月: 2022年2月

プーチンの”暴挙”を許したのは誰か

 こんなこと書くと、「お前はロシア側か」と言われかねない昨今のロシア叩きの横行だが、私の本意はそうではなくて、事実を解明したいだけなのだ。事実はいつも冷酷で救いがない。

 プーチン強権政治に飽きたロシアの国内政局でなにが起こっているのだろうか、素人の私は知るよしもないが、今般のプーチンのウクライナ侵攻は、マスコミ的な表面情報のみで理解することはできない気がする。とにかくこういう問題は一方が正義で他方が悪と割り切れるような単純な問題ではないし。なのに当初からアメリカ寄りで、一面的な情報ばかりがマスコミを占拠していて、これも情報操作には違いない。核攻撃まで臭わせるなんてのっぴきならない事情、裏が必ずあるはずなのだから、俗耳受けする人道主義を装ったフェイクニュースに踊らされてはなるまい。誰が、どこが得をするのか、という視点で見直すと、眞相が一番よくわかるはずで、これまで評判悪かった某大統領(たち)がこうなって一番喜んでいるのは歴然のように私には思える。

 お騒がせの田中宇氏が例のごとく一風変わった見解を展開しているので、興味ある人はご一読を。

 「バイデンがプーチンをウクライナ侵攻に導いた」https://tanakanews.com/220225ukraine.htm

 「ウクライナがアフガン化するかも」https://mail.nifty.com/mailer/pro/mailview.html

 デービッド・オーウェン元英外相「ベルリンの壁の崩壊後、ロシアに近接する小国にNATOを拡大することで我々は不要な危険を冒したと思う。ウクライナに対して、欧州連合(EU)には入れるがNATO加盟はしない方が良いと言うべきだったというのが、私の考えだ。」(https://mainichi.jp/articles/20220226/k00/00m/030/118000c)

 たしかに、事前にぴーちくぱーちく騒いでいた割になんら有効な手段を講じ得なかった米国大統領はいただけない(それともCIAのお家芸の陰謀がロシアに暴露されたのがきっかけだったのか、より積極的に挑発したためプーチンを刺激したのだろうか。ついでに言うと、ロシアへのエネルギー依存で腰砕けのEUだって同罪だ)。自国第一主義で軍備を拡張していたトランプ時代には手を出さなかったプーチンが、バイデンの弱腰外交を見透かして動いたとなると、アメリカの退潮に伴う力押しの列強政治の顕在化(多極化)はこのところそれでなくとも顕著なので(さらに奇しくも両者は2024年の再選問題も抱えている)、これがすんなり成功するとなると、アフガン然りウクライナ然りというわけで、いずれは台湾、韓国、日本然りとなりはしないか。その可能性は十分すぎるくらいありえるように思える。

 ところで以下の図は、勝股秀通氏が『Wedge』2021/11月号に掲載したもので、なんでも氏が2005年に北京市内の政府系研究機関で見せられた地図を再現したものの由で、ちなみに「2050年極東マップ」と書かれていたとのこと。そこにはすでに独立国日本も韓国も存在しない。台湾ももちろん同様のはずだ。そして私が思うに、今のような調子だと、中国第56-8番目の少数民族に認定されるまであと23年もかからないような気がしてならないのだが、どうだろう。

私的には、北海道はロシアの属領になっていると思う。

【追記】以下で見つけた小話。   https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20220131/pol/00m/010/018 000c  

 ウクライナ人親子の会話。  

「パパ、僕たちウクライナ人とロシア人は本当に兄弟なの?」  

「そうだよ」  

「でも仲悪いよ」  

「兄弟はどんなに仲が悪くても離れられない。でも西欧や米国は友人だ。彼らは都合が悪くなれば、すぐに離れていく」

【追記2】ようやくロシアに沿った状況説明が出だした。マスコミはアメリカ側の一方的情報をきちんと調査もせず鵜吞みにして垂れ流している。アメリカが流布したイラン大量破壊兵器のフェイク情報をまったく忘れてしまったようで、日本のマスメディアの劣化を憂えざるをえない。

的場昭弘「ロシアとウクライナが「こじれた」複雑すぎる経緯」(https://toyokeizai.net/articles/-/514936)

福田恵介「プーチン大統領がもくろむ「世界秩序」の変更」(https://toyokeizai.net/articles/-/534860

佐藤優「ウクライナ侵攻を正当化するロシアの「現実主義」」(https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20220227/pol/00m/010/010000c?cx_fm=mailpol&cx_ml=article&cx_mdate=20220306)

「「プーチン悪玉論」で済ませていいのか 伊勢崎賢治さんの知見」(https://mainichi.jp/articles/20220304/k00/00m/040/254000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20220305

田中宇「優勢なロシア、行き詰まる米欧、多極化する世界 」(https://tanakanews.com/220309russia.htm

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世界キリスト教情報第1622信:2021/2/21:ミュンヘン枢機卿、独身制廃止訴え

=目 次=

▼バチカン教理省が組織再編、各担当責任者を置く2部門構成に
▼教皇自発教令:教皇庁のいくつかの権能を地方教会の司教らに移管
▼教皇、東方教会省の関係者と会見で「人類の戦争への執着は恥ずべきこと」
▼ミュンヘン大司教区のマルクス枢機卿、独身制の廃止訴え
▼香港、コロナ急拡大で行政長官選挙をことし5月に延期

 今回は、カトリック教会の懸案の第二の問題、司祭独身制について。

◎ミュンヘン大司教区のマルクス枢機卿、独身制の廃止訴え

【CJC】独カトリック教会ミュンヘン大司教区のラインハルト・マルクス枢機卿(68)が南ドイツ新聞(SDZ)2月3日付電子版とのインタビューで、「聖職者の強制的な独身制は廃止すべきだ。セクシュアリティーは人間性の一部であり、決して過ぎ去るものではない」と指摘した。聖職者に婚姻するか独身でいるかの選択権があるべきだという。

 マルクス枢機卿は、教皇フランシスコを支える枢機卿顧問評議会メンバー(現在7人構成)の1人。

 同枢機卿は、2019年10月の「アマゾン周辺地域のための特別シノドス」で、既婚の聖職者について、「聖職者が不足している地域での独身制の撤廃は想像できる」と語っていたが、今回のように「婚姻に対する聖職者の選択権」まで踏み込んだ発言は初めて。

 背景には、1月20日に公表されたミュンヘン・フライジンク司教区の聖職者の未成年者への性的虐待報告書とも関連しているようだ。同枢機卿は「聖職者の独身制」と未成年者への「性的虐待問題」との関連については、「関連があると一般的には答えられない。ただ、独身制と男性だけの世界に引かれる人々がいることは事実だ」と説明するのに留めている。□

 私の個人的意見としては、修道士・修道女は独身であっても、教区司祭はそうでなくてもいいのではと思っているが、それはそれで、第一の宿痾、聖職者の幼児性愛・同性愛問題とは別の諸問題をしょうじさせるのでは、と思わざるをえない。
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オリンピックは所詮「パンとサーカス」

 世間的にはようやくテレビ関係が平壌、もとえ平常に復帰するのでめでたいことだ。私はほとんどみることなかった。

 冬期に限っても全米での視聴者が前回の半数だったようで、まあ冬期にメダルを期待できないアメリカンの事情もあるだろうが、それにしてもオリンピック離れが顕著である。

 それというのもあまりにもカネがらみや政治がらみが目につくようになったからで、これまでもいかに建て前のオリンピック憲章とはいえ、最近はあまりにひどいなと思わざるをえないわけ。

 これでは古代ローマの愚民慰撫政策「パンとサーカス」的な意味でも凋落傾向といえると思う。といっても「パン」のほうは、我ら愚民にではなく、選手やIOCやバッハ会長たちの懐に入るわけだから、我ら愚民はしらけちゃうわけだ。その意味でも賞味期限切れの感アルべし。

 ところで、私は一週間前に第三回接種してから体調がおかしくなっているが、諸般の事情で無理を押して帰省する。さて無事に終わることできるかな。

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世界キリスト教情報第1621信:2022/2/14:前教皇、ミュンヘン問題で書簡

=目 次=

▼教皇、2025年の聖年の開催を告げる書簡
▼教皇「真福八端はイエスの弟子のアイデンティティー」
▼教皇ビデオ・メッセージ=「人身取引は暴力、人類に刻まれた深い傷」
▼ベネディクト16世が独ミュンヘン教区での虐待報告書めぐり書簡
▼学校資金を横領した米修道女に禁錮1年1日
▼ミャンマー=クーデターから1年、デモ参加者を傷つけないよう警官に懇願した修道女
▼米国の水泳大会で12歳の女子選手がBLMの水着であわや失格に
▼国際人権団体アムネスティがイスラエル批判

 今回は前教皇の件を転載する。

◎ベネディクト16世が独ミュンヘン教区での虐待報告書めぐり書簡
【CJC】名誉教皇ベネディクト16世は、ドイツのミュンヘン・フライジング大司教区における聖職者たちによる未成年者虐待問題への歴代大司教の管理対応をめぐる報告書を受け、羞恥と苦しみを表すと共に誠実に赦しを願う書簡を発表した。報告書には、戦後から現代までの同教区の歴代大司教たちの同問題への管理対応がまとめられている。バチカン・ニュースが2月8日報じた。

 かつて約5年にわたりミュンヘン・フライジング大司教区の大司教を務めた名誉教皇ベネディクト16世は、この報告書を受け、同大司教区の信者たちに宛て自ら書簡を発表した。名誉教皇は悔悛の念に満ちたこの書簡を通し、ご自身の思いを「告解」しつつ、「自分が役職にあった特定の場所、時代において明らかになった虐待事件と過ちに対する苦しみ」を表明した。

