この基本史料に邦訳あっていいのでは、というのが私の動機なのだが、本日から初期中世ラテンに疎い5名で読みはじめたが、えてしてそういうものだが、初っぱなから大苦難の様相である。どなたか助っ人お願いできればと切望しておりますので、お声を上げていただければ幸甚です。以下が連絡先です:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp
隔週火曜日、午後18:30より90分程度。Zoomでやっています。次回は5/31、といった感じ。
使用ラテン語底本 :一応MGH を底本としてますが、読解には便利なので以下のThe Latin LibraryのDIGITAL版を使用しています。
https://www.thelatinlibrary.com/liberpontificalis1.html
Th.Mommsen, Liber Pontificalis , Pars Prior, MGH , Gesta Pontificvm Romanorvm , vol.1, Berlin, 1898.
Louis Duchesne, Le Liber pontificalis , tom.1, Paris, 1886(https://books.google.co.jp/books/about/Le_Liber_pontificalis.html?id=_gAXCJUWI0UC&redir_esc=y)
翻訳:
Louise Ropes Loomis, The Book of the Popes , New York, 1916(https://books.google.co.jp/books/about/The_Book_of_the_Popes.html?id=Q3CxAAAAMAAJ&redir_esc=y)
Raymond Davis, The Book of Pontiffs , Liverpool UP, revised third edition, 2010.
Nathalie Desgrugillers, Liber Pontificalis 1.Des Origines au pontificat de Sylvestre (30-355) , L’Éncyclopé die mé dié vale, 2012:発注中
参照辞書 :
de Daremberg et Saglio, Le Dictionnaire des Antiquités Grecques et Romaines , Paris, Hachette, 1877-1919(http://dagr.univ-tlse2.fr/)
Hrsg. von Engelbert Kirschbaum SJ, Lexikon der christlichen Ikonographie , 8 vols., Rom/Freiburg/Basel/Wien, Herder, 1968-1976 (https://archive.org/details/lexikon-der-christlichen-ikonographie-3/Lexikon%20der%20christlichen%20Ikonographie%201/ )
Mediae Latinitatis lexicon minus , Leiden, 1984.
文法書 :
國原吉之助『新版中世ラテン文法』大学書林、2007.
初回90分で、ろくに読解できなかったが、それにしても格変化とかで問題山積みなのである。
なお、現在教皇へのカトリック的な一般的敬称表記は「聖下」がよく使われているが、ここでは試しに伝統的な「猊下」としてみた。またbeatusは現在では、「聖人」sanctusと差別化して「福者」と訳されるが、ここではあえて冗長ながら「祝福された」と訳した。
地図:
上記R.Davisの末尾に掲載されているものを二点転載しておく。
地図1
地図2
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献辞
至福なるbeatissimo 教皇ダマスス(猊下)に、ヒエロニムスが(献じます)。
猊下の聖性の栄光に鑑み、我ら謹んで次のごとく哀願いたします。我らが猊下の聖性のおかげで司られることを知ったところの使徒座のapostolicae sedis(権威)に基づき、これに対し深く頭を垂れてhoc curui、我らは祈ります、祝福されたbeati 使徒ペトルスの首位権の(時代)から、猊下の(使徒)座の中で行われた猊下たちの諸時代までずっとusque ad 諸事績を、平和の秩序のために、我らに詳述するのを猊下が決心させられますように、と。我ら謹んで、上述の聖座sanctae sedis の諸司教のうち誰が殉教の冠を得たか、それどころかuel 誰が諸使徒の諸規範に反して逸脱したかさえ知られているのかを、思量することを知る限りにおいて、我らのために祈りたまえ、至福なるbeatissimae 教皇(猊下)よ。
首都ローマ司教ダマススが、司祭ヒエロニムスに(与う)。
貴下の(知識の)泉によって満たされた教会は喜び、そしてより多く、諸々の時代の祭司職のsacerdotalis 好奇心は以下を渇望するものである、すなわち、何が価値あるものかが知られ、そして何が無価値であるので退けられるべきかを。さらにtamen 何がなされるのか、我らがみつけえたものが何かを、我らの(聖)座のsedis 研究を、汝の隣人愛において享受することを、我らは(これまでも)導いてきたのである。我らのために(キリストの)聖なる復活のゆえに祈りたまえ、兄弟よ、同僚司祭よ。ご機嫌ようVale、我らの主、神、キリストにおいて。五月二十三日に与う。十月二十六日に受領、ローマからヒエロソリマに送付(書簡)。
第一章 ペトルス PETRVS [- 64/67年]
1. 祝福されたbeatus ペトルス、使徒にして使徒たちの筆頭者princeps、アンティオキアの人、ヨアンネスの息子、ガリラヤ属州のベトサイダ村vico(出身)で、アンドレアの兄弟が、最初primum アンティオキア内で司教のカテドラにcathedram 七年の間着座したsedit。このペトルスは帝都ローマに皇帝ネロの時に入って、そこでibique 司教のカテドラにcathedram 二十五年二月三日間着座したsedit。それはかくしてfuit autem 皇帝ティベリウスの、そしてガイウスの、そしてティベリウス・クラウディウスの、そしてネロの諸時代である(後一四-六八年)。
2. 彼は、二つの書簡をepistulas 書いた、それらは公同catholicae(書簡)と呼ばれている、そしてマルクス(マルコ)の福音書を(書いた)。なぜならマルクスは彼(ペトルス)の聴聞者auditor であった、そして受洗によって(ペトルスの)息子だったので、その後post (マルクスの福音書は)四福音書すべての源泉で、それらが吟味されたad interrogationemとき、そして彼の証言によってtestimonio、それはペトルスのそれであり、あるものはギリシア語、あるものはヘブライ語、あるものはラテン語で表明されていてもconsonent、さらにtamen それらは彼の証言によってtestimonium 立証されたのであるsunt firmatae。
3. 彼は、二人の司教、リヌスとクレトゥスを叙階したordinauit。彼らは自らあらゆる祭司的奉仕をministerium sacerdotale 首都ローマで会衆populoや、それどころかuel やって来た人々にさえ示したexhiberent。また[かくして]autem 祝福されたペトルスは祈祷や説教を会衆に対して教育すべく専念した。
4. 彼が、会衆の前のみならず皇帝ネロの前でも同様に、魔術師シモンと多くの議論を持ったとき、すなわちut 彼らを祝福されたペトルスがキリスト教信仰に集めadgregabat、後者(魔術師シモン)が魔術と欺瞞をもって散らしたのでsegregabat、そして彼らはかなり長くdiutius 討論したが、シモンは神のご意向でdiuino nutu 殺された。
5. 彼は、祝福された司教クレメンスを聖別したconsecravit。かつまた-que 彼にカテドラをcathedram、それどころかuel 教会をecclesiam さえすべて管理させるべくdisponendam 委ねてcommisit、言う:私に舵を取り、結びかつまた-que 解く権能がpotestas 我が主イエス・キリストによって授与されているのでsicut、そして私は汝に委ねるcommitto、種々のことどもの管理人たちをdispositores 叙階するordians ことを、彼らにより聖教会の活動はactus ecclesiasticus 達成され、そして汝は少しも世俗の諸々の世話にin curis saeculi 気をとられないように、むしろただsed solummodo 祈祷のためだけに、そして会衆に説教するために自由であるべく専念せよ、と。
