの基幹産業はあくまで農業であって、ということはおそらく人口の8〜9割は農業に携わっていて、そういう彼らにとって、とりわけ属州での都市生活はもとより、いわずもがなローマ的な文化装置は、たとえ享受できたにせよ生活のほんの一部にすぎなかった。これまで研究者がもっともらしく言ってきた「ローマ化」なんてその程度、と理解すべきなのだ。論より証拠、ローマ軍がブリタニアから撤兵したとたん、それ以前のドロ屋根住居の生活水準に逆戻りした事例を思い出すだけでいい(というより、現地庶民はそんな生活をずっと持続していただけのことだろう)。ブライアン・ウォード・パーキンズ(南雲泰輔訳)『ローマ帝国の崩壊:文明が終わるということ』白水社、2014(原著2005)。なに、ローマ帝国の衰退・崩壊ではなくて、そこが本当は本質的になんらローマ化してなかっただけのことなのだ。

 ローマ化の指標とされてきた闘技場にせよ劇場にせよ、公衆浴場、神殿にせよ、それらは第一義的に征服者とそれに追従して恥じない現地の上層者のための設備だった。これは連想するだけで分かりそうなことだ。満蒙開拓団が入植した満州で、日本敗北後たとえレンガ造りの構造は残っているにしても、伊勢神宮の分社は跡形もなくなっているはずだ。ハワイでは、日系移民によって祭神にカメハメハ大王やワシントンやリンカーンが加えられて存続しているらしい:しかし、これを誰も「ハワイの日本化」とは言わないだろう。

 なのに現代の研究者は訳知り顔で「ローマ化」と平気で言っちゃうのである。自分の頭で何も考えていないのだな〜、と思ってしまう。

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生き残る「事実」はどちら?

 以下の事例、さてどちらの主張が後世に生き残るのだろう。真相はいつも藪のなか(芥川龍之介「藪の中」:https://ameblo.jp/gkwmr402758/entry-11006749901.html)。

◎ コロンバイン高校銃乱射事件:https://www.buzzfeed.com/jp/judithkelly/i-taught-at-columbine-1?origin=btm-fd

◎ 60年安保の樺美智子さんの死因:http://blogos.com/article/133304/

◎環境問題での武田教授の持論:https://www.mag2.com/p/news/435438?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_fri&utm_campaign=mag_9999_0117&trflg=1

◎小池東京都知事の学歴詐称疑惑:

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58847?pd=all;https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58851?pd=all;https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58851?pd=all;https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58869?pd=all;https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58870?pd=all;https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58851?pd=all

【付言】ところで、こういう場合いつも困るのは、起こった歴史事象をどう表現するか。「事実」fact、「真実」truth、といった言葉の使い分けである。今現在は「真相」とでも表現した方がいいように思うが、どうだろう。

◎邪馬台国、近畿説? 九州説?:http://inoues.net/study/uso_rekihaku.html

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農耕の発生と塩の絶妙な関係:飛耳長目(21)

 NHKスペシャルでの再放送だったが、BSで途中からみることできて、興味深かった。狩猟採取から農耕牧畜の時代になって、主食が穀物になりカリウムを取り過ぎるようになる。腎臓はそのカリウムを排出することを優先し、本来回収すべきナトリウムも排出してしまう。それで、人類は塩を摂らなければならなくなった。念のためググって見たら、すでに「NスペPlus」に載っていた。ありがたいことだ。

https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20191206/index.html

https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20191206/keyword.html

 番組の終わりに、長寿時代に突入して、腎臓が果たして持つのか、という話題が出ていた。筋肉は鍛えることできるが、腎臓は鍛えようがなく、人類創成以来の姿だからである。

 その番組の中で登場したイランの「Salt man」の記事もヒットした。https://www.atlasobscura.com/places/salt-men-iran;http://karapaia.com/archives/52261093.html