 ベネディクト16世は、聖職者たちによる虐待の被害者らと面会し、対話した時のことを思い起こし、「多くの司牧訪問時をはじめ、聖職者による虐待の被害者の方々とのすべての面会において、わたしは一つの重大な罪がもたらす結果を目の当たりにすることになった。そして、わたしたち自身も、しばしば起こりうるように、成り行きにまかせ、それをおろそかにしたり、必要な決断と責任をもって対応しない時に、この重大な罪に引き込まれることを学んだ」と書いている。

 そして、「これらの面会でそうであったように、性的虐待のすべての被害者の方々に対し、わたしは改めて深く恥じ入ると共に、大きな悲しみを表明し、誠実に赦しを乞うことしかできない。わたしはカトリック教会において大きな責任を負っていた。自分が役職にあった特定の場所、時代において明らかになった虐待事件と過ちを前に、その苦しみはさらに深いものである。一つひとつの性的虐待事件は恐ろしいものであり、もとには戻らないものである。性的虐待の被害者の方々の苦しみに心から寄り添いたいと思うと共に、その一つひとつの件のために後悔している」と述べている。

 ベネディクト16世は、書簡の終わりに次のように記している。「もうすぐわたしは人生の最後の審判の前に立つことになるだろう。わたしの長い人生を振り返る時、恐れを抱くような理由がもしたくさんあったとしても、わたしの魂は喜びのうちにあるだろう。それは、主に固く信頼しているためである。主は正しい裁判官であるだけでなく、同時に友、また兄弟であり、わたしの足りなさのためにすでにご自身が苦しまれた。主はわたしの裁判官であると同時に、弁護者(パラクリトス)である。裁きの時を前に、キリスト者であることの恵みをこれほどまでにはっきりと感じる。キリスト者であることは、わたしに自覚と、それ以上に、わたしの裁判官である方との友情を与え、死の暗い扉を信頼をもってくぐることを認めてくれるのである」。□
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とにかく陰性、ということで

 孫が熱出したので、妻が病院で検査させたら孫は陽性で、妻は一緒に食事してたりしたのだが陰性だった。それでも妻は濃厚接触者となり、1週間ほど様子見となり、自宅待機。

 それで私はどうなのかと思っていたが、検査キットが通販で売りに出されることを知り、2000円台で5本と手軽な値段だったので注文したら、意外に早く翌日届いたのでさっそく実験。

 不慣れだったが、まあやってみたら陰性だった。一週間後に広島に里帰りの予定なので、その時また検査してみるつもりだ。

 妻も、こっちは病院でちゃんと検査して陰性だった。彼女の話によると、練馬区の方針とかで孫はとにかく所定の日数自宅待機したら、再検査なしで登学オッケーの由。

【追記】日曜に3回目のワクチン接種。これで大手を振って1週間後に帰省できる、かな。

【追記2】月曜になって、前回同様の筋肉痛がでてきたのは想定内として、夜になって体がだるく気力が湧かないので、妻が非接触の体温計で測ってくれたら37度5分あった。これでは寝るしかない。

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コンスタンティヌス家3代の貨幣入手

 私は現役の後半にはCNGのオークションに参加してきたのだが、それ以前にはときどきAgoraでもやっていたので、今でもむこうからオークションの連絡がある。リタイアしてからはいって見ることもなかったが、今回はどういうものか出品を眺めたのである。そしたら以下の連番の3点が眼にとまった。いずれもそう高価ではなかったし、競争になったら降りればいいと気楽に最低価格で入札した。なんとそれがそのまんま入札終了となった。それが以下である。

 いずれも打刻場所は上パンノニア(現クロアチア)のSiscia造幣所、打刻時期もいずれもコンスタンティヌス大帝時代に属する317-318年と大帝晩年の334-335年にあたるが、となると、317-318年のほうはリキニウス統治時代となる。これらは、大帝(272?-:在位306−337)と父コンスタンティウス1世・クロルス(250?-:在位293-306)、そして大帝が祖先としたとされるクラウディウス・ゴティクス(214?-:在位268-270)を表面に打刻しているので、コンスタンティヌス朝の始祖(伝説上にしろ:SHA, v. Claud. 13.1-3)を含めての3名の揃い踏みなので(但し大帝のコインの表面の像はコンスタンティノポリスであって大帝ではない)、つい (^^ゞ。

 伝説時代を含めて、コンスタンティヌス王朝の男系はユリアヌス(331?-:在位360?-363)までの約100年間で絶える運命を辿る。

 さてこのコインたち、送料・手数料込みで約175ドルの請求がきた。リタイアした年金生活者はもうこういう所有欲は断捨離しないといけないのだが・・・。

151                          152          
153

151:コンスタンティノポリス創建記念BI 半centenionalis貨幣:表面刻文は「CONSTAN-TINOPOLIS」、左向きのコンスタンティノポリス、月桂冠型ヘルメットと皇帝式服着用、左肩背後に例の十字型帝笏;裏面は左を向いたウィクトリア女神、右脚を戦艦船首の上に置き、右手に長めの帝笏を携え、左手を楯に添え、下刻銘部に「BSIS」=シスキア造幣所第二工房

152:コンスタンティウス・クロルス死後記念BI半follis貨幣:表面刻文「DIVO CONSTANTIO PIO PRINCIPI」(神君コンスタンティウス・元首に)、頭部をヴェールで覆い月桂冠で押さえたコンスタンティウスの右向き;裏面刻文「REQVIES OPTOMORVM MERITORVM」(最良の諸善行の安息)、皇帝が左を向いて高官椅子に座し、右手を挙げ、左手に帝笏、下刻銘部に「SIS」

153:神君クラウディウス・ゴティックス死後記念BI半follis貨幣:表面刻文「DIVO CLAVDIO OPTIMO IMP」(神君クラウディウス・最高軍司令官に)、頭部をヴェールで覆い月桂冠で押さえたクラウディウスの右向き;裏面刻文「REQVIES OPTIMO-RVM MERITORVM」、高官椅子に左向きで座した皇帝は、右手を挙げ、左手に帝笏、下刻銘部に「SIS」

【付論】今日連絡あったCNG(http://www.cngcoins.com/)に、なんと8枚ほど151と同様の貨幣が出品されているが(LOT838-845)、うち1枚はTrier造幣所打刻で、できばえもコンスタンティノポリスと比べるとかなり劣る(私だったら偽造と判定する)。また、まさしく同じシスキア造幣所第二工房打刻とされているLOT841(Æ Follis)ではあるが、我らの151とは印象がかなり異なっていて(当然材質も)、これだと私の食指は動かない。あとの6枚はいずれも「Contemporay imitation (hybrid)」とされている。

LOT841

 これらのうちLOT841以外はいずれも1989年にイギリスのNether Compton (Dorset) で発見された22670枚の退蔵貨幣の一部で、1994年に競売に付されて散逸したものらしい(そのせいか、出品者評価よりもかなり高めの値がついていたりする)。最終日まで13日間あるので、興味ある向きはご覧いただきたい。cf.,https://www.bacas.org.uk/wp-content/uploads/2017/08/NComprint.pdf

発見状況

 個人的興味としてはこの退蔵中どれほどがイミテーション貨幣で占められていたかであるが、もはやせんない妄想かもしれない。

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『ローマ教皇列伝』Liber Pontificalis解読

 この基本史料に邦訳あっていいのでは、というのが私の動機なのだが、本日から初期中世ラテンに疎い5名で読みはじめたが、えてしてそういうものだが、初っぱなから大苦難の様相である。どなたか助っ人お願いできればと切望しておりますので、お声を上げていただければ幸甚です。

 隔週火曜日、午後18:30より90分程度。Zoomでやっています。次回は5/31、といった感じ。連絡先:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

使用ラテン語底本:一応MGHを底本とするが、読解には便利なので以下のThe Latin LibraryのDIGITAL版を使用しています。

 https://www.thelatinlibrary.com/liberpontificalis1.html

 Th.Mommsen, Liber Pontificalis ,Pars Prior, MGH, Gesta Pontificvm Romanorvm, vol.1, Berlin, 1898.

 Louis Duchesne, Le Liber pontificalis, tom.1, Paris, 1886(https://books.google.co.jp/books/about/Le_Liber_pontificalis.html?id=_gAXCJUWI0UC&redir_esc=y)

翻訳:

Louise Ropes Loomis, The Book of the Popes, New York, 1916(https://books.google.co.jp/books/about/The_Book_of_the_Popes.html?id=Q3CxAAAAMAAJ&redir_esc=y)

 Raymond Davis, The Book of Pontiffs, Liverpool UP, revised third edition, 2010.

 Nathalie Desgrugillers, Liber Pontificalis 1.Des Origines au pontificat de Sylvestre (30-355), L’Éncyclopédie médiévale, 2012:発注中

参照辞書

 de Daremberg et Saglio, Le Dictionnaire des Antiquités Grecques et Romaines, Paris, Hachette, 1877-1919(http://dagr.univ-tlse2.fr/)

Hrsg. von Engelbert Kirschbaum SJ, Lexikon der christlichen Ikonographie, 8 vols., Rom/Freiburg/Basel/Wien, Herder, 1968-1976 (https://archive.org/details/lexikon-der-christlichen-ikonographie-3/Lexikon%20der%20christlichen%20Ikonographie%201/)

 Mediae Latinitatis lexicon minus, Leiden, 1984.