6. この管理のdispositionem 後に、彼は殉教によりパウルスとともに花冠を受けるcoronatur、(それは)主の受難の後三十八年に(あたった)。彼はアウレリア街道でアポロ神殿内に埋葬された、(それは)磔刑にされた場所の近くで、ネロの宮殿の近くで、ウァティカヌス丘の内へと、凱旋(街道)地区の近くで、六月二九日に[参照、XXII.4]。彼は、十二月における諸叙階式でordinationes、司教を三名、司祭を一〇名、助祭を七名(の叙階を)執り行ったfecit。
第二章 リヌス LINVS [c.70年]
1. リヌスは、生まれはnationeトゥスキア[エトルリア]地方regionis Tusciaeのイタルス(イタリキ=イタリア)人Italusで、父はヘルクラヌスHerculano、(司教座に)十一年三か月十二日間着座した。それはかくしてautem ネロの諸時代(五四-六八年)、Saturninus とScipioの執政官職(後五六年)からCapitoとRufusが執政官職(後六七年)に至るまでずっとでusque ad、殉教により花冠を受ける。
2. 彼は、祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、女性は聖堂内ではin ecclesia 頭部をヴェールで覆って入るべしと定めたconstituit。彼は、二回の叙階式で、司教十五名、司祭十八名(の叙階)を執り行ったfecit。彼は、祝福されたペトルスの遺骸の傍らにiuxta corpus beati Petri、ウァティカヌス(の丘)の中にin Vaticano、九月二十三日に埋葬された。
第三章 クレトゥス CLETVS [Anencletus, c.85年]
1. クレトゥスは、生まれはローマ人で、パトリキウス街 vico Patricii 出身で、父はアエミリアヌスAemiliano、(司教座に)十二年一ヶ月十一日。それはかくしてautem ウェスパシアヌスとティトゥスの諸時代(六九 〜八一年)、ウェスパシアヌス七回目とドミティアヌス五回目の執政官職(七七年)からドミティアヌス九回目とルフスが執政官職(八三年)に至るまでずっとusque ad だった。(彼は)殉教により花冠を受ける。
黄色の矢印間がVicus Patricius:現在のサンタマリア・マッジョーレ聖堂の西南にあたる
2. 彼は祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、司祭二十五名を首都ローマでurbe Roma 叙階したordinauit。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 四月二六日に埋葬された。そして司教職は二〇日間空座だった。
第四章 クレメンス一世 CLEMENS I [c.95年]
1. クレメンスは生まれはローマ人で、ケリオモンティウム(=Caelimontium、下図の第二) 街区でregione(出身)、父はファウスティヌス、(司教座に)九年二月一〇日間着座した。
それはかくしてautem ガルバとウェスパシアヌスの諸時代に(六八〜七九年)、トラカルスとイタリクスの執政官職(六八年)からウェスパシアヌス第九回目とティトゥス[第七回目執政官職](七九年)に至るまでずっとusque adだった。彼はその間dum 多くの書物をlibros キリスト教の信仰の熱意により書き記したが、殉教により花冠を受ける。
2. 彼は(帝都ローマに)七つの街区をregiones 作り、教会に忠実な書記たちをnotariis 割り当てた。彼は殉教者たちの諸事績に細心かつ好奇心をもっていたからで、かつまた-que 各々(の書記)が自身の街区についてregionem、入念にdiligenter 問い質すようにそうしたのである。
3. 彼は二通の書簡をepistulas 書いた。それらは公同catholicae(書簡)と呼ばれている。彼は祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、教会の司牧職をpontificatum 舵取りすべく授かった。ちょうどsicut 彼(ペトルス)に主イエス・キリストからカテドラが託されていた、もしくはuel 委ねられていたごとく。さらにtamen ヤコブに対して書かれた書簡の中でin epistula、等しくqualiter 彼に祝福されたペトルスによって教会が委ねられたことをあなたはみつけ出すであろう。それゆえにideo そのためにpropterea リヌスとクレトゥスが彼(クレメンス)以前に登録されており、こうしてeo 使徒たちの筆頭者である彼自身から、交付さるべき祭司的な職務へとad ministerium sacerdotale、司教たちは叙階されているのである。
4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭一〇名、助祭二名、様々な場所のため司教一五名(の叙階)を執り行ったfecit。彼は殉教者としてトラヤヌスの(執政官職)三回目に逝去した(後一〇〇年)。そのうえetiam 彼はギリシア人たち(の地)に十一月二四日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。
第五章 アナクレトゥス ANACLETVS [第三章と同一]
1. アナクレトゥスは、生まれはギリシア人、アテナエ(出身)で、父はアンティオクス、(司教座に)九年二か月一〇日着座した。それはかくしてautem ドミティアヌスの諸時代に(八一〜九六年)、ドミティアヌス第一〇回目とサビヌスの執政官職(八四年)から、ドミティアヌス第一七回とクレメンスの執政官職(九五年)に至るまでのことだった。
2. 彼は、祝福されたペトルスの記念碑をmemoriam[サン・ピエトロ大聖堂地下から出土したカンポPの祠のことか]建設した、そして、彼は祝福されたペトルスによって司祭にされていた間にdum、あるいはseu 司教たちが安置されるべき他の諸々の埋葬場所を配置したconposuit。そこにさらにとはいえubi tamen et、彼自身も埋葬された、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、七月十三日に。
3. 彼は十二月に二回の叙階式で、五名の司祭、三人の助祭、様々な場所のため六名の司教(の叙階)を執り行った。そして司教職は十三日間空座だった。
第六章 エウァリストゥス EVARISTVS [c.100年]
1. エバリストゥスは生まれはギリシア人で、父はユダヤ名でユダス、ベツレヘム市出身でde ciuitate Bethleem、(司教座に)九年十か月二日着座した。それはまかくしてautem ドミティアヌスとネルウァ・トラヤヌスの諸時代(八一〜一一七年)、ウァレンスとウェトゥスの執政官職(九六年)からガルスとブラドゥアに(一〇八年)至るまでずっとusque ad だった。彼は殉教により花冠を受ける。
2. 彼は、首都ローマ内の諸々の名儀教会をtitulos 司祭たちに割り当て、そして七名の助祭たちを叙階した、彼らが真理の鉄筆のためにpropter stilum ueritatis 説教するpraedicantem 司教に近侍するためだった[司教の説教を速記するためだったのだろうか;それに以下に示される叙階助祭と数が異なっていることにも注目]。
3. 彼は十二月に三回の叙階式で、十七名の司祭、二人の助祭、様々な場所のため十五名の司教たち(の叙階)を執り行ったfecit。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum、一〇月二七日に埋葬された。そして司教職は十九日間空座だった。
第七章 アレクサンデル ALEXANDER [c.110年]
1.アレクサンデルは生まれはローマ人で、父はアレクサンデル、カプト・タウリ街区の出だったがde regione Caput tauri[教皇レオ八世作成の文書に、「雄牛の頭地区(ティブルティーナ門)」が明記されている]、(司教座に)一〇年七か月二日着座した。それはかくしてautem トラヤヌスの諸時代から(九八〜一一七年)へリアヌスHelianoとウェトゥスVetere(の執政官職の時:一一六年)に至るまでだった。