 お米にまつわる以下の話題も面白かった。「ご飯」は健康長寿の敵か?味方か?」https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20191105/index.html;「「ご飯」で日本人はどう変わった?日本人とご飯を結ぶ、3つのキーワード」https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20191105/keyword.html

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終わらない夏、終われない夏:遅報(17)

 桜じゃないけど、これも季節外れだったが、BS1で「女優たちの終わらない夏、終われない夏」をやっていた。「終われない」というフレーズに惹かれ、そして登場した渡辺美佐子(86歳)や山口果林(72歳:えっオレと同い年?)が広島と無関係なのになぜ、と思って、番組を見ながらググってみた。そしたら東京新聞の2019年4月21日 朝刊の記事があった。https://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2019042102000200.html

 1985年ないし2008年以来継続してきた原爆の、こどもと女優の朗読劇を老齢のため店じまい、という内容だった。

 そりゃ「終われない」よね。その気持ちはよくわかる。でも、終わってしまうのだ、なにもかも。生者必滅・会者定離。

【追記】その後の番組は、一週間ほど前に放映された原爆孤児の話だった。「さしのべられた救いの手:“原爆孤児”たちの戦後」https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/3115753/index.html

 6500人もの孤児が焼け跡に放り出され、飢えで次々に死んでいく。彼らを救済するため精神養子運動をした人たちで、ノーマン・カズンズ、パール・バック、谷本清牧師といった、広島人には懐かしい名前が出てきた。600人のアメリカ人里親が400人の孤児を支えた由。他方で、韓国人に助けられた人の話も出てきた。

 だが、なぜか「似島学園」について触れられていない。元地元としてはちょっと引っかかる。

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つぐない:今日のコミカレの落とし前

 って、まるでテレサ・テンの歌みたいですが、接続コードを一つ忘れてしまって、今日は画像抜きの講義となりました。申し訳ないので、画像だけでもアップしようと思い立ちました。以下まずレジメ、資料。

アウグスティヌスとモニカ

白人として描かれるAugustinus像:6世紀、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ宮殿図書館
中央がAugustinus:7世紀、ブレシア博物館
ボッチチェリ、1480年:フィレンツェ・オンニサンティ教会
典拠不明、最近よくウェブに登場
白人的なモニカ像:15世紀Benozzo Gozzolnii
Ary Scheffer,1846:いかにも北アフリカ人的表現で納得できる
典拠不明:最近よく見かける
男性は旅行時のガイドさんと遺跡案内人:女性の顔の刺青に注目、さてモニカはどうだったのだろう

古代ローマの外港:オスティアとポルトゥス

復元想像図:左が二段構えのPortus港、右端の河口港がOstia

Ostia antica遺跡でのアウグスティヌスらの宿舎の想定場所

Ostiaの共同墓地は、この地図では中央の幹線道の右端の先にあった
北からみた現在の庭園

Borgo全景:上が北

ムスリム軍を警戒して左の砦を作ったのは、後の教皇ユリウス2世
右がSaint’Aurea教会:奥が司教館、その手前の広場で碑文発見か
教会内部:GoogleEarthで360度パノラマ写真もある
右側の小礼拝堂:正面に「窓辺で話す母子」の絵
小礼拝堂の左壁に強化ガラスで覆われた碑文断片
右が裏側:私には石棺のフタの再利用に見えてしまうのだが
Junius Bassus(†359年:首都ローマ長官在職中に死亡)のキリスト教的石棺:バチカン、サン・ピエトロ大聖堂・宝物館所蔵(但し、碑文を献呈したAnicii家のBassusとは無関係)

ローマ、ナヴォーナ広場周辺:右が北

縦長にSan Luigi dei Francesi教会↑     右中央横長がSant’Agostino教会↑    

Sant’Agostino教会

左奥チャペルの聖モニカ祭壇
左壁に、聖モニカ石棺
余談ですが、見るべき所蔵品:カラヴァッジョ作「巡礼者(ロレート)の聖母」1604-6
教会入り口付近の聖母子像:実はローマ時代の女神像の由

【参考図像】近くのSan Luigi dei Francesi教会所蔵のカラヴァッジオ作品・聖マタイ三部作

左から「召命」「霊感」「殉教」

かつての高額紙幣10万リラの裏面:犯罪人を紙幣の顔にしてしまう国、それがイタリア

背景の彼の作品「女占い師」(1595年頃、ルーブル)も、実は手相を見る振りして少年の指輪を抜き取ろうとしている絵、との解釈あります。つくづく、イタリア的!