文法書

 國原吉之助『新版中世ラテン文法』大学書林、2007.

 初回90分で、ろくに読解できなかったが、それにしても格変化とかで問題山積みなのである。

 なお、現在教皇へのカトリック的な一般的敬称表記は「聖下」がよく使われているが、ここでは試しに伝統的な「猊下」としてみた。またbeatusは現在では、「聖人」sanctusと差別化して「福者」と訳されるが、ここではあえて冗長ながら「祝福された」と訳した。

地図:

 上記R.Davisの末尾に掲載されているものを二点転載しておく。

地図1

地図2

ーーー

献辞 

 至福なるbeatissimo 教皇ダマスス(猊下)に、ヒエロニムスが(献じます)。

 猊下の聖性の栄光に鑑み、我ら謹んで次のごとく哀願いたします。我らが猊下の聖性のおかげで司られることを知ったところの使徒座のapostolicae sedis(権威)に基づき、これに対し深く頭を垂れてhoc curui、我らは祈ります、祝福されたbeati 使徒ペトルスの首位権の(時代)から、猊下の(使徒)座の中で行われた猊下たちの諸時代までずっとusque ad 諸事績を、平和の秩序のために、我らに詳述するのを猊下が決心させられますように、と。我ら謹んで、上述の聖座sanctae sedis の諸司教のうち誰が殉教の冠を得たか、それどころかuel 誰が諸使徒の諸規範に反して逸脱したかさえ知られているのかを、思量することを知る限りにおいて、我らのために祈りたまえ、至福なるbeatissimae 教皇(猊下)よ。

 首都ローマ司教ダマススが、司祭ヒエロニムスに(与う)。

 貴下の(知識の)泉によって満たされた教会は喜び、そしてより多く、諸々の時代の祭司職のsacerdotalis 好奇心は以下を渇望するものである、すなわち、何が価値あるものかが知られ、そして何が無価値であるので退けられるべきかを。さらにtamen 何がなされるのか、我らがみつけえたものが何かを、我らの(聖)座のsedis 研究を、汝の隣人愛において享受することを、我らは(これまでも)導いてきたのである。我らのために(キリストの)聖なる復活のゆえに祈りたまえ、兄弟よ、同僚司祭よ。ご機嫌ようVale、我らの主、神、キリストにおいて。五月二十三日に与う。十月二十六日に受領、ローマからヒエロソリマに送付(書簡)。

 

第一章 ペトルス PETRVS [- 64/67年]

 1. 祝福されたbeatus ペトルス、使徒にして使徒たちの筆頭者princeps、アンティオキアの人、ヨアンネスの息子、ガリラヤ属州のベトサイダ村vico(出身)で、アンドレアの兄弟が、最初primum アンティオキア内で司教のカテドラにcathedram 七年の間着座したsedit。このペトルスは帝都ローマに皇帝ネロの時に入って、そこでibique 司教のカテドラにcathedram 二十五年二月三日間着座したsedit。それはかくしてfuit autem 皇帝ティベリウスの、そしてガイウスの、そしてティベリウス・クラウディウスの、そしてネロの諸時代である(後一四-六八年)。

 2. 彼は、二つの書簡をepistulas 書いた、それらは公同catholicae(書簡)と呼ばれている、そしてマルクス(マルコ)の福音書を(書いた)。なぜならマルクスは彼(ペトルス)の聴聞者auditor であった、そして受洗によって(ペトルスの)息子だったので、その後post (マルクスの福音書は)四福音書すべての源泉で、それらが吟味されたad interrogationemとき、そして彼の証言によってtestimonio、それはペトルスのそれであり、あるものはギリシア語、あるものはヘブライ語、あるものはラテン語で表明されていてもconsonent、さらにtamen それらは彼の証言によってtestimonium 立証されたのであるsunt firmatae。

 3. 彼は、二人の司教、リヌスとクレトゥスを叙階したordinauit。彼らは自らあらゆる祭司的奉仕をministerium sacerdotale 首都ローマで会衆populoや、それどころかuel やって来た人々にさえ示したexhiberent。また[かくして]autem 祝福されたペトルスは祈祷や説教を会衆に対して教育すべく専念した。

 4. 彼が、会衆の前のみならず皇帝ネロの前でも同様に、魔術師シモンと多くの議論を持ったとき、すなわちut 彼らを祝福されたペトルスがキリスト教信仰に集めadgregabat、後者(魔術師シモン)が魔術と欺瞞をもって散らしたのでsegregabat、そして彼らはかなり長くdiutius 討論したが、シモンは神のご意向でdiuino nutu 殺された。

 5. 彼は、祝福された司教クレメンスを聖別したconsecravit。かつまた-que 彼にカテドラをcathedram、それどころかuel 教会をecclesiam さえすべて管理させるべくdisponendam 委ねてcommisit、言う:私に舵を取り、結びかつまた-que 解く権能がpotestas 我が主イエス・キリストによって授与されているのでsicut、そして私は汝に委ねるcommitto、種々のことどもの管理人たちをdispositores 叙階するordians ことを、彼らにより聖教会の活動はactus ecclesiasticus 達成され、そして汝は少しも世俗の諸々の世話にin curis saeculi 気をとられないように、むしろただsed solummodo 祈祷のためだけに、そして会衆に説教するために自由であるべく専念せよ、と。

  6.  この管理のdispositionem 後に、彼は殉教によりパウルスとともに花冠を受けるcoronatur、(それは)主の受難の後三十八年に(あたった)。彼はアウレリア街道でアポロ神殿内に埋葬された、(それは)磔刑にされた場所の近くで、ネロの宮殿の近くで、ウァティカヌス丘の内へと、凱旋(街道)地区の近くで、六月二九日に[参照、XXII.4]。彼は、十二月における諸叙階式でordinationes、司教を三名、司祭を一〇名、助祭を七名(の叙階を)執り行ったfecit。

第二章 リヌス LINVS [c.70年]

 1. リヌスは、生まれはnationeトゥスキア[エトルリア]地方regionis Tusciaeのイタルス(イタリキ=イタリア)人Italusで、父はヘルクラヌスHerculano、(司教座に)十一年三か月十二日間着座した。それはかくしてautem ネロの諸時代(五四-六八年)、Saturninus とScipioの執政官職(後五六年)からCapitoとRufusが執政官職(後六七年)に至るまでずっとでusque ad、殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は、祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、女性は聖堂内ではin ecclesia 頭部をヴェールで覆って入るべしと規定したconstituit。彼は、二回の叙階式で、司教十五名、司祭十八名(の叙階)を執り行ったfecit。彼は、祝福されたペトルスの遺骸の傍らにiuxta corpus beati Petri、ウァティカヌス(の丘)の中にin Vaticano、九月二十三日に埋葬された。

第三章 クレトゥス CLETVS [Anencletus, c.85年]

 1. クレトゥスは、生まれはローマ人で、パトリキウス街 vico Patricii 出身で、父はアエミリアヌスAemiliano、(司教座に)十二年一ヶ月十一日。それはかくしてautem ウェスパシアヌスとティトゥスの諸時代(六九 〜八一年)、ウェスパシアヌス七回目とドミティアヌス五回目の執政官職(七七年)からドミティアヌス九回目とルフスが執政官職(八三年)に至るまでずっとusque ad だった。(彼は)殉教により花冠を受ける。

黄色の矢印間がVicus Patricius:現在のサンタマリア・マッジョーレ聖堂の西南にあたる

 2. 彼は祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、司祭二十五名を首都ローマでurbe Roma 叙階したordinauit。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 四月二六日に埋葬された。そして司教職は二〇日間空座だった。

第四章 クレメンス一世  CLEMENS I [c.95年]

 1. クレメンスは生まれはローマ人で、ケリオモンティウム(=Caelimontium、下図の第二) 街区でregione(出身)、父はファウスティヌス、(司教座に)九年二月一〇日間着座した。

それはかくしてautem ガルバとウェスパシアヌスの諸時代に(六八〜七九年)、トラカルスとイタリクスの執政官職(六八年)からウェスパシアヌス第九回目とティトゥス[第七回目執政官職](七九年)に至るまでずっとusque adだった。彼はその間dum 多くの書物をlibros キリスト教の信仰の熱意により書き記したが、殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は(帝都ローマに)七つの街区をregiones 作り、教会に忠実な書記たちをnotariis 割り当てた。彼は殉教者たちの諸事績に細心かつ好奇心をもっていたからで、かつまた-que 各々(の書記)が自身の街区についてregionem、入念にdiligenter 問い質すようにそうしたのである。

 3. 彼は二通の書簡をepistulas 書いた。それらは公同catholicae(書簡)と呼ばれている。彼は祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、教会の司牧職をpontificatum 舵取りすべく授かった。ちょうどsicut 彼(ペトルス)に主イエス・キリストからカテドラが託されていた、もしくはuel 委ねられていたごとく。さらにtamen ヤコブに対して書かれた書簡の中でin epistula、等しくqualiter 彼に祝福されたペトルスによって教会が委ねられたことをあなたはみつけ出すであろう。それゆえにideo そのためにpropterea リヌスとクレトゥスが彼(クレメンス)以前に登録されており、こうしてeo 使徒たちの筆頭者である彼自身から、交付さるべき祭司的な職務へとad ministerium sacerdotale、司教たちは叙階されているのである。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭一〇名、助祭二名、様々な場所のため司教一五名(の叙階)を執り行ったfecit。彼は殉教者としてトラヤヌスの(執政官職)三回目に逝去した(後一〇〇年)。そのうえetiam 彼はギリシア人たち(の地)に十一月二四日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。