2.彼は主の受難を、諸ミサが行われる際の祭司たちのsacerdotum 説教praedicationeの中に、組み入れた。彼は殉教により花冠を受け、そして彼と共に司祭エウェンティウスEuentius と助祭テオドルスTheoldolus も(殉教した)。彼は、人々の諸住居内で(祝別する場合は)水を撒き塩で浄められるべきである、と定めたconstituit。
3.彼は十二月に三回の叙階式で、六名の司祭、二名の助祭、様々な場所のため五人の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はヌ[ノ]メンタナ街道uia Numentana に埋葬された。彼はそこで首をはねられたdecollatus est、首都ローマからさほど遠くない第七里程標で、五月三日のことだった。そして司教職は三十五日間空座だった。
第八章 クシュストゥス一世 XYSTVS I [c.120年]
1.クシュストゥスは、生まれはローマ人で、父はパストル、ラタ通り街区[上図のVII]出身でde regione Via Lata、一〇年二か月一日着座した。それはかくしてautem ハドリアヌスの諸時代(一一七〜一三八年)、ウェルスとアンニクルス(の執政官職:一二六年)に至るまでずっとのことだった。彼は殉教により花冠を受ける。
2.彼は、以下を定めたconstituit。諸々の聖具 ministeria sacrata は奉仕者たちministeris 以外によって触れられてはならない、と。彼は以下を定めたconstituit。使徒座へと召喚された司教たちは誰でも、自らの司教区へとparrociam 帰ることは、フォルマータforumata なる市民宛てのplebi 挨拶のsalutationis 使徒座の書状をlitteras 携えずには、受け入れがたいnon susciperetur、と。
3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十一名、助祭四名、様々な場所のため司教四名を執り行った。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum、四月三日に埋葬された。そして司教職は二ヶ月間空座だった。
4.彼は以下を定めたconstituit。(ミサの)司式中にintra actionem、それを始めている祭司はsacerdus、会衆にpolulo (以下の)聖歌を唱和させるように、と。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主」Sanctus,sanctus,sanctus,Dominus Deus Sabalot[序誦中の文言]、そしてなどなど。
第九章 テレスフォルス TELESPHORVS [c.130年]
1.テレスフォルスは、生まれはギリシア人、隠修士出身でex anachorita [=ἀναχωρητής ]、(司教座に)十一年三か月二十一日着座した。それはかくしてautem アントニヌスとマルクスの諸時代のことだった(一三八〜一八〇年)。
2.彼は、以下を定めたconstituit:復活祭前の七週間に断食が挙行され、そして主の御降誕ではnatalem Domini 夜間にnoctu ミサ聖祭missas が挙行されるように、と。というのもnam あらゆる時代において、誰も三時課[午前九時]より前にante horae tertiae cursum ミサ聖祭をmissas 挙行することを企図しなかったのだが、(それは)その時間に我らの主が十字架にお登りになったからでascendit、そしていけにえの前にante sacrificium 天使の讃歌hymnus angelicus[栄光頌(グロリア)のことか]、すなわちhoc est:「天のいと高きところに神に光栄あれ」Gloria in excelsis Deo が奉献されたdiceretur。彼は殉教により花冠を受けた。
3.彼は、まさにuero 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 一月二日に埋葬された。彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭八名、様々な場所のため司教十三名を(任命した)。そして司教職は七日間空座だった。
第十章 ヒギヌス YGINVS [c.140年]
1.ヒギヌスは、生まれはギリシア人、アテナエ出の哲学者の出で、彼の系譜は判明していない。(司教座)に四年三か月四日着座した。それはかくしてautem ウェルスとマルクスの諸時代(一六一〜一八〇年)、マグヌス[執政官表ではCanus Iunius Niger]とカメリヌスの執政官職(一三八年)からオルフィトゥスとプリスクス(一四九年)にいたるまでずっとだった[明らかに数字が合わない]。
2.彼は聖職(階級)をclerum 規定しconposuit、諸々の段階をgradus 割り当てたdistribuit。彼は、十二月に三回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十五名、助祭五名、様々な場所のため司教六名を(任命した)。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 一月十一日に埋葬された。そして司教職は三日間空座だった。
第十一章 ピウスPIVS [c.145年:写本によってはこの章と次の第十二章が入れ替わっているのもある由]
1. ピウスは、生まれはイタルス(イタリア)人で、父はルフィウス、バルトルの兄弟で、アクイレギア(アクイレイア)市の出身でde ciulitate Aquilegia、(司教座に)十九年四月三日、着座した。それはかくしてautem アントニヌス・ピウスの諸時代(一三八〜一六一年)、クラルスとセウェルスの執政官職(一四六年)からであった。
2.彼の司教下で、彼はヘルマスの書をHermis librum 書いたscripsit、その中で彼はひとつの命令をmandatum 保持しているが、それは、彼に主の天使(s.)が指示したpraecepit もので、それは天使が彼の所に羊飼いの服装でやってきて、そして彼に過越しの主日に[復活祭が]祝われるようにと指示したpraecepit からである。
3.彼は(以下を)定めたconstituit、ユダヤ人たちの異端からやってきた異端者(s.)が受け入れられ、そして洗礼を授けられるべし、と。そして教会に関する規定をconstitum (s.)発布したfecit。†[以下の第四節は写本によって挿入あり]
†4. 彼は、祝福されたプラクセデスの要請により、ひとつの教会をノウァトゥス浴場に奉納したdedicauit、それはパトリキウス通りにuico(cf., chap.III.1)あり、彼女の姉妹の聖ポテンティアナの名誉のため、そしてそこにubi et 彼(彼女?)は多くの寄進をdona 捧げた。彼はそこにubi より煩瑣にsepius 主に捧げる犠牲をsacrificium[ミサ聖祭のことか]奉仕したministrabat。そしてそれどころかinmo et 洗礼盤をfontem baptismi 組み立てさせてconstrui fecit、彼自身の両手でmanus suas 祝福しbenedixit そして聖別したconsecrauit。そして信仰のためにやって来た多くの人々を、三位一体の名において授洗した。
5. 彼は十二月に三回の叙階式で、十九名の司祭、二十一名の助祭、様々な場所のため数にしてnumero 十二名の司教たち(の叙階を)を執り行った。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 、七月十一日に埋葬された。そして司教職は十四日間空座だった。
第十二章 アニケトゥス ANICETVS[c.160年]
1.アニキトゥスAnicitus は、生まれはシルス(シリア)人で、父はヨハンネス、フミサ村uico Humisa[Emesaかもしれない;cf., 第一章第一節]出身で、(司教座に)十一年四か月三日、着座した。それはかくしてautem セウェルスとマルクスの諸時代(?〜一八〇年)、ガッリカヌスとウェトゥスの執政官職(一五〇年)からプラエセンスとルフィヌスに至るまでずっとであった(一五三年)。