アウグスティヌス母子の名前を冠したアルジェリア産ワイン


【追補】昔のファイルから見つけた。

モンニカが若すぎるけど
1990年発行の『地球の歩き方』105「カルタゴの夢チュニジア」ダイヤモンド社、p.47(絶版)には「顔にはバルコースを使って化粧が施されている」と。背景を明るくしてみると、
娘と孫だろうか。未婚の孫にはまだ刺青はない。

他にも昔のHPに現代のベルベル人の写真が掲載されていた。もう消えているので勝手に転載しておく。

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人はなぜ体験を書かないのか、否、語り始めるのか:遅報(15)

 このところ、なぜか1968年の本を読んでいる。きっかけは、小児性愛虐待記事を求めての『文藝春秋』97-3(2019)にたまたま載っていた、立花隆「東大紛争五十周年」のコラムを偶然読み、彼の「東大ゲバルト壁語録」『文藝春秋』47-3(1969)を知ったからである(これは簡単にpdfで入手できた:http://kenbunden.net/student_activism/articles/pdf/1.pdf)。それで検索していて、落書きが写っている由で、渡辺眸『フォットドキュメント東大全共闘1968-1969』角川ソフィア文庫、2018年、これはわが図書館にはなかったので、古書で入手した。以下2点はさすがにあった。

 島泰三『安田講堂1968-1969』中公新書、2005年;三橋俊明『路上の全共闘1968』河出ブックス、2010年。

 まあそれまで立花、島と東大の言説だったが、三橋を読んで、遅ればせながら、日大に関する以下のウェブサイトがあることを知ったあたりから、もっぱら関心は日大全共闘関係となる。

 「1968年全共闘だった時代」http://www.z930.com;「日大闘争by日大全共闘」https://keitoui.web.fc2.com。

 挙げ句、とうとう以下も発注してしまった。わが図書館には当然のこと、ない。ま、古書で捨て値で安いということもあった。日本大学文理学部闘争委員会書記局『叛逆のバリケード:日大闘争の記録(増補版)』三一書房、1969年。なんと、新版が出ていたので(2008年刊)、やむを得ずこれも・・・(^^ゞ 私は観念先行よりもどうやら農民一揆的な日大闘争のほうを好むようだ。全共闘はセクトではない[なかった]、いわんや全学連でもない、という認識は重要である。多くのセクトがそれを僭称していたせいで、外から見ると誤解があるからだ。逆にいうと、日大の場合が特異だったというべきか。

 いもづる式に『忘れざる日々:日大闘争の記録』全9冊(2011-2018年:http://www.z930.com/kiroku/no_9/kiroku09.html)の存在も知ったので、ここには一般学生の声や落書きが載っているかもと思って、記載された取扱先アドレスにメール送ったが、まず不達。古書でももう全巻どころか単品でも入手が困難なようだ。ここでも販売してますと書いてあった模索舎にメールすると7冊入手可能とさっき返事があった。送料込み7000円。第1巻と第5巻がないらしい。

 それぞれ40周年、50周年という区切りでの出版のようだ。書き手の(元)活動家たちは当時も饒舌だったので、記録自体を残そうとするのは当然と思われるが、一般学生や「単ゲバ」のほとんどは沈黙し続けているのではないか。考えてみると、それは私自身にも言えることで、多少関わった身からするとなにか語ればそこからこぼれ落ちてしまう、ある意味下世話で、ある意味核心的な情報もあって、到底全体像を伝えることができないという思い、またもちろん思い出したくない体験や、慚愧の念に苛まれる場合もあって触れたくない気持ちもあるはずだ。逆にいうと、よほどの動機がなければ、体験の一部を切り取ることすらできないのである。*