第五章 アナクレトゥス ANACLETVS [第三章と同一]

 1. アナクレトゥスは、生まれはギリシア人、アテナエ(出身)で、父はアンティオクス、(司教座に)九年二か月一〇日着座した。それはかくしてautem ドミティアヌスの諸時代に(八一〜九六年)、ドミティアヌス第一〇回目とサビヌスの執政官職(八四年)から、ドミティアヌス第一七回とクレメンスの執政官職(九五年)に至るまでのことだった。

2. 彼は、祝福されたペトルスの記念碑をmemoriam[サン・ピエトロ大聖堂地下から出土したカンポPの祠のことか]建設した、そして、彼は祝福されたペトルスによって司祭にされていた間にdum、あるいはseu 司教たちが安置されるべき他の諸々の埋葬場所を配置したconposuit。そこにさらにとはいえubi tamen et、彼自身も埋葬された、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、七月十三日に。

3. 彼は十二月に二回の叙階式で、五名の司祭、三人の助祭、様々な場所のため六名の司教(の叙階)を執り行った。そして司教職は十三日間空座だった。

第六章 エウァリストゥス EVARISTVS [c.100年]

 1. エバリストゥスは生まれはギリシア人で、父はユダヤ名でユダス、ベツレヘム市出身でde ciuitate Bethleem、(司教座に)九年十か月二日着座した。それはまかくしてautem ドミティアヌスとネルウァ・トラヤヌスの諸時代(八一〜一一七年)、ウァレンスとウェトゥスの執政官職(九六年)からガルスとブラドゥアに(一〇八年)至るまでずっとusque ad だった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は、首都ローマ内の諸々の名儀教会をtitulos 司祭たちに割り当て、そして七名の助祭たちを叙階した、彼らが真理の鉄筆のためにpropter stilum ueritatis 説教するpraedicantem 司教に近侍するためだった[司教の説教を速記するためだったのだろうか;それに以下に示される叙階助祭と数が異なっていることにも注目]。

 3. 彼は十二月に三回の叙階式で、十七名の司祭、二人の助祭、様々な場所のため十五名の司教たち(の叙階)を執り行ったfecit。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum、一〇月二七日に埋葬された。そして司教職は十九日間空座だった。

第七章 アレクサンデル ALEXANDER [c.110年]

 1.アレクサンデルは生まれはローマ人で、父はアレクサンデル、カプト・タウリ街区の出だったがde regione Caput tauri[教皇レオ八世作成の文書に、「雄牛の頭地区(ティブルティーナ門)」が明記されている]、(司教座に)一〇年七か月二日着座した。それはかくしてautem トラヤヌスの諸時代から(九八〜一一七年)へリアヌスHelianoとウェトゥスVetere(の執政官職の時:一一六年)に至るまでだった。

 2.彼は主の受難を、諸ミサが行われる際の祭司たちのsacerdotum 説教praedicationeの中に、組み入れた。彼は殉教により花冠を受け、そして彼と共に司祭エウェンティウスEuentius と助祭テオドルスTheoldolus も(殉教した)。彼は、人々の諸住居内で(祝別する場合は)水を撒き塩で浄められるべきである、と規定したconstituit。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、六名の司祭、二名の助祭、様々な場所のため五人の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はヌ[ノ]メンタナ街道uia Numentana に埋葬された。彼はそこで首をはねられたdecollatus est、首都ローマからさほど遠くない第七里程標で、五月三日のことだった。そして司教職は三十五日間空座だった。

第八章 クシュストゥス一世  XYSTVS I [c.120年]

 1.クシュストゥスは、生まれはローマ人で、父はパストル、ラタ通り街区[上図のVII]出身でde regione Via Lata、一〇年二か月一日着座した。それはかくしてautem ハドリアヌスの諸時代(一一七〜一三八年)、ウェルスとアンニクルス(の執政官職:一二六年)に至るまでずっとのことだった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2.彼は、以下を規定したconstituit。諸々の聖具 ministeria sacrata は奉仕者たちministeris 以外によって触れられてはならない、と。彼は以下を規定したconstituit。使徒座へと召喚された司教たちは誰でも、自らの司教区へとparrociam 帰ることは、フォルマータforumata なる市民宛てのplebi 挨拶のsalutationis 使徒座の書状をlitteras 携えずには、受け入れがたいnon susciperetur、と。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十一名、助祭四名、様々な場所のため司教四名を執り行った。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum、四月三日に埋葬された。そして司教職は二ヶ月間空座だった。

 4.彼は以下を規定した。(ミサの)司式中にintra actionem、それを始めている祭司はsacerdus、会衆にpolulo (以下の)聖歌を唱和させるように、と。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主」Sanctus,sanctus,sanctus,Dominus Deus Sabalot[序誦中の文言]、そしてなどなど。

第九章 テレスフォルス TELESPHORVS [c.130年]

 1.テレスフォルスは、生まれはギリシア人、隠修士出身でex anachorita [=ἀναχωρητής]、(司教座に)十一年三か月二十一日着座した。それはかくしてautem アントニヌスとマルクスの諸時代のことだった(一三八〜一八〇年)。

 2.彼は、以下を制定した:復活祭前の七週間に断食が挙行され、そして主の御降誕ではnatalem Domini 夜間にnoctu ミサ聖祭missas が挙行されるように、と。というのもnam あらゆる時代において、誰も三時課[午前九時]より前にante horae tertiae cursum ミサ聖祭をmissas 挙行することを企図しなかったのだが、(それは)その時間に我らの主が十字架にお登りになったからでascendit、そしていけにえの前にante sacrificium 天使の讃歌hymnus angelicus[栄光頌(グロリア)のことか]、すなわちhoc est:「天のいと高きところに神に光栄あれ」Gloria in excelsis Deo が奉献されたdiceretur。彼は殉教により花冠を受けた。

 3.彼は、まさにuero 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 一月二日に埋葬された。彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭八名、様々な場所のため司教十三名を(任命した)。そして司教職は七日間空座だった。

第十章 ヒギヌス YGINVS [c.140年]

 1.ヒギヌスは、生まれはギリシア人、アテナエ出の哲学者の出で、彼の系譜は判明していない。(司教座)に四年三か月四日着座した。それはかくしてautem ウェルスとマルクスの諸時代(一六一〜一八〇年)、マグヌス[執政官表ではCanus Iunius Niger]とカメリヌスの執政官職(一三八年)からオルフィトゥスとプリスクス(一四九年)にいたるまでずっとだった[明らかに数字が合わない]。

 2.彼は聖職(階級)をclerum 規定し、諸々の段階をgradus 割り当てたdistribuit。彼は、十二月に三回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十五名、助祭五名、様々な場所のため司教六名を(任命した)。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 一月十一日に埋葬された。そして司教職は三日間空座だった。

第十一章 ピウスPIVS [c.145年:写本によってはこの章と次の第十二章が入れ替わっているのもある由]

 1.  ピウスは、生まれはイタルス(イタリア)人で、父はルフィウス、バルトルの兄弟で、アクイレギア(アクイレイア)市の出身でde ciulitate Aquilegia、(司教座に)十九年四月三日、着座した。それはかくしてautem アントニヌス・ピウスの諸時代(一三八〜一六一年)、クラルスとセウェルスの執政官職(一四六年)からであった。

 2.彼の司教下で、彼はヘルマスの書をHermis librum 書いたscripsit、その中で彼はひとつの命令をmandatum 保持しているが、それは、彼に主の天使(s.)が指示したpraecepit もので、それは天使が彼の所に羊飼いの服装でやってきて、そして彼に過越しの主日に[復活祭が]祝われるようにと指示したpraecepit からである。

 3.彼は(以下を)規定したconstituit、ユダヤ人たちの異端からやってきた異端者(s.)が受け入れられ、そして洗礼を授けられるべし、と。そして教会に関する規定をconstitum (s.)発布したfecit。†[以下の第四節は写本によって挿入あり]

 †4. 彼は、祝福されたプラクセデスの要請により、ひとつの教会をノウァトゥス浴場に奉納したdedicauit、それはパトリキウス通りにuico(cf., chap.III.1)あり、彼女の姉妹の聖ポテンティアナの名誉のため、そしてそこにubi et 彼(彼女?)は多くの寄進をdona 捧げた。彼はそこにubi より煩瑣にsepius 主に捧げる犠牲をsacrificium[ミサ聖祭のことか]奉仕したministrabat。そしてそれどころかinmo et 洗礼盤をfontem baptismi 組み立てさせてconstrui fecit、彼自身の両手でmanus suas 祝福しbenedixit そして聖別したconsecrauit。そして信仰のためにやって来た多くの人々を、三位一体の名において授洗した。

 5. 彼は十二月に三回の叙階式で、十九名の司祭、二十一名の助祭、様々な場所のため数にしてnumero 十二名の司教たち(の叙階を)を執り行った。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へとin Vaticanum 、七月十一日に埋葬された。そして司教職は十四日間空座だった。

第十二章 アニケトゥス ANICETVS[c.160年]

 1.アニキトゥスAnicitus は、生まれはシルス(シリア)人で、父はヨハンネス、フミサ村uico Humisa[Emesaかもしれない;cf., 第一章第一節]出身で、(司教座に)十一年四か月三日、着座した。それはかくしてautem セウェルスとマルクスの諸時代(?〜一八〇年)、ガッリカヌスとウェトゥスの執政官職(一五〇年)からプラエセンスとルフィヌスに至るまでずっとであった(一五三年)。