2.彼は、聖職者はclerus 髪を手入れしてはいけないと定めたconstituit、使徒(s.)の指示にpraeceptum 従ってのことだった。彼は十二月に五回の叙階式で、十九名の司祭、四名の助祭、様々な場所のため数にしてnumero 九名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam 殉教者として逝去しobiit、そしてカリストゥスのCalisti 墓所にcymiterio 四月二十日に埋葬された。そして司教職は十七日間空席だった。
第十三章 ソテル SOTER [c.170年]
1.ソテルは、生まれはカンパニア人で、父はコンコルディウス、フンディ市出身でciuitate、(司教座に)九年四か月二十一日、着座した。それはかくしてautem セウェルス[正しくは、ルキウス・ウェルスか]の諸時代(一六一〜一六九年)、ルスティクスとアクイリヌスの執政官職(一六二年)からカテグスとクラルスに至るまで(一七〇年)ずっとであった。
2.彼は、いかなる修道士もmonachus 聖なる教会内で聖別された布に触れたり、香を焚いたりしてはならない、と定めたconstituit。
3.彼は十二月に三回の叙階式で、十八名の子細、九名の助祭、様々な場所のため数にしてnumero 十一名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam アッピア街道にあるカリストゥスの墓所に、四月二十二日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。
第十四章 エレウテリウス ELEVTHERIVS [c.180年]
1.エレウテルは、生まれはギリシア人で、父はハブンディウス、ニコポリスの町出身でde oppido、(司教座に)十五年三か月二日着座した。彼はかくしてautem アントニヌス(=マルクス)とコンモドゥスの諸時代(一六一〜一九二年)、パテルヌスとブラドゥスの執政官職(一八五年)に至るまでずっとだった。
ニコポリスは幾つもあるが、ギリシアの、となるとここだろう
2.彼は、ブリタニア人の王Britanio rege ルキウスから一通の書簡でepistula 、(それはルキウスが)彼(エレウテル)の命令によってmandatum キリスト教徒とされるように(という内容を)受け取った。そして彼は以下を再度iterum 確認したfirmauit、いかなる食物もキリスト教徒たちによって、特にmaxime 信心深い者たちによってfidelibus 退けられるべきではない、なぜなら神が創造したものであるから、それはさらにtamen 理にかなっておりrationalis、そして人間のためのものhumana だからである、と。
3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十二名、助祭八名、様々な場所のための数にして十五名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内にin Vaticano、五月二十四日に埋葬された。そして司教職は十五日間空座だった。
第十五章 ウィクトル VICTOR [c.195年]
1. ウィウトルは生まれはアフリカ人で、父はフェリクス、(司教座に)一〇年二か月一〇日間(着座した)。それはかくしてauem カエサル(=コンモドゥス)の諸時代(一八〇〜一九二年)、コンモディウスの二回目そしてグラウィオの執政官職(一八六年)からラテラヌスとルフィヌスに至るまで(一九七年)ずっとだった。
2. 彼は、聖復活祭が主日に祝われるように定めたconstituit:エレウテルと同様にsicut。彼は[ローマ教会で彼に]捧持する者たちをsequentes 牧者たちにcleros した。彼は殉教により花冠を受けた。そして彼は(以下を)定めたconstituit、必要とあらば、(洗礼用の水が)どこでubiubi 見つけられようとも、あるいはsiue 川において、あるいは海において、あるいは諸々の泉において、ただtantum キリスト教への信仰箇条の告白をconfessione credulitatis(=XVIII.3)明らかにすることにより、洗礼を受けたいと異教からやって来る者には誰でもquicumque(洗礼を授けていい)、と。
4a. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭四名、助祭七名、様々の場所のための司教十二名の(叙階を)執り行った。
3. 彼は、復活祭の周期についての聖職者たちのsacerdotum 問いに対し、[復活祭の主日であると]規定をおこなったfecit constitutum。それは、司祭たちpresbiteris そして司教たちとともに討議が行われ、そしてアレクサンドリア司教テオフィルスが召喚され、集会が行われた時のことだったが、その月の最初の月齢十四日から二十一日までの間の主日を、聖復活祭が遵守されるというものだった。
4b. 彼は祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)の中に七月二十八日に埋葬された。そして司教職は十二日間空座だった。
第十六章 ゼフィリヌス ZEPHYRINVS[198/199-217年]
1. ゼフィリヌスは、生まれはローマ人で、父はハブンディウス、(司教座に)八年七か月十日間(着座した)。それはかくしてautem アントニヌス(=コンモドゥス)とセウェルス(=カラカッラ)の諸時代(一八〇〜二一七年)、サトゥリヌスとガリエヌスかヌスの執政官職(後一九八年)からプラエセンテスとストリカトゥスの執政官職(二一七年)に至るまでずっとだった。
2. 彼は、すべての牧者たちclericus そして信心深い平信徒たちのいる前で、牧者もsiue clericus、祭司もsiue leuita、聖職者もsiue sacerdos 叙任されるよう定めたconstituit。そして彼は教会に関する規定をconstitutum ecclesia おこなった、そして諸々のガラス製の[聖餅を入れる]平皿patenas を聖職者たちの前でante sacerdotes 教会内で従者たちがministros が運び、司教が諸々のミサを挙行している間に、彼の前で聖職者がsacerdos 補佐しadstantes、このようにして諸々のミサが挙行されるべきである、と;司教の権限がjus ただtantum 関与する場合を除外して、牧者階級がclerus すべてを統轄すべく支えている;司教の手から、かの(平皿)聖別consecratio によりすでにiam 聖別された輪をconsecratam coronam[聖餅=ホスティアのこと] 司祭はpresbiter 受け取り、会衆にpolulo 渡すのである。
3. 彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十四名、助祭七名、様々な場所のために数にして十三名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam、彼の墓所にcymiterio 埋葬された。[それは]アッピア街道のカリストゥスの墓所の傍らでiuxta cymiuterium、八月二十五日のことだった。そして司教職は六日間空座だった。
第十七章 カリストゥス一世 CALISTUS I [217-222年]
1. カリストゥスは、生まれはローマ人で、父はドミティウス、ウルブス・ラウェンナンティウム街区の出身で de regione Urberauennantium[第十四街区のトラステウェレ内で、ラウェンナからの移住者居住にちなんだ地区か]、(司教座に)六年二か月十日間着座した。それはかくしてautem マクリヌスとテオドリオボッルスTheodoliobolli (=ヒエロガバルス)の諸時代(二一七〜二二二年)、アントニヌス(=ヒエロガバルス)とアレクサンデル(・セウェルス)の執政官職(二二二年)からであった。彼は殉教により花冠を受ける。
2. 彼は断食をieiunium 安息日(=日曜日のことか)にdie sabbati 年三回することを定めたconstituit、それは穀物、ワイン、そしてオイル(断ちのこと)で、予言に従ってのことだった。彼はバシリカをティウェレ川の向こう側に建設した[この聖堂はサンタマリア・イン・トラステウェレと思われる]。