 この語るのか語らないのか、を煮詰めて考えてみることは、歴史上の諸史料の残存理由やその言説のレベル、を探る意味で重要な気がする。そして思うのだが(情緒的すぎるであろうか)、解説に百万言を費やすよりも、以下の落書き(正確には、『叛逆のバリケード』目次裏記載の詩?)が発している高揚感のほうが、活動上昇期当時の彼らの実際を表現しえているように思うのは、私だけであろうか。きっと香港騒乱の参加者たちもそれを今体感しているはずだ。

  生きてる 生きてる 生きている
  バリケードという腹の中で
  生きている
  毎日自主講座という栄養をとり
  “友と語る”という清涼飲料剤を飲み
  毎日精力的に生きている
  生きてる 生きてる 生きている
  つい昨日まで 悪魔に支配され
  栄養を奪われていたが
  今日飲んだ“解放”というアンプルで
  今はもう 完全に生き変わった
  そして今 バリケードの腹の中で
  生きている
  生きてる 生きてる 生きている
  今や青春の中に生きている

 だがそれは、いわばプラス・イメージ方向でのことである。立命館大学の学生だった高野悦子は「悲しいかな私には、その「生きている」実感がない」(『二十歳の原点』1969年3月8日)と書いて、3か月後に鉄道自殺した。2月中旬から活動家の仲間入りしていたのだが。おそらく運動凋落期で先の展望も開けず、その上性格的にマイナス思考の、観念論先行型だったからだろうか(https://plaza.rakuten.co.jp/etsuko4912/diary/200506290000/)。当たり前のことだが、千差万別の生き様があったし、プラスであろうがマイナスであろうが、書き手が書き残さなかった、残そうとしなかった別の真実があったはずである。

(*) 橋本克彦『バリケードを吹きぬけた風 : 日大全共闘芸闘委の軌跡 』朝日新聞社 、 1986、の本文冒頭に以下が書かれている。

 この態度は正直でなかなかいい。それは、東大全共闘のヒーロー、山本義隆『私の1960年代』金耀日、2015、の取り澄ました叙述スタイルと対照するとき、明確になる。

【香港関係】

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48618554

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-50709898

デモ隊は香港理工大学付近で、れんがを使ってバリケードをつくった。分離帯には「思想は防弾性だ」、「奴隷より反逆者でありたい」、「絶対に降伏しない」などと書かれている(11月18日撮影)

【追記1】『バリケードに賭けた青春』(北明書房、1969年)をヤフオク経由で入手した。そこで柳田邦夫(邦男とは別人:筆名でないとしたら、鹿児島ラ・サール高校、学習院大学、中央公論社出身のジャーナリスト、1988年に56歳で死亡、か)が書いた「バリケードの中の祭典」が、プラス面的になかなか読ませる。

【追記2】在庫があった『忘れざる日々』が届いた。ザッと見ていて、vol.2, 211, pp.114-117に「『叛逆のバリケード』巻頭詩をめぐって」が掲載されていた。その元記事は以下のブログに掲載されている。2011/7/22「野次馬雑記」http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2011-07.html

 当時日大全共闘文理学部闘争委員会に所属していたT氏が、封鎖の初期の夜、一人きりになり寂しかったときに黒板になぐり書きしたということであるので、ま、落書きでいいように思う。残念ながら写真はなかった(どこかにあるはず、とのこと)。

【追記3】佐々木美智子『あの時代に恋した私の記録:日大全共闘』鹿砦社、2009、を入手した。もちろん落書き狙いだったが。立て看は別にしてバリケードの中の落書きはそう写っていなかったのは残念であるが(輝度をあげてわざとみえなくしている?)、2,3箇所だけあった。版権と肖像権もあるので、ここでの掲載はやめておこう。

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