 2.彼は、聖職者はclerus 髪を手入れしてはいけないと規定したconstituit、使徒(s.)の指示にpraeceptum 従ってのことだった。彼は十二月に五回の叙階式で、十九名の司祭、四名の助祭、様々な場所のため数にしてnumero 九名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam 殉教者として逝去しobiit、そしてカリストゥスのCalisti 墓所にcymiterio 四月二十日に埋葬された。そして司教職は十七日間空席だった。

第十三章 ソテル SOTER [c.170年]

 1.ソテルは、生まれはカンパニア人で、父はコンコルディウス、フンディ市出身でciuitate、(司教座に)九年四か月二十一日、着座した。それはかくしてautem セウェルス[正しくは、ルキウス・ウェルスか]の諸時代(一六一〜一六九年)、ルスティクスとアクイリヌスの執政官職(一六二年)からカテグスとクラルスに至るまで(一七〇年)ずっとであった。

 2.彼は、いかなる修道士もmonachus 聖なる教会内で聖別された布に触れたり、香を焚いたりしてはならない、と規定したconstituit。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、十八名の子細、九名の助祭、様々な場所のため数にしてnumero 十一名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam アッピア街道にあるカリストゥスの墓所に、四月二十二日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。

第十四章 エレウテリウス ELEVTHERIVS [c.180年]

 1.エレウテルは、生まれはギリシア人で、父はハブンディウス、ニコポリスの町出身でde oppido、(司教座に)十五年三か月二日着座した。彼はかくしてautem アントニヌス(=マルクス)とコンモドゥスの諸時代(一六一〜一九二年)、パテルヌスとブラドゥスの執政官職(一八五年)に至るまでずっとだった。

ニコポリスは幾つもあるが、ギリシアの、となるとここだろう

 2.彼は、ブリタニア人の王Britanio rege ルキウスから一通の書簡でepistula 、(それはルキウスが)彼(エレウテル)の命令によってmandatum キリスト教徒とされるように(という内容を)受け取った。そして彼は以下を再度iterum 確認したfirmauit、いかなる食物もキリスト教徒たちによって、特にmaxime 信心深い者たちによってfidelibus 退けられるべきではない、なぜなら神が創造したものであるから、それはさらにtamen 理にかなっておりrationalis、そして人間のためのものhumana だからである、と。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十二名、助祭八名、様々な場所のための数にして十五名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内にin Vaticano、五月二十四日に埋葬された。そして司教職は十五日間空座だった。

第十五章 ウィクトル VICTOR [c.195年]

 1. ウィウトルは生まれはアフリカ人で、父はフェリクス、(司教座に)一〇年二か月一〇日間(着座した)。それはかくしてauem カエサル(=コンモドゥス)の諸時代(一八〇〜一九二年)、コンモディウスの二回目そしてグラウィオの執政官職(一八六年)からラテラヌスとルフィヌスに至るまで(一九七年)ずっとだった。

 2. 彼は、聖復活祭が主日に祝われるように規定したconstituit:エレウテルと同様にsicut。彼は[ローマ教会で彼に]捧持する者たちをsequentes 牧者たちにcleros した。彼は殉教により花冠を受けた。そして彼は(以下を)規定したconstituit、必要とあらば、(洗礼用の水が)どこでubiubi 見つけられようとも、あるいはsiue 川において、あるいは海において、あるいは諸々の泉において、ただtantum キリスト教への信仰箇条の告白をconfessione credulitatis(=XVIII.3)明らかにすることにより、洗礼を受けたいと異教からやって来る者には誰でもquicumque(洗礼を授けていい)、と。

 4a. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭四名、助祭七名、様々の場所のための司教十二名の(叙階を)執り行った。

 3. 彼は、復活祭の周期についての聖職者たちのsacerdotum 問いに対し、[復活祭の主日であると]規定をおこなったfecit constitutum。それは、司祭たちpresbiteris そして司教たちとともに討議が行われ、そしてアレクサンドリア司教テオフィルスが召喚され、集会が行われた時のことだったが、その月の最初の月齢十四日から二十一日までの間の主日を、聖復活祭が遵守されるというものだった。

 4b. 彼は祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)の中に七月二十八日に埋葬された。そして司教職は十二日間空座だった。

第十六章 ゼフィリヌス ZEPHYRINVS[198/199-217年]

 1. ゼフィリヌスは、生まれはローマ人で、父はハブンディウス、(司教座に)八年七か月十日間(着座した)。それはかくしてautem アントニヌス(=コンモドゥス)とセウェルス(=カラカッラ)の諸時代(一八〇〜二一七年)、サトゥリヌスとガリエヌスかヌスの執政官職(後一九八年)からプラエセンテスとストリカトゥスの執政官職(二一七年)に至るまでずっとだった。

 2. 彼は、すべての牧者たちclericus そして信心深い平信徒たちのいる前で、牧者もsiue clericus、祭司もsiue leuita、聖職者もsiue sacerdos 叙任されるよう規定したconstituit。そして彼は教会に関する規定をconstitutum ecclesia 定め、そして諸々のガラス製の[聖餅を入れる]平皿patenas を聖職者たちの前でante sacerdotes 教会内で従者たちがministros が運び、司教が諸々のミサを挙行している間に、彼の前で聖職者がsacerdos 補佐しadstantes、このようにして諸々のミサが挙行されるべきである、と;司教の権限がjus ただtantum 関与する場合を除外して、牧者階級がclerus すべてを統轄すべく支えている;司教の手から、かの(平皿)聖別consecratio によりすでにiam 聖別された輪をconsecratam coronam[聖餅=ホスティアのこと] 司祭はpresbiter 受け取り、会衆にpolulo 渡すのである。

 3. 彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十四名、助祭七名、様々な場所のために数にして十三名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam、彼の墓所にcymiterio 埋葬された。[それは]アッピア街道のカリストゥスの墓所の傍らでiuxta cymiuterium、八月二十五日のことだった。そして司教職は六日間空座だった。

第十七章 カリストゥス一世 CALISTUS I [217-222年]

 1. カリストゥスは、生まれはローマ人で、父はドミティウス、ウルブス・ラウェンナンティウム街区の出身で de regione Urberauennantium[第十四街区のトラステウェレ内で、ラウェンナからの移住者居住にちなんだ地区か]、(司教座に)六年二か月十日間着座した。それはかくしてautem マクリヌスとテオドリオボッルスTheodoliobolli (=ヒエロガバルス)の諸時代(二一七〜二二二年)、アントニヌス(=ヒエロガバルス)とアレクサンデル(・セウェルス)の執政官職(二二二年)からであった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は断食をieiunium 安息日(=日曜日のことか)にdie sabbati 年三回することを規定したconstituit、それは穀物、ワイン、そしてオイル(断ちのこと)で、予言に従ってのことだった。彼はバシリカをティウェレ川の向こう側に建設した[この聖堂はサンタマリア・イン・トラステウェレと思われる]。

 3. 彼は十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十六名、助祭四名、様々な場所のため司教たち数にして八名の(叙階を)執り行った。

 4. 彼はそのうえetiam アウレリア街道の第三里程標にあるカレポディウスの墓所の中にin cymiterio Calepodi 十月十四日に埋葬された。彼は別の墓所をアッピア街道に建設した、そこには多くの聖職者たちsacerdotes と殉教者たちが永眠している。そこはqui 今日に至るまでusque in hodiernum カリストゥスの墓所と呼ばれている。そして司教職は十六日間空座だった。

47がカレポディウス、31がプラエテクスタトゥス、32がカリストゥスの墓所

第十八章 ウルバヌス VRBANVS [222-230年]

 1. ウルバヌスは、生まれはローマ人で、父はポンティアヌス、(司教座に)四年一〇か月十二日間着座した。

 2. 彼はすべての諸々の聖具ministeria sacrata(=VIII.2)を銀となし、銀皿二十五枚を用意した。

 3. 彼はそのうえetiam 明確に(信仰)告白者confessor で、(彼は)ディオクリティアヌスのDioclitiani 諸時代だった[ディオクレティアヌスの迫害期の告白者ウルバヌスとの混同による時代錯誤表記]。彼は彼の(教えの)授受によってsua traditione 多くの人々を改宗させたconuertit、洗礼と信仰箇条へと(導き)ad baptismum et credulitatem(= XV.2)、そのうえそしてetiam et 最も高貴な男性ウァレリアヌス、聖カエキリアの婚約者をも(洗礼に導いた)。彼らを彼はそのうえetiam 殉教の棕櫚へとpalmam 至るまでずっと導いた;そして彼の諸々の戒めによってper eius monita 多くの者たちが殉教により花冠を受けた。

 4. 彼は五回の叙階式を十二月に、(ローマ教会の)司祭十九名、助祭七名、様々な場所のための司教たち数にして八名(の叙階)を執り行った。彼はそのうえetiam アッピア街道にあるプラエテクスタトゥスの墓所[XVII.4参照]に埋葬された、彼を祝福されたティブルティウスが五月十九日に埋葬した。そして司教職は三十日間空座だった。

第十九章 ポンティアヌス PONTIANVS [230-235年]

 1. ポンティアヌスは、生まれはローマ人で、父はカルプルニウス、(司教座に)九年五か月二日間着座した。彼は殉教により花冠を受けた。それはかくしてauem アレクサンデル(・セウェルス:在位二二二〜二三五年)の諸時代で、ポンペイアヌスとペリニアヌスの執政官職からであった(二三一年)。