3. 彼は十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十六名、助祭四名、様々な場所のため司教たち数にして八名の(叙階を)執り行った。
4. 彼はそのうえetiam アウレリア街道の第三里程標にあるカレポディウスの墓所の中にin cymiterio Calepodi 十月十四日に埋葬された。彼は別の墓所をアッピア街道に建設した、そこには多くの聖職者たちsacerdotes と殉教者たちが永眠している。そこはqui 今日に至るまでusque in hodiernum カリストゥスの墓所と呼ばれている。そして司教職は十六日間空座だった。
47がカレポディウス、31がプラエテクスタトゥス、32がカリストゥスの墓所
第十八章 ウルバヌス VRBANVS [222-230年]
1. ウルバヌスは、生まれはローマ人で、父はポンティアヌス、(司教座に)四年一〇か月十二日間着座した。
2. 彼はすべての諸々の聖具ministeria sacrata(=VIII.2)を銀となし、銀皿二十五枚を用意した。
3. 彼はそのうえetiam 明確に(信仰)告白者confessor で、(彼は)ディオクリティアヌスのDioclitiani 諸時代だった[ディオクレティアヌスの迫害期の告白者ウルバヌスとの混同による時代錯誤表記]。彼は彼の(教えの)授受によってsua traditione 多くの人々を改宗させたconuertit、洗礼と信仰箇条へと(導き)ad baptismum et credulitatem(= XV.2)、そのうえそしてetiam et 最も高貴な男性ウァレリアヌス、聖カエキリアの婚約者をも(洗礼に導いた)。彼らを彼はそのうえetiam 殉教の棕櫚へとpalmam 至るまでずっと導いた;そして彼の諸々の戒めによってper eius monita 多くの者たちが殉教により花冠を受けた。
4. 彼は五回の叙階式を十二月に、(ローマ教会の)司祭十九名、助祭七名、様々な場所のための司教たち数にして八名(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam アッピア街道にあるプラエテクスタトゥスの墓所[XVII.4参照]に埋葬された、彼を祝福されたティブルティウスが五月十九日に埋葬した。そして司教職は三十日間空座だった。
第十九章 ポンティアヌス PONTIANVS [230-235年]
1. ポンティアヌスは、生まれはローマ人で、父はカルプルニウス、(司教座に)九年五か月二日間着座した。彼は殉教により花冠を受けた。それはかくしてauem アレクサンデル(・セウェルス:在位二二二〜二三五年)の諸時代で、ポンペイアヌスとペリニアヌスの執政官職からであった(二三一年)。
2. 同じときに、司教ポンティアヌスと司祭ヒッポリュトゥスは、追放によりexilio 流刑に処されsunt deportati 、アレクサンデルによってサルディニア内のブキナ島に、セウェルスとクインティアヌスの執政官職時のことだった(二三五年)。同じ島の中で、痛めつけられた彼はadflictus、棍棒(pl.)で衰弱させられmaceratus、一〇月三〇日に亡くなった。そして彼の地位にアンテロスが十一月二十一日に叙階された。
3. 彼は十二月に二回の叙階式で、六名の司祭、五名の助祭、様々な場所のため数にして六名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼を祝福されたファビアヌスは一人の牧者と共にcum clero 船で運び、アッピア街道のカリストゥスの墓所の中に埋葬した。そして司教職は十日間空座だった。
左、カリストゥスのカタコンベ:L1が教皇が葬られたいわゆる「諸教皇のクリプト」で、右がたぶん発掘直後の様子
第二十章 アンテロス ANTEROS [235-236年]
1. アンテロスは生まれはギリシア人で、父はロムルス、(司教座に)十二年一か月十二日着座した。彼は殉教により花冠を受ける、(それは)マクシミヌスとアフリカヌスの執政官職の諸時代(二三六年)のことだった。
2. 彼は殉教者たちの諸事績を入念にdiligenter 書記たちからa notariis(= IV.2)探し求めた、そして教会内で、殉教により花冠を受けたとあるquodam マクシミヌスなる司祭(の墓の)の傍に保管する。
3. 彼は一人の司教をカンパニアの都市ciuitateフンディの中で十二月に(叙階)した。彼はまたetiam アッピア街道にあるカリストゥスの墓所の中に一月三日に埋葬された。そして彼は司教職をepiscopatum 十三日間空座にした。
左、「諸教皇のクリプト」出土のポンティアヌスの墓碑;右、アンテロスの墓碑:両方ともギリシャ語表記であることに注目
第二十一章 ファビアヌス FABIANVS[236-250年]
1. ファビアヌスは生まれはローマ人で、父はファビウス、(司教座に)十四年十一か月十一日着座し、殉教により花冠を受ける。それはかくしてマクシムスとアフリカヌス(が執政官職:二三六年)で、デキウス二回目そしてクアドラトゥス(が執政官職:二五〇年)に至るまでずっとの諸時代で、そして一月一九日に受難した。
2. 彼は、(帝都ローマ内の)諸地区を助祭たちに割り当て、そして副助祭七名に与えた、(それは)彼らが七名の書記たちに、彼らが殉教者たちの諸事績をもれなく忠実まとめるよう、心をくだくようにとしたことだった。そして多くの作業場を諸々の墓地のために造るように指示したpraecepit。
3. そして、彼の殉教のあと、司祭モイセスとマクシムス、そして助祭ニコストラトゥスが捕らえられconprehensi sunt、そして牢獄へと送られたmissi sunt。
4. 同時代に、ノウァトゥスがアフリカから到着し、そして教会からノウァティアヌスとある告白者たちを引き離した、それはモイセスが牢獄内で死に果てた後のことで、彼(モイセス)はそこにibi 十一か月いた。そしてこうしてsic 多くのキリスト教徒たちが逃亡した。
5. 彼は十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭二十二名、助祭七名、司教たちを様々な場所のため十一名、(叙階式を)執り行った。彼がまたetiam アッピア街道にあるカリストゥスの墓所の中に一月一九日に埋葬された。そして司教職は七日間空座だった。
第二十二章 コルネリウス CORNELIVS[251-253年]
1. コルネリウスは生まれはローマ人で、父はカスティヌス、(司教座に)二年二か月三日間着座した。彼は殉教により花冠を受ける。
2. 彼の司教職下で、ノウァトゥスはノウァティアヌスを教会(の了解)抜きで叙階した。そしてアフリカでニコストラトゥスを(叙階した)。このことが起こって、告白者たちが、彼らはモイセスと共にいた司祭マクシムスと共に自らコルネリウスから分離していたのであるが、教会へと復帰し、そして彼らは信心深い告白者たちとなった。
3. この後、司教コルネリウスは、ケントゥムチェッラエ(現在のCivitavecchia)に追い出されたpulsus est。そしてそこでibidem 彼の激励のために書かれ送られた一通の書簡をepistulam キプリアヌスから受け取った。それをキプリアヌスは牢獄の中で書いた。そして読師lecture ケレリヌスによって(もたらされたのである)。
4. 彼は、彼の諸時代において、ある既婚婦人ルチナによって懇請され、祝福された使徒たちペトルスとパウルスの遺骸を夜間にカタコンベから持ち去った。最初にprimum まさにquidem 祝福されたパウルスの遺骸が受け取られ、祝福されたルチナは(それを)オスティエンセ街道にある彼女の地所にpraedio suo 供えたposuit。それは(パウルスが)首をはねられたdecollatus est そこの場所の傍らでiuxta locum ubi。祝福されたペトルスの遺骸を祝福された司教コルネリウスは受け取り、そして(ペトルスが)磔にされた場所の傍らに供えた。彼(コルネリウス)は、聖なる司教たちの遺骸の間に、ネロの宮殿のアポロ神殿内、ウァティカヌス(丘)の中のアウレウスの丘の中に(埋葬された)[以下参照、第一章6]、六月二九日のことだった。
Tempio di Apolline=M、Monte Vaticao=R、Monte Auro=S(中央下の山裾部分)、Neroの宮殿は意味不明(おそらく競技場のことか)
参照:ピエトロ・ザンデル『バチカン サン・ピエトロ大聖堂下のネクロポリス』上智大学出版、2011年、pp.6-7.
5. この後、(コルネリウスは)夜間にケントゥムケラエへ歩いて行ったambulavit。同じ時に、デキウスは聞いた、彼(コルネリウス)について、カルタゴ司教の祝福されたキプリアヌスから一通の書簡をepistolam 受け取っていたことを。(デキウス)はケントゥムケラエに(使者を)送り、そして祝福された司教コルネリウスを(ローマへ)連行したexhibuit。彼がさらにtamen 自分(デキウス)の面前に来るように、と命じた。テッルスでTellure、夜間にパッラディスPalladis の神殿前で、と。彼へと(デキウスは)たいそう近づいて言う。「神々も、父祖たちの命令も顧みず、我らの脅しも怖れることなく、国家に敵対して書状をlitteras 受け取り、そして(そのように)導いたのはお前か」。司教コルネリウスは答えて、言う「私は主の花冠に関して書状をlitteras 受け取りましたが、国家に対してではなく、むしろmagis 諸々の魂の贖いへと(導いた)のです」。
6. そのときtunc、デキウスは怒りで満たされ、祝福されたコルネリウスの口を諸々の鉛玉のついた鞭で打つように命じ、そして彼をマルス神殿へと引っ立ててcaedi、そして(彼が)礼拝するように指示したpraecipit。だが、もしそのようにしなかったなら、斬首するぞcapite truncari と言って。このことはまた[かくして]autem 行われた。彼はそのうえetiam 前述の場所で首をはねられdecollatus、そして殉教が成し遂げられた。彼の遺骸を夜間に祝福されたルチナが集め、そしてカリストゥスの墓所の傍らの地下礼拝堂にcrypta 埋葬した、(その礼拝堂は)アッピア街道の彼女の地所にin praedio suo あった。九月十四日のことだった。そして司教職は六十六日間空座だった。
第二十三章 ルキウス LVCIVS [253-254年]
1. ルキウスは、生まれはローマ人で、父はプルフリウスで、(司教座に)三年三か月三日間(着座した)。彼は殉教により花冠を受ける。それはかくしてautem ガッルス(執政官職第二回目)とウォルシアヌス(が執政官職の年:二五二年)の諸時代から、ウァレリアヌス(執政官職)第三回目とガッリカヌス(Gellienusの誤記:二五五年)に至るまでずっとusque ad であった。
2. 彼は追放されたin exilio fuit;その後postea 神のご意向によってnutu Dei、無傷でincolumis 教会へと帰還したreuersus est。
3. 彼は、司祭二人と助祭三人はいかなる場所であっても司教を見放してはならない、と指示したpraecepit、それは聖教会の証言のためだったpropter testimonium ecclesiasticum。彼はまたetiam ウァレリアヌスによって三月五日に斬首されたcapite truncatus est。
4. 彼は(ローマの)全教会への権能を彼の助祭長archidiacono ステファヌスに与えた、彼(ルキウス)が受難へと進んでいる間に。
5. 彼は十二月に二回の叙階式で、四名の司祭、四名の助祭、様々な場所のため数にして七名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はまたetiam アッピア街道のカリストゥスの墓所に八月二十五日に埋葬された。そして司教職は三十五日間空座だった。
第二十四章 ステファヌス一世 STEPHANVS I[254-257年]
1. ステファヌスは、生まれはローマ人で、父はヨビウス、(司教座に)七年五か月二日間(着座した)。それはかくしてautem ウァレリアヌスとガッリカヌスとマクシムスの諸時代から[254年と、253ないし256年]ウァレリアヌス(執政官職)第三回目とガッリカヌス(執政官職)第二回目[255年:この章での年代表記は混乱している]に至るまでずっとであった。
†2. その諸時代に、彼は追放されたがexilio est deportatus、その後postea 神のご意向によって、教会へと無傷でincolomis 帰還した。そして三十四日目後に、彼はマクシミアヌスによって捕らえられtentus、牢獄へと送られたのだがmissus est、それは九名の司祭たち、二名の司教、ホノリウスとカストゥス[この両名はなぜか対格表示]、そして三名の助祭クシュストゥス、デイオニシウス、ガイウスを[ここでも対格表示]伴ってのことだった。ちょうどその時ibidem 彼は牢獄の中で、(そこは)ステラ門ad arcum Setllae そばだったが、(そこで)会議をsynodo おこない、そして教会のすべての用具についてuasa 彼の助祭長クシュストゥスに、権限を与えたばかりかuel、金庫についてもarcam pecuniae そうしたのだった。そしてその四日後に、彼自身は監視下でsub custodia 軟禁状態からsig 出ていってexiens、斬首されたcapite truncatus est[cf., XXII.6;XXIII.3]。
冒頭の地図2より:ここではステラ門は46に措定されている
†3. 彼は聖職者たちや祭司たちleuitas [XVI.2参照]が聖別された衣服(pl.)を日常的に使用して教会内以外で用いてはならないと、定めたconstituit。
4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭六名、助祭五名、様々な場所のために数にして三名の司教たちの(叙階を)執り行った。彼はまたetiam アッピア街道のカリストゥスの墓所に八月二日に埋葬された。そして司教職は二十二日間空座だった。
第二十五章 クシュストゥス二世 XYSTVS II [257-258年]
1. クシュストゥス(シクストゥス二世)は、生まれはギリシア人、哲学者の出で、(司教座に)一年一〇か月二十三日間(着座していた)。彼は殉教により花冠を受ける。それはかくしてautem ウァレリアヌスとデキウスの諸時代で、この(デキウスの)時代に最大の迫害があった。[ここでは奇妙なことに、在位二五三-二六〇年のウァレリアヌスと在位二四九-二五一年のデキウス(21.1に初出)を逆転して記述している]
2. 同時に、彼はウァレリアヌスによって捕らえられtentus、そして諸悪霊へ犠牲を捧げるべく連れて行かれたductus。彼はウァレリアヌスの諸指示をpraecepta 無視した;彼は斬首されcapite truncatus est、そして彼とともに他に六名の助祭たち、フェリキッシムスとアガピウス、ヤヌアリウス、マグヌス、ウィンチェンティウス、そしてステファヌスが八月六日に(斬首された)。そして司祭たちは、マクシムスとグラウィオの第二回目(の執政官職:二五六年だとすると、執政官職第二回目はマクシムスのほう)から、トゥスクスとバッスス(二五八年)に至るまで、トゥスクスとバッススの執政官職から七月二十日に至るまでずっと、(教会を)管理した。この時代に最も厳しい迫害がデキウス下で苦しめた[記述が再度デキウス時代にさかのぼっていて、不可解]。
3. そして祝福されたクシュストゥスの受難の後、一〇日後に、彼の助祭長、祝福されたラウレンティウスが八月一〇日に、そして副助祭クラウディウス、そして司祭セウェルス、そして読師lector クレシェンティウス、そして門番ロマヌスが(受難した)。
4. 彼は十二月に二回の叙階式で、司祭たち四名、助祭たち二名、様々な場所のために司教二名(の叙階式)を執り行った。彼はたしかにuero アッピア街道のカリストゥスの墓所に埋葬された。上記の六名の助祭たちはアッピア街道のプラエテクタトゥスの墓所[XVII.4掲載の地図参照]に埋葬された。また[かくして]autem 祝福されたラウレンティウスはウェラヌムの農地内in agrum Veranum のキュリアケスの墓所内に[上記地図参照:以下はその部分図]、他の殉教者たちとともに地下礼拝堂にcrypta[埋葬された]。そして司教職は三十五日間空座だった。
第二十六章 ディオニシウス DIONYSIVS [260/7/22-267/12/26]
1.ディオニシウスは修道士出身で、彼の系譜を我々は見つけていない。彼は(司教座に)六年二か月四日着座した。それはかくしてautem ガッリエヌスの諸時代、七月二十二日のエミリアヌスとバッススに執政官職(二五九年)から、クラウディウスとパテルニウスが執政官職の十二月二十六日までずっとだった。
2. 彼は司祭たちに諸教会をecclesias 委ね、そして教区の諸々の墓地と小教区をparrocias 定めたconstituit[各小教区所属墓地を確定したということだろう]。