 2. 同じときに、司教ポンティアヌスと司祭ヒッポリュトゥスは、追放によりexilio 流刑に処されsunt deportati 、アレクサンデルによってサルディニア内のブキナ島に、セウェルスとクインティアヌスの執政官職時のことだった(二三五年)。同じ島の中で、痛めつけられた彼はadflictus、棍棒(pl.)で衰弱させられmaceratus、一〇月三〇日に亡くなった。そして彼の地位にアンテロスが十一月二十一日に叙階された。

 3. 彼は十二月に二回の叙階式で、六名の司祭、五名の助祭、様々な場所のため数にして六名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼を祝福されたファビアヌスは一人の牧者と共にcum clero 船で運び、アッピア街道のカリストゥスの墓所の中に埋葬した。そして司教職は十日間空座だった。

左、カリストゥスのカタコンベ:L1が教皇が葬られたいわゆる「諸教皇のクリプト」で、右がたぶん発掘直後の様子

第二十章 アンテロス ANTEROS [235-236年]

 1. アンテロスは生まれはギリシア人で、父はロムルス、(司教座に)十二年一か月十二日着座した。彼は殉教により花冠を受ける、(それは)マクシミヌスとアフリカヌスの執政官職の諸時代(二三六年)のことだった。

 2. 彼は殉教者たちの諸事績を入念にdiligenter 書記たちからa notariis(= IV.2)探し求めた、そして教会内で、殉教により花冠を受けたとあるquodam マクシミヌスなる司祭(の墓の)の傍に保管する。

 3. 彼は一人の司教をカンパニアの都市ciuitateフンディの中で十二月に(叙階)した。彼はまたetiam アッピア街道にあるカリストゥスの墓所の中に一月三日に埋葬された。そして彼は司教職をepiscopatum 十三日間空座にした。

左、「諸教皇のクリプト」出土のポンティアヌスの墓碑;右、アンテロスの墓碑:両方ともギリシャ語表記であることに注目

第二十一章 ファビアヌス FABIANVS[236-250年]

 1. ファビアヌスは生まれはローマ人で、父はファビウス、(司教座に)十四年十一か月十一日着座し、殉教により花冠を受ける。それはかくしてマクシムスとアフリカヌス(が執政官職:二三六年)で、デキウス二回目そしてクアドラトゥス(が執政官職:二五〇年)に至るまでずっとの諸時代で、そして一月一九日に受難した。

 2. 彼は、(帝都ローマ内の)諸地区を助祭たちに割り当て、そして副助祭七名に与えた、(それは)彼らが七名の書記たちに、彼らが殉教者たちの諸事績をもれなく忠実まとめるよう、心をくだくようにとしたことだった。そして多くの作業場を諸々の墓地のために造るように指示したpraecepit。

 3. そして、彼の殉教のあと、司祭モイセスとマクシムス、そして助祭ニコストラトゥスが捕らえられconprehensi sunt、そして牢獄へと送られたmissi sunt。

 4. 同時代に、ノウァトゥスがアフリカから到着し、そして教会からノウァティアヌスとある告白者たちを引き離した、それはモイセスが牢獄内で死に果てた後のことで、彼(モイセス)はそこにibi 十一か月いた。そしてこうしてsic 多くのキリスト教徒たちが逃亡した。

 5. 彼は十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭二十二名、助祭七名、司教たちを様々な場所のため十一名、(叙階式を)執り行った。彼がまたetiam アッピア街道にあるカリストゥスの墓所の中に一月一九日に埋葬された。そして司教職は七日間空座だった。

第二十二章 コルネリウス CORNELIVS[251-253年]

 1. コルネリウスは生まれはローマ人で、父はカスティヌス、(司教座に)二年二か月三日間着座した。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼の司教職下で、ノウァトゥスはノウァティアヌスを教会(の了解)抜きで叙階した。そしてアフリカでニコストラトゥスを(叙階した)。このことが起こって、告白者たちが、彼らはモイセスと共にいた司祭マクシムスと共に自らコルネリウスから分離していたのであるが、教会へと復帰し、そして彼らは信心深い告白者たちとなった。

 3. この後、司教コルネリウスは、ケントゥムチェッラエ(現在のCivitavecchia)に追い出されたpulsus est。そしてそこでibidem 彼の激励のために書かれ送られた一通の書簡をepistulam キプリアヌスから受け取った。それをキプリアヌスは牢獄の中で書いた。そして読師lecture ケレリヌスによって(もたらされたのである)。

 4. 彼は、彼の諸時代において、ある既婚婦人ルチナによって懇請され、祝福された使徒たちペトルスとパウルスの遺骸を夜間にカタコンベから持ち去った。最初にprimum まさにquidem 祝福されたパウルスの遺骸が受け取られ、祝福されたルチナは(それを)オスティエンセ街道にある彼女の地所にpraedio suo 供えたposuit。それは(パウルスが)首をはねられたdecollatus est そこの場所の傍らでiuxta locum ubi。祝福されたペトルスの遺骸を祝福された司教コルネリウスは受け取り、そして(ペトルスが)磔にされた場所の傍らに供えた。彼(コルネリウス)は、聖なる司教たちの遺骸の間に、ネロの宮殿のアポロ神殿内、ウァティカヌス(丘)の中のアウレウスの丘の中に(埋葬された)[以下参照、第一章6]、六月二九日のことだった。

Tempio di Apolline=M、Monte Vaticao=R、Monte Auro=S(中央下の山裾部分)、Neroの宮殿は意味不明(おそらく競技場のことか)
参照:ピエトロ・ザンデル『バチカン サン・ピエトロ大聖堂下のネクロポリス』上智大学出版、2011年、pp.6-7.

 5. この後、(コルネリウスは)夜間にケントゥムケラエへ歩いて行ったambulavit。同じ時に、デキウスは聞いた、彼(コルネリウス)について、カルタゴ司教の祝福されたキプリアヌスから一通の書簡をepistolam 受け取っていたことを。(デキウス)はケントゥムケラエに(使者を)送り、そして祝福された司教コルネリウスを(ローマへ)連行したexhibuit。彼がさらにtamen 自分(デキウス)の面前に来るように、と命じた。テッルスでTellure、夜間にパッラディスPalladis の神殿前で、と。彼へと(デキウスは)たいそう近づいて言う。「神々も、父祖たちの命令も顧みず、我らの脅しも怖れることなく、国家に敵対して書状をlitteras 受け取り、そして(そのように)導いたのはお前か」。司教コルネリウスは答えて、言う「私は主の花冠に関して書状をlitteras 受け取りましたが、国家に対してではなく、むしろmagis 諸々の魂の贖いへと(導いた)のです」。

 6. そのときtunc、デキウスは怒りで満たされ、祝福されたコルネリウスの口を諸々の鉛玉のついた鞭で打つように命じ、そして彼をマルス神殿へと引っ立ててcaedi、そして(彼が)礼拝するように指示したpraecipit。だが、もしそのようにしなかったなら、斬首するぞcapite truncari と言って。このことはまた[かくして]autem 行われた。彼はそのうえetiam 前述の場所で首をはねられdecollatus、そして殉教が成し遂げられた。彼の遺骸を夜間に祝福されたルチナが集め、そしてカリストゥスの墓所の傍らの地下礼拝堂にcrypta 埋葬した、(その礼拝堂は)アッピア街道の彼女の地所にin praedio suo あった。九月十四日のことだった。そして司教職は六十六日間空座だった。

第二十三章 ルキウス LVCIVS [253-254年]

 1. ルキウスは、生まれはローマ人で、父はプルフリウスで、(司教座に)三年三か月三日間(着座した)。彼は殉教により花冠を受ける。それはかくしてautem ガッルス(執政官職第二回目)とウォルシアヌス(が執政官職の年:二五二年)の諸時代から、ウァレリアヌス(執政官職)第三回目とガッリカヌス(Gellienusの誤記:二五五年)に至るまでずっとusque ad であった。

 2. 彼は追放されたin exilio fuit;その後postea 神のご意向によってnutu Dei、無傷でincolumis 教会へと帰還したreuersus est。

 3. 彼は、司祭二人と助祭三人はいかなる場所であっても司教を見放してはならない、と指示したpraecepit、それは聖教会の証言のためだったpropter testimonium ecclesiasticum。彼はまたetiam ウァレリアヌスによって三月五日に斬首されたcapite truncatus est。

 4. 彼は(ローマの)全教会への権能を彼の助祭長archidiacono ステファヌスに与えた、彼(ルキウス)が受難へと進んでいる間に。

 5. 彼は十二月に二回の叙階式で、四名の司祭、四名の助祭、様々な場所のため数にして七名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はまたetiam アッピア街道のカリストゥスの墓所に八月二十五日に埋葬された。そして司教職は三十五日間空座だった。

第二十四章 ステファヌス一世 STEPHANVS I[254-257年]

 1. ステファヌスは、生まれはローマ人で、父はヨビウス、(司教座に)七年五か月二日間(着座した)。それはかくしてautem ウァレリアヌスとガッリカヌスとマクシムスの諸時代から[254年と、253ないし256年]ウァレリアヌス(執政官職)第三回目とガッリカヌス(執政官職)第二回目[255年:この章での年代表記は混乱している]に至るまでずっとであった。