3. 彼は、十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭六名、様々な地のために数にして八名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はまたetiam アッピア街道のカリストゥスの墓所内に十二月二十七日に埋葬された。そして司教職は五日間空座だった。
第二十七章 フェリクス FELIX [269-274年]
1. フェリクスは生まれはローマ人で、父はコンスタンティウスで、(司教座に)四年三か月二十五日着座した。彼は殉教により花冠を受ける。それはかくしてautem クラウディスとアウレリアヌスの諸時代、つまりクラウディウスとパテルニウスの執政官職(二六九年)からアウレリアヌスとカピトゥリヌスの執政官職(二七四年)までずっとだった。
2. 彼は、さらにsupra 殉教者たちの諸記念ミサをmemorias martyrum missas 挙行することを定めたconstituit。彼は、十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭九名、助祭五名、様々な地のために数にして五名の司教たち(の叙階)を執り行った。
3. 彼はアウレリア通りにひとつの聖堂をbasilicam 造り、そしてそこに五月三十日に埋葬された。それは首都ローマから二里程(の所)にあった。そして司教座は五日間空座であった。
第二十八章 エウティキアヌス EVTYCHIANVS [275-283年]
1. エウティキアヌスは生まれはトゥスキアで、父はマリヌスで、(司教座に)一年一か月一日着座した。それはかくしてアウレリアヌスの諸時代、アウレリアヌス三回目とマルケリヌスの執政官職(二七五年)からカルス二回目とカリヌスが執政官職(二八三年)の十二月十三日までずっとだった。彼は、祭壇上でsuper altare 聖別されるbenedici生産物はfruges(pl.) 豆とブドウに限るtantum fabae et uuae、と認めたconstituit。
2. 彼は彼の諸時代に様々な地の三四二人の殉教者たちを彼手ずから埋葬した。そして彼は以下を定めたconstituit、信者たちのうちだれでも(s.) quicumque de fidelium 殉教者を埋葬したとき、(華やかな)ダルマティカdalmaticam(助祭用の祭服:下図左)や、紫で染めたコロビウムをcolobium(希:κολόβιον=kolobion =short-sleeved tunic :下図右) 着せることなしに、理由なく埋葬していたら、そのことをさらにtamen 情報として彼(エウティキアヌス)に告知されるべきである、と。
3. 彼は、十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十四名、助祭五名、様々な地のために数にして九名の司教たち(の叙階)を執り行った。そして彼は殉教により花冠を受ける。彼はまたetiam アッピア街道のカリストゥスの墓所の中に七月二十五日に埋葬された。そして司教職は八日間空座だった。
第二十九章 ガイウス GAIVS [283-296年]
1. ガイウス、生まれはダルマティア人で、皇帝ディオクレティアヌスの一族の出で、父はガイウス、(司教座に)十一年四か月十二日間(着座した)。それはかくしてfuit autem、カリヌスの諸時代、十二月十七日、カルスの第二回執政官職)とカリヌス(283年)から、四月二十二日のディオクレティアヌス第4回(執政官職)とコンスタンティウス第二回目(296年)に至るまでずっとであった。
2. 彼は教会内のあらゆる諸位階をordines 以下のように上昇していくよう定めたconstituit :司教を受けるに値する者は誰でも、門番ostiarius、読師lector、祓魔師exorcista、侍祭sequens、副助祭subdiaconus、助祭diaconus、司祭presbiter となって、そして続いてexinde 司教が助祭されるべきである、と。
3. 彼は諸地区をregiones 助祭たちに分担させる。彼はディオクレティアヌスの迫害を逃れるため、諸々の地下礼拝堂内にin criptis 居住して、八年後に殉教により花冠を受ける。
4. 彼は十二月に四回の叙階式で、二十五名の司祭、八名の助祭、様々な場所のために五名の司教たち(の叙階)を執り行った。[彼は十一年後に、彼の兄弟ガビニウスと共に、司祭ガビウスのスザンナという名前の娘のために、殉教により花冠を受ける。]彼はたしかにuero、アッピア街道のカリストゥスの墓所内に四月二十二日に埋葬された。そして司教職は十一日間空座だった。
第三十章 マルケリッヌス MARCELLINVS [296-304年]
1. マルケリッヌスは、生まれはローマ人で、父はプロイェクトゥス、(司教座に)九年四か月十六日間(着座した)。それはかくしてfuit autem、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの諸時代、六月一日のディオクレティアヌスの執政官職第六回目とコンスタンティウス第二回目(296年)から、ディオクレティアヌスの第九回目とマクシミアヌスの第八回目(304年)に至るまでずっとであった。
2. その時代には以下のごとき大迫害がpersecutio magna あった。三十日間で一万七千名の男女がpromiscui sexus 様々な属州においてキリスト教徒たちとして、殉教により花冠を受けた。このことによって、そしてマルケリッヌス自身が、香を捧げるべく犠牲へと導かれductus est、それをやってしまった。
3. そして数日後に、改悛へと導かれpaenitentiam ductus、同じくディオクレティアヌスによってキリスト教信仰のために、クラウディウス、キュリヌス、アントニヌスと共に首を切り落とされcapite sunt truncati、そして彼らは殉教の花冠を受ける。
4. そしてそれが行われた後、聖なる諸遺体は路上にin platen キリスト教徒たちへの見せしめにexemplum 二十五日間、ディオクレティアヌスの布告によりiussu、放置されたiacuerunt。そして続いてexinde 司祭マルケッルスは、夜間に諸遺体を司祭たちや助祭たちと共に、諸々の賛美歌と共に集め、そしてサラリア街道にあるプリスキッラの墓所[冒頭地図1参照]の中に、今日もなおhodiedum ずっと公開されているクビクルムの中にin cubiculum 埋葬した。(それは彼が)殺害へと連れて行かれていたtraheretur 間に、改悛した彼自身が(そうするようにと)命じたとおり、聖クリスセンティオの遺体のすぐ近くの地下礼拝堂内にin crypta (司祭マルケッルスが埋葬した)、四月二十五日のことだった。彼は十二月に二回の叙階式で、四名の司祭、二名の助祭、様々な場所のために五名の司教たち(の叙階)を執り行った。その同じ日から、司教職は七年六か月二十五日間空座だった。ディオクレティアヌスがキリスト教徒たちを迫害したからである。
第三十一章 マルケッルス MARCELLVS [308-309年]
1. マルケッルスは生まれはローマ人で、父はベネディクトゥス、ラタ通り街区(出身)でregione 、(司教座に)五年七か月二十一日着座した。それはかくしてfuit autem マクセンティウスの諸時代、マクセンティウス第四回目そしてマクシムスの執政官職から(その)執政官職後までずっとだったusque post consulatum[この表現は意味不明]。
2. 彼はノヴェッラの墓所をサラリア街道に建設し、そして首都ローマ内に25の名義教会を定めたconstituit。(これらは)管区dioceses に準じるもので、異教徒たちから改宗させられる多くの人々の洗礼と改悛のために、そして殉教者たちの埋葬地のためである。彼は、首都ローマの司祭二十五名、そして助祭二名を十二月に叙階し、諸々の地のために二十一名の司教たちを叙階した。
3. 彼は閉じ込められcoartatus、そして捕らえられたtentus、教会を支配したordinaret という理由でeo、そしてマクセンティウスによって逮捕されたconprehensus。それは自身が司教であることを否定し、そして自身を悪霊たちの供犠へと卑しめられるためだった。というのも常にマクセンティウスの言葉や指図をpraecepta 軽蔑、嘲笑していたためで、catabulum[駅舎*]行きを言い渡された。彼は多くの日々にわたりカタブルム内で隷属している間にも、諸々の祈祷そして断食によって主に熱心に仕えることが途絶えることはなかった。
*https://romanchurches.fandom.com/wiki/San_Marcello_al_Corso:カタブルム (紀元前 1 世紀にアウグストゥスの下で建設された) は、ローマが建設し、維持した道路の複合体全体または公用馬車 cursus publicus の世話を目的としたオフィスを含む構造の複合体。 ローマから始まり、さまざまな地域や州につながるすべての道路、すべての馬の交換所、休憩を可能にするすべての農場、それらの道路に沿って建設され設立されたすべての町、この巨大で基本的な側面ローマの生活と政治は、サン・マルチェロ・アル・コルソ教会のほぼ下にあるヴィア・ラタ(今日の私たちにとってはヴィア・デル・コルソ)にある「オフィス」で管理されていた。
サン・マルチェロ・アル・コルソ教会
4. かくしてautem 九か月目に夜間に彼の聖職者全員がやって来て、そして彼をカタブルムから夜間に引っ張り出したeruerunt。ある既婚婦人、ルチナという名の未亡人が、彼女は彼女の夫と共に十五年間おり、そして未亡人状態で十八年過ごしたのであるが、祝福された人を引き受けた。彼女は自身の家を祝福されたマルケッルスの名のもとに、名義教会として奉納した。そこで彼女は昼夜を分かたず諸々の讃歌をそして祈祷によって主イエス・キリストに対して信仰告白していた。
5. このことを聞いて、マクセンティウスは(人を)送り、そして祝福されたマルケッルスを再逮捕し、そして命じた、同教会の中に、(囲いのための)外壁の板(pl.) そしてそこにibidem カタブルムの動物たち[たぶん馬やラバ]を集めておき、そしてそれらに対して祝福されたマルケッルスが熱心に仕えるように、と。彼はさらにautem 、山羊の毛で作られた衣服を裸でまとって動物たちの世話をしている時に(生命を)全うした[cf.,洗礼者ヨハネは「ラクダの毛衣」を着ていた(マルコ1.6;マタイ3.4)。彼の遺骸を祝福されたルチナが引き取り、そしてサラリア街道にあるプリスキッラの墓所に一月十六日に埋葬した。
6. そして司教座は二十日間空座だった。そして一方でvero ルチナは令状により有罪とされた。
第三十二章 エウセビウス EVSEBIVS [308年]
1. エウセビウスは、生まれはギリシア人で、医者出身、(司教座に)六年一か月三日着座した。それはかくしてfuit autem コンスタンスの諸時代であった[この時代表記は間違っている]。
2. 彼の諸時代において、主イエス・キリストの十字架が五月三日に発見され、そして(それを発見した)ユダスは洗礼を受けた。彼はまたキュプリアクス(という名)でもある[別説では、発見者はコンスタンティヌス大帝の母ヘレナ]。彼(エウセビウス)は異端者たちを首都ローマでみつけinuenit、彼らを手を上に置いて(=按手により)和解させた。
3. 彼は十二月に一回の叙階式で司祭十三名、助祭三名、様々な地のために十四名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam、アッピア街道のカリストゥスの墓所に十月二日に埋葬された。そして司教職は七日間空席だった。
第三十三章 ミルティアデス MILTIADES [年]
1. ミルティアデスは、生まれはアフェル(アフリカ)人で、(司教座に)四年七か月八日、マクセンティウスの九回目の執政官職の七月七日から、マクシムスの二回目(の執政官職)まで、それはウォルシアヌスとルフィヌスの執政官職の九月まで[C.Caeionius Rufus Volusianusは、執政官職にマクセンティウス帝下で311年、そしてコンスタンティヌス大帝下の314年に第二回目を拝命している]、ずっと着座した。
2. 彼は(主の受難の聖週間において)主の日dominico または木曜にquinta feria、断食を信徒たちのうち誰にとってもなんら行う理由はない、と定めたconstituit。なぜならば、それらの日々を異教徒たち(実際には過越祭でのユダヤ教徒と思われる)はあたかも聖なる断食として祝っていたからである。そして(同様に断食の習慣を持っていった)マニ教徒たちが首都でみつけられたinuenti sunt。同日からab eodemi die、彼は以下を認めたfecit、聖別された諸奉献物oblationes consecratas、それは諸教会のためにper ecclesias(ローマ)司教によって聖別されたものだが、それがあてがわれるべきであるdirigerentur、と。これは「種有りパン」fermentum として周知されている[共同体意識を高めるために、ローマ司教が配下の聖職者=献身者たち用にパンの配布を行った故事を示しているのだろう]。
3. 彼は十二月に一回の叙階式で司祭七名、助祭五名、様々な地のために数にして十一名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼は、アッピア街道のカリストゥスの墓所に十二月一〇日に埋葬された。そして司教職は一六日間空座だった。
第三十四章 シルウェステル SILVESTER 【314-335年】
1. シルウェステルは生まれはローマ人で、父はルフィヌスで、(司教座に)二十三年一〇月十一日間(着座した)。それはかくしてautem コンスタンティヌスとウォルシアヌスの諸時代、二月一日から、コンスタンティウスとウォルシアヌスの執政官職の一月一日に至るまでずっとであった。
2. 彼はセラクテン(シュラプティム)山に流刑となっていたが、そしてその後et postmodum、彼は戻って、栄誉とともにコンスタンティヌス正帝に洗礼を授けた。彼(コンスタンティヌス)を主が癩病から癒やし、彼はかの迫害を、流刑されたことで、始めからprimo 逃れえたことが知られている。
3. 彼は首都ローマの中でひとつの教会をとあるcuiusdam 司祭の地所の中にin praedium 建てた、その(司祭の)名前はエクイティウスであった。それを彼はローマの名義(教会)とtitulum 定めたconstituit。それはドミティアヌスの浴場*1)の傍らにあり、今日に至るまでずっとusque in hodiernum diem、エクイティウスの名義(教会)と呼ばれていて、そしてこのときubi et 彼は以下の諸寄進を定めたconstituit:銀製パテナ*2) 一皿、重さ20リブラ*3)、正帝コンスタンティヌスの寄進による。かくしてautem 彼が寄進した(のは以下のごとし):
銀製スキュフォス*4)、重さ各々一〇リブラ;
一客の金製カリックス(カリス)*5)、重さ二リブラ;
奉仕者ministerriales 用カリックス五客、重さ各々二リブラ;
銀製ハマ(手おけ)*6)、 二つ、重さ各々一〇リブラ;
銀製パテナ、一つ、金メッキ、塗油用、重さ五リブラ;
金メッキの銀製パテナ、一つ、塗油用、重さ五リブラ;
王冠状のファラ(シャンデリア)*7)、一〇個、重さ各々八リブラ;
銅製ファラ、二〇個、重さ各々一〇リブラ;
銅製蝋燭用カンターラ(燭台)*8)、一二個、重さ各々三〇リブラ;
ウァレリアヌス農場fundum、サビーニ地域territurio*9)、(年間)八〇ソリドゥスの収益;
スタティアヌス農場、サビーニ地域、(年間)五十五ソリドゥスの収益;
デュア・カーサ農場、サビーニ地域、(年間)四〇ソリドゥスの収益;
ぺルキリアヌス農場、サビーニ地域、(年間)二〇ソリドゥスの収益;
コルビアヌス農場、コラヌス地域、(年間)六〇ソリドゥスの収益;
一件の邸宅domum、首都内in urbe、風呂付きcum balneum、シチニヌス地区内にin Sicinini regione*10)、(年間)八十五ソリドゥスの収益;
庭園一か所、首都ローマ内部intra urbem Romam、アド・デュオ・アマンテス地区内にin regione、(年間)十五ソリドゥスの収益;
一件の邸宅、オルフェウス地区内、首都内部、(年間)八十五ソリドゥスと一トレミッシス*11)(三分の一ソリドゥス)の収益。
*1) 上記名義教会はそのトラヤヌス浴場公園のすぐ北にあったので、この浴場はトラヤヌスの浴場を意味していたのかもしれない。 ↓
*2) 平たく浅い皿で、ここではミサ聖祭で聖体をのせるために用いる聖体皿のこと。声帯が触れる内部表面は金メッキ加工されている。
*3) 古代ローマ時代の重量単位で、327.45g
**** ギリシアで取っ手が二つついた深めの本来は酒器だが、ミサ聖祭ではおそらく司祭が両手を洗うのに使用した。
*5)
*6)
*7)
*8)
*9)
*10)
*11)