 †2. その諸時代に、彼は追放されたがexilio est deportatus、その後postea 神のご意向によって、教会へと無傷でincolomis 帰還した。そして三十四日目後に、彼はマクシミアヌスによって捕らえられtentus、牢獄へと送られたのだがmissus est、それは九名の司祭たち、二名の司教、ホノリウスとカストゥス[この両名はなぜか対格表示]、そして三名の助祭クシュストゥス、デイオニシウス、ガイウスを[ここでも対格表示]伴ってのことだった。ちょうどその時ibidem 彼は牢獄の中で、(そこは)ステラ門ad arcum Setllae そばだったが、(そこで)会議をsynodo おこない、そして教会のすべての用具についてuasa 彼の助祭長クシュストゥスに、権限を与えたばかりかuel、金庫についてもarcam pecuniae そうしたのだった。そしてその四日後に、彼自身は監視下でsub custodia 軟禁状態からsig 出ていってexiens、斬首されたcapite truncatus est[cf., XXII.6;XXIII.3]。

冒頭の地図2より:ここではステラ門は46に措定されている

 †3. 彼は聖職者たちや祭司たちleuitas [XVI.2参照]が聖別された衣服(pl.)を日常的に使用して教会内以外で用いてはならないと、規定したconstituit。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭六名、助祭五名、様々な場所のために数にして三名の司教たちの(叙階を)執り行った。彼はまたetiam アッピア街道のカリストゥスの墓所に八月二日に埋葬された。そして司教職は二十二日間空座だった。

第二十五章 クシュストゥス二世 XYSTVS II [257-258年]

 1. クシュストゥス(シクストゥス二世)は、生まれはギリシア人で、哲学者の出で、(司教座に)一年一〇か月二十三日間(着座していた)。彼は殉教により花冠を受ける。それはかくしてautem ウァレリアヌスとデキウスの諸時代で、この(デキウスの)時代に最大の迫害があった。[ここでは奇妙なことに、在位二五三-二六〇年のウァレリアヌスと在位二四九-二五一年のデキウス(21.1に初出)を逆転して記述している]

 2. 同時に、彼はウァレリアヌスによって捕らえられtentus、そして諸悪霊へ犠牲を捧げるべく連れて行かれたductus。彼はウァレリアヌスの諸指示をpraecepta 無視した;彼は斬首されcapite truncatus est、そして彼とともに他に六名の助祭たち、フェリキッシムスとアガピウス、ヤヌアリウス、マグヌス、ウィンチェンティウス、そしてステファヌスが八月六日に(斬首された)。そして司祭たちは、マクシムスとグラウィオの第二回目(の執政官職:二五六年だとすると、執政官職第二回目はマクシムスのほう)から、トゥスクスとバッスス(二五八年)に至るまで、トゥスクスとバッススの執政官職から七月二十日に至るまでずっと、(教会を)管理した。この時代に最も厳しい迫害がデキウス下で苦しめた[記述が再度デキウス時代にさかのぼっていて、不可解]。

 3. そして祝福されたクシュストゥスの受難の後、一〇日後に、彼の助祭長、祝福されたラウレンティウスが八月一〇日に、そして副助祭クラウディウス、そして司祭セウェルス、そして読師lector クレシェンティウス、そして門番ロマヌスが(受難した)。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、司祭たち四名、助祭たち二名、様々な場所のために司教二名(の叙階式)を執り行った。彼はたしかにuero アッピア街道のカリストゥスの墓所に埋葬された。上記の六名の助祭たちはアッピア街道のプラエテクタトゥスの墓所[XVII.4掲載の地図参照]に埋葬された。また[かくして]autem 祝福されたラウレンティウスはウェラヌムの農地内in agrum Veranum のキュリアケスの墓所内に[上記地図参照:以下はその部分図]、他の殉教者たちとともに地下礼拝堂にcrypta[埋葬された]。そして司教職は三十五日間空座だった。

第二十六章 ディオニシウス DIONYSIVS [260/7/22-267/12/26]

 1.ディオニシウスは修道士出身で、彼の系譜を我々は見つけていない。彼は(司教座に)六年二か月四日着座した。それはかくしてautem ガッリエヌスの諸時代、七月二十二日のエミリアヌスとバッススに執政官職(二五九年)から、クラウディウスとパテルニウスが執政官職の十二月二十六日までずっとだった。

 2. 彼は司祭たちに諸教会をecclesias 委ね、そして教区の諸々の墓地と小教区をparrocias 規定したconstituit[各小教区所属墓地を確定したということだろう]。

 3. 彼は、十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭六名、様々な地のために数にして八名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はまたetiam アッピア街道のカリストゥスの墓所内に十二月二十七日に埋葬された。そして司教職は五日間空座だった。

第二十七章 フェリクス FELIX [269-274年]

 1. フェリクスは生まれはローマ人で、父はコンスタンティウスで、(司教座に)四年三か月二十五日着座した。彼は殉教により花冠を受ける。それはかくしてautem クラウディスとアウレリアヌスの諸時代、つまりクラウディウスとパテルニウスの執政官職(二六九年)からアウレリアヌスとカピトゥリヌスの執政官職(二七四年)までずっとだった。

 2. 彼は、さらにsupra 殉教者たちの諸記念ミサをmemorias martyrum missas 挙行することを規定したconstituit。彼は、十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭九名、助祭五名、様々な地のために数にして五名の司教たち(の叙階)を執り行った。

 3. 彼はアウレリア通りにひとつの聖堂をbasilicam 造り、そしてそこに五月三十日に埋葬された。それは首都ローマから二里程(の所)にあった。そして司教座は五日間空座であった。

第二十八章 エウティキアヌス EVTYCHIANVS [275-283年]

 1. エウティキアヌスは生まれはトゥスキアで、父はマリヌスで、(司教座に)一年一か月一日着座した。それはかくしてアウレリアヌスの諸時代、アウレリアヌス三回目とマルケリヌスの執政官職(二七五年)からカルス二回目とカリヌスが執政官職(二八三年)の十二月十三日までずっとだった。彼は、祭壇上でsuper altare 聖別されるbenedici生産物はfruges(pl.) 豆とブドウに限るtantum fabae et uuae、と規定したconstituit。

 2. 彼は彼の諸時代に様々な地の三四二人の殉教者たちを彼手ずから埋葬した。そして彼は以下を規定したconstituit、信者たちのうちだれでも(s.) quicumque de fidelium 殉教者を埋葬したとき、(華やかな)ダルマティカdalmaticam(助祭用の祭服:下図左)や、紫で染めたコロビウムをcolobium(希:κολόβιον=kolobion=short-sleeved tunic:下図右) 着せることなしに、理由なく埋葬していたら、そのことをさらにtamen 情報として彼(エウティキアヌス)に告知されるべきである、と。

 3. 彼は、十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十四名、助祭五名、様々な地のために数にして九名の司教たち(の叙階)を執り行った。そして彼は殉教により花冠を受ける。彼はまたetiam アッピア街道のカリストゥスの墓所の中に七月二十五日に埋葬された。そして司教職は八日間空座だった。

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世界キリスト教情報第1620信:2022/2/7:教皇、プラスティック海洋投棄を非難

= 目 次 =
▼2月の「教皇の祈りの意向」=修道女と奉献生活に召された女性のために

▼ミャンマー=クーデター1年、ボ枢機卿「人道支援へのアクセスの保証を」

▼教皇、プラスチック海洋投棄は「犯罪」と停止訴え

 今回は最後のを紹介しておく。

◎教皇、プラスチック海洋投棄は「犯罪」と停止訴え
【CJC】バチカン市6日発ロイター通信によると、教皇フランシスコ(85)は2月6日、プラスチックの海洋投棄は「犯罪」で、次世代のために地球を救うには止めなければならないと述べた。イタリア国営テレビ『RAI』との1時間にわたるインタビューで話した。

 教皇は、アドリア海に何トンものプラスチックが投棄されている現状を訴えに来たイタリア人漁師について触れ、次に会った際、ごみは倍増して一部を除去する作業に当たったと聞かされたと述懐した。その上で、「プラスチックの海洋投棄は犯罪だ。生物多様性も地球も全てを殺してしまう」などと述べた。□
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アレクサンドロス・モザイクの秘密

 本日、いやもう昨日か。NHK BSプレミアムで、13:30から「古代ローマ・ポンペイ遺跡が日本にやってきた!」(90分)が放映された。その予告では、あのモザイクの秘密を明らかにするといった言い方されていたので、どこまで突っ込んでやってくれるのかとおおいに期待していたのだが、あれ〜?見落としたのか、気付かなかった。よもや楯に写った自分の顔を見ながら死にゆくペルシア兵のことだったのか? あれは秘密でもなんでもない、と私は思っているが。それと、4Kスペシャルの「よみがえるポンペイ」(これ、2/6の13時から再放送あり )での放映映像(再現映像)が使い回されていることに気付いた。これはまあ出来がよいものだったので、再見できて個人的にはよかったのだけど。

 それで若干欲求不満になり、次回の勉強会の予習を兼ねて記憶を呼び起こすことにした。

 昔、ファウノの邸宅(VI.12.2)のエクセドラの床を飾っていたこのモザイクを卒論で取り上げた学生がいたので(テキストは、Ada Cohen, The Alexander Mosaic:Stories of Victory and Defeat, Cambridge UP, 1997;Paolo Moreno, Apelles:The Alexander Mosaic, Skira, 2002)、若干お付き合いして調べた時に、お〜〜〜という驚きを体験したことがあって。

 ところでファウノの邸宅は、優に2軒分の敷地を占めていて、なんとアトリウムとペリステリウムと呼べる空間が2つあるのだ(上の図だと、27と7、54と39)。おそらく右の52から入って7,そしてズスっと奥の広いほう(39)にいたる区画が主として家族用と考えると、今問題のエクセドラExedra(37)はおそらく限られた賓客用だったかもしれない。というのはその豪華さが尋常でないからで、ナイル河畔風景のモザイクもここの敷居に埋め込まれていた。エクセドラとは本来は談話室であるが、私はこれだけのモザイクを使っているので、夏の食堂tricriniumを兼ねていたのではと考えている;ただその場合、部屋の周辺空間をかなり占める食事用寝椅子を置くにはちょっと手狭で、舗床モザイク全体を眺めることができなくなってしまうのが難点だが。実はこの邸宅の舗床モザイクはおおかた剥ぎ取られて国立ナポリ博物館の中二階左翼に展示され、現場にちょっとだけレプリカで復元されているのだが(29など)、このエクセドラでも壁を含めて再現してほしいと思わざるを得ないのだ(3Dであるはずなのだがじっくり再現したものに行き当たっていない):ついでに言っておくと、アレクサンドロス・モザイクの舗床の傷みが左側の大王側に著しく、後79年当時にも補修されていなかったことから、このモザイクの主題は自ずと中央から右にあったということの暗黙の証言、と私には思えるのだが。

 おもわず前口上が長くなってしまったが、まずは全体写真。

このモザイクに限って1cm平方に15-30個のテッセラ(石片)という緻密さで描かれたOpus vermiculatum技法:普通はそれでも5,6個だとか。

 そもそもファウノの家は、ナイル河畔風景や静物画で、Opus vermiculatum技法のモザイクだらけの豪華さなのだが、かのモザイク舗床の来歴とかなんかのご紹介はまあ他にお委せするにして(だいたい単なる画材に歴史事象を重ねてどうのこうのと言いつのるのは、研究者のサガとはいえ、お門違いとも思えるが:あ、本ブログも同罪でした(^^ゞ)、一挙に核心に触れることにする。

 昔ちょっと勉強した時に何に驚いたかというと、画面中央の以下の図の解釈だった。

 それとの関連で大王の背後の以下の図の左にもご注目ください。

大王の後のヘルメットの兵士:銀のボイオティア・ヘルメット、金のリース、白い馬毛の飾りは上級将校を示す(『アレクサンドロス大王の軍隊:東征軍の実像』新紀元社、2001年、p.14より)

 まあ、事前に「アレクサンドロス・モザイク」という予備知識を吹き込まれて普通に鑑賞すれば、おのずと構図的に主役の大王とダレイオス3世に目が引かれてしまうし、左3分の1が剥落しているし、背景となっている群像などそれでなくとも乱戦の中にまぎれているので、いちいち見ているわけではない(否、一応見ているのだがぼ〜と見ているだけの「ちこちゃん状況」にすぎないわけな)ので、つい見落としがちになるのだが、中央から右はペルシア軍兵士の群像が描かれているのだが、その中の異質な存在に気付いた研究者がいた。それがギリシア・マケドニア系ヘルメットを着用した兵士である。上の部分図では正面に目線を流している者ともう一人ヘルメットの羽根飾りが見えている。さて下の部分図にも同様のギリシア的ヘルメットが。剥落が目立つモザイク左側はギリシア・マケドニア系兵士が描かれている区画なので、下のほうの部分図のそれは大王麾下の騎兵と考えていいのだが(実際そのように後世において修復再現されている)、じゃあ中央の彼らは何だという件で、画面上部に林立する長槍の実にダイナミックな動きから、前進していたダレイオス3世軍(画面中央)が動揺して逃走に移っている(画面右)様子が歴然で、その研究者は、中央の二名、それとその左のペルシア兵が右向きであることに注目して、その三名を敗走を始めたペルシア側兵士で、あのヘルメット着用の二名をペルシア軍に傭兵として参加していたギリシア人たちとしたのであ〜る。これには私は本当に驚いてしまった。観察眼と構想力の勝利である。

 それでじっくり考えてみたら、あの画面上部に林立する長槍であるが、あれこそギリシア・マケドニア系のファランクスの特徴とするなら(長さ4-6mのSarissa)、ギリシア系とペルシア系の闘いなのに、ダリウス3世軍にファランクスが見えるのは一見奇異で、しかしそれがギリシア傭兵の歩兵だとすると納得できるわけである。ちなみにペルシア軍の主力は弓兵や騎兵で、1万人の重装兵「不死隊」(歩兵と騎兵がいた)は有名だったが、大きな楯と2mの槍で武装した歩兵の基幹部隊Sparabaraは決して決戦兵器ではなかった。下図参照。

A、Sparabara;B、弓兵;C、不死隊;D、旗手:大王の東征をまとめたYouTubeを参照(https://www.youtube.com/watch?v=K7lb6KWBanI)

 ただし、イッソスの敗北後に、ダレイオス3世は自軍に長槍部隊を創設してきたるべき決戦に備えていた、という情報もあって、となると事態はまた複雑になるが。

 ところで1831年に発見されたモザイクを、その直後に剥落部分を含めて油絵に描ききったものが、モザイクが展示されいる国立ナポリ博物館中二階のモザイクの左壁に掲示されていることはご存知だろうか。それが下図である。かつて私はこの復元想像図を舐めるようにながめ、写真に収めたものだ。

この画像、実は明度をだいぶあげている
モザイク修復中のNHKの映像に、展示されている件の油絵が写っている

 今日では色々な復元画像もウェブ上で得ることできる。以下はその一例。

 さて今回ググっていたら、またまた驚くべき説を唱えている人物に行き当たった。Werner Kruckの英語版ウェブ「Reconstruction of the mosaic」(http://alexandermosaik.de/en/interpretation_of_the_mosaic.html)に寄せられた、Justin Woodのコメントである(2015/02/05)。中央から右の背後に見える長槍をギリシア系と見るところまでは同じなのだが、それをアレクサンドロス大王麾下のファランクスとみなす。即ち、ペルシア軍本陣はこの絵での背後からギリシア歩兵に追い立てられ、左からは突撃してくる大王の騎兵隊に不意を突かれ、この時点でダレイオス3世は大王軍に包囲されつつあった。それでダレイオス3世がまさに逃走を図った瞬間を描いているのだ(戦車の前の尻を見せている馬は王の逃走用だったと、もっともらしく言われている)、と。

 客人を前に主人が蘊蓄と謎解きを披露している光景が目に浮かぶ。それを我々がどう読み解くか、おそらく正解などありようもないが、深読みの楽しさがここにある。

【付記】最近このモザイクの研究書というか写真集が出ていたことにようやく気付いた(なんと、Fausto Zevi御大が寄稿者の一人としてご登場だ!:Photography by Luigi Spina et als., The Alexander Mosaic, 5 Continents Editions Srl, 2021)。しかしさて2021年開始で今年中には終わる修復結果とどう整合するか見ものである。なにしろこれまで塗られていたニスを取り除くというので、光沢など変わる可能性が高い。逆にいうと、未だにほかにそんなに専門研究書がないので、ねらい目のテーマではある。

【追記】上記の本が届いた。ちょっとビックリしたのだが、この本にはページ数が打ち込まれていない。100ページの画像と、10ページの概説・文献目録だけなのである。だから写真集という感じかと。

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Pompeii 雨のアトリウム

 これは私が写した写真ではないが、別件ググっていたら出くわした。私もアボンダンツァ通りを歩いていた時、雷を伴ったたいへん激しい夕立に遭遇し、近くの邸宅に避難したときに似た写真を撮ったことあるのだが、とりあえず捜し出していないので、忘れないうちに代わりに拝借しておいた。

この邸宅に逃げ込んだ人々は、みな喜んで笑っている。雨宿りも普通じゃなくて天井にcompluviumの穴が空いていて、雨水が床ではねるので、壁際まで避難しないといけない。乾期の夏期に訪問すると雨に遭うこと自体めったにない僥倖なのである。

こんな調子で写真のような現状だとアトリウムはびちゃびちゃになるが、古代においては、屋根に落ちてきた雨水を下で受け止めるimpluviumに流し込むべく、天井の矩形空間compluviumに吐水口があったので、少しは効率的だったかもしれない。ところで、この吐水口、中世教会建築ではやたら魔界の魔モノ的なおどろおどろしい装飾物でおなじみだが、古代ローマでは2022/1/5にアップした犬の塑像関係で触れたような毒気のない動物が多い。

左、アトリウム風景   中、compluviumに設置された吐水口       右、動物たちをかたどった吐水口

 以下はおまけであるが、今般の東博のポンペイ展で展示物の中に伝エルコラーノ、パピルス荘出土の吐水口で、造形は雌ライオンとのこと。テラコッタ製の管の先に青銅製のこれが接続されているわけだが、さすがにパピルス荘、こんなところまで凝っていたとは。

 なお、Impluviumに溜まった雨水は、その下に掘られている貯水槽に流れ込ませる集水口があって貯水され、それ用に傍に設置された井戸からくみ上げて使用されるのだが、ほとんど井戸水で生活したことのない私としては、こんな水、何にどう使用するのか、どうしても気になってしまう。直接はいうまでもなく、たとえ砂などで濾過した水にしても、飲料としての利用は勘弁してほしいと思ってしまうのだ。はたしてあの水をどうしていたのだろうか。その時代、水を行商販売していた水売り人がいたし、街角には公共の泉水もあったので、飲料水はそれでまかない、貯水槽の水は生活用水に使用していたと思いたいのだが・・・。

左、手前がアトリウム(客間)、そしてタブリヌム(当主の執務室)、その奧に青天井で列柱のペリステリウム(中庭)が見える;右、地下の貯水槽の図式:このように直接水をくみ上げるのが普通だったようだが、中には砂に浸透させる方式もあったらしい。